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2014年07月10日

ドラえもん最終回








ドラえもんとのび太の別れ

のび太とドラえもんに別れの時が訪れます。それは、なんともあっさりと...。

のび太はいつものように、宿題をせずに学校で叱られたり、はたまたジャイアンにいじめられたり、時にはスネ夫の自慢話を聞かされたり、未来のお嫁さんであるはずのしずかちゃんが出来杉との約束を優先してしまう、などなど、とまあ、小学生にとってはそれがすべての世界であり、一番パターン化されてますが、ママに叱られたのかもしれません。とにかく、いつものように、あの雲が青い空に浮かんでいた、天気のいい日であることは 間違いないことでしょう。

そんないつもの風景で、ドラえもんが動かなくなっていた...。
当然、のび太にはその理由は分かりません。喋りかけたり、叩いたり、蹴ったり、しっぽを引っ張ってみたりもしたでしょう。 なんの反応も示さないドラえもんを見てのび太はだんだん不安になってしまいます。

付き合いも長く、そして固い友情で結ばれている彼ら、そしてのび太には動かなくなったドラえもんがどういう状態にあるのか、小学生ながらに理解するのです。 その晩、のび太は枕を濡らします。ちょこんと柱を背にして座っているドラえもん...。のび太は眠りにつくことができません。泣き疲れて、ただぼんやりしています。

ドラえもん故障の原因究明

 無駄と分かりつつ、いろんなことをしました。できうることのすべてをやったのでしょう。 それでも何の反応も示さないドラえもん、泣くことをやめ、何かしらの反応をただただ、だまって見つめ続ける少年のび太。 当然ですがポケットに手を入れてみたり、スペアポケットなんてのもありましたが動作しないのです。そして、なんで今まで気付かなかったのか、のび太の引き出し、そう、タイムマシンの存在に気がつくのです。ろくすっぽ着替えず、のび太はパジャマのまま、22世紀へとタイムマシンに 乗り込みます。

これですべてが解決するはずが...。
のび太は、なんとかドラミちゃんに連絡を取り付けました。しかし、のび太はドラミちゃんでもどうにもならない問題が発生していることに、この時点では気が付いていませんでした。いえ、ドラミちゃんでさえも思いもしなかったことでしょう。 「ドラえもんが治る!」、のび太はうれしかったでしょう。 せかすのび太と状況を完全には把握できないドラミちゃんはともにかくにも20世紀へ。

しかしこの後に人生最大の落胆をすることになってしまうのです。 動かないお兄ちゃんを見て、ドラミちゃんはすぐにお兄ちゃんの故障の原因が分かりました。 正確には、故障ではなく電池切れでした。そして電池を交換する、その時、ドラミちゃんはその問題に気が付きました。予備電源がない...。

いよいよクライマックス

衝撃の真実! 
のび太には、なんのことか分かりません。早く早くとせがむのび太にドラミちゃんは静かに伝えます。 『のび太さん、お兄ちゃんとの思い出が消えちゃってもいい?』 当然、のび太には理解できません。

なんと、旧式ネコ型ロボットの耳には電池交換時の予備電源が内蔵されており、電池交換時にデータを保持しておく役割があったのです。そして、そうです、ドラえもんには耳がない...。

のび太もやっと理解しました。そして、ドラえもんとの思い出が甦ってきました。初めてドラえもんに会った日、数々の未来道具、過去へ行ったり、未来に行ったり、恐竜を育てたり、海底で遊んだり、宇宙で戦争もしました。鏡の世界にも行きました。どれも映画になりそうなくらいの思い出です。

ある決断を迫られます...。
ドラミちゃんは、いろいろ説明をしました。ややこしい規約でのび太は理解に苦しみましたが、電池を交換することでドラえもん自身はのび太との思い出が消えてしまうこと、今のままの状態ではデータは消えないこと、ドラえもんの設計者は、設計者の意向で明かされていない(超重要極秘事項)ので連絡して助けてもらうことは不可能であるという、これはとっても不思議で特異な規約でありました。

ただ修理及び改造は自由であることもこの規約に記されていました。 のび太はドラミちゃんにお礼を言います。そして「ドラえもんはこのままでよい」と一言、告げるのです。ドラミちゃんは後ろ髪ひかれる想いですが、何も言わずにタイムマシンに乗り、去っていきました。 のび太、小学6年生の秋でした。
のび太の決意!

あれから、数年後...。
のび太の何か大きく謎めいた魅力、そしてとても力強い意志、どこか淋しげな目、眼鏡をさわるしぐさ、 黄色のシャツと紺色の短パン、しずかちゃんが惚れるのに時間は要りませんでした。外国留学から帰国した青年のび太は、最先端の技術をもつ企業に就職し、そしてまた、めでたくしずかちゃんと結婚しました。そして、それはそれはとても暖かな家庭を築いていきました。

ドラミちゃんが去ってから、のび太はドラえもんは未来に帰ったとみんなに告げていました。そしていつしか、誰も「ドラえもん」のことは口にしなくなっていました。しかし、のび太の家の押入には「ドラえもん」が眠っています。 あの時のまま...。

のび太は技術者として、今、「ドラえもん」の前にいるのです。
小学生の頃、成績が悪かったのび太ですが、彼なりに必死に勉強しました。そして中学、高校、大学と進学し、かつ確実に力をつけていきました。企業でも順調に、ある程度の成功もしました。 そしてもっとも権威のある大学に招かれるチャンスがあり、のび太はそれを見事にパスしていきます。 そうです、「ドラえもん」を治したい、その一心でした。

人間とはある時突然変わるものなのです。それがのび太にとっては「ドラえもんの電池切れ」だったのです。修理が可能であるならば、それが小学6年生ののび太の原動力となったようでした。

自宅の研究室にて...。
あれからどれくらいの時間が経ったのでしょう。 しずかちゃんが研究室に呼ばれました。絶対に入ることを禁じていた研究室でした。中に入ると夫であるのび太は微笑んでいました。そして机の上にあるそれをみて、しずかちゃんは言いました。『ドラちゃん...?』 のび太は言いました。『しずか、こっちに来てごらん、今、ドラえもんのスイッチを入れるから』 頬をつたうひとすじの涙...。

しずかちゃんはだまって、のび太の顔を見ています。 この瞬間のため、まさにこのためにのび太は技術者になったのでした。なぜだか失敗の不安はありませんでした。こんなに落ち着いているのが変だと思うくらいのび太は、静かに、静かに、そして丁寧に・・・・何かを確認するようにスイッチを入れました。 ほんの少しの静寂の後、長い長い時が繋がりました。

『のび太くん、宿題は済んだのかい?』
ドラえもんの設計者が謎であった理由が、明らかになった瞬間でもありました。
あの時と同じように、空には白い雲が浮かんでいました。







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心にしみる詩・・・・








A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED
「悩める人々への銘」

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

「大きなことを成し遂げるために 
 強さを与えてほしいと神に求めたのに
 謙遜を学ぶように
 弱さを授かった」

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things...

「偉大なことができるようにと
 健康を求めたのに
 よりよきことをするようにと
 病気を賜った」

I asked for riches, that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise...

「幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった」

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God...

「世の人々の称賛を得ようとして
力と成功を求めたのに
得意にならないようにと
失敗を授かった」

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things...

「人生を楽しむために
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために
人生を授かった」

I got nothing that I asked for―but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!

「求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
私はもっとも豊かに祝福されたのだ」

AUTHOR UNKNOWN, 作者不詳
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「悩める人々への銘」はニューヨーク大学の壁に掲げられている詩です。
南北戦争に従事した南軍の兵士が作ったものと言われています。

 1950年代、スティーブンソンは52年56年の大統領選に民主党候補として出馬して二度ともアイゼンハワーに敗北した。失意のさなか田舎の教会でスティーブンソンはこの詩を見つけこの珠玉の言葉によって思慮深い人間に立ち直った。

 スティーブンソンは1965年国連大使として次のような演説を残している。

 『われわれはみな、旅のみちずれ、小さな宇宙船の乗客
       いまにも壊れそうなこの船に、十分な配慮と愛情を注ごう』

小さな歴史。








エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜

和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変なことが起こらなければいいが」

灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている。

ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。

「息子よ、起きなさい」懐かしい母が耳元で囁いているようだった。

「お母さん」という自分の声で意識がもどった。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。

「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」

「・・・・・・」

言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る」

傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。

「樫野の人たちに知らせよう」

灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。村の男たちは泣いた。

遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。

「一人でも多く救ってあげたい」

しかし、大多数は動かなかった。

一人の男が叫ぶ。

「息があるぞ!」

だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めはじめた。

「死ぬな!」

「元気を出せ!」

「生きるんだ!」

村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。

このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない」

「どうしよう!」 一人の婦人が言う。

「にわとりが残っている」

「でも、これを食べてしまったら・・・・・」

「お天とうさまが、守ってくださるよ」

女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。

なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。

前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

以上、エルトゥールル号の話は111年前の真実で、16年前のイラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。決して、多くに知られてはいない真実あなたはどう思いましたか?

辛いニュースが多い世の中にほんの少しやさしさを取り戻せる、この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・



ここまでなら美談で終わるのですが、残念がら話はここで終わりません。
実は、後日談でとても残念な事態が起きます。
時代がさらに下って、平成8(1996)年のことです。

新潟県柏崎市に、新潟中央銀行がバックアップするテーマパーク「トルコ文化村」がオープンします。 トルコ政府は、これを大いに喜び、日本とトルコの友情のためにと、 柏崎市にトルコ共和国の建国の父ケマル・パシャの像を寄贈してくれます。

実にありがたく、また名誉であり、うれしいことです。 トルコ村は、テーマパークの広場の中心に、高さ5メートルのケマル像を堂々と飾ります。

ところが平成11(1999)年、メインバンクの新潟中央銀行が経営破綻します。 トルコ村は資金繰りが悪化。 平成4(2002)年には、柏崎市がトルコ村を買い取るのだけれど、平成6(2004)年には、トルコ村は倒産してしまいます。

心配したトルコ大使館は、在日トルコ企業の出資も含めた支援を、柏崎市の会田洋市長に伝えます。 ところが、社民党系の会田洋(あいだひろし)市長は再三のトルコ大使館からの申し出に返事もせず、 ブルボン(支援を申し出た製菓会社)の計画も無視します。

あげくに、地元のラブホテル業者にテーマパークを払い下げてしまった。 その結果・・・ ここに、柏崎トルコ友好協会が柏崎市長会田洋に出した平成19年10月15日付の 「厳重な抗義と早急な善処についての要望書」と題する書面があります。 原文はPDFで見ることができます。

http://miida.cocolog-nifty.com/nattou/files/071015_k-turky.pdf

この要望書にもありますが、平成6年のトルコ村倒産以降、平成19年のこの文書提出時点まで、 日本とトルコの有効の象徴である「アタチュルク像」は、なんと、 「像が無造作に横倒しに放置され、ブルーシートに覆われて一部露出の状態」にあった。

誰が見ても、これは親日的なトルコ政府や、トルコ国民にとって屈辱的行為です。 そこで、柏崎トルコ友好協会は、

(1) 「アタチュルク像」の尊厳を保持出来る条件の場所に速やかに移動せよ。 (2) そのために必要な協議の場を設けよ。 (3) 善処後の結果を在日トルコ大使館並びに当友好協会に文書をもって報告せよ。

と書面をもって問合せを行います。 ところが、この書面を受け取った柏崎市会田市長は、これを握りつぶし、なんの返答もしない。 「柏崎トルコ友好協会」は、平成20年1月にも「放置されたアタチュルク像の対処に関する誠意ある回答についての催告」という書面を送付します。 (クリックするとその書面を読むことができます)。

ところが、この催告書に対しても、会田洋柏崎市長は、まるで無視。

この件では、トルコ大使館も激怒し、 「本件は、日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません」と、 外交文書としては、異例の厳しい抗議文何度も出しています。

これについても、会田市長は議会に知らせることもなく、まったく無視。 ちなみにこの社民党・会田洋市長の愛読書は司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、 市長としてのスローガンは<「ガンバロウ!糠け 柏崎>なのだそうです。なにを頑張るんだか・・・・

平成21年になって、柏崎市は、市のHPに、次の記事を掲載します(いまはもう消されています)。

「アタチュルク像の再建に向けて努力しています」 旧柏崎トルコ文化村にあるアタチュルク像ついては、在日トルコ共和国大使館の理解を得て、 平成18年に土地及び他の物件と共に民間会社に売却したものです。

会社も利用計画の中でこの像の活用を意図し、実際にその用途に供しておりました。 残念ながら新潟県中越沖地震で被害を受けたため取り外し、施設内で保管されているものであります。

市としては、会社から無償譲渡してもらい、しかるべき場所へ建立をするべく会社側と交渉をしているところですが、 他の案件で裁判になっていることからなかなか折り合えない状況となっております。 このことは、在日トルコ共和国大使館及び外務省に対して経過を説明し理解をいただいているところであります。

今後もしかるべき場所への再建をめざし、引き続き粘り強く会社側と交渉を続けてまいります。 また、必要に応じて在日トルコ共和国大使館や外務省と連絡を取りながら進めてまいりたいと考えております。 (2009年2月20日(金曜日) 9時3分)

トルコ大使館の激怒が「在日トルコ共和国大使館の理解を得て」?! 像を倒したままにして粗末なブルーシートで覆うことが、「施設内で保管」?!

うまいこと言いかえるものです。 まるでどこかの国のプロパガンタです。

ちなみに「ケマル・アタテュルク像」の寄贈に際し、ケマル・アタテュルクは本来トルコ建国の父であり、 トルコの人々は、彼の凛とした軍装を好むけれど、トルコ大使館は、武装を嫌う日本に最大限に配慮して、 非軍服姿の像を寄贈してくれている。 非軍服姿の「ケマル・アタテュルク像」というのは、それだけでもものすごく貴重な像なのです。

結局、この「ケマル・アタテュルク像」は、日本財団によって、今年3月18日、 東京のお台場「船の科学館」に移設されて修復するとともに一般公開され、今年5月中旬、 修復終了とともに、トルコ軍艦エルトゥールル号ゆかりの地である和歌山県串本町に移設されることになりました。 (日本財団=財団法人日本船舶振興会、会長笹川陽平氏。笹川良一氏の三男)

とりあえずは、ほっと一安心です。
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それは誰が決めるのか







    強い者と 戦う時は
    ただただ ひたすら 自分を信じればいい

    弱い者に真実を語る時は 少しだけ気をつけろ
    裏目裏目に 愛が転がる

    誰かの弱さを ひき上げたいなどど
    うぬぼれた己れの 恥を知ったなら

    夕暮れが青春を まっさかさまに ずり堕ちて行く前に
    事実を どてっ腹で 受けとめろ

        長渕 剛 『 JAPAN 』(1991,東芝EMI株式会社)
        「JAPAN」(詞・曲:長渕剛)より一部抜粋。


 その人のためと思って力になっても,次第に相手の依存度が高くなり、そのうち負担になってもの別れに終わっ てしまう。 逆に、ひどい仕打ちを受けることもある。

その人は実際「弱い者」だったのかもしれない。
けれど,自分は「強い者」だったのだろうか。

「ひき上げたい」と思った時点で、自分の心の位置は、その人の高さにないということに、ひとは気づいていなけ ればいけない。

ところが相手がそのわりに感謝をしない。ろくなお礼も言ってくれない。そんな時,人間はどう思う?

「あんなに世話をしてやったのに...」
「あんなにつくしてやったのに...」と思う。
そしてその後はぐち(愚痴)が出る。

こうなると、世話になった方にも言い分がある。
「少しぐらい世話をしたからといって恩に着せるなら、してくれない方がいい」 なんてことになる。

    人間関係がまずくなるのは大体において、この「のに」と「ぐち」
    の出る時だ。

        相田みつを『にんげんだもの』(文化出版局)より一部抜粋。


    人の為 と書いて
    いつわり と読むんだねえ

        相田みつを『おかげさん』(ダイヤモンド社)より一部抜粋。

ひき上げるだけの強さ、最後まで投げ出さずにつき合う覚悟がない限り、簡単に「人のため」で行動してはいけな い。
あるフリースクールの先生の言葉が強く心に残る。

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ケネディ大統領が尊敬した政治家








■1.Uesugi Yozan, who?■

 1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネデ ィは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日 本で最も尊敬する政治家はだれですか」

 ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」

 おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人は いなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直し に成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、 学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、 青少年に敬愛されてきた人物である。

 彼が詠んだ『成せば成る 成さねば成らぬなにごとも。ならぬは人の成さぬなりけり』 は有名です。

 上杉鷹山とは、どのような人物なのだろうか。そしてなぜケ ネディは鷹山を尊敬していたのだろうか。

■2.破綻していた藩財政■

 上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二 男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子 となった。

 上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康 により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに 3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名 断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされて しまった。

 収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲 して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちま ち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半 分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は 11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本の ような深刻な財政破綻におちいっていた。

 収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、 かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少してい た。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる 物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥って いた。

■3.民の父母■

受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた 歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、 人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底した ものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、 次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代 々の家訓となる。

・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきも のにはこれなく候
・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこ れなく候
・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民に はこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、 「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。 しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民 の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、 [1,p153]

・ 自ら助ける、すなわち「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
・ 藩政府が手を貸す「扶助」

■4.武士たちの「自助」と「互助」■

「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的 に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、 紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を 作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れ る。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。

 鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てるこ とを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあ ったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この 平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、 「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したの である。

 やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、 自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。 家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを 覚えた。

 米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大 修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せず に、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、 三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。

 もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。 橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩 主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋 を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍の くせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武 士たちは作業にうちこんだ。

 やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに 集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえ たちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗って は渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は 言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに 一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践 しはじめたのを何よりも喜んだのである。

■5.農民たちの「自助」と「互助」■

「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単 位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、 孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。 一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か 村が救援すべきことを定めた。

 貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思 いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、 沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉 は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生 き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一 つである。

 さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料 理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、 自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70 歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与え た。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増 えていたという。

■6.天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助■

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われ た。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。 翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落 ち込んだ。

 鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。  

・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合 5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁 止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

 鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥と した。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助 けた。

 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、 わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙 台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされて いるが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓 死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、 他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢 藩出身のものは一人もいなかった、という。

 米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として 3度も表彰を受けている。

■7.自助・互助の学校建設■

 鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来 にわたって継続されなければならない。そのための人材を育て る学校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金 はない。

 そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募 金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れて まで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでな く、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、こ れらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、 武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自 助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。

■8.アジアのアルカデヤ(桃源郷)■

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本 を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のよう な印象記を残している。

 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉 場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕し たというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、と うもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、 きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊 かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)で ある。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕 作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・ 美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に 囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡し ても豊かで美しい農村である。[4]

 イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住 民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知って いたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳か ら55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・ 互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々 の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人 を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹 山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

■9.ケネディの問いかけ■

And so my fellow Americans,
Ask not what your country can do for you.
Ask what you can do for your country.

それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。
国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、
あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。

 ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節である。国民がみ な国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国 家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。 前号で紹介した現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のた めの政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国か らの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものだ。

 国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それ ぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助 と互助の精神が不可欠である。それがあってこそ、国が成り立 ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネ ディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美し い国造りにつながることを実証した政治家であったからであろ う。

 しかし、我が国の戦後教育は、鷹山公をことさら無視してき た。それは「扶助」のみを訴える戦後の社会主義的風潮からは、 「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがた いものがあったからであろう。

 財政再建も、また教育や政治の改革も、「自助・互助」の精 神の復活が鍵である。それを教えてくれている人物は、我々自 身の歴史のすぐ手の届くところにいるのである。

Japan On the Globe(130) 国際派日本人養成講座よ
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100人の村のお話







『ある学校の先生が生徒に伝えた話です。』

もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。
その村には・・・

57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます

52人が女性です
48人が男性です 

70人が有色人種で
30人が白人
70人がキリスト教以外の人で
30人がキリスト教

89人が異性愛者で
11人が同性愛者

6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍

80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人はいま、生まれようとしています
1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、
相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、
そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。

また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・・
あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。

もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・
あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。

もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・
あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。

もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・
あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。

もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・・
あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。

もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・
それはとても稀なことです。

もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。
なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。

昔の人がこう言いました。
わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。

お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。

K.Leipold 作 ・  なかのひろみ  訳
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『メイク・ア・ウィッシュ』









 「メイク・ア・ウィッシュ」とは難病に苦しむ子供達の夢を実現するボランティア団体です。この活動が始まったのはアメリカで1980年のことです。

 クリスという、7歳の男の子がいた。警察官になるのが夢だったが、白血病にかかって、学校にも行けなくなった。クリスの夢を聞いた地元の警察官たちは、クリスのために、ほんものそっくりの小さな制服とヘルメットとバッジを用意した。そして、クリスを名誉警察官に任命した。さっそうと制服に身を包んだクリスは、規則にしたがって宣誓し、駐車違反の取締りをした。ヘリコップターに乗って、空からの監視もした。ミニチュアのバイクもプレゼントしてもらって、大喜びだった。

 それからわずか五日後、クリスは亡くなった。  警察は、一日だけでも仲間だったクリスの死を悲しんで、名誉警察官のための葬儀をおこなった。クリスの夢の実現にかかわった人たちは、考えた。ほかにも、夢をもちながら、病気と闘っている子供たちが大勢いる。その子たちの夢もかなえてあげたい。クリスが大喜びしたように、その子たちも、とびっきりの笑顔で生きることの幸せを感じてくれるにちがいない。こうしてメイク・ア・ウィッシュの運動が始まった。

 今ではメイク・ア・ウィッシュの事務所はアメリカの80ヶ所を始め世界中に支部がある。日本では1992年に発足し、現在まで200人の子供たちの夢をかなえた。

 メイク・ア・ウィッシュ日本事務所が行った活動の一つ「太郎くんは背番号1 」・・・  太郎君は、もうすぐ一年生というときに、神経芽細胞腫という病気で入院した。  太郎君は病院内にある院内学級「がんばるーむ」に毎朝誰よりも早く出かける。  気分の悪い日だって腕に針を刺したまま、注射のビンをさげたスタンドを押していく。  ぐあいの悪いときだって、酸素吸入の機械を引っぱっていく。

 太郎君のお母さんは太郎君になにかワクワクすることをさせてあげたいと考えた。  お母さんがメイク・ア・ウィッシュに連絡すると、おばさんたちが太郎くんの病室にやってきた。「太郎くんの夢は、なーに?、太郎君の夢がかなうお手伝いをするから教えて」  太郎くんはずっと前からこっそり思っていたことを言ってみた。太郎くんはダイエーホークスの秋山選手のファンだった。  「ぼくねーぼく、ダイエーの選手と野球がしたい」お母さんは予想もしていなかった言葉にビックリ。だって、病気の太郎くんは、みんなのように運動ができない。メイク・ア・ウィッシュのおばさんたちは、すぐにダイエーホークスに連絡した。  「ゲーム開始の始球式で太郎くんに投げてもらいましょう。その前に秋山選手とキャッチボールをするのはどうでしょう」話は決まった。

 始球式まで1ヵ月ちょっと。病院から許可が出て家に帰れたときは、お父さんとキャッチボールの練習をした。でも、足が痛い。病気がくやしくて涙がでそうになる。ちょっぴり不安になってきた。院内学級「がんばるーむ」の仲間も励ましてくれた。

 始球式の日がきた。車でドーム球場のそばのシーホークホテルに向う。ホテルの部屋についたら大きなプレゼントが太郎くんを待っていた。ダイエーホークスのユニホームだ。背番号は1番。王監督のサイン入りのバットを貰った。城島選手のサイン入りのボールも貰った。 でも、始球式までの1時間太郎くんはぐったりしていた。

 「時間ですよ」係りの人に案内されてマウンドに出る。下から見上げるドーム球場はとてつもなく大きい。太郎くんと秋山選手のキャッチボールが始まった。足の痛みなんかウソみたいに消えた。秋山選手とツーショットの記念写真も撮った。

 「ピッチャー富永太郎くん、背番号1」場内アナウンスが、太郎くんの名前を高らかにつげる。「がんばれよ」秋山選手の声がする。「がんばれよ」「がんばれよ」つぎつぎにダイエーの選手が声をかけてくれる。まるで太郎くんがチームの一員になったみたいに。

 マウンドに立ってキャッチャー城島選手のミットをじっと見つめる。大きく振りかぶって投げた。まっすぐ伸びたボールをキャッチャーの城島選手が拾った。試合開始のアナウンスとワーという歓声がマウンドを下りる太郎くんの背中で聞こえる。

 やったぞ。体の力がいっぺんに抜けた。夢がかなった、夢を見事にかなえた太郎くんの姿はテレビで放映されインタビューも受けた。


株式会社 騒人社 「夢はいのち」「太郎くんの背番号1」から


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メーク・ア・ウィッシュは企業や個人からの寄付、マラソン大会、コンサート等の独自のイベントからの収益、支援会員の会費、使用済みのプリペイドカードと書き損じのハガキなどの協力から運営資金を得ています。

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ヤンキース松井選手の「人間性とベトナムでの里親」







 松井選手のニューヨークでの人気が上昇している。松井の「謙虚」で「礼儀正しい」姿勢や、プレーヤーとして「基本に忠実」なところが注目されニューヨークの地元新聞がこぞって松井選手を褒めちぎり始めた。

 6月29日のニューヨークタイムズは「日本のスターだというのに、いつも静かに会釈をしてクラブハウスに入ってくる。普段の生活でも周囲の人を楽しませようとしているようだ」と、松井の礼儀正しさ、謙虚さに焦点を当て分析している。

 ニューヨーク・ポスト紙は「松井に見習え」と言う見出しの記事を掲載「松井の才能の秘密は基本練習にある」と伝えた。

 日本文化を紹介するニューヨークの非営利団体ジャパンソサエティに5月初め「ニューヨーク・ニューズデー紙」の記者から「コンプレイン(complaint)」は日本語でどういうのかとの問い合わせがあった。職員の佐々玲子さんは「苦情」だと答えた。そして出来上がった記事は「ミスター・ナイス・ガイ」と題され「なぜなら、松井はけっして苦情を言わないからだ。日本語にも“クジョウ”と言うコンプレインを意味する単語があるが、松井には無縁だろう」と指摘されていた。

 日本のマスコミは日本人大リーガーを絶えず取り囲みチームメートに煙たがられることもある。「毎日ロッカールームの前が騒々しい。何様のつもりなんだ」と、嫌みを言うチームメートもいる。しかし松井の場合、その人柄のせいでチームメートからの評判も上々だ。チームメートのジーター選手は「松井は常にチームメートに気を使い、皆から好かれている。英語はまだ、あまりうまくないが、積極的にコミュニケーションを取ろうとしている。もうすっかりヤンキースの一員だ」と語る。

 松井の専属通訳・カーロン氏も「日本のトッププレーヤーだったのに、決してお高くとまっていない。いい意味でのブルーカラー・タイプのプレーヤーだよ」と松井の人柄を絶賛する。

 ニューヨーク総領事の西田さんも「入団発表のとき同席して松井選手は応対が丁寧で思いやりのある人との印象を持ったがニューヨークの人たちからも同じ評価を受けている。地元紙の記者からも好感を持たれている。日米関係は相互刺激が大切と考えるが、松井選手はその意味からも重要な役割を果たしている」と松井選手を高く評価している。

 サインを求める子供達に、いつも笑顔で応え、どんなに不振なときでも、イヤな顔ひとつせずインタービューに応えてきた松井の人間性が、ニューヨーカーたちの心を打った。「礼儀正しさのせいで、ゴジラのようには見えないが、彼はやはりモンスターだ」と言う言葉が聞かれる。

 また松井選手は隠れた善行を行っている。ベトナムの子供達を里親として支えている。

 松井選手の父親、昌夫さんが3年前ベトナムの小学校で野球を教えたのが“里親”のキッカケだった。ベトナムでは優秀で勉強する意欲があっても、貧困など家庭の事情で勉強を断念せざるを得ない子供が多い。松井選手は、そんな状況を父親から聞き、援助を決めた。

 松井選手が里親になっている子供たちは現在、中学生4人、高校生6人の計10人。家庭月収は約1,600円から3,200円。松井選手は里子一人に対し、月額13,000円から16,000円を援助。子供達はこの援助で家事や労働をしないで学校に通うことが出来る。そのかわり、成績が落ちたら、翌年は奨学金がストップされる。松井選手の実家には年一度子供たちからお礼の手紙が届く。子供たちは松井選手がプロ野球の選手であることも大リーグで活躍していることも、松井選手の顔、性格も何も知らない。しかし里子たちは海を越えた善意に対し感謝の気持ちを持ち里親の健康、幸運、成功を心から祈っている。

 松井選手は6月にはアメリカン・リーグの月間最優秀選手に選ばれ、7月15日シカゴで開催された第74回オールスターにも出場しヒットを打った。このまま快進撃を続け松井選手が2003年の新人王を獲得するよう心から応援しませんか。

参考:サンケイ新聞、サンデー毎日

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2014年07月09日

「ありがとう、ありがとう」









 一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。  そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。次に生まれた弟が二歳のときです。  ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

 「お兄ちゃんなんてバカじゃないか」

 お母さんは、はっとしました。それだけは言ってほしくなかった言葉だったからです。そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。  ―――弟にお兄ちゃんをいたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

 その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。  そして一年たち、二年たち・・・しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。  お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

 弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

 みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。  そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。  「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」  お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

その晩、お母さんはノートに書きました。  「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」  ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。

人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。

 やがて弟は小学校に入学しました。入学式の日、教室で初めて席が決められました。ところが弟の隣に、小児マヒで左腕が不自由な子が座りました。  お母さんの心は動揺しました。家ではお兄ちゃん、学校ではこの友だちでは、幼い子に精神的負担が大きすぎるのではないかと思ったからです。

 その夜、ご主人と朝まで相談しました。家を引っ越そうか、弟を転校させようかとまで考えたそうです。  結局、しばらく様子を見てから決めようということになりました。

 学校で最初の体育の様子を見てから決めようということになりました。  学校で最初の体育の時間のことです。受持ちの先生は、手の不自由な子が体操着に着替えるのを放っておきました。手伝うのは簡単ですが、それより、一人でやらせたほうがその子のためになると考えたからです。

 その子は生まれて初めて、やっと右手だけで体操着に着替えましたが、そのとき、体育の時間はすでに三十分も過ぎていました。  二度目の体育の時間のときも、先生は放っておきました。すると、この前は三十分もかかったのに、この日はわずかな休み時間のあいだにちゃんと着替えて、校庭にみんなと一緒に並んでいたのです。

 どうしたのかなと思い、次の体育の時間の前、先生は柱の陰からそっと、その子の様子をうかがいました。  すると、どうでしょう。前の時間が終わるや、あの弟が、まず自分の服を大急ぎで着替えてから、手の不自由な隣の席の子の着替えを手伝いはじめたのです。  手が動かない子に体操着の袖を通してやるのは、お母さんでもけっこうむずかしいものです。それを、小学校に入ったばかりの子が一生懸命手伝ってやって、二人ともちゃんと着替えてから、そろって校庭に駆け出していったのです。

 そのとき、先生は、よほどこの弟をほめてやろうと思いましたが、ほめたら、「先生からほめられたからやるんだ」というようになり、かえって自発性をこわす結果になると考え、心を鬼にして黙っていました。  それからもずっと、手の不自由な子が体育の時間に遅れたことはありませんでした。

 そして、偶然ながら、また七夕の日の出来事です。授業参観をかねた初めての父母会が開かれました。  それより前、先生は子どもたちに、短冊に願いごとを書かせ、教室に持ち込んだ笹に下げさせておきました。それを、お母さんが集まったところで、先生は一枚一枚、読んでいきました。

 「おもちゃがほしい」、「おこづかいをもっとほしい」、「じてんしゃをかってほしい」・・・。  そんないかにも子どもらしい願いごとが続きます。それを先生はずっと読んでいくうちに、こんな言葉に出会いました。

 「かみさま、ぼくのとなりの子のうでを、はやくなおしてあげてくださいね」  言うまでもなく、あの弟が書いたものでした。先生はその一途な願いごとを読むと、もう我慢ができなくなって、体育の時間のことを、お母さんたちに話して聞かせました。

 小児マヒの子のお母さんは、我が子が教室でどんなに不自由しているだろうと思うと気がひけて、教室に入ることもできず、廊下からそっとなかの様子をうかがっていました。  しかし、先生のその話を聞いたとたん、廊下から教室に飛び込んできて、床に座り込み、この弟の首にしがみつき、涙を流し、頬ずりしながら絶叫しました。

 「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・・・」  その声がいつまでも学校中に響きました。       




「本当に感動したときの言葉」鈴木 健二 著 講談社文庫より

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プールを歩いて渡った少女








 読売新聞の「窓」という欄に掲載されたお話です。  広島市の女子高校生のA子さんは,小児マヒが原因で足が悪い女の子でした。  A子さんが通う高校では、毎年7月のプール解禁日に、クラス対抗百メートル水泳リレー大会をしています。男女二名ずつがそれぞれ25メートル泳ぐ競技です。  A子さんのクラスでこの大会の出場選手を決めていた時、女子一名がどうしても決まりませんでした。

早く帰りたいクラスのボスは「A子はこの三年間、体育祭、水泳大会に一度も出ていない。最後の三年目なんだから、お前が参加しろ」といじわるなことを言い出しました。A子さんは誰かが味方すると思ったけれど、女生徒は何か言えば自分が泳がされると思い、みんな口をつぐんでいます。男子生徒もボスのグループに憎まれたくないから、何も言いませんでした。そして、結局泳げないA子さんが選手になったのです。

 彼女は家に帰り、お母さんに泣きながら訴えました。するとお母さんは「お前は来春就職して、その会社で何かできない仕事を言われたら、また泣いて私に相談するの?そしてお母さんがそのたびに会社に行って、うちの子にこんな仕事をさせないでくださいって言いに行くの?」そう言ってすごく怒り、 A子さんを突き放しました。

A子さんは部屋で泣きはらし、25メートルを歩いて渡る決心をし、そのことをお母さんに告げに行きました。するとお母さんは仏間で「A子を強い子に育ててください」と、必死に仏壇に向かって祈っていました。

 水泳大会の日、水中を歩くA子さんを見て、まわりから笑い声やひやかしの声が響きました。彼女がやっとプールの中ほどまで進んだその時、一人の男の人が背広を着たままでプールに飛び込み、A子さんの隣のコースを一緒に歩き始めたのです。高校の校長先生でした。「何分かかってもいい、先生が一緒に歩いてあげるから、ゴールまで歩きなさい。恥ずかしいことじゃない、自分の足で歩きなさい」そういって励ましてくれたのです。

一瞬にしてひやかしや笑い声は消え、みんなが声を出して彼女を応援し始めました。長い時間をかけて彼女が25メートルを歩き終わった時、友達も先生も、そしてあのボスのグループもみんな泣いていました。

読売新聞社記者、大谷昭宏氏の話
『夢の卵の孵し方・育てかた』 仲田勝久著、致知出版社より
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