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2021年03月29日

仏教信仰入門 I 十二因縁とは

今までのあらすじ(長文注意)

 某仏教国で国家規模の陰謀にあい、30年の浦島太郎としてこの日本に帰ってきた私は、人生最大の苦境を乗り越えるため、まずは塩まじないを始め、毎日トイレの掃除をし、水道代を高騰させるが何も起こらず、インターネットで呪いを検索し、今まで自分を騙し惑わした人間を呪うことを考え、蝋燭やら、折り紙やら、獣の皮やら、4つばのクローバーやら、果ては般若心経を写経し、そこに人の不幸を書いてジャムだか練りウニの瓶に詰め人気の無い夕方に、母が手塩に掛けた庭にこれを埋め、今では、この庭をほればザックザックと般若心経が出土する次第です。
 
そうこうしているうちに、般若心経をきっかけに仏教に目覚め、沢山の人を呪うにはあまりにも自分の念が足らず、それよりは、自分を救ってくださいと自分一人のために、仏様に祈ることはエネルギーから言っても可能であると気が付き、ところが日本の仏教は大乗仏教で人の為にも祈るのだと知り、私が沢山の人を呪う呪いから沢山の人の救いを求める方向に転換するのは、これぞ正に仏教の方便の力と、その智慧の深さに敬服し、大きく転換したわけです。

とは言え、そこは浦島太郎。愚かさゆえに現世利益、功徳を中心に仏教信仰を始め、孔雀明王様を信仰し、陀羅尼を暗唱し、孔雀明王様の背景にある仏教のロジックを考えず、またその誓願なるものは、むしろ国家守護の仏教であり、そうこうしているうちに、聖天様のご縁を得ました。

 大乗仏教、真言宗において、密教において沢山の天尊があられるのは、その誓願の違いもあるようで、今、誰よりも罪深い自分として、その背後にある強固な観世音菩薩の信仰をもつ、聖天様信仰に帰依しました。
聖天様信仰で重要なことは一心不乱に聖天様に御祈りすることで、またその真言を唱える遍数も1000とか2000とか多く、三遍の真言でも無量の雑念にとらわれる自分は、何よりもこの雑念退治を学ぶことにしたのです。
そんな時、私は、大映映画の(釈迦)をアマゾンプライムで見て、なるほど、雑念の調伏ということはお釈迦様にも第1課題であり、人間の宿命的愚かさ、そのものが信仰の邪魔をすると知ったわけです。

 それで、このブログでは勿論、自分の勉強にもなるし、皆様インターネット衆生の救済のためにも図解で、この仕組みを追求することを試みています。

 今まで五蘊を掘り下げて、人間という生き物の宿命的に持つ存在の対象化を解説しました。そして、次に経時変化としての人間の変化、弱さに触れていきます。勿論未だまだ深いことは分かっていませんし、これから先、勉強をすすめますが、これをもって、実際のお祈りの勤行でおこる事の予備知識としたいと思います。

十二因縁とは

仏教の根本的な考え方として、縁起がある。縁起がいいとか悪いとか言うのは、経時変化として、あることを怠ったが為に、ある結果を招いたということを重視することである。酒を飲みすぎて吐くのも、女性を信じすぎて騙されるのも、全てがこの縁起であり、そこから法が生まれるのです。そして我々人間が生まれてから死ぬまでの縁起を12の段階に分けたものが十二縁起です。
お釈迦様がこの真理を悟り、そして実際に人間観察をして、検証し完成させたとのこと、(実際には色々な議論があるようであるが、それは今後勉強を進めます。)
それでは、12縁起をそれぞれ見ていきましょう。

仏教における無明とは?

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生まれてくる前が0の状態では、縁起は発生しない。しかし、縁起を信じる心はこの状態において0であるから、無明です。それは、その生を受ける以前の因縁を信じるとか知っているとか言う状態にないのです。

仏教における行とは


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前世での業をさします。前世で行われた行為と習慣をさします。

仏教における識とは

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認識する主体の心が生まれる瞬間です。

仏教における名色とは

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母胎の中で、認識としての対象が現れます。名は精神的なもの、色は物質的なものです。

仏教における六入とは

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前回十二処のところで学んだ六根が胎内で形成されます。

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仏教における触とは

六根、その対象である六境、そして認識される六識、これらの融合。
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仏教における受とは


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認識という能力を経て、苦と楽を感受することができるようになる状態。
またその苦楽の感じ方は人によって違うが、それこそは前世よりの業の差異である。

仏教における愛とは

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苦を避け、楽を求める状態。苦を避ける、つまりそれは憎となる。合わせて愛憎となる。

仏教における取とは何か?

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愛の後に来る実際の行動。愛するものにはこれを取ったり独占したりし、憎むものはこれを捨て、殺傷したりする。

仏教における有とは?

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愛と取によって最終的に業を形成する働き。習性的存在。

仏教における生とは?

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前の有としての性格や素質を帯びて生き、生まれること。

仏教における病死とは

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ここまでに発生した行為経験によって、輪廻の苦悩は解消されない。しかし上述までの行為経験を戒め精進することによって、流転縁起による輪廻の苦悩から解脱することが出来る。これを還滅縁起という。

何故同じことを繰り返すとおこられるのか?
何故仏教は同じ真言や念仏を何度も唱えるのか?
何故同じことを繰り返し行い評価されるのか?
或は、同じことを繰り返すことを我々は何故、苦とかんじるのか?

長くなりました。
次回に四苦八苦について勉強し、いよいよ実証しましょう。









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