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2019年07月17日

中世の七不思議

時代の変遷とともに、ヨーロッパ人の地理的知識が広がり、七不思議として世界中の建造物が選ばれるようになった。選者・年代ともに不明(14世紀以降と見られる)ながら、次の7つが一般に挙げられる。

ローマのコロッセウム
アレクサンドリアのカタコンベ
万里の長城
ストーンヘンジ
ピサの斜塔
南京の大報恩寺瑠璃塔(陶塔。中文)
イスタンブールの聖ソフィア大聖堂

ローマのコロッセウム

コロッセウム(ラテン語: Colosseum, イタリア語: Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(ラテン語: Amphitheatrum Flavium)。現在ではイタリアの首都ローマを代表する観光地である。
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歴史
ウェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡を目指しながら首都の再建を進めている時期であった。緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討された。当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアやキルクス・マクシムスしか無かった。 この新円形闘技場(コロッセウム)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなった。この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため、円形闘技場建設時には基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の70年に始まり、ティトゥス治世の80年に、隣接するティトゥス浴場と同時に完成・落成した。使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ、模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され、数百人の剣闘士が命を落としている。なお、続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事が続けられ、一般市民や女性が座る観客席の最上層部と天幕が完成した。地上から50mもの高さに天幕を張るために、ミセヌム海軍基地から派遣された海軍兵士が工事に従事したと言われる。

フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス円形闘技場」が本来の名前である。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためそれと混同してコロッセウムと呼ばれるようになったという説や、円形闘技場があまりにも巨大な建物であったからコロッセウムと呼ばれるようになったという説がある。

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地下から登場した猛獣の餌食にされようとしているキリスト教徒。

構造はローマン・コンクリート(火山灰を利用したコンクリート)で出来ている。鉄骨を用いないコンクリートにも関わらず幾多の地震の際も崩壊しなかったのは、全体が円筒形で力学的に安定していたためである。

ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたと言われているが、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残されており、地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたと考えられている。

コロッセウムに使用されている建材は、中世を通じて他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたのである。その大理石はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていたため、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な証拠はない。ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくと考えられている。

1900年を越えた現在ではローマはイタリアの一都市となってしまったが、コロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけている。

かつて多くの殺人(公開処刑を含む)が行われた場所であることから、現在では死刑廃止のイベントのために使用されている。例えば、11月30日の「死刑に反対する都市(Cities for Life)」の日や、新たに死刑を廃止した国が出たときには、その記念としてコロッセオがライトアップされる。2007年1月には、イラクのサッダーム・フセイン元大統領の処刑に抗議するために点灯された。

構造

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壁面の穴は戦傷の痕ではなく、建設および補修時の足場用の木材を挿入するための穴である。

コロッセウム内部。地下にあった施設が現在ではむき出しになっている。
長径188m、短径156mの楕円形で、高さは48m、約5万人を収容できた(文献により40,000人 - 60,000人と幅がある。4階建てで、アーチは各層で様式が変えられており、1階はドリス式、2階はイオニア式、3階はコリント式になっている。天井部分は開放されているが、日除け用の天幕を張る設備があった。皇帝席には1日中直射日光が当たらないように設計されており、また一般の観客席についても1日に20分以上日光が当たらないように工夫がされていた。円形闘技場に入るアーチは全周で80箇所あり、そのうち皇帝や剣闘士専用のものを除く76のアーチには番号が付されていた。これはテッセラ(入場券)にその番号を記して混乱せずに入場できるようにするためのものと考えられている。

初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能だったが、後には「迫」のような複雑な舞台装置を設置したためにそのような大規模演出は不可能となった。

このほかには剣闘士と戦う猛獣を闘技場のあるフロアまで運ぶ人力エレベーターが用意されていた。

コロッセウムの横には噴水が作られた。それは「メタ・スダンス(汗をかく標識)」といわれ、闘いを終えた剣闘士もここで体を洗ったと伝えられている。

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平面図(長径188m、短径156mの楕円形)
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断面図(高さ52m) 前列は元老院階級席、中列が騎士階級席、その後ろが裕福なローマ市民席、最後列が一般市民と女性席

隣接する古代ローマ遺跡
北側から北東側には、ドムス・アウレア跡地にティトゥス浴場(80年完成)およびトラヤヌス浴場(109年完成)が建てられていた(現 コッレ・オッピオ公園)
北西側には、フォルム・ロマヌムのウェヌスとローマ神殿(135年完成)と、コンスタンティヌスの凱旋門(315年完成)が建てられていた。
南西側は、帝政期に官邸機能を果たしていたパラティウムがある。
南側は貴族の邸宅などがあったチェリオの丘である。
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コロッセオとコンスタンティヌスの凱旋門

復元計画
考古学者のダニエレ・マナコルダやイタリア政府のダリオ・フランチェスキーニ文化大臣らがかつてあった木製の床を復元し、文化的行事や演芸等に利用しようという案が持ち上がっている。



アレクサンドリアのカタコンベ

カタコンベ(イタリア語:catacombe)は、地下の墓所のこと。

概要
もともとはローマのサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会の埋葬場所のことを意味していたが、死者を葬る為に使われた洞窟、岩屋や地下の洞穴のこと全般を指すようになった。英語(catacomb)ではカタコームまたはカタクームといい、語尾のbは発音しない。イタリア語(catacombe)やドイツ語(Katakombe)ではカタコンベと発音される。フランス語(Catacombes)ではカタコンブに近い音になる。イタリア・パレルモのカプチン会修道士墓所が最も有名で観光客も多く、タクシーで「カタコンベ」と言っただけで目的地に着くほどである。

以下の場所が有名な墓所。

イタリア・カプチン会修道士墓所 en:Catacombe dei Cappuccini
イタリア・ローマのカタコンベ en:Catacombs of Rome(サン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会など)
イタリア・骸骨寺 en:Santa Maria della Concezione dei Cappuccini
フランス・カタコンブ・ド・パリ
オーストリア・ウィーン、シュテファン大聖堂、ミヒャエル教会
エジプト・アレキサンドリア
マルタ島
スペイン・グラナダ
ペルー・リマ
類似のものとしてはトルコのアナトリア、北アフリカのスサ、イタリアのナポリ、ドイツのトリーア、ウクライナのキエフなどに存在する。

ウクライナやロシアのカタコンベは鉱石、石灰岩の採掘後のトンネルが使われており、クリミアや黒海沿岸に位置している。有名なものはオデッサやクリミア、アジムシュカイ(Ajimushkay)のものである。それらはソ連の第二次世界大戦のゲリラの基地としても使われた。Ajimushkay には10000人の兵士や難民が葬られている。その後、博物館として公開されているところもある。

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ローマのサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会のファサード

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パリのカタコンベ

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パリのカタコンベ

万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、中国語: 万里长城、拼音: Wànlǐ Chángchéng ワンリー ツァンツェン、モンゴル語: Цагаан хэрэм、ᠴᠠᠭᠠᠨ
ᠬᠡᠷᠡᠮ、満州語: ᡧᠠᠩᡤᡞᠶᠠᠨ
ᠵᠠᠰᡝ、šanggiyan jase)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている[2]。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。

世界遺産 万里の長城
(中華人民共和国)
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万里の長城(明代)
万里の長城(明代)
英名 The Great Wall
仏名 La Grande Muraille
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (2), (3), (4), (6)
登録年 1987年
公式サイト 世界遺産センター(英語)


概要
匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。

よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。

万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。

その長大さからピラミッド、戦艦大和と並ぶ世界三大無用の長物とされることもある。なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」とも言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。

歴史
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各時代の長城。黄色は戦国期の各国長城、薄いオレンジは秦の長城、濃いオレンジは前漢の長城、薄紫は北魏の長城、紫は北斉・隋の長城、薄い青紫は金の長城、青紫は明の長城である

万里の長城以前
国境に沿った長大な防御壁、いわゆる長城を最初に建設したのは斉[7] または楚 とされ、春秋時代に建造はさかのぼるとされる。やがてこの長城建造は他国にも波及し、戦国時代には外敵に備えるために、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も含めた戦国七雄のすべての国々が特に警戒すべき国境に長城を建設していた。そのなかで、遊牧民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは燕、趙、秦の3ヶ国であった。秦の長城は現在の甘粛省岷県から北東に、黄土高原を貫いて現在のフフホト市トクト県まで伸びていた。趙の長城は本来の趙の本拠地からはるかに北に離れた黄河の北岸から現在の河北省にかけて走っており、さらに黄河屈曲部の河套平原の北、陰山山脈の南麓にもう一本長城を建設していた。これは国土北部に広がる遊牧地帯への勢力拡張と、その先にある広大な可耕地である河套平原の確保を目的としていたとされる[。燕の長城は長大であり、現代の河北省北部から遼寧省を取り囲むように伸び、さらに鴨緑江を越えて朝鮮半島にまで伸びていた。この長城は戦国時代初期に燕が東胡を圧迫して得た遼西・遼東の新領土を確保するために建設されたものであり、建設時期としては各国長城の中で最も新しいものの一つであった[。

建設
こうした長城をつなげ、「万里の長城」と呼ばれる一体化した大長城に再構築したのが始皇帝である。彼は中華を統一後に国内にある長城を取り壊すと、遊牧民族に備えるために北に作られた3ヶ国の長城を修復・延長し、繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3〜5m、高さ約2m)だったという。この時の長城は東部においては現在の物よりかなり北に、西部においてはかなり南に位置しており、現在の甘粛省岷県から陝西省北部、内モンゴル自治区南部、河北省北部から遼寧省北部を通り、その東端は朝鮮半島に及んだ。また趙の築いた陰山山脈の長城もそのまま修復・維持されていた[。

武帝による修復と延長

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敦煌にある前漢の長城

始皇帝の没後秦は崩壊し、その混乱の隙をついて北方では匈奴が強盛となり、中原王朝を圧迫するようになった。このため長城は前漢にも引き継がれたものの、修復と維持にとどまって延長工事は行われず、また匈奴の領域となった河套平原の北の長城は放棄されていた。この状況が大きく変化するのは武帝の時代である。武帝は匈奴に対し積極攻勢に打って出て領土を大きく拡張し、その新領土を守る形で長城を延長していった。まず紀元前127年に衛青が黄河屈曲部以南および河套平原を占領すると、すぐに陰山山脈の長城を復活させて守りを固めた。ついで紀元前121年に霍去病が祁連山脈北麓のオアシス都市群、いわゆる河西回廊を獲得し西域諸国へのルートを確保すると、紀元前111年にこの地域を守るための長城建設が開始され、紀元前100年には完成した。これにより長城は黄河上流からはるかに西へと延長され、玉門関にまで達した。さらに紀元前102年には陰山山脈の長城のさらに北、山脈北麓に2本の長城を増設し、防衛線をさらに北進させた。同時に河西回廊においても、酒泉から流れる弱水の流れに沿って長城が建設され、さらに弱水の終点であるオアシス・居延沢を囲むように長城が建設された。先述の陰山北麓の長城は居延の長城と連携できる位置に建設され、これによって黄河から河西回廊にいたる広大な砂漠・草原地帯が匈奴から漢の領域に併呑された。また、これにより長城の総延長は約20000里(7930 km)に達した。この漢の長城はすべての長城の中でも最も長く、西は現在の甘粛省西端にある玉門関から東は朝鮮半島北部にまで達していた

長城の放棄と南北朝時代の復活
しかしこの長城も8年に建国された新王朝期の混乱によって大打撃を受け、25年に後漢が建国されたころにはかなり荒廃した状態となっていた。光武帝期にはやや復興の兆しがあったものの、結局のところ維持ができず、後漢の半ばごろには長城は放棄されてしまった。その後、三国時代や五胡十六国時代には北方異民族の力が強くなり頻繁に侵入が繰り返されたものの、中原の諸王朝に長城を維持する国力はなく、長城防衛は放棄されたままだった。

長城防衛が復活するのは、華北を統一した鮮卑族の北魏王朝の時代である。この時期、北魏のさらに北方に柔然が勃興し勢力を強めたため、北魏は423年に首都平城の北側、現代の北京の北側から陰山山脈の南麓にかけて長城を建設し、その来襲に備えた。この長城は、漢代長城よりかなり南寄りに位置し、東部はほぼ現在の線に沿ったラインに建設されていた。この長城はその後渤海にまで延長され、東西分裂後の東魏、さらには北斉にも引き継がれた。北斉の時代には柔然に代わって突厥が勢力を拡大し盛んに南進したため、この長城に加え、さらに華北平原の北、山海関から北魏の長城まで長城を延長し、さらにそこから太行山脈の南端まで長城を建設することで、首都鄴のある華北平原を取り囲む一大長城を建設した。さらにその西、晋陽の西側の山脈に南北に走るもう一つの長城を建設し、領土を長城で固く守る体制を作り上げた。この長城は552年から565年にかけて建設されたが、北斉の内政は混乱を続けており、北周の侵攻に長城は何の役割も果たさないまま577年に北斉は滅亡した。北周を簒奪して建国され、のちに中国を統一した隋もこの長城を維持し、さらに文帝は首都大興を守るために黄土高原を東西に横切る長城を建設した。煬帝もいくつかの長城を建設している。

その後、唐王朝は長城防衛そのものをふたたび放棄し、その後の五代十国や宋王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消した。

金の界壕
長城が復活を遂げたのは、女真の建国した金の時代であった。金はさらに北方からの襲撃を恐れ、国境の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘った。界壕の内側には掘った土を盛り上げて城を築き、ここで実質的に長城防衛が復活した。界壕の位置は時代によって異なり、1138年ごろに最初に築かれた界壕は現代の内モンゴル自治区北部、呼倫湖の北側を走っていた。その後、そこからかなり南下した内モンゴルの草原の中に1181年ごろに界壕が築かれ、さらに1190年ごろには大興安嶺山脈の北に沿って界壕が築かれた。これらの界壕の建造場所は徐々に南下しており、金が草原地帯の支配権を失っていき領土が縮小していったことを示している。この界壕は非常に堅固なものであったが、モンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破され、長城を越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡した。金に代わって中国を支配するようになったモンゴル人の元は長城を築かなかった。

現存長城の建設

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万里の長城(明代)

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清代後期の長城の古写真(1907年)

南方から興った中国人の王朝である明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設した。しかし長城防衛が本格化していくのは永楽帝の時代ではなく、第5代の宣徳帝の時代になってからである。この時代に、永楽帝時代に北進していた前線を後退させ、かわりに長城による防衛が用いられるようになったためである。この長城防衛は、1449年の土木の変によって正統帝がオイラトのエセン・ハーンに捕虜とされたことからより重視されていくようになった。それまでの版築による低い長城から、磚(レンガ)による堅固な長城へと改築が進められたのもこの時代である。長城そのものも新設や延長が繰り返され、西は甘粛省西部にある嘉峪関から河西回廊の諸都市を守る形で東へ走り、銀川盆地の北側から黄土高原を西進し、山西省の北側の稜線を通って燕山山脈を走り山海関に達する長大な長城が完成した。山海関付近からは、さらに遼西遼東を守る形で北方に伸びた部分も15世紀には建設され、東端は李氏朝鮮との国境である鴨緑江にまで達していた。さらに長城は一本だけではなく、長城主線の補助として銀川付近から北京北方にいたるまでの間は二本目の長城が築かれ、二重の守りを固めていた。特に首都北京周辺は長城が近接していることもあり厳重に守りが固められた。しかし長く伸び過ぎた長城を守ることは難しく、しばしば遊牧民は長城を突破した。1550年には庚戌の変が起き、モンゴルのアルタン・ハーンが長城を突破して北京を包囲している。これを受け、1568年には譚倫や戚継光らによって北京北方の長城が大規模に改修された。

明末に満洲族(女真)が勃興して1616年に後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。遼東に張り出すように伸びていた部分はヌルハチによって破られ、1619年のサルフの戦いによって山海関以東の地域はほぼ後金の手に落ち、長城は山海関にまで後退した。その後も後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ長城の東端の山海関を抜くことができなかった。袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後に明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。その後、清は長城防衛を行うことはなく、長城は放棄された。

構造

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八達嶺長城。壁面は煉瓦によって覆われ、頂面は人が楽にすれ違えるほどの幅の通路となっている。内側の壁は柵の役割を果たすのみであるが、外側の壁は切込みが一定間隔で入り内側よりも高く、外敵に対する防護壁の役割を担っている。数百mごとに敵台が設けられ、戦闘時の拠点となる

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八達嶺長城の敵台内部

長城の材質は、建造当初は版築によって突き固めた土壁であり、乾燥地においては日干しレンガも用いられたが、明の時代にレンガ(磚)が大量生産され安価となると重要拠点は次々とレンガ壁へと改造された。特に防衛上重要だった北京周辺においてこの改造は重点的に行われ、八達嶺長城など現代において観光名所となっている長城のほとんどは煉瓦壁となっている。ただし煉瓦壁といっても煉瓦でできているのは表面部分のみで、壁面内部は土が詰め込まれていた。また、明代には石積みの長城も建設された。

長城の幅や高さも時代が下るにつれて大きくなっていった。明代長城の場合、長城の高さは平均で7.8m、底面の幅は平均6.5m、頂面の幅は平均で5.8mとなっていたが、周囲の地形によってこれには変動があり、峻険な地形においては壁面の高さは低く、平原においては高くなっていた。頂面は平らになっており、多くの場合人が通行できるようになっていた。また頂面の両脇には低い壁が作られ、転落防止用の柵の役割を果たしていた。頂上外側の壁は頂面に詰める兵士たちの防護壁としての役割を持っており、そのため一定の間隔で壁に切り込みが入っていて、銃眼の役割を果たしていた。ただし地形上の制約によって頂面に通路がなく、ただ壁のみが建設されている部分も存在する。頂上には排水溝が刻まれ、また外部の敵に石を落とす落とし口も設けられていた。また兵士は基本的には長城の下におり、戦闘時には長城にのぼって戦闘を行ったため、内側からは長城への登り口も各所に設けられていた。長城の上には200mから300mごとに敵台が設けられ、戦闘時の拠点となるよう設計されている。敵台には望楼が設けられることもある。

長城は膨大な長さになり、そのすべてに兵士を貼りつかせることは不可能であるため、烽火台を長城近辺に建設して急を知らせ、また迅速な情報伝達と兵力の投入を可能とすることで長城の兵力不足を補っていた。この烽火システムは長城外部の見張り台、および長城内部の諸都市や首都と結ぶ烽火システムと連携していた。

長城は外部の騎馬民族の侵攻を防ぐための障壁であるが、平時においては内部と外部には頻繁な交流があったため、いくつかの関所を設けて交易の便を図っていた。関所の内側には関城と呼ばれる城塞が作られ、兵士たちの居住の場となった。関所の外側にはしばしば甕城と呼ばれる半円形の城壁が張り出して設けられ、城門を保護していた。関所は内側の中華世界と外側の遊牧世界との接点であったため、この場所において盛んに交易がおこなわれた。これは互市と呼ばれ、中国からは絹や茶、金・銀が輸出され、遊牧民からは主に馬が輸出されてとくに塞外の遊牧民族にとっては重要な経済活動の一つとなっていた。ただしこの交易においてはしばしば摩擦が発生し、1550年にはこのトラブルからモンゴルのアルタン・ハーンが長城を突破して北京を包囲する、いわゆる庚戌の変が起こっている。

主な長城・関の一覧
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長城本線の東端、老龍頭
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明代・慕田峪長城
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明代の長城西端にあたる嘉峪関の門
※東から西の順。

北京以東
虎山長城
遼寧省丹東市にあり、明代長城の支線の東端にあたる。
老龍頭長城(ろうりゅうとう)
山海関にほど近い長城。ここで明代長城の本線は海中に没する。
山海関(さんかいかん)
河北省秦皇島市にあり、明代長城本線の東端にあたる。
黄崖関長城(こうがいかん)(天津市薊州区)
北京周辺
※北京近辺で訪問できる場所

司馬台長城(しばだい)
険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。
金山嶺長城(きんざんれい)
慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。
蟠龍山長城
あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。
古北口長城(こほくこう)
大榛峪長城(だいしんよく)
黄花城長城(こうかじょう)
慕田峪長城(ぼでんよく)
八達嶺に次ぐ著名な見学地。ロープウェイが存在するため登りやすい。
箭扣長城(せんこう)
八達嶺長城(はったつれい)
もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にあり、多くの観光客が押し寄せる。
水関長城(すいかん)
居庸関 ・居庸関長城(きょようかん)
八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。元代に建築された雲台が著名。2006年に修復後公開された。
挿箭嶺長城(そうせんれい)
北京以西
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明・長城の狼煙台(楡林市)

老牛湾長城(ろうぎゅうわん)
楡林鎮北楼(ゆいりんちんほくろう)
三関口長城(さんかんこう)
トングリ砂漠長城
丹峡口長城(たんきょうこう)
嘉峪関(かよくかん)
甘粛省嘉峪関市にある関で、明代長城の西端にあたる。
河倉城(かそうじょう)
玉門関(ぎょくもんかん)
甘粛省敦煌市にある関で、嘉峪関よりは西にあり、漢代長城はここを西端としていた。
陽関(ようかん)
玉門関と共に「二関」として設置され、玉門関のすぐ南にあるのでこう呼ばれた。

遺産登録
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万里の長城

万里の長城は1987年に世界遺産に登録され、登録箇所は八達嶺長城、山海関、嘉峪関の3か所である 。この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

観光名所と文化財保護における問題
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観光客で混雑する状況(2012年7月)

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整備されていない「野長城」。保護のために立ち入り禁止であるが、侵入する観光客が後を絶たず問題となっている
現在、万里の長城は中華人民共和国政府によって、重要な歴史的文化財として保護されているが、万里の長城はあまりにも長大すぎるために、メンテナンスの手が行き届かず、観光用に整備された一部のほかは、かなりの部分が、明代に建設されて以降整備されることもなく、そのまま崩落するに任せている状態である。

一方で、修復の進んだ北京市周辺の長城は、観光名所として多くの観光客が押し寄せている。特に八達嶺長城は、北京市から60kmというアクセスの良さも相俟って、中国観光の目玉の一つとなっており、世界からも観光客が押し寄せる場所である。

著名人も中華人民共和国を訪問した際に、万里の長城を訪問することは珍しくない。中華人民共和国においても、万里の長城は大観光地のひとつであり、大型連休期間中などには、長城を埋め尽くすほどの観光客が押し寄せる。

観光客向けに整備されていない長城は野長城と呼ばれる。近年は整備されていない野長城としての趣を評価する向きもあるが、ただでさえ崩落が進み危険な野長城にわざわざ登って荒らしたり遭難したりする観光客がみられたため、野長城に登ることが2006年施行の「長城保護条例」で禁止された。

しかし、未だに野長城に登ろうとする観光客が後を絶たず、2011年には北京市だけで49件の事故・9人が死亡し、2012年には日本人ツアー客が、野長城の付近の山で遭難して死亡する事故があった(野長城は、険しい山中にあるため、山に入る時点で危険であり、中国の法令に違反しているため、ツアーでも絶対に登ってはいけない)。

また、地元住民が長城のレンガを建築資材用に盗んだり、骨董品として販売するなどし、万里の長城の破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだり、道路建設により分断もされている。観光客の多い北京市近郊などでは、心無い観光客による落書きや立ち入り禁止を無視しての遭難が絶えない一方で、潤沢な予算によって続々と長城の復興が進めている。

しかしその他の長城、特に中華人民共和国で、最も貧しい地域の1つである甘粛省や陝西省では、地元住民による建材の略奪の他、現地当局にまともな予算も専門家もいないことから、雑な修復がされたりしており(ほとんど現存していない秦代、漢代までの物を含めると総延長2万キロを超える)、万里の長城の全面保存を主張する「中国長城学会」は、目の前の現実に頭を悩ませている。長城の破壊には50万元以下の罰金または10年以下の禁固刑の罰則が存在するが、それにもかかわらず、万里の長城の破壊は進行しつづけている[34]。

2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は、全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告があった。2015年には、明代長城のうち、およそ3割が風化やレンガの略奪などで消滅したとの報道があった。

2009年には、内モンゴル自治区において、金の採掘のために、鉱山会社が万里の長城の一部を破壊したとの報道があった。

一方で、探査技術の進歩や開発の進展によって、古い時代の長城が新たに発見されることは珍しいことではない。2009年には、吉林省通化市で、秦・漢時代の長城が新たに発見され、長城の東端が11km東に伸びたとの報道があった。

2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局は、万里の長城の総延長を、従来の6,352 km(東端は河北省山海関とされていた)から、8,851.8kmに修正発表した。のろし台5723カ所も確認され、煉瓦などでできた人工壁6259.6kmに加え、くぼみや塹壕部分の359.7 km、崖などの険しい地形2232.5kmが含まれたことから、総延長が延びたとみられる。

2012年6月5日、中華人民共和国国家文物局は、秦代、漢代など他時代を含んで調査した所、万里の長城の総延長は従来の2倍以上の21,196.18kmであったと発表した。

2016年9月23日、遼寧省にある長城の一部が、修復作業の際に業者がコンクリートで平らに塗り固めていたことが判明した。中国国内でも「爆破したほうがまし」など怒りの声が挙がっている[39]。後に中国政府も「歴史的な容姿が著しく損なわれた」として、修復作業に関わった業者の責任者らを処分する方針を示している。

万里の長城は世界でも広く知られている、中華人民共和国を代表する観光名所であるため、特に北京市近郊の長城においては、大規模なイベントに利用されることが多く、しばしば中国国外の有名人が招かれて、イベントを行うこともある。2007年にはフェンディのファッションショーが長城で行われ[41]、2008年には北京オリンピックの聖火リレーにおいて、八達嶺を通過した。

比喩表現
世界に知られるようになり、英語ではグレート・ウォールやチャイニーズ・ウォールと呼ばれた。脆さをうかがわせる比喩として、インサイダー取引を防ぐ目的でメリルリンチなどのメガバンクに設けられた、証券ブローカーと財務アドバイスの二部門を情報面で隔離する、職場の物理的分離および社外に適用される規則等も指す。投信業界は1991年1月まで壁をつくる習慣がなかった。日本へは1989年の証券取引法改正で壁を設ける制度が輸入された。アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは「メキシコとの国境に万里の長城を築く」[43] と2016年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬を表明して当選した。同年にはハリウッドで万里の長城のイメージをフィーチャーした米中合作のファンタジー映画『グレートウォール』が製作された。また、膨大な数の銀河が密集し壁のようになっている宇宙の大規模構造も万里の長城に因んでグレートウォールと名付けられてる。NBAで活躍した中国人プロバスケットボール選手である姚明はその身長から「歩く万里の長城」と呼ばれた。

他の比喩では、中国共産党のインターネット検閲のコンピュータシステム『金盾』は、Great Firewall of China(グレート・ファイアウォール・オブ・チャイナ、サイバー長城)と俗に呼ばれる[45]。万里の長城は、 英語読みのグレート・ウォールと、これにイントラネットの外部との通信を規制・制御するファイアウォールをかけたものである。2015年にはアメリカ海軍が国際問題となった南沙諸島海域における中華人民共和国の人工島建設を「砂の長城」と呼んで注目された。

万里の長城は中国を代表する建造物であるため、その名を冠する中国の施設や組織も数多く存在する。一例としては、中国最大の自動車メーカーである長城汽車や、1985年に南極海のキングジョージ島に建設された中国最初の南極観測基地である長城基地などがある。



ピサの斜塔

ピサの斜塔(ピサのしゃとう、イタリア語: Torre di Pisa)は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットである。高さは地上55.86m、階段は296段あり、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられている。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により、当分問題ないと判断されている(後述)。5.5度傾いていたが、1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.99度に是正されている。また、定刻ごとに鳴る鐘の音は、備え付けられている鐘を実際に鳴らすと傾斜に影響を及ぼす恐れがあるために、スピーカーから流されている。かつてのガリレオの実験に対して行われた異端審問の弾圧に関連してローマ法王が詫びの公式声明を塔の頂上にて行ったことも有名

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傾斜の原因
傾斜の原因は、1990年から改修工事前に行われた地質調査によれば、地盤の土質が極めて不均質であったことである。南側の土質が相対的にやわらかく年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥ったのである。

工期は、第1工期1173年 - 1178年、第2工期1272年 - 1278年、第3工期1360年 - 1372年で、工期間隔が非常に長い。というのも、1173年8月9日の着工時には鉛直であったが、第1工期後には既に塔が傾きはじめ、第2工期でややその傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、その傾きはなおも止まらず、第3工期を迎えたのである。傾斜が修正できなかったため、最上階層のみ鉛直に建てられている。オリジナルの建築計画上では現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定であったという。しかし「ピサの斜塔」として世界で最も有名な不等沈下の事例として現在もその姿を保つこととなった。

傾斜の克服
1935年、地下水が地盤をやわらかくしてしまうのを防ぐため薬液を注入して地下水の浸入を止めようとする応急処置がとられた。しかし、現場の地盤は鋭敏比(詳細は土質力学の項を参照)が非常に高く、攪乱によって強度が著しく低下し、沈下は更に進んでしまった。1960年代、現地の地下水汲み上げによって地下水位が下がり、またも傾斜進行という危機を迎え、1964年2月27日ついに、イタリア政府はピサの斜塔を崩壊から回避するための支援を求めた。

1990年1月7日、安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もあったが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかった。そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し公開は再開された。

2008年5月28日、監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授により、少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が示されている。

見学
かつては一時立ち入り禁止となった時期もあったものの現在では塔が安定したため有料で最上階まで階段で登ることが出来る。ただし混雑するために人数制限があり、入場券の枚数は限られている。また、通路が狭いので大きな荷物は持ち込むことはできない。

ギネス世界記録掲載
長らく世界中で最も傾斜している建物と認識されていたが、ギネス世界記録は15世紀に建造されたドイツ北西部エムデンの付近にある教会の尖塔(ズールフーゼンの斜塔)の方が傾斜していると判定した。2009年のギネスブックからはピサの斜塔に代わって掲載されるとされた。

2010年6月にはアラブ首長国連邦アブダビにあるキャピタルゲートビル(35階建てビル)が傾斜角約18度であるとしてギネス世界記録に認定された。ただし、ピサの斜塔と違いこちらは意図的に傾斜させている。

ストーンヘンジ

ストーンヘンジ(Stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。世界文化遺産として1986年に登録された。2008年には範囲を変更して登録された。登録基準は(@)(A)(B)の3つからなる。
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ストーンヘンジ
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夕刻のストーンヘンジ
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ストーンヘンジ(近景)

概要
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。そして、それを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。

遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂[疑問点 – ノート]など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。

この遺跡とその周辺は、30kmほど離れたエーヴベリーの遺跡群とあわせストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群として1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。

語源
クリストファー・チッペンデールの Stonehenge Complete によると、ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。中世の絞首台は、今日見られるような逆L字型ではなく、二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていた。

「ヘンジ」の部分はヘンジとして知られるモニュメントの一群を指す名前になった。考古学者は、内側に堀を持つ円形の土塁をヘンジと定義する。考古学の用語でしばしば起こる通り、これは古美術収集家の用語からの転用であるが、実際にはストーンヘンジは土塁が堀の内側にあるので、ヘンジには分類されない。本当の新石器時代のヘンジやストーンサークルと同時代であるにも拘らず、多くの点で非典型的である。例えば、トリリトンは他では見られない。ストーンヘンジは、ブロドガーのリングのようなブリテン島にある他のストーンサークルとは全く異なる。

ストーンヘンジの発展
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ストーンヘンジの平面図

ストーンヘンジの複合体は2000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もある。

ストーンヘンジで行われた活動の各段階の時代や内容を特定するのは、単純ではない。初期の発掘記録はほとんど残っておらず、正確な科学的時代計測は驚くほど少ないうえ、天然チョークの氷河周縁作用や動物の巣穴形成で妨げられ、複雑になっているのだ。今日の段階で考古学者が最も広く支持している説を以下に詳述する。テキストで述べる箇所には番号が振ってあり、図中の番号と対応している。図は2004年現在のストーンヘンジを示している。分かり易いよう、図からはトリリトンの横石は省略している。既に石が現存しない(または始めから入っていなかった)穴は白抜きの囲み、今日確認できる石は色付きで示してある。

遺跡建設以前
考古学者は、現代の観光客用駐車場の下から、紀元前8000年頃に遡る4つの中石器時代の大きな柱穴を発見した(天然木に由来するかもしれない一つを含めて5つかもしれない)。これらは直径0.75メートルの松の柱を立てたものである。柱はその場で朽ちた。柱のうち3本(もしかしたら4本)は東西方向に並んでおり、儀礼場としての重要性を持っていたと思われる。ブリテンではこれに並ぶものは無いが、類似の遺跡がスカンジナビアで見つかっている。当時、ソールズベリー平原は森に覆われていたが、4000年後の新石器時代にはカーサスの遺跡が600m北に建てられた。最初の農業によって森を開拓し始め、土地の利用が始まった。この他の新石器時代初期の遺跡である、ロビンフッド・ボールの土手道が付いた囲いや長い墳墓はこの周辺に建てられた。遺跡のある丘には現在では「アヴェニュー」と呼ばれる、氷河期の終わりに水が流れ出して作った溝が偶然冬至の日の入りと夏至の日の出の方角を指していた。

ストーンヘンジ1
最初の遺跡は後期白亜紀サントニアン期のSeafordチョークを使った円形の土塁と堀の囲い (7, 8) でできていた。直径110mで北東に大きい入り口があり、南に小さい入り口 (14) がある。それはわずかに傾斜しているがしかし特に目立たない開けた草地に建てられた。作業者は鹿と牛の骨、そして加工した火打ち石の工具を堀の底に置いた。その骨は堀を掘るために用いた角のつるはしよりも相当に古いもので、それを埋めた人はそれを埋める前にその動物の世話をしていた。堀そのものは連続的だが、より古い土手道で作った囲いの堀のように、いくつかの部分に分けて掘られた。堀から掘り出したチョークは積み上げて土塁を作るのに使われた。この第一段階は紀元前3100年頃であるが、その後堀は自然に埋まっていき、作業者は堀を埋めた泥を取り除くことはしなかった。囲まれた区域の内側には、それぞれ直径約1mの56個の竪穴 が円環状に掘られた。この穴は、これらを初めて発見したと考えられている17世紀の古美術商ジョン・オーブリーにちなんでオーブリーホールと呼ばれている。この竪穴は、柱の円陣を作る丸太の柱を立てるためのものと考えられるが、その証拠は発掘されていない。堀の外側にある小さい土塁も、この時期のものと考えられる。

ストーンヘンジ2
第二段階の証拠は、もはや目で見ることはできない。この時期に作られた柱穴の数から、紀元前第三千年期の初期にある種の木造の建造物が囲いの内側に作られたと考えられる。さらに多くの数の丸太が北東の入り口に立てられ、南の入り口から内側に向かって平行の柱の列が並んでいた。柱穴はオーブリーホールよりも小さく直径約0.4mで、間隔はオーブリーホールよりもやや不規則であった。土塁は意図的に高さを削られ、堀は埋められた。少なくとも25のオーブリーホールが、貫入岩やその遺構の開設から2世紀後頃の火葬死体を入れられたことが知られている。その穴の本来の機能が何であれ、第二段階には埋葬のための穴に変わっていたらしい。このほかにも30個の火葬死体が堀の囲いの内側の、遺構の反対側である主に東半分に安置された。したがって、ストーンヘンジは、この時点で環濠墓地として機能していたと解釈される。これがブリテン島で最初の火葬墓地である。燃やされていない人骨の破片も、堀の中から見つかっている。後期新石器時代の溝のある土器が発見され、この段階の特徴により時期を特定する証拠となった。

ストーンヘンジ3i
考古学的発掘によると、紀元前2600年頃、石のほうを好んだため木の柱は放棄され、同心円状の三日月型の穴(Qホール、Rホールと呼ばれている)が遺跡の中央に掘られたことが分かった。やはりこの段階でも時代を特定する証拠はほとんど無い。穴には80個の起立した石が置かれていたが、43個しか特定できていない。ブルーストーン(火成岩のドレライト)は250km離れたウェールズのペンブロークシャーにあるプレセリの丘から人間の手で運ばれてきたと考えられてきたが、最近、アイリッシュ海氷河による氷堆石がより近くにあったという説が出ている。その他の起立した石は約4トンあり、ほとんどがオルドビス紀のまだら模様をしたドレライトだが、流紋岩、凝灰岩、および火山灰と石灰質の灰を含んでおり20種もに分類される。それぞれ高さ2m、幅1m〜1.5m、厚さ0.8mである。ブルーストーンの2倍の高さがあり重量6トンの緑色の雲母質の砂岩である祭壇石 (Alter Stone) として知られるものもまた、プレセリの近くのウェールズの海岸から運ばれたもので、単独の一枚岩として立てられたと考えられる。

北東の入り口(入り口を示す2つの石がある)もこの段階で拡張され、当時の夏至の日の出と冬至の日没の方角に正確に合致するようになった。この段階の遺跡は未完成のまま放棄されたが、ブルーストーンは明らかに取り除かれ、QホールとRホールは意図的に埋め戻された。それでも、この遺跡はこの段階の終わりごろかけては、エイブベリーをしのぐ重要度を持っていた。2002年に5km南で発見されたエームズベリーの射手(en:Amesbury Archer)は、この段階の遺跡を見ていたかもしれない。

ヒールストーンもまた、この段階に北東の入り口の外に立てられたが、その時代は特定できず、第3段階のいずれかの時点で立てられたようだ。今はもう見ることが出来ないが、最初は二番目の石もあった。北東の入り口のすぐ内側に二つ(もしかしたら三つかもしれない)の門の石が立てられたが、今では、長さ4.9mのスローターストーン が倒れた状態で残っているのみである。概ね第3段階のものとされるその他のものに、盛り土の上に2つ立っているステーションストーン がある。この盛り土は古墳という呼び名で知られているが、遺体は埋まっていない。エイボン川まで3kmに渡り平行に走る2本の堀と土塁であるアベニューもまた、第3段階で加えられた。後に、ステーションストーンとヒールストーンを囲む形で堀が掘られたが、その時点ではヒールストーンは一つだけになっていた。

ストーンヘンジ3ii
紀元前第三千年紀の末に起こったその次の大きな活動段階には、およそ40km北にあるマルボロー・ダウンズの石切り場から運ばれた、30もの巨大な大砂岩(sersen)が現れる(図中では灰色で示した)。この石はほぞ穴とほぞの継ぎを加工されてから、30個が直径33mの円陣状に立てられ、上に30個の横石が載せられた。横石自身も、さね継ぎという木工の手法で互いに接続された。それぞれの縦石はおよそ高さ4.1m、幅2.1m、重さ約25トンである。それぞれ明らかに最終的な効果を意識して加工されている。すなわち、直立した石は上の方がやや幅広くなっており、遠近法によって上下が同じ幅に見えるようにしてある。また、横石はわずかに湾曲しており、遺跡全体で円に見えるように作ってある。石の円陣の内側に面している側面は、外側に面した側面よりも滑らか、かつ精密に加工されている。これらの石の平均厚みは1.1mで、それぞれの間隔は平均1mである。円陣を完成させるのには合計で74個の石が必要であり、それらの大砂岩の一部が持ち去られたのでない限り、この円陣は最後まで未完成のままだったと考えられる。横石については、それぞれおよそ長さ3.2m、幅1m、厚さ0.8mである。横石の上端は地表面から4.9mの高さにある。

この円陣の内側に、加工された大砂岩でできた5個のトリリトンが、さし渡し13.7mの北東側の空いた馬蹄形に並べられて立っている。これらの巨岩は、10個が縦石、5個が横石なのだが、それぞれ重さが50トンに及び、複雑な接続構造で積まれている。いずれも左右対称に整形されていて、もっとも小さいものは高さ約6m、その隣には南西の隅にある少し高いところにある最大のもので、高さ7.3mである。この大トリリトンのうち、現在立っているのは一つだけであるが、地上部分の高さだけで6.7m、さらに地下に2.4m埋まっている。

ストーン53として知られるひとつの大砂岩の表面に、短剣と14個の斧の刃の絵が刻まれている。このほか、斧の刃の絵が3番、4番、および5番の石にも刻まれているのが見られる。これらの年代を特定するのは難しいが、形状は青銅器時代後期の武器に似ている。最新のレーザースキャンによりこの解釈が裏付けられた。

この野心的な時期は、炭素年代測定法により紀元前2440年から2100年の間とされる。ちなみに地質用語ではない大砂岩とは、暁新世 (約6千万年前) に堆積し、氷河に覆われたイングランド各地に産出する固い砂岩である。英名のsarsen stoneは異教を意味するサラセンに由来する。

ストーンヘンジ3iii
青銅器時代の後期にブルーストーンが再び立てられたらしいが、この時期の詳細はまだ分かっていない。ブルーストーンは大砂岩の円陣の外側に置かれ、この時期にはある種の方法で整形されたようだ。いくつかの石には、大砂岩(sarsen)と同様に、丸太を加工する手法によるカットが加えられている。これは、この時期にそれらが横石と接続され、より大きな構造の一部となっていたことを示唆する。

ストーンヘンジ3iv
この時期には、ブルーストーンはさらに再編成され、二組の大砂岩の間の円陣の中と、円陣の中央の楕円の中に置かれた。一部の考古学者は、この時期の一部のブルーストーンがウェールズ産の別のグループを構成していると主張している。全ての石がストーンヘンジ3iiiで取り入れられた横石とつながることなく、正しく一定の間隔で立てられた。アルターストーンが楕円から取り除かれて垂直に立てられたかもしれない。もっとも印象的な建設段階に見えるかもしれないが、ストーンヘンジ3ivはどちらかというと、直前の段階よりもみすぼらしい造りで、新しく据えつけられたブルーストーンは全てが適切に設置されたわけでもなく、次々と倒れた。とはいえ、この段階以降には小規模な再構築しか行われなかった。ストーンヘンジ3ivは紀元前2280年から1930年までの間である。

ストーンヘンジ3v
その直後、3iv段階のブルーストーンの円陣の北東部分が取り除かれ、馬蹄形の配置になった。これをブルーストーン馬蹄という。これは中央にある大砂岩のトリリトンの配置を真似たもので、紀元前2270年から1930年までの時期である。この段階は有名なノーフォークのシーヘンジと同時代に当たる。

ストーンヘンジ3vi
一番外側の大砂岩の円陣のさらに外側に、竪穴の円陣が二つ掘られた。これはYホール、Zホール(11,12)と呼ばれる。Zホールは大砂岩の円陣より2m外側、Yホールはさらに8m外側にある。これらはそれぞれ30の竪穴から成り、それぞれの穴は砂岩の円陣にある石と対応しているように見える。これらの穴には石は入れられなかったが、続く数世紀の間に自然に埋まっていった。穴を埋めた土の上のほうは鉄器時代とローマ時代の物質を含む。ストーンヘンジに立っている遺構は紀元前1600年ごろに放棄されたと考えられる。

その後の遺跡
遺構が放棄された後にも、限定的な活動があった。先史時代後期の土器およびローマ時代の硬貨が見つかっていることからも、ここを訪れた人がまだいたことが確認できる。紀元7世紀のものとされる斬首されたサクソン人の遺体もストーンヘンジから発掘されている。この場所は中世の学者に知られていて、それ以降さまざまなグループにより研究と保全が行われてきた。

ストーンヘンジに関する理論
初期の解釈
初期の多くの歴史家の説明は、超自然的な言い伝えに影響されていた。魔術師マーリンが巨人を使役して作らせたとか、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできたなどという伝説もある。このほか、悪魔が作ったとするものもある。ハンチントンのヘンリーが、1130年頃この遺跡に最初に言及した。そのすぐ後に、モンマスのジョフリーが、アーサー王と関連付ける架空の記録を最初に記した。これにより、この遺跡は中世ヨーロッパのロマンスに取り込まれていくことになる。

1615年、イニゴ・ジョーンズは、ストーンヘンジがカエルス(ギリシアの天王神ウラヌスのラテン語名)に捧げられたローマの神殿であり、トスカナ式建築で作られたと主張した。後世の注釈者は、デーン人がこれを建てたと言い続けた。実際、19世紀の末に至るまでは、この遺跡はサクソン人かその他の比較的新しい民族の手によるものだと広く思われていた。

この遺跡を調査する最初の学術的試みは、1740年頃、ウィリアム・スタッカレーによって行われた。例によってスタッカレーはこの遺跡をドルイドの手によるものだと誤って結論付けた。しかし、彼はこの遺跡の測量図を残した最初の人物となった。この図があったために、形状と大きさについてのさらなる分析が可能になった。この業績により、彼は石の配置が天文学または暦学上の役割をもっていることを示すことができた。

19世紀の転換期までに、ジョン・ラボックは、付近の古墳から発見された青銅器に基づき、この遺跡が青銅器時代のものであることを示した。

古代天文学とストーンヘンジ
ストーンヘンジは北東-南西に向いており、至点と昼夜平分点に特段の重要性が置かれたのだと考えられている。例えば、夏至の朝には太陽はヒールストーンの付近から昇り、太陽の最初の光線は馬蹄形の配置の中にある遺跡の中央に直接当たる。このような配置は単なる偶然では起こりえない。

1963年に英国生まれの天文学者ジェラルド・ホーキンスが『ネイチャー』に論文を発表、1965年にStonehenge Decoded(解読されたストーンヘンジ)を出版したことにより大きな議論が起こった。ホーキンスは、月と太陽に基づく数多くの天文学的な配置が見られると主張した。また、ストーンヘンジは日食を予測するために使われた可能性があると主張した。ホーキンスの著書は、当時はまだ珍しかった電算機を計算に用いたことで、広い知名度を得た。この議論へさらに寄与したのが、英国の天文学者C・A・ニューハムと、ケンブリッジの有名な宇宙学者サー・フレッド・ホイル、そして元工学教授アレキサンダー・ソーム(彼は20年以上ストーンサークルの研究をしていた)だった。彼らの理論は、近年になってリチャード・アトキンソンや「石器時代の計算機」の解釈方法の非現実性を示唆したその他の者の批判を受けた。

今日では、全てではないにせよ、ほとんどの天文学的な申し立ては、おおげさであると言うのがコンセンサスである。

ブルーストーン
ロジャー・マーサーは、ブルーストーンがあり得ないほど精巧に加工されていることを発見し、これがペンブロークシャーにあるより古い未特定の遺跡からソールズベリーに持ち込まれたのと推定した。ジョン・FS・ストーンは、ブルーストーン遺跡はストーンヘンジのカーサスより古くに建てられ、それから現在の場所に移されたのだと感じた。もしマーサーの理論が正しければ、ブルーストーンは同盟を固めるため、あるいは征服した敵に対して偉大さを示すために移設されたのかもしれないが、これは推測に過ぎない。ストーンヘンジ3ivに似た楕円形にセットされたブルーストーンは、プレセリの丘にあるベッド・アーサーの遺跡、ペンブロークシャーの海岸の南西沖にあるスコーマー島でも知られている。考古学者の中には、火成岩であるブルーストーンと堆積岩である大砂岩が、異なる地形、異なる背景に生まれた二つの文化の同盟を示す、ある種のシンボルであると推測するものもいる。

ボスコム・ボウメンとして知られる近くの場所で見つかった同時代の発掘物の最近の分析では、少なくともストーンヘンジ3に関わった個人が、実際に今日のウェールズから来ていたことが分かった。これらの石の岩石学的分析では、それらはプレセリの丘から来たものに相違なく、二つを結びつけたくなる。

今では、そのブルーストーンの主な出どころはカーン・メニンにあるドレライト露頭であると特定された。しかし、放送大学のオルウェン・ウィリアムズ=ソープの率いた研究によれば、プレセリのより広い地域にわたりブルーストーンの産地が広がっていた。

オーブリー・バールは、ブルーストーンは人間によって運ばれたのではなく、洪積世にウェールズからの道の少なくとも一部は氷河によって運ばれたと主張している。プレセリからソールズベリー平原までの間には氷河が活動していたという地質学的証拠は何も無いが、周辺からはこれ以外にそのような異常なドレライト試料は発見されていない。

儀式の場としてのストーンヘンジ
ストーンヘンジが、ダーリントンウォールにあるような当時のソールズベリー平原でより一般的だった木造の建造物を恒久的な石造に換える試みであったということは、多くの考古学者の信じるところである。マイク・パーカー・ペアソンとマダガスカル人考古学者ラミリソニナは、現代の人類学的な証拠を用いて、先史時代の人々の間では木材は生者と結び付けられ、石は祖先の死者と結び付けられるということを提案した。彼らは、ストーンヘンジは死者を祭るための長い祭礼行進の境界標であったと主張した。行進は、ウッドヘンジとダーリントンウォールの日の出のときに東から始まり、エイボンを行進して、それから日没に西のストーンヘンジに至る。この行進は、木から始まり水を渡って石に至る、すなわち生から死に至る象徴的な行進であったと、彼らは考えた。ストーンヘンジの天文学的配置が象徴的なもの以上であるという証拠は無く、現在の解釈では、多くの埋葬場所や周辺の神聖な遺跡の中に立地していることを考え合わせて、祭祀のための場所であったという点で一致している。

建設技術と設計
ストーンヘンジを建造するために必要な技術仕様には多くの憶測が混じる。ブルーストーンが、オーブリー・バールが主張したように氷河で運ばれたのでなく、ウェールズから人の手で運ばれたと仮定しても、丸太と縄だけでそれらを運ぶ様々な手段が提起された。2001年に、大きな石を陸と海を使ってウェールズからストーンヘンジまで運ぶという実験考古学の実証が行われた。陸では志願者が木製のそりを引いたが、ひとたび先史時代のものを再現した船に載せたとき、石はブリストル海峡の荒れた海に沈んだ。

石の設置については、石を立てるために木製のAフレームを立て、人力で石をロープで引いて立てたのだと考えられていた。横石は、木製のプラットホームに載せて段階的に上げていき横に滑らせて乗せたか、傾斜を押し上げたかしたのだろう。石を積むのに使ったほぞ穴は、当時の人々が高い木工の技術を持っていたことを示す。彼らは木工の技法で石を立てる知識を持っていたのも難しいことではなかっただろう。

アレクサンダー・ソームは、この遺跡がメガリスヤード(長さの単位)を用いて所要の精度で建てられていると考えている。

大砂岩(sarsen)に刻まれた武器は、ブリテン島の巨石芸術に特有である。もっと抽象的なデザインで描かれるのが通例であるからである。同じように、石を馬蹄形に配することも、ほかでは円形に配置している文明においては異常である。しかし、斧のモチーフは当時のブリタニーの人々にとっては広く用いられていた。すなわち、ストーンヘンジの少なくとも二つの建設段階では、大陸の影響を受けていたと考えられる。これは、この遺跡が非典型的なデザインである理由をわずかに説明しているが、しかし全体的には、ストーンヘンジはいかなる先史時代ヨーロッパ文明のコンテキストにおいても説明できないほど異質である。

ストーンヘンジを建設するのに必要な推定労働力は、延べ数百万人時に上る。ストーンヘンジ1は恐らく約11,000人時(460人日)を要したであろう。ストーンヘンジ2は360,000人時(15,000人日または41人年)、ストーンヘンジ3のさまざまな部分には1.75百万人時(73,000人日または200人年)。石の加工には当時利用可能だった原始的な工具を使って、推定で約20百万人時(830,000人日または2300人年)の労力が必要だった。確かに、このような建造物を作り上げようという意志は強かったに違いないが、建設し維持するためには進んだ社会組織が必要だったはずだ。

これ以外の見解
ストーンヘンジの名声は、その考古学的重要性や、古代の天文学的役割によるものだけではなく、訪れた人々に無形の影響、クリストファー・チッペンデールが「この場所の肉体的感覚」と記した、合理的・科学的な観点を超越した何かを与えるところにある。このことが、古代人の大いなる業績の象徴として、そして考古学の主流を今なお打ち負かしている何かの象徴としてのこの遺跡の霊的な役割、および単なる科学的な説明ではそれを正当化できないという信条をさまざまなグループに示した。

この遺跡が女性器を表しているという理論を立てている者もいる(オブザーバー紙の記事)。また、ヒールストーンがファルスの型であるという者もいる。この場所におけるUFOの目撃情報があったことから、エイリアンの着陸地点であるという説も現れた(しかし恐らくはウォーミンスター近傍の国防施設の関連がある)。アルフレッド・アトキンスは、この遺跡から他の遺跡へつながる3本のレイ・ラインを発見した。別の者は、数秘学、ダウジング、または土占いを使って、この遺跡の力と目的に関する多様な結論を導き出している。ニュー・エイジとネオ・ペイガンの信仰では、ストーンヘンジを聖なる場所と見ているが、その考え方は考古学的遺跡、観光拠点、またはマーケティングの道具として考える主流派の観点と対立する可能性がある。Post-processualistの考古学者は、ストーンヘンジを計算機や観測所として扱うこと は、技術で動く我々の時代の現代的概念を無理に過去に当てはめることであると考えるかもしれない。西欧ではめったに用いられない、考古学上の土着民の役割ですら、この遺跡ではウェールズのナショナリズムの象徴としての新たな機能を持たせられた。

数多くの正統派・非正統派が主張するさまざまな意味と解釈があるという観点で、ストーンヘンジの「所有権」の重要さはこの数十年の間にますます顕著になった。「神聖遺跡異議申し立てプロジェクト」の研究者ジェニー・ブレインとロバート・J・ウォリスは、「英国的なもの」の象徴としての今日ますます拡大するストーンヘンジの重要性を示す非常に幅広い見解を指摘し、また、考古学や遺跡について訓練されていない数多くの人々によって過去への関心が増していることを指摘した。多くの人にとってストーンヘンジ等の古代遺跡は、彼ら自身の思い出を秘め、彼らが巡る季節を記すにつれて添う「生きている風景」の一部になっているのである。ストーンヘンジをめぐる今日的神話には、豆畑の会戦や前回のフリー・フェスティバルが含まれる。ストーンヘンジの持つ意味合いは多様である。今日、イングリッシュ・ヘリテッジ財団の学芸員は、夏至、冬至、春分、秋分の日には「管理されたオープンアクセス」としているが、その日がどの日に当たるかには議論がある。ブレインとウォリスは、アクセスに関するこの問題は、遺跡の物体としての存在だけでなく、過去の解釈、「新しい土着民」の正当性、現代における異教徒(ペイガン)による利用、およびこうした異なる観点が、道路、トンネル、風景に対する公衆の注意を引くのに中心的役割を果たしたことに関連していると主張している。

2013年3月9日、イギリスロンドン大学ユニバーシティ・カレッジのマイク・パーカー・ピアソン教授の率いるチームは、発掘された人骨や家畜の分析から、ストーンヘンジの原型は有力一族の墓地として紀元前3000年頃に建造され、紀元前2500年頃にはブリテン島の各地(遠くは1000km以上離れたスコットランドのオークニー諸島)から冬至の頃に多数の人々が一堂に会する大規模な祝典の会場として使用されていた可能性があると発表した[3]。 まずダーリントン・ウォールズ (Durrington Walls)でご馳走が並ぶ盛大な宴が催され、そして参加者はアベニューを通って最も重要な墓地ストーン・ヘンジに向かい、そこで死者たちに敬意を払い、一直線に並ぶ冬至の日没を拝んだと考えている。

ストーンヘンジの発掘
ストーンヘンジの発掘が最初に記録されたのは、ウィリアム・カニントンとリチャード・コルト・ホアによるものだった。1798年、カニントンは倒壊したトリリトンの下の穴を調査した。1810年、両名は倒れたスローターストーンの下を掘り、それがかつては立っていたと結論付けた。彼らは、その下にあったオーブリーホールのひとつも発掘した。1900年に、ウィリアム・ゴーランドが初めて広範な調査を行い、鹿角のつるはしが穴を掘るのに使われていたこと、石がこの場所で成型加工されたことを明らかにした。

ストーンヘンジの最大の発掘は、この遺跡が国家の管理下に入ったあと、ウィリアム・ホーリー中佐(en:William Hawley)によって行われた。1919年に作業が始まり1926年まで続き、予算は労務省?から出た。二人はストーンヘンジの大部分を発掘し、それが多段階で建造された遺跡であることを最初に明らかにした。

1950年、古美術協会は、リチャード・アトキンソン、スチュアート・ピゴット、ジョン・FS・ストーンに追加発掘を委任した。彼らは数多くの火葬された遺骨を回収し、今日ストーンヘンジについて書かれるものの大部分を支配する段階的建造説を作った。1979年と1980年に、マイク・ピットが、公益事業の調査の一環として2回の小さな調査を行い、ヒールストーンの近くで、それが近隣のものであることを発見した。

神話と伝説
修道士のかかと
ヒールストーンはかつては「修道士のかかと」として知られていた。17世紀よりは古くないと思われる民話によると、その石の名前の起源は次の通りである。

悪魔がアイルランドにいる女から石を買い、包んでソールズベリー平原まで運んだ。石の一つがエイボンに落ちたが、残りは平原まで運べた。悪魔はこう言った「この石がどこから来たか誰にも分かるまい。」修道士が応えて曰く、「それはお前が考えていることだ!」そこで悪魔は石の一つを投げつけたので、修道士のかかとに当たった。その石は地面に突き刺さり、今でもそのままなのです。

「修道士のかかと (Friar's Heel)」は、ゲルマン神話の女神フレイヤとウェールズ語の「道」または「太陽日」を表す語から生まれた、「フレイヤのヒー・オル」または “Freya Sul” の崩れたものだという説もある。

アーサー王伝説
ストーンヘンジはアーサー王伝説とも関連している。ジョフリーのモンマスは、魔術師マーリンが命じて、巨人がキララウス山に立てた石をアイルランドからどけさせたと述べている(その巨人は石をアフリカから買ったとしている)。それがアムズベリーの近くに再建された後、ジョフリーは、いかにして、アンブロシウス・アウレリアヌス、ユーサー・ペンドラゴン、そしてコンスタンティン3世が環状列石の内側に埋葬されたかを述べている。『ブリタニア列王史』の多くの箇所で、ジョフリーはブリテンの伝説と彼自身の想像を混ぜてしまっている。アンブロシウスと近隣のアムズベリーを関連付ける証拠となる地名がどうして存在するのかを知ると、彼が先史時代の遺跡とアンブロシウス・アウレリアヌスを関連付けたことは興味がわく。

最近の動向
ストーンヘンジは不朽ではなく 、他の大多数の歴史的遺跡と同様に、積極的な保全が必要である。20世紀の始めまでには数多くの石が倒れたり傾いたりしていたが、骨董品収集家の図面の情報に基づき、注意深く元の位置に戻す保全作業が行われた。

ストーンヘンジはペイガニズム信者の巡礼の地であり、1870年代には夏至の日の出に多くの来訪者を集めていた。再構築されたドルイドの慣例の最初の記録は、1905年にドルイド団が儀式を執り行ったときのものである。考古学者は、鉄器時代のドルイド信仰と現代のドルイド教は違うものだと強調したにもかかわらず、ストーンヘンジは次第に白装束の魔術師が行う深遠な儀式と関連付けられるようになった。

初期の儀式は、Polytantric Circleによって後援されていたストーンヘンジ・フリー・フェスティバル(英語版)において、1972年から1984年まで夏至の日に行われ、来訪者は500人から30,000人にまで膨れ上がっていった。しかし、1985年に高等法院がフェスティバルの開催を禁止する命令を出したため、祭りを開催しようとした来訪者と警官隊との間で暴力的な衝突が起こった(豆畑の会戦)。それ以降、ストーンヘンジを儀式のために利用することは、厳しく制限されている。

ほぼ同時期に、National Lampoon's European Vacationのプロデューサーがロケーション・ハンティングを行っていた際に、遺跡に車をぶつけて損壊させてしまった。

2008年5月、イギリスの文化財保護団体『イングリッシュ・ヘリテッジ』により、何者かがストーンヘンジの表面を金槌などで叩き削り取っていたことが判明した。

複製品と派生品
ワシントン州メアリーヒルには戦争記念物としてサム・ヒルが建てた、ストーンヘンジの朽ちる前の姿の実物大複製がある。ニュージーランドのワイララパ地方にあるストーンヘンジ・アオテアロアは、この地から見られる天体に合わせて現代風に翻案したものである。これはフェニックス天文学協会が建てたもので、木材にコンクリートをスプレーしたもので出来ている。

ミズーリ州ローラのミズーリ工科大学に2分の1サイズの複製品があり、ローラストーンヘンジの名で親しまれている。これは1984年に学生達によって当時はまだ珍しかったウォータージェット工法による削岩で製作され、翌年の1985年に全米エンジニア協会から表彰を受けた。このローラストーンヘンジは花崗岩で出来ている。

ネブラスカ州アライアンスにあるカーヘンジは、1987年にアーティストのジム・レイノルドによって作られたもので、アメリカ製ビンテージカーで出来ている。テキサスにあるストーンヘンジIIと呼ばれる複製品は、アドービ煉瓦のような素材で作られている。ベルリンの壁崩壊後の1990年代初期には、ベルリンの旧国境地帯にタンクヘンジというものがあった。タンクヘンジは3台の旧ソビエト式装甲兵員輸送車で作られていた。

発泡スチロールで作られた実物大のストーンヘンジ(もちろんフォームヘンジと呼ばれた)がバージニア州ナチュラルブリッジの近くに立っている。

ロックバンドBlack Sabbathは1983年 - 1984年の復活ツアーでストーンヘンジの舞台セットを使ったが、これは大部分の開催地で大きすぎて入らないという結果になった。この一件は映画This is Spinal Tapの中で、バンドがストーンヘンジのセットを発注するがフィートとインチを間違えてミニチュアが届くという筋で描かれて、笑いものにされた。

現代のレプリカを除いても、幾つかの考古学的遺跡がその名の一部または全部にストーンヘンジの名前を持っている。アメリカズストーンヘンジは、異質で議論の的になっているニューハンプシャーにある遺跡である。1925年に発見された、ストーンヘンジの近くにある同心円状の柱穴を持つヘンジは、ストーンヘンジとの類似性から、発掘者カニングトン (Cunnington) によりウッドヘンジと命名された。ノーフォークにある木製のシーヘンジは、1998年の発見について記したジャーナリストによって命名された。

北海道札幌市南区の滝野霊園にも、現在の姿ではなく過去の想像図に近い形で建造された、花崗岩製のストーンヘンジのレプリカが存在する。

イスタンブールの聖ソフィア大聖堂

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Agia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館[1]。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館 (トルコ語: Ayasofya Müzesi) として使われている。
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アヤソフィア

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イスタンブール


東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。

概説
アヤソフィア、あるいはハギア・ソフィアと命名された教会堂建築は、ギリシアやトルコなど、かつての東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)領の各地に数多く残されているが、単にアヤソフィアと言った場合、イスタンブールのアヤソフィアを指すことが一般的である。元来の名称であるハギア・ソフィアはギリシア語で「聖なる叡智」を意味し、その中世の発音「アヤ・ソフィア」がトルコ語名「アヤソフィア」の由来である。

教会は三位一体の第二にあたるロゴスに捧げられた[5]もので、ロゴスが示すところのキリストの受肉日である12月25日に献納された。

時に使われるSancta Sophia(聖ソフィア)の名は殉教者ソフィアにちなんだと受け取られるが、「sophia」はラテン語で叡智を意味し、ギリシア語表示のΝαός τῆς Ἁγίας τοῦ Θεοῦ Σοφίαςは「神の聖なる叡智の神殿」を表している。

イエス・キリストを象徴する東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成だが、身廊中央部に巨大なドームがあり、これがアヤソフィアの最大の特徴となっている。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内壁は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなっているが、一部が剥がされ、東ローマ帝国時代のモザイク壁画をみることができるようになっている。

巨大なことで知られる特徴的なドームを持ち、ビザンティン建築の典型とみなされ、「建築の歴史を変えた」とも評される。1520年にセビリア大聖堂が完成するまでは世界最大の大聖堂の地位を1000年近く保っていた。現在の建物は532年から537年にかけて東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって建設されたもので、この地に建てられた3代目の建物にあたり、以前の2代はいずれも暴動によって破壊された。デザインはギリシアの物理学者ミレトスのイシドロスと、数学者トラレスのアンテミオスによってなされた。

1985年、「イスタンブール歴史地域」の一部としてユネスコの世界遺産に登録された。

歴史

創建

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旧ハギア・ソフィア大聖堂の遺構
415年にテオドシウス2世によって再建された聖堂の一部
アヤソフィアは、元来キリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は、首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって350年頃に建設が始まり360年2月15日に、アリウス派僧侶の司教アンティオキアのユードクシウスによって献堂された。

単に大教会(メガリ・エクリシア)と呼ばれており、聖堂は再建されても常に巨大なものであったため、以後もほとんどこのように呼ばれている。 この聖堂が最初からハギア・ソフィアと呼ばれていたのか、後の再建からハギア・ソフィアと命名されたのかは分からない[13]。最初の教会堂は木造屋根をもったバシリカだったらしく、「偉大な教会」(Μεγάλη Ἐκκλησία (Megálē Ekklēsíā, "Great Church"))またはラテン語で「Magna Ecclesia」と呼ばれた。これは、都市内にあったどの教会よりも大きな建物であったためである。今日ではその位置しか知られていない。

404年にコンスタンティノープル大主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂された。この聖堂も現在のものとは全く違うバシリカであり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された梁が残っている。

しかし、この聖堂も 532年1月の首都市民の反乱(「ニカの乱」)における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに再び焼失してしまう。

コンスタンティノープルのソクラテスが440年に記したところによると、教会は346年にコンスタンティウス2世によって建設されたという。しかし7世紀 - 8世紀以降からの口伝では、この大建築物はコンスタンティヌス大帝によって建てられたという。ヨハネス・ゾナラスは2つの説を整合させ、コンスタンティウス2世はニコメディアのユーセビウスが献納した建物が壊れたため修理をしたのだと述べた[12]。ユーセビウスは339年から341年にコンスタンティノープルの司教職を務め、大帝は337年に亡くなっているため、最初の教会が大帝によって創建されたという考えは可能である。この最初の教会は、コンスタンティノープル大主教のヨアンネス・クリュソストモスが皇帝アルカディウスの妃アエリア・エウドキアと対立し404年6月20日に追放処分に科せられた後に発生した暴動で焼失した。

現在に至る構築
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アヤソフィア大聖堂の内部

2度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝はただちに再建することを決定し[15]、その設計を技師(ミヒャノピオスまたはミヒャノコス)トラレスのアンテミオスとミレトスのイシドロスにゆだねると、金に糸目をつけず世界中から工員を集め、工事開始を急かした[13]。過去のパジリカ復旧ではなく全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は、プロコピオスによって詳細に報告されている[13]。両者は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱を煉瓦ではなく大型の石材で造成することによって、クリープによる変形や乾燥収縮がおきないようにした。このように緻密に建設を進めたにも関わらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされている。プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、南と北のアーチは養生段階で下部のティンパヌムに過大な荷重をかけたため、窓の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めた。それでも、巨大なバットレスをドーム直下にまで補強するなどの方法によって41.5 mの高さのドームは建設された。

工事は5年11か月という短期間で終了し、 537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式を迎えた。この時ユスティニアヌスは、古代イスラエル王国のソロモン王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから、 「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている。プロコピオスは著書『建築について』にて、計算された巧みな比率を持ち、比率陽光が豊かに差し込む会堂内部を「美の伝道」と称え、中央の半球状ドームはまるで金の鎖で天空から吊るされたようだと感想を述べた。

しかし、計画では真円になるはずだったドームは、建築中の歪みによって南北に2 m程度長い楕円形になっており、また、ドーム基部に現在よりも大きな開口部を設けていたため、553年から頻発した地震によって亀裂を生じた。 特に557年12月14日の地震によって聖堂は大きなダメージを受け、558年5月7日に東側のアーチと半ドーム、そして中央ドームの半分が崩壊した。この崩落の主な原因は、非常に重い支持構造と、平たいドームの重さによる強いせん断荷重であった。これらがドームを支えていたアーチに変形を引き起こした。

再建工事は直ちに着手され、残存していたドームは取り除かれた。現在にみるドームは、小イシドロスらの専門委員会によって内壁を補強した上に架けられた第2ドームである。彼らは旧来のドームにあった構造上の弱点を分析し、まずアーチの壁厚を調整して、ドーム基部を正方形に近づけ、元よりも約6.4 m高いドームを構築し、現在に至る高さ55.6 mへ改めた。また、軽量の建築材料を用いる工夫も施し[18]、形状もリブ構造とペンデンティブを備えるものに改良し、その直径も32.7 - 33.5 mとなった。

ドーム再建後、562年12月24日に新たに献堂式が行われ、賞賛の合唱の中ユスティニアヌスは総主教エウテュキオスとともに戦車に乗って堂内に入ったとされる。このドームは989年10月26日と1346年5月19日に大規模な崩落をおこしており、10世紀の崩落ではドーム西側3分の1を、14世紀の崩落では南東方向の半分を失った。その際、基本的なデザインを維持したまま修復されたが、ドームの開口部は段階的に縮小された。

また、563年には小イシドロスによって外側にドーム基部まで立ち上がる4基の塔状バットレスが建設された。これは現在3基が現存しており、堂内の4つの主柱に対応し、内部には折れ曲がった階段がある[20]。その後も補強を目的とした構造物の増築は続き、特に9世紀に行われた南北のティンパヌムは大規模な工事となった。

726年、皇帝レオーン3世はイコノクラスムを先導し、一連の勅令を発する中で軍(英語版)にすべてのイコンを除く命令を下した。これによってすべての宗教画や像はアヤソフィアから取り除かれた。イコノクラスムはレオーン4世の皇后エイレーネー(後に女帝)が主導した787年の第2ニカイア公会議でいったん終息したが、829年に即位した皇帝テオフィロスはイスラム美術の影響を強く受け[22]、生物の表現一切を禁じた。

989年10月25日の大地震は西側ドームのアーチ部分を崩落させた。皇帝バシレイオス2世はアルメニア人建築家であり、アニやアグリナの教会建設を行ったアルメニア人のアルキテクトのトルダトに修復の主導を依頼した。

トルダトは落下したドームのアーチを再建し補強を施し、さらに西側のドーム15基にもリブ構造を導入した。この工事には6年が費やされ、994年5月13日に完成した。この時、4大天使の絵画を含む装飾にも手が加えられ、ドーム部分のキリストや後陣の使徒ペテロとパウロの間でキリストを抱いた聖母マリアが加えられた。側面の大きなアーチには、預言者や教父らの絵画が施された。

ユスティニアヌスによって再建されたアヤソフィア大聖堂は、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられた。コンスタンティノープルを訪れた人びとの巡礼記録から、聖堂内には現在では失われた施設・聖遺物があったことが知られる。14世紀にコンスタンティノープルを訪れたロシア人スモレンスクのイグナティオスの記録では、聖堂内部には多くの礼拝堂が設けられ、「ノアの箱船の扉」やイエスが磔にされた「聖十字架」、「アブラハムのテーブル」など、多くの聖遺物が安置されていた。また、この時代は隣に総主教の宮殿が併設されており、内ナルテクス南端の、現在では出入り口となっている部分は、総主教宮殿への通路となっていた。

カトリックからの奪還
アヤソフィアは13世紀にラテン帝国の支配にあった1204 - 1261年にはカトリックの影響下に置かれた[1]。1261年の奪還後[27]、床の装飾の一部に ボードゥアン1世の墓碑文は、1261年にコンスタンティノープルが奪還された際にビザンティンの人々が吐き捨てる唾に晒された[28] 。奪回した時、教会は荒れ果てた状態にあった。1317年、アンドロニコス2世パレオロゴスは亡き妃ヴィオランテ・ディ・モンフェラートの遺産を使い、教会の東と北に4つのバットレスを新設した。

オスマン帝国時代


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アヤソフィアのミフラーブ

1453年、メフメト2世はコンスタンティノープルをイスラムの勢力下に収めるため包囲した。後に彼自身が後悔する事になるが、メフメト2世は都市の占領が成し遂げられれば、3日間の略奪行為を許すと軍に告げた。アヤソフィアも例外ではなく、むしろ都市の宝物が収めてあると考えられ標的にされた。防衛網が崩れると、略奪者らはアヤソフィアへ押し寄せ、ドアを叩き壊した。教会に避難していた、防衛の役に立たない多くの者たちは、教会に集まった人々もろとも侵略者の戦利品になり、虐殺もしくは奴隷として鎖に繋がれ、建物も荒らされ略奪された。聖職者らは侵略者が妨害するまで祈り続けていた[33]。メフメト2世が僕らと到着すると、彼はアヤソフィアをモスクに作りかえると宣言した。するとウラマーのひとりが聖壇に上がり、シャハーダの暗唱が行われた。

5月29日、 コンスタンティノープルを占拠したオスマン帝国のメフメト2世は、その日の午後に市入城するとすぐにこの大聖堂に赴いた[1]。 彼は大聖堂入り口の土を自らのターバンに振りかけて堂内に入り、 コンスタンティノポリス総主教庁から大聖堂を没収、モスクへ転用することを宣言した[3][27][37][38]。 このときにアヤソフィア大聖堂に接続する総主教館は破壊され、 アヤソフィア内部は十字架が取り外され、マッカ(メッカ)の方向を示すくぼみであるミフラーブが加えられたが、 内部の改修は必要最低限にとどめられた事は、壁龕の聖人・教父像が現存している事から伺える。その後、4本のミナレットが建設され、南には帝国王室の墓所に使われた[1]。礼拝堂内にはミンバルと呼ばれる説教壇も取り付けられた。アヤソフィア・ジャミィと呼ばれるようになったこの聖堂はトプカプ宮殿の側に位置し、オスマン帝国の君主が毎週の金曜礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクのひとつとされた。

しかしその状態は、例えばコルドバのペドロ・タファやフィレンツェのクリストフォロ・ボンデルモンティなど西側のからの旅行者が記したように、教会は荒廃するに任され、扉が外されたまま放置された箇所もあった。建物の手入れと改築を命じたメフメト2世は、同年6月1日には最初の金曜礼拝に赴いた。アヤソフィアはコンスタンティノープルにおけるオスマン帝国初のモスクとなった。

1481年までに、南西の階段塔の上にミナレットが建設された[27]。次代のスルターンであるバヤズィト2世はミナレットを北東角に設置した。このうち一つは1509年のイスタンブール地震で倒壊したが[27]、16世紀半ば前後に建物の東西部分に新設されたミナレットと対角線上に当る部分に移設された。16世紀にはスレイマン1世が征服したハンガリーから2基の巨大な燭台を持ち帰り、ミフラーブの両脇に据えた。セリム2世時代には建物に劣化が見え始め、建築家であり世界初の地震対策技術者とも評されたミマール・スィナンが主導した外部からの補強構造追加など幅広い補修工事が行われた。スィナンは歴史的なビザンティン建築の西端に2基の大きなミナレットを据え、さらにスルターンの特別席が作られた。南東の建物では、1576 - 1577年にセリム2世のテュルベ(墓廟)を据えるため、1年前にS字型の角にあった総主教のテュルベが取り壊された[27]。ドームの頂上には、金の三日月が取り付けられ[27]、これが反射する光が届く35アルシン[43](約24 m)幅の建物周辺からは当時建っていたすべての家屋が取り除かれた。ここには後に、オスマン帝国の皇女43人のテュルベも追加された。

1594年には宮廷建築家(ミマール)のダヴッド・アーが、皇帝ムラト3世とヴァリデであるサフィエ・スルタンの命を受け、皇帝のテュルベを建設した[27]。その横の八角形の陵には彼らの息子メフメト3世と彼のヴァリデが葬られたが、これは1608年に王室建築家のダルグチ・アハメッド・アーの手による[44]。次代の皇帝ムスタファ1世のテュルベは、洗礼堂を作り変えて設けられた。ムラト3世はまた、ペルガモンからヘレニズム調のアラバスター製つぼを2つ移し、本堂の両端に据えた。

1717年、アフメト3世は内装のひどく損傷した漆喰の補修を命じ、多くのモザイク画がモスクの作業者らによる破壊から守られ保存される事に間接的ながら貢献した。事実、モザイク画の石はタリスマンと信じられ、訪問者へ売られる事が横行していた。

1847年、アブデュルメジト1世の命により、イタリア人建築家ガスパーレ・フォッサーティによって構造的な補強が行われ、ドームの水平推力に対抗するためドーム基部に鉄製の環状補強材が埋め込まれたが、これはあまり有効に機能していないことが判明している。主柱にムハンマドと正統カリフの名を記した円形の額が取り付けられたのもこの補修の時である。 フォッサーティは工事の内容を纏めて書籍出版を準備したが、同じ頃ドイツの建築家ザルツェンブルグも別に調査を許され、フォッサーティは大判の彩色図集を、ザルツェンブルグも大判の研究書をそれぞれ発行した。

宗教施設から博物館への転換
オスマン帝国の滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され[1]、翌年に博物館として公開した。長年敷かれていたカーペットが取り払われて大理石の床のオンファリオン(英語版)(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現した。しかし建物の構造には劣化が見られ、ワールドモニュメント財団 (WMF) は1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載された。建物の銅製の屋根にはクラックが入り、そこから染み込んだ水がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていた。同様に湿気は下からも上がってモザイク画に影響していた。さらに地下水が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、石材や塗料を脅かしていた。アメリカン・エキスプレス社の財政的援助を受け、WMFは1997年から2002年にかけて修復のための費用を交付すると保証した。第一段階として、天井部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、トルコ文化観光省参加の下で行われた。第二段階はドーム内部の保存のため、若いトルコ人博物館学芸員を雇用し訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立した。2006年までにWMFのプロジェクトは完遂したが、他の部分にも引き続き保存活動が求められている。

現在、建物はモスクや教会など宗教的行事の場として使うことが厳しく禁じられている。しかし2006年にトルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出したと伝えられた。

構造

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アヤソフィア平面図
東側(図左)が至聖所、西側(図右)が正面入口

平面は集中式プランとバシリカ式プランの融合を特色としているが[48]、それまでのローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代において、この建築物に類例するプランは存在していなかった。正教会の規範に従い、教会は西を開口部とし、東に至聖所を備えている。聖所(内陣)と正面入口の前に啓蒙所と呼ばれる細間があり、大聖堂として使われていた当時は、信者でないものはここから先に入ることを許されなかった。現在は失われているが、啓蒙所の前にはアトリウムがあった。

基本的には長方形平面であるが、内部立面のアーケドやアーチによる曲線、ことにイシドロスとアンテミオスによって計画された30.95 m四方形の上部のドーム、さらにのち補強のために周囲に配された多くのバットレスによって、建物全体が方形であることの印象は受けない。

構造的にもっとも特徴的なのは、正方形のプランの上に、ドームが乗っていることである。それまでドーム建築は、ローマのパンテオンに見られるよう単純に、ドームの平面形とおなじ円形プランで構成されていたが、ビザンチンの建築家は、ドームの円形と正方形の隙間にできる三角形部分をペンデンティブという支持方法で埋めることにより解決した。さらにアヤ・ソフィアでは、中央の大ドームを受けるのに平面の正方形の四辺にあたるところにそれぞれ大アーチを架け、ドームの重さによる外側への水平推力については、南北は二階の回廊をまたぐ巨大な控え壁、東西は大アーチの形をそのまま展開した半円形のドームで受けるという多種多彩な構造を用いている。これら重層的な構造と、中央の大ドームの基部に円形に並べられた小窓などにより、外観、内観ともそれまでにない光に充ちた豊かな建築空間を出現させた。西洋建築史においては、アヤソフィアによって古代は終わり、中世が始まったとも言われる[49]。しかし、この斬新な構造は、論理性はともかく、強度的には不十分で、前述のように、地震によるドームの崩落の他、多くのバットレスの追加などを余儀なくさせ、この建物の外観を、最初の構想、および竣工当時からとは違うものにしてしまっている。

主構造は、石積造の他、ローマ帝国で発展した、積み重ねた焼きレンガを型枠として、その中にコンクリートを充填する方法をとっている。これが、総石造の建物と違い、工事期間の短かった理由である。

大ドームは上述の通り558年に崩落し、その後も地震による部分的な崩壊を経験しているが、基本的な構成は537年に建設された当時のままである[16]。採光によって光の溢れるアヤソフィアのドームは「天から釣り下げられた円蓋」とされ、それがあまりにも印象的であるため、以後のビザンティン教会堂、および礼拝堂では、円蓋が建築平面の中心部に必ずと言ってよいほど配されるようになる。

アヤソフィアは集中方式による教会建築としては最大級のものに属する。これ以降、東ローマ帝国では、アヤソフィアに匹敵する建築物、あるいはこれをひとまわり縮小した規模のものさえも造られなかった(11世紀の皇帝ロマノス3世アルギュロスの時代にこれに匹敵する規模の聖堂建設が計画されたが、実現しなかった)。オスマン朝時代になってからは、ブルー・モスク(スルタンアフメト・モスク)のように明らかにアヤソフィアに影響を受けた様式のモスクが建造された。

今日、建築物の外観は漆喰で塗り込められ、四辺をオスマン時代に建設されたミナレットによって囲まれているが、イスタンブールの辿ってきた歴史の変遷を考えれば、この教会堂が遺っていること自体、ほとんど奇跡であると言って良い。すべては中世キリスト教徒のたゆまぬ修復とイスラム教徒のこの建築物に対する畏敬の念のたまものである。

博物館内部の装飾

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アヤソフィア内部北面
アーケードとティンパヌム

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アプス半ドームにある聖母子のモザイク画

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ティンパヌムのモザイク画ヨハネス・クリュソストモス

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南入口の「キリストと皇帝」のモザイク画

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アヤソフィア内部の「キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻」のモザイク画

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聖母子と12世紀の皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻のモザイク画

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「デイシス」のモザイク・イコン

アヤソフィア博物館の内装は、ほぼモスク時代のものを踏襲し、2階までの壁面は多色大理石と金地モザイクで、その上部は漆喰で飾られている。アーケードは大理石の象眼細工で覆われ、古代建築から剥ぎ取られた大理石円柱によって支えられているが、 柱頭部分は新規に製作されたアカンサスの葉の模様のある変形イオニア式で、ユスティニアヌスのモノグラムが刻まれている。つまり、この部分は創建当時のものである。

プロコピオスによると、創建当時、ドームには巨大な十字架が画かれ、アプスには図像が配されていたらしい。このモザイクは、円蓋の崩落や、726年から843年の聖像破壊運動によって破壊されたが、プロコピオスやその他の同時代の人びとの記録には、ドームの十字架以外についての記録がないため、そもそも創建当時、人物などのモザイクはなかったのではないかと考えられている。聖像破壊運動の後は、さまざまなモザイク画が作成され、今日その一部を見ることができる。

1453年にアヤソフィアはイスラム教のモスクとなったが、オスマン帝国はモザイクを破壊することはせず、漆喰で塗りつぶしていた。しかし、1847年から1849年のフォッサーティの改修作業の過程で壁面の調査も行われ、モザイクに感銘を受けたアブデュルメジト1世の命により、漆喰が剥がされ、本格的な調査が行われた。当時はまだアヤソフィアはモスクとして利用されていたため、この調査記録がまとめられた後、堂内壁面は再び漆喰が塗られた。

トルコ革命後、1931年にアメリカのトーマス・ウィットモア主宰のビザンティン研究所がモザイクの調査を行い、1935年には、トルコ共和国政府の手でアヤソフィアは無宗教の文化財として公開された。その後、ビザンティン研究所は1950年代までモザイクの調査と漆喰の除去を行った。

20世紀後半には歴史的建造物の保存に力が注がれるようになった。アヤソフィアの内部は各所に痛みが見られ、内部円柱の傾きやドームの歪みなどが発見されている。これらの主な原因は短期間で完成させた工事によるもので、レンガの間に盛られたモルタルがほぼレンガと同じくらい厚く、しかも充分な乾燥を待たずどんどん積み上げられたために長い間にクリープ現象が進んだものと考えられる。それでも大規模な崩壊が起きなかった事は、6世紀の設計が優れていた証左になる。1990年からはトルコと日本の国際共同学術調査が開始された。

モザイク画
大聖堂内部には、今日少数かつ断片的にではあるがキリスト教聖堂であったころのモザイク画が残っている。 モザイク画のクローズアップを見るには、トルコ人ファインアート写真家のアフメト・エルトゥウ(英語版)の写真がアヤソフィア北のギャラリーで常設展示されている。

『聖母子と大天使』(870年代?)
アプスに残るモザイク画。5 m近い聖母子の座像の両脇に大天使を配するが、北側の天使像はほとんど失われている。記録に残る銘文と、876年に総主教フォティオスが行った説教から、聖像破壊運動が収束した後に描かれたと考えられるが反論もある。フォティオスの説教がこの図像を指すものであれば、これは新たに画かれたことを暗に述べているが、中期ビザンティンの「新しい(Nea)」という概念は、聖像破壊運動以前の伝統への回の意味が強く、聖母子と大天使の図像は元の装飾を忠実に再現したものか、漆喰に塗り込められていたものを再びクリーニングしたのか、あるいは新たにデザインされたものかは不明である。
大セクレトンの聖人像(870年代)
セクレトンは、2階西南にある小部屋で、かつては総主教宮殿からの通路の一部であった。聖像破壊運動により、768年あるいは769年に総主教ニケタスによって壁画が剥ぎ取られたが、その後、モザイクによって再び装飾された。ゲルマニクスやニケフォロスといった、聖像破壊運動にあってイコンを擁護した総主教のほか、聖像破壊運動の後に総主教となったタラシオス、メトディオスの図像が断片的に残存している。
ティンパヌムの聖人像(877年頃)
ドームを支えるアーチの下にある、南北の半円形壁面に残る聖人像である。北側に小イグナティオス、メトディオス、グレゴリオス・タウマトゥルゴス、ヨハネス・クリュソストモス、イグナティオス・テオフォロス、キュリロス、(アレクサンドリアの)アタナシオスが画かれ、南側にニコメディアのアンシモス、大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ディオニュシオス・アレオパギテス、ニコラオス、アルメニアのグレゴリオスが画かれていたが、今日ではヨハネス・クリュソストモス、小イグナティオスの図像がほぼ完全なかたちで残り、メトディオスらの図像の一部が残る。
『キリストと皇帝』(10世紀初頭?)
ナルテクスから本堂への中央入り口上部にあるモザイク画。この中央入り口は皇帝の典礼用にのみ使われるもので、かつては別のモザイク画があった。今日見ることのできるモザイクは、キリストを取り囲むように大天使と聖母マリアの2つのメダイヨンが配置され、キリストに礼拝を行う皇帝が画かれている。これがいつ、誰が作成させたのか、皇帝が誰であるのかということについては銘文がなく、テオフィロス説、レオーン6世説など諸説あるが定かではない。
『聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世』(10世紀後半)
西南の玄関からナルテクスへの入り口上部にあるモザイク画。中央に立つ聖母子に、向かって左側のユスティニアヌスがアヤソフィアを、右側のコンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街をそれぞれ捧げている図が描かれている。作成時期や動機については不明である。
『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』(1042年から1055年頃)
南側2階廊に残る。モザイクの下部は失われているが、銘文から人物が特定できる。この図像は、もともとゾエが最初に結婚したロマノス3世によって寄進されたものだと考えられるが、ゾエが後にミカエル4世、コンスタンティノス9世と2度再婚しているため、夫である皇帝の顔や銘文は、恐らくその都度作り直された。今日でもその跡ははっきりとわかる。ゾエの顔とキリストの顔にも修正された跡があるが、なぜこの部分にまで修正を施さねばならなかったのかについては、諸説ある。コンスタンティノス9世は、マンガナのハギオス・ゲオルギオス聖堂建設やエルサレムの聖墳墓聖堂の修復など、莫大な国家予算を聖堂の装飾や建設に注ぎ込んだ。
『聖母子と皇帝ヨハネス2世コムネノス、皇后エイレーネー(イリニ)』(1122年から1134年頃)
12世紀に作成された、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画。12世紀に東ローマ帝国領内で作成されたモザイクは、今日ほとんど残っていないため、貴重である。図像の配置や銘文は、側にある『キリストと皇帝コンスタンティノス9世、皇后ゾエ』に影響を受けていることがわかる。すぐ横の柱側面には、彼の長男アレクシオスの図像もある。
『デイシス』(1260年頃)
元々は2階廊の壁面いっぱいに画かれたものであろうが、下部はほとんど失われている。それまでのモザイク画に比べてキリストの顔が立体的に描かれているのが特徴。そのほかにも、南窓からはいる光を効果的に利用するような工夫が成されているため、ビザンティン美術の最高傑作とされる。ミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国に奪われていたコンスタンティノープルを奪回したことを記念して作られたとする説が有力であるが、文献がないため詳細は不明である。
『エンリコ・ダンドロの墓碑』(1205年)
ラテン帝国の時代に造られたもので、デイシスと向かいあう位置の壁面近くにある。「狐」と呼ばれ第四次十字軍を巧みに操ったエンリコ・ダンドロの墓碑。これはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にも記されている。遺骨と遺品については1453年にオスマン帝国の皇帝メフメト2世によってヴェネツィア共和国に返還された。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

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