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2021年06月07日

イジメを撃退する念彼観音力 L 呪詛諸毒薬(しゅーそーしょーどくやく)

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しゅーそー しょーどくやく しょーよくがいしんしゃー ねんぴーかんのんりき げんじゃく おー ほんにん 

通常の解釈

呪詛諸々の毒薬に身を害せんと欲せられんもの
彼の観音の力を念ぜば還って本人に著(つ)きなん

あるいは呪詛、種々の毒薬などの邪悪な鬼法に身を害されようとする時でも、
念彼観音力、その害は鬼法を用いる人に返ります。 

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ

散々イジメられ、あなたはなにを思うでしょう?
最近、このブログのお蔭でイジメを退散できたと言う人がいれば幸甚の至りです。
自らをイジメる張本人、それを傍観し助けてもくれない、周りの人々、或は先生や、上司など。
憎しみは心の中に満ち溢れ、最初はただ一人への憎しみが、その周りの脇役からエキストラにまで広がり、何とかならないものか?この圧倒的な、暴力の差を埋めるには、彼らを呪うしかない。となってきます。

この節の解釈では、あなたが呪われ、(あなたをイジメている人は、すでにあなたを呪っている状態です。)しかし、それは相手方に返るという解釈になっています。
しかし、私の解釈では、あと二つあります。

第一に、あなたが相手を呪おうと思い、呪詛を行えば、それは結局あなたに帰ってきますよということです。それは観音様は許しませんよ、という事です。
第二に、呪いや憎しみの感情を捨て、観世音菩薩の名を念ずれば、相手と自分と、互いに発生しあっている毒は胡散し、発した本人に帰り静かに収まるということです。
呪いとは、憎しむこと、毛嫌いすること、全て含まれます。総じて呪詛です。
呼び名は程度の違いです。

呪い、呪詛は、以前私もやったことがあります。それで仏教を知ったのです。

ある呪いには、般若心経を使った呪いがありました。しかし、それがお蔭で私は般若心経を諳んじて写経が出来るようになりました。

観世音菩薩普門品を唱える呪いもありました。

仏教には、多くの呪詛、呪術的要素があり、面白いことに、それをマスターすればマスターするほど、仏教に詳しくなり、気が付けば仏教徒である自分を意識するのです。

10人を呪うより、自らを、真言、お経で清めた方が遙かに効率的だということに気付くのです。

よく、「人を呪えば穴二つ」などと言います。これは相手を、呪詛で亡き者にできる代わりに、あなたの墓穴も掘ることになりますよ、と言う意味です。

私の体験から言えば、「人を呪えば穴二つ」とは、つまり、二つの道筋が出来ますということです。
ひとつは、呪術者として成功する道であり、もう一つは仏教に帰依する道です。

呪詛に必要な、蝋燭やら、お香やら、花やら、そういうものは全て仏教でも必要なものです。お釈迦さまは呪術を禁じました。それでも、やると言って出ていくものには、実際にやらせてみて、気が付けばまたお釈迦様の所に帰ってくる方便を使うしかないじゃないですか? 仏教にコントロールされた呪詛が必要です。

このことを、身をもって知り、観世音菩薩普門品の中にこの一節を見つけた時、未だその頃はせっせと、呪詛をしていましたので、水戸黄門の印籠、東山の金さんの入れ墨云々、悪徳呪術者、声聞は、ただひれ伏すしかありませんでした。こんなことまでこのお経は語っているのか?と。

では、仮に呪術者になり、思い通りに人を呪ったとして、幸せなのでしょうか?もしそれが出来たら、そういう神通力を持ったとしたら、あなたは神になれますか?絶対的な正義の味方とはなんでしょうか?絶対的神通力者、絶対的権力者とは、つまり、その力を正しく使えるものの筈です。そんな人は、弱い人間が、自らに汚い言葉を吐いたとして、それを恨み、ねちねちと、自らの力を誇示するようなことはしません。

このことは、次回でもっと深めて話しますが、我々は凡人で、仏教に帰依し、弱者で、観世音菩薩の名前を唱え、常にその神通力に救われた方が、幸せだという事です。

呪いは、何も解決しない。これはほぼ間違いないことです。

また、日本では、実際に呪いを行えば、そこには仏教が立ちはだかります。

まあ、黒魔術というのもあります。「エコエコアザラク」とか「魔太郎」とかご存知ですか?
キリスト教にも同じような教えがある筈です。
でも同じキリスト教を信じている者同士で殺し合い、肌の色で差別し、大して肌の色が違わない民族同士でも差別しているのですから、不思議です。

「汝の敵を愛せよ」 『新約聖書』マタイによる福音書第五章・ルカによる福音書第六章

あなたをイジメルという行為は、あなたを呪っていることと同じことだという事を覚えていてください。
あなたを無視するという行為は、あなたを呪っていることと同じことだという事を覚えていてください。
あなたを毛嫌いするという行為は、あなたを呪っていることと同じことだという事を覚えていてください。

呪いとは、真夜中に寺社の参道近くの大木に、藁人形を五寸釘で打ち付けるだけではありません。
毎日、みんながやっていることです。

憎しみ、嫌い、軽蔑し、手軽に毎日やっているじゃありませんか?

念彼観音力、こうした毒はたちどころに消散するのです。

声聞バージョン

呪憎嫌軽蔑 自他千億毒 念彼観音力 投地向世尊
じゅーぞう けん けいべつ  じーたーせんおくどく
ねんぴーかんのんりき  とうちこうせーそん

呪い、嫌い、憎み、軽蔑する感情が渦巻き、人は千億の毒を吐きます。
そんな時にかの観音様の名を念ずれば、皆、世尊(お釈迦様)の前にひれ伏し、
毒は忽ち消えて無くなります。

合掌


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2021年06月02日

イジメを撃退する念彼観音力 K 或囚禁枷鎖(わくしゅーきんかーさー)

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わくしゅう きんかーさー しゅうそくひーちゅうかい ねんぴーかんのんりき しゃくねん とくげーだつ 

通常の解釈

あるいは枷鎖(かさ)に囚禁せられて、手足に杻械(ちゅうかい)を被(こうむ)らんに
かの観音の力を念ずれば、釈然として解脱することを得ん

あるいは首を鎖でつながれ、手足に枷(かせ)を嵌められようとも、念彼観音力、戒めは解けて、放たれます。

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ

さて今回はこんなことを考えてみましょう。

もしあなたをいじめる人々が、今日いきなり、「もうやめた、 いじめは今日で終わり」 と言い出したとしましょう。もう誰もあなたをいじめる人はいません。あなたは自由の身です。でもあなたは本当に自由なのですか?

次にあなたが切れて、「もうどうとでもなれ、僕をいじめるならいくらでもいじめろ」などと言っていじめっ子に飛びかかり、やけくそに相手を殴り倒したらどうなるでしょう。運良く相手に会心の一撃を与えたとして、皆があなたを見直したとして、あなたは自由ですか?

更に、あなたはもうどうしようもなくなって、自らを死なせることを考えたとします。 うまく死ねたとしてあなたは自由ですか?

そもそも自由とは何なのか、自由などという乗り物があるのか、自由などという船があるのか、自由という花園があるのか、自由という極楽があるのか、はたまた自由という地獄があるのか?

人はその程度のこそあれ、ある程度、自由を制限されています。 手足を縛られたり首に枷を嵌められたり、そうして死んでいった人もいるし、あるいは今も刑務所や紛争地域ではこんなことが当たり前に行われているのです。(カンボジアの虐殺の本を読んで見てください)

前の節の王様が良い例ですが、人は歯を磨くより簡単に、人を傷つけ、人を裁き、そしてその人の時間と自由を奪うことができます。

そして、自ら、自分の自由を奪うことも出来るのです。それが自殺です。自由になるために死ぬのではありません。

最悪の選択を行う前に一体自分は何を必要とし、何を目指して、仮にこの苦難から逃れた時に自由に生きていけるのだろうかと考えてみるのです。

それはこの最悪の状態になる前の状況に戻りたいのか?
あるいはこのことでいろいろなことを学びさとり、今まで考えてもいなかったような人生を開いていくのか?

人にいじめられ四つん這いになり、這いつくばって許しを乞うている時。

上司にいじめられ、妻や子の前では、そんな姿を見せたくもなく、自宅のそばのベンチに座り涙をこらえている時。

毎日のように耐えられないようなことをされ、友人や他の人間からは、「あんたがそういう態度をとるから隙を見せるんだ」などと言われ、日曜日の朝、カーテンを締め切った部屋のベッドの中で、ただ死のことだけを考えているあなた。

あなたを縛るものは、どこへ行ってもあなたを縛るのです。あなたを縛っているのはあなた自身です。
この不自由な日々は、仮に克服したとしても、決してあなたを自由にしません。

あなたの外側には自由はありません。

あなたの自由はあなたの内側にあるのです。

そしてそれをあなたは知りません。

念彼観音力

あなたがそれを唱える時、あなたの中にある仏様が目を覚まし、あなたに本当の自由を教えてくれるのです。

ドアを開けて、外に出ても、飛行機に乗って空を飛んでも、新しい仲間が出来て、その人たちなら楽しく話すことが出来ても、それを自由と勘違いしてはいけません。

これは決してあなたに、内向きの人間になれと言っているのではありません。

そもそも内向きになることを、否定することが間違っているんです。

私たちの心の中には大いなる宇宙があります。

あなたが真言を唱えたり、仏様のお名前を呼ぶだけで、その宇宙はあなたを自由にしてくるのです。しかもあその宇宙は、あなたをイジメル人が意識せず内面に持っている宇宙と繋がっています。

1年前、私は、常にこのことを考えていました。私がもし捕まり縛られ、どこかに拘束されたらもう死ぬしかないと思い、実際、既にもう気が狂っていました。ところが、意外に死ねないものなのです。

そんな時に陀羅尼を覚えました。不動明王の真言を唱えました。何かが変わりました。それらの御真言を唱えることで、私の内面では何か変化がありました。そこに私が求めている自由があることを悟ったのです。

私は嘘つきですがこれは本当の話です

そしてそれから狂ったように、長い長い孔雀明王の陀羅尼を覚え、般若心経を暗記し、尊勝仏頂陀羅尼を暗唱し、観世音菩薩普門品偈を必死に読み、そこに、この、或囚禁枷鎖の節を見つけました。最後に聖天様におすがりしました。

お分かりになりましたでしょうか 自由は自分の心の中にあり、 そこには大日如来を中心に広い広い宇宙が広がり、私たちは、この世に、自らの内面よりも広い世界の無いことを知るのです。

それを発見して、その宇宙とつながろうとすることが、自由ということです。釈然得解脱です。

あなたは今不幸に縛られています。どうしようもない不幸です。

やけくそになって相手に取り掛かるか、彼らが突然それをやめるか、あるいはあなたが耐えられなくなってあなた自身を亡き者にしてしまうか?

しかし、観音様は

念彼観音力

あなたの心の中の観音様のお名前を唱え、あなたを縛るあなた自身を、あなたの内面の広大な宇宙に解き放つことが、釈然得解脱なのです。

新興宗教みたいな物言いですが、少なくともあなたは、私が新興宗教の教祖ではなく、あなたよりもっと最悪の状態にある人間であることを知っている筈です。その実感を書いたにすぎません。

声聞バージョン

或心禁枷鎖 求不得自由 念彼観音力 釈然得解脱
わくしんきんかーさー  ぐーふーとくじゆう
ねんぴーかんのんりき  しゃくねんとくげーだつ

人に愚弄され、イジメられ、さげずまれ、自らの心を縛り付け、自由を求めても得られない時でも、
ねんぴーかんのんりきを唱える事によって、あなたは、自らの内面の宇宙に解き放たれることでしょう。

合掌


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2021年05月27日

イジメを撃退する念彼観音力 J 或遭王難苦(わくそーおうなんくー)その2

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前回の続き

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ

今回は或遭王難苦の第2回目です。
なぜ2回にしたかと言うと、この私にとって、重要な節であるということもありますが、このことを二つの面で考えてみたいからです。

もう少し後の節になると、お釈迦様はこう言われます

「観世音菩薩は真観と、清浄観、広大智慧観、悲観及び慈観において全きものです。」

広大智慧観、これこそが偏った正義にとらわれない、中道において物を観る能力とされます。中道は政治でよく使われる言葉ですが、仏教用語なのです。

この節は、王様の悪政による難を受け、処刑されそうになるが、念彼観音力で切り抜けた!と読める節ですが、ここでは逆の観方をしてみましょう。

それはつまり王様になって観るのです。 王様、私にとっては王様、あなたにとっては主体的にあなたをいじめる人を指します。

王様は、何の苦もなく王様ですか?

宮殿に住み、いい車に乗り、誰からも慕われ、最高の医療が受けられ、好きな暮らしを出来そうです。

あなたをイジメる人も、人を避けて歩く必要はなく、学校を堂々と闊歩し、冗談を言えば皆、笑ってくれます。恋人も、もういるのかも知れません。

私や、あなたとは、正反対の、対極の暮らしっぷりです。ところが、よく考えてみると、王様は苦を背負って生きているとしか思えません。

今までにどれだけの革命が起き、王様が処刑されてきたでしょうか?或は、王様とは呼ばれないまでも、王様のように振る舞ってきた者たちです。

これを独裁者と呼びます。独裁者は、恐怖で民衆を押さえつけ、挙句の果てに、その民衆の手によって処刑されます。

そして、独裁者だけではなく、ただ王様だと言うだけで、権力者だと言うだけで、処刑された人もいます。王様であるが故に、民衆の苦しみを招く象徴として処刑されるのです。

我らがイジっ子には、このようなことはありませんが、しかし、王様も彼らも、共通して「いつか、そこから転げ落ちる」「いつか誰かに裏切られる」という不安を持って生きています。

これこそが、王難です。王であるが故の苦悩なのです。そして、王の座を得たからには、或は、王の子に生まれ、王を継いだからには、一生この苦悩と共に生きていかなくてはなりません。

選択肢は、あまりありません。戦略的に人気を得て民衆のご機嫌取りをするか、逆に恐怖で民衆を押さえつけるしかありません。(寝技が得意な国もあります。)

王様になったと考えたら、結局何もいいことはありません。民衆ほど彼らにとって、不安で恐ろしいものはない。また、逆にあまり人気取りで甘い顔をすると、所謂「嘗められる」ということになります。

ほどほどの王様と民衆の関係、日本は、何故か天皇制において、これを実践してきました。だから、天皇陛下は世界で最も歴史の古い王家なのです。

天皇は、神道を司り、仏教を敬い、仏法僧に帰依し、そして自ら直接政治をとることをせず、象徴として、質素に毎日勤められ、敗戦にあっても、滅びることなく、今日まで続いてきました。王難とは無縁のお方でしょう。嫌なところを探しても探し出せない。

しかし、このITだグローバリゼーションなどと言う社会にあって、王制とは古い体制であり、ただ単に戦略的に維持できるものではない。これを維持するのは並大抵ではないのです。一つでもその綻びを見せれば、転がるのは早いのです。先にそれが起こったか、後で起こったかの違いだけです。

王難、それはつまり、王様において滅びの苦悩を指していると私は思います。ただ、そんな現実の指摘も、その国においては不敬罪になりますので気をつけましょう。

かつて、切れ味の鋭い刀で、敵を平らげ、国を統一した王様。しかし、その刀も今、使い道がなく、刃がボロボロと錆びています。

これ以上書くと、私は国際的な情報機関に監視されているので具体的には書きませんが、大事なことは広大智慧観で見ることです。

いじめっ子は、あなたをイジメて幸せなわけではない。何かの不安と常に戦っているのです。そしてあなたが念彼観音力を唱えれば、その苦しみの姿を露にすることでしょう。その拳は、その瞳の奥は、傷だらけなのです。

私たちは、怒りや、喜び、或は激しい愛情、憎しみ、嫉妬、それらに囚われず、仏教を信じ、広大智慧観を持って、イジメを克服していきましょう。

声聞バージョン

或生王難苦 煩悩迄寿終 念彼観音力 広大智慧観
わくしょーおうなんくー  ぼんのーきつじゅしゅう
ねんぴーかんのんりき  こうだいちーえーがん

王様に生まれることの苦悩は、死ぬまで付きまといます。
が、ねんぴーかんのんりきを唱える事によって、偏った正義にとらわれない、
中道において物を観る能力を、王も民も共有し、共存することが出来るでしょう。
寝技で得た安定は永く持ちません。

合掌


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タグ:王様 独裁者

2021年05月24日

イジメを撃退する念彼観音力 J 或遭王難苦(わくそーおうなんくー)その1

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わくそー おうなんくー りんぎょうよく じゅーしゅー ねんぴーかんのんりき とうじん だんだんえー

通常の解釈


或は王難の苦に遭(あ)うて、刑(つみ)せらるるに臨んで、寿(いのち)終わらんと欲っせんに、
彼の観音の力を念ぜば、剣刀(つるぎ)尋(つ)いで段々に壊(お)れなん。

あるいは王の悪政に苦しみ、刑場に引かれて命を取られようとする時でも、念彼観音力、刑吏の刀は粉々に砕けます。

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ

この、或遭王難苦の段を初めて読んで、 私はびっくりしました。つまり、これこそが今、私が受けているイジメそのものと合致しているからです。

このように観世音菩薩普門品偈というお経は、 その人が遭っている災難にちょうどよくマッチしていたり、あるいは少し想像力を働かせて、解釈の幅を広げ、あーなるほどそういうことなのかと、結局は最後には仏教の教えに即して納得する、そのようにできていると思います。これがいわゆる観世音菩薩様の方便なのです。

私は 王様の悪政に苦しんだわけではありませんが、何らかの形で王様に不敬な事をしてしまい、それがためにその国の国民全てを敵に回し、30年間、自らの人生はすべて王様の作った虚構であると言うことを思い知らせるために、今日まで生かされてきたというわけです。

ですから、私がしてきた仕事、私の家内、その家内の不治の病、その後一緒になった女性との間にできた子供二人、あるいはまた、別の機会に知り合った女性のガンとそれによる死、そしてまたついこの前まで一緒にいた女性との間にでき、出産にまで立ち会った子供、すべては虚構で、この私を徹底的に痛めつけ、首も回らないほどの苦しみを与えようと言う、そういう国家プロジェクト、国家によるイジメだったわけです。

日本人以外で、私に関わったその国の人たちは、 いわば皆、国家公務員であり、その国からお金をもらって、彼らに割り当てられた役を演じてきたわけです。 その間、一時(ひととき)も私に対しての怒りを忘れず、本日、溜飲を下げることになったわけです。

おっと、ごめんなさい。これは極私的、この私へのいじめの問題ではありまして、その話をするのに長くなりましたが、この段は重要なことですので、2回に分けて、お話をしようと思います。つまり、イジメる側の正当性についてです。
私のようなイジメられ方をしたという者がいたということを覚えていただき、 皆様が今受けているイジメと比較をし、少しでも気を楽にしていただきたいと思うところです。

王様、王様はその国を支配する絶対的な存在で、日本よりもむしろ海外に多く王様は存在し、その「人」の性格次第で、その国の民の人生は、運命は左右されると言えます。(過去において、現在は?...)

ちょっとした過ち、あるいは謀反の企み、あるいは王様側の気まぐれ、そんなことで、いったい何人の人が、上記のように刑場に引かれて、命を落としたでしょうか?

この私もまた今、長い時間をかけて刑場に引かれているようなものです。

では実際にあなたをイジメている人はどうでしょうか?多分、このような王様のような立場の人がいるかもしれません。特に社会人のイジメにおいてです。

どのような偶然か、強大な権力を持ち、誰もその人のやること、口出しをすることができない、 王様みたいな人が、あなたを気に食わないと思い、イジメているのかもしれません。

それは極めて日常的に、 当たり前のように行われるイジメで、しかも人間同士では何ら解決することができず、王様本人が力を持っていることは明らかで、王様本人もその力を自覚しているという状況です。だから王様なのです。

そこで、今回は念彼観音力を唱える前に、 延命十句観音経をご紹介します。

何故なら、その王難というものは、他の難に比べ、あまりに急で、あまりに一人の人間による要素が強いからです。

そして次回で、王様という存在についてもう一度お考え、念彼観音力を唱え、この難から救われることを考えましょう。

延命十句観音経、これもまた観音様のお経の一つです。「観音経」は大変長いお経で、その最後にある偈が、一緒に勉強している観世音菩薩普門品偈であるわけですが、これも結構長いので、(今未だ、半分も終わっていません。)これをさらに短くしたお経があります。

このお経は、妙法蓮華経のようにインドから中国に渡り日本へ来たお経と違い、中国で書かれた、 偽経というものですが、これは前回も申し上げました通り、インドから来たお経だけが正しいというものではなく、ただそのように呼んでいるだけで、(呼び名を変えればいいと思うのですが、)実際にはこの観音様に対する長年の信仰という巨大なバックグラウンドがあってのお経でございますので、このことがこのお経の霊験を弱めることにはなりません。


観世音南無仏 与仏有因 与仏有縁

仏法僧縁 常楽我浄 

朝念観世音 暮念観世音

念念従心起 念念不離心

かんぜおん なむぶつ よぶつういん よぶつうえん ぶっぽう そうえん 
じょうらくがじょう ちょうねん かんぜおん ぼねん かんぜおん ねんねん 
じゅうしんき ねんねん ふりしん


ある人が、昔、中国で罪を得て獄中にあり、明日は死刑になるというその夜、 一心に「観音経」を唱えていたところ、夢の中に僧が現れ、

「観音経を唱えても、死を免れることはできません 延命十句観音経を朝までに千遍称えなさい」と教えられました。

それで彼は朝までに900遍を唱えたわけですが、残る100遍は 唱え切れず、刑場に引かれる車の上でさらに100遍、あまり早く着いては、100遍を唱えることはできないので、車を引く刑吏に慈悲を乞い、ゆっくりと刑場に向かってもらったのです。

なんとか百遍唱えた後、 今、その首を切られようとする時、何故かその刀は3段に折れ、刑を執行することができなくなってしまいます。

不思議に思った役人たちは、死刑囚全員に延命十句観音経を唱えさせて、その者たちに刀を当てたところ、またその刀が三段に折れてしまったと 。

これを聞いた国王は、あまりの霊験に驚き、 この人を釈放しました。 そしてこの人が自分の家に帰ると、かねてより信仰していた観音様の像に3箇所の刀傷がありました。

観音様が身代わりになって刑吏の刀を受けてくださったというわけです。

延命十句観音経は非常に短い お経 ですので、1000回唱えることができたのだと思います。(今測ってみたら1遍/15秒でした。)多分この人は昔から習慣的に毎日「観音教」を唱えていたということもまた良かったのかと思いますが、この非常の時に会って、延命十句観音経の短さが必要だったのでしょう。

罪を持ったものでも、 或は何の罪もないのに捕まってしまった者でも、この観音様の霊験に例外はないと言います。 大事なのは、ただ一心にこのお経を唱えることです。

この話の中で、もう一つ気になることがあります。それはここに出てくる刑吏、 あるいは役人たちの慈悲の心です。ゆっくりと刑場に向かってくれるか?というお願いを聞いてくれたこと。そして役人が他の死刑囚でも同じことを試してみたこと。

この死刑囚たちは皆、 実際には、無実で王難に遭い、周りの人々も本心では、死刑が妥当ではないと思っていたのかもしれません。 なんにせよ観音様のお力で、この経理や役人にも慈悲の心が働いたのでしょう。まさに前回の、咸即起慈心です。

そしてそもそも罪を得たと、 有罪であると、死に値すると判断したのは人間です。その人間は過ちも犯す。 その人間はその日の気分でそれを決めたのかもしれません。一人の人間の命と時間を奪うことは、人間には本来出来ることではありません。

イジメでも同じことです。あなたをいじめる人が王様だとして、 あなたが悪い人間だ、あなたを罰するべきだ、あなたの人生を奪うべきだ、 あなたの未来を奪うべきだ、そんなことを決断する権利はどこにもありません。それができるのは、仏教徒においては、仏様だけです

この物語の中には、その深遠な観音様の教えの妙智力が感じられます。

この霊験は、王様の側に立って考えてこそ、理解が出来るものなのだと思うので、次回そこを考えてみます。

合掌

声聞バージョン

今回は、長くなりましたので、次回に掲載します。



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タグ:王難

2021年05月20日

イジメを撃退する念彼観音力 I 或値怨賊繞(わくちーおんぞくにょう)

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わくちー おんぞくにょう かくしゅうとう かーがい ねんぴーかんのんりき げんそくきーじーしん

通常の解釈

あるいは怨賊の繞(かこ)んで、各々刀を執って、害を加うるにあわんに
彼の観音の力を念ぜば、ことごとくすなわち慈心を起こさん。

あるいは怨賊に包囲され、正に刀で斬り付けられようとする時、念彼観音力、敵でさえも直ちに慈しみの心に目覚めて、闘争は治ります。

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ


さて今回は、本編に入る前に今までのおさらいをしてみましょう。
まず最初に、火山の火口にいて、誰かに突き落とされ、念彼観音力と唱えたらその火山は、普通の涼しげな緑地となってしまいました。おそらく優婆塞優婆夷の皆さんも、教室に入った途端、教室で燃え盛るあなたへのいじめの情念は、微塵も見当たらず、誰もあなたのことに関心を持たず、 あなたは静かな1日を過ごしたかと思います。

次に、荒れた海の中、船に乗り、どこへ進んでいいか分からず、龍や鬼に出会ったり、毒魚も現れ、途方に暮れましたが、念彼観音力と唱えれば、船は静かな浜に打ち上げられ、空には燦々と太陽が光明を放ち、 しかもその浜は、あなたのよく知っている浜でした。あなたには観世音菩薩様という心の拠り所があり、もうどのように生きるか、どこへ向かうか迷う必要はありません。

そして今度は須弥山の、高い高い崖の上にいて、あなたをかねてから妬ましく思っているいじめっ子に突き落とされ、念彼観音力と唱えたら、須弥山を回りながら輝く太陽の様に、あなたは宙に浮いて助かります。 そしてあなたも、そしてあなたを落とした、いじめっ子もどちらも救われるのです。

その須弥山のそばにある金剛山、そこから大量の石を投げつけられ、それは光る隕石となって矢のようにあなたに向かってきます。ところが念彼観音力を唱えたら、その石は大気との摩擦で溶けて、小さくなり、あなたの手元にある時にはもうすでに石ころです。そしてあなたが酷い目に遭うのを見て、黙っている周りの人々は、地面に当たって跳ね返った石ころで、思いがけず痛い思いをします。

全然話は変わりますが、 人間の歴史は、報復の連鎖です。昔の中国では 滅族(めつぞく)もしくは三族、九族皆殺しと言って、例えば誰かがその時の権力者に謀反を起こしたとすれば、その謀反を起こした者のみならず、その人の一族、 親、兄弟、孫、 いとこ、そのまた”はとこ”、全てが殺されました。なぜか ?そうしておかなければ、いつ権力者に、その火の粉が降りかかるか、つまりその殺した人の孫がある日現れて、 復讐に来るか分かりません。 そこで、その人の家を根絶やしにし、未来の憂いを取り除くのです。

またまた話は変わりますが、 昔平家と源氏の合戦で、源氏が負け、源氏の人々は悉く平家に処刑をされ、最後に13歳の、後の鎌倉幕府を開く源頼朝が残りました。平清盛はこの源頼朝殺そうとしたところ、平清盛の継母である 池禅尼が彼を可哀想に思い、平清盛に、源頼朝は殺さないように進言しました。渋渋、平清盛は源頼朝を殺さず、 伊豆に流刑としたのです。

これが仇となり、 源頼朝は、大人になってから東国の武士をまとめ、その時にはもう亡くなっていました平清盛の時に隆盛を極めた平家を滅ぼしてしまったのです。

しかも、この経験から源頼朝は、未来の憂いを断つ、ということを覚え、 平家を滅ぼすのに大活躍をした筈の、異母弟である源義経を殺してしまいます。

こうなると、世の中は、慈悲心そのものが、逆に自らを害するという考えが当たり前のようになり、そこから始まる武士の時代はまさに、こういうことが当たり前に行われる世の中になるのです。 そして後々徳川家康も、この源頼朝のしたことを参考にして、主君であった豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼を大阪の陣で亡き者にします。

このような時代を通して、今私たちが勉強しているこの観世音菩薩普門品偈は、源平合戦の前の時代から妙法蓮華経の中で特に信仰され、その時から訴えられてきたのがこの観世音菩薩の慈悲心でございます。

そう考えればこの内容がいかにこの時代において、リアルな内容なのか分かるかと思います。

そう考えれば今あなたをいじめようとしている者たち、精々足で小突いたり、筆箱を隠したり、靴箱にカエルを投げ入れたり(そんな人いますか?)、トイレで大をしているときに、上から棒で突いたり、かの平清盛や源頼朝と比べて、なんとそのスケールの小さいことでしょう。

今私たちが唱えるこの念彼観音力は、今日、昨日作られたものではなく、1500年以上昔からインドで作られ、それが中国に渡り、聖徳太子の時代に仏教と共に日本に来て、そうしてこの日本を支えてきたお経なのです。

ですから、 この念彼観音力は、本日まで、何億、何兆、何那由多の人々が唱えてきたお経です。これは元々、 お経にあった功徳に加え、それを唱えて来た人の無量の念が込められてるとも言えます。あるいはこの源頼朝も、 13歳の時に、親や兄弟と共に死刑にされそうになった時に、 この念彼観音力を唱えたかもしれません。

また平清盛は、 妙法蓮華経を熱心に「平家納経」していたぐらいですから、人に説得されたのみならず、この普門品偈の一説を思い出して源頼朝を見逃したのかもしれません。

どうでしょうか?今回はいじめっ子の話をあまり出さず、現代の話はむしろ出さず、振り返ってみていかにこの普門品偈が昔から唱えられ、この節での内容が如何にリアルな現実であったかを説明したくて、この話をさせていただきました。 それで念彼観音力が突拍子もないフィクションではないことを分かって頂ければ、幸いです。

合掌


声聞バージョン

苛虐衆謀略 喜楽小悪事 念彼観音力 可逆得源平
かーぎゃくしゅうぼうりゃく きーらくしょうあくじー 
ねんぴーかんのんりき かーぎゃくとくげんぺい

いじめっ子が謀を巡らし、その小さな悪事をあなたに働き楽しむとも
ねんぴーかんのんりき 彼らは、源平の故事を知り、その悪事を辞めるでしょう。

合掌


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2021年05月17日

イジメを撃退する念彼観音力 H 或被悪人逐(わくひーあくにんちく)

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わくひー あくにんちく だーらく こんごうせん ねんぴーかんのんりき ふのう そんいちもう

通常の解釈

或いは悪人に逐われて、金剛山より堕落せんに
彼の観音の力を念ぜば一毛も損ずること能わじ

あるいは悪人に追われて、金剛山の巨石を投げ落とされようとも 念彼観音力、一本の毛髪さえ傷つくことはありません。

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ


毎日うっとうしい雨の日が続きます。

前回は須弥山(しゅみせん)の崖から人に突き落とされ、念彼観音力で宙に浮いてしまいました。

今回はその須弥山の周りにある高い山、金剛山(こんごうせん)、その金剛山の上からたくさんの巨石を投げ落と
され絶体絶命のピンチです。

いずれ、仏教のコーナーで説明しますがこれらの山は古代インドの宇宙観の中にあり、真ん中の須弥山、その
周りに今回の金剛山があるわけです。

つまりこれは宇宙からの話なのです。

そんな高いところから落とされた石は、もはや隕石のレベルです。

たくさんの隕石は宇宙から地球に向かって投げられ、恐ろしい勢いであなたに向かってきます。

ところが実際に、あなたの所に届いた時には手のひらにのっかるぐらいの小さな石になってしまいます。

そもそも学校でいじめを受け、会社でいじめを受け 、いじめそのものから受ける苦痛もそうですが、自分をい
じめていない他の人も含めた人の視線、そしてそれによって崩れる自らの自尊心、これが何より苦痛なのでは
ないでしょうか?

それはあたかも、あなたに向かって落ちてくる、たくさんの隕石のようです。

ただ、あなたは、もうすでにいじめられており、散々自尊心を傷つけられており、実はもう何も失うものはあ
りません。

あなた以外の人間は、逆に一体自分がいつか自分がこんな目にあうのではないかとびくびくしているのです。

それはそれは小さな自尊心を失いたくないという思いにより、あなたを見て、ああはなりたくないと自らに言
い聞かせているのです

ですから、いじめっ子にあいつを無視しろ、シカトしろ、村八分にしろ、と言われたら彼らは、粛々と応じる
しかありません。自尊心を守るためです。

しかしそのような自尊心は、生きていくために必要な自尊心ではありません

そんな自尊心であれば、あなたはもうとっくにそれを破壊され、今まさに 何も残っていない状態です。

でも、未だあなたは生きています。

今まさにあなたを攻撃せんと、たくさんの隕石が、あなたにぶつかろうとしています。

そこで念彼観音力。ねんぴーかんのんりき。ねんぴーかんのんりき
南無観世音菩薩 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩

隕石はあなたの目の前で小さくなって石ころになり、その石ころがはね、いじめっ子の言うことを聞いている
小さな自尊心を守る人々に跳ね返ってあたります 。

そうして、あなたはもう髪一本さえ傷つくことはありません。

もう失う物のないあなたは、何も失うものはありません。

そして、僅かな損害を恐れ、いじめっ子に加担する者たちは、それを失うのです。

いじめは、もちろんいじめっ子そのものの罪業でありますが、それに協力しした者たちの罪業でもあるので
す。もし、いじめっ子の行為で、自殺者がでたら、彼は言うはずです。

「いじめていたのは、俺一人じゃねーよ」

声聞バージョン

墜落向大隕 衆守僅矜持 念彼観音力 変溶即小岩
ついらくこうたいいん しゅうしゅきんきょうじ 
ねんぴーかんのんりき へんよーそくしょうがん

例えあなたに大きな隕石が迫り、周りの人は自らの僅かな自尊心を
守るため、誰も助けてくれなかったとしても、ねんぴーかんのんりき、
それは、あなたの手前で小さな岩になり、
そもそも、あなたは何も失わないでしょう。

合掌


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2021年05月11日

イジメを撃退する念彼観音力 G 或在須弥峰(わくざいしゅーみぶー)

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わくざい しゅーみーぶー いーにん しょーすいだー ねんぴーかんのんりき にょーにち こうくうじゅう

通常の解釈

あるいは須弥の峰にあって、人に推し落とされんに、
彼の観音の力を念ぜば 、日の如くにして虚空に住せん。

あるいは須弥山の峰の断崖から突き落とされようとも、念彼観音力、身は太陽のように空中に浮かびます。

参考文献のリンク

優婆塞優婆夷(いじめられっ子)のあなたへ

ゴールデンウイーク明けは如何でしたか?
私は、南の島から露骨なイジメを受け、くたくたです。

さて、今回は、須弥山の山の頂上にいて、後ろから人に推し落とされてしまうのです。
全く生きた心地がしませんね。

ところで、須弥山は、ただの山ではありません。この山は仏教、仏教のみならずヒンドゥー教でも同じように世界の中心とされる山なのです。これが今回のポイントになります。普通の山や、崖や、ビルの屋上や、ジャングルジムから落とされるのとはわけが違うのです。

突然ですが、一体いじめっ子は、何故あなたをいじめるのでしょうか?その本当の動機はなんでしょうか?
そこには一つ、嫉妬がありませんか?あなたはすっかりイジメられてしょげているので、思いつきませんが、そうやって、目を付けられるにはそれなりに、彼が(彼女が)憎しみを感じる、あなたの持つ優性があったのではありますまいか? 勿論、そうでない理由もありますが、最初の動機は案外そんな嫉妬、目障りになるには、あなたの持つオーラがそれを生じさせていたのかもしれません。

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この写真を見て何を感じますか?
あなたは、木に登って何か巻物を持っている人です。そしてそれを奪おうと、下にいる人が弓矢で彼を射ようとしています。私は以前に、これと同じ絵を、ある占い師に見せられ、これがお前の運命だと言われました。つまり、あなたは、あなたを射ようとしている人が持っていない巻物を持っている。だから、狙われてる。

そう、動機は実はたいしたことではない、しかし、それでいじめっ子の目についてしまった。そこで、いじめっ子は、あなたをイジメルる正当な理由と、自分の力がどれだけあなたの人生を翻弄できるかを試してみることにした。そして、その後は、ただただ、イジメを楽しむ、快楽、力を振るう快楽、を如何に長く味わい、またそれでいて周りから見て正当であるという状況を作っていく。

あなたが高い須弥山の上にいて、それをいじめっ子の彼は、後ろから突き落とすのです。

俺はいじめっ子だ。俺はお前の未来をいくらでも変えられる。俺は権力者だ。イジメられるか、イジメられないかは俺次第だ。そう言ってあなたを突き落とすのです。

そこで念彼観音力。ねんぴーかんのんりき。ねんぴーかんのんりき
南無観世音菩薩 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩

須弥山の神力と観世音菩薩の神通力が、あなたを宙に浮かばせ、向こうには須弥山
を中心に回る日天が、赤く輝いている。
あなたの未来を強引に変えようとするものは、自らの未来への深刻な因果を今作っているのである。あなたの未来を変えるという事は、それを変えようとする者の未来も変えるということです。
ですから、仏様はあなたを、虚空に浮かばせることによって、両者を救おうとしているのです。

セクハラもまた近いものがあります。あなたが魅力的だから、セクハラを受け、周りは、あんな目立つカッコしてるからよ、化粧が濃いからよ、などと陰口をたたく。あなたの持っている魅力が、あなたを苦しめているのです。

自分の宝が、自分を苦しめる。そう考えて、自分をイジメる相手をもう一度考えてみてください。

さて、一体、次回は何をされるのでしょう? 

恐ろしいですが、念彼観音力で乗り切りましょう。

声聞バージョン

具足世瓔珞 為人射偸盗 念彼観音力 矢羽悉曲折
ぐーそくせーよーらく いーにんしゃちゅうとう  
ねんぴーかんのんりき やーうーしつきょくせつ

大いなる未来への宝を持つあなたを、弓で射て奪おうとするものがあるなら、
ねんぴーかんのんりき 矢羽根は悉く、曲がってしまうでしょう。

合掌


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2021年05月06日

イジメを撃退する念彼観音力 F 或漂流巨海(わくひょうりゅう こかい)

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読み方

わくひょうるーこうかい りゅうぎょしょーきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ

通常の解釈

或は巨海に漂流して龍、魚、諸鬼の難あらざらんに
彼の観音の力を念ぜば、波浪も没すること能わじ。

或は大海に漂流して龍、怪魚などの鬼類に襲われようとも念彼観音力、波浪は静まり、船が沈むことはありません。

参考文献のリンク

いじめられっ子のあなたへ

恐らく、学校は本日ゴールデンウイークはあけたのではないでしょうか?
会社も、その会社によっては、仕事を始めたのではないでしょうか?
上記のいじめられっ子という呼び名は、やはりどうもしっくりこない。そこでこの読者の皆様、もうイジメられてどうしようもなく、誰に相談してよいのか分からず、ただ思うは自分をイジメる人々のこと、そして何をどうしても全て負に見える自分。いっそ自分でなければいいのに、と思う。その人々、救済を求める衆生を優婆塞優婆夷(うばそく うばい)と呼びましょう。
これはもともと、出家したお坊様に対する、在家の信者のことを仏教ではいいます。

さて、火山の噴火口から逃れたあなたは船に乗ります。ところが広い海で船は、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいます。所謂、漂流です。しかも海が荒れて、船は今にも難破しそうです。
そして、そうするうちに現われるのは、龍、鬼、魚、しかも毒をもった奴までいます。最悪ですね。

そこであなたは、念彼観音力。 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩 南無観世音菩薩。
すると、いつの間にか、あれらの、龍魚、鬼まで激しい波と共に消えてなくなり、明るい浜辺に打ち上げられます。あれほど激しかった雷雨もあとかたもなく、太陽の光明が全て、片付けてくれました。

こんなことはあるでしょう。
知らない人ばかりの所に行けば、それは正に暗い底の見えない海です。
そしてその人たちは、見たこともない、龍であったり、鬼であったり、口の悪い毒を吐く魚までおります。
人をどこかへ連れて行って、無責任に逃げる亀もおります。

激しい波があなたを揺さぶり、あなたの思う方向に行こうと思っても、どこが目標かもわからず、何が目標かもわかれません。そこで念彼観音力、あなたには目標が見えるようになり、それを惑わし、間違った方向に導く波もありません。あなたはただ信じる道を行けばいいのです。

そもそも、自分の信仰を話題にするのは禁止等と、会社の社員教育で教える日本において、自分のバックグラウンドは何なのでしょうか?頼るべき道徳もなく、戦前のように終身を教えるわけでもない。だから、あなたをイジメる行為を裁けない。これが事実です。私もそうです。

親や、先生は、上司は、宗教アレルギーが沢山いて、宗教イコールお葬式だ。
だからお葬式ごっこが平気なのです。

そして、そういう拠り所を持っている者(ここが重要です。)、或はその拠り所を軽視し乱暴にも無視するものが幅を利かす。
正に毒竜諸鬼等です。人が美しいことを言う時は、その背景を考えなくてはなりません。何故ならこの国の人はある時から、自分の信仰を隠すようになったのです。テレビのコメンテーターであれ、スポーツ選手であれ、皆、何かを発するときには、その背景に信仰があります。それは宗教ではないかもしれませんが。

もし、念彼観音力で良いことが起これば、なんでもいいのでコメントをください。
まあ私も優婆塞、優婆夷なので人とあまり話をしたくはありませんが。
顔を合わせなければOKです。

声聞バージョン

或生命航海 衆信仰隠形 念彼観音力 即万燈照国 
わくしょうみょうこうかい しゅうしんこうおんぎょう 
ねんぴーかんのんりき そくばんとうしょうこく

沢山の命が乗る大乗の船の上で、衆生が自らの信仰を隠し、その沈むままにまかせるのなら
念彼観音力を唱えれば、すぐさま、仏様の光明が国を照らし、その海図を明らかにするでしょう。

合掌

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2021年05月03日

イジメを撃退する念彼観音力 E 推落大火坑(すいらく だいかきょう)

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読み方

けーしー こーがいいー すいらく だいかーきょう ねんぴーかんのんりき かーきょう へんじょうちー

通常の解釈


たとい、害の心を起こして、大いなる火坑(かきょう)に推し落とされんに、
彼の観音の力を念ぜば、火坑変じて池とならん。

例え、害意をもった者によって大きな炎の燃え盛る穴に落とされようとも
念彼観音力で、火坑は涼やかな池に変じます。

参考文献のリンク

イジメられっこのあなたへ

この文章を書いている今は、ゴールデンウィークです。
新入生の方や、新入社員の方がいれば、いじめられっ子であれば、4月に大概、嫌なことがあったと思います。或はイジメられる雰囲気が出来ている筈です。そしてこのゴールデンウィークが終われば、そう思うと鬱々とした日々を、過ごしているに違いありません。

いよいよ、この観音様のいじめ虐待ページも本筋に入ります。

まずあなたが、いきなり、例えば噴火中の火山の加工に、誰かに落とされたとします。
いきなりです。
落とされる前にすでに火口の入り口に着くまでに死んでいる、という噂もありますが、絶体絶命の状況です。そこであなたは念彼観音力、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩と唱えるのです。
するとどうでしょう。
その燃えたぎる火口は、青い涼しげな池に変わってしまいます。
この記事の一番下の写真をご覧ください。
本当にこんなことがあるわけないだろう、そう思われるかもしれません。しかし本当にこんなことをしたことが、されたことがありますか?
これから観音様のこういったお話を全部で20回以上するわけですが、 これはある意味比喩であり、そしてそれをどのようにして自分の人生に受け止めるかということが重要になってきます。
あなたがこの後、ゴールデンウィークが終わり、行こうとしている学校や職場は、あなたがいじめられっ子であれば、それはまさに火が燃え盛る噴火口です。
あなたはそこに飛び込まなくてはいけない。
ガラッと扉を開けて、バタンとドアを開けてあなたはそこへ飛び込まなくてはいけません。
そしてあのいじめられっ子とその他大勢の傍観者達に挨拶をしなくてはいけない。
それは燃え盛るマグマの中です。
さあ、そこであなたは心の中で、あるいは恥ずかしくなければ、口に出して念彼観音力を唱えるのです。
するとどうでしょう。何が起こるのでしょう。
その燃え盛る火は、涼しい湖になり、あなたは何事もなかったように教室の、あるいは職場の椅子に座るのです。

この後も、このようなことを書きますが、どうか馬鹿にしないで聞いてください。この観音様の持っておられるお力、そして観音様のお名前を唱えること、これがどれだけの力を持つものなのか、どれだけあなたの勇気になるものなのか、それを少し大袈裟ながら例え話にしていると、そういう考え方で聞いてください。
間違ってもどこかの火口で実践してはいけません。

何度も何度もこの観世音菩薩普門品偈をとなえ、見聞きすれば、あなたがどのような目にあってもこのこの偈のどれかが思い浮かぶはずです。その時あなたは救われるのです。そう信じて、ゴールデンウイークを楽しんでください。

声聞バージョン

終節休金週 推扉大教場 念彼観音力 教場悉静臨
しゅうせつきゅうきんしゅう すいひーだいきょうじょう 
ねんぴーかんのんりき きょうじょうしつじょうりん

ゴールデンウイークが終わり、教室の扉を開ける時、念彼観音力を唱えれば、教室は悉く、静かにあなたを迎えることでしょう。

合掌

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2021年04月27日

イジメを撃退する念彼観音力 D 能滅諸有苦

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通常の解釈

我汝が為に、略して説かん。名を聞き及び身を見、
心に念じて空しく過ぎざればよく、諸有の苦を滅す。

私はあなたのためにその概略を語ります。
観世音菩薩の名を聞きその姿を見て心に念じて過ごすならば
どんな苦しみでも菩薩が消滅させます 。

参考文献のリンク

イジメられっこのあなたへ

さて今回はいじめの話を忘れ観音経(かんのんきょう)の話をしましょう。
観音経は妙法蓮華経と言う大乗仏教のお経の一節です。25番目のエピソードとでも言うのでしょうか?
妙法蓮華経は大変有名なお経で南無妙法蓮華経と言う日蓮宗の念仏を聞いたことがあると思います。このお経全体では25まで観世音菩薩はほとんど(全く?)でてきません。 そしてここでいきなり観世音菩薩の話になるのです。 
無尽意(むじんに)という菩薩がいきなりお釈迦様に観世音菩薩の事を聞くのです

そしてお釈迦様が観世音菩薩の名を唱えればどんな苦しみでも作ってくれるだろうと答え、その説明に色々な例をあげます。そうした説明の後にこの普門品偈(フモンポンゲ)あるいは世尊偈(セソンゲ)と言われる詩に入ってきます 。
つまり観音経とは妙法蓮華経の一話でありながら、全く独立して観世音菩薩の働きをたたえているので、観音経とも呼ばれるわけなのです 人々の願いに応じて観世音菩薩は33の変化身になり人の苦しみを救うのです。 
観世音菩薩は観自在菩薩ととも言います そして最も有名なお経「般若心経」にもその名が出てきます いわゆる仏教界のスーパースターなのですね

だから私が言いたいのはあなたがいじめられている時に「ねえもうやめなよ」と言っているクラスメイトがいたら、それは観世音菩薩の変化身であるかもしれません。

観世音菩薩は見た目にもどう考えても女性です。例えば、阿弥陀如来の脇侍(ワキジ)として観世音菩薩は女性の姿で大勢至菩薩観音と一緒に阿弥陀如来の左右に控えています。
あなたがこの先日本のいろいろなところに旅をすれば観世音菩薩つまり観音様があちらこちらの街で大仏となって衆生を見下ろしていることでしょう。

さあそして次回からは、いよいよ観世音菩薩の働きを実際に見ていきます。
その働きは全部で 漢字20文字×26節から説明されています。

どうか、心して観世音菩薩の慈悲の力を感じてください。

合掌








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