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2018年01月22日

永観三年四月の実資〈上〉(正月十九日)



 処理したものがたまってきたので、チェコ語はちょっとお休み。

 一日は雨の中参内するが、公卿が一人も出てこない。そのことを外記が天皇に奏上して、改めて出てくるように使者を送ったところ、中納言の源保光だけが出てきた。それで天皇も紫宸殿に出御しないことになった。四月一日なので、この日は、旬政大事な政務のはずなのである。天皇の出御がない場合の平座という形式で儀式が行われている。

 二日は雨の中内裏を出て帰宅、夕方に室町に出向いている。この室町も、大日本古記録の頭注にも誰という指摘がないし、ちょっと謎なのだけど、室町尼君と呼ばれるおそらくは実資の親戚筋に当たる人が住んでいたのだろう。実資の子供が預けられていたような節もある。

 三日は、花山天皇の生母藤原懐子の忌日で国忌となっている。懐子は、摂政伊尹の娘で冷泉天皇の女御となっているが、父伊尹に続いて花山天皇の即位前に没している。中納言の藤原顕光以下数人の公卿が参内しているが、大臣、大納言は欠席。このとき女御たちが御膳を提供するという先例を天皇の仰せで止めている。
 円融天皇の代に伊勢の斎宮を務めた規子内親王が、天皇の代替わりによる斎宮の交代で平安京に戻ってきたのである。代わりに伊勢に下向する予定だったのは永観二年十一月に選定された済子女王である。済子女王は、花山天皇の退位とともに伊勢に下向することなく任を解かれている。

 四日は、実の兄である修理大夫の藤原懐遠がやってきて言うには、斎宮を迎えるために使わされた勅使の菅原資忠が、山科から黒牛一頭を送ってきたという。伝聞で斎宮が「河陽の館」に入ったというのだが、これは普通は平安京の西山崎の地に営まれた離宮をさすので、伊勢から山科を通る経路で京に入ったと考えると地理的にそぐわない。「河陽」を「かや」と読んで平安京内の高陽院と考えておく。

 五日は、頼忠と円融上皇のところを経て、中宮遵子のところに候じた以外は特に何もなし。

 六日も、参内しただけである。珍しく平穏な日が二日続いている。

 七日は、恐らく穢れのために三日分の休暇願いを出した上で、円融上皇に呼ばれて出向く。穢れは穢れでも、軽い丙の穢れだから問題ないらしい。

 八日は。お釈迦様の誕生日を祝う潅仏会が行なわれるはずなのだが、杜本神社に祭使を遣わすために中止。仏事と神事を同日に行わないということなのだろう。中宮の遵子のところでも同様に中止。花山天皇ではなく、前代の円融天皇の中宮なのだが、中宮という立場にある以上は天皇と同じようにするということのようだ。ただし、実資が延長四年の日記で確認すると、天皇の仰せで祭使の発遣を一日遅らせて、潅仏会を行なったようである。退位してしがらみの取れた円融上皇のところではもちろん潅仏会は実施されている。実資は物忌で参入していないが、布施として銭を送っている。

 九日は、中宮職の少進正信である藤原正信が来て、円融上皇が穢れに触れたのではないかという情報を寄せている。この穢れは先月十六日に亡くなったことが記される典侍頼子が原因となったものだという。そのため十日に予定されていた平野神社への上皇の祭使の派遣は中止された。占いで中止とでたらしい。それで中宮の使いはどうしましょうということなのだが、実資はとりあえず頼忠の意向を伺うべきだと答えている。頼忠からは明日参入して決めるという返事が帰ってきている。

 十日はまず上皇のところに出向いて、穢れについて詳しい話を聞いている。穢れが院に入ったというのは根拠がないようなのだが、占いでは不浄とでたので、使いを立てなかったという。それを実資は上皇に命じられて天応に奏上している。亡くなった典侍頼子の家族が穢れは院に入っていないと言っているから、実資も穢れていないものとして参内したのである。中宮は結局上皇と同じように祭使を立てていないが、これは頼忠が決めたところだという。
 内裏からの祭使を務めたのは蔵人の藤原惟成。花山天皇の乳母子で重用されたというのだけど、儀式などの際には実資に言わせると結構頓珍漢なことをやらかしているようである。ここは祭使として出かけるだけだか特に問題は起こしていないけどさ。

 十一日は参内して候宿。夕立なのか雷がなり強風が吹いている。検非違使として摂津国に出向いていた源忠良以下の衛門府の官人が、帰郷しその成果を報告している。この時点では追捕された藤原斉明をとらえることはできていないが、その配下の海賊を捕らえ怪我をしたものもいるということで、褒美として絹をもらっている。

 十二日は早朝内裏を出て、夕方室町へ。十三日は参内して候宿。四月は穏やかな月である。

 十四日は早朝内裏を退出して、上皇の元へ。午前中から上皇の体調が悪化し、占いや禊などが行われている。夜になって治まったのかな。実資以外にも左大臣以下の公卿が、お見舞いにか参入している。

 十五日は、二日の休みを願う文書を提出し、ちょっとだけ上皇の許に立ち寄って、頼忠のもとへ。夕方再度上皇の許を訪れてすぐに退出している。上皇の病気は治まっていると見ておこう。

 十六日は、休みなので何もなし。雨が降ったことだけが記される。

 十七日は、時折ぱらつく雨の中参内。天皇が清涼殿で馬を見ている。馬寮の馬はいいのだが、「二坊」の馬というのがよくわからない。夕方退出した実資は、円融上皇の許に出向いて、中宮のところに候じている。ただこの時点で中宮が、上皇と邸宅を同じくしていたかどうかは不明。中宮のところには父の頼忠も参入している。

 十八日は、またまた物忌のために三日の休暇願を出す。今年は賀茂祭がまだ行われていないので、毎月恒例の清水寺参拝は中止である。神事の準備期間中に仏寺に出かけるのはよくないということだろうか。
 それとは別に清水寺で、七日間の読経の儀式を行わせているが、これは陰陽師の賀茂光栄に祓をさせたのと同様、実資の夫人のお産が遅れているからであろう。

 十九日には、また陰陽師に祓をさせているが、今度は安倍晴明である。そろそろ産み月のはずなのにその気配もないということで心配している。
2018年1月19日24時。







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