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2019年06月19日

日向神話の本舞台その1

6月15日夜、延岡市の川中コミュニティーセンターで五重縁の会が主催する「のべおか郷土愛」講演会が開かれました。


講師は、前延岡市副市長の杉本隆晴さん。副市長時代から日向神話を観光振興に結びつけようと様々な施策に取り組まれていました。


特に、西南戦争で政府軍に敗れた薩摩軍が、北川町俵野の児玉熊四郎邸(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に宿陣したのは、児玉邸の裏手に皇室の先祖に当たるニニギノミコトの御陵墓があることを知っていたからだと提唱。西郷軍に従軍した深江権太郎の手記や、隆盛のひ孫に当たる西郷隆夫氏の証言などから裏付けされ、俵野を「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきました。

副市長退任後は、日向神話研究会(会長・有留秀雄笠沙の会会長)副会長として、高千穂、日向と連携しながら、日向神話をあらゆる角度から深く分析されています。


杉本さんは「宮崎県北は日向神話の本舞台」をテーマに、日向神話のあらすじを説明した後、文献などを紹介しながら「天孫降臨の高千穂はどこか」、「ニニギノミコトはどこから来たのか」、「笠沙の岬はどこか」、「可愛山陵はどこか」、「神武東征の出発地はどこか」などについて詳しく考察されました。


個人的に私は、「天孫降臨の地は西臼杵の高千穂」、「笠沙の岬は延岡市の愛宕山」、「可愛山陵は北川町俵野にある陵墓参考地」と思っています。


しかしながら、高千穂説に「西臼杵高千穂」と「霧島連山高千穂の峰」の2説あるように、笠沙の岬、ニニギノミコト御陵墓、東征出発地に関しても、既に鹿児島県内に比定地があり、宮崎県北はむしろ後発組≠フ感が否めません。


杉本さんは「うちらが絶対正しい、相手の言っていることは嘘だということではない。両方正しい。そう思ってください」と前置きした上で、そうした論点について文献史学から見た変遷を分かりやすく説明してくれました。


江戸時代には笠沙山と呼ばれていたものが愛宕山になっていたり、逢瀬川が大瀬川に、五ツ瀬川が五ヶ瀬川になっていたり、私たちは知らず知らずのうちに神話にちなんだ古き良き名前を消し去ってしまっていたようです。




次回からは、杉本さんの講演内容に基づいて、宮崎県北が「日向神話の本舞台」と言われる根拠を考えてみたいと思います。

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