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2021年03月23日

チェコの君主たち11(三月廿日)



 1306年のバーツラフ3世の死によって、400年以上の長きにわたって、チェコの支配者として君臨してきたプシェミスル家は、男系で断絶した。庶子の家系で、この時点ではまだ生き残っていた家はあったようだが、嫡系ではなく継承権はなかったようだ。それに加えて、バーツラフ二世の子か、三世の子かは知らないが、幼少の男子が残されていたが、山中の修道院に追放され、後に暗殺されたという伝説もある。モラビアのビシュコフの近くで、実はこんな伝説があるという話を聞いたのを覚えているけど、チェコ各地に同じような伝説が残っているに違いない。
 それはさておき、チェコの君主の地位は、当時の慣例に倣って、貴族の選挙によって選ばれることになった。継承権を主張できるのは、プシェミスル家の王の娘たちの配偶者、もしくは、王妃の新たな配偶者だったようだ。そして、このときチェコの貴族たちが選出したのは、バーツラフ2世の娘で3世の妹のアナと、同年に結婚したばかりのインドジフ・コルタンスキーだった。ケルンテン公のハインリヒということになるのかな。

 しかし、当時神聖ローマ帝国の皇帝だったハプスブルク家のアルブレフト1世は、この選出とチェコ王への即位を認めず、ボヘミアなどからなるいわゆるチェコの王冠領を君主を失った空領として、自らの息子であるルドルフに与えてしまう。チェコの貴族たちに受け入れやすくするためか、ルドルフはバーツラフ2世の王妃だったエリシュカ・レイチカを妻として迎え入れている。
 ルドルフは、プシェミスル家の断絶によって、弱体化した王権の強化と、低下したヨーロッパの政治上の地位の向上に尽力したが、その結果「クラール・カサ」というあまりありがたくないあだ名を頂戴したという。「カサ」というのは、お城の見学などに行くと、入場権を買う場所のことを指す言葉として使われているから、お金の管理に関る言葉とみてよかろう。つまり「出納王」とか「徴収王」とか呼ばれていたということだろうか。お金集めに腐心していたと見える。
 一方で、チェコの貴族たちの中には、プシェミスル・オタカル2世の野望をくじき、敗死させたルドルフ1世の直系の孫であるルドルフの即位に賛成しない一派があり、内乱となった。即位の翌年の1307年には反対派の貴族を、西ボヘミアのホラシュデョビツェに押し込めることに成功し、後一歩で反乱を鎮圧することができるところまで行ったのだが、陣中で没してしまう。当時は毒を盛られたとか、妻のエリシュカとの房事に耐えられなかったとか噂が流れたらしいが、実際には単なる病死だったようだ。赤痢だったかな。

 その結果、一度はチェコの王位につきかけたインドジフ・コルタンスキーが再びチェコの王位を求めて認められる。皇帝アルブレフト1世がこの即位を認めたのかどうかはわからないが、翌1308年に皇帝が没した結果、即位したルクセンブルク家のハインリヒ7世によって認められたのかもしれない。ハインリヒ7世は、インドジフがチェコの王座から追われるのにも関っているので、そうだとすればなかなか皮肉である。
 チェコの貴族たちによって王に選出されたインドジフだが、チェコの貴族たちを満足させられるような能力はなく、侮りを受けることになる。このままでは、チェコの復興は難しいと考え、不満をためた貴族たちは、王の首を挿げ替えることを考え、候補者の選定を始める。白羽の矢が立ったのは、皇帝ハインリヒ7世の息子のヤンだった。継承権を与えるために、プシェミスル家のバーツラフ2世の娘で未婚だったエリシュカと結婚させた上で、チェコ王として迎え入れたいというチェコ貴族の提案を、ハインリヒ7世が受け入れた結果、チェコ史上に燦然と輝く全盛期を作り出したルクセンブルク朝がチェコの王位を手に入れたのである。チェコの貴族たちの望みはかなえられたといっていい。

 インドジフ・コルタンスキーは再度皇帝の意向で、手に入れたチェコの王位を失うことになってしまった。プシェミスル家のアナは子供のないまま1313年に没し、後妻との間にも王子は生まれていないるから、インドジフがチェコの王であり続けていたとしても、そのゲルツ家出身の王は一代限りということになったはずだ。
 意外なのは、後に長きにわたってチェコを支配することになるハプスブルク家の初代の王が、足掛け2年、実質1年ほどしか王座についていなかったという事実である。チェコ語では、数字をつけることなく、「ルドルフ・ハプスブルツキー(ハプスブルク家のルドルフ)」と呼ばれているのもなんだか不思議である。

 ハプスブルク家の君主@
  初代 ルドルフ・ハプスブルツキー 1306-1307年

 ゲルツ家の君主
     インドジフ・コルタンスキー 1307-1310年
     (1306年に一時即位した可能性あり)

 今回取り上げた時代は、日本では鎌倉末期ということになるのか。ルクセンブルク家のヤンについては、改めて次回取り上げる。
2021年3月21日24時。










2021年01月05日

チェコの君主たち10(正月二日)



 久しぶりに思い出したので、チェコの王様たちのお話を。今回でプシェミスル家最後の王、バーツラフ3世までたどり着けるはずである。

 プシェミスル・オタカル2世が。ハプスブルク家のルドルフ1世との争いに負け、モラフスケー・ポレの戦いで命を落とした後に残されたのは、まだ幼少のバーツラフ2世だった。当時7歳だったバーツラフは、父の同盟者だったブランデンブルク家のオットー5世によって幽閉されてしまう。チェコの貴族たちの要求が通ってバーツラフが解放されてチェコの王位についたのは5年後の1283年のことだった。
 御年12歳のバーツラフがすぐに親政をとるというわけにもいかず、実権を握ったのはバーツラフ2世の母クンフタの愛人ファルケンシュテインのザービシュだった。この男は、性的な魅力で女性権力者に取り入って出世し実権を握った人物とされる。日本史上の道鏡みたいなものだといえばわかりやすいか。ザービシュの名前をポルノ映画の俳優が芸名とするぐらいにはよく知られた存在らしい。

 とまれ、バーツラフが成長するにつれてザービシュを疎ましく思うようになるのは当然の話で、特に1285年にクンフタが亡くなった後、ザービシュの地位は不安定なものとなり、1289年にはバーツラフの命令で捕らえられ、一年半後に処刑されている。これで名実共にチェコの君主となったバーツラフ2世は、父プシェミスル・オタカル2世と同様に有能で野心的な君主であることを示し始める。

 南方のハプスブルク家のオーストリアは避けて、バーツラフ2世の領土拡張の対象となったのは東方だった。まず1300年に、何度目かの試みでポーランド王位の獲得に成功する。これは武力で成し遂げたのではなく、最初のハプスブルク家から迎えた妻が亡くなった後、后としてポーランド王プシェミスウ2世の娘エリシュカ・レイチカを迎え入れたことで達成された。
 当時のポーランドは大分裂時代とも言うべき、国内を統一する王のいなかった長い時代が終わり、プシェミスウ2世によって再統一されたばかりで、その死後に王権の強化を嫌う貴族たちによって都合のいい王として選出されたのがバーツラフ2世だったのだ。おそらくバーツラフ2世の側からの売り込みもあったのだろうけど、貴族たちが国内で実際の政を摂るということで話がついていたのだろうと思われる。

 同様のことはハンガリーでも起こり、1301年にアールパード朝が断絶したときに、母クンフタがハンガリー王の娘だった関係で、貴族たちの決断によってバーツラフ2世に王位が提供された。バーツラフ2世はそれを息子のバーツラフ3世に与え、プシェミスル家がチェコ、ポーランド、ハンガリー三国の王位を占めることになった。武力で征服したわけではないので、三国に君臨したというと誇張になってしまうのだろうけどさ。
 バーツラフ2世の治世は、比較的安定したとされるが、それを支えたのが、13世紀末にクトナー・ホラで発見され、採掘が始まった銀である。この銀でプラハのグローシュと呼ばれる新たな銀貨を鋳造することで通貨制度の改革が行われた。その結果が、ポーランド、ハンガリーの王位の獲得であり、文化的にも豊かで安定していたとされるバーツラフ2世の治世なのだろう。

 残念ながらその安定した時代は長続きせず、バーツラフ2世は1305年に結核で亡くなってしまう。跡を継いだのは、まだ十代半ばだった息子のバーツラフ3世である。参考にしている子供向けの絵入りの本によれば、即位当初は典型的な放蕩息子で酒色におぼれる生活をしていたらしいが、やがて立ち直り君主としての職務を勤勉に果たし始めたという。放蕩を続けていれば暗殺されることもなく、プシェミスル王朝は、力を落としながらも存続した可能性もあったのかも知れない。
 妄想はともかく、バーツラフ3世は即位した1305年の時点で、負担にしかなっていなかったハンガリーの王位を手放すことを決める。1306年には、ポーランドで反乱が起こり、鎮圧に向かうために軍勢を集めたオロモウツで暗殺されてしまう。誰がどんな目的で暗殺したのかは現在もはっきりわかっていないようだ。聖バーツラフ大聖堂前のバーツラフ広場が暗殺の舞台だと思い込んでいたのだが、実際には建物の中でくつろいでいるところを襲われたようだ。

 かつて高校で世界史を勉強したときには、神聖ローマ帝国には選帝侯なるものが存在して皇帝が選挙で選ばれたというのを知って、妙に感心したものだが、王を貴族たちの選挙で選ぶというのは実はこの辺りではよくある話だった。王朝の断絶時には貴族たちの選挙でどこの国から新たな王を連れてくるかが決まるし、選挙自体が分裂して内戦になることもあるけど、後継者間の争いが起こったときにも貴族たちの意向で後継者が決まることがある。
 ということで後継者のないまま亡くなったバーツラフ3世の死によって、プシェミスル王朝は断絶し、誰を次のチェコの王座にすえるかを巡って国内外で争いが巻き起こることになる。

 プシェミスル家の君主I
  29代 バーツラフ(Václav)2世 1283〜1305年
  30代 バーツラフ(Václav)3世 1305〜1306年

 プシェミスル・オタカル2世の亡くなった1278年から、バーツラフ2世が即位する1283年までの期間は空位扱いでいいのかな。
2021年1月3日24時。











2021年01月03日

聖ボイチェフ2(十二月卅一日)



 前回ボイチェフ=アダルベルト(アルベルト)が成り立つことを確認した際には、チェコ語のウィキペディアで聖ボイチェフのことを調べたりはしなかったのだが、今回確認したら、日本語版にも「プラハのアダルベルト」で立項されていた。それなら普通の百科事典にも出ているのではないかとジャパンナレッジでも検索してみた。
 数ある辞典、事典のうち、聖ボイチェフが見出し項目として立てられているのは、『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)、『世界人名大辞典』(岩波書店)の三つで、『日本大百科全書』は「アダルベルト」、『世界大百科事典』は「ボイチェフ」、『世界人名大辞典』は「アダルベルト(プラハの)」という見出しの立て方をしている。つまり、日本でも全く無名の存在というわけではないようだ。生没年に関して、没年は三つの事典とも、997年で一致しているが、生年は、「955年ごろ」とする『日本大百科全書』に対して、他の二つは「956年ごろ」としている。大差はないか。

 とまれ、『日本大百科全書』の記述を基に、チェコ史側からの解説を加えてみようと思う。最初に「ボヘミア貴族スラブニク家出身の聖職者」と書かれているのだが、10世紀後半のボヘミアにおいて、君主権を確立しようとしていたプシェミスル家と争いを続け、最終的には996年に族滅されたスラブニーク家の出身であることが、この一見聖職者である聖ボイチェフが、世俗の権力争いと無縁ではなかった原因となっている。
 次に「983年プラハ司教となり」とあっさり書かれているが、プラハに司教座が設置されたのは975年のことで、ボイチェフは第二代目のプラハ司教なのである。ボヘミアを支配していたプシェミスル家はすでに大モラバの庇護の基にあった9世紀後半にはキリスト教に帰依していた。9世紀末には大モラバの、ビザンチンのキリスト教を離れて、東フランクの、ローマのキリスト教に鞍替えし、ボヘミアはマインツの司教の管轄とされていた。

 本拠地に、つまりプラハに司教座を設置したいというプシェミスル家の宿願を達成したのはボレスラフ2世で、初代のプラハ司教に就任したのはザクセン出身のデトマル(もしくはティエトマル)だった。デトマルは、マグデブルグで修行した後、プラハに移り、ボレスラフ2世に仕えていたようだ。その没後二代目のプラハ司教となったのが聖ボイチェフなのである。
 聖ボイチェフが選ばれたのは、デトマルと同じくマグデブルグで学んだとか、同じベネディクト会に属していたとかいう事情もあっただろうが、プシェミスル家の権力の伸長を望まない勢力の工作があった可能性も高い。スラブニーク家と対立していたプシェミスル家のボレスラフ2世が、聖ボイチェフの司教就任を望んだとは思えないし、この司教就任がプシェミスル家とスラブニーク家の対立を激化させたであろうことも容易に想像できる。

 それが『日本大百科全書』に記される「有力な貴族勢力と対立し、988年辞してローマ近傍の修道院に入った」事情なのだろうが、「992年教皇ヨハネス15世により再度プラハへ派遣され」ることになる。これがチェコの政情を不安定化させたことは間違いなく、995年のスラブニーク家の族滅事件の直接の原因のひとつになったと考えて問題はあるまい。聖ボイチェフ自身は、前年の994年に「同地での布教を困難とみて、ハンガリー、ついでポーランド、プロイセンへ移り、宣教した」おかげで無事だったが、スラブニーク家で生き残ったのは、もう一人だけだったらしい。
 スラブニーク家の生き残りは、ポーランドの庇護の下に入るのだが、当時ポーランドの君主となっていたのは、プシェミスル家のボレスラフ1世の孫で、ボレスラフ2世の甥に当たるボレスワフ1世だった。国内情勢を安定させ国外に勢力を拡大したボレスラフ2世の死後、息子達が権力争いを繰り広げる中、ボレスワフ1世は、スラブニーク家の生き残りをつれてボヘミアに侵攻するなど介入を繰り返し、11世紀初頭には一度はチェコの君主の座につくのである。

 話を戻そう。ポーランドに移った聖ボイチェフは、異教徒だったプロシア人への布教を試み、その途上で異教の禁忌を犯したことをとがめられて殺されてしまう。それが997年のことで、その二年後の999年には、列聖を受けている。同年には、奇しくもスラブニーク家の族滅を行ったボレスラフ2世が没しており、この列聖にも政治的な意図が読み取れそうな気がする。
 聖ボイチェフの遺骸はポーランドのボレスワフ1世によってグニェズノに葬られ、そのおかげもあってか、列聖の翌年である1000年に、この地に大司教座が設置されることになる。チェコを混乱させたスラブニーク家の聖ボイチェフを世俗的にも宗教的にもうまく利用して、地位を高めることに成功したのが、ボレスワフ1世だったということになろうか。

 その事実が許せなかったのか、ボレスラフ2世の孫でプシェミスル家第二の盛期を築いたブジェティスラフ1世は、ポーランドに侵攻しグニェズノを占領することに成功すると、聖ボイチェフの遺骸をプラハに持ち帰ってしまうのである。そして、その遺骸は、チェコ最初の聖人であるプシェミスル家の聖バーツラフが葬られているプラハ城内の聖ビート教会に葬られることになる。敵対した貴族家の出身とはいえ、チェコの聖人はチェコにという考えがあったのか、ポーランドの宗教的な地位を貶める目的があったのか、その辺はよくわからない。

 以上が、すでに書いたことも含めて、聖ボイチェフを中心としてみたチェコの歴史ということになる。大晦日にキリスト教関係者の話。聖ボイチェフを列聖したのが時の教皇であるシルベストル2世だからいいということにしよう。
2021年1月1日20時。












2021年01月02日

聖ボイチェフ1(十二月卅日)



 オロモウツに戻ってきて、ブログの管理ページを開けたら、コメントが三つ増えていた。最近目にしなくなっていた偽ブランド販売ショップの宣伝めいた書き込みが、かなり昔の記事についていた。それで今朝、増えていた三つのコメントも、同じようなものかと思ったら、以前書いた日本を訪れた最初のポーランド人であるアルベルト・メンチンスキ神父に付いての記事につけられたコメントで、以前コメントをいただいたにっしゃんさんからのものだった。前回コメントをいただいたときもこんな書き出して新たな記事を書いたような気がする。

 コメントは三つあって、二つは以前もコメントを頂いた「メンチンスキ神父の謎」につけられたもので、質問に答えておくと、パンフレットは、クラクフにあるイエズス会系の大学でもらってきたもので、恐らく長崎で印刷されたものの一部が、出身地のクラクフのイエズス会に寄付され、傘下の大学で配布されていたということなのだと思う。どれだけの数がすでに配布されて、どれだけ残っているのかは当然不明だけれども、大学以外にも、イエズス会関係の施設に置かれていて日本の人、日本に関心のある人が見学に来たら配っているのではないかと想像する。
 にっしゃんさんはポーランド語もできる方のようで、ポーランド語の記事も紹介していただいたのだけど、読もうにも読めなかった。ポーランド語は耳で聞くと、ところどころわかるような気がするのだけど、目で見ると表記体系の違いからか、もう完全にお手上げである。ポーランド語よりは聞き取れるスロバキア語の場合には、逆に目で見たほうがわかるような気がするから不思議である。ポーランド語の記述の仕方を覚えればいいのだろうけど、怠け者なので今更勉強したくない。

 ところでコメントには、パンフレットに書かれていた「メンチンスキ」というカタカナ表記でなく、「ミェンチンスキー」という表記が使われている。こちらのほうが、ポーランド語の発音に近いのだろう。とするとポーランド語の「ę」は、チェコ語の「ě」に「n」をつけたような発音と考えていいのかもしれない。こういう似ているけど、微妙に違うところが多いのが、自分が勉強して身につけた以外のスラブ語を使おうとしたときに困る点の一つである。スラブ語をいくつも勉強したと言う人も苦労しているに違いない。

 三つ目のコメントは、時間的には最初かもしれないけど、「メンチンスキ神父考再び」という記事につけられていた。この記事自体が、頂いたコメントに触発されて書いたものだが、今回書かれていたのは、アメリカから始まる、日本とポーランド、過去と現在を結ぶ壮大な話で、こんな経験をされた方にあんな与太話を読ませてしまったのかと申し訳ない思いがする。

 ということで、今回はミェンチンスキー神父のことではなく、ポーランドについては詳しくないし、ポーランド語も読めないからこれ以上かけることもないのだけど、ポーランドでは「ヴォイチェフ」という名前が、ドイツやイタリアなどではアルベルトになってしまうきっかけを作ったチェコの聖人、聖ボイチェフについての文章を記すことにする。この聖ボイチェフ、チェコの貴族家の出身ではあるけれども、ポーランドとの関係も深く、チェコだけではなくポーランドの守護聖人にもなっているのである。

 例によって枕が長くなって、本編はまた明日ということになりそうだが、名前の話だけをしておくと、ボイチェフがアダルベルト(アルベルト)と呼ばれるというのは、ヤン=ヨハネ、パベル=パウロのような語源を同一にする名前が、それぞれの言葉で微妙に違う形になっているものとは趣をことにする。チェコの聖ボイチェフが、外国で聖アダルベルトと呼ばれることはあっても、ドイツのアダルベルトがチェコでボイチェフと呼ばれることはないのである。
 チェコのボイチェフがアダルベルトと呼ばれるようになったのは、堅信を受けた際に堅信名として、師匠のマグデブルグのアダルベルトの名前をもらったからである。以後、キリスト教会の中では本名のボイチェフではなく、アダルベルトと呼ばれるようになる。そしてチェコ語版のウィキペディアによれば、アダルベルトの短縮形であるアルベルトや、アルブレフトと呼ばれることもあったようだ。ハンガリー語だとベーラになるらしいし、知らない人には誰が誰やらさっぱりである。
 ミェンチンスキー神父が、キリスト教会の中でアルベルトと呼ばれたのも、この聖ボイチェフの故事に倣うのである。アダルベルトではなくアルベルトなのは、アダルベルトが古い形で嫌われたのかもしれない。
2020年12月30日24時。










2020年08月18日

チェコの貴族4フロズナタ(八月十五日)



 前回、チェコの貴族家について書いたのは、一年半以上も前のことで、あのときは、次こそジェロティーン家だとか書いたのだが、このモラビアを代表する大貴族家について書く前に、参考にする『貴族家事典』の前のほう、つまり時代が古いほうに登場する貴族家から続けよう。チェコの国家の黎明期にプシェミスル家と勢力争いをしていたとも言われる、族滅を受けたスラブニーク家やブルシュ家が出てくるかと思っていたのだが、史料で確認できることが少ないのか取り上げられていない。

 それで、中世前期に成立したとされるいくつかの貴族家の中で、貴族家としてだけでなく、名前としても名字としても聞いたことのなかったフロズナタを取り上げることにした。この家は12世紀の初めに記録に登場し13世紀前半には、本家が断絶するという短い歴史しか持たないが、その歴史はなかなかに劇的である。
 フロズナタ家の歴史は、モラビアのオロモウツに置かれていたプシェミスル家の分家から出てボヘミアの侯爵の地位を手に入れたものの短命に終わったスバトプルクの治世下で起こったある事件に縛り付けられている印象である。その事件は、1107年に即位したスバトプルクが翌年に実行したブルシュ家の族滅である。このとき子供も含めて、全部で300人ものブルシュ家の男女が殺されたという。スバトプルクはブルシュ家の生き残りが放ったとされる殺し屋によって1109年に亡くなっているから因果応報というべきか。

 とまれ、このブルシュ家の虐殺の実行犯の一人にヘジュマンという名前の人物がおり、この人が実質的なフロズナタ家の始祖とされる。ヘジュマンは報酬として、プラハの北方のラベ川沿いのリトムニェジツェに所領を得るのだが、贖罪の気持ちがあったのか、弟のビレームとともに中央ボヘミアのチャースラフの近くのビレーモフに修道院を設立する。以後、ヘジュマンだけでなく、その妻のプシビシラバと息子のフロズナタも、十字軍でキリスト教徒の手に一時的に戻っていたエルサレム巡礼を果たすなど、フロズナタ家はキリスト教に深く帰依することになる。
 ヘジュマンが1130年以前になくなった後、後を継いだのは息子のフロズナタ@だった。ボヘミア王ブラディスラフ1世の下で、現在ではポーランド領となっているクラツコの城代を務めており、その間にポーランドの貴族たちとの関係を深めたようである。二人の息子のうち一人は、ムニェシュコとポーランド王の名前をもらっている。

 後を継いだ息子のフロズナタAは、巻き毛のというあだ名で知られるが、弟とともに後継者に恵まれず、フロズナタ家は、フロズナタ@の弟セゼマの子、フロズナタBが継承することになる。このフロズナタがこの家で最も有名であると同時に、最後の当主となった人物である。セゼマのほかの子供たちを祖としていくつかの貴族家が誕生しているので、フロズナタ家の本家は断絶するが、家系は後世に続いているらしい。
 さて、そのフロズナタBだが、ポーランド貴族との関係を生かしてクラコフで教育を受けている。姉がポーランドの貴族に嫁ぐのに同行したという伝説もある。しばしはテペルスキーという形容詞をつけて呼ばれる。それは、所領の一つであった西ボヘミアのテプラーに修道院を創設して、後に自らも修道師として出家したからである。テプラーの修道院は、十字軍に参加すると誓ったのに参加できなかったことに対する贖罪として1197年に建てられたと言われる。そのためにローマ教皇から許可を得るためにローマまで出向いたというから、敬虔なキリスト教徒だったのである。さらに1200年ごろにはホテショフに女子修道院まで設立している。

 伝説によれば、1217年、病で死を目前にしたフロズナタは、ドイツの盗賊騎士団によって身代金目当てに誘拐され、監禁されていたホヘンブルクの城で亡くなる。遺体はテプラーの修道院に運ばれ、ホテショフの修道院で修道女として亡くなった姉のユディタとともに葬られたという。これで終わっていれば、伝説は伝説のままだったのだが、第二次世界大戦後の共産党政権によって、テプラーの修道院は廃止され、建物も接収され、軍の施設として利用された。
 その際、フロズナタの遺骨などもゴミとして処分されそうになったのを、元修道士が機転を利かせて、司令官にお酒と交換してもらい、テプラーにある教会にひそかに持ち込んで保管したのだという。共産党政権も、修道院は廃止し、教会の活動にも制約をかけたが、教会そのものを廃止することはできなかった。そのおかげでフロズナタの遺骨は現在まで残っているのである。

 さて、北ボヘミアから西ボヘミアにかけて大きな所領を有していたとはいえ、たかだか地方貴族でしかないフロズナタ家が、4代、百年弱の間に領内に3つも修道院を設立したのは、普通のことではあるまい。その動機のひとつに、家が興るきっかけとなったブルシュ家の虐殺があるようにも思われる。最後の当主であるフロズナタBの場合には、それに加えて、生まれたときに死産と誤解される状態から蘇生したり、ポーランドで教育を受けている間にビスワ川でおぼれたのに死ななかったりと、聖母マリアの加護があったから生き続けられていると信じていたらしい。考えてみるとフロズナタ家が断絶した後、親戚縁者が継承権を主張して家を都合としなかったようなのも過度のキリスト教への傾倒が嫌われたのかもしれない。

 フロズナタBは、キリスト教への貢献を讃えられて、19世紀末に当時のローマ教皇によって列福され、2004年にはプルゼニュの司教の手で列聖への手続きが始まったという。
2020年8月16日14時30分。









2020年08月11日

チェコの君主たち9(八月八日)



 一月ぶりにチェコの王様の話。今回はバーツラフ1世の次に王位についた息子のプシェミスル・オタカル2世である。偉大なる祖父と同じで、もともとの名前はプシェミスルで、後にオタカルという名乗りを追加したようだ。祖父のプシェミスルは神聖ローマ帝国皇帝のオットー4世からオタカルという名前を与えられたという伝説があるが、プシェミスル2世の場合には、どういう事情でオタカルを名乗るようになったのかは判然としない。祖父の偉業の後を継ぎたいという思いから同じ名乗りを選んだのかもしれない。そしてその願いは、ハプスブルク家のルドルフ1世によって阻まれるまでは、実現に向かっていた。

 とまれ、父バーツラフ1世によってモラビアの支配を任されていたプシェミスルは、諸侯の一部にとって「mladší král」という皇太子のような地位に選ばれ、父に対して反乱を起こして鎮圧されている。恩赦を受けてモラビア辺境伯の地位にもどるが、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ1世の死後、オーストリアの貴族によって公爵の地位に据えられ、フリードリヒ1世娘のマルガレーテ(チェコ語ではマルケータ)と結婚した。婚姻によって継承権をえたわけである。これが、父バーツラフの生前、チェコの君主の地位につく前の1251年のことである。一説によると、このときからオタカルという名前を試用するようになったのだともいう。
 ただ、この結婚は、政治的には大きなものをもたらしたが、二人の関係は理想的な夫婦からは程遠く、さまざまなスキャンダルの果てに、1260年には離婚することになる。その一方で、愛人との間に私生児を三人設けており、そのうちの一人のミクラーシュにシレジアのオパバにおかれた公爵領を与えている。実はこのオパバのプシェミスル家は。本家がバーツラフ3世の暗殺で断絶した後も、存続していたらしい。

 父の死後、チェコの君主の地位についたのは1253年のことで、1260年にはハンガリーとの戦争を起している。これはシュタイアーマルク領をめぐるもので、ハンガリー王のベーラ4世の軍勢をクレッセンブルンの戦いで破り、プシェミスルはシュタイアーマルクだけではなく、ハンガリー王の孫娘クンフタをも妻として獲得した。子供向けの本には、最初の妻のマルガレーテについては、年上であまり魅力的ではないと書かれているのに、このクンフタについては美しいという形容詞がつけられている。

 プシェミスル・オタカル2世の全盛期には、ボヘミア、モラビアを中心とするチェコ領に、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、カルニオラなどを合わせ、アドリア海に面した地域まで領有していた。北方でもプロシアに対する十字軍を支援し、バルト海沿岸にまで影響力を行使していた。そんなプシェミスルは神聖ローマ帝国内での権威を高め、ボヘミア王を選帝侯の一つにすることに成功すると共に、皇帝の地位を狙っていたとも言われる。
 しかし、軍事だけでなく政治的にも有能で、野心を隠さないプシェミスルを警戒したドイツの貴族たちが対抗馬に担ぎ上げたのが、ハプスブルク家のルドルフ1世だった。選帝侯の一人だったはずのプシェミスルを除外した形で皇帝に選ばれたルドルフ1世との権力争いは、プシェミスルに不利に展開し、オーストリアとヘプ地方の領地の召し上げと、臣従してボヘミアとモラビアに封じられるという形式を取ることを認めさせられる。

 その一方で、ルドルフと対立してプシェミスル側につく諸侯もおり、結局、両勢力の間で最終決戦が行われた。それがチェコ語ではモラビアにはないのに、もラフスケー・ポレ(モラビアの畑)と呼ばれる場所での戦いである(日本でなんと呼ばれているかは知らん)。王権が強化されることを嫌ったチェコ貴族の多くがが参戦しなかったこともあって、プシェミスルは戦いに負けただけでなく、命まで落としてしまった。時に1278年8月、四十台半ばでの死であった。残されたクンフタとの間に生まれた息子のバーツラフはまだ7歳でしかなかった。

 プシェミスル家の君主H
  28代 プシェミスル・オタカル(Přemysl Otakar)2世 1253〜1278年。

 プシェミスル・オタカル1世以来三代続けて有能な君主が登場して、プシェミスル王朝のチェコは全盛期を迎えたと言ってもいい。それがプシェミスル・オタカル2世がハプスブルク家のルドルフ1世との権力争いに負けて亡くなったことで、衰退へと向かうことになる。後にチェコの領域がハプスブルク家の支配下に組み込まれてしまったことを考えると、プシェミスル・オタカル2世が負けた相手がハプスブルク家のルドルフ1世であったのは、なかなか象徴的である。
2020年8月9日22時。









2020年07月17日

ミロシュ・ヤケシュ(七月十四日)



 1989年にいわゆるビロード革命が始まったときにチェコスロバキア共産党の第一書記として指導者の立場にあったミロシュ・ヤケシュが亡くなった。68年のプラハの春がワルシャワ条約機構加盟国軍の侵攻で弾圧された後の正常化の時代の指導者、グスタフ・フサークの後継者として、1987年に党の第一書記に就任したこの人物の存在は、共産党政権が共産党に都合の悪い人物を排除し、指導部、特にフサークの言うことを聞く人間だけが出世できるようになっていた結果、人材が払底していたことを象徴していると見られている。つまりは、政治家としては無能だったと考えられているのである。
 ビロード革命に先立つ、学生を中心とするデモが各地で発生するようになってからも、教条主義的な強硬な態度を変えることなく、反政府側との交渉を拒否した。より正確には有効な手を何一つ打つことができなかった。それ以前の反政府デモにつながる社会不安、民衆の不満に対しても、俳優などの芸術家の給料を明かして高給取りだから不満は漏らさないなんて現実を見ない失言をしたのがビデオでリークされ、社会の反発を買い共産党の立場を悪化させていた。

 その結果、ゴルバチョフのペレストロイカの影響受けて共産党内にも、比較的現実を見つめられる改革派が増え、反政府勢力との交渉の妨げになりかねないヤケシュは、共産党からも追放された。それでも本人は共産主義のイデオロギーから離れることはなく、ゴルバチョフのペレストロイカや、市場経済の導入に対して反対の意見を表明し続けたという。
 ビロード革命後は政治の表舞台に戻ってくることはなかったが、ヤケシュやフサークのような共産党政権の指導者で、民衆弾圧の責任者だった人たちが暴力的な報復を受けなかったのが、チェコスロバキアの民主化革命が、ビロードと名付けられた所以なのだろう。ただし、ヤケシュは後に国境地帯で亡命しようとした人々が国境警備隊員によって射殺された件について、責任者だったとして裁判を起こされている。

 簡単に経歴を紹介すると、生まれたのは1922年で場所は南ボヘミアのチェスキー・クルムロフの近く。1937年にからはズリーンに移って、バテャの工場で働きながら、バテャの設立した大学を卒業している。共産党に入党したのは1945年のことで、党の幹部候補生として1950年にはモスクワの共産党の大学に送られている。留学生の同期にはプラハの春を主導するアレクサンデル・ドゥプチェクがいたというから、その後の歴史を考えると皮肉である。
 1968年のプラハの春に際しては、当初はドゥプチェクなどの改革派に賛同していたため、代表団の一員としてモスクワに連れ去られ、ワルシャワ条約機構との協定にサインさせられた。この時点では、いわゆる救援をソ連に対して求める手紙には署名しておらず、この時点では特にプラハの春の理念を裏切ったとは思われていなかったのではないだろうか。モスクワでの署名は、確か時のスボボダ大統領や、ドゥプチェク第一書記など、代表団のほとんども署名を余儀なくされたわけだし。

 その後、正常化をすすめるフサークの下で、出世を遂げ、フサークが独占していた大統領と共産党の第一書記の二つの地位のうち、第一書記を譲られることで実質的な後継者となったのだが、この選択は当時の共産党幹部にとっても驚きだったようだ。国や共産党にとってではなく、院政をもくろむフサークにとって一番いい選択がヤケシュだったのだろう。
 実際どんな人物なのかは知らないが、共産主義を強く信じていたというよりは、どんな政治体制にも自らを合わせていける優秀な官僚タイプ、悪い言い方をすれば有力者にすりよるコバンザメのような人物だったのではないかと勝手に想像している。そんな人物が最高権力者になった結果、ビロード革命の政治体制の変化には対応できなかったということだろうか。自分自身の存在が反政府デモと革命の原因になっていたわけだから。

 そんなチェコスロバキア共産党最後の権力者が亡くなったというのは、一つの時代の終わりでもあるのだろう。いわゆるポスト共産主義の時代の終わりがまた一歩近づいてきた。クラウス、ゼマンというビロード革命の民主化を私物化し首相、大統領を歴任した大物が二人残っているから完全に終わったとは言い切れない。いや、この二人が創設、もしくは再建し、クライアント主義と呼ばれる利益誘導型の政治をチェコに定着させた市民民主党と社会民主党が活動を続ける限り終わらないといったほうがいいのかもしれない。いろいろと批判されているバビシュ首相もクライアント主義が存在しなければ、首相になんてならなかっただろうし。
2020年7月15日14時。












2020年07月16日

イバンチツェ(七月十三日)



 ブルノの南西、モラフスキー・クルムロフとの中間あたりに位置するこの小さな町は、現在では画家アルフォンス・ムハの出身地として日本でも知られているかもしれない。チェコだとそれに加えて、チェコのテレビ史上最高のコメディアンとされるブラディミール・メンシークの出身地であることでも有名である。

 歴史的に見ると、フス派戦争の血まみれの時代の中から生まれたプロテスタントの一派、戦いを否定する兄弟団の主要な拠点の一つだったのことが重要である。イバンチツェには、ルドルフ2世の弾圧を受けてクラリツェに移転するまで、兄弟団の秘密印刷所が置かれていてさまざまな宗教関係の文書、書物が印刷されていた。その印刷所のあった建物なのか、小さな印刷所の記念館があって、サマースクールの週末の遠足で出かけたことがある。当時はその意味もわからないままに見物して終わったけど。
 そして、もう一つ重要なのが、この地に兄弟団によって設立された学校が、短期間だけだったとは言え、ヨーロッパレベルでよく知られた学問の拠点だったということである。16世紀の前半に兄弟団は各地の拠点にチェコ語で学ぶ学校を創設し始め、イバンチツェにも初等教育の学校が設立された。その上の中等、高等教育の学校が設立されるまでにはしばらく時間がかかったが、それは兄弟団がラテン語やギリシャ語などの教育に、実用性がないものとして懐疑的だったことが理由だと言う。

 そんな傾向を変えたのが、別の兄弟団の拠点プシェロフ出身で、国外のビッテンベルクの大学などで勉強して帰国し、兄弟団の牧師?としてイバンチツェに赴任したヤン・ブラホスラフだった。コメンスキーの先駆者とも言うべき兄弟団の、いやチェコの誇る知性は、ビッテンベルクに留学中には宗教改革者として知られるルターの説教に通っていたという。
 ブラホスラフは、自ら新約聖書を、非常に文学性の高いスタイルで翻訳し、印刷に回した。その翻訳のスタイルは旧約聖書の翻訳のスタイルにも適用され、すべてが完成したのはブラホスラフが1571年に亡くなった後、印刷所がクラリツェに移転した後のことなので、イバンチツェではなくクラリツェの聖書と呼ばれている。

 ブラホスラフが兄弟団の牧師の仕事には、外国語の知識が不可欠であることを説得した結果、イバンチツェにプロテスタントの師弟を対象にしたギムナジウムが設立される。同時にドイツなどの大学の学生たちが、授業の時間が少ないこともあって自堕落な生活をしていることがわかり、イバンチツェのギムナジウムでは道徳教育にも力を入れることが決められた。これが、師弟の教育に頭を悩ませていた貴族階級に受け入れられ、ジェロティーン家のカレル爺などの有力貴族もイバンチツェの学校で学んだという。
 外国語の教育のほうは、教師を見つけるのが難しい時代だったこともあって、時間がかかったが、宗教上の理由でビッテンベルクの大学を追放されたエスロム・リュディングルを、1575年に学長として招聘することに成功する。リュディングルはドイツではギリシャ語だけでなく、物理学や歴史学も教えていたという。毀誉褒貶の激しい人物ではあるが、リュディングルの存在がイバンチツェの学校の評価を高めたことは間違いない。

 同時に、チェコの再カトリック化を進めていたハプスブルク家には敵視され、時の皇帝ルドルフ二世がイバンチツェの領主だったリペー家に、リュディングルの追放を求める手紙を送ったという。特に1583年に届いた二通目の手紙は、兄弟団だけではなくリュディングル本人にも強いショックを与え、死因となった心臓発作を起こしたらしい。ただ参考にした雑誌の記事には、リュディングルが亡くなったのは1588年ともあるので、年が離れすぎているようにも思える。
 リュディングルを失ったイバンチツェの学校は、衰退に向かい、かつての評価を取り戻すことはなかった。1620年のビーラー・ホラの戦い以降は、プロテスタントの諸侯が力を失い、学校の母体となった兄弟団自体がチェコの領域内から追放されることになる。隠れキリシタンならぬ、隠れ兄弟団なんてものが存在し続けた可能性はあるが、公式に許された宗教としてプロテスタント系の宗派がチェコに戻ってくるのは、1918年の第一共和国の成立を待たねばならなかったはずである。
 
このイバンチツェの学校を巡る話も、キリスト教の非寛容性が如何に世界の害悪だった。いや現在でも害悪であり続けているかを示す事例だと言えよう。アメリカや西ヨーロッパで吹き荒れている人種差別反対の暴動も、奴隷貿易を認めたとうよりは、推進していたキリスト教への攻撃に向かわないのが不思議である。環境保護運動もそうだけど、良識派ぶった活動家ってのは、ご都合主義で攻撃対象を決めるからなあ。良識あるつもりの日本人としては付きあいきれない。
2020年7月13日22時30分。











2020年07月15日

プシェミスル家の遺産2(七月十二日)



承前
 四つ目は、チェコの高千穂の峰とも言うべきジープ山の山頂に建てられた円形教会である。プラオテツ・チェフとジープ山の伝説は、チェコの建国神話であって事実ではないだろうが、山頂の円形教会がプシェミスル家とジープ山の関係を物語る。この教会が建てられたのは、12世紀の前半のことで、当時の侯爵ソビェスラフ1世が、神聖ローマ帝国皇帝のロタール3世の率いる遠征軍を北ボヘミアのフルメツの近くで破ったことを記念して建てたと言われる。
 プラハの北方、ムニェルニークの近くにあるジープ山は、高さは約450メートルほどとそれほど高い山ではないが、山頂からは遠くまで見晴らしのいい景勝の地で、現在でも行楽の地となっている。確か年に一回、ジープ山山登り競走が行われていて、たくさんの参加者が麓から山頂まで駆け上がっている。昔チェコの中をあちこちしていたときには、行って見たいと思いながら、どこにあるか調べ切れなかったのだった。地図は見たはずなんだけど、チェコ語ができなかったし。

 五つめは、我等がオロモウツである。オロモウツはプシェミスル家のモラビア支配の拠点のひとつで、チェコの君主にオロモウツに封じられモラビア統治を任されていた兄弟や息子などが反乱を起こすこともあった。また、プシェミスル家最後の王バーツラフ三世が1306年にポーランド遠征を前に暗殺したことも知られる。オロモウツは、プシェミスル家が男系で断絶し、プシェミスル王朝が滅んだ地でもあるのだ。
 オロモウツ最大の教会、聖バーツラフ教会に接する形で、かつてプシェミスル宮殿と呼ばれていた建物が現存する。聖バーツラフ教会だけでなく聖アナ教会や大司教博物館の建物ともつながっていてどこからどこまでがその宮殿なのか判然としないのだが、現在ではジーデク宮殿と呼ばれることのほうが多いようである。ジーデクはプシェミスル家が創設に成功したオロモウツの司教座の司教で、ヨーロッパを舞台に外交官として活躍しており、その立場にふさわしい拠点を確保するために建てた、もしくは改築したのがジーデク宮殿だという。
 現存する宮殿でプシェミスル家の時代にさかのぼるのは、一部は城下公園からも見上げることができるロマネスク様式の窓と、天国の庭と呼ばれる部分である。30年近く前に始めてオロモウツに来たときに、このプシェミスル宮殿(だと思っていた)に入ったことがあるのだが、何の知識もないままの見学と言うよりは、見物だったのでほとんど何も覚えていない。チェコ語を勉強するためにこちらに来てからは、何となく行きそびれている。

 六つ目、記事の最後に紹介されているのは南ボヘミアの中心都市のチェスケー・ブデヨビツェである。13世紀の後半に、プシェミスル・オタカル2世が、当時いわゆる東方植民をチェコの国土で進めていたドイツ系の住民の協力を得て建設した町のひとつだという。本来ドイツ系の町だったので、ブデヨビツェで最初にビール会社を設立したのがドイツ系の住民だったのも当然のことだったのだ。
 それはともかく、チェスケー・ブデヨビツェは、当時計画的に建設された典型的な国王都市の
特徴を示していると言う。それは中心となる広場が正方形であることと、通りが碁盤の目と言うには旧市街が小さすぎるが、通りが直角に交差している点である。オロモウツの近くでこんな特徴を持つ町というと、完全ではないけどリトベルだろうか。それに対して、オロモウツの二つの広場はいびつな形をしているし、通りなど直角に交わっているものの方が少なく、道に迷いやすい。

 この記事には以上の六件だけだが、他の記事にはプシェミスル家によって建設されたものとして、1230年に建設されたクシボクラートの城、13世紀の半ばにプシェミスル・オタカル2世によって建設されたベズデスの城なども紹介されている。この二つの城は身分の高い人を収容する牢獄としても使われていたので、親子、兄弟間での血で血を洗う権力争いを繰り広げたプシェミスル家なので、収監された人も多いようだ。また、南ボヘミアのランチュテインの城跡が1231年にプシェミスル・オタカル1世によって建設されたと紹介されているのだが、プシェミスル・オタカル1世が没したのは1230年なので、生前に建設が始まり死後に完成したと考えるべきだろうか。
 チェコの国家の基礎を築いたのがプシェミスル家である以上、残された遺産も膨大なものになるのである。
2020年7月13日14時。










2020年07月14日

プシェミスル家の遺産1(七月十一日)



 昨日の『小右記』の記事も、後半時間が足りなくなって大急ぎでまとめた感があるが、今日の記事も似たようなものになりそうである。何について書いたものか頭を悩ませていたら、チェコ版の「歴史読本」と言ってもよさそうな、歴史好きのための雑誌の記事が目に入った。「100+1 historie」という雑誌の別冊で、去年の夏に出たチェコの魔術的な伝説を特集した号である。
 その最初の記事が、プシェミスル家の遺産をテーマにしていて、チェコ各地にプシェミスル家の時代から残る建造物を紹介している。プシェミスル家の時代と一口に言っても9世紀から14世紀の初頭と長きにわたるのだけど、チェコの君主について書いているものも、プシェミスル家の君主は残り三人になって終わりも近づいているので、ちょうどいいということで、この記事に紹介されているものを紹介しよう。

 最初に取り上げられているのは、プラハのビシェフラットである。この川沿いにそびえる岩山の上に建てられた城がプシェミスル家の時代から存在したことは、イラーセクのチェコの伝説などにも登場することから明らかなのだが、よくわからないのは、ブルタバ川の対岸の高台の上に建設されたプラハ城との関係である。
 チェコの伝説ではなく歴史について書かれたものを読むと、大抵はプシェミスル家の最初の拠点はプラハではなく、プラハからブルタバ川を少し下ったところにあるレビー・フラデツの城だったとされている。その後、現在のプラハ城のあるところに城を建てて本拠地を移したと理解しているのだが、そうなると、この歴史のどこにビシェフラットを位置づけるべきなのかがよくわからない。プラハ城が先なのか、ビシェフラットが先なのか、ビシェフラットがプシェミスル家の本拠地だった時代があるのか。
 雑誌の記事によれはビシェフラットでもっとも建築活動が盛んだったのは、チェコの君主の中で最初に王位を獲得したブラティスラフ2世とその息子のソビェスラフ1世の時代だったという。ということは、11世紀の後半から12世紀前半にかけてと言うことになるから、プラハ城のほうが先なのかな。

 二つ目はズビーコフ城で、ブルタバ川の上流、南ボヘミアのピーセクの近くにある。この地に最初に城を建てたのは、プシェミスル・オタカル1世である。この手の建造物の例に漏れず、後世改築の手が入っているようだが、現存する最古の部分はマルコマンカと呼ばれる塔だという。一文字違えばナルコマンカで薬物依存症の人をさすことになるのだが、塔の名前と薬物は関係なさそうだ。
 城の名前のズビーコフは、城の建つ岩山のふもとにあった村に由来するらしいが、その村は1950年代に建造されたダムによって水没したという。交通の要所だったブルタバ川沿いにはたくさんの白が残っており、中にはダムに水没する予定だったものが移築されたものもある。ブルタバ川沿いの城は交通の便が悪そうなところが多いが、ズビーコフも車がないと行きにくそうである。
 城の名前の由来になった村には、伝説によれば、プラオテツ・チェフの娘の一人が、平民の男との結婚に反対されて駆け落ちし、住んでいたらしい。後に父親のチェフが娘の様子を見にきたところ、娘は平民の生活に慣れてなじんでしまっていたことから、慣れるという意味の「zviknout」から村の名前が付いたのだとか。

 三つ目は、プシェミスル家のモラビア支配の拠点のひとつだった南モラビアのズノイモである。ズノイモの城の中庭には、古い円形教会があり、内部にはプシェミスル・オラーチ以来のプシェミスル家の歴史を描いた壁画が残っている。旧約聖書の名場面を描いた部分もあるようだけど、チェコにとって重要なのは、プシェミスル家の壁画である。この壁画はズノイモのプシェミスル家のコンラート2世の結婚式に際して描かれたものらしい。それで、君主ではなかったけどコンラートとその妻の肖像も描かれているのだとか。記事によれば、後世、この教会が教会としての地位を失い、さまざまな用途に用いられてきたことを考えると、壁画が完全な状態ではないにしても、現在まで保存されているのは奇跡的なことだという。
 ズノイモには、こちらに来たばかりの夏に出かけてお城の見学もした。円形教会があったのも覚えているのだが、当時はチェコ語もだめだめ、チェコの歴史についての知識もほとんどない状態だったので、その歴史的な価値などまったく理解できなかった。内部の壁画についても模写が展示されていたと思うのだが、みょうちくりんな絵だなあという感想しかもてなかったような気がする。やはり先達はあらまほしきものなのである。日本語でプシェミスル家について語れる先達がどれだけいるかと言う問題はあるけど。
 長くなったので、以下次号。
2020年7月12日14時。












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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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