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2019年06月25日

日向神話の本舞台5 笠沙の岬2



IMG_2112.jpg


「笠沙の岬はどこか?」の続きです。


「古事記」や「日本書紀」になじみのない人に、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)の出逢いの話をかいつまんで紹介します。


ある日、ニニギノミコトは笠沙の岬で、麗しい美人に出逢い、一目で恋に落ちてしまいます。ニニギノミコトが「あなたは誰の娘か」と尋ねると、「オオヤマツミノカミ(大山津見神、大山祇神)の娘で、コノハナサクヤヒメと申します」と答え、続けてニニギノミコトが兄弟について尋ねると「姉のイワナガヒメ(石長比売)がおります」と申し上げました。


そこでニニギノミコトは「あなたと結婚したいと思うが、どうか」と尋ねると、「私から申し上げることはできません。私の父、オオヤマツミノカミが申し上げることでしょう」と答えました。


早速、ニニギノミコトはオオヤマツミノカミの所に使いを遣わせると、オオヤマツミノカミは大いに喜び、コノハナサクヤヒメに姉のイワナガヒメを添えて、たくさんの嫁入り道具をも持たせて、送り出しました。


ところが、容姿端麗なコノハナサクヤヒメに比べ、姉のイワナガヒメの容姿は醜かったようで、驚いたニニギノミコトはその日のうちにイワナガヒメを実家にお返しになりました。


父親のオオヤマツミノカミはイワナガヒメだけが送り返されてきたので、大きく恥じ「2人の娘を並べて差し出したのは、イワナガヒメを側において頂ければ、天つ神御子(ニニギのこと)の命は、雪が降り、風が吹いたとしても、常に石のように変わらず動きませんように。また、コノハナサクヤヒメを側において頂ければ、木の花が栄えるように栄えますようにと、願をかけて送り出したからです。コノハナサクヤヒメ一人を留めたのですから、今後、天つ神御子の命は、木の花のようにもろくはかないものになるでしょう」と嘆きました。


この出来事のため、スメラミコト(天皇命)たちの命が限りあるものとなり、寿命が与えられました(以上、竹田恒泰著「現代語古事記」=学研=参照)。

愛宕山を「日本最初の縁結びスポット」に


オオヤマツミノカミは、イザナキノカミ(伊耶那岐神)とイザナミノカミ(伊耶那美神)が大八島に住むべき神々をお生みになった「神生み」の際に生まれた神の一人です。山の神≠ニして知られており、全国に897社ある大山祇神社や山神社の主祭神となっています。


また、古代では結婚は家同士の結びつきなので、一人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚はよく行われていたようです。「記紀」が示す地上世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために天降りした天つ神の御子のニニギノミコトと、国つ神の一人で山の神であるオオヤマツミノカミの娘の結婚は、最高の良縁だったのです。


しかしながら、永遠の命の象徴とも言えるイワナガヒメを実家に送り返したことで、ニニギノミコトを始祖とする皇族に寿命が与えられたということになります。


ニニギノミコトは延岡市北川町俵野に、お墓である陵墓参考地がありますし、その子供のホオリノミコト(火遠理命=山幸彦)、孫のウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)、ひ孫のカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命=後の神武天皇)らも各地にお墓が比定されています。


これに対し、天孫降臨前のアマテラスオオミノカミ(天照大神)ら高天原の神々には寿命がありません。明治天皇の玄孫の竹田恒泰さんいわく、「ですから伊勢神宮は天照大神のお住まいとしておまつりしているのです」。

ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出逢った笠沙の岬である愛宕山は今、延岡市も「出逢いの聖地」としてアピールしており、展望台には出逢いの鐘や鍵掛けモニュメントなどが設置されています。


私もある夜、夜景の撮影に展望台に行っていたら、訪れたカップルが鍵(錠前)を掛けた後、そのキーをモニュメントの一段下にあるカワヅザクラ林の方に投げ捨てました。ビックリしました。キーを捨てることで永遠の愛を誓ったのかもしれませんが、「もし別れちゃったらどうするんだろう。あのキーを拾いに行くのかな」と思いました。


どうせなら、この林の中に鵜戸神宮にある運玉入れのようなターゲットを設けて、そこにキーが入ったら「2人は永遠に別れません」といった都市伝説を流布し、竹田さんが言う「日本最初の縁結びスポット」として大々的に売り出してもいいと思います。


この際、「愛宕山」の名称を、古来からの「笠沙山」に戻してはいかがでしょうか?


私は県外市外からの来訪者をご案内してまちあるきする機会が多々あります。その際、笠沙の岬(愛宕山)のいわれを説明しながら「日本最初のナンパスポットです」と紹介しています。不謹慎かもしれませんが……。
オブジェにかけられた多数の鍵.jpg


大瀬川は「逢瀬川」だった



大瀬川の古名は「逢瀬川」だったようです。ニニギノミコトがこの川を渡って笠沙の岬側にお屋敷があったコノハナサクヤヒメと逢瀬を重ねたとされています。前回紹介した「日向国名所歌集」には、編者の安藤通故が詠んだ「わたらはや袖はぬるともまたれつる人に逢瀬の川とおもへは」の歌など、逢瀬川にちなんだ歌が収められています。


私の住む大貫も「王ノ城」(おおのき)が転化したものという説があります。ご先祖様が眠る浄土寺山の墓地周辺には、県内最古とされる大貫貝塚、延岡で唯一の横穴式石室が現存する「第24号墳」など古墳が点在し、古代からたくさんの人が住んでいたことは明らかです。


三重大学名誉教授の宮崎照雄さんはニニギノミコトが築いた「高千穂の宮」は、延岡市天下町のどこかだとしていますが、私は王の城=Aつまり私の住む大貫ではなかったかと思います。私論です。
延岡平野の図.jpg


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