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2017年09月08日

大学無償化(九月五日)



 知らないうちに、進学率が上がりほとんど義務教育と化した高校の無償化が進んでいるらしい。県立高校だったので大した学の学費を払ったわけではないし親が払ってくれたからお金が架かるという実感はなかった。それでも高校に上がったときには、それまで無料で配布されていた教科書が有料になり、英語などの辞書の購入も求められたことで、義務ではなく自分の意志で勉強を続けるのにはお金が必要なんだということは理解できた。
 だから、高校で真面目に勉強するようになったというつもりはない。小学校、中学校を通じて自宅でも勉強することが習慣になっていたからこそ、高校でもそれが継続できたのだし、受験勉強が本格化した後も、徹夜で勉強なんて無茶なことはしなくても、それなりのレベルの大学にも合格することができたのだ。もう30年近く前の話だから、偏差値も変わっているだろうけれども、実際に選んで入った大学は、模試なんかで出る自分の偏差値よりは下のレベルの私立大学だった。

 大学を選ぶのに偏差値で選ぶというのに反感を抱いていたし、田舎の国立至上主義にもイラついていたので、勉強したいことの学べるその大学のその学部を選んで進学したのだった。お金は親に出してもらったけど、大学でも大学の授業だけではなく、学内の研究会にも所属して勉強したし、学会に参加したこともある。アルバイトもしたけれども、手に入れたお金の大半は酒代と本代に消えていた。
 自分が大学であれこれ勉強したことを自慢するつもりはない。当時の大学生というのは、勉強しない学生もいたけれども、多かれ少なかれ、これを勉強したいという目的意識を持って大学に入った学生も多かったので、勉強する学生は自分で勉強の場を見つけて、カリキュラム以上の勉強をするのが普通だったのだ。

 さて、そこで考える。現在の政権では大学の国費負担による実質的な無償化を検討しているらしいが、高校の完全無償化も含めて、それは本当に必要なことなのだろうか。高校の無償化に関しては、学費の安い公立の高校に入れる子供の多くが、あるていど裕福な家庭の子供たちばかりになっていて、経済的に問題のある家庭の子供が学費の高い私立高校に行かざるをえなくなり、さらに経済的に苦しくなっているという現状があるらしい。
 その結果として、大学も貧しい家庭の子供が通えるのは、学費が高い私立大学しかないという面があるらしく、以前、どこぞの新聞のネット上の記事でお涙ちょうだいの貧しい家庭の子供にも学ぶ権利を与えるべきだとかいう記事を読んだ記憶がある。その記事に対してコメントは避けるが、大学の無差別の無償化は絶対にやめたほうがいい。ただでさえ文部省手動の元、教育という名のビジネスになっている私立大学、とくにレベルの低い私立大学が、新たな貧困ビジネスとしなるのは目に見えている。

 教育において、貧困家庭(これが正しい言葉なのかどうかはわからないが)に対して支援するべきなのは、高校でも大学でもない。小学校、中学校である。小学校で毎日自宅で予習復習をして翌日の授業に臨むという習慣を身につけられた子供であれば、塾なんぞに通わなくても公立の高校に合格できる程度の学力はつけられるはずだし、高校でも習慣のように勉強していれば、東大は難しいにしても、地方の国立大学ぐらいなら楽に合格できるはずだ。こういう学生に対してであれば、高校大学の学費を完全に国費で負担するのに反対する気はない。同世代で最高のレベルとまではいえなくても、自ら勉強する能力があるわけだから、大学での学習を実のあるものにしてくれることが期待できる。
 しかし、試験などあって無きが如しといわれる底辺の大学にしか入れないような学生に対して税金をつぎ込むのは無駄以外の何物でもない。その手の大学にしか合格できないということは、小学校から高校までの12年間、まともに勉強していないということである。そんな人間が、大学に入ったからといって人が変わったように勉強し始めるとも思えない。高校でも同様である。

 だから、もし本気で、経済的に問題のある家庭の子供が、それが理由で進学できないという問題を解消するのであれば、繰り返しになるが、お金をつぎ込むべきは初等教育である。公立の小学校の先生の数を最低でも倍にし、一クラスあたりの生徒の数を減らすか、クラス担任を二人にするかして、勉強ができない、成績が悪いという意味ではなく、勉強しようとしない子供に勉強する習慣をつけさせる指導をする必要がある。
 学校の授業を集中して聞くのは当然だが、自宅でも自主的に勉強する子供を育てる必要がある。経済的に問題があるなら、他にすることがないから勉強をするという方向に持っていけると思うのだけど。その自宅で勉強するための教材を提供すればいい。もしくは放課後に学校に残って勉強する許可を与えればいい。教員の数が増えれば監督することもできるはずである。

 現在の日本の教育内容であれば、小学校の一年生から勉強する習慣をつけていければ、塾なんぞに通う必要はない。そして、そんな子供たちであれば、高校受験で底辺の私立にしか入れないということはないだろうし、大学受験でもかつて駅弁大学と揶揄された地方の国立大学ぐらいだったら余裕で合格できるだろう。そのレベルに到達できないのなら、わざわざ大学に進学する必要もあるまい。
 こうすれば、所謂貧困家庭の子供たちであっても、裕福な家庭の子度たちと同じ土俵で勝負できる。その結果、一定レベル以上の高校大学に入った子供たちに、親の年収によって奨学金を出せば、効果的な国費の使い方ということになる。今の一律誰にでもどこにでも垂れ流すように金を出そうというのは、どぶに捨てるようなものである。

 文部省が、本当に日本の大学のレベルの全体的な上昇を狙っているのであれば、天下り先の確保のために認可した底辺の私立大学をすべて廃校にして、大学生の数を減らすことだ。何の競争もなく、大した苦労もせずに入った大学であれば、しかも学費も国が負担してくれるとなれば、辞めるのにも抵抗はないだろうし、勉強しなくても卒業できてしまうのだから、大学生と呼ぶにふさわしい知識の持ち主が生まれてくるとは思えない。
 まあ、天下り先にはなりそうもない小学校に己のことしか考えていない文部官僚が、天下り先の大学へ以上にお金を出すとは思えないけど、大学の無償化はこれ以上ないレベルでの愚策だと断言しておく。
9月7日23時。





posted by olomoučan at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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