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2019年07月21日

世界の七不思議

世界の七不思議(せかいのななふしぎ)とは、古典古代(古代ギリシャ・古代ローマ時代)における7つの注目すべき建造物のことである。

現在一般的には、紀元前2世紀にビザンチウムのフィロンの書いた「Επτά θαύματα του αρχαίου κόσμου(世界の七つの景観)」の中で選ばれた、古代の地中海地方に存在していた7つの巨大建造物を指す。

「不思議」の意味
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この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年6月)
上記の書名で景観と訳されている θαύματα とは、ギリシア語で「必見のもの」といった意味である[要出典]。つまり、本来は「怪しい」「ありえない」といった意味は含まれていない。

しかし、日本語では英語のSeven Wonders of the Worldから「世界の七不思議」などと誤訳された呼び名が定着してしまったために("Wonders"は「素晴らしいもの(景観)」の意味[要出典])、現代ではオカルトブームなどと結びついて、「当時の土木技術のレベルを超越している」、「物理的に可能とは思えない」といった意味で解釈されることがある。それがゆえに、七不思議の実像が誤解されることもある(「空中」庭園など)。

こういった巨大建造物の建設が、多くの場合においては国家事業として、現代では想像し難いほどに長い期間を掛けて成されていた面もあり、また文明は一様に進歩している訳でもなく情報の散逸や技術の遺失といった問題を含んでいて、後世の者がその建築技術の高さに驚嘆したとしても、必ずしも超古代文明の存在の証明にはならない。しかし神秘主義者の中にはこれら建造物が超文明によって建設されたかのように考えるケースもあり、事実オカルト関係の書籍においても、これら「七不思議」が(後世の迷信を含む)説明を掲載している(→オーパーツ)。

現代の「世界の七不思議」

現代においても、さまざまな「七不思議」が選定されている。スイスの「新世界七不思議財団」は、2007年7月7日に新・世界七不思議を決定しようと世界中からの投票を呼びかけていた。最終候補として挙げられた21の候補地から次の7つが選ばれ、ポルトガルの首都リスボンで開かれた式典で発表された。また現代版の七不思議は、新・世界七不思議と同じである。中世版とは万里の長城、コロッセウムが重なっている。

中国の万里の長城
インドの廟堂タージ・マハル
イタリア・ローマの古代競技場コロッセオ
ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ
ブラジル・リオ・デ・ジャネイロのコルコバードのキリスト像
ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ
メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツァ

インドの廟堂タージ・マハル

タージ・マハル(ヒンディー語: ताज महल, ウルドゥー語: تاج محل‎, 英語: Taj Mahal)は、インド北部アーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド・イスラーム文化の代表的建築である。

概要
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シャー・ジャハーン

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ムムターズ・マハル

1632年着工、1653年竣工とされる。

謀反を起こした臣下ハーン・ジャハーン・ローディー討伐に付き従っていたムムターズ・マハルは、遠征先のブルハーンプルで産褥病のため、1631年6月7日に死亡した。彼女の遺言のひとつに、後世に残る墓を所望した。彼女はブルハーンプルのザイナーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日にはシャー・ジャハーンが訪れていた。

霊廟の計画はブルハーンプル滞在時には着手され始めたと考えられる。1632年の初めにムムターズ・マハルの遺体は都アーグラに送られ、ダールル・ヒラーファト・アクバラーバードの庭園に安置されたが、シャー・ジャハーンはデカン討伐を続けた。同年6月、シャー・ジャハーンが遠征を終えるとアーグラに戻り、ムムターズ・マハルの一回忌追悼式典が催され、霊廟建設が開始された。基礎工事を経て1636年には白い霊廟がほぼ完成。さらにこれを挟んでモスクと集会場・尖塔・大楼門が建設された。大楼門北側には「神のご加護により、1057年竣工」という文字が刻まれている。 イスラーム暦1057年は西暦1648年であり建設開始から17年を経ているが、その後に付帯設備が5年間をかけて整備され、すべての工事は1653年に完了した。なお、シャー・ジャハーンは、タージ・マハルと対をなす形でヤムナー川を挟んだ対岸に黒大理石で出来た自身の廟を作ろうとしたとされるが、これは実現しなかった。

名前の由来は不確定ながら、王妃ムムターズ・マハルのムムが消え、ターズがインド風発音のタージになったという。ムムターズ・マハルはペルシャ語で「宮殿の光」、「宮廷の選ばれし者[4]」を意味する言葉であり、第4代皇帝ジャハーンギールから授けられた称号。また、彼女の本名はアルジュマンド・バーヌー・ベーグムとされる。タージ・マハルを言葉どおりに訳せば「王冠宮殿」もしくは「宮殿の王冠」という意味になる。

また、地元では親しみを込めてビービー・カー・ラウザと呼ばれていた。ビービーは親しみを込めた貴婦人への呼びかけ。カー・ラウザは「(その貴婦人)の廟園」を意味する。

1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、2007年に新・世界七不思議に選出された。

構造
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敷地図

敷地
タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。

南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。

タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。

前庭部と大楼門
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大楼門

大楼門の南には前庭や車だまりおよび従者が控える建物がある[2]。大楼門は赤砂岩づくりで高さ約30m。イスラーム建築で多用される大きなアーチを持つイーワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イーワーンの上には、ファテープル・シークリーの寺院にも見られる白い鍾乳石の型体をした11個の丸屋根がある。

庭園
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庭園

大楼門をくぐった先に広がる庭園には天上の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天上の泉を表す池が配置されている[7]。これはペルシャ様式のチャール・バーグ式を踏襲している。

水の供給には直径約23cmの管路から行われる。庭園植物への灌水の他、これはさらに細い管を通して水路の南北にある計24基と、中央の泉にある5基の噴水へ水の供給が行っている。通常ならば取水口から遠い噴水には水圧が低下するが、タージ・マハル庭園ではそれぞれの噴水の下に壺が埋め込まれ、ここに一度水を貯めることで各噴水の高さに差が現れないよう工夫されている。

ムガル朝の霊廟形式では、本来庭園の中心に墓廟があり、四方いずれからも同じ景色をつくる。タージ・マハルの庭園の中心には、墓廟の代わりに一辺23mの四角い白大理石づくりの基壇がある。中央の泉は一辺13mの方形であり、池と基壇の各辺の比は、墓廟とその基壇の比とほぼ一致する。

霊廟の庭園は、イスラーム教徒にとって砂漠の中の楽園を意味する。タージ・マハルも同様に列柱回廊で囲まれ、東西には門の代わりにバルコニーを備えた二階の楼台(バラダリ)がある。その中には豊かな花々や果樹が植えられ、季節によってバラ、チューリップ、ユリ、マリーゴールド、水仙などが咲き、マンゴー、オレンジ、レモン、ザクロ、リンゴ、ブドウなどが実を結んでいた。現在の庭園は糸杉の並木と芝が一面に植えられ、大樹がところどころにあるが、これは19世紀にイギリス人が作り変えたものである。

基壇と尖塔
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尖塔

庭園奥には中央に高さ5.5mの基壇の上に立つ白亜の墓廟があり、四隅には4本の尖塔が建っている。向かって左(西)にモスク、右(東)に集会場がある。基壇を昇る階段は庭側から見えない場所に設置されている[2]。ムガル帝国の霊廟では、この基壇周囲にはアーチ状の列柱とその後ろに小部屋が据えられ、一族や縁者の墓石を置く例が主だが、タージ・マハルの基壇にあるアーチは単なる浮き彫りであり小部屋も無い。これは、タージ・マハルがあくまでムムターズ・マハルだけのために建設されたことを表している。

4つの尖塔は「皇妃に仕える4人の侍女」に喩えられる。しかしその形は灯台と小さなバルコニーを備えただけの単純で、イギリスの小説家オルダス・ハックリスは「人類が手がけた中で最も醜悪な建築物のひとつ」とさえ形容した。ただしこれらは主役の墓廟を際立たせるとともに、全体で視覚的なバランスに寄与している。

墓廟
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墓廟

墓廟は横と奥行きがどちらも57mの正方形を基本に、四隅が切られた変形八角形をしている。対して高さは丸屋根上部までが58m、上に据えられた頂華の長さを加えると更に高くなる。この比率はタージ・マハルが目前から見上げられる際に威容を感じさせるためのである。しかし遠目から見るとバランスに欠ける。そのため基壇の端に塔を置き、視覚的な重心に配慮している。

最上部にムガル建築の様式である三日月と水差しを重ねてあしらった頂華を備え、繋ぐ部分には蓮の花弁を象った飾りパドマコサを持つ丸屋根は、建物本来の高さ約23mから持ち上げるため下に長い円筒が置かれ、その総重量は12,000トンにもなる。この重さは内部にある八角形の石積みの柱が支え、ずれや傾きを防ぐために工夫された楔で固定されている。

建物の屋上には丸屋根を囲む四隅に小さな丸屋根を持つ小楼(チャハトリ)が配される。建物の正面を含む4つの面には大きなアーチ型飾り門があり、その両隣と切られた四隅にはそれぞれ上下2段の小さなアーチ飾り窓がある。さらに八角形の建物のそれぞれの角と飾り門の両端には飾り柱があり、先端は建物の上に伸びている。飾り門や窓は意図的に深い奥行きを持たせており、太陽や月の光がつくる濃い影を作らせ、建物の微妙な表情を演出させる。

墓廟の内部に入ると丸天井は24mしかない。これは二重殻ドームという形式で、外観上の丸屋根と内部の天井の間に空洞が置かれ、屋外から見るデザインと屋内の空間とのバランスを両立させる形式であり、この工夫は16世紀の西アジアで考え出された。内部中央の八角形のホールには、その中心に白大理石にコーランの章句や草花の連続文様が装飾された衝立が囲うムムターズ・マハルの墓石がある。そしてその横(庭から入ると向かって左)には一回り大きな墓石があるが、これは夫のシャー・ジャハーンのものである。中央ホールを取り囲む四隅には本来は親族を葬るために造られる八角形の小部屋が4つある。しかしそこへ至る通路はすべて閉じられ、事実他の誰の墓部として使われていない。

タージ・マハル墓廟には地下室がある。庭側入り口の脇には狭い階段があり、そこを下ると基壇内に造られ床は庭と同じ高さになる玄室がある。ここにはホールの真下にムムターズ・マハル本来の墓石が安置されている。ホールの墓石はあくまで象徴的な参拝用のものであった。なお、その横には同様にシャー・ジャハーンの本来の墓石がある。この地下室は閉じられていたが、現在[いつ?]は観光用に見学ができる。

モスクと集会所
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集会場。モスクも外観は同じである。

墓廟を挟むモスクと集会場は、対称な形で向かい合い、いずれも赤砂岩づくりの外観である。しかし、内部は大きく異なる。モスクには礼拝のために聖地メッカの方向を示すアーチ形のミソラーブがあるのに対し、集会場の内部には迎賓などのための広い空間だけがある。このようなモスクや集会場がある霊廟は、他のムガル帝国廟にはない。

周囲
周囲にはムムターズ・マハルの侍女サティー・ウン・ニサー、シャー・ジャハーンの他の妃であったシルヒンディー・ベーグムやアクバラーバーディー・ベーグムといった縁者の墓がある。

北側はヤムナー川に接し、かつてはアーグラ城塞から船でタージ・マハルの北から廟内に入っていたが、現在[いつ?]では訪問客は南から大楼門をくぐって訪れる。その南にはかつてはムムターズバード、今[いつ?]はタージ・ガンジーと呼ばれる街区があり、商業や宿泊施設などが広がっている[2]。

タージ・マハルと対面するヤムナー川の北岸には、対応するように胸壁があり、この中央には楼台、左右には望楼が置かれ、これらの北にも庭園がある。

建設
場所の選定
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北側のヤムナー川から見たタージ・マハル

タージ・マハルの建設地には、アーグラ城塞からヤムナー川を東へ約1kmほど下流の河川が湾曲する外側に当たる場所が選ばれた。ここは当時ラージャ・ジャイ・シングが所有する庭園で、彼の曾祖父にして皇帝アクバルの重臣でもあったラージプートの君主ラージャ・マーン・シングが造営したものだった。

この場所は、次の理由から選ばれた。

ムガル王朝の伝統では、墓は庭園の中にあるべきと考えられていた。
ヤムナー川はアーグラ城塞のある場所で湾曲し、同じく河川が曲がったこの場所に建設すれば建物の姿が川面に映りシンメトリーの視覚効果が得られると計算された。
河川が曲がる外側は、それだけ強固な地盤が期待できた。
設計
設計にはイスラーム世界から広く名声を博した建築家や工芸家らが集められた。20世紀にインド政府考古学調査局長のB・L・ダーマは研究書『ザ・タージ』にて設計者をイスラームに帰依したインド人ムハンマド・イーサー・エフェンディーと述べた。しかし、これも当時のヒンドゥー至上主義の影響を受けたもので、事実上設計者名は不明なままである。シャー・ジャハーンの主任建築家だったウスタード・アフマド・ラホーリーの墓碑には彼がタージ・マハルの設計者だったと記されているが、これも多くの工匠らが持ち寄った設計を纏める役割に過ぎなかったと考えられる。

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墓廟に刻まれたコーラン

しかし名が伝わる部分の設計担当や工匠らもいる。円筒と組み合わせた丸屋根の設計はトルコから招かれたイスマーイール・ハーン、頂華の製作はラホールのカーシム・ハーン、大理石象嵌はデリーのチランジー・ラール、大楼門や墓廟に刻まれたコーラン文字はシーラーズのアナマト・ハーンとシリアのラウシャン・ハーンの2人の書家、透かし彫りや貴石の細工はバルーチスターンから細工師のアミール・アリー、石組みにはバグダードから技師のムハンマド・ハニーフが呼ばれ、他にも集められた有名な技師たちは多く、知られているだけでも37名が雇われた。彼らは高給を与えられ、例えばムハンマド・ハニーフは月1000ルピー、カーシム・ハーンは月695ルピーを得た。一般の熟練工で月5〜6ルピー、人夫は月1.5ルピー程度だったが、当時の通貨価値では1ルピーで小麦80kgが買えた。

職人はペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人ほどを集めた。

建設
17年とも22年と言われる建設期間中には、常に2万人もの人々が工事に携わった。タージ・マハルが建つヤムナー川の岸は傾斜しており、庭園を囲む回廊の外側には厚い石垣が積み上げられ、土地を水平に造成している。

建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方のジャイプル産という。赤砂石はファテープル・シークリーの石切り場から運ばれた。翡翠や水晶は遠く中国から、トルコ石はチベットから、サファイアや瑠璃はスリランカから、カンラン石はエジプトから、珊瑚や真珠貝はアラビアから、ダイヤモンドはブンデルカンドから、アメジストや瑪瑙はペルシャから集められた。他にも、碧玉はパンジャーブ地方から、ラピスラズリはアフガニスタンから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。

タージ・マハル建設にどれだけの費用がかかったかは明らかではない。宮廷史家アブダール・ハミード・ラホーリーは著書『皇帝行伝(パードシャー・ナーマ)』にて500万ルピーと記しているが、その他にも980万、1850万、4000万ルピーという説もある。

タージ・マハル建設の意義
ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無い。

タージ・マハル着工の頃、シャー・ジャハーンはヒンドゥー教を抑圧する令を発するなど、イスラーム教国家建設に取り掛かっていた。その中でタージ・マハルはイスラーム教徒の精神的中心として構想された。聖者信仰はイスラームにもヒンドゥーにも見られ、その墓所は霊力が宿るという考えはムガル王朝期のインドでは強かった。ムムターズ・マハルを聖者とみなす根底には、イスラーム社会が女性に夫への愛と子を生すことを求め、産褥による死は男性が聖戦で死す事と同義とみなす母性信仰があり、生涯で14人の子を産み36歳で死んだ彼女は殉教した聖者になるに充分だったと言える。

この意義に叶うため、タージ・マハルは巡礼者を受け入れる施設を持たされた。訪問中にメッカへ礼拝するためのモスク、食事や宿泊のための集会所、巡礼者の車場置き場、そして外部の市場もこの機能を補助した。タージ・マハルが完成した時に、その美しさにシャー・ジャハーンが詠んだ詩には、ここが罪を負う者が悔恨し、罪行から自由になり、許され清められる典雅な高殿であり、神の光とともにあると述べられている。


その後
シャー・ジャハーン廃位
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シャー・ジャハーン(左)及びムムターズ・マハル(右)の墓石

ムガル王朝は常に皇子らの間で皇位を巡る激しい争いが起こり、「王冠か死棺か」とさえ言われた。第三皇子だったシャー・ジャハーンも例外ではなく、皇位継承権を持つ一族すべての男性を殺して帝位に就いた。

そしてこれは、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルの間に生まれた息子たちの間でも繰り広げられ、1657年にシャー・ジャハーンが重病に陥ると4人の息子が帝位をめぐり争った。シャー・ジャハーンは第一皇子のダーラー・シコーに皇位を継がせようと手元に置き教養を与えた。しかしヒンドゥーやバラモン教にも理解を示す兄に、敬虔なイスラーム教徒であった第三皇子のアウラングゼーブには許しがたい背信に映った。

16歳から戦場に身を置き、その中で果敢な性格と皇位を狙う野心を育てていたアウラングゼーブは反乱の挙兵を起こし、1658年に兄の軍を破ると父シャー・ジャハーンの前で兄を異端に堕ちた者と弾劾し、自らの行動を認めさせ、アウラングゼーブは皇位に就いた。しかしシャー・ジャハーンはダーラー・シコーを支援する旨を記した手紙を秘かに送ったが、アウラングゼーブの知るところとなり、彼は父をアーグラ城塞内に幽閉した。幽閉されたままのシャー・ジャハーンは1666年1月22日に亡くなった。翌日彼の遺体はタージ・マハルに運ばれ、妻の脇に葬られた。対称性を重視するイスラーム建築にあって、これに反する夫妻の墓碑の並びは、アウラングゼーブが父をいかに憎んでいたかを物語る。

アウラングゼーブも遠征先で帯同させた妃ディルラース・バーヌー・ベーグムを産褥で失った。彼は皇帝に就く前年の1657年から着手し、妃が亡くなったアウランガーバードに60万ルピーの費用をかけて彼女の墓廟ビービー・カ・マクバラー廟を建設した。これは白亜の廟堂と4本の尖塔など、タージ・マハルを模倣して設計された。

略奪
アウラングゼーブの死から十数年後、アーグラの街は地方領主に占領され、タージ・マハル内ムムターズ・マハルの墓石に掛けられていた真珠を散りばめた刺繍布チャーダルが奪われた。チャーダルはイスラーム教聖人の墓石に通常掛けられているが、なぜかその後作り直されなかった。1764年にはスーラジュ・マル率いるヒンドゥー教徒のジャート族によって堂内の宝石類が剥ぎ取られた。

1803年、イギリス東インド会社がアーグラ支配を確固たるものにすると、彼らもタージ・マハルで略奪を働いた。この時、丸屋根の上にある頂華を包む金箔が剥がされた。1828年から総督に就いたウィリアム・ペンディングはタージ・マハルを退廃的と見て、解体しイギリスで売り払う提案をしたというが、これは実行されなかった。

観光
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霧の立ち込めた朝に

タージ・マハルはインド観光の目玉的存在であり、多くの観光客を魅了している。ユネスコの記録ではすでに2001年に200万人以上の観光客を記録しており、2014年には約700万〜800万人に増加した。2017年段階でも少なくとも年間700万人の観光客が訪れている。

タージ・マハルの入場料は2段階の価格となっており、インド国民の入場料は大幅に安く、外国人料金は高額に設定されている。2018年には、インド国民の料金は50インド・ルピー、外国人観光客の入場料は1100ルピーとなっていた。最も観光客が訪れるのは、涼しい時期である10月、11月、2月である。排気ガスを出す交通手段は施設の近くでは禁止されているため、観光客は駐車場から歩くか電気バスに乗らなければならない。Khawasspuras(北の中庭)は現在新しいビジターセンターとしての使用のために修復されている。

タージ・マハルの南に位置するTaj GanjiまたはMumtazabadとして知られる小さな町は、当初タージ・マハルを訪れる人々や労働者のためのキャラバンサライ、バザール、および市場によって構成されていた。約1億人が投票して2007年に発表された新・世界七不思議などのように、お勧めの旅行先のリストには、しばしばタージ・マハルの名が挙げられる。

営業時間は通常朝6時から19時の間であるが、金曜日は基本的に休日で、礼拝のためにモスクが昼の12時から14時の間開くだけである。夜間の入場は本来できないが、満月の夜とその前後2日間のみ夜間入場が許可される。ただし、金曜日およびラマダンの時期は夜間入場は行われていない。

環境問題
インドの経済成長に伴い大気汚染が深刻化し、タージ・マハルの損傷が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが報告されている。政府はこれを防止するため周辺での石炭の利用禁止や、駐車場からタージ・マハルへ向かう手段を排気ガスを出さない電気自動車に限るなどの対策を取っているが白い大理石の黄ばみが目立ってきており、この汚れを取るために施設の表面に泥を塗り、乾燥させてからこそげ落とす処理を2015年・2016年と行った。

さらに入場者数の激増により施設に負担がかかっているとして、2018年よりインド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表した。週末には7万人以上が訪れていた訪問者を減らすのが目的であるが、平日の平均入場者数は1万から1万5000人であり、また外国人観光客にはこの制限は適用されない。しかしその後も汚染は悪化の一途をたどり、2018年5月2日にはインドの最高裁判所がインド政府のタージ・マハルの保護の怠慢を激しく非難した。また、同年4月12日には暴風によって入口の門の尖塔2本が倒壊した。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
軍事的観点
インド政府はタージ・マハルはパキスタン空軍の空爆の標的になりやすいと考えており、パキスタンとの緊張が高まった時期には、タージ・マハルに布をかぶせて偽装を行っている。また、容易に偽装できるよう、中央ドームの外壁にフックが打ち込まれている。

伝説
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タージ・マハル エラストゥス・ソールズベリー・フィールド画

両手を切り落とされた工匠
タージ・マハル造営を命じられた工匠は、美しいムムターズ・マハルを秘かに慕っている男だったという。彼はその想いを建設に注ぎ、シャー・ジャハーンを満足させる美しい墓廟を完成させた。シャー・ジャハーンが工匠に褒美を取らせようと王宮に呼んだところ、工匠は、墓廟を完成できたことで満足だと答えた。シャー・ジャハーンは男が内に秘めたものに気づき、男に両手を前に出すよう命ずると「これが褒美だ」と剣でその両手を切り落としたという。

対岸の黒大理石の墓廟
シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたともいう[3]。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされる。

シャー・ジャハーンの失脚で、白大理石のタージ・マハルと対となる、黒大理石の墓廟の計画は幻に終わった。北岸の胸壁と望楼は、その基礎工事の名残とも言われる。

ヨーロッパ人の設計者
タージ・マハルの設計には、ヴェネツィア出身の金細工師ジェロニモ・ヴェロネオという男が名を連ねたという。19世紀に「密林の中に発見した」タージ・マハルは、イギリス人にとって驚きのものだった。未開の地にある荘厳な建造物に、やがてヨーロッパ人の関与があったという発想に至った。1884年に出版された『北西インドの歴史と地誌』第2巻には、ジェロニモ・ヴェロネオが300万ポンドの費用で建設を請け負ったが、1641年にスペイン人の托鉢僧マンリケが同地を訪問した時にはヴェロネオは死去しており、コンスタンティノープルから来たトルコ人のエフェンディが引き継いだという説を紹介し、大理石を象嵌した技術はフランスのボルドー出身のオスティンヌという工匠が支援したとも添えた。

この説はヨーロッパで広く知られ、1957年ケンブリッジ大学出版局刊『インド史』第4巻ではヴェロネオが設計図を皇帝に献じたと、1972年ニューズウィーク出版の『ザ・タージ・マハール』も、タージ・マハル建設の名誉を自らのものにし同じような建造物が二度と建てられないようにするため、皇帝が工匠頭ヴェロネオを断首したことはセバスチャン・マンリケの口伝にあると記した。

ヨルダンの古代都市遺跡群ペトラ

ペトラ(アラビア語: البتراء‎)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。

概要
ペトラのある地は、自然の要塞であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。

立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。

完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことが分かっている。

歴史
紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。 (旧約聖書の創世記第36章からの文書データによると、アブラハムの孫・エサウ系の子孫と、その地のセイル(セラ) 山地に先住していたホリビとセイルの子孫らとの一部混淆による人たちであろうと推定されうる。)

紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。

紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。

紀元後1世紀の初期には、ナバテア王であったアレタスは隣接するペレアの領主ヘロデと仲が悪く何度も争い事があり、一度は小康状態になりアレタスの娘がヘロデの元に嫁いだものの、後日ヘロデが兄弟の妻(姪でもある)ヘロディアを夫と別れさせ新しい妻にしようとしたため、アレタスの娘は逃げだして実家に帰り、間もなくヘロデとアレタスの間に戦が起き、ヘロデ軍内の内部分裂もあってアレタスが勝利したものの、宗主国であるローマ帝国が割って入り、戦を仕掛けたアレタスに問題があるとしてとらえ次第処刑の命令を下した。

紀元後105年に、ローマ皇帝トラヤヌスが反乱を起こしたペトラを降伏させ[3]、106年には、ペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。

363年、ガリラヤ地震 (363年)が発生した。多くの建物が崩壊し、水路網が破壊されるなどの被害が生じた。

663年、イスラム帝国によってこの地域が征服され、ペトラが主要通商路から外れると、ペトラは次第に衰退していった。

749年、ガリラヤ地震 (749年)が発生した。この地震によって大きな被害が生じると、ついにナバテア人はペトラを放棄した。

1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、12世紀の十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。

発掘調査
ルートヴィヒ・ブルクハルトによる紹介以降、20世紀の頭から発掘調査が行われ始めた。2014年現在でも続いている。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されている。2014年現在、85%が未発掘とされる。

主な史跡
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王家の墓とウナイシュの墓

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エド・ディル(修道院の意)

エル・カズネ(宝物殿)
古代のペトラにおいては、アーロン山(Jabal Haroun, 英語: Aaron's Mountain)周辺に通じる行路を南から、ペトラの平野を横切るか、あるいは高地から北に進入していたとも考えられるが、現代の訪問者のほとんどは東より遺跡に入場する。荘重な東側の入口は、暗く狭いシーク(Siq, 英語: the shaft)と呼ばれる峡谷(所により幅わずか3-4m)を抜けて通じており、それは砂岩の岩盤の深い亀裂より形成された自然の地質特性であり、ワディ・ムーサ (Wadi Musa) に流れる水路の役目もある。狭い峡谷の終わる先に、砂岩の断崖に刻まれたペトラの最も精緻な遺跡であるエル・カズネ(一般に「宝物殿」として知られる)が建っている。エル・カズネは、1 世紀初頭に偉大なナバテア人の王の墳墓として造られたものとされ、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅 30 m、高さ 43 mにおよぶ。
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ペトラの地図

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1. ホテル、ビジターセンター
2. ジン・ブロックス
3. オベリスクの墓
4. エル・ムスリム・トンネル
5. Al-Madras
6. シーク
7. エル・カズネ
8. ファサードの道
9. ローマ劇場
10.ウナイシュの墓
11.アーン(壺)の墓
12.コリントの墓
13.宮殿の墓
14.北の壁
15.セクスティウス・フロレンティヌス墳墓
16.Conway Tower
17.トゥルクマニヤの墓
18.ニンファエウム
19.列柱通り
20.翼を持ったライオンの神殿
21.凱旋門
22.カスル・アル・ビント
23.博物館
24.採石場
25.Umm al-Biyarah (墳墓群)
26.エド・ディル (Ad Deir)
27.Jabal al-Deir (山)
28.犠牲祭壇
29.南の壁
30.水路
31.ドロセウスの家
32.Mughr an-Nasarah (墳墓群)
33.Al-M'aysrah (聖域)
34.ビクリニウム
35.ライオン・トリクリニウム
36.Isis (聖域)
37.Umm al-Biyarah (聖域)
38.ヘビのモニュメント
39.Jabal al-Nmayr (山)
40.Wâdi al-Nmayr
41.庭墓
42.墳墓
43.ワシの壁龕
44.Al-Wu'eira Fort
45.大神殿
46.エル・ハビス
47.ダム
48.ビザンティン教会
49.Jabal al-Khubtha (山)
50.Wadi Siyagh
51.シルクの墓
52.ローマ兵の墓
53.トリクリニウム
54.ライオンのモニュメント

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
その他
エル・カズネ(宝物殿)は『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』のロケ地として、エド・ディルは『トランスフォーマー/リベンジ』のロケ地として使われた。また、『シンドバッド虎の目大冒険』においても、実写部分のロケ地となっている。
2018年11月9日、土石流が発生して観光客らと一時的に連絡が取れなくなる騒ぎがあった。

ブラジル・リオ・デ・ジャネイロのコルコバードのキリスト像

コルコバードのキリスト像(コルコバードのキリストぞう、ブラジルポルトガル語:Cristo Redentor、クリスト・ヘデントール)は、ブラジルのリオデジャネイロのコルコバードの丘にある巨大なキリストの像である。

1931年のブラジル独立100周年を記念して、1922年から1931年にかけて建設された。高さ39.6メートル(内台座の高さが9.5メートル)、左右30メートルであり、635トンの重量がある。その中は、150人程が入れる礼拝堂になっている。

クリスチャン人口が80%を超えるブラジルのキリスト教のシンボルで、リオデジャネイロとブラジルの象徴になった。世界遺産「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」(2012年登録)に含まれている。
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コルコバードのキリスト像


新・世界七不思議
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コルコバードの丘からの眺望

このキリスト像は、2007年7月に新・世界七不思議の一つに選ばれた。他の六つが古いものであるのに対し、このキリスト像だけは20世紀の建造物である。

この新・世界七不思議はユネスコの世界遺産とは異なり、最終選考は専門家による審議に拠らず選出のために一般からの電話投票とインターネット投票が行われた。そのため、ブラジルではリオデジャネイロに本拠を置く同国最大の放送局・メディア企業であるグローボを筆頭にブラデスコ銀行などの有力企業の後援の元、数百万ドルが投じられ、この自動応答式の電話投票を無料で行える“Vote no Cristo”(キリスト像に投票しよう)キャンペーンが行われ、7月初めまでの時点でおよそ1000万人のブラジル人がキリスト像に票を投じた。

キリスト像の抱擁姿
2010年に児童虐待のキャンペーン一環として、キリスト像をスクリーンとして投影される形で抱擁姿が披露された。

ギャラリー
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夜の風景


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イルミネーションとともに
(2009年)


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背面



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顔部


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太陽とキリスト像

ペルーのインカ帝国遺跡マチュ・ピチュ

マチュ・ピチュ(スペイン語:Machu Picchu、ケチュア語:Machu Pikchu)は、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根(標高2,430m)にある。

当時、インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400mに位置する。標高2,430mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にその首都があった。現在のクスコはペルー有数の都市でその市街地は世界遺産(文化遺産)である(1983年に登録された)。

なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服により滅亡したが、アンデス文明は文字を持たないため、マチュ・ピチュの遺跡が何のために作られたのか、首都クスコとの関係・役割分担など、その理由はまだ明確に分かっていない。
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マチュ・ピチュ遺跡


概要
多くの言語で「Machu Picchu」と呼ばれるこの遺跡名は、「老いた峰(Old Peak)」を意味するケチュア語「machu pikchu」を地名化したものの転写である。山裾からは遺跡の存在は確認できないことから、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称される。一方、遺跡の背後に見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu、若い峰)で、標高2720m。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山腹にはマチュ・ピチュの太陽の神殿に対する月の神殿が存在する。

この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコ県に属しており、クスコの北西約70kmに位置する。2015年の第39回世界遺産委員会終了時点でペルー国内に12件あるユネスコの世界遺産のうちでは、クスコとともに最初(1983年)に登録された。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれる。

周辺地域はアンデス文明が発達していたが文字を持たないため、未だに解明されていない多くの謎がある遺跡でもある。2007年7月、新・世界七不思議の1つに選ばれた。

ハイラム・ビンガムの遺跡発見

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ハイラム・ビンガム

アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世は、1911年7月24日にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。

ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィック』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽に処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

マチュ・ピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらず、ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。

ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。

ただし最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見していたという。真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子がその事実を述べられているということ、またこの人物について複数の証言があることからも、事実である可能性は高い。

最近の研究成果
一方、第一人者としてのビンガムのマチュ・ピチュに関する発表や仮説がその後の研究の妨げになっていたのも事実である。

イェール大学のピーボディ博物館の館長リチャード・L・バーガー(Dr. Richard L. Burger)、並びにルーシー・C・サラザール(Dr. Lucy C. Salazar)らによれば、マチュ・ピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論となった。16世紀のスペイン公文書によれば、わずかに抵抗していた最後のインカ族は1572年熱帯の盆地の隠れ家で降伏したとの記述があり、それはマチュ・ピチュのような高地ではなかった。

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太陽の神殿のインティワタナ

現在では要塞ではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が2つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、「インティワタナ(太陽をつなぐもの)」という意味の石の台の削りだされた柱は、1種の日時計だったと考えられている。

また、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、1920年代のニューヨーク・タイムズ紙の包装のまま箱に梱包され、イェール大学の地下倉庫で眠っていた。サラザール博士はブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、特に壺について再調査を行った。その結果、壷の様式は全て、15世紀のものであった。墓の埋蔵物については、質素なものが多く、王族ではなく召使のものと推定された。 

ビンガムは、同行した骨学者に「出土した骨は女性の骨が大半だった」との報告を受けていた、しかしチュレーン大学の自然人類学者ジョン・W・ヴェラノ(Dr. John W. Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している。骨の分析では、結核や寄生虫のケースが見られ、また、トウモロコシの食生活による歯の損傷も見られるものの、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。また、骨には戦いの形跡は見られず、平和な生活をしていたと考えられる。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域やあるいはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことがわかっており、遠方からやって来た職人たちであろうと推定された。高度な石積みの技術が必要なため、職人たちが呼ばれたと考えられている。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。

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カリフォルニア大学バークレー校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr. Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えている。この方法を敲製(ペッキング)という。あらかじめ大きく割った石を、小型の叩石(ハンマー)で連続してトントンと細かく叩いて表面をならしてゆく方法である。この方法は、すでにプレ・インカ(インカ期以前の古い時期)から行われていたことがわかっている。 当時巨石文明が世界各地で見られ、その運搬手段は解明されつつあったが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎[* 1]であるとしている。また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも公表された。

最近の調査では、地下から焼けた跡が発見されたことなどから、スペイン人による侵略を恐れて住民が町を焼き払った、という説が研究者から指摘されている。

人口は最大でも750名
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。

遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。

この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。

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建造から500年を経てなお健在な急斜面の石積み

ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr. Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。

神をまつる神殿としての役割
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月の神殿

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段々畑

なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。

イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。

急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana、太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。

インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。 神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。

なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。

マチュピチュ遺跡内にはインカのシンボルでもあるコンドルの神殿があり、ワイナ・ピチュ側からマチュピチュ遺跡を見下ろすとコンドルの形に見えることからも、この遺跡が宗教儀礼的意味を持って建設されたことがわかる。

世界遺産
詳細は「マチュ・ピチュの歴史保護区」を参照
国際関係
日本の旗 日本福島県大玉村 2015年12月26日にマチュピチュ村にとって初の友好都市協定締結。村長を務め、マチュピチュの発展に尽力した野内与吉が大玉村出身であることによる。
パノラマ
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Up-close view of Incan ruins on Machu Picchu

マチュ・ピチュの歴史保護区

マチュ・ピチュの歴史保護区(マチュ・ピチュのれきしほごく)は、ペルーのクスコ県にあるマチュ・ピチュ遺跡と、その周辺を対象とするUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。マチュ・ピチュ遺跡はインカ帝国時代の遺跡の中では保存状態がきわめて良く、それに加えて周辺の自然環境は優れた景観の中に絶滅危惧種・危急種をはじめとする重要な動物相・植物相を含んでいることから、1983年に複合遺産として登録された。総面積は約326km2で、そのうち都市遺跡部分は約5km2である。

文化的側面
詳細は「マチュ・ピチュ」を参照
マチュ・ピチュの都市遺跡の発見は1911年のことであった。かつてインカ帝国がスペインに攻略された際に、莫大な財宝が運び込まれたとされる伝説の都ビルカバンバを探していたアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、地元の少年を案内役に雇い、クスコ北西約70 km 付近のウルバンバ川流域を調査した折、急峻な斜面を登った場所でこれを発見したのである。ビンガムはこれこそがビルカバンバであったと主張したが、現在では否定されている。

マチュ・ピチュはケチュア語で「年老いた峰」を意味し、「年若い峰」を意味するワイナ・ピチュへと連なる尾根の部分に都市が建設された。マチュ・ピチュ自体の標高は2,795mで2,667mのワイナ・ピチュよりも高いが、ワイナ・ピチュを仰ぐ尾根に建設された都市遺跡の標高はおよそ2,430mである。建設された年代は石段の組み方などをもとに1450年ころと見積もられており、人が住んでいたのはそれからおよそ1世紀の間だったとされている。文字の記録がないため、この都市の建設目的は諸説あるが、現在では、第9代皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられている。かつては人口1万人規模とするものもあったが、現在では否定されており、ペルー文化庁の専門家たちには、常住人口500人と見積もっている者たちもいる。

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都市遺跡の地図(左側が北)

都市遺跡は北部(北西部)には様々な建造物群が並び、南部(南東部)にはアンデネスとよばれる段々畑が築かれている。北東部には職人や貴族の居住地区があり、ほかの代表的な建築物としては、以下のものを挙げることができる。

インティワタナ - 「太陽をつなぎとめる場所」という意味を持つ。マチュ・ピチュの都市遺跡で最も高い場所に置かれた花崗岩(高さ1.8m)で、四隅と四方が対応するように据えられている[16]。インティワタナはインカ帝国の大都市に見られた太陽の観測にかかわる石である。
主神殿 - 「3つの窓の神殿」に隣接し、広場に面している。壁には多くの壁龕が作られている。
3つの窓の神殿 - その名のとおり、三方を囲む壁のうち、東側の壁には台形の窓(開口部)が3つ並んでいる。命名者はビンガムで、彼はその窓は初代皇帝マンコ・カパックの伝説に関連する窓ではないかと推測し、そう呼んだ(ただし、この推測は現在では否定されている)。
大塔 - 「太陽の神殿」とも呼ばれ、その異名が示すように、クスコにあった「太陽の神殿」との類似性が指摘されている。窓や塔内の岩の配置が冬至の日差しに対応しているらしいことから、暦に関する建造物であったと考えられている。大塔の下にはミイラを安置する陵墓として機能したらしい洞窟があるが[16]、ビンガムが推測したような王家の墓だったのかの確証はない[19]。
王女の宮殿 - 大塔の隣にある外階段を持つ2階建ての構造物で、インカ建築としては珍しくない様式だが、マチュ・ピチュではほかに見られない。
コンドルの神殿 - コンドルをかたどった大きな平石がある神殿で、翼をかたどったとされる背後の2つの巨石部分の構造物には、牢獄として機能したとされる半地下の空間がある。
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インティワタナ


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大塔(太陽の神殿)



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コンドルの神殿の平石



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マチュ・ピチュの精密な石積み



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水汲み場


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都市遺跡の斜面

南東部の比較的日照が期待できる区画には、アンデネスという石壁で区切られた段々畑が広がる。耕作用の土はウルバンバ渓谷から運び込まれたと考えられており、土だけでなく、肥料として海岸地域のグアノが持ち込まれていた。耕作されていたのはトウモロコシ、ジャガイモ、コカなどとされる[25][16]。畑の土の中からはキヌア、アボカド、豆類の花粉も見つかっている。

アンデネスのある側に入り口が配され、インカ道ともつながっている。この都市は山麓のウルバンバ川から見上げても見ることはできず、南以外の三方は断崖になっている[25]。そのため、都市が放棄されたあと、1911年にビンガムが発見するまでほとんど知られることがなく、他のインカ都市と異なり、スペイン人による破壊や略奪を受けることなく、良好な状態で保存され続けた。

自然的側面
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ワイナ・ピチュ側から見たマチュ・ピチュ

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マチュ・ピチュに咲くラン科の花

歴史保護区は標高1,725mから6,271mまでの山々で、その植生も多彩である。

気候帯
マチュ・ピチュの保護区の気候は、ユンガスのエコリージョンに属する。世界遺産登録範囲の標高は1850 m から4600 mまでである。標高2,500m付近では年平均気温12度から15度、年平均降水量は約1,950mmである[8]。マチュ・ピチュの生態系にはアンデスとアマゾンの特色が混在している。これは、それら2つの生態系の境界域にあたっているためである。

植物相
標高2000mくらいまでは常緑樹の森林が広がり、ヨシ属、ヤナギ属、ハンノキ属、マホガニー属、セクロピア属、キナノキ属など多くの植物が見られ、マホガニーの仲間には危急種が含まれる。

標高2000 m から3000m付近の森林はウェインマンニア属、ネクタンドラ属、パパイア属(英語版)、ヘゴ属、ケドレラ属などの木々が生えており、ことにケドレラ属のいくつかの種は危急種となっている[29]。それ以外の危急種にはミュルキアンテス・オレオピラなどが挙げられる[29]。この地域には着生植物のシダ、コケ、アナナスなどが多く、アナナス科ではプヤ・ライモンディも見られる。また、200種以上のランが生育している。

より標高の高い地域には雲霧林が見られ、グアドゥア属、クスクウェア属といった竹の仲間が生えている。3700mを超えると植生はまばらになるが、危急種を複数含むバラ亜科のポリュレピス属 (Polylepis) が群生しているほか、マキ属(英語版)、ウシノケグサ属なども見られる。

動物相
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遺跡にとまるアンデスカラカラ

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マチュ・ピチュのステノケルクス属(トカゲの一種)

動物相も豊富で、哺乳類には絶滅危惧種や危急種が含まれている。絶滅危惧種としてはアンデスネコが、危急種としてはメガネグマ、ジャガーネコのほか、アンデスジカの仲間であるヒッポカメルス・アンティセンシス (Hippocamelus antisensis)、シカ科マザマ属のマザマ・クニュイ (Mazama Chunyi) などが挙げられる。ほかにも、オセロット、コロコロ、カナダカワウソ、イタチ属のムステラ・フレナタ (Mustela frenata)、プーズーの近縁種 (Pudu_mephistophiles ) などが棲息している。

哺乳類以上に特筆されるのが鳥類で、2001年の調査では423種が確認されている。その中には絶滅寸前のロイヤルカマドドリ (Cinclodes aricomae)、絶滅危惧種のマミジロオナガカマドドリ (Leptasthenura xenothorax)、タカネカラタイランチョウ (Anairetes alpinus)、危急種のハシナガシギダチョウ (Nothoprocta taczanowskii) が含まれる。ほかに観察されている主な鳥類は以下のとおりである。

アカエリシトド
アメリカチョウゲンボウ
アンデスイワドリ (Rupicola peruviana)
アンデスカモメ (Larus serranus)
アンデスカラカラ
アンデスツメバゲリ (Vanellus resplendens)
インカマユミソサザイ (Thryothorus eisenmanni)
キノドカマドドリ (Asthenes virgata)
キノドモリフウキンチョウ (Hemispingus parodii)
キバシコガモ
コンドル
シロガシラカワガラス (Cinclus leucocephalus)
ズアオフウキンチョウ (Thraupis cyanocephala)
セアカノスリ (Buteo polyosoma)
トラフサギ (Tigrisoma lineatum)
ハジロクロタイランチョウ (Knipolegus aterrimus)
マルハシミツドリ (Conirostrum cinereum)
ミドリフタオハチドリ (Lesbia victoriae)
ヤマガモ
ほかに爬虫類ではボアやカイサカなどが棲息している。

登録経緯
「ペルー国民の矜持とインカ文明の顕著な象徴」ともいわれるマチュ・ピチュでは、1981年に国立歴史保護区 (National Historic Sanctuary) が設定された。

ペルーの世界遺産条約批准は1982年2月のことであり、マチュ・ピチュはペルー当局が最初に推薦した物件のひとつだった。推薦を踏まえて調査した世界遺産委員会の諮問機関は、文化遺産、自然遺産の両面で「登録」がふさわしいと勧告しており、1983年の第7回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された。「クスコ市街」とともに、ペルー最初の世界遺産である。

登録に際して世界遺産委員会はオリャンタイタンボ遺跡などの名前を挙げ、ウルバンバ川下流域にまで将来的に拡大登録することが望ましいという勧告を出していた。ただし、2013年時点では、ペルーの暫定リストの中にマチュ・ピチュの拡大登録は含まれていない。

登録後、1986年から2001年までの計11回、保全計画の策定やインティワタナの修復作業などへの助成を理由に、世界遺産基金から総額166,625USDが拠出された。

登録名
世界遺産としての正式登録名は、Historic Sanctuary of Machu Picchu(英語)、Sanctuaire historique de Machu Picchu(フランス語)である。その日本語訳はほぼ直訳の「マチュ・ピチュの歴史保護区」とされる一方、単に「マチュ・ピチュ」とだけ表記している文献も少なくない。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
世界遺産委員会の文化遺産審議の諮問機関である国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) は、この基準の適用理由を「ワイナ・ピチュ山麓での山地開発は独特の芸術的業績であり、建築上疑う余地のない傑作である」と説明していた。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
ICOMOSは、この基準の適用理由を「マチュ・ピチュは、クスコや他のウルバンバ渓谷の考古遺跡群とともに」「インカ文明に関する類のない例証を備えている」と説明していた。
(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
世界遺産委員会の自然遺産審議の諮問機関である国際自然保護連合 (IUCN) は、「最上の山々、植生、渓流群を含んでいる地域」であることを適用理由として挙げていた。
(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
IUCNは「人と自然環境の相互作用の顕著な例」であることを適用理由に挙げていた。現在では自然遺産面の価値として、希少な絶滅危惧種の存在がしばしば指摘されている。
保護への脅威・災害
マチュ・ピチュはペルー国内では特に観光客が多く訪れる観光地のひとつであり、年間訪問者数は1980年代に約18万人だったものが、2003年には40万人を超え、2006年には691,623人に達した。多い時期には1日あたりの観光客が1500人から2000人にもなるが、遺跡保存のための許容量を超過しているという見解もある[36]。都市遺跡を一望できるワイナ・ピチュ側では、マチュ・ピチュよりも先に1日400人までとする入場制限が設けられた。400人の内訳は午前7時から10時までと午後1時から3時までにそれぞれ200人ずつとなっている。マチュ・ピチュの都市遺跡の観光にもさまざまな規制はあり、範囲内の飲食禁止、禁煙・火気厳禁、高齢者などが杖を持ち込むときには先端にゴム製カバーがついたものに限ることなどが定められ、立ち入り可能なエリアや見学する際の順路も決められている。

2008年の第32回世界遺産委員会では、保護区内での森林伐採や無計画な開発などへの懸念から、「強化モニタリング」指定が行われた。また、新たな観光道路の建設計画が持ち上がった2011年の第35回世界遺産委員会では危機にさらされている世界遺産(危機遺産)リストへの登録も検討された。

また、こうした問題とは別に、21世紀初頭には周辺での地滑りの危険性が指摘されており、特定非営利活動法人国際斜面災害研究機構の現地調査などが実施されていた。しかし、2010年1月には周辺地域での何日間にもわたる大豪雨によって、実際に大規模な地滑りが発生するなどし、約2000人の観光客(日本人含む)が孤立する事態が発生した。周辺の復旧作業のため、マチュ・ピチュ遺跡の観光は同年3月末までできなくなった。

メキシコのマヤ遺跡チチェン・イッツァ

チチェン・イッツァ(スペイン語: Chichén Itzá)は1988年に世界遺産に登録されたメキシコのマヤ文明の遺跡。チチェン・イッツア、チチェン・イツァーとも表記する。

概要
ユカタン半島のユカタン州州都メリダの東、約120キロメートルにある後古典期マヤの遺跡で総面積は約1.5平方マイル。半島のつけ根の密林にある。現在、高速道路により分断されているが、北部はトルテカ期、南部にはプウク期の建物が残っており、南北での町の構成がはっきりと違いを見せている。

チチェン・イッツァとはユカタン語で「イツァ人の湖の畔」を意味する。

歴史
古典期を代表するティカルなどのマヤ中央部の諸都市は9世紀に崩壊して、ほとんど無人に近い状態になり、後古典期には北部と南部高地に人口が集中した。チチェン・イッツァは北部マヤの中心地であるが、その遺物は中央メキシコ(トルテカ)の強い影響を受けて、マヤとメキシコの混合した国際的な特徴を示す。

プウク式の建物に残る碑文は多くカクパカル・カウィール(在位869-881ごろ)に関連する。

13世紀以降になるとチチェン・イッツァは衰退し、中心地は西のマヤパンに移るが、マヤパンもシウ家の攻撃によって1441年ごろに放棄された。チチェン・イッツァがいつ滅んだかは不明だが、セノーテ(井戸)はスペイン人による植民地化の後も長く巡礼地として機能した。

カスティーヨ
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カスティーヨ

マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピラミッド。基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。

大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段である。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18か月5日)を表す。このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。

カスティーヨ内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、この神殿にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモール像が置かれている。

球戯場
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球戯場の大きさの比較

詳細は「メソアメリカの球戯」を参照
球戯場はほとんどのマヤ遺跡に存在するが、チチェン・イッツァのものは特に大きい。

マヤの球戯は2つのチームに分かれ、ゴムで作られた非常に重いボールを腰で打って相手側のコートに入れる。チチェン・イッツァの球戯場には両側の高さ6メートルの所に石の輪があり、これは後古典期の特徴である。輪の中にボールを通すと即座に勝ちになったらしいが、現実に行うことは困難と思われる。

試合が白熱するほど雨が降り豊作になると信じられていた。勝敗で生贄になる者が決まったとされるが、勝った側が生贄になったとも負けた側が生贄になったともいわれており、ここは現在でもはっきりしていない。

セノーテ(聖なる泉)
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聖なる泉「セノーテ」

チチェン・イッツァ周辺には川や湖沼がなく、石灰岩の岩盤が陥没して地下水が露呈した天然の湖セノーテが唯一の水源であった。700年頃から宗教儀礼に用いられるようになり、雨が降らない時や豊作を願う時、雨と嵐と稲妻の神チャークの予言を伺うために、財宝や生贄の人間が投げ込まれたという。スペイン征服時のスペイン人の記録によれば、吉兆を占うために、定められた日に女性を放り込んだとしている。また、この記録によれば、この女性は後に泉から引き上げられ、吉兆を語ったとされている。後にアメリカの探検家エドワード・トンプソンがこの泉にもぐり、人骨やたくさんの財宝を発見した。

なお、これに似たもので、人の心臓が捧げられた戦士の神殿がある。

天文台
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旧チチェン区域にある天文台「El Caracol(エル・カラコル、カタツムリの意味)」

エル・カラコルというあだ名のつけられた「天文台」は906年に建設された。約9メートルの岩の上に建てられ、高さは約13メートル。中心部に螺旋階段が作られており、ドーム部には縦に細長い窓の作られた厚い壁で構築されている。なお、この窓は天体観測における重要な照準線になっており、西側は春分と秋分の日没、月が最北端に沈むときの方向2つを確認することができる。その他、基壇となっている岩の北東隅は夏至の日の出、南西隅は冬至の日の出の方角をそれぞれ差している。

世界遺産登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。

メソアメリカの球戯

ソアメリカの球戯(メソアメリカのきゅうぎ)とは、先コロンブス期以来メソアメリカで行われてきたゴム製ボールを使った競技である。メソアメリカでは紀元前から盛んに球戯が行われ、現在も一部の地域で伝統的な球戯が行われている。球戯にはスポーツとしての側面のほかに、宗教的・政治的な意味を持っていた。

なお、球戯は球技と同じだが、メソアメリカの場合は慣用的に「球戯」の字が使われることが多い。

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コパンの球戯場跡

競技の種類

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ラ・コロナの階段に刻まれた球戯者

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チチェン・イッツァの球戯場の側面に設けられた輪

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球戯場の形状と大きさの比較

先コロンブス期に行われていた球戯としては3種類が知られる。ひとつは手で球を操作するもので、歴史的には一番古くからあった。この球戯には特別のコートを使用しなかった。ボールは比較的小さく、グレープフルーツほどの大きさだった。競技者は専用のヘルメットのような防具をつけていた。

第2の種類は手を使わずに球を操作するもので、メソアメリカの球戯としてもっともよく知られる。球は大きく、直径30センチメートルほどあり、重さは3キログラムに達する。細長い長方形をしたコートを持ち、両側面が高くなった専用の球戯場で競技する。競技者は腰を守るためにまわしのような防具をつけ(かつて誤ってくびきと考えられていたため、現在もくびきを意味するユーゴ(スペイン語: yugo)と呼ばれることがある)、ほかに膝や腕を守る防具をつけた。石で作られた防具が出土しているが、おそらく実用ではなく祭祀や記念のためのものと考えられる。競技者は2つのチームにわかれ、球戯場の両端に向かいあって競技する。コート上や両端には標識があり、それにボールを当てることによって得点する。アステカ時代にはトラチトリ(tlachtli)と呼ばれ、そのルールでは各チームの人数は1人から4人であり、壁に取りつけられた輪にボールを通すことによって勝ちになった。ただし、実際には輪にボールが通ることはめったになく、おそらく通常は得点によって勝敗が決まった。膝・もも・腹・尻を使ってボールを打ち、ボールを受けるために胴体ごとすべりこむことがあった。現代のシナロア州で同様のウラマ(ナワトル語のオラマリストリ ōllamaliztli に由来)というゲームが行われている。

第3の種類はホッケーに似た棒を使って球を操作するもので、テオティワカンのテパンティトラ地区の壁画に見える。

歴史
メソアメリカにおいて球戯がどのように発生したのかは明らかでないが、おそらくゴムの産地でもある低地のオルメカ文明において始まったと考えられる(オルメカという語自体「ゴムの人々」を意味する)。この地域では形成期の紀元前1200-900年にすでにゴムを産出していた。

考古学的に発掘された最古のゴムボールはオルメカ文明に属するベラクルス州エル・マナティ遺跡のもので、紀元前900年ごろのものとされる。オルメカの巨石人頭像などは防具のヘルメットをかぶっている。また、球戯場もオルメカで発見されている。

古典期にはいるとボールは大型化したが、おそらく芯の部分にヒョウタンを入れることで中を空にして軽くした。古典期マヤでは球戯場はほとんどの遺跡に見られ、複数の球戯場を持つ遺跡も少なくない。球戯場のコートは古典期ではI字型で、側壁は外側にいくに従って高くなり、そこに観客用のベンチが設けられる。後古典期になると側壁が地面に対して垂直になる。

エルナン・コルテスは、1528年に球戯の競技者をスペインに連れていき、王宮で競技させている。

宗教的意味
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メソアメリカの球戯は競技としては現代の球技とそれほど変わるところがなかった。優れた競技者はスターあつかいされ、また賭けも普通に行われた。しかし、宗教的な意味を持つ点では現代のスポーツと異なっていた。

『ポポル・ヴフ』では、フンアフプーとイシュバランケーの双子が地下のシバルバーで球戯を行い、地下の神々に打ち勝つ。

オアハカ州ダインス遺跡には手で球を操作する競技者を刻んだ石碑があるが、そのコスチュームは雨の神と関連する。また、ボールのかわりに石を使って競技されることがあった。これはメソアメリカに独特な流血の儀礼として行われた。

政治的意味
球戯は政治的な見せ物として実施されることもあった。捕虜たちが球戯に参加させられるが、この場合は政治的なショーであるので、必ず捕虜が負けるようになっており、負けた側は生贄にされ、しばしば首を刎ねられて、ナワトル語でツォンパントリ(tzompantli)と呼ばれる頭骸骨置き場(球戯場近くに設けられた)にさらされた。チチェン・イッツァの球戯場には競技者が首を刎ねられる様子を描いたレリーフがある。

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