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2015年05月19日

そう言えば「進撃の巨人」 諫山創(part1)


 そう言えば、『進撃の巨人』というマンガが、去年のアニメ化を期に爆発的な人気を誇りましたね。





進撃の巨人 コミック 1-16巻セット (講談社コミックス)




 アニメの作画や演出の素晴らしさで一挙に話題を浚った進撃の巨人ですが、それも原作の話が良くできているからこそです。

 そして、この話の面白さは、「壁と巨人」の設定の妙から来ています。
 こうした甚だ非現実的な設定の中では、その設定の中にある「人間」をいかにリアルに描きだせるかに作品の成否がかかってきます。
 そして、このマンガにおいてそれはある程度成功している。



 進撃の巨人の設定が炙り出しているのは、人間文明における「十年、二十年スパンの安定」と「百年に一度起こる危機」の対比のように思われます。
 「百年に一度の危機」に取り掛かると「十年、二十年スパンの安定」が毀損される、といったようなジレンマを「壁と巨人」の設定は見事作りだした。

 人は大抵、「十年、二十年スパンの安定」の方を優先しがちになります。でも、危機は必ず訪れるものです。
 こういうジレンマは、あらゆる文明において存在するものです。
 勿論、現代の我々にもあるでしょう。

 むしろ、現代の我々にもあるジレンマを、抽出して明瞭に映し出すような設定であるからこそ我々の心を掴む、と言った方が適切でしょう。




figma 進撃の巨人 リヴァイ (ノンスケール ABS&PVC 塗装済み可動フィギュア)





進撃の巨人 ミカサ・アッカーマン 1/8スケール PVC製 塗装済み完成品フィギュア




2015年05月10日

そう言えば「拳闘暗黒伝(拳奴死闘伝)セスタス」 技来静也



 そう言えば、ヤングアニマルという雑誌に載っているけどあまり掲載されない『セスタス』という歴史・拳闘マンガがあります。筆は遅いのだけど、このマンガは良作です。
 第一部が「拳闘暗黒伝セスタス」第二部が「拳奴死闘伝セスタス」となっていて、今は第二部の途中です。








 このマンガの魅力は大きく二つの要素があります。

 一つは、拳闘の原型のような闘いにおける実践的な理論が突き詰められていること。主人公のセスタスは拳奴(興行の古代ボクシングをする奴隷)で、少年期よりザファルという師匠から拳闘の手ほどきを受けていた。ザファルの指導はリアリスティックで、理論だっている。
 彼の教えをみるみるうち内に吸収してゆくセスタスは、その拳闘の腕で稼いでゆき自分を買い戻して、自由を獲得しようと考えるようになる。
 こうした、ザファルによるセスタスの指導の中に見える拳闘の技術、実践の理論が、このマンガの一つの魅力です。

 もう一つは、繊細な歴史描写です。このマンガの舞台は帝政ローマ期ですが、その歴史描写が読者にアピールするものになっている。
 これは、ただ単に「良く調べられている」というだけのものではありません。もちろん良く調べられてもいるのでしょうが、その調べられた歴史資料から人々の心や生活を想像させるようにマンガにしているから、魅力的な歴史世界観構築されているのでしょう。
 作中では皇帝ネロやアグリッピーナなどといった為政者から、ポンペイの富豪、辺境の民族、奴隷に至るまで、細かくドラマを散りばめて、緻密に作品世界を構築している。これは緻密な歴史考察のなせる業のように思います。
 繰り返しますが、おおよそ歴史考察はイマジネーションによって構築されるものです。資料や文献を調べる歴史考察にはなりません。資料や文献が物語に活かされるためには、資料や文献を基に歴史的想像力をめいいっぱい働かさなければならない。また、作者に歴史的想像力があってこそ、読者はその想像力に喚起されて歴史を想像できるというわけです。そういう魅力が、このマンガの大きな土台になっているように思います。






2015年05月09日

そう言えば「クローズ」高橋ヒロシ



 そう言えば、『クローズ』というマンガが少し前に映画化されていましたね。私、映画は見ていないのですが、このマンガは好きでした。




 このマンガの軸は、主人公の「坊屋春道」の無際限な強さと、優しさにあります。そして、その強さや優しさの発揮される舞台にドラマがあり、正義がある。また、彼の一種アクション的な活躍は躍動感のあるもので、一つの場面の一連の絵を見るだけでも格好良くシビれます。しかし、そうした活躍や強さも、これを裏打ちする正義が根底になければ、物語として成り立っていない。

 このマンガのテーマ、正義のようなものは、大人のしきたりに従わない一見不良に見える少年達の中でも、「不良少年的正義」みたいなものがあるというというものです。つまり、大人のしきたりに沿うことと、良い悪いの基準は別にあるということですね。もっとも、そうした「正義」を描くのも単調で非現実的な筋では薄っぺらさが目に付くようになる。要は、「正義してます」という正義は、偽善のように見えますでしょう。そこが正義の難しいところですね。

 そもそも大人のしきたりに従わない少年達は、大人のしきたりには正義はないと考えているわけです。例えば、良くテスト勉強をするからといって「イイヤツ」とは限らない。でも、大人のしきたりに従わない不良少年が常に「イイヤツ」とも限らないですね。つまり、大人のしきたりが正しいとは思わないけど、何が正しさかどうかも分からないわけです。

 しかし、そんな不良少年達も、彼らの周りの仲間を大事に思うということはどうやら「正しい」と察せらる。そして、そこに腰を据えた者は「イイヤツ」ということになる。これは現実世界でもそうでしょう?
 ただ、「イイヤツ」が必ずしも「正義」であるとも限りません。「イイヤツ」に「力」が備わって始めて「正義」になる。そういうものです。
 現実では、イイヤツに必ずしも力が備わっていることは限りませんね。むしろ、イイヤツはイイヤツが故になかなか力は備わりにくい。特に、大人の社会ではそうです。普通、力とは非・イイヤツの方が得やすいようにできている。

 しかし、不良少年の世界では力とは単に「暴力」ですから、イイヤツが圧倒的暴力を持つという事が理論上可能でしょう? 勿論、圧倒的暴力が必ずしもイイヤツに備わっているかという事も言えないのですが、少なくとも理論上はあり得る。
 現実に、理論上ありうると考えられる正義であるから、坊屋春道の正義は薄っぺらくない。そして、薄っぺらくない正義が闘いの舞台の前提に描写されているから、その暴力が光輝いて見えるのではないでしょうか。


クローズ(CROWS)×WORST スネイクヘッズ ロンソン タイフーンライター RONSON



クローズ×WORST BLACK LIST OF THE NEXT 坊屋春道 Ver.S.W.R



2015年05月08日

「寄生獣」と「幽遊白書(冨樫義博)」



 そう言えば、寄生獣が映画やアニメで話題になって、幽遊白書を思い出した人も多いのではないでしょうか。
 幽遊白書……というか、冨樫義博は随所に寄生獣の影響を受けていて、時には意図的にパロディをやったりもしている。
 ですが、幽遊白書は寄生獣とまた違った魅力のあるマンガですね。






 幽遊白書は、1990年から1994年にかけてのマンガです。当時、最盛を誇っていた週間少年ジャンプの中でも上位の作品で、知名度も高い。
 世界観は、「人間の住む人間界」と「閻魔大王が門番をする霊界」と「妖怪の跋扈する魔界」といったような格好です。
 ただ、その間で繰り広げられる物語の軸は、次第に変わっていきます。

 物語は、主人公である幽助が死んでしまったところから始まります。しかし、霊界にとって彼の死は予測外で、特例として試練をクリアすれば生き返ることができるという話だったのです。その試練というのは、この世には人間に迷惑をかける妖怪がいるので「霊界探偵」としてその妖怪連中をとっちめるというような種類のものだった。
 つまり、当初は、人間を主軸として、霊界を「人間の味方」、妖怪を「悪」と描いていたわけです。

 ですが、話が進むにつれ、「実は汚い霊界」とか「妖怪としてあるだけの妖怪」というような所が強調されてゆく。
 当初「悪」と設定されたものが、ただ生得的にそのものとしてあるだけのものである、と解釈されていくのは寄生獣と同様ですね。
 ですが、最終的な主人公の置き場所に違いがある。

 まず、『寄生獣』の新一は、あくまで人間として、人間の分を弁えて、この世界の循環の中で生きてゆくという終わり方になっている。ミギーも眠ってしまいましたし。
 対して、『幽遊白書』の幽助は、妖怪になってしまっているでしょう。つまり、世界を巨視観した上でその循環の中で生きてゆくのは寄生獣と同じだけれど、幽助は人間としての限界を遥か超えたものとして生きてゆくことになる。だって、彼は人間より遥かに寿命の長い妖怪なんですよ。

 よって、『寄生獣』は人間の生の活力みたいなものの中に結末が集約しているけれど、『幽遊白書』は人の儚さみたいなものが雰囲気として醸しだされていますでしょう。
 ちなみに、その「人の儚さ」はようするに幽介視点で見た人の営みです。最後に幻海師範も死んでしまったし、螢子との仲が睦まじければ睦まじいほど何か切ない感を得ますよね。
 主人公が、人間を超えたものになってしまうと、周りの人間達の無常感がいやおうなく想起されてしまうんでしょう。




幽☆遊☆白書 ARTFX J 妖狐蔵馬 (1/8スケール PVC塗装済み完成品)




幽遊白書 collective songs


2015年05月07日

そう言えば「ちはやふる」末次由紀


 そう言えば、先月の4月13日に発売された『ちはやふる』の最新刊(27巻)は良かったです。
 というわけで今日は『ちはやふる』について。最新刊のお話も踏まえて、ここでは「太一」という登場人物のことを中心に書いてみます。




 このマンガは、百人一首の競技かるたを題材にしているマンガです。少女マンガですが、どちらかというとスポ根的な要素が強くて登場人物はみんな真剣に競技かるたをやっています。でも、やはり人物描写なんかには、少女マンガ的な繊細さがありますね。
 主人公の「千早」という女の子はかるたが大好きです。それは小学校の時、「新」というかるたが大好きな男の子の影響だった。
 そんな中、彼らと同級生だった「太一」もまたかるたをやり、三人でチーム戦に出場したりします。ですが、どちらかというと彼は千早のことが好きでかるたをやっていたとう気配が強調されていました。また、太一は、千早や新と比べて素朴さはなく、時には卑怯なこともするような子だった。
 さて、時は経って、物語は高校編へ以降するのですが、そこで千早と太一は同じ高校に所属することになりました。新は遠く福井の地で高校生活を送っています。
 千早と太一は高校でかるた部を創設します。千早はかるたが好きで一直線という風で、太一は部長として小学生の頃とは違う人格者的な振る舞いで部をまとめます。
 それが起動に乗って、かるた部はみるみるうちに強くなり、千早の腕自体もどんどん上達してゆく。時に壁に当たることもあるけど、それを乗り越えてレベルアップを繰り返す。千早は、正にスポ根マンガといった物語を進むわけです。
 対して、太一の方はいつも苦しそうにしています。
 というのも、彼は千早のことが好きだったからです。太一の中では、「自分は千早のことが好きだから、かるたをやっているのかもしれない」という疑いが常にあったに違いないんです。
 これが千早や新なら、そういう所で苦しんだりはしません。もちろん千早や新も、時には壁にぶつかったり、人の死を悲しんだり、挫折したりといった苦しみはあります。ですが、彼らは自分の感情の部分を疑ったりしません。例えば、千早も自分の好きな新の影響でかるたを始めたわけですが、太一のように自分のかるた好きの心を疑ったりしません。千早は自分の感受性の領域を疑うという事を知らないからです。だから千早の問題は、千早の心そのものというよりは、相手との関係の中で生じてくる。
 しかし、太一の問題は、相手との関係というよりは、太一の心そのものの中で起こっている。太一は、自分の感受性の領域を信じることができないからです。自分のかるた好きな心も信じることができない。「自分はかるたを千早がやっているからやっているのかもしれない」という疑いを払拭できない。「千早がやっているからやっている」となると、部の仲間や千早に対して、かるた好きを装っていることにもなりますから、この自分への疑いは致命的に彼を苦しめ続けるというわけです。
 だから、私は太一がこれからどう自分の「個性」や「感受性」を克服していくかがとても気になるのです。
 千早や新がどうなっていゆくかは見当がつきますが、太一のそれはまったく見当がつきません。果たして彼は幸せになれるのでしょうか? たとえ、千早と恋人どうしになったとしても、それで彼の心が救われるだなんて全く思えませんし。



ちはやふる コミック 1-26巻セット (Be・Loveコミックス)

2015年05月06日

そう言えば「寄生獣」岩明均(part1)



 そう言えば、最近アニメ化や映画化をして注目を集めている昔のマンガ『寄生獣』。
 アニメの「寄生獣〜セイの格率」は中々上手く現代風にアレンジして、良い作品に仕上がっていました。

 しかし、原作のパワーというものはやはり凄まじいものがあったように思います。『寄生獣』に興味を抱いたなら、マンガのほうもご覧になることをおすすめ致しますよ。


寄生獣 セイの格率 オリジナル・サウンドトラック




寄生獣 完全版全8巻 完結コミックセット





 寄生獣は1988年から1995年にかけての作品ですが、その後も持続的に人気を博し、また後のマンガに大きな影響を与えました。(例えば、幽々白書やベルセルクなど。)
 一見した所の特徴としては、ゾッとする触手や残忍な描写、また冷酷なやり取りなどが印象的でしょう。しかし、残忍や冷酷、魑魅魍魎というのが物語として腑に落ちるものとなる為には、土台となる人間観・価値観が丁寧に描写されていなければなりません。でなければ単に印象のためだけに残忍や冷酷や魑魅魍魎を提示しているにすぎない作品になり、そうした作品はおおむね唾棄されるべきものと成り下るのが常です。
 『寄生獣』が持続的に支持されてきたのは、印象的なおぞましさの一方、重厚な人間観・価値観がその作品世界を下支えしているからでしょう。


 さて、『寄生獣』の話としては、人間の脳に寄生するパラサイト(寄生生物)を巡って展開します。パラサイトは人間の脳の部位、つまり頭部を奪って人間のふりをします。だから、固体に限って言えば「寄生」というよりは「成り代わり」ですね。また、彼らの主食は人間なので、普段人間のふりをしていつつも食事の時はおぞましくその姿を変形させて人を喰らうわけです。(その戦闘能力はライオンを遥かに凌駕しますから、単体の人間ではとても敵うものではありません。)

 パラサイト単体の行動が「成り代わり」であっても、「寄生」という言葉が適切なのは、寄生獣という種全体が人間という種に寄生して存在せざるをえないという関係にあるからでしょう。これはいわば生物とウィルスの関係と同じです。要は、ウィルスは生物を殺しますが、あまりウィルスの力が強すぎると生物が全滅してしまいウィルスそのものも存在できなくなるでしょう。実際、インフルエンザなどの猛威を奮うウィルスはある程度までゆくと殺傷力を弱めて感染対象が全滅しないようにしますね。尤も、ウィルスは生物ではないですけど、「意志を持ち、知能を持ったウィルス」というものを考えればそれがちょうど寄生獣なのではないでしょうか。

 ですから、翻って人間を考えてみると、寄生獣は人間の量を調節するという意味で人間という種全体を成り立たせるモノでもある……という理屈に一理が生まれてくる。要は、人間に天敵がいない状態は人間の過激な増大を生み、そのことが人間そのものの存立すらを成り立たせなくすると考えるのであれば、循環的な生態系の理屈として「人間の捕食者」というものが必要であるという理が生まれてきますでしょう。

 作中にもそのように考えた人間がいて、彼はパラサイト達の支持を得て市長・自治体の組長になります。彼は自治体の組長という政治的権限を用いてパラサイト達に人間捕食の便宜を計らいます。つまり、そうすることによってパラサイトによる人間の量の調節を実現しようとしたわけです。
 おそろしい事に、その市長のまわりは彼以外は全てパラサイトで、パラサイトは一見したところ人間にしか見えませんから、普通に見ていたら市長は何の問題もない好青年に見える。

 さて、ここでの問題は実は二段階あります。一つ目は、「人間の量の調節」という考え方そのものの成否。二つ目は、「人間の恣意がそのことに関与して良いものか」という問題です。作品としての立ち位置では、前者は考えうるが、後者は傲慢であると示唆されています。









2015年05月05日

そう言えば「くろアゲハ」加瀬あつし



 そう言えば、月間マガジンの表紙をみて、『くろアゲハ』というマンガを読んでいることを思い出しました。
 加瀬あつしといえば『カメレオン』というヤンキーマンガで有名ですが、『くろアゲハ』はその続編として世界観が繋がっています。

くろアゲハ(4) (講談社コミックス月刊マガジン)




 もともと昔カメレオンそのものが好きだった私としては嬉しいマンガです。が、私はこのマンガはカメレオンの続編としてというよりは、『くろアゲハ』としての魅力の方を楽しんでいます。

 ここでは、姉の飲み屋の手伝いで図らずも女装の腕を磨いて育ってしまった高校生の男の子が主人公です。主人公の男の子は、自分の好きな同級生の女の子(ヤンキー)を守るために、女装して彼女の前に現れたり、屈強なヤンキーを相手に立ち回るというわけです。
 そんなこんなでその女の子は主人公に好意を寄せるけど、それは女装時の華やかな彼(彼女)を慕っているのであって、普段の学校の彼については何の親慕もないばかりか変態扱いされっぱなしという。つまり、女の子は、男の姿の主人公と女の姿の主人公が同一人物だとは思っていないんですね。

 ただ、女装時の主人公は、その女の子とカメレオン時代に伝説となった暴走族OZの二代目をレディースでやるという話になった……という所で、カメレオンと世界観が繋がってくるわけです。
 カメレオンのキャラクター達は契機役として、OBとして、話の世界観を形成する補佐といった調子です。が、やはりカメレオンが好きだった人が多く読んでいるだろうことを考慮してか、(主人公や一番人気だったキャラクターを除いて)結構強調されて登場してきます。



 そういうわけで、『くろアゲハ』は女装モノのマンガなわけですが、女装した主人公の話が広く受け入れられるための第一条件ってものがあるように、私には思われるんです。
 それは、「主人公が、やむをえず女装をせざるをえない」という状況のあることです。
 もし、主人公の女装が自発的であれば、そのマンガは広く受け入れられないでしょう。つまり、求められているのは――嫌々女装して似合ってしまう――という筋書きなのです。

 このマンガの最大の魅力は、普段はどちらかというと屈強なヤンキーに怯えて暮らす側の主人公が、女装時には彼らを手玉にとって篭絡してしまうという所にある。そういう、屈強なヤンキー達とのやり取りの面白さという点では、カメレオンの香りが漂いますね。
 でも、あくまでそれは主人公の願いとは違うのです。カメレオンの場合は、ハッタリを効かせてヤンキーとして威張りたいという所に主人公の願いがあった。しかし、『くろアゲハ』の場合は、女装してヤンキー連中を篭絡しているわけですからこの事自体が願いであったら、本当にヒクでしょう? ここでの主人公の願いはあくまで「好きな女の子の為」である必要がある。
 だから、ヒロインの女の子のキャラクター性が多少薄くても別に良いのです。『くろアゲハ』のヒロインには、主人公の女装しての立ち回りの魅力を根拠付けるという重大な意味が……つまり、主人公の好きな女の子であるという意味があるのですから。



くろアゲハ(1) (講談社コミックス月刊マガジン)




くろアゲハ(2) (講談社コミックス月刊マガジン)




くろアゲハ(3) (講談社コミックス月刊マガジン)



2015年05月04日

そう言えば「人魚シリーズ」高橋留美子(part1)




 そう言えば、昔実家に高橋留美子の『人魚の森』『人魚の傷』というコミックスが置いてありました。これは、高橋留美子の、人魚にまつわる統一した世界観の中で描かれた短編を集めたものです。「人魚シリーズ」とも呼ばれています。
 おそろしいですけど美しい話ですよ。


人魚の森 (るーみっくわーるどスペシャル)







 さて、人魚シリーズとはいえ、これは美しい人魚が描かれるというようなものではありません。というか、人魚は理性あるようなものとして扱われてすらいない。

 話の主題は「不老不死」です。人魚の肉を食べると不老不死になれる、とこういう訳です。
 ただ、人魚の肉はほとんどの人間にとってはただの猛毒で、食べると死んでしまうのが常です。人魚の肉を食べて、不老不死になる体質を持った者はとても少ないのです。
 また、死ぬだけならまだマシで、人魚の肉を食べると「なりそこない」というものになってしまう場合がある。不老不死になりそこなった「なりそこない」は、理性を失った醜い化け物です。若くて気立ての良い女性が、人魚の肉を食べて「なりそこない」になってしまう場面などは心をえぐられるようですよ。

 要は、「人魚の肉」を食すと、
@死ぬ
A「なりそこない」になる
B不老不死になる
 という可能性があり、「B不老不死になる」の確率は非常に低いというわけです。

 さて、物語は人魚の肉を食べて不老不死になった主人公と、人魚の肉を巡って進んでゆくわけですが、どうでしょう? あなたなら、人魚の肉が手に入るとして、食べますか? あるいは、食べて不老不死になったとして、不老不死とは幸せなものなのでしょうか。少なくとも主人公は、普通の体に戻ることを切望していますし、不老不死なんて実際なってみたらろくなものではないことくらい軽く想像がつきますね。でも、仮に想像はできても、人は不老不死を求めてしまうのです。中でも、病気や死に直面した場合は特に。

 そんな所が、このマンガのテーマです。
 おどろおどろしい場面もありますが、無意味に残虐な場面を拵えているわけではありません。
 また、絵もとても綺麗ですね。

 ちなみに、人魚シリーズの中で一番好きなお話は「闘魚の里」でした。とても切ないお話ですよ。

人魚の森 (少年サンデーコミックススペシャル―高橋留美子人魚シリーズ)




人魚の傷 (少年サンデーコミックススペシャル―高橋留美子人魚シリーズ)



夜叉の瞳 (少年サンデーコミックススペシャル―高橋留美子人魚シリーズ 3)




2015年05月03日

そう言えば『7SEEDS』田村由美(part1)



 そう言えば、田村由美の『7SEEDS』というマンガを読んでいます。
 少女マンガなんですが、SFでいわゆる少女マンガっぽくないマンガです。

7SEEDS コミック 1-28巻セット (フラワーコミックスアルファ)






 話は、地球上に巨大隕石が落ちてくると予測した日本政府が、7人×5チームを冷凍保存してシェルターに匿い、地球の環境が比較的穏やかになった時点で解凍するというプロジェクトが土台になっています。
 解凍された人々は、人も文明も流された遥か未来の日本列島で自活してゆかねばならないというわけです。

 SFの設定としてはベタなものでしょうが、そこで描かれる人間描写が繊細かつ機微に富んでいて、陰鬱な気分にさせられること受けあいです。

 少女マンガには昔から、神経衰弱になりそうな人物の心理を描写するのに長けている作品がよく見られます。『7SEEDS』も、その点かなり文学的で、「自分」というものを世界にどう配置するかに悩む登場人物の姿が、しばしば描かれる。むしろ、こうした人間像を描く為の、SF設定なのでしょう。
 また、こうしたSF設定も、現実にあり得ることではある……ないとは言えないという最低限のラインを保っているから、作品世界が現実からまったく浮遊している風にはならない。読者としては実感を持って、作中のギリギリな状況にある登場人物たちへ感情移入できるというわけです。

 こうした文学的というか、世界における「私」の自問と現実の矛盾みたいなものを描く少女マンガは、俗に言う進歩派でリベラルな左翼的傾向に走ることがままあります。たとえば、テーマが偏屈なジェンダー論に集約していくといったような。そういうのって度が過ぎると鼻につくじゃあないですか。
 しかし、『7SEEDS』はその辺りバランスを注意深く取ろうという姿勢があります。つまり、「私」というのは確かにあるんだけれど、世界や人間との関わり、はたまた生まれ育った環境を含めて「私」というものがあるという結論に、登場人物それぞれが達してゆくんです。
 そういう、個に閉じこもらず、周りに迎合しすぎず――という人間の微細な平衡感覚を描写する作品が、私は好きなんです。



7SEEDS 29 (フラワーコミックスアルファ)



posted by 荒川瑞樹 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 7SEEDS

2015年05月02日

そう言えば『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』(part1)


 そう言えば、私はマージャンをしないし役などルールには詳しくないのだけれど、マージャン漫画の「アカギ」だけは好きでした。
 そういう人は結構いるみたいで、赤木しげるの無双感と人生観が好きだという感想は良く聞いたものです。




アカギ 1~最新巻 [マーケットプレイス コミックセット]







 私は、博打そのものすらあまり熱中する方ではないけれど、博打もほとんど生死を賭けるような段階に入ると人生の縮図みたいなものが顕れてくるような気がします。
 マージャンが良く分からないのに面白い物語なのだから、読者は赤木の駆け引きや思想みたいなものに読者は惹かれているということでしょう。

 作者の福本伸行は、他作品でも博打の舞台を人生の縮図として描写する物語が得意ですよね。
 ただ、他の作品では博打における主人公の心理的葛藤を中心に描いています。対して、「アカギ」は赤木しげるが無二の天才・至高の哲学者として物語上に君臨しているので心理的葛藤の描写はむしろ対戦相手やギャラリーの方でされている場合が多い。その点、作品が表している切り口が他と違います。

 我々は、誰しも迷いや葛藤の中で生きていますね。中でも、「死」についてのそれは最大のものでしょう。死をどう心の中で扱うかということは、誰にとっても他人ゴトではない。
 しかし、赤木しげるは初っから「死」について心の位置づけが完了してしまった存在として設定されている。ただ、それを赤木の自問によって表したら哲学書になってしまいます。だから、作品中では、これを対比で表していますね。つまり、迷いや葛藤、死の不確かさなどを持った凡人達が「赤木」に遭遇することによって知らず知らずのうちに自分を返りみていることになる。そして、読者は赤木の心理に共鳴するわけではなく、赤木と遭遇した対戦者やギャラリーの方の心理に心を重ねることになるわけです。

 多分、本当の天才というものの心理を描写するためには、天才の心理そのものを直接に描写するんではダメなんでしょうね。天才との遭遇者として天才の心理を描くという方法でしか、凡人は天才を語れない。また、もし天才が天才の心理をそのまま描写したとしても、それは天才にしか通じないものとなるでしょう。もし、作者と読者を凡人と前提するのであれば、赤木しげるを描くには「アカギ」のようにならざるを得ないのでしょう。



アカギ―闇に降り立った天才 (1) (近代麻雀コミックス)



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