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2018年01月23日

永観三年四月の実資〈下〉(正月廿日)



 今月は前半の記事が薄いので二分割にした。途中から寛和元年である。

 廿日はまず、呼び出されて頼忠のもとへ。昨日の夕方、蔵人所の出納が使者としてやってきて、賀茂の斎院が使用する牛を貸すようにという要請を伝えたらしい。現在牛は二頭しかおらず、一頭は治療中で、もう一頭は小さくて使えそうないないという。頼忠としては、もし本当に必要なのであれば、事前に連絡があるはずだから、前もって牛を確保して飼っておいたのにと、要請の突然さに納得できないようである。
 そういうことを、返事として奏上したのに何も言われないので、おまえちょっと確認して来いと言われた実資が、内裏に出向いて蔵人藤原挙直を通じて事情を奏上したところ、藤原元命が、昨日、第一の人の牛を斎院の牛車に使うのが例で、それができない場合には、次に高い地位の公卿の牛を使うと言っていたから、そちらに連絡したんだという返事が返ってきている。なんかいい加減な答えに聞こえてしまうのは、天皇とその近臣たちに対する偏見だろうか。

 廿一日は、参内すると、天皇が清涼殿で馬を見る儀式を行っている。今回は馬に乗る女官に与える褒美としての馬である。左右の馬寮から三頭ずつ出されたようだが、右馬寮の馬が選ばれている。実際に走らせたのかどうかはわからない。行間の補注に「女の騎馬を覧ずるの後、左右の馬寮の十列及び二坊の御馬等を覧ず、臨時の仰事なり」とあるから、女官が馬を走らせるのを見た後に、左右馬寮に競馬をさせるなどしたようだ。これも臨時に思い付きで行われたことのようである。
 賀茂祭の前々日であるからか、天皇の身辺の警備などを厳重にする警固が始まっている。一般には前日から行われることが多かったようである。実資が特に批判していないということは、間違いではないということであろう。

 廿二日は、誰から聞いたとも書かれない伝聞で、摂津国に逃げていたはずの正月の傷害犯左兵衛尉藤原斉明が反対方向の近江国で惟文王によって弓で射殺され首を取られたことが記される。素直につかまっておけば、死刑の判決が出ても流刑になっていた平安時代中期だけれども、激しく抵抗すると殺されることになるのである。

 廿三日は、賀茂祭である。実資も頼忠のところに寄った後、出かけているが、憚るところがあるとして境内には入っていない。妻のの出産のことであろうか。未の時というから午後早い時期に帰還しているのは、激しい雨が降ったせいだろうか。
 実資自身は参内していないので伝聞だが、祭使に選ばれた左大臣源雅信の息子の時中が突然霍乱を起こして祭使を務められなくなったというので、平親信が代役となっている。他にも内蔵寮からの祭使も代理が務めているし、以前実資が代理ばかりでどうしちまったんだと嘆いた状況はあまり変わっていない。ただし内蔵寮祭使の右少将藤原信輔の件は事前にわかっていたようである。理由は忌日なので、最初から引き受けるなよという話である。実資は祭使のところに摺袴を送っているが、送り先が誰なのかはよくわからない。

 廿四日は、陸奥守の藤原為長から馬が献上されている、ただしそのことを記した文書には、四頭献上すると書かれていた。陸奥国から都に上る途中の上野国で強盗に遭い二頭は射殺され、一頭は奪われたのだという。
 馬好きの花山天皇は、今日すぐにその馬を見ると言い出したけれども、実資が、警固を行っている間に天皇が馬をみるなんてことは前例がないので、今日見るなら警固の体制を解いてからにしたらどうだと助言をしている。それに対して天皇は、それでも見ると言って強行している。他にも左右の馬寮の馬も見たようである。献上された馬は、天皇の目にいれた後左馬寮のものになっている。
 内裏を退出して、上皇の許に出向くと、平季明が献上してきた銭のうち五十貫を亡くなった典侍頼子の家に持っていくよう命じられている。

 廿五日はまた二日分の休暇願いを出している。休みとは言っても参内しないだけで、頼忠や円融上皇にはあれこれ使われているのだけど。軽い穢れのための物忌で休むときには、参内はしない方がいいようだが、外出して頼忠のところに行くするのは問題ないようである。軽い重いの区別とか境目とかが、当時の人ならぬ我々にはわからないのだ。当時の人でもわかっていなかったり、無視したりしていた人もいそうではある。
 とまれ、頼忠のところであれこれ話すついでに、昨日の陸奥国から献上された馬の話になって、頼忠は、延喜・天暦、つまり醍醐天皇や村上天皇の時代には、陸奥の国司の献上してきた馬は留めることはなかったと語っている。同席していたらしい式部丞の藤原為時が、天皇の意向を読んでそういうことになったと説明し。頼忠は天皇の意向なら仕方がないとなんだか諦め気味である。
 その後、上皇の許に出向いて候宿するのだが、内裏に準じる場所だからか、穢れが丙になったから参入したんだといいわけめいたことを記す。甲の穢れが一番重く、丙が一番軽いと考えていいのかな。

 廿六日は、早朝退出して「堀河に詣づ」とあるのが問題である。『小右記』のこの辺りで「詣づ」が使われているのは圧倒的に「室町に詣づ」が多く、「参る」ではないところに意図があるはずなのだが、よくわからない。五月の記事に堀河に行って小児を見るとかいうのがあったことを考えると、堀河の辺りにも室町と同じで実資の家族、親類にあたるような人が住んでいたのかもしれない。

 廿七日は、参内すると内裏で怪異が起こっている。宜秋門に置かれていた右衛門府の官人の詰所である陣の前の桜の木に水鳥が群がっていたというのである。陰陽師に占わせたところ、「盗・兵・火事・疫病」というろくでもない結果が出ている。そのせいではないだろうけれども本日改元である。永観という年号も短命で、わずか二年ほどで終わり、寛和が始まったのである。代替わりの改元と考えていいのかな。いずれにしても、占いの結果は不吉だけどね。
 伝聞で、大納言の藤原為光と、三位中将の藤原義懐が右近の馬場で競馬を行ったという話が記される。為光はともかく。義懐が改元の日なのにそんなことでいいのかと思わなくもないが、実資の書きぶりもあっさりしたもので、改元の手続き自体はそれほど重要ではなかったのかもしれない。

 廿八日は、早朝内裏を退出しているが、女児が生まれたのは寅の時で、お産には間に合わなかった。急いで向かったけれどももう終わっていたという。生まれそうだという知らせが内裏に届いたのだろうか。お産が行なわれたのは右近少将信輔の家、自邸では出産しないのである。この頃の実資は妻の父の源惟正から伝領したとされる二条第だから、実家であるはずなんだけどね。源遠資の妻とか、左衛門尉の藤原為長の妻とかが手伝いに登場しているが、出産というのは女性が活躍する場なのである。生まれた赤ちゃんの産湯に使われたのは鴨川の水だという。
 この日左大臣が堂を供養したという話も書かれるのだが、これは大日本古記録の頭注によれば仁和寺の西の堂だと言う。それから中宮の遵子から連絡が来ている。お産のことが重要で、この二件に関しては細かいことは記されていない。

 廿九日はまず六日分の休暇申請である。これはお産のことによるのだろうか。頼忠からは、昨日は仏事の初めだったのでお祝いの使者は送らなかったという使者が来ている。「穢気を避けんが為に」という辺り、お産は穢れをもたらすものと考えられていたのだろう。
 この日は村上天皇の中宮で冷泉天皇と円融天皇の生母である藤原安子の忌日なのだが、藤原義懐が官人たちを引き連れて賀茂社に参拝したという。国忌で、つまり仏事が行なわれていて、廃務になっている日に、神社に出かけるというのはどんなものかねというのが実資の感想である。国忌の儀式自体は寺で行われてることが多く必ずしも公卿が参列するというものではないのだけど。

 卅日には、暇を見つけて実頼から伝領した御子小野宮の邸宅に出向いている。中宮遵子の退出先として二条第を明け渡すのでその準備を始めたということであろう。
 藤原義懐からも出産のお祝いの使者が来ている。その後、三日目の夜ということで「産婦の前」の産養いの祝いが行なわれている。奇数日に行なうようで、このあと、五日目、七日目にも繰り返される。この祝いは、男方と女方に分かれて宴の食事などを準備するようである。
2018年1月20日23時。







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