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金田天満宮

我が町内の金田天満宮でも会陽が行われていました。
当時は、小規模に行われていたようで、近隣の古老が知っているのみである。
平成18(2006)年現在、古いものでは、明治2(1869)年、新しいものでは、大正15(1926)年までの神木が確認されている。
下の写真は、金田天満宮のシンギ。


 「会陽」とは、修正会〔しゅしょうえ 又は しゅうしょうえ、しゅうせいえ〕という正月に行われる法会〔ほうえ〕の結願行事、つまり終了時に行う行事です。
 なお、仏閣に限らず、県内の神社においても、似たような行事が行われているのであわせて紹介していきたいと思います。
 次に「会陽」という行事の内容についてですが、もともと、寺の信徒に牛玉〔ごおう〕を授けることからはじまりました。その後、牛玉が、霊験あらたかということで多くの人が求めるようになっていき、やがては、牛玉で包んだシンギと呼ばれる木をはだかになって奪い合うという現在の形に変化していきました。
なお、服を脱ぎ、はだかになった理由としては、ケガの防止などがあります。

 「会陽」の語源については、「エエヨウ、エエヨウ」という掛け声からではないか(ただし、この説の信憑性は低い)など、諸説あります。
 ちなみに、丸谷氏の調査によると、江戸時代、寛政7(1795)年の文献「備前会養」(佐藤中陵著)には、
『備前岡山の東三里に西大寺と云寺あり。寺の後の山に樫の木に似たる木十六本ありと云。・・・西大寺の「会養」に逢ふ時は、其年、果して吉事ありりと云。尚此辺の人に聞て、其是非をしるべし。』
という記述があり、当時、「会養」が行われていたことを知ることができます。

会陽がもっとも盛んに行われたのは、明治の中頃ですが、現在では、負傷者が出ることの危険性や、趣旨を逸脱したけんか騒ぎを起こすことによる治安の悪化などを理由として、ほとんどが中止され、西大寺観音院を含め、数カ所が残っているだけです。

※佐藤 中陵〔さとう ちゅうりょう〕
 江戸時代の本草(漢方薬)学者。
「備前会養」は、寛政6(1794)年11月に、佐藤中陵が、備中松山藩に招かれ、当地の本草と物産調査のために松山(現在の高梁市)を訪れた際に執筆した。


金田天満宮は、寛文11(1671)年に完成した新田を備前藩が買上げ津田永忠が金岡新田と命名し、岡山・伊勢の宮の神官・一志平太夫に命じ、京都・北野天満宮より天神を勧請した。と言う、まだ若い神社ですが、その神社の秋祭り!
その秋祭りの為に本殿のしめ縄等を一新します。


明日は、町内全員でしめ縄作り!
朝8時集合で、日暮れまで!
日暮れまでに終わらなかったら、翌日もあります。
翌日は、私が米子行きなので、そうなったら家内が行く予定にしています。
とにかく、藁を編んだ事もないので、初体験です!
頑張らないと!

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