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2018年04月02日

南ボヘミア(三月卅日)



 クルムロフは、チェスキーもモラフスキーもどちらにも足を延ばしたことがあるが、ブデヨビツェは、ブドバイゼル・ブドバルで知られるチェスケーの方しか行ったことがない。スロバキアを旅行したときのことを思い出して書いていたら、その前のチェコを旅していたときのことを、ターボルを除いて書いていないことに気づいた。特に書きたいとか、書かなければならないとかいうことではないのだけど、短時間でさらっと書けそうなネタもないので、再び回想モードに入ることにする。チェコ語についてはいくらでも書けるけれども、正確さを期す必要もあって(間違いも書いているだろうけど)、時間がかかって仕方がない。
 とまれ、あのときはターボルを出てチェスケー・ブデヨビツェに向かったのだが、乗った電車からして問題含みだった。線路の改修工事が行われていて、ターボルから途中までは電車が走っておらず代替バスに乗らなければいけなかったのだ。プラハのほうから電車が入ってきてこれがブデヨビツェに向かうのだろうと乗り込もうとしたら、駅員に止められて駅前に停まっていたバスに乗せられた。言葉が全く通じていなかったので、地元の人たちもたくさん乗っていたし誘拐なんてことはあるまいとは思ったけれども、不安ではあった。

 今でも厄介だと思うぐらいだから、当時言葉の通じなかったころは、鉄道の改修工事でバスで代替輸送というのには、散々悩まされた。出発の駅から目的地まで代替バスというのならまだましだけれども、たいていは途中まで鉄道で行って、バスに乗り換えて、また鉄道ということが多く、わけがわからないままうろうろして代替バスに乗り遅れたなんてこともあった。
 思い返せば、当時は地方の駅では切符が昔ながらの硬券で、在庫処分かなんかで、目的地の駅名が入っている切符ではなく、運賃の同じ別の駅名が入ったものが渡されることもあり、またひどいときには切符の額面の合計が目的地までの運賃になる二枚の切符を渡されたこともある。そんな目的地の駅名のはっきりしない切符で代替バスに乗せてもらえるのだろうかと不安で、鉄道で移動する際には代替バスを使う必要がないようにと祈っていた。事前に情報を入手するすべなんてなかったし。

 チェスケー・ブデヨビツェに行ったのは、当時のあまり充実していなかったガイドブック『地球の歩き方』に出ていたからというのもあるのだけど、もう一つはアメリカのビール、バドワイザーの発祥の地だという話を新聞で読んで知っていたからでもある。ただし、当時知っていると思っていたことは、事実とは反していて、ブデヨビツェでビールを造っていた人がアメリカに移民してバドワイザーを造りはじめたというものだったのだけど。80年代末の日本の新聞に共産圏のビールに関して正確な情報が載るわけなどなかったのである。

 それはともかく、ブデヨビツェでは、ブドバイゼル・ブドバルだけでなく、もう一つのブデヨビツェのビール、サムソンも飲んだ。どうして聖書に出てくる人名を使っているのかなんて事情は理解できなかったけれども、これも地元のビールであることだけはつたなすぎる英語でも理解できた。味は覚えていない。
 覚えているのはサムソンを飲ませる店を出て、ほろ酔いの気持ちよさを感じながら宿に戻ろうと街を歩いていたら、チェコ人に声をかけられて一緒に飲みに行こうと誘われたことだ。最初は悪くないかなと思っていたのだけど、失礼な奴で酔っ払った頭でしゃべるこちらの英語の間違いを一々指摘しやがって、腹が立ったのでやっぱり帰ると言って宿に戻った。アメリカ帰りであることを鼻にかけた鼻持ちならない奴だった。

 ブデヨビツェからちょっと北にあるフルボカーの白亜のと言いたくなるお城まで行ったのは確かである。何も知らないままでかけたので、お城の中の見学ができるなんてことも知らず、ただ外からあれこれ見ただけだったのは今から考えても残念である。今更南ボヘミアに出かけてフルボカーまで足を伸ばすなんてのは、オロモウツに引きこもっている人間には難しいのである。フルボカーは、今ではクルムロフと並ぶ有名な観光地になっているけれども、当時はチェコ国内はともかく、外国ではあまり知られていなかったのではなかったかな。
 問題はブデヨビツェからどうやってフルボカーまで行ったかで、歩いていったような気もするのである。ただそれが正しいという確信がもてない。典型的な貧乏旅行でお金はないけれども時間はいくらでもあったし、駅の窓口で切符を買う鉄道には乗れても、切符の買い方がよくわからないバスにはあまり乗りたくなかったから、多少、いや結構はなれたところまで歩くことも多かったのだ。プロスチェヨフからプルームロフまで歩いたのもそうだし、モラフスキー・クルムロフの駅から街まで歩いたのもそれが理由である。そう考えるとブデヨビツェからフルボカーまで歩いていたとしても不思議はない。

 ブデヨビツェでは地元の人に、トシェボーニュに行けと勧められた。ブデヨビツェの東側にある鯉の養殖が盛んな池がたくさんある地域の中心の町である。当時はそんなことは知らず、地図を見て近くに大きな湖?がいくつもあることに気づいたぐらいで、地元の人の話を聞いても他に何があるのか理解できなかった。結局ブデヨビツェから鉄道が通っておらず行きにくかったのと、歩いていくには遠すぎたのとで諦めたけれども、これもちょっともったいないことをした。単なる観光とはいえ、旅行する際にはやはり言葉が通じた方がいいのである。チェコ語ができるようになってからは、出不精になってあまり出かけていないというのは皮肉なことである。観光旅行するためにチェコ語を身につけたわけではないから、いいと言えばいいのだけどさ。
2018年3月30日23時。




ボヘミアの農夫―死との対決の書








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