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【7.5坪の家で考えた事】部屋と廊下3

さて話を戻すと僕は実家について、人には少し恥かしくて笑い話っぽく紹介するけれど
実はものすごく気に入っている。

だから将来僕が自分の家を建てるチャンスに恵まれたなら、


   「雑多で不可避で、何となく生活の中心になるリビングをつくる」


ということと、一昨日書いた


   「廊下と部屋の関係は自分なりの回答を持ったものにする」


ということについては、なんとしても盛り込もうと心に決めていた。


けれど実際に家を建てるチャンスがやってきて
この10坪の敷地で検討を始めてすぐわかったことは、
何のことはない、敷地は僕の育った家よりもさらにずっと狭くて、むしろ


   「あまりの狭さに(便宜上LDとは呼ぶけれど)リビング呼べるような
    部屋はつくれず、雑多で不可避で生活の中心みたいな場所をつくるしかない」


そして


   「効率よく移動することだけ任されたすました廊下も、狭すぎてそもそもつくれない」


ということだった。

僕はこの制約に大変わくわくして、2年半も楽しく基本プランを検討することになった。



7.5坪の家は、僕の育った家の凝縮版だ。

鉄砲階段で繋がった『一筆書きの家』。

2階は通り過ぎるだけの廊下としての役割のときもあるし、
料理も食事も宿題も友人もけんかも笑顔も、
わが子が遠い将来連れて来るかも知れない彼女だって、
なんでも受け入れてくれることだろうと思う。


環境は人間関係をつくるし人間をつくる。
7.5坪の家がどんな人間関係をつくってくれるのか、とても楽しみだ。

【7.5坪の家で考えた事】部屋と廊下2

僕の育った家は狭くて、廊下らしい廊下がない。

玄関の引き戸を開けるとそこがもう狭いリビング。
おまけに自営業の床屋が家とくっついている、というか一体になっている。

良く言えば下町情緒溢れる家。

店の声は筒抜けだし、かっこよく言えば理容室のはずの店のストーブには
明日食べるはずのつくりかけの雑煮の鍋が乗っかってたりする。

ある時は客がいるのに釣りで大量に釣れた魚を店で洗ったり、
ある時はストーブでするめを焼いて客と食べたり、
学校から帰ると店で客がマンガ読みながら留守番をさせられていることもあったりして、

なんだかもう、誰が客だか何の店だかよくわからない。


だけどなぜか僕は宿題も受験勉強も、店の声が筒抜けで気が散るこのリビングでやった。

気が散らない自分の部屋では、マンガやゲームのような自分勝手なことばかり集中して
大事なことは何にもできなかった気がする。

親に叱られても兄弟とケンカしても、必ずリビングを通らなくてはどこにも行けない家は
正直煩わしい時もあったけれど、ケンカも笑顔もあの家が濃厚にしてくれたのだと信じている。

【7.5坪の家で考えた事】部屋と廊下1

   「リビング」

   「キッチン」

   「寝室」

   「子供部屋1」

   「客室または子供部屋2」

    ・・・

といった感じで、部屋を機能ごとに割り当ててそれらを無駄のない廊下で繋ぐ、
という住宅のつくり方が昔は嫌いだった。
(そういう作り方が主流だと信じていたというのもあります)

「家族が集まりやすい部屋だから、便宜的にリビングと呼ぶことにする」ことと、
「リビングという名前の部屋をつくっておく」こととは決定的に意味が違う。

マンションの廊下で時々感じる居心地の悪さは、居るという機能をすべて部屋に取られて
効率よく移動することだけ任された廊下の不満から来るのではないかと思う。
廊下が不満を持つとすればの話だけれど。。


「昔は」と書いたのは、マンションの建築にそれなりに関わってきて
今はそれはそれで大変合理的な考え方だと理解してるからだ。

『○LDK』や『○○室』という価値基準は、やっぱり若干不満(あるいは滑稽)ではあるけれど
とにかく誰の家にも適用できる汎用性は大変素晴らしいと思う。


でもやっぱり将来僕が自分のうちを考える時には、
部屋と廊下の関係ついてはしっかり向き合って考えたいと思ってた。

何しろ僕のうちは汎用的である必要は全くなくて、
僕と僕の家族の為の特殊解で構わないのだ。

僕の家に汎用性がないことについては誰も文句を言わない。

【7.5坪の家で考えた事】7.5坪はどれくらい狭い?2

せっかく話に出したので、巨匠の作品についてもう少し。

『住吉の長屋』(Wikipedia)は切り取られた中庭が、
それはもう『住宅に大きな中庭がある』という次元はなくて、
都市に切り取られた『住むことのできる中庭』だ。

7.5坪の家を含め、住むための機能のことを出発点にした数多の設計からは
到底辿りつかない、僕の尺度では常軌を逸した住宅。
今もなお住むという建主も、きっとすごい方なのだろう。

仮に僕がこの敷地を建主として与えられたら、
やっぱり狭い狭いと言いながら床を敷き詰めるのだろう。


『塔の家』(Wikipedia)は都市を眺める縦長の窓の様な建物だ。

まさに5階まで踊り場の一筆書きの家、
みごとに穿たれた開口とあのプロポーションがなかったら
ただの階段室のような塔なのである。

生活空間として成立させているのは、
住み手でもあり設計者でもある東氏の
都市との関わり方の提案であり、都市に住む姿勢なのだと思う。
キッチンが狭いとか収納がないとか、そういう次元を遥かに超越している。

仮に僕がこの敷地に建主として出会っても、
これはさすがに住めないと最初から検討もしなかったのではないか。


さて、今なお閃光のように輝く巨匠の作品に比べれば、
僕の家は7.5坪しかないただの普通の家です。

安普請でコンセプトらしいものもないかも知れない。

でも、建築家の巨匠達の作品に感じる小さな宇宙を、
少なくとも僕は今建築中の7.5坪の家に感じている。


・・・あれ、題名と全く関係なくなってしまいました。

【7.5坪の家で考えた事】7.5坪はどれくらい狭い?1

建坪7.5坪とはどれくらいの狭さ(或いは広さ)なのだろう。

狭小住宅の代表として、安藤先生設計の『住吉の長屋』(Wikipedia)は中庭も含めると

   14.1m × 3.3m = 46.53u (約14坪)

で、倍近くあることがわかる。中庭を除いても

   ( 4.7m + 4.7m )× 3.3 = 31.02u (約9.4坪)

階段や廊下を含まないで9.4坪ということだから
学生時代そのミニマムの宇宙を感じたあの住吉の長屋に比べても
僕の家はだいぶ厳しい条件だ。


一方、狭小住宅のもう一つの代表、東孝光氏設計の『塔の家』(Wikipedia)はなんと

   建坪3.5坪(!)

ということだから5階建、内部に扉なしという構成も含め、
すごいプロポーションだったのだと改めて思ってしまう。

建坪だけで言えば、

   住吉の長屋 > 7.5坪の家 > 塔の家

ということになる。


さて数値化は物事を評価する時の強力な武器だし、評価はとても楽しい。
けれど一方で、数値化した評価の限界も見えてくる。

何というか、上記2つの巨匠の狭小住宅と7.5坪の家を比べること自体に感じる、
根本的な違和感について少し書いておきたいと思います。


多分その違和感は、世に物申す『建築作品』と凡人の為の『住宅』を
同じ土俵で比較してることによって生じているのだと思う。

それが『プロ野球選手のためのバット』と
『草野球の人が大変気に入って使うバット』の重さを比べるくらいの違和感なのか、
『三ツ星レストランの味』と『おふくろの味』を比べるくらいの違和感なのかは
わからないけれど・・・

でも、草野球をやっている人がプロ野球選手の凄さ、遠さを
何もやっていない人よりは理解できるように、自分の家を建てる機会を得て、
巨匠のすごさが今は前より少しわかる気がします。

   
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