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2016年09月30日

コメンスキー――敬虔なる教育者、あるいは流浪の飲んだくれ(九月廿七日)

H先生とM先生に


 先日、二人のコメンスキー研究家に挟まれて夕食をとる機会があった。一人は日本から来た先生、もう一人はチェコのコメンスキー研究の重鎮とも言える先生で、二人とも使える共通の言葉がないため、半分通訳として参加したのである。
 ここ数年、コメンスキーを研究している方々と縁があって、お目にかかったり一緒に仕事をさせてもらったりする機会があり、門前の小僧習わぬ経を読むではないけれども、学ぶともなくコメンスキーに関する知識は増えている。しかし、さすがに専門家お二人の話は知らないことばかりで、なかなかに刺激的だった。
 特にチェコ人の先生の話に、個人的に衝撃的なものがあったので、忘れないうちに書き留めておこうと思う。もし、コメンスキーに対して敬虔な教育者、聖哲というイメージを抱いていて、そのイメージを壊したくないと考えている方がいたら、以下は読まれないことをお勧めする。

 コメンスキーがモラビアにいられなくなって、スロバキアを経て現在のハンガリー北部、スロバキアとの国境の近く、ブラトニー・ポトク(現在のハンガリー名はシャーロシュパタク)に滞在していたころ、当地の庇護者によって、コメンスキー一行には、毎日一人当たり三リットルのトカイワインが提供されていたのだという。
 一週間にではなく、一日に三リットル、一行全体にではなく、それぞれのメンバーに三リットルである。一体コメンスキーたちはどんなお酒の飲み方をしていたのだろう、どれだけお酒に強かったのだろうと思ったのは私だけではなく、話をしてくれた先生は、以前仲間のコメンスキー研究者と共に、ハンガリーまで行くのは遠いので、ブラトニー・ポトクからそれほど遠くないスロバキアのコシツェに出かけたときに、一人で三リットルのワインを飲むのに挑戦してみたのだという。
 結果は、二人とも二リットル飲んだ時点で限界を迎え、一日に三リットルのワインという量がとんでもない量であることを、身を以て確認したらしい。こういうのも実証主義というのだろうか。この事実から、コメンスキーはお酒が強かったという結論が出てくるのか、一日に三リットルというのは信用できないという結論が出てくるのかはともかくとして、厳格な、謹厳実直な教育者というイメージのコメンスキーが、意外なことに酒好きであったことは間違いないようである。

 もう一つは、コメンスキーが葬られたオランダのナールデンのコメンスキー博物館で講演をしたときの話。コメンスキーのオランダ滞在中に支援し続けた一族があるのだが、その一族が存在しなかったら、コメンスキーの著作は世に出ておらず世界中の人がコメンスキーを知ることもなかっただろうと言って、功績を一つ一つ数え上げていったらしい。亡命してきたコメンスキーに住処を与えたこと、生活の基盤を作るために大学教師としての給料を保証したこと、執筆できる環境を整えたこと、そしてコメンスキーが執筆したものを出版したこと、どれが欠けてもコメンスキーの著作が現代まで読み継がれることはなかっただろうという話を先生はなさったらしい。
 そうしたら、講演が終わった後、控え室で休憩していた先生の許に、コメンスキーを庇護していた一族の子孫に当たる男性が尋ねてきた。そして曰く、「先生が挙げたことは、確かにどれも大切なことだけれども、一つ重要なことが抜けていた」と言う。あれこれ考えても答が思いつかず、先生が答を教えてほしいと言うと、答えて曰く、「コメンスキーが飲み屋から決まった時間にうちに帰るように、毎日見張っていたのもうちの先祖の功績ですぜ」と。先生、はたと手を打って、「そいつはその通りだ」と子孫の方と二人で大笑いしたのだとか。

 いや、ちょっと待ってほしい。と言うことはあれですかい。コメンスキーって人は、放っておくとずるずると飲み屋にい続けて、朝まで酒を飲み続けかねない人物だったってことですかい? そして、数ある著作の中には、朝帰りの後の二日酔いの朦朧たる意識の中で書き上げたものもあるかもしれないってことなのか。ああ、だから先生は、自宅で造ったスリボビツェの瓶に貼り付けるラベルに、二日酔いで頭に濡れタオルを巻いたコメンスキーの絵を使っているのか。
 コメンスキーと言うと、さまざまな困難を、自らの信じるフス派のキリスト教への信仰と、学問に対する押さえがたい意欲を支えに乗り越えて生き抜き、哲学史上に大きな業績を残した偉人だというイメージだったのだけど、これでは夜な夜な飲み屋に出没しては、酒を片手におだを上げている飲んだくれのおっさんではないか。そして、モラビアを出てあちこち移動を余儀なくされていたときも、うまい酒のある土地を選んでいたのではないかなどと妄想を広げてしまう。
 こんならちもない想像で我がこれまでのコメンスキー像を破壊するのはやめよう。ただ、コメンスキーもチェコ人であったのだ。いや、ワインが好きだったようだから、モラビア人だったのだ。コメンスキーはこの上もなくモラビア人だったのだということで、結論にしておく。

 ちなみに、チェコスロバキアの初代大統領のマサリクも、公式にはお酒は飲まないことになっていたらしいが、やはりモラビア人だったらしい。若き日には、地下のワイン蔵で朝まで飲み続けてべろべろの状態で引きずり出されたこともあるらしい。この話は、マサリクと一緒にワイン倉から引きずり出された曽祖父聞いた話だそうだ。
 生きた歴史を目の当たりにして、感動に打ち震えてしまったのだが、ビール片手に感動と言うあたりが、我ながらチェコ人化しつつあるのかな。
9月28日11時。



 チェコの二百コルナ紙幣にはコメンスキーの肖像が使われている。でも、この値段で売れるんだったら、二百コルナを日本に輸出しようかな。9月29日追記。

チェコ共和国 200 Korun 教育者コメニウス 1993年 美

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2016年09月29日

リベレツとスパルタの憂鬱(九月廿六日)



 週末、チェコテレビの七時のニュースの後のスポーツニュース「ゴール、勝ち点、秒」(日本語に訳すと意味不明になるなあ)を見ていたら、サッカーのエーポイシュテニー・リーガのリベレツとカルビナーの試合が延期になったと言っていた。
 チーム内に伝染性の病気が蔓延しているというので、試合に出られる健康な選手の数がそろわないのだろうと思っていたら、それどころではなく、選手だけでなく監督なども含めてチーム全体がリベレツ地方の保健所の指示によって隔離状態に置かれているらしい。隔離ということは、伝染性の病気のチームの外への拡散を防ぐための処置だろうから、かなりやばい病気なのかもしれない。本来は昨日の日曜日までの予定だった隔離は、最低でも明日火曜日まで延長されたようだ。

 木曜日にはヨーロッパリーグのグループステージの第二戦がリベレツで行なわれる予定なのだが間に合うのだろうか。隔離状態が解かれたとして、病み上がりの選手たちが90分プレーできるところまで回復するのだろうか。いや、間に合わなかった場合に、不戦敗扱いになったりするのではないかというのが一番の心配である。
 一説によると、ヨーロッパリーグの初戦でアゼルバイジャンに出かけたときに、病気をもらって帰ってきたらしい。最初は何人かの選手が感染しただけだったので、直後のスラビアとの試合には、欠場者は出たものの十分な数の選手が確保できたけれども、その後の一週間でチーム全体に病気が広がったということのようだ。スラビアに負けてしまったのも病気での欠場者の影響かも知れない。アゼルバイジャンでは終了直前に同点に追いつかれた上に、病気をもらってきたというわけだから、踏んだり蹴ったりとはこのことである。

 そのスラビアの監督には、結局ゼマンではなく、元リベレツの監督で、今年の夏からドゥクラの監督になっていたシルハビーが就任した。就任したばかりの監督を、中国企業の金で強奪したということなのだろう。スラビアの監督としての初戦は、引き分けに終わったが病気で弱体化したリベレツに勝ち、調子の上がらないスパルタとのプラハダービーに完勝しチーム内での地位を固めることができたようだ。監督を変え過ぎるのはよくないと思うのだけど、ウフリンよりは実績が上だから、期待はしてもいいのかな。

 スパルタは、ヨーロッパリーグで惨敗した後も調子が上がらず、今シーズンの台風の目になっているズリーンと何とか引き分けた後、チェコ中から注目されているプラハダービーで、スパルタホームの試合で完敗を喫してしまった。その結果、監督のシュチャスニーが解任されてしまった。夏のシーズン前のキャンプで選手たちの調子を上げきれなかったのが響き続けているようで、強いスパルタは、いくつかの試合で片鱗が見られたに過ぎない。
 同じ調子の上がらないプルゼニュは、監督ではなく、中心選手を放出して選手を入れ替えることでの活性化を図り成果を挙げつつある。スパルタは移籍期間が終わっているせいもあって、監督の交代という手に出たわけだが、成果は上がるだろうか。このチームも、復帰したばかりのロシツキーを含めて、けが人が多いというのが一番の問題だという面もあるのだから、もう少し我慢してもよさそうな気はする。誰が後任になるにしても、大変ではあろう。
 もう一つのスパルタの問題は、大きな期待と共に復帰させたミハルとバーツラフの二人のカドレツが全く期待に応えられていないところにある。国外移籍が予想されていたセンターバックのヤクプ・ブラベツの代役として、守備を強化するためにトルコからミハル・カドレツを獲得したけれども、昨シーズンのディフェンスのほうが安定していたような気がする。また停滞する攻撃陣を活性化するための最終兵器として大枚はたいて購入したバーツラフ・カドレツも、代表の親善試合ではいいところを見せたが、スパルタでは重要な試合で結果を出せていない。監督が変わっただけで、この状態が劇的に変わるとも思えない。噂によると、スパルタはリベレツの監督を狙っているらしいから、この監督解任はリベレツにとっても他人事ではないのである。

 このままだと、スパルタは、よほどのことがない限り、ヨーロッパリーグでもグループステージで敗退、国内リーグでもプルゼニュの後塵を拝することになりそうだ。現在のスパルタのオーナー企業はチャンピオンズリーグへの進出を目指して、毎年お金をかけた補強を繰り返しているけれども、補強の仕方が悪いのか、監督の選任が間違っているのか、結果は出ていない。垂れ流しの赤字に嫌気がさして、中国企業とも提携しているらしいこのスパルタのオーナー企業が、スパルタを中国企業に売却するなんてことのないように祈ろう。
 個人的には、スパルタの一強状態だった以前の国内リーグは退屈だったので、プルゼニュやリベレツ、ムラダー・ボレスラフが、スパルタと優勝争い、ヨーロッパのカップ戦をかけた上位争いをするのは、歓迎すべきことなのだけど、ヨーロッパの舞台にチェコの代表として進出する以上は、強いスパルタであってほしいとも思う。将来、スパルタとプルゼニュの二チームがチャンピオンズリーグに進出するなんて奇跡を引き起こすためにも、スパルタには頑張ってもらいたいところである。今シーズンはもう難しそうだけど。
9月27日16時30分。


 リベレツの選手たちの隔離は火曜日に解かれて、夕方から練習を再開したらしい。とは言え、二日間で体調を万全にできるのだろうか。心配である。9月28日追記。

2016年09月28日

チェコ史の闇(九月廿五日)

H先生に


 そういうことがあったというのは知っていた。ただチェコの歴史でもタブー扱いされているのか、あまり詳しく語られることはなかったし、具体的にどこでどんな事件が起こったのかについては、ほとんど情報はなかった。数年前の、たしかイフラバの近くの村の外れで遺骨が発見されたというニュースと、これも数年前に公開された映画「ハブルマン氏の製粉所」は、この件に関しては例外的な存在である。
 第二次世界大戦における虐殺というと、チェコではリディツェの焼き討ちや、ユダヤ人やロマ人のの強制収容所が有名で、こちらについては毎年慰霊祭の様子がニュースで放送されるなど情報には事欠かない。しかし、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終結後にチェコ人がドイツ人、ドイツ系の住民に対してやったことはあまり語られることはない。その点では終戦直後のドイツで、毒入りのパンをドイツ人たちに配布しようとしたユダヤ人のグループと同じである。

 第二次世界大戦までのチェコの領域内には、かなりの数のドイツ人、ドイツ系の住民が生活していた。特にズデーテン地方と呼ばれる国境地帯や、都市部ではドイツ人の割合が高かった。ハプスブルク家の統治下、第一共和国の時代を通じて、チェコ人とドイツ人の間には軋轢や差別はあったものの、それが他民族の虐殺やいわゆる民族浄化につながることはなかったらしい。
 状況が変わり始めたのは、ナチスの台頭以降で、ドイツ人たちがナチスの威光を背景にチェコスロバキア政府に敵対的な行動を取るようになり、チェコ人とドイツ人の間の民族的な対立が激化する。ミュンヘン協定、ナチスドイツのチェコ侵攻と保護領化などを経て、第二次世界大戦中はドイツ人が支配民族としてチェコ人を支配、場合によってはしいたげるという状況になる。ユダヤ人、ロマ人の殲滅が終わったら次はスラブ人を絶滅させようとしていたなんて話もあるぐらいである。もちろん、少数ではあるが、チェコ人の中には、ドイツ人に擦り寄って自分だけ優遇されようとした人もいたし、ドイツ人であってもチェコ人たちとの友好関係を崩さないように努力した人もいたらしい。

 第二次世界大戦が終結し、ドイツの敗北が決定すると、チェコ人たちの報復が始まる。一般にはこの報復は、ベネシュの大統領令によってドイツ系の住民が資産を奪われ着の身着のまま国外に追放されたこととして説明される。しかし、一部ではチェコ人の住民や、ソ連軍と共に祖国解放のために進出してきた軍隊が暴発することもあったらしい。
 住民が暴走したのが、イフラバの近くの村で発見された遺骨の事件と、「ハブルマン氏の製粉所」に描き出された事件である。ハブルマン氏は第二次世界大戦中多くのチェコに住むドイツ人が我が世の春を謳歌しチェコ人に対して横暴に振舞う中、チェコ人に対する差別をせず、村人があらぬ嫌疑を掛けられたときにはかばうこともあった公正な人だったらしい。しかし、ドイツの敗戦後、ドイツ人であるというだけの理由で、資産を持っているというだけの理由で家族もろとも惨殺されてしまった。ハブルマン氏を殺すことに反対したチェコ人もいたらしいが、集団の狂喜に飲み込まれて、止めることはできなかったのだという。意味でタブーに挑戦したこの映画、専門家の評価はともかく、観客を集めることはできたのだろうか。

 そして、軍隊が暴走して起こった事件が、プシェロフの近くにある丘の上での虐殺事件である。終戦から一月半ほど後のこと、スロバキアからプシェロフに進出してきたブラチスラバのスロバキア人部隊が、町に残されていたドイツ系の女性、子供、そして老人を丘の上に集めて、全員まとめて銃殺してしまうという事件を起こしたらしい。犠牲者の数は250人以上、中には生後一年に満たない乳児もいて、母親に抱かれたまま銃殺されたのだという。
 この話を教えてくれた方は、チェコでは何かというとリディツェを取り上げて、ドイツ軍の残酷行為を喧伝するけれども、このプシェロフ郊外で起こった事件は、リディツェの事件よりも残酷で痛ましいものだと語ってくれた。
 チェコ人として、かつてのチェコスロバキアの国民としてこのような事件が起こったことは辛いし、この件について語るのも辛い。ただ目の前にある悪事に目を背けて見ない振りをするのは、歴史学者にとっては自ら悪事に加担するのと同じだという恩師の言葉を胸に、この事件について調査を重ね、全貌を明らかにする本を出版したのだという。

 日本だとこういうのは、日本人が自ら日本人を貶めるような行為だとして非難するやからが続出するのだろうが、チェコでも調査、出版に反対する人はいたらしい。ただ、この事件を歴史の闇の中に葬り去るのではなく、事実を知りたいと考える人は多いようで、意外なほどに売れ行きがよく、第二版を出版することになりそうなのは、著者としてだけでなく、チェコ人としても嬉しいと語ってくれた。
 この手の終戦後、敗戦国の国民に対して行われた残虐な事件というものは、戦争責任を問われた敗戦国側からはなかなか発言しにくいものである。だからこの方のような存在は非常に貴重である。ただし、このような事件を起こして、チェコ人はひどい、ドイツ人がかわいそうなどという感想を抱いておしまいというわけにはいない。ミュンヘン協定のときには、ドイツ人やポーランド人がチェコ人の経営する農場を襲ったり、チェコ人の店に放火したりなんてことをしていたのだから。

 この手の憎しみの連鎖というものはどこかでどちらかが断ち切らない限り、報復が報復を呼ぶことになる。チェコやスロバキアなどの旧東欧圏は、共産党というさらに大きな悪が存在したことで、結果として対戦前後の民族の憎しみ合いが軽減されたようである。それに対して、共産主義の悪を経験しなかったバイエルン州では、未だに追放されたことの恨みつらみを抱えて、ドイツ人の追放を決めたベネシュの大統領令の無効を主張してヘンライン党の残骸が政治活動を続けている。困ったものである。
 そして、現在のドイツの旧東側のEU加盟国に対する強権的な姿勢が、過去の亡霊を呼び起こし、かつてナチスドイツによって大きな被害を受けた国々に反ドイツ的な感情を引き起こすのではないかと危惧するのみである。
9月27日10時。


posted by olomoučan at 05:50| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年09月27日

ブリュックネルとの遭遇(九月廿四日)



 毎週土曜日に、オロモウツのホルニー広場で、生産者直売という名目の朝のマーケットが開かれる。実際には生産者ではない転売業者も参入できていて本当の生産者直売をやっている人たちの間には不満がたまっているらしいが、そのマーケットに買い物に出かけていたうちのが帰ってくるなり、「誰を見かけたと思う」と聞いてきた。職場の偉いさんとかあれこれ名前を挙げたけど、どれもはずれ。答は、カレル・ブリュックネルということで、思わず「ツォジェ」とチェコ語で声を上げてしまった。
 これが十年前であれば、カレル・ブリュックネルといえば、日本でも結構有名で、知っている人も、ヨーロッパサッカーのファンを中心にいたと思うのだけど、監督を引退して久しい今となっては、チェコ国外、とくに遠く離れた日本なんかでは忘れられた人になっているだろう。チェコではたまにメディアに登場して、相変わらずの皮肉な戦術狂ぶりを見せてくれるけれども、普段は悠々自適の生活をしているらしい。

 知らない人のために、ちょっとだけ説明をしておくと、カレル・ブリュックネルは、サッカーのチェコ代表で史上最高の監督である。2002年の日韓ワールドカップの予選で敗退した後に、監督を引き受けたブリュックネルは、自ら鍛え上げてヨーロッパ選手権で優勝させたU21代表の選手たちをA代表にも積極的に登用し、ネドベドなどの世代と融合させることで、最強のチェコ代表を作り上げたのだ。
 ヨーロッパ選手権でも、ワールドカップでも優勝や準優勝などの成績は残せなかったが、予選を危なげなく勝ち抜いていただけでも、あの時期の代表は別格だった。任期の終盤は長期政権の弊害か、選手選考のマンネリや、コンディショニングコーチを置かないことなどを批判されることが多くなったが、残した成績だけでなく、試合を見ていて楽しく、試合後の記者会見を聞いても楽しいという点でも、最高の監督だった。

 そのブリュックネルは、オロモウツの人なのである。出身は違うかもしれないけれども、オロモウツの人なのだ。90年代にはシグマ・オロモウツの監督として国内リーグで好成績を残すだけでなく、ヨーロッパのカップ戦でもかなりいいところまで進出したらしい。さすがにこの辺はチェコに来る前なので、詳しいことは知らない。
 チェコ代表監督時代にもシグマのスタジアム内にブリュックネルの事務所みたいなものが置かれていてそこで仕事をすることも多かったというし、オロモウツでのサッカーの試合の中継で客席で観戦している姿が映し出されることもある。だから、ブリュックネルはオロモウツの人でオロモウツに住んでいるのだ。

 マーケットでのブリュックネルは、特に目立つこともなく、買い物をするお爺さんという姿が様になっていたらしい。そう言えば、もう何年前になるだろうか、オロモウツの南の郊外にできたオリンピアというショッピングセンターの駐車場で、買い物袋を提げて買い物帰りのお爺さんといいたくなる姿を、一度見かけたことがある。ということは、うちのは二度目のブリュックネルとの遭遇ということになる。うらやましい。

 そうしたら、ベランダ園芸用の土を求めて出かけたオビという園芸用品のお店にいたのだ。我々が店内に入ったら、白髪の老人の後姿がレジに並んでいるのが見えた。うちのがあの人だよというので、こっそりと顔が見えるように場所を移動して、久しぶりにブリュックネルの渋さにあふれる尊顔を拝することができた。やはりこの爺さんかっこいいなあ。こんな爺になれたらいいなあなどと考えてしまった。
 その後、行く予定だったスーパーテスコでも遭遇するかもなんて笑っていたのだけど、残念ながらそんなこともなく、ブリュックネルがどんな車に乗っているのか興味があったんだけどと言ったら、うちのは、シュコダのオクタビアじゃないかななんて言っていた。シュコダはチェコのスポーツ関係者に自動車を提供することがあるから、ありえなくはない。サッカー選手御用達のドイツの高級車とか、サッカー代表のスポンサーのヒュンダイの車とかよりは、ブリュックネルに似合っているし。

 オロモウツで見かけたサッカー関係の有名人は、ブリュックネルだけではない。有名人と言ってもチェコレベルでの有名人だけど、うちのは、スーパーマーケットで自転車を停めようとしている元オロモウツなどの監督のペトル・ウリチニーにこれでいいのかねなんて質問されたことがあるらしいし、テニスをしにいったら隣のコートにいたのもウリチニーだったと言っていたかな。
 キャリアの最後にスラビア・プラハで活躍し、チャンピオンズリーグに出場させたマルティン・バニアクは、同じレストランで食事しているのに居合わせたことがあるし、トラムの中から街を歩いている姿を見かけたこともある。
 この二人も、オロモウツの出身かどうかは知らないけれども、個人的にはオロモウツの人としてカテゴリーしているので、ついつい応援してしまう。二人とも、ウリチニーは監督を、バニアクは選手を引退してしまって、今は応援のしがいがないが、今後バニアクが監督になったらどこのチームであっても応援してしまうだろうなあ。
9月25日11時30分。


 これは、当然オロモウツの話になるよね。9月26日追記。

2016年09月26日

Moto GP(九月廿三日)



 あれ、いつの間に名前が変わったのだろう。昔はWGPと呼ばれていたような気がするのだけど、ワールドカップだったか、世界選手権だったか確認しようとあれこれ見ていたら、いつの間にかMoto GPに名前が変わっていた。あれ、本来のカテゴリーGP500、GP250、GP125が、GP1、GP2、GP3なんてのに名前が変更されていたここともあったんだっけか。環境保護の観点から、使用エンジンも、かつてのツーストロークから、フォーストロークに変わったなんて話もあったかな。F1もそうだけど、ある意味走る環境破壊であるこの手のレースに関して、環境に配慮するなんてのは偽善でしかない。参戦している自動車会社や、バイク会社としては、社会に対する言い訳として必要なのだろうか。

 さて、90年代、最盛期のF1人気に背を向けて、ラリーとバイクの世界選手権を追いかけていた。ラリーは高斎正の小説『ランサーがモンテを目指す時』を読んだ影響で、バイクのほうは森雅裕の『マン島物語』と『サーキット・メモリー』に触発されたものである。自分でもとは考えなかったのは、そっち方面の才能がまったくなかったからだ。運転していてミスして自分ひとりで死ぬだけならともかく、周囲の人まで巻き込むに決まっているのだから、手は出せない。
 追いかけていたとは言っても、テレビで中継があるわけでもなく、いやそもそもテレビを持っていなかったな、現在のようにインターネットでリアルタイムで経過を確認できるわけでもなく、新聞や雑誌で結果を確認し、レースレポートを読んでいっぱしのファンのような気分になっていたのだ。ついつい買ってしまっていたスポーツ雑誌のナンバーでも、WGPの特集をやることがあったんじゃなかったかな。F1の次に来るものを探していたのだろうし。

 確か1991年だった。鈴鹿での日本GPの125クラスで、ワイルドカードで出場した上田昇選手が優勝して、そのままシーズンフル参戦することになった。同時に、坂田和人選手、若井伸之選手も参戦したので、WGPに参戦する日本人の数が一気に増えて、注目度も上がった。以前から125クラスにはプライベートで参戦しているチームがあったし、250でもメーカーの支援を受けて参戦している選手はいたが、知る人ぞ知るという存在に終わっていたようだ。
 そして、93年には、250クラスにヤマハとホンダの支援を受けた原田哲也選手と岡田忠之選手が参戦するなど、WGPに参戦する日本人選手の数は増え続け、一時はイタリアと並んで最多数を占めていたこともあったはずだ。
 この93年は、原田選手がフル参戦一年目で総合優勝を飾るという歴史的な年なのだが、一番印象に残っているのは、スペインGPでの若井選手の死だ。生まれて初めて日本を離れようという頃、「東京中日スポーツ」で予選中の事故で亡くなったということを知って、日本人選手はみんな応援していたけれども、91年にデビューした上田、坂田、若井の三選手には特に思い入れがあっただけに、衝撃は大きかった。翌日には、そのレースで125で坂田選手が、250で原田選手が優勝したということを知って、別の意味で衝撃を受けるのだけど。あれは電車の中で読みながら涙が出そうだった。

 そしてもう一つ、はるばるやってきたチェコはオロモウツに滞在していたとき、レストランで夕食をとっていたら、日本人だと気づいたのか、いきなり「ハラダ」と声を掛けられたことがある。最初はわけがわからず、えっという顔をしてしまったのだが、その男が、もう一度「ハラダ」と言って、バイクのアクセルを回すしぐさをしたので、ロードレースの原田選手のことを言っているのだと理解できた。レストランを出て行く後姿を見ると革の服を着ていたので、バイク乗りだったのかも知れない。
 そのせいで、旅行中に行なわれたレースの結果が知りたくなって、翌日雑誌が売られているお店を探して、WGPの結果が載っていそうな雑誌を買ってしまうのであった。たしか「エンジンの世界(svět motorů)」という月刊誌で、自動車関係が中心だったけど、バイクのレースの結果も載っていた。どのレースの結果が載っていたのかは覚えていないが、まったく理解のできないチェコ語で書かれた雑誌の中に、Haradaなどの日本語の名前を見つけることができたのは、旅に疲れ始めていた身には、大きな喜びだった。日本にいるとき以上に、外国で活躍している日本人の存在を意識して応援するようになっていた。

 2000年代に入って、チェコに来るまでは、WGPを結果だけは追いかけていたし、一時テレビが家にあった時期はテレビ東京の深夜の放送で見ていたこともある。あの頃は、各クラスに日本人選手が複数いて、500クラスを除けば優勝争いをするのが当然だったのに、久しぶりに覗いたWGP改め、Moto GPのエントリーリストに日本選手の名前は三つしかなかった。救いはMoto2で中上貴晶選手が一勝していることか。
 モータースポーツの場合には、選手の能力だけでなく、メーカーの販売戦略や、スポンサーの意向も参戦できるかどうかの決定に大きな意味を持つから、かつての日本人選手が国内選手権の空洞化が危惧されるほどに次々に参戦するなんてことは起こらないだろうけれども、年に一度ぐらいは、チェコでも報道されるような活躍をしてほしいものだ。残念ながら、中上選手の優勝はチェコのニュースで見た記憶はない。だからもう一回ぐらい優勝してくれないものだろうか。
9月24日23時30分。

 片山選手や平選手がWGPに参戦していたころは、まだ何の情報も入ってこない田舎住まいだったので、名前をちらっと聞いたことがある程度に過ぎなかった。9月25日追記。


2016年09月25日

世界選手権とワールドカップ(九月廿二日)



 現在アメリカとカナダで、アイスホッケーのワールドカップとかいう大会が開催されている。出場チームは、アメリカ、カナダの北米二か国の代表に、チェコ、スウェーデン、フィンランド、ロシアのヨーロッパ四か国代表、この四か国以外のヨーロッパ選手を集めたヨーロッパチーム、カナダ、アメリカの二十三歳以下の選手を集めた北米チームの八か国が出場している。この大会をワールドカップと呼ぶのは、これまでのチェコ語の言葉の使い方からは、納得がいかない。
 毎年行われるアイスホッケーの世界選手権は確か五月に開催されていたはずだし、チェコ語の世界選手権とワールドカップについて、特に調べるまでもなくわかる範囲で、まとめておこうと思う。チェコ語では、ワールドカップは、světový pohár、世界選手権はmistrovství světaである。

 では、アイスホッケーと同じように、世界選手権、ワールドカップの両方が開催されているスポーツはというと、思い浮かぶのは個人競技が多い。しかも冬期のスポーツが多いような気がする。アルペンスキーも、ノルディックスキーも、バイアスロンも、自転車のシクロクロスも、みんな個人競技で、冬のスポーツである。
 そして、ワールドカップは、シーズン中に世界各地で行なわれるいくつもの大会でのすべてのレースの順位をポイントに換算して、その合計で総合優勝者をはじめ順位を決めるもので、世界選手権は一年に一度決められた場所で開催され、それぞれのレースの優勝者はいても、全てを合計した総合優勝は存在しない。またワールドカップは、所属チームのユニフォームで出場する競技もあるが、世界選手権は国単位の参加で、ワールドカップには出場していない国の選手が出ることもある。

 では、夏の個人競技はというと、自転車のマウンテンバイクは、シクロクロスと同様に両方開催されている。ロードレースは世界選手権はあるけれども、ワールドカップはない。その代わりワールドツアーとかいう選ばれた18のチームで構成されるシリーズがあって、ポイントを争っている。
 陸上競技も、世界選手権はあるが、ワールドカップはない。各レースの順位をポイント化して合計で順位を争うという意味では、ダイヤモンドリーグが、ワールドカップに近い。ただ、出場選手が少なくポイントを獲得できる選手も少ない点が大きく違う。

 団体競技では、国単位のリーグ戦が盛んで、代表の活動をシーズンを通して継続することは難しい。また、個人競技と違って一日で一つの大会を終わらせるなんてこともできない。だから大会ごとのポイントを積み上げて、シーズンの総合成績を出すワールドカップ的なものを開催するのは不可能に近いのだろう。ハンドボールも、サッカーも、ラグビーも、チェコ語では世界選手権しか開催されないのである。
 ここであれっと思った人、その疑念は正しい。日本語ではワールドカップと称されるサッカーやラグビーの大会は、チェコ語では世界選手権mistrovství světaなのである。どうして、日本語とチェコ語の呼称にずれが生じているのかについて、検討する余力はないが、スキーなどの個人競技における両者の区別から言えば、世界選手権のほうが適当な名称であるように思われる。日本語で勝手にワールドカップにしたとも思えないから、英語でもワールドカップなのだろうけど。

 ちなみにアイスホッケーには、ワールドカップに近いシリーズが存在していて、ユーロ・ホッケー・トゥールの名のもとに、毎年いくつかの大会の成績を合計して総合優勝国を決定している。ただし、参加国が、ロシア、スウェーデン、フィンランドと、我らがチェコのヨーロッパの四か国でしかないことと、大会の順位にポイントを付けるのではなく、それぞれの試合で獲得した勝ち点をそのまま合計して順位を出すところが、典型的なワールドカップとは異なっている。
 今回アメリカとカナダで開催されているワールドカップは、以前はカナダカップという名称で、開催されたこともあるというから、大会のフォーマットからワールドカップという名称を選んだのではなく、名称が使われていなかったから使うことにしたとかいうことのような気もする。つまり、英語での名称の選択にルールがないのが問題なのか。

 ここまで書いて、自動車やバイクのレースはどうだったろうかと思いついて調べてみたら、チームはあるけれども個人的には個人スポーツで、シーズン中に多くの大会が行われ、個々のレースの順位をポイント化して集計し総合順位をつけるものでありながら、世界選手権になっていた。
 ということは、サッカーやラグビーのワールドカップは、英語での名称よりも大会のフォーマットを考えて、世界選手権と訳されたけれども、モータースポーツだけは、大会のフォーマットよりも英語での名称を優先して世界選手権にしたのか。こういう思いがけないところでの用語のずれに、基準がありそうでなさそうな微妙なところが、チェコ語を使うときの難点の一つになる。ただ、チェコ語を使うときには、団体スポーツには国対抗のワールドカップsvětový pohárはないぐらいのことは言えるのかな。

9月23日15時30分。


 カテゴリーは悩んだけれどもチェコ語にしておく。9月24日追記。

2016年09月24日

天元五年六月の実資〈上〉(九月廿一日)



承前
 十六日は、今日と明日は物忌と言いながら、中宮の御読経の結願の儀式について詳しく記しているから、物忌でも出席したということか。儀式が終わった後の宴会では、「公卿頗る酔気有り」とあるからみんな酔っぱらったということか。この日は、雷が鳴っている。

 十七日は、参内しているが、天皇の物忌で御側には上がっていない。物忌の中、石清水への天皇の使いがかなり大々的に出発している。物忌と神事、仏事の関係がいまいちはっきりしない。穢が発生したときには物忌が必要だが、暦上の物忌もあるので、こういうときには、特に儀式などへの制限はないのだろうか。今後は意識して読んでいこう。
 夕方、雷雨。時期的に言うと夕立かな。すぐに晴れ上がったみたいだし。
 十八日は、毎月恒例の清水寺参拝である。同時に毘沙門天像を砂金で鋳造している。仏像の高さと砂金の重さの関係が一つ想像できない。金の重さなんて実感がないからなあ。

 十九日は、頼忠のところに寄って参内して、夕方帰宅。
 廿日は、最近ひんぱんにあちこちの神社に使わされる天皇の祈願の使者が賀茂社に向かっている。また中宮の入内に伴って、竈神を中宮の里邸から内裏の内膳司に移す儀式が行われている。これによって名実ともに中宮が天皇の正妻となるという意味があるのだろうか。その移動の経路が記されている部分から残念なことに欠落。内裏に入ってどんな儀式があるのか読んでみたかった。

 廿一日から廿四日までは、完全に欠落で、廿五日は、末尾の大原の神社にまたまた天皇の祈願の使いが立てられたという部分しか残っていない。

 廿六日には、翌日まで二日の内裏の物忌であるが、左大臣が参上して、天皇の陵墓に立后のことを伝える使者について奏上している。ただ物忌だから、直接ではなく、御簾の外から奏上している。
 この日の記事によると、世情不穏はどうも内裏の中まで及んでいるようで、狼藉を働く連中があちこちに入り込んでいるので、六衛府に警備の人員の強化を命じるとともに、詰め所である陣の中に入り込まれないように宿直を命じている。警察機能を担う検非違使にはよからぬ連中の捜査を進めるように命じているのかな。

 廿七日には、蒼鷺が鷹になるという変事が起こっているが、占いによれば大したことはないとのこと。本当なのか。
 廿八日は、風。わざわざ記すぐらいだから強風だったのだろう。いつもと同じように頼忠のところに寄って参内し、加持祈祷を行うべき日を調査させている。来月の十一日と十七日という答えが返ってきているが、この年の七月の『小右記』は散逸している。残念。ただ、『大日本史料』に引用された『日本紀略』の記事によれば十七日に行われたようである。

 廿九日も、風。この日は宇多天皇の女御藤原胤子の忌日だということで、国忌とされ、東寺で儀式が行われることになっている。しかし東寺から寺に死の穢があるという報告が上がってくる。どうするかということで西寺や外記に問い合わせをしているが、「例無し」などという割には、「寺家に付して行はる」ということで、結局どうなったのかよくわからないのだが、寺で寺の人間だけで儀式を行えば、穢れがあっても問題ないということなのだろうか。実資を含めて誰も参加していないようだし、あっさりと別の事柄に移っているし。
 この日は六月の晦日なので大祓の日である。問題は公卿や女官たちの怠慢が続いていて、代理が行事を行っていること。その後、七月一日の住吉神社で行われる走り馬の儀式について大納言の藤原為光が奏上している。どうも馬を管理している右馬寮で牛が死ぬという穢れが起こってしまったらしい。左馬寮も穢れがあるというので、どうするか考えて、放牧されている馬を使えとか、鞍は太政大臣に献上させるとか、さまざまな手が打たれている。ただし、左馬寮の穢れは真偽が怪しいらしい。この件も、この年の記事がここで終わっているために、実際どうなったのかは不明。
 尻切れトンボな感じで終わるのは、月単位で切っているから仕方がないのである。
9月21日23時。


2016年09月23日

天元五年六月の実資〈上〉(九月廿日)



 六月も一日の雨から始まる。実資が雨の中内裏に出かけていくと、太政官から天皇への公式の奏上である官奏という儀式が行われる。同時に諸社に奉幣し祈願の儀式を行う件についても天皇の御覧に入れており、「別紙に在り」と書かれているが別紙はない。伊勢神宮の斎宮関係の役所である斎宮寮の頭に藤原奉高が任じられているのは伊勢守だからだろうか。割注に「除目」とあるのは、この藤原奉高の斎宮権頭への任官のことかもしれない。この件は藤原為光が処理したようだが、実資によれば左大臣の仕事だという。最後に中宮職の御封について大夫済時が定めている。

 二日も雨。遵子立后について神社や天皇陵に報告する儀式を先例通りに行うように天皇が左大臣に告げ、実資はその件を太政大臣の頼忠に報告している。また神社への使を天皇の御前で定めているが、使者として選ばれたのは殿上人たちであった。
 最後に左大臣が、儒者たちの怠状、つまり始末書のようなものを取り上げているのが気になる。怠慢だったのか、何か失敗したのか。文字から言うと怠慢だろうけど、断言はできそうもない。

 三日は、ただの雨ではなく夜中に雷雨に襲われている。やはり雨が多い。この日の記事は二人の源氏、源惟章と源遠理が密かに出家してしまったということに尽きる。実資も感じるところがあったのか、恐らく自らの家司を出家した寺に送って、訪問させている。
 儒者たちが提出した怠状は、書式がおかしいということで書き直し。使えないやつらである。このころから腐儒的な存在がいたのかな。

 四日は宿直明けで退出し、左大臣のところに天皇のお使いとして出向いている。蔵人の仕事であろうか。
 五日には、天皇が譲位の準備であろうか、退位後の御所ともなる後院、それから後に実際に退位後の御所となった堀川院の別当を定めている。この日は、殿上人達が、囲碁を楽しんでいるというのが気になる。囲碁そのものなのか、囲碁を肴にお酒を飲んだのか、「囲碁の興」だからなあ。

 六日には新たに仏事が始まっている。今回は不断の法華経転読である。不穏なことが起こらないことを願っての仏事であろうが、内裏の近くの小屋が焼けるという事件が起こっている。ただ「仍て勅計の事有り」がわからない。天皇が何か対策を考えたのだろうか。中宮の遵子にも報告しているということは、中宮にも関係する小屋だったのか。
 七日と八日は、六日に始まった不断の法華経転読の様子が少し書かれているだけ。八日に出てくる「然の名前は、この年の翌年中国に渡るから少し気になる。

 不断の法華経は九日に終了を迎え、この日には、囲碁の勝負で負けた側が勝った側に御馳走をする「負態」が行われている。この手の勝負事で負けたほうが勝ったほうを饗応するというのはこの時代よくあることのようである。日本人の賭け事好きはこのあたりから始まっているのかもしれない。
 九日の記事の末尾に室町に出かけて、実の兄の藤原懐遠に亡き両親の法事について尋ねている。これは室町の邸宅には藤原懐遠が住んでいたと考えていいのだろうか。それとも実頼関係者の住む室町の邸宅を法事のために使うと考えたほうがいいのか。悩ましいところである。
 十日は、前日出てきた室町での亡き両親のための法事である。ただ実資自身は、陰陽道で忌むべき衰日に当たるために欠席している。お金だけは収めているのかな。そんな状態で夜に入ってから参内しているのは、内裏が物忌に入っているからか、衰日は日中のみのことなのか。

 十一日は久しぶりに雨。本来は天皇自身の行う神事である神今食が、朝堂院の北の殿舎中和院で行われるのだが、物忌なので天皇の出御のない略儀で行われたようだ。天皇が出てこないからか、公卿もサボりが多く出席したのは源伊陟だけ。天皇がこの日伊勢神宮に神宝などを贈ったのは、「前年の御願」だというが、その内容は残念ながら不明。頭注によれば天元二年三月のものだという。気が向いたら『大日本史料』で確認してみようか。
 十二日は、朝雨が降っている。直会が行われているのは、神事である神今食のあとのものであろうか。
 十三日には、中宮のための御読経(季御読経かも)が行われている。中宮遵子はすでに入内しているので会場は内裏の内部の弘徽殿である。中宮職の長官である大夫済時は、何か事情があったのか出席していないから、亮の実資が差配したのだろうか。

 十四日は、まず儒者たちの怠状がまた登場し、また不備であったようだ。左大臣に託されているが実資は奏上していない。太政官の奏上である官奏の担当者は大納言だったのだろうか、繰り返し藤原為光が官奏に候じている。
 十五日は、天皇が中宮のところにやってきて、中宮のための御読経の一環として論議が行われている。後半に聖天供と毘沙門天供が出てくるが、これは実資自身が行ったもののようだ。毎付きの例事という割には、この六月が初出のような気がする。それとも後に続く祇園社への奉幣が毎月のことなのか。
9月21日15時。




2016年09月22日

小説家になろう、もしくは小説を読もう(九月十九日)



 どちらから入っても同じ小説の山にたどり着くので、どっちでもいいのだろうけど、読者でしかないという立場から言えば、読んでいるのは小説を読もうの小説だと言ったほうがいいのかもしれない。とまれ、正確な数など意識したくもないほどの膨大な数の小説のようなものの中から、読める小説を探し出すのはなかなか大変である。

 当時から書籍化されたという小説も結構あったけれども、書籍化されているからといって、またどういう基準で作成されたものかもわからないランキングというものの上位にあるからといって、面白いとは、いや自分に合うとは限らなかった。結局、あらすじなどを頼りに面白そうなものを地道に探していくしかなかったのである。
 もちろん、あらすじは面白そうデあっても、本編が必ず面白いというわけではなく、最初の部分は読めても、途中から読めなくなる作品も多かった。あらすじからして意味不明で読む気にならなかったものや、第一話を開いた時点で、内容ではなく文章や、表記のあまりのひどさに、読むのをやめてしまったものもかなりの数にのぼる。どこかで、私という意味で使われていた「妾」という漢字に、「めかけ」という読み仮名が付けられていたときには、我が目を疑った。真面目に辞書引いたんだろうけど、辞書引かなきゃ読めないような漢字は使わないほうがいいって教訓だな。

 最近は、小説家になろうで小説を描いている人たちの中にも、なろうテンプレなどと言って、同工異曲の作品が氾濫していることを批判している人たちもいる。そのせいでオリジナリティのある良作が埋没しているなんて話も出てくるわけだけど、そこまで目くじらを立てる必要はなかろう。ありきたりのテーマで、ありきたりのストーリーであったとしても、文章がしっかりしていて、読んでそれなりに面白いと思えれば、無料で読んで、ダウンロードまでさせてもらえるのだから文句はない。問題は、テンプレであれ、なかれ、そんな作品を探すのが大変なところにある。

 そうは言っても、あれこれ読み続けているうちに苦手なジャンルというか、設定が出てくる。あるゲームを舞台にした小説を、あらすじに惹かれて読んでみたときには、これまで読んだことがなかったので、新鮮味があったのか非常に面白く感じられた。それで、他のものにも手を出したのだけど……。最初に読んだ作品に登場するゲームでは、レベルだとか、何とかのパラメーターだとか、この手の作品に付きもの数字を伴うデータがあまり重視されていなかったのに対して、続いて読んだ小説の多くは、先に進むほど数字の羅列が増えていき、それと同時に読む意欲もうせていった。小説を読むのは文章、ひいてはストーリーを読みたいのであって、わけのわからない単語と数字の羅列を読むなら経済ニュースでも読んでいたほうがましである。
 その手のデータを無視して読めそうなものもなくはなかったが、一部の例外を除いてゲーム関係の小説は、こちらの目的にそぐわないことが判明した。繰り返し読む気にならないのである。一度さらっと流し読みしてしまえば十分で、繰り返し熟読しようという気になれないものを、わざわざダウンロードしてまでリーダーで読む必要はない。

 ファンタジー小説は、高校時代から栗本薫の『グイン・サーガ』や、高千穂遙の『美獣』なんかを読んできたし、大学時代には『ベルガリアード物語』で翻訳物のファンタジーにも目覚めたから、ジャンル自体に抵抗はない。転生とか転移とかだって、高千穂遙の『異世界の勇士』、半村良の『戦国自衛隊』、光瀬龍のジュブナイルなんかからの発展形だと思えば忌避する理由もない。
 だけど、ゲーム小説的なレベルがどうこうというものは、苦手。ゲームの中の世界に入り込んだなんて設定も、悪くはないんだけど、ゲーム的は世界ばかりだと飽きるし、数字の羅列には耐えられない。主人公が特別な能力を持っているのも、主人公だからいいや。いいけど程度が甚だしすぎると興ざめしてしまう。ギャグやコメディだと割り切って書いてあればまだいい。でも、異世界モノのギャグやコメディは読むのが辛い。
 転生者が現代知識を生かして、あれこれ文明化を図るのもよくあるパターンだけど、何でそんなの知っているんだという違和感と、違う世界で同じものはないはずなのに何でそんなに簡単に成功してしまうのかという疑問を感じてしまうと、先を読むのが辛くなる。現代知識であれこれやるのはいいけど、試行錯誤をしてほしいのだよ。そればっかり書いているとストーリーは進まなくなるだろうけど、そういう部分が全くないと、ストーリーが単調になってしまう。

 恋愛小説も嫌いじゃないのは以前も書いた通りだが、そこに異世界とか、転生とか、余計な要素が入ってくると、途端につらくなる。恋愛がメインの話は、やはり現代を舞台にしてほしいものだ。ファンタジー小説に恋愛の要素があるとか、推理小説の味付けに恋愛の要素があるとかいうのは、うまく処理されていれば全く問題ないのだけど。

 小説には作者の願望が現れるなんて話もあって、自分が好きなもの、思い入れのあるものをうまく取り入れている作品は、魅力的になる。これもやりすぎるとただの薀蓄たれになるので、加減が大切のだけど。作者の願望ということで言えば、異世界に行っても、普通に言葉通じてしまったり、言葉が通じる魔法があったりするなんてのは、外国語学習に苦しんでいる人が多い証拠だろうか。言葉が通じなくて苦しむ主人公というのがいてもいいような気がする。でも、異世界モノでそれをやると、新しい言語を作り出さなければいけないのか。それは難しいなあ。
 好き嫌いの激しい読者で、ちょっと読んではやめ、読んではやめを繰り返しているうちに、いくつかの愛読していると言える小説を発見することができ、PDFにしてリーダーで読書を堪能している。数はそれほど多くないとは言え、そんな作品に出会えただけでも、小説家になろう、もしくは小説を読もうには存在意義がある。もちろん、我が愛読作品が、他の人にとっても面白いということは、必ずしもないだろうが、個々の読者がそれぞれに好きな作品を見つけることができれば、それで十分なはずである。
9月21日15時。



posted by olomoučan at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係

2016年09月21日

オンライン小説(九月十八日)



 ダウンロードしてきた出版社から刊行された古い小説を読むのに飽きたとき、次に立ち現れたのがいわゆるネット小説だった。それまでも存在は知っていたけれども、PC上で読むのがつからったのと、どうせたいした物はないだろうという思い込みから深入りはしていなかった。
 正確にどこでどのように発見したのかは覚えていないが、森雅裕の新作が連載されているページを発見して狂喜したこともある。ただ、どこが話の始まりかつかみきれなかったのと、画面が黒地で読みにくかったのが不満だった。とりあえず小説が掲載されている部分だけを指定してコピーし、ワードに貼りつけて、テキスト形式で保存することで、テキスト化を図ったのだけど、ものすごく手間がかかってあまり繰り返したいとは思わなかった。ブラウザ上で表示させたページをテキストで保存するという手も使ったのだけど、これも処理が厄介だった。
 ネット上には、アマチュア向けのさまざまな小説投稿サイトがあり、自分のホームページやブログで自作の小説を発表している人たちもたくさんいた。小説家が自作を発表しているのもあったかな。出版社が発売している小説の一部だけ公開しているものもあったし、電子書籍販売店のパピレスもウッピーとかいう投稿サイトを始めていた。その中には読む甲斐のある傑作もないわけではないのだろうけど、玉石混交というか、大半は石で、苦労してテキスト化してまで読みたいと思うようなものではなかった。

 それにも懲りずにあれこれ探していたら、こんなページを発見してしまった。似合わないのは十分以上にわかっちゃいるんだけど、この手の恋愛小説というかラブコメというか、嫌いじゃないんだよ。いや正直に言えば、結構好きなのだよ。SF作家でもある久美沙織の『丘の家のミッキー』も途中までとは言え読んでしまったし、集英社のコバルト文庫などの女の子向けのレーベルから出されている小説もかなり読んだ。少女マンガ買うより恥ずかしくて、人から借りて読むことが多かったのだけど。
 この手のジャンルのマンガだったらみず谷なおきの名前は思い出せるけれども、一般にこの手の作品は、印象に残りにくいのか、マンガであれ小説であれ、何を読んだのか、どんなストーリーだったのか思い出すのが難しい。娯楽のための読書なんて、しょせん読んでいる間、面白さを感じて幸せでいられればそれで十分なのだ。

 閑話休題
 このページで小説を発表している九曜という人は、プロの作家ではないようだったけど、ちょっと読んでみたらなかなか面白くて続きが読みたくなった。ただ、ブラウザ上では文字が小さすぎて目が痛くなりそうだったし、テキスト化も面倒くさい。それで、「小説家になろう版はこちら」と書かれている部分を押してみた。そしたら完全に別のページに飛んで、文字が少し大きく表示も見やすいものに変わっていた。これがいわば小説家になろうとの本格的な出会いであったのだけど、そんなに大事になるとは、いや大事というほどのこともないけど、考えていなかった。
 とまれ、ページの下のほうに、「TXTダウンロード」というのがあって、一話ごとにテキストファイルでダウンロードできるようになっていた。最初の作品は、えっちらおっちら一つづつダウンロードして、ワードで開いてコピーして一つのファイルにまとめるという作業を経てPDF化して読んでみた。途中でテキストファイルを結合するためのフリーソフトを発見したので、二作品目からはかなり楽になった。

 作品自体について言えば、初期の作品はちょっと突飛な設定によりかかり過ぎかなという気もするけれども、十分以上に読むに堪えるし、自分が出版社のヤングアダルト向けのレーベルの編集者だったら、出版の企画を出してしまうだろうと思うぐらいには完成度は高い。もちろん、ところどころ「ん?」と言いたくなる部分はないわけではないけど、それは市販される作家の作品でも同じこと。
 恐らく長編の最新作である『その女、小悪魔につき――。』が現時点でのこの人の作品の完成形なのだろう。男女それぞれの側からの一人称の語りで恋愛に至るまでの駆け引きを描き、語り手がすべてを語っているわけではないということをうまく使って作品に深みを出している。後に何かの賞を取って出版されるに至ったと聞いたときには、至極当然のことだと感じた。いや、そのときまで出版されていなかったことは見る目のある編集者がいないということなのだとまで思った。出版された単行本のほうは、こちらから買えるわけもないのだが、表紙などのイラストがちょっと邪魔で買えたとしても買ったかどうかわからない。この作品は文字で読んで想像力を働かせるだけで十分で、イメージを壊すイラストは不要である。

 今考えると、最初にちゃんと読んだ小説家になろうの小説がこの人の作品だったことは、幸せだった。ネット小説だとか、なろう小説だとか、あれこれよくわからないレッテルが張られることの多いこの手の作品だけれども、この人の文章は非常にきれいで読みやすく、普通の小説と同じで、昔から小説を読み継いできた人間にも抵抗なく読めるものだった。だからちょっと読んで、小説の体をなしていない作品の海の中から、読める読書の喜びを感じられる作品を探し続けるモチベーションとなっていて、今でも読みたい作品を発見できないときには、しばしば読み返してしまうのである。
9月19日23時。



 この作品、イラストで売るようなものじゃないと思うんだけどなあ。9月20日追記。


その女、小悪魔につきー。 [ 九曜 ]


posted by olomoučan at 06:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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