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2019年08月03日

武士たちから始まる茶畑

<茶畑>
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こちらは静岡県島田市の茶畑です。幕府崩壊により失業した徳川家の家臣たちが、主の移住先である静岡で茶畑開墾に従事した。有名な話!らしいのですが、恥ずかしながら私は今年の諏訪原城訪問で初めて知りました。

江戸時代はまだ原野だった牧之原台地。
エリアでいうと現在の島田市と牧之原市、そして菊川市にまたがる台地です。高い場所にあることから、水の供給にも事欠いたということでしょうか。地元の農民も手を出さなかった土地に、果敢に挑んだ武士たちがいた。徳川家が幕府から一大名として駿府へ移された背景などを考えると、胸が熱くなる話です。やがて地元農民らによる開墾も加わり、いまでは日本一の製茶地帯です。凄いことですね。

生きる糧を得るための大変な苦労だったかと思いますが、武士たちの挑戦は今に繋がっています。当ブログで初めて知ったという方がいたら嬉しいです。

<堀跡と茶畑>
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こちらは牧之原台地の隅を利用して築かれた諏訪原城の堀跡です。向う側に茶畑が見えます。戦国末期に廃城となった城の一部も、茶畑に姿を変えました。


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2019年07月28日

浮かび上がる朱色 夜の台徳院霊廟惣門

今回は平日の夜に通りかかった立派な門の話です。

<日比谷通り沿い>
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夜の日比谷通りです。芝公園付近を歩いていると目に飛び込んでくる鮮やかな朱色。ライトアップにより浮かび上がる堂々たる門です。お隣の増上寺より目立ちます。

<旧台徳院霊廟惣門>たいとくいんれいびょう
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重要文化財です。構造は入母屋造八脚門。左右には金剛力士像。こちらは港区指定有形文化財です。

<仁王像 吽形>
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<仁王像 阿形>
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この立派さはなに?

この門、もともとは2代将軍徳川秀忠の霊廟の表門です。徳川家の菩提寺である増上寺の境内に造営された壮大な霊廟は、江戸初期を代表する建造物群という高い評価でしたが、1945年の東京大空襲で大半が失われてしました。焼失を免れたこの惣門が移設され、いまもこの地に佇んでいるわけです。

当初は増上寺の中にあったわけですね。秀忠(=台徳院)の墓所そのものは、増上寺安国殿裏の徳川家墓所に移されています。

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堂々としていますが、手の込んだ彫刻が表面を覆い尽くす!とまではいきません。何となくシンプルにも映ります。徳川家の霊廟は、奥に行くほど凝った装飾が施されていたとのこと。これはあくまで入口の門なのです。

ということで
明るい時とは雰囲気の異なる旧台徳院霊廟惣門のご紹介でした。一度見たことがある建造物でも、夜には夜の魅力があるものですね。

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■訪問:旧台徳院霊廟惣門
[東京都港区芝公園]4-8-2


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2019年07月13日

レンガの街のなごり(深谷市)あかね通りと福川鉄橋跡

今回は深谷市でみつけた線路のなごりです。ただの線路ではなく、あの渋沢栄一とも関係の深いレンガ工場専用線路のなごりです。

<展示されている橋>
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■深谷の田園地帯にて■
深谷市へは城跡探索で訪問しました。てくてくと田園を歩くうちに、何となく不自然な道と出会うことに

<不自然な道>
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なんか変わった道だな

延々と続く盛り土されたような道。最初は地下に埋設された水路(暗渠)か?と思いました。高さを維持するため、周囲より高くなっている用水路はいくらでもありますので。しかしこの道を歩いた先で、その答えは見つかりました。

<レンガと線路>
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あれは.?橋を展示しているのか

公園の一角にレンガ造りの立派な橋を見つけました。橋のなごり?これはもう足を止めずにはいられません。

<説明板>
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福川鉄橋というのか

線路が川を通るために架設された橋。私が事情も分からないまま歩いてきた道は線路の跡だったようです。福川は深谷市を流れる利根川水系の川。説明を前半だけ抜粋すると
『日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたプレート・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーダー橋です。』※以下省略しています。

日本煉瓦製造・・

<日本最古>
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レンガ運搬のための線路。そしてこの橋はその道のりの一部だったわけですね。そしてポーナル型プレート・ガーダー橋(初めて聞く名称でよくわかりませんが)としては現存する日本最古の橋なのですね。

<表示板>
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なるほど。ここはかつてのレンガ工場と深谷駅の間なんだ

ここ深谷には、渋沢栄一らによって設立されたレンガ工場がありました。日本初の機械式レンガ工場です。社名は日本煉瓦製造株式会社。1887年から操業を開始して、東京駅日本銀行など、東京にお勤めの方なら「ああ、あのレンガ造りか」とすぐにわかるような名だたる近代建築物に、実は深谷のレンガが使用されているのです。

今回出会った線路跡は、そのレンガ工場と深谷駅を結ぶ物流のための専用線路でした。当初は利根川を経由して運ばれていましたが、駅から工場までの約4.2kmにわたり鉄道が敷かれることに。その貨物専用路線のなごりが、田園地帯にやや不自然に残る道ということです。道は「あかね通り」と呼ばれていいます。

<現地説明板>
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なるほど

<福川とあかね橋>
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いまはこの橋で福川を渡ることができます

<あかね通りにて撮影>
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あかね橋を渡ってすぐのヘンチでちょっと休憩。靴ひもを結び直そうとしたおかげで気付きました。レールの断面をイメージしてるわけですね(勝手な想像です)。

<線路のなごり>
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事情が分かれば素敵な道。廃線後の敷地の有効活用というだけでなく、歴史を今に伝える貴重な産業遺構といえます。

やがてレンガの需要は減少し、安い輸入品の影響もあって、工場は閉鎖されました。しかしそのなごりを感じることはできました。初めての深谷訪問で非効率に歩き回っていましたが、そのおかげでちょっと得をした気分になりました。

<深谷駅>
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近代産業の発展に大きく貢献した街です。その一部を感じる機会となりました。

<渋沢栄一像>
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渋沢栄一生誕の地でもあります。

■訪問:旧福川橋梁
[埼玉県深谷市原郷]


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2019年02月08日

市ヶ谷駅 江戸歴史散歩コーナー

今回は駅の構内で見られる石垣のお話。場所は東京メトロ南北線市ヶ谷駅です。

■石垣■
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迫力ある石垣が出迎えてくれます。ここは博物館ではなく、あくまで駅の中です。

地下通路だけに「都市開発で地下に取り残された江戸城の石垣か?」と勘違いしてしまいそうですが、あくまで復元です。ただし見事な復元。石垣は実際に江戸城で使われていた石材です。南北線建設に伴う発掘調査で発見されたとのこと。パネルによる丁寧な説明と合わせて、ちょっとしたお城の学習コーナーになっています。

<石垣>
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実物!表面の穴は石を割る時のためのもの。矢穴といって、クサビを打込むためです。これと関連して、石垣を割る技法が紹介されています。具体的には「打ち込みハギ」という技法。石の角や面をたたいて平たくし、石垣の隙間を減らす方法です。自然の石をそのまま積むのが、よく耳にする野面積み(のづらづみ)ですね。技術的には「打ち込みハギ」の方が高く、これによるメリットは、野面積みより高くて急勾配の石垣が造れることですかね。

■治水について■
石垣だけではなく、治水についても興味深い説明がなされています。
<展示パネル>
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江戸が町として機能するのに重要な役割を担った玉川上水。多摩川の水を羽村から取水し、約43qもの道のりを100m以下の高低差しかない傾斜で繋いだ水路です。この説明だと、その水を更に繋ぐため、四谷の外堀には土橋に沿って樋が掛けられていたようですね。石樋や木樋による配水管をあちらこちらに整備することで、江戸の町は潤っていたわけですね。

博物館のような丁寧さ。
図解なので、私のような素人にも実感がわきます。


■江戸の町■
<絵地図>
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床の絵地図も参考になります。

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あの大物があんなところに・・・
敷地の広さの比較に加えて、どこに屋敷を構えていたかが興味深いですね。

<屏風絵>
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暮らしの雰囲気が伝わってきます。


ということで
ちょっとラフですが、だいだいこんな感じです。

さてさて
私はこの石垣を見るためだけに改札を通りました。とりあえずホームに向かい、ここからどこへ行こうか考え込むことに。まぁ私のようにわざわざ訪問とまでは言いませんので、南北線を利用することがあったら、是非思い出して欲しいですね。

<市ヶ谷の外堀跡>
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■訪問
江戸歴史散歩コーナー
南北線:市ヶ谷駅(改札の中です)
[千代田区・新宿区]


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2019年01月13日

埼玉・群馬・栃木の三県境

今回は「3つの県の境となる場所」のお話です。

■三県境■さんけんきょう
県境というのは比較的身近なお話ですね。3つの県の境となると、そんなにあるものではありません。それでも、全国で40以上はあるそうですが、大半は山奥だったり大きな川だったりということで、そうやすやすとは行けません。

今回ご紹介する例は特例。歩いて行けます。具体的には、埼玉県・群馬県・栃木県の三県境です。

<三県境>
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県の境は細いとはいえ水路になっています。

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左上が埼玉県加須市。右上が群馬県板倉町。手前が栃木県栃木市です。これなら他県を二つ経由して、3歩目で元の県に戻れますね。

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これが何よりの証拠です。緯度経度も記されています。

3つの県の境は、最初からこんな平坦な場所だったのか?

<手書きの説明>
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これは分りやすいですね。

もともとは利根川水系の渡良瀬川上が三県境だったようです。しかし、遊水地を造る際に渡良瀬川の流路は変更され、その渡良瀬川に合流していた(群馬と埼玉の境を流れていた)谷田川の流れも変わり、更には廃川となりました。かといって県境の位置は変わりません。沼地となっていたところに、渡良瀬遊水地造成の時に出た土砂が運ばれ、平坦な土地となり、今に至っています。

<渡良瀬遊水地>わたらせゆうすいち
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三県境はこの広大な遊水地の西側です。渡良瀬遊水地は治水と利水の役割を担っていますが、造られた当初の目的は、足尾鉱毒事件の鉱毒を沈殿させ、無害化することでした。つまりこの事件が無ければ、三県境はいまのようにはなっていなかったかもしれませんね。

<最寄駅>
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駐車場が用意されていますが、徒歩の場合最寄駅は東武日光線「柳生駅」になります。駅の所在地は埼玉県加須市です。ここから徒歩で7〜8分程度ですかね。

ということで、三県境のご紹介でした。
ちょっと頭の隅に置いておいて、近くを通った時にでも如何でしょうか。

■訪問:三県境
[埼玉県加須市小野袋]
[群馬県邑楽郡板倉町海老瀬]
[栃木県栃木市藤岡町下宮]

2018年09月27日

旧古河庭園 伊達朝宗を祖とする伊達氏の流れ

とても有名な庭園を訪問しました。

<旧古河庭園>きゅうふるかわていえん
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大正時代に古河虎之助男爵の邸宅として整備されました。

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洋館と庭園、見事です。バラの名所としても有名です。

<車寄せ>
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これ博物館とかではなく、人が暮らしてたわけですよね。重厚です。やっぱり本物は凄いなぁ

<園内>
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洋館付近の高台から、広々とした庭園を見下ろせるようになっています。遮るものがないので、東京も平ではないことを実感します。洋館のまわりは洋式庭園、下の方は日本庭園となっています。

<日本庭園>
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見どころはたくさんありますが、当ブログではこの程度にします。

ここでちょっと順番が逆になりますが庭園の外側を

<土塀>
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<入口>
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こちらが入口。大人150円で入園できます。祝100年!邸宅となったのは1919年(大正8年)です。

<案内図>
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入園してすぐに案内図があります。

ところで、現地での説明文によれば『この庭園の敷地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の別宅でした。その後古賀家が譲り受け・・・』とのこと。

宗光の次男・潤吉が古河家の養子(古河財閥の2代目)となった。古河家に所有が移ったのはそういう経緯ということですね。そして3代目当主の虎之助が周辺の土地を購入して、整備を開始した。なるほど。

で、この陸奥宗光という方ですが、紀州藩士伊達宗広の子として生まれました。伊達?そう、あの伊達氏です。伊達政宗の末子の後裔とも伝えられていますが、陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫というのが事実のようです。

ではあの伊達氏(仙台伊達氏)とは関係ないのか?

あります。

常陸国の伊佐氏を祖とする伊達一族は、但馬や駿河にも広がりました。駿河伊達氏は初代朝宗の二男・為家を祖とする家系。陸奥宗光は駿河伊達氏から分かれた紀州伊達氏の出です。つまり、異なる流れであっても元は同じ

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ちょっと仙台伊達氏とは関係が遠くないか?

はい。同じ「伊達」の流れでも、初代の朝宗まで遡らないといけないので、ちょっと遠いのかもしれませんね。

ただ、まったく関係ないわけではないのです!

そんな含みをもって見つめると、同じ景色も更に奥深くなりませんかね。まぁこんなブログをやっている戦国武将ファンならではの強引な結びつけかもしれません。ただ個人的にそう感じたので、ちょっとご紹介させて頂きました。

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■訪問:旧古河庭園
開園:9:00〜17:00
(入園は16:30まで)
[東京都北区西ヶ原一丁目]


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----- 追 記 -----
バラの季節に再訪しました。
<5月上旬>
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やはりこの時期は混みますね。

<紫雲>
sn1905b.JPG
紫雲という名のバラ。人を避けてなんとか撮影しました。

2018年06月27日

松原と番所跡 増上寺正面

今回は増上寺前の公園の話です。

<公園内の門>
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雰囲気はありますが、ただの飾りとしか思っていませんでした。

<説明板>
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何やら書いてありますね。立ち止まって読むのは初めてです。

『芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは、寛永17年(1640)増上寺20世大僧正南誉(なんよ)上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも,青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。
松はその後の災変によって消失,あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。
都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲(しの)ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。昭和62年2月 東京都』


なるぼと。ここは都会のオアシスのような場所ですが、ただ整然と整備しているわけではないのですね。ちゃんと意味、というかコンセプトがあったわけです。増上寺の正面に位置するこの付近。「松原」と呼ばれていた区画の再現ということですね。

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そして江戸時代の番所跡
土塁にはさまれた通路がカギ形・・・

<土塁とカギ形通路>
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<土塁とカギ形通路>
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<門>
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なるほど

お屋敷の裏門でもイメージしているのかと思いきや、番所の門ということですね。そしてすんなり通過させないための土塁とカギ形通路。ここだけはちょっと城郭のようですね。

番所、つまり見張りのための番人が詰めている場所ですね。いまでいう交番のような感じでしょうか。

荘厳とした増上寺の前に松原が広がり、庶民にとっても眺めのいい場所だったことでしょう。一方で、将軍家にとっても重要な場所。徳川家の菩提寺ですからね。一定の秩序を維持すべく、番所も設けていた。そんな感じでしょうか。深く研究したわけではないので、半分想像で言ってます。ご容赦下さい。

<芝大門の通りにて>
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こちらは芝大門の通りに設置されている増上寺の案内板です。歌川広重が描いた増上寺。ちょっと雪が降ってますが、構図はよく分かります。

<芝増上寺雪中>
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山門があり、正面左右に石垣で仕切った区画が設けられています。松原です。そして番所もあったということですね。

同じ景色でも、ちょっと意味が分かるだけで一味違って映りますね。松原跡は増上寺正面です。昔のなごりを意識して整備した公園。増上寺を訪問したついでに、ちょっと立ち寄ってみては如何でしょうか。

<増上寺>
shirononagoriMATSU (4).JPG
<松原>
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以上です。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。



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--------追 記--------
2021年6月に再訪したところ、周辺が素敵な庭園として整備されていましたので、画像を追加しておきます。
<日本庭園風>
Shouyou-garden- gate.JPG
Shouyou-garden.JPG
Earthworks.JPG
renewal-bansho.JPG
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Shouyou-garden-monument.JPG
Shouyou-garden- well.JPG

<逍遥の庭>しょうよう
Garden-Stone-monument.JPG
日本造園組合連合会による演出のようです。素人には分からない凄い技術が使われているのかもしれません。ただ記された名前から、気楽に楽しんで良いお庭と受け止めました。

東京タワーや増上寺のあるここ芝公園は、普段から観光で訪れる人が多い場所。東京オリンピック・パラリンピックによる観光客増を意識した日本らしさの演出ですね。

以上です。

2018年04月13日

中世の山城のような古墳 芝丸山古墳

港区に古墳があることをご存じでしょうか?場所は芝公園の一画。東京タワーの足元といってよい場所です。こんな場所に「前方後円墳」が残されています。驚きですね。訪れてみれば、まるで中世の城跡のような雰囲気。でも都の指定史跡になっている正真正銘の古墳です。

<芝丸山古墳>しばまるやまこふん
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古墳の長さは百メートル強(案内板参考)。諸説ありますが、5世紀中頃のものではないかと考えられています。

<古墳の上から撮影>
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まるで中世初期の山城のよう。でも古墳だそうです。城跡に見える理由は、斜面を存分に残しながら、要所要所に平らな区画があるせいでしょう。手前も平な区画。斜面を下るとまた平らな区画となっています。まるで城の曲輪(くるわ)のようです。

頂上付近が本丸、その位置から見渡せるところに二の丸。ここは「一時期山城として使われていました」と専門の方に言われたら、簡単に信じてしまいそうです。

<通路>
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虎口といわれれば信じてしまいそうです。

<斜面>
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自然の山といわれれば信じてしまいそうです。

<高低差>
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男っぽいというか、やや殺伐としたようなパワーを感じるのは私だけでしょうか。構造だけでなく、この雰囲気がなおさら城跡を連想させます。

<登山道>
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右上から城兵の矢が飛んできそうな登山道。侵入者を迂回させるためと言われれば信じてしまいそうです。

<稲荷神社>
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城跡に神社があるケースは多いですが・・・
これは古墳の中腹あたりですかね。前方後円墳のくびれ部にあたる場所です。円山随身稲荷大明神。江戸時代初期に建立されました。

とにかく城っぽいですね。もともとあった山に、人が手を加えて城として利用した。でも古墳だというのだから、古墳なんでしょう。

その古墳、冒頭で『前方後円墳!』と華々しく説明しておきながらなんですが、後円の部分は後の時代に崩され、原型は失われているそうです。こんな土の塊からそんなことが分かるなんて、やっぱりその道の方々は凄いですね。どうこをどう調べたのでしょう。まぁ素人なんで、そのまま信じます。

<石碑付近>
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この石碑の後ろ側が前方、右側へ向かって後円だそうです。

<伊能忠敬測地遺功表>
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本丸跡・・・ではなく、削られた後円の頂上。奥のモニュメントは伊能忠敬測地遺功表。日本を歩きまわって正確な日本地図を作り上げた偉人ですね。この山に登って測定でもしたのかな?と思いきや、ちょっと違うようです。まったく無縁というわけではなく、ここ芝が、伊能忠敬の測量の基点地であったそうです。

<大野伴睦の碑>
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台地端に位置しているので見晴らしもいい。右手の一段高くなったところ。城跡好きがこれを見たら、本丸の隅の物見台跡を想像するのではないでしょうか。その上に、勇ましい虎の石碑が見えます。タイガーマスクのオープニングを思い出しました(かなり古い)が、虎の穴とはまったく関係ありません。政治家・大野伴睦(ともちか)の碑だそうです。

さて
城かどうかはともかく、よく古墳だと気づきますね。素人にはただの山にしか見えませんが・・・

初めて調査が入ったのは明治25年だそうです。江戸生まれで、明治時代の著名な自然人類学者となる坪井正五郎が、山の高さに不自然さを感じたことがきっかけだそうです。平地ならともかく、芝公園そのものが高台で地形も複雑なのに、よくピンときましたね。

不自然さを感じる。これをきっかけに調べてみる。これって、中世の土の城を巡っている城マニアにも共通していますね。地表の凹凸に不自然さを感じる。尾根が不自然に窪んでいる。これは城の遺構が発するサインに気付くことですよね。考古学会の草分け的な学者と、趣味で城を探索している自分たちを比較するつもりはありませんが、「スルーできない不自然さを確かめる」という意味で、ちょっと似ているような気がします。すくなくとも、不自然さから調査を始めたという坪井正五郎に敬意はもちろん、親近感を感じずにはいられません。

ということで、城跡好きが出会った古墳のお話でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。このあと近くの芝東照宮にも寄ってみました。歴史好きの人は、あわせて訪問されることをお勧めします。

■芝丸山古墳
築造時期:5世紀後半

[東京都港区芝公園]4-8

 
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