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2015年05月02日

そう言えば『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』(part1)


 そう言えば、私はマージャンをしないし役などルールには詳しくないのだけれど、マージャン漫画の「アカギ」だけは好きでした。
 そういう人は結構いるみたいで、赤木しげるの無双感と人生観が好きだという感想は良く聞いたものです。




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 私は、博打そのものすらあまり熱中する方ではないけれど、博打もほとんど生死を賭けるような段階に入ると人生の縮図みたいなものが顕れてくるような気がします。
 マージャンが良く分からないのに面白い物語なのだから、読者は赤木の駆け引きや思想みたいなものに読者は惹かれているということでしょう。

 作者の福本伸行は、他作品でも博打の舞台を人生の縮図として描写する物語が得意ですよね。
 ただ、他の作品では博打における主人公の心理的葛藤を中心に描いています。対して、「アカギ」は赤木しげるが無二の天才・至高の哲学者として物語上に君臨しているので心理的葛藤の描写はむしろ対戦相手やギャラリーの方でされている場合が多い。その点、作品が表している切り口が他と違います。

 我々は、誰しも迷いや葛藤の中で生きていますね。中でも、「死」についてのそれは最大のものでしょう。死をどう心の中で扱うかということは、誰にとっても他人ゴトではない。
 しかし、赤木しげるは初っから「死」について心の位置づけが完了してしまった存在として設定されている。ただ、それを赤木の自問によって表したら哲学書になってしまいます。だから、作品中では、これを対比で表していますね。つまり、迷いや葛藤、死の不確かさなどを持った凡人達が「赤木」に遭遇することによって知らず知らずのうちに自分を返りみていることになる。そして、読者は赤木の心理に共鳴するわけではなく、赤木と遭遇した対戦者やギャラリーの方の心理に心を重ねることになるわけです。

 多分、本当の天才というものの心理を描写するためには、天才の心理そのものを直接に描写するんではダメなんでしょうね。天才との遭遇者として天才の心理を描くという方法でしか、凡人は天才を語れない。また、もし天才が天才の心理をそのまま描写したとしても、それは天才にしか通じないものとなるでしょう。もし、作者と読者を凡人と前提するのであれば、赤木しげるを描くには「アカギ」のようにならざるを得ないのでしょう。



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