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2019年07月16日

「ひふみ祝詞」について

前回ブログ「猿田彦と庚申塔」で陰陽五行説のことを書きました。その補足を少しします。


干支もそうですが、五行に関しても日本人にはすごく身近な存在というか、暮らしの中に自然と浸透している思想です。


五行とは、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)のことです。これに日と月を加えると、月、火、水、木、金、土、日。つまり1週間の曜日になります。


また、前回のブログで、「干支」の組み合わせには陰と陽があり、十干では音読みの語尾の「え」が陽、「と」が陰になりますと書きました。「干支」は訓読みでは「かんし」になりますが、一般的には音読みである「えと」と読みます。十干の音読み語尾の陰陽がそのまま音読みになっているのです。


自分史の取材を通して、興味深い話を聞きましたのでご紹介します。


昔からの数の数え方に、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお」というのがあります。


これは「ひふみ祝詞」が元になっています。記紀神話でアマテラスオオミカミ(天照大神)が天の岩屋に閉じこもって世界の光が失われた場面で、アメノコヤネノミコト(天児屋命)が奏上したとされる祝詞の最初の部分です。

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諸説ありますが、あるインターネットのサイトによると「一」である「ひ」は「火」、「二」である「ふ」は「風」、「三」である「み」は「水」、「四」である「よ」は「地(世)」を意味します。


そして「五」「六」は「い」「む」と読み「忌む」ということ、つまり「けがれ」のこと。「七」「八」は「な」「や」と読み「祓い除く」ということ、「九」「十」は「こ」「と」と読み、つまり「言葉」ということを意味するそうです。


私が聞いた話では、「人」(ひと)は、一である「ひと」のひ≠ニ、十である「とお」のと≠ゥら来ていて、人間は一から始まり、十で完成することを意味するそうです。産まれる前、お母さんのお腹の中にいる期間が十月十日&K要なのも、ここから来ているそうです。


そして今、平気で自分の子供を殺したり虐待したりする親、相手の痛みが分からず他人を平気で傷つける子供たちが増えている背景には、早産や帝王切開などによる未熟児出産が増えていることも要因の一つになっているのでは、という話でした。


もちろん、お母さんの体調や、体内の子供の変調などもあります。一概に早産や帝王切開を否定することはできません。切れやすい℃q供たちが増えた要因として「農薬、化学肥料に依存した食べ物に原因がある」とする人もいます。


ただ、十≠ニいう数字は、人間にとってとても大切な数だというのは何となく理解できます。昔の人は日常の暮らしの中で自然に、そうしたことを体現し、理解していたのかもしれませんね。

2019年07月12日

猿田彦と庚申塔


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サルタヒコノカミ(猿田彦命)は、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が高千穂に降臨する際、道案内を務めたことから行路の安全を守る神、道祖神≠ニして祭られています。


道祖神は路傍の神様で、集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀(まつ)られます。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されています。


延岡市など宮崎県北部では特に、庚申(こうしん)塔に「猿田彦大神」と書いたものが散見されます。


以前、祝子地区の庚申塔を調査した際には、大きく分けて3種類の庚申塔があることが分かりました。一つは碑文に「猿田彦大神」と書かれたもの、もう一つは碑文に「奉待庚申」とあるもの、三つ目が「青面金剛(しょうめんこんごう)」を描いたものでした。


では、この「庚申塔」とはどんな存在なんでしょうか。


陰陽五行説


「庚申塔」は、中国の陰陽五行説に基づく庚申信仰≠ノちなむものです。


五行とは、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)で、その下に十干十二支がきます。


十干は甲(こう、音読み=きのえ)、乙(おつ、音読み=きのと)、丙(へい、音読み=ひのえ)、丁(てい、音読み=ひのと)、戊(ぼ、音読み=つちのえ)、己(き、音読み=つちのと)、庚(こう、音読み=かのえ)、辛(しん、音読み=かのと)、壬(じん、音読み=みずのえ)、癸(き、音読み=みずのと)。


十二支は皆さんご存じの子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)です。


干支の組み合わせには陰と陽があり、十干では音読みの語尾の「え」が陽、「と」が陰になります。


十干の音読みは、五行にくっついたもので、「きのえ」(甲)は「木の陽」、「きのと」(乙)は「木の陰」、「ひのえ」(丙)は「火の陽」、「ひのと」(丁)は「火の陰」という意味です。


昔の人は、これらの組み合わせで年、月、日を表していました。日本史で習った壬申(じんしん)≠フ乱、戊申(ぼしん)$争や、丙午(ひのえ・うま)$カまれ――などがその例です。


干支の組み合わせは「十干×十二支」の120通りある計算になりますが、十干と同じように十二支にも陰と陽があるため、組み合わせは半分の60通りになります。


よく「あなたの干支(えと)は何ですか?」と聞かれ、「亥(いのしし、い)年です」などと答えるのは、正確には誤りです。「己亥(つちのと・い)年の生まれです」というのが本当でしょうが、今日、そんなことを言う人はいませんね。


「庚申」はかのえさる≠ニも読み、十干の7番目の「庚」と十二支の9番目の「申」が重なる日で、60年に1回、60日に1回巡ってきます。


庚申待・お日待ち


庚申の日は、「庚申待」(こうしんまち)とか「宵庚申」(よいこうしん)といい、昔から庚申祭りやお日待ち≠ネどが行われていました。現在も昔ながらのこうした風習を受け継ぎ、守っている地区もあります。


というのも庚申信仰では、人の体内に潜む「三尸」(さんし、三虫)が、庚申の夜に人々が眠りにつくと天に昇り、天帝にその人の行動を報告し、悪事があれば寿命が短くされると信仰されていたからです。


ですから、庚申祭りやお日待ちをして、三尸が体内から天に昇っていかないように、その日は夜通し起きて、神仏に祈りを捧げていました。そのうち、寝ずの番をする人をクジ引きで決めたり、飲み明かしたりするようになりました。「庚申講」(こうしんこう)と呼ばれるもので、無尽、頼母講(たのもしこう)などの原型だと思われます。


私の会社(0982株式会社)が発行していたフリーペーパー「0982」でも、延岡市三須町で昭和62年(1987)まで行われていた庚申講の名簿や、猿田彦命の掛け軸、クジ引きに使うコヨリと竹串が春日神社に奉納されたことを紹介しました。


同市佐野地区は現在も、毎年秋の収穫を終えた後の庚申の日にお祭りを開いているそうです。娯楽の少なかった昔は、庚申の日が楽しみの一つだったのかもしれません。


「庚申塔」も同じで、魔除けや道標として、集落の入口や道の辻、三叉路、街道の分かれ道などに建立され、60年に一度建て替えされていたようです。


仏教系の青面金剛


猿田彦同様に庚申塔に多い「青面金剛」は、もともと伝尸病(肺結核)の治病の祈祷本尊で、病原となる伝尸が三尸虫の一種であったことから、三尸虫を駆除する庚申信仰の本草にされるようになったようです。


一般的には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(ひ=腕、二・四・八臂の場合もある)で法輪、弓、矢、剣、錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いそうです。


頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もあります。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像とともに青面金剛像が描かれていたり、頭の上に梵字が描かれたりしています。


恥ずかしながら私も、庚申塔のことを学んだのは、50歳代になってからです。私たちが通った小、中、高校でこうしたことを教えてくれる機会はありませんでした。


数百年も前から続いてきた、場所によっては今も引き継がれている類のない貴重な風習の一つだと思います。最近は、道路拡張などで移設された庚申塔が、神社の境内などに集められています。


お祓いをせずに勝手に庚申塔を移設したせいで、その時の責任者らが原因不明の病気に罹ったりした例を聞いたことがあります。ご先祖様達が大切に守ってきたものです。おろそかにはできません。庚申講などの風習はほとんど廃れてしまいましたが、歴史的な文化遺構でもある庚申塔だけでも、後世に残せるよう、守り続けていきたいものです。

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2019年07月11日

「のぼりざる」と猿田彦神


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「チキなん番長」と並ぶ延岡の2大マスコットキャラクターといえば、「のぼるくん」です。毎年秋に行われるイベント「のぼりざるフェスタ」のマスコットキャラクターで、江戸時代から伝わる「のぼりざる」(宮崎県伝統工芸品)がモデルになっています。


この「のぼりざる」が、日向神話に登場するサルタヒコノカミ(猿田彦神)に由来する郷土玩具ということをご存じでしょうか?


「のぼりざる」は約200年前、内藤時代の武士の妻たちの手内職として始められたとされていますが、その由来には幾つかの説があります。その一つに、サルタヒコノカミが登場します。


いつごろ書かれた文章かはハッキリしませんでしたが、延岡観光協会が発行した「のぼりざる≠フ由来について」という文書が延岡市立図書館に残っていました。概略を紹介します。


ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が高千穂に降臨した際に、サルタヒコノカミもお伴して大きな功績がありましたが、粗暴な振る舞いが治らず、美神・アメノウズメノミコト(天鈿女命)にイタズラをしたので、アメノウズメノミコトの怒りを買い、諸神の前で竿頭高くつるし上げられました。


サルタヒコノカミは体が大きく、鼻赤く、眼光鋭く、猿に似た異形神だったので、人々は猿の群れに農作物を荒らされると、猿の張り子をつるして猿への見せしめにするとともに、アメノウズメノミコトにつるし上げられたサルタヒコノカミのユーモアと結び合わせて、その威力にあやかったといいます。


これがやがて、豊作を祈るしるしとなり、さらに悪疫退散の魔除けとして戸ごとに立てられるようになったとされています。


のぼりざるの猿が身につけている烏帽子と長袴は江戸時代の武士の式服を象り、白い頬のひげはサルタヒコノカミがモチーフになっています。


そして、背に負った鼓は祝詞を唱える猿舞に、御幣は悪疫退散と商売繁盛を、幟(のぼり)の上2本の線は戦(いくさ)の旗指物に、菖蒲(しょうぶ)の絵は男子の出世開運を、風をはらんで昇る姿は位階の昇るにあやかるなど、あらゆる縁起物を最もユーモラスに表現したものだそうです。


財政が苦しかった江戸時代の内藤藩では、下級武士の家で内職品として盛んに作られたという話も伝わっています。


サルタヒコノカミは役目を果たした後、アメノウズメノミコト(天鈿女命)を伴い、「伊勢之狭長田五十鈴川上」(日本書紀)に向かったとされています。その場所が「日向市の伊勢ではなかったか」という話を「日向神話の本舞台11」で紹介しました。


宮崎県北にはサルタヒコノカミを祀る神社がいくつかあり、天孫降臨の際にニニギノミコトを先導したことから道祖神≠ニして、はたまた戦の神として信仰の対象とされてきました。


そのサルタヒコノカミが「のぼりざる」の由来になっているという話を聞くと、これまで以上に親しみを感じるのは私だけでしょうか。

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2019年07月09日

チキン南蛮の日に寄せて2

延岡発祥チキン南蛮党はこれまで、あの手この手で発祥のまちをアピールしてきました。その中でも大きかったのがご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」への出展でした。


B-1グランプリは、愛Bリーグ(ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会)が主催する全国規模のご当地グルメイベントです。


南蛮党は平成22年(2010)4月の愛Bリーグ総会で準会員として加盟が正式に承認されました。南蛮党の名称は、加盟時に「NAN BAN TRY」ではどこの街の何のグルメの団体が分からないと指摘されたことを受け、メンバーであれこれ考えた末に決めました。


 改名の際には記者会見を開き、党綱領と5項目からなるマニュフェストを発表しました。参院選の年で、マニフェストを遵守しない政党が多い中、「南蛮党はマニュフェストをチキン≠ニ守ります」と宣言するなど、遊び心をふんだんに盛り込んだ改名でした。


 以来、平成26年(2014)に愛Bリーグを退会するまで、23年の姫路大会、24年の北九州大会、25年の豊川大会と3回の全国大会に出展するなど、全国の舞台で「チキン南蛮は延岡発祥のご当地グルメだ」とアピールし続けました。
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 ただ、私たちが加入した当時、B-1グランプリは2日間で40〜60万人を集める超弩級のメガイベントに成長。加盟希望団体が急増したこともあり、運営本部のルールがどんどん厳格化されていく中で、国内最南端の登録団体という距離的ハンディもあったかもしれませんが、本部との意識のズレが徐々に顕著になっていきました。


 退会に至るまでいろんなことがありました。胃の痛くなるような思いもたくさんしました。今思えば、とても貴重な経験をさせていただいたと思います。そのあたりの詳しい話は、またの機会にしたいと思います。


B-1挑戦は富士宮視察が契機


 B-1グランプリというイベントの存在を最初に知ったのは、平成19年(2007)でした。


私は平成20年(2008)8月に退職するまで、夕刊デイリー新聞社で記者をしていました。最後に勤務していた日向支社時代の平成19年12月、「日向市市民活動団体リーダー養成塾」の塾生の1人として、静岡県富士宮市を視察しました。


B−1グランプリを主催する愛Bリーグ会長・渡邉英彦さんのお膝元、「富士宮やきそば」で知られるご当地グルメの先進地です。


この視察を通じ富士宮が「やきそばのまち」としてブレイクする出発点が、空洞化が進む中心市街地の活性化のために開いた市民ワークショップにあったことを知りました。


さらに、「やきそばG麺」「ミッション麺ポッシブル」「天下分け麺の戦い」「三国同麺協定」といった渡邉会長が矢継ぎ早に繰り出す“おやじギャグ”は、いわば情報をいかに加工して発信するかという戦略の一つであり、マスコミを利用する際に非常に有効なことも教わりました。


まちおこしに取り組むには地域愛や行動力、持続力は不可欠です。でもそれだけでは何か足りないと思っていただけに、マスコミ側の人間としても目から鱗の体験でした。


渡邉会長は、昨年12月19日に急逝されました。私と同じ年です。早すぎる訃報をとても残念に思いました。心から冥福をお祈りします。


日向では視察した塾生を中心に、「魅力のまち発掘プロジェクト すこっぷ」というグループを立ち上げし、日向汁食街道(ひゅうがしるくろーど)≠ネる構想を考えました。毎月飲み会を開いては、その店の名物汁物を発掘。「日向人は汁物で締める」「日向人はマイ箸、マイ丼持参」など、まちおこしにつながるネタについてワイワイガヤガヤ議論しました。


音楽によるまちおこしも活動テーマの一つでした。世界的ドラマー・神保彰さんのコンサートやジャズコンサート、まちなかハロウィン前夜祭などのイベントを主催し、日向のまちおこしに一役買ってきたと思います。グループは現在活動休止中ですが、メンバーたちは現在も、商工会議所青年部やひょっとこ夏祭り実行委員会など多方面で中心メンバーとして活躍しています。


その後、私は新聞社を辞め、勤務の拠点が延岡に戻ったことから、南蛮党(NAN BAN TRY)の立ち上げに関わらせてもらうようになり、その後、代表も務めさせてもらいました。


南蛮党はスタートからの5〜6年で、「チキン南蛮は延岡発祥という認知を広める」という当初目標については、ある程度達成できたという自負があります。


しかし、まちおこし活動に終わりはありません。私たちが活動を始めた当時は、まだ延岡は陸の孤島¥態で、「来る高速道路時代に素通りされないまちに」という目標もありました。時代の推移とともに、南蛮党の活動意義も変化してきているのも確かです。


チキン南蛮の日に毎年実施している小学校訪問授業は、次代を担う子供たちに郷土愛を持ってもらう上で大変重要な事業だと思います。毎年、趣向を変えながら活動を継続している南蛮党の現メンバーたちに心から敬意を表します。

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2019年07月05日

日向神話の本舞台13  天孫降臨と新興の母


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日向神話研究会副会長の杉本隆晴さんは、宮崎県北の日向神話の聖蹟を語る上で最も重要なのが、笠沙の岬(笠沙山=愛宕山)だと話されます。笠沙の岬が延岡にあることで、ニニギノミコトが天孫降臨した西臼杵高千穂から、亡くなって埋葬された北川町俵野の御陵墓に至るストーリーの信憑性が高まってきます。


愛宕山が今日まで江戸時代と同じ笠沙山≠フ名称だったとしたら、明治政府が日向三代神陵を鹿児島県内に比定した時や、その後の日向神話の聖蹟を巡る論争もかなり様相が変わっていたかもしれません。


愛宕神社は全国に約900社あり、愛宕山も多く存在します。しかし、笠沙≠フ名称がついた場所はほぼ皆無で、鹿児島県南さつま市の「笠沙町」ぐらいです。返す返すも残念だったと思います。


天孫降臨と新興の母


延岡の笠沙山は現在、「出逢いの聖地」とされています。杉本さんは、北川町俵野をニニギノミコトと西郷隆盛の「時空を超えた出会いの聖地」としてPRされてきた立役者ですが、今度は笠沙山についてニニギノミコトとコノハナサクヤメが出逢った「神代の出逢いの聖地」であるとともに、延岡新興の母とされる野口遵翁が延岡市民と出会った「近代の出会いの聖地」であるとして共通点を指摘されています。

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ご存じのように、野口遵翁は旭化成の前身・日本窒素肥料株式会社を創業された方です。大正12年(1923)に操業した日本窒素肥料の延岡工場(現在の旭化成薬品工場)では、野口翁がイタリアで特許を買ったカザレー式アンモニア合成法を世界で初めて実用化させ、近代化学工業史に残る快挙となりました。


野口翁は当初、熊本県八代郡鏡町の鏡工場にアンモニア合成工場を隣接させる計画でしたが、排水の問題などで地元の承認が得られず断念していました。


工場敷地を探していた野口翁が相談したのが当時の恒富村議会議員で、野口翁が工場建設に先駆けて日之影町に造った五ヶ瀬川電力株式会社社長の山本彌右衛門氏でした。


 延岡を訪れた野口翁を恒富村役場が案内した場所が笠沙山(愛宕山)でした。笠沙山から延岡平野を一望した野口翁は「五ヶ瀬川が流れ、水力発電所や工場用地もある良い所だ」と話し、持っていたステッキで「これぐらいの敷地がほしい」と円を描いたとされています。


延岡に新しい肥料工場を造ることを決めた野口翁に対し、山本氏はじめ、恒富村長の日吉幾治氏ら地元有志が積極的に協力したことで、延岡工場実現に至ったのです。


延岡にはその後、ベンベルグ工場、レーヨン工場、火薬工場などが次々に誕生し、世界を舞台に活躍する旭化成の基礎を築き上げました。


翻って、ニニギノミコトと笠沙山の関係を見てみましょう。


日本書紀によると、ニニギノミコトは笠沙の岬で吾田邑(延岡)の国主であるコトカツクニカツナガサ(事勝国勝長狭)に出会います。そこで「国在りや以不(いな)や」と尋ねると、コトカツクニカツナガサが「此に国有り。任意に遊せ」と答えます。


古事記では「此の地は、韓国(空国)に向い笠沙の御前に真っ直ぐ通じ、朝日が射す国、夕日が日照る国なり。ゆえに、この地は甚だ吉き地」と仰せられ、宮殿(高千穂の宮)を建てて住むことにしました。


その後、オオヤマツミノカミ(大山祇命)の娘・コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)に出逢い、一目惚れして結婚します。さらに、ホオリノミコト(火遠理命=山幸彦)ら3人の皇子が誕生、大和統一を果たす初代天皇・神武天皇へとつながっていきます。


杉本さんは、主人公をニニギノミコトから野口翁に置き換えて考えると、背景、案内人、決断の聖地、最初の相談人、条件、結婚相手(誘致決定)、拠点となる施設、子孫(企業)拡大、東征(全国進出)といったプロセスが、酷似していると言うのです。


笠沙山は、「神代の出逢いの聖地」であるとともに、 野口遵翁が延岡市民と出会った「近代の出会いの聖地」 としてPRしていけると最高でしょうね。


 
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2019年07月04日

日向神話の本舞台12 神武東征

神武天皇の東征出発

日向神話のフィナーレを飾る人物が、カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の初代天皇・神武天皇になる人です。


ニニギノミコトの孫に当たるウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依姫)の間に生まれた4人の皇子の一番下の皇子です。


記紀によると、イワレビコノミコトは45歳の時、吾田邑の高千穂の宮で、兄のイツセノミコト(五瀬命)らと「葦原中国(日本)を治めるにはどこにいくのが適当か」と相談しました。


そしてシオツチノオジ(塩土老翁)から聞いた「東にある美しき地は、四方を青山に囲まれ、既にニギハヤヒノミコト(饒速日命)が天降っている」という大和国(奈良県)を目指し、出発することになりました。


その出発の地とされているのが、日向市の美々津です。

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地元の伝承などによると、神武天皇は、美々津で船の建造にかかります。指揮をとる忙しさから、衣のほころびも立ったまま縫い合わせたことから美々津の別の地名でもある「立縫(たちぬい)」という言葉が生まれたとされています。


耳川を挟む対岸、港柱神社と権現山のある幸脇(さいわき)から凧を揚げ、海に漕ぎ出でる機会をうかがっていたところ、旧暦8月1日の夜明け前に最良の日と判断。急きょ、出航命令を下され出発することなり、寝入っていた家々の戸を叩き「おきよ、おきよ」とふれまわって、出航に間に合わせたとされています。


出航を見送る人々は、急いで用意していた餡(あん)と米粉の団子を一緒について混ぜた「つき入れ餅」を奉じ、一行を見送ったとされています。


こうした故事にちなみ、美々津では毎年旧暦の8月1日に「おきよ祭り」が行われています。


また、神武天皇の船は、美々津沖の岩礁・七ツ礁と一ツ神の間を通って大和に旅立ち、戻ってこなかったことから、今でも地元の漁師さんが漁に出るとき、ここは通らないという風習が残っています。


美々津にある「立磐(たていわ)神社」は、東征出発の際に、一行の安全を祈念しふ頭に海上守護神である底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)、いわゆる住吉三神≠奉祭したことにちなみ、12代景行天皇が創建されたとされています。


境内には、神武天皇がしばし腰掛けて身を休めたとされる「御腰掛岩」が祀られています。


昭和17年(1942)9月10日には、神武天皇の東征水軍が出発した聖地として、時の内閣総理大臣・米内光政(よないみつまさ)が揮毫(きごう)「日本海軍発祥之地」の碑が建立されています。

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神武天皇東征出発地は、明治政府が日向三代神陵を比定した鹿児島県にも、当然のごとく存在します。


一カ所目が、鹿児島県霧島市福山町にある「宮浦宮(宮浦大明神社)」です。境内にある2本の銀杏の大木は、神武天皇の東征前の仮の宮居であったことを記念して植えられたと言われています。由緒書きには「古く、遠く神代の頃、神武天皇が東征に出発した地である」とあります。


もう一カ所が、鹿児島県肝属郡東串良町にある「戸柱神社」です。東串良漁港(柏原港)の丘にある神社で、境内に「神武天皇御発航伝説地」の石碑が建立されています。由緒書きの中で、「一説によれば神武天皇御東遷の際、準備発航の地である新川西字田畑の降神山(皇神山)に航海安全を祈って創建されたものを、約千年前に当地に遷座されたと言う」としています。


 鹿児島では「神武天皇は宮浦宮を出発し、柏原港からお船出をした。そして航海の途中で美々津に立ち寄った」ことになっているということです。高千穂峰に始まって、笠沙の岬、日向三代の御陵、東征出発の地と、日向神話に関するストーリーの全てが鹿児島県内で綺麗に完結するようにできています。



宮崎県総合政策部みやざき文化振興課記紀編さん記念事業推進室が運営するホームページ「神話のふるさと宮崎」によると、神武天皇は高原町の「皇子原」で生まれたとされ、幼少期、サノノミコトと呼ばれていました。高原町には、その名を冠した「狭野(さの)神社」、幼いころ遊んだとされる「御池」などがあります。


東遷の際、宮崎市の「皇宮屋(こぐや)」で約30年を過ごし、45歳で日向の美々津港から出立しました。美々津に向かう途中、新富町の湯ノ宮で湯浴みをされ、そこで突き立てた杖が梅の木となり、「湯之宮座論梅」が生まれました。さらに都農町の「都農神社」で祈願し、美々津に到着した−−とされています。


神武東征に関しては、宮崎県内の聖蹟が上手に登場していい話だと思います。ただ、吾田邑(延岡)の高千穂宮で決めた東征だったとする記紀の記述からすると、少し矛盾を感じるのは私だけでしょうか。


神武天皇に大和の地の素晴らしさを教えたシオツチノオジ(塩土老翁)は別名、コトカツクニカツナガサ(事勝国勝長狭神)と言います。ニニギノミコトを笠沙の岬に誘った吾田邑の国主であり、兄の釣り針を無くして困り果てていたホオリノミコト(山幸彦)を海神之宮に行かせた人です。


 吾田邑がどこであったかという論点にもつながるかもしれませんが、神武天皇らは吾田邑に住んでいて、すぐ南にあった良港、美々津からお船出したと素直に解釈した方が自然なように感じるのですが…。
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2019年07月01日

日向神話の本舞台9


可愛山陵はどこか


延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ、727メートル)の頂上付近に鎮座する「鉾岩」を見たのは、2010年11月3日に地元が主催して開いた登山会が最初でした。


高千穂に降臨した天孫・ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)が笠沙の岬でコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)と出逢い、結婚し、神武天皇につながる3人の子供たちが生まれます。


しかし、永遠の命の象徴だった姉のイワナガヒメ(石長比売)を送り返したことで、天つ神に寿命ができました。ニニギノミコトに死が与えられました。


では、ニニギノミコトのお墓(御陵墓)はどこにあるのでしょうか? 「天孫降臨の地・高千穂はどこか」や「笠沙の岬はどこか」と同様に、日向神話を語る上で重要な論点になっているのです。


可愛岳の麓には、宮内庁がニニギノミコトの御陵墓の参考地と認めた経塚古墳があります。また、可愛岳頂上付近には巨石遺跡が点在し、そこにある鉾岩、もしくは三本岩が御陵そのものとの説もあります。


御陵墓とされる場所は、各地にあります。明治政府が比定した鹿児島県薩摩川内市の新田神社の社殿の背後にある可愛山陵が有名ですが、そのほか、西都市の男狭穂塚(おさほづか)や、延岡市内でも天下町の天下神社にある1号古墳などがそうです。

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そこで、可愛岳の御陵を自ら確認すべく登山会に参加したのです。


「頂を思わせるような大きな岩がせり出し、そのてっぺんに鉾先状の奇岩が、誰かが故意に立てたような形で配置されている」


「広大な日向灘はもとより、延岡市内、遠くは日向市内までを見渡せる孤高の場所にデーンと鎮座する『鉾岩』。天を突くぐらい巨大な神様が、まるで真上からそっと岩を置いたかのようだ。その様子を間近に見て、胸が高鳴った」


その時の感想を、自社発行のフリーペーパー「0982」に掲載しました。。鉾岩からは笠沙山(愛宕山)を含む延岡平野が見渡せ、遠くは日向市内まで遠望できます。現地を実際に訪ねてみて、なんとも表現しがたい底知れぬパワーを感じました。


日本書紀には、ニニギノミコトの埋葬地に関して「久(ひさ)にありて天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)朋(かむあが)りましぬ。因(よ)りて筑紫日向(つくしひむか)可愛(え)此をば埃(え)と云ふ。之山陵(のみささぎ)に葬りまつる」とあります。


ニニギノミコトは死後、日向国の可愛之山陵(えのさんりょう)に葬られたとハッキリ記述しています。


「可愛」と書いて「え」と読みます。日本国内でこの名前を持つ山は延岡市の可愛岳とその麓の集落だけだそうです。


また「延喜式」(927年)に「日向埃山陵。天津彦彦火瓊瓊杵尊、在日向国、無陵戸」とあります。同じ「延喜式」には「凡そ日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬等の国島の博士・医師は…」との記述があり、可愛山陵は日向国であり大隅国、薩摩国を含むものではないことが分かります。



江戸時代の享和2年(1802)には、内藤家12代延岡藩主内藤政韶が可愛岳の調査を試み、地元で鬼の築山と呼ばれる塚こそ御陵墓であると述べたとされています。鬼の築山は現在の経塚古墳です。


大正から昭和初期に周辺の巨石群を調査した考古学者・鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)博士は、この経塚古墳について「有石棺古墳」ではないかとしています。


また、延岡藩の国学者・樋口種美は延喜式の記述にある「無陵戸」を取り上げ、陵戸とは御陵の守り人であり、可愛山陵は誰も守る人のないところにあるとし、三本岩が御陵そのものとしました。


「宮崎縣史跡調査」の可愛神社(可愛権現神社)の項によれば、「ニニギノミコトの崩御があって、可愛山頂に埋葬したところを鉾岩と云う。ここに崇神天皇の御宇に社殿が建立されたが、参路が峻険で参拝が至難のため、平易な地へ社を創建して、そこから遙拝したのがはじまりである」とされています。


これに対し、明治新政府は明治7年(1874)、日向神代三陵(神代三山陵)として新田神社の可愛山陵のほか、高屋山上陵(鹿児島県霧島市溝辺町)をホオリノミコト(天津日高彦火火出見尊)、吾平山上陵(鹿児島県鹿屋市)をウガヤフキアエズノミコト(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵)の陵にそれぞれ治定しました。


本居宣長の古事記伝などの影響に加え、「日向」が、日本書紀編さん当時は大隅、薩摩をも含んでいたこと、明治維新を先導した薩摩藩士が時の政府の中枢にいたこと、当時の延岡藩には財政的余裕がなく御陵があることがかえって迷惑とする風潮があったことなどが挙げられます。


これにより天孫降臨の地・高千穂、笠沙の岬含め初代天皇・神武天皇につながる皇祖の遺跡は全て、鹿児島県内にあることになり、辻褄が合うことになります。

しかしその後、国学者や宮内庁の調査官の調査により、やはり北川の可愛岳が有力という結論が出され、明治28年(1895)に「御陵墓」となり、大正15年(1926)に「陵墓参考地」と改称されました。


地元では、俵野(ひょうの)≠フ地名はコノハナサクヤヒメが火中出産したことにちなみ「火生野」が転じたものとされています。


天孫降臨の地が高千穂で、降臨したニニギノミコトは五ヶ瀬川を下り笠沙の岬(愛宕山)にたどり着き、3人の皇子が生まれ、その地で永遠の眠りについた。鹿児島説に負けないほど、いやそれ以上に辻褄が合うと思いませんか?


「北川町史」によれば、可愛神社近くの成就寺がある場所には、以前は可愛寺という寺があり、10代の崇神(すじん)天皇および11代の垂仁(すいにん)天皇が、ニニギノミコトの可愛山陵を奉祭するために、勅使(天皇の御使)が参向したとき、仮泊所としたところであると伝えられています。


三重大学名誉教授の宮崎照雄さんは陵墓参考地にはかつて2基の円墳があり、1基は破壊され、残りの1基が宮内庁指定の経塚であるとし、「2基の円墳の主は瓊瓊杵尊と木花開耶姫と比定しても不合理ではないのではないか。私は『陵墓参考地』に残る塚こそ、瓊瓊杵尊か木花開耶姫の陵墓であると考える」としています。


また、可愛岳山頂付近の奇岩については、「瓊瓊杵尊の依代(現代流に言えば墓標)であり、山頂に何らかの遺品を埋納し、遺骸はその麓に葬られたとしたい」と分析しています。


私も伝承はもとより、文献的にも俵野の「陵墓参考地」こそ、ニニギノミコトのお墓という可能性が極めて高いように思います。

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2019年06月27日

日向神話の本舞台7



延岡の地名、名称に関する話の続きを書こうと思いましたが、Facebookの方に延岡市史編さんを願う会副会長の渡邉斉己さんから「笠沙の岬」に関するコメントをいただきましたので、ご紹介します。


−−「愛宕山は江戸時代のはじめまで『笠沙の岬』と呼ばれていたと言いますが、一般的にはほとんど知られていなかったようですね。戦後初めて高千穂論争に手をつけた安本美典でさえ『瓊瓊杵の尊は、笠沙の地に至ったことになっているが延岡方面には、笠沙に当たる地を求めにくいようである』と『邪馬台国はその後どうなったか』に書いています」


「延岡では誰が知っていたか。石川恒太郎さんが書いた『延岡市史』には、先述した文献上の根拠と『片田』という地名が『笠沙』の転化したものと言われる、ということが書いてあります。確か鳥居龍蔵の『上代の日向延岡』(昭和10年=1935)の添付文書にも同様の記述があったように記憶しますが、江戸時代から今日まで延岡の『笠沙の岬』と呼ばれたことが研究者の注意を喚起したことがあったのか? 明仁天皇が延岡を訪れた時、笠沙山はどこかとお聞きになったが、案内した延岡の人は誰も答えられなかった、などという話がありますが本当ですかね」−−

愛宕山夜景.jpg



この話が本当だとしたら由々しきことですね。天皇家には代々、「笠沙の岬」は延岡にあるということが言い伝えられていたのかもしれませんね。それを当の延岡市民が知らなかったとは、非常に恥ずべきことだと思いませんか。


平成10年(1998)に刊行された「宮崎県史・通史編古代2」でも、「日向神話の舞台が、襲高千穂峰・笠沙(現在の鹿児島県川辺郡笠沙町付近か)などであり」と書かれています。延岡市にも宮崎県にも、愛宕山=笠沙の岬≠ニいう認識は一切なかったことの表れでしょう。 日本最初のロマンスの地 ≠ヘ、いつの間にか歴史の闇に葬られてしまっていたようです。


延岡市が「愛宕山」が「笠沙の岬」だったことに着目し、出逢いの聖地≠ニして整備し、情報発信するようになったのは10数年前から。神話研究会会長で「笠沙の会」会長の有留秀雄さんたちの熱心な運動が実ってきた形ですが、有留さんは鹿児島県種子島出身。外からの目で、延岡に埋もれていた財産を発掘してくださったことに唯々感謝しかありません。


杉本隆晴さんによると、鹿児島県史が「笠沙の岬」としている野間岬がある鹿児島県南さつま市笠沙町は、大正11年(1922)に西加世田村から笠沙村に改称、昭和15年(1940)に町制を施行し笠沙町に改称しています。


 笠沙町に昔から笠沙≠ニいう古名があったかどうかは知りませんが、これは鹿児島県内に「可愛山陵」などを次々に比定していった明治政府の流れを受けての改称だと考えるのが妥当だと思います。
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2019年06月26日

日向神話の本舞台6 地名・名称について


日本神話にちなんだ地名・名称


「笠沙山(笠沙の岬)」以外にも、日本神話にちなんだ地名、名称が延岡にはたくさんあります。


まず川の名前です。「大瀬川」が「逢瀬川」だったことは前回紹介しました。「五ヶ瀬川」もウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)とタマヨリビメ(玉依毘売)との間に生まれた4人の皇子の長兄・イツセノミコト(五瀬命)の名前にちなんで「五ツ瀬川」と名付けられていたようです。一番下の弟がカムラヤマイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)、後の神武天皇です。


何度か紹介する江戸時代の「日向国名所歌集」には、延岡の国学者・安藤通故(あんどう・みちふる、1833〜1898)が詠んだ「可愛(え)の山は霞にきえて打けむる五ツ瀬の川に春雨そふる」があり、当時は「五ツ瀬川」と呼ばれていたことが分かります。

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五ヶ瀬川を見下ろす吉野町の高台にある水谷(みずや)神社は、イツセノミコトの新居があった場所とされています。


時代の変遷に応じて地名・名称が変わることはよくありますが、「笠沙山」にしても「逢瀬川」、「五ツ瀬川」にしても、日本最古の書・古事記の舞台だったことを伺わせる地名・名称だけに、残念な改名だとは思いませんか。


大きな瀬(瀬とは流れが速く水深が浅い場所)があるから「大瀬川」、5つの大きな瀬があるから「五ヶ瀬川」ではなく、「古事記・日本書紀に由来する名前なんですよ」の方が情緒があり、心に染みると思います。

延岡市内にはもう一つ、「祝子川」があります。市外の人で祝子≠「ホウリ」と読める人はなかなかいません。

この川も、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた3人の皇子のうち、最後に生まれたホオリノミコト(火遠理命)が、産湯を使ったことからこの名称がついたとされています。ホオリノミコトは後に山幸彦と呼ばれる方で、神武天皇の祖父に当たります。

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2019年06月25日

日向神話の本舞台5 笠沙の岬2



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「笠沙の岬はどこか?」の続きです。


「古事記」や「日本書紀」になじみのない人に、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇藝命)とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売)の出逢いの話をかいつまんで紹介します。


ある日、ニニギノミコトは笠沙の岬で、麗しい美人に出逢い、一目で恋に落ちてしまいます。ニニギノミコトが「あなたは誰の娘か」と尋ねると、「オオヤマツミノカミ(大山津見神、大山祇神)の娘で、コノハナサクヤヒメと申します」と答え、続けてニニギノミコトが兄弟について尋ねると「姉のイワナガヒメ(石長比売)がおります」と申し上げました。


そこでニニギノミコトは「あなたと結婚したいと思うが、どうか」と尋ねると、「私から申し上げることはできません。私の父、オオヤマツミノカミが申し上げることでしょう」と答えました。


早速、ニニギノミコトはオオヤマツミノカミの所に使いを遣わせると、オオヤマツミノカミは大いに喜び、コノハナサクヤヒメに姉のイワナガヒメを添えて、たくさんの嫁入り道具をも持たせて、送り出しました。


ところが、容姿端麗なコノハナサクヤヒメに比べ、姉のイワナガヒメの容姿は醜かったようで、驚いたニニギノミコトはその日のうちにイワナガヒメを実家にお返しになりました。


父親のオオヤマツミノカミはイワナガヒメだけが送り返されてきたので、大きく恥じ「2人の娘を並べて差し出したのは、イワナガヒメを側において頂ければ、天つ神御子(ニニギのこと)の命は、雪が降り、風が吹いたとしても、常に石のように変わらず動きませんように。また、コノハナサクヤヒメを側において頂ければ、木の花が栄えるように栄えますようにと、願をかけて送り出したからです。コノハナサクヤヒメ一人を留めたのですから、今後、天つ神御子の命は、木の花のようにもろくはかないものになるでしょう」と嘆きました。


この出来事のため、スメラミコト(天皇命)たちの命が限りあるものとなり、寿命が与えられました(以上、竹田恒泰著「現代語古事記」=学研=参照)。

愛宕山を「日本最初の縁結びスポット」に


オオヤマツミノカミは、イザナキノカミ(伊耶那岐神)とイザナミノカミ(伊耶那美神)が大八島に住むべき神々をお生みになった「神生み」の際に生まれた神の一人です。山の神≠ニして知られており、全国に897社ある大山祇神社や山神社の主祭神となっています。


また、古代では結婚は家同士の結びつきなので、一人の男性に姉妹が同時に嫁ぐ姉妹婚はよく行われていたようです。「記紀」が示す地上世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるために天降りした天つ神の御子のニニギノミコトと、国つ神の一人で山の神であるオオヤマツミノカミの娘の結婚は、最高の良縁だったのです。


しかしながら、永遠の命の象徴とも言えるイワナガヒメを実家に送り返したことで、ニニギノミコトを始祖とする皇族に寿命が与えられたということになります。


ニニギノミコトは延岡市北川町俵野に、お墓である陵墓参考地がありますし、その子供のホオリノミコト(火遠理命=山幸彦)、孫のウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)、ひ孫のカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命=後の神武天皇)らも各地にお墓が比定されています。


これに対し、天孫降臨前のアマテラスオオミノカミ(天照大神)ら高天原の神々には寿命がありません。明治天皇の玄孫の竹田恒泰さんいわく、「ですから伊勢神宮は天照大神のお住まいとしておまつりしているのです」。

ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出逢った笠沙の岬である愛宕山は今、延岡市も「出逢いの聖地」としてアピールしており、展望台には出逢いの鐘や鍵掛けモニュメントなどが設置されています。


私もある夜、夜景の撮影に展望台に行っていたら、訪れたカップルが鍵(錠前)を掛けた後、そのキーをモニュメントの一段下にあるカワヅザクラ林の方に投げ捨てました。ビックリしました。キーを捨てることで永遠の愛を誓ったのかもしれませんが、「もし別れちゃったらどうするんだろう。あのキーを拾いに行くのかな」と思いました。


どうせなら、この林の中に鵜戸神宮にある運玉入れのようなターゲットを設けて、そこにキーが入ったら「2人は永遠に別れません」といった都市伝説を流布し、竹田さんが言う「日本最初の縁結びスポット」として大々的に売り出してもいいと思います。


この際、「愛宕山」の名称を、古来からの「笠沙山」に戻してはいかがでしょうか?


私は県外市外からの来訪者をご案内してまちあるきする機会が多々あります。その際、笠沙の岬(愛宕山)のいわれを説明しながら「日本最初のナンパスポットです」と紹介しています。不謹慎かもしれませんが……。
オブジェにかけられた多数の鍵.jpg


大瀬川は「逢瀬川」だった



大瀬川の古名は「逢瀬川」だったようです。ニニギノミコトがこの川を渡って笠沙の岬側にお屋敷があったコノハナサクヤヒメと逢瀬を重ねたとされています。前回紹介した「日向国名所歌集」には、編者の安藤通故が詠んだ「わたらはや袖はぬるともまたれつる人に逢瀬の川とおもへは」の歌など、逢瀬川にちなんだ歌が収められています。


私の住む大貫も「王ノ城」(おおのき)が転化したものという説があります。ご先祖様が眠る浄土寺山の墓地周辺には、県内最古とされる大貫貝塚、延岡で唯一の横穴式石室が現存する「第24号墳」など古墳が点在し、古代からたくさんの人が住んでいたことは明らかです。


三重大学名誉教授の宮崎照雄さんはニニギノミコトが築いた「高千穂の宮」は、延岡市天下町のどこかだとしていますが、私は王の城=Aつまり私の住む大貫ではなかったかと思います。私論です。
延岡平野の図.jpg


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