2020年01月05日

樹齢千年の道しるべ 与野の大カヤ

今回は旧与野市の巨木の話です。

<与野の大カヤ>よののおおかや
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国の天然記念物に指定されいます。住宅地のこじんまりとした敷地内であることから、全体を撮影するのも一苦労です。

<説明板>
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高さは21.5mです。根回りは13mもあります。そして推定樹齢1000年。風雪にさらされながら、ずっとこの地で生きてきたわけですね。凄い生命力です。

<妙行寺金毘羅堂>
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ここは妙行寺金毘羅堂の境内です。

■旅人の道しるべ■
今回訪問の妙行寺金毘羅堂は、むかしなら低湿地がひろがっていたであろうエリアの台地上に位置しています。簡単に言えば目立つ場所です。そこに更に高々とそびえ立つカヤの木。さいたま市のホームページからそのまま転記させて頂くと『旅人のよき道標であったと伝えられています。』とのこと。なんとなく納得できる話です。現地の説明板にも記されていますが、平安時代中期植えられ『室町時代の応永年間(1394年から1427年)には、既に関東随一の巨木として知られいました』とのこと。[情報:さいたま市ホームページ]

長い間、旅人の道しるべだったということですね。

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周辺は関東平野の低地です。天に伸びた巨木は遥か遠くからも見えたことでしょう

道しるべはただ方角を示すためだけでなく、歩んできた道が間違いでないことを知らせてくれるもの。この巨木を見て、どれだけたくさんの旅人が安堵したしょうか。自分が方向音痴なためか、とても頼もしく感じました。

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■訪問:与野の大カヤ
(妙行寺金毘羅堂)
[埼玉県さいたま市中央区鈴谷]4

2020年01月04日

江戸へ繋がる塩の道 平井の渡し跡

今回は中川の渡し場の話です。

<平井の渡しの説明板>
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冒頭だけ抜粋すると『平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。』とのこと。

<江戸名所図会>
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平井聖天宮(正式名は燈明寺)とともに中川、そして平井の渡しも描かれています。

■平井の渡し■
中川(現在の旧中川)を船で渡るための渡し場です。江戸と下総(千葉県)の行徳を繋ぐ道筋が中川と交差する地点に設けられました。平井の渡しから東南に下り、今井の渡しで江戸川を渡ることで行徳へと繋がっていたようです。 この道筋は行徳道と呼ばれ、人の往来もさることながら、物資輸送の重要なインフラでした。特に江戸初期においては、行徳塩の重要な輸送路だったと考えられています。

■行徳の塩■
行徳は関東屈指の塩の産地。行徳の塩田で作られる塩は行徳塩と呼ばれ、小田原北条氏が関東覇者の時代には既に製塩が行なわれていました。北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は行徳を自身の所領(天領)に組み込みます。当時は当然のようにまだ戦国時代の緊張感が続いています。この雰囲気を背景に、家康は自力で塩を調達できることに拘ったのでしょう。塩は軍用第一の品とまで言っています。新たな居城・江戸城での籠城戦をも想定し、領内での塩の確保のため、行徳の塩業を保護しました。その大切な塩を、江戸まで運ぶ輸送路が平井の渡しを含む行徳道だったわけです。いわば塩の道でもあったわけです。

■塩の道■
海から内陸へ塩が運ばれる道のことを「塩の道」と呼んだりしますね。塩作りを海辺の塩田に頼っていた時代には、海と山を結ぶ塩の道は重要な役割を担っていました。全国各地にあるなかで、有名なところでは新潟の糸魚川と長野の松本をつなぐ千国街道(ちくにかいどう)でしょう。上杉謙信の「敵に塩を送る」は、まさにこの道筋を経由して武田信玄に塩を送った逸話です。『義』を重んじる謙信らしい美談で、好きな逸話です。

逸話と言ってしまってからなんですが、内陸の武田が、駿河の今川と相模の北条の同盟で海側から遮断されていたことは事実です。謙信が塩を送ったことが逸話だとしても、今川・北条が武田にとっての塩の道を断つことはありえなくはない話です。人質として今川で過ごした経験のある徳川家康が、この時期に「塩の道」の大切さを肌で感じたなんてこともありえますよね?更には、家康は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣していますので、兵糧が断たれる北条側の痛みも思い知ったことでしょう。そういう意味で、行徳と江戸を繋ぐ行徳道、そして川を渡るための平井の渡しも、関東へ入ったばかりの家康が強く意識するインフラだったのではないでしょうか?!(ちょっと私個人の主観が入っています)

■その後■
やがて江戸城下には水路が整備され、行徳・江戸間には航路も開かれたそうです。そうなってくると、塩の道も多様化しますね。平井の渡しが、いつくらいまで塩の道として重宝されたのか、ちょっとわかりません。それでも、川がある限り、渡しを経由した人や物資の行き来は続きます。当時はまだ、中川や江戸川に橋を架けることは許されていませんでした。やがて明治になり、渡し場の東側に平井橋が架けられたことで、平井の渡しは役割を終えたそうです。

<現在の様子>
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現地で出会ったのは、冒頭の説明板と現在の中川だけです。それでも、歴史の一部に触れることができ、更には勝手に想像して楽しむこともできました。塩の道ほかについて、素人の個人的な見解が入っていますので、その点はご了承ください。 ただ、当ブログがヒントになって、似たような感覚で川を眺める人がいたら嬉しいです。

■訪問:平井の渡し跡
[東京都江戸川区平井]

2019年12月31日

今鳴るは芝か上野か浅草か 増上寺鐘楼堂 

今回は増上寺鐘楼堂のご紹介です。

<梵鐘>ぼんしょう
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こちらは徳川将軍家菩提寺の鐘。増上寺の大梵鐘です。

<関東最大級>
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関東では最大級の大きさです。この鐘は延宝元年(1673年)に完成したもので、江戸の鋳物師・椎名伊予吉寛(しいないよのかみよしひろ)が品川御殿山で鋳造しました。同じく徳川将軍家菩提寺の寛永寺の鐘も、椎名伊予吉寛によるものです。

<鐘楼堂>しょうろうどう
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釣り鐘も見事ですが、そもそもこの鐘楼堂が立派です。土台に使用されている石もかなり大きなものです。

<説明板>
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説明によれば鐘楼堂は『寛永十年(1633年)な建立されましたが焼失、戦後に再建され』たようです。梵鐘の説明は先述の通りです。『徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄贈され、七回の鋳造を経て完成』とあります。大きさは約3メートル、重さは15トンだそうです。この鐘の音は『時を告げるだけでなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います』とあります。

深い安らぎへと

仕事に追われてただ慌ただしく暮らしているので、なにやらとても有難く感じました。

ところで
説明板の後半に江戸時代の川柳も紹介されています

今鳴るは芝か上野か浅草か

いいですね。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草は浅草寺です。ただよくよく考えてみると、芝と上野と浅草の鐘の音が、全て聞こえる場所があったということですね。現在と違って高層ビルもなく、街の騒音もない江戸なら、あり得るのかもしれません。


令和元年も本日が最終日となりました。私は大晦日の夜にお寺さんで年越しの鐘を聞くといった習慣がないので、行った気分で増上寺の大梵鐘をご紹介させて頂きました。間もなく、私の住む街でも複数の鐘の音が聞こえてくるでしょう。鳴ってなお残る余韻を遠くに感じながら、新な年を迎えたいと思います。

拙ブログ、来年も続けていくつもりですので、宜しくお願い致します。

令和元年12月31日


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起こり始まった場所 日本近代初等教育発祥の地

今回は増上寺付近を散策中に見つけた石碑の話です。

<石碑>
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地下鉄御成門駅の近くに設けられた石碑です。あまりにもひっそりとしていて、足を止める人もいません。私も素通りしかけましたが、目に飛び込んできたのは『日本近代初等教育発祥の地』の文字。

<発祥の地>
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教育発祥の地?そういわれると、そうとう重みがあるような気がして、説明板を読むことになりました。ちょっと時間もありましたので。

<説明板>
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以下抜粋です。後半一部省略
『わが国の近代初等教育は、明治5年(1872)の学制発布に先立ち、同3年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、6つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、6月12日に開港した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍体、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は8歳から15歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。』
[出典:東京都港区教育委員会]

学制とは、日本最初の近代学校制度に関する基本法令。この説明だと、東京府では学制が発令される前に6つ小学校が設置され、最初の一つが芝増上寺に属する源流院に設けられたというわけですね。なるほど。

ここに石碑が設けられているということは、ここが源流院のあった場所ということになりますが、周囲にそれらしい雰囲気は漂いません。あった?か。過去形です。源流院そのものはどこへいってしまったのでしょう。

気になって早速ネット検索しました。その結果、この地にあった源流院は戦火で焼失してしまったそうです。ただ、ちょっと離れた場所になりますが、徒歩圏内に源流院の名を見つけました。

行ってみますかね

<増上寺>
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御成門駅付近から増上寺三解脱門付近まで移動。ここからちょっと大門方面へ

<源流院ビル>
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[港区芝公園]1-8-13
見つけました。こちらが現在の源流院です。実は寺院と気付かず一度通り過ぎてしまいました。大門駅のすぐそば。立派なビルとなっています。

<門柱>
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源流院と刻まれたこの門柱が無ければ、わからなかったと思います。推定ですが、このビルの1階部分が寺院なのかもしれませんね。

<三つ葉葵>
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徳川将軍家とのゆかりの深い増上寺の子院ですからね

では
再び御成門駅近くの石碑

<背後から撮影>
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向こう側に見えているのは晩秋の芝公園。かつて増上寺の境内だった場所です。現在の増上寺からみて北側、つまり江戸城側です。当時の雰囲気は想像できませんが、最初の小学校はそんな場所に設置されたわけですね。

明治になると、全国には多くの小学校が設立されました。といっても、政府の方針だけでそう簡単にできることではありません。それに相応しい土壌が、既に我が国にはありました。寺子屋の存在です。江戸時代の末期には、既に全国に及んでいたようです。教育を受けるという意識がないと、いくら政府が号令をかけてもなかなか浸透しませんよね。
また、授業ができる具体的な場所が必要になりますが、いきなり全国に校舎を建設するわけにもいきませんよね。ではどうしたのか?寺院や民家がこれに充てられるケースが多かったそうです。

源流院はそんな大きな流れの先駆けとなった寺ということですね。発祥とは事が起こり始まること。石碑に刻まれた『日本近代初等教育発祥の地』の意味、ちょっとは理解できました。

場所は御成門駅の近く
<御成門駅出口>
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この出口のすぐそばです

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地味な石碑ですが、当ブログがきっかけで足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:
日本近代初等教育発祥の地

[東京都港区芝公園]1-1


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2019年12月30日

街に出る 街を歩く 街に気づく 

<とある小路>
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この道は暗渠かな?

港区内を探索中に足を止めた瞬間です。

当ブログは城跡巡りをメインテーマとしていますが、街歩きのような内容も時々投稿させてもらっています。最近でこそ立派な城も訪問していますが、当初は廃城を訪ねてその痕跡を探すことを趣味としていました。そういう意味では、都市に埋もれて見向きもされないものに気付く街歩きは、ちょっと楽しみ方が似ています。

今年(2019年)の訪問記のなかのいくつかを下記にご紹介させて頂きます。都内及び簡単に行ける範囲を月別に選びました。そういったネタがない月は、ちょっと郊外になりますがご了承ください。

■記事一覧■
2019年12月
コンクリの街の秘境
赤羽の細道
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→『記事へすすむ

2019年11月
浦和暗渠散歩
天王川を下る

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→『記事へすすむ

2019年10月
大宮宿の涙橋
さいたま市大宮区

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→『記事へすすむ

2019年9月
路傍の巨大石
笠間の大黒石

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→『記事へすすむ

2019年8月
東京国際フォーラム
太田道灌像
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→『記事へすすむ

2019年7月
久地円筒分水と溝口暗渠散歩
川崎市
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→『記事へすすむ

2019年6月
刑場近くの橋のなごり
泪橋と思川
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→『記事へすすむ

2019年5月
新河岸川 舟運のなごり
川越市
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→『記事へすすむ

2019年4月
玉川上水のなごり
余水吐跡の暗渠
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→『記事へすすむ

2019年3月
ひっそりと佇む将軍ゆかりの門
御成門
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→『記事へすすむ

2019年2月
市ヶ谷駅
江戸歴史散歩コーナー

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→『記事へすすむ

2019年1月
赤羽の暗渠(稲付川)
姥ケ橋の跡
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→『記事へすすむ

■番外編■
城跡巡りとも街探索ともいえない内容です
暗渠と城跡
北沢川と三宿城

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→『記事へすすむ

以上です。
結局のところ、私が勝手に楽しんでいるだけの記録ですが、家でゴロゴロしている方がちょっと出てみようかなどと思ってくれたら嬉しいです。ほんの少し前まで、私が家でゴロゴロの人だったので。


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タグ:暗渠

2019年12月08日

コンクリの街の秘境 赤羽の細道

高度に都市化された街にも秘境がある。今回は街探索のお仲間と歩いた北区赤羽のお話です。
<街の秘境>
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よそ者は通らない谷です。そこへ入り込んでいる人の暮らし。絶景と感じるのは私だけでしょうか。


■赤羽台の細道■
訪問したのは北区の赤羽台。表通りから奥へ入れば、街の喧騒から切り離された独特の世界が広がります。以下はその時撮影した画像です。
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人ひとりが通るのが精一杯の細道

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急勾配ですが、人が暮していれば道はできます。赤羽台の奥の細道

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暮らしと細道

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段差のある細道

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狭所の細道

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コンクリの壁と細道

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コンクリの壁に納まらない木と細道

人の暮らしを支える構造物と、それらと関係なく命を謳歌する苔や草木。造成しきれなかった元々の地形を舞台に、両者がせめぎあったり、何となく調和していたりと、何とも不思議な空間ではないですか!

コンクリの街の秘境
私にはそんな風に映りました。


■その他の秘境■
最も心に残った赤羽台を最初にご紹介しましたが、この日の街探索は赤羽西から桐ヶ丘を経由して赤羽台へ北上するルート。その途上で撮影した画像も以下に貼っておきます。

<稲付川>
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[北区赤羽西]2丁目付近
こちらは当ブログで何度かご紹介済の稲付川。道?はい。地下に埋設され、いわゆる暗渠になっています。

<支流>
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誰も通らないこの細道もちょっとした秘境。こういったところの水を集めながら、稲付川は赤羽から東へ向かって流れ、隅田川へ合流します。


<稲付城跡>
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[北区赤羽西]1-22
こちらは太田道灌が築城したと伝わる稲付城跡です。
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現在は静勝寺。道灌ゆかりの地であることは確かですが、位置的にもともとは宿敵・豊島氏の拠点だったのではないかと個人的には思っています。あくまで個人的に。
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分類すると山城です。23区内に残る貴重な城のなごり。

続きまして

<田んぼと民家>
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[北区赤羽西]5-2
これはどこの田舎か?

ここも赤羽。北区の秘境です。大昔ならどこにでもありそうな光景ですが、いまとなっては景勝地。それにしても、丘にも谷にも住宅がひしめく北区で、一体どうやってこんな敷地が確保できたのでしょうか?

実はここ、もともとは自衛隊の駐屯地だったそうです。跡地が『赤羽自然観察公園』として整備されています。

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この公園は1999年の開園とのこと。もともとこのエリアに生息していた植物を植栽し、過度に人の手は加えないでこの環境を維持しているようです。

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遠くへ行かなくても、綺麗な景色はあるものです

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田んぼあり、湧水や小川ありの素敵な場所でした。


最後に謎の細道

<北区立赤羽緑道公園>
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また暗渠か?
ではなく、むかしの線路の跡です。赤羽にはかつて軍事基地がありました。似たような幅で続くこの道は、軍事物資専用線路のなごりです。

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線路の模様が描かれています。

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こちらは鉄橋を模したモニュメント。この位置に橋があったかは不明です。

いまでは住みたい街ランキングで上位に名を連ねる赤羽ですが、よく探せば、かつて軍都と呼ばれたなごりを感じることもできます。


ということで
脈略ないですが赤羽の細道、秘境あるいは街に溶け込んでいるむかしのなごりのご紹介でした。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

<橋のなごり>
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それに気付けば見る目も変わります



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2019年11月23日

元府趾 浦和の本太氷川神社にて

今回は地元浦和を散策中に出会った神社の話です。

<鳥居>
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浦和区本太(もとぶと)の氷川神社です。規模は大きくないものの、住宅地にありながら緑に囲まれた素敵な神社です。

<水舎>
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<社殿>
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歴史はかなり古く、創建年は定かではなものの、約1500年は鎮座していると伝わります。柵があって近づけませんでしたが、氷川神社の境内には1650年頃に建てられたと伝わる旧本殿も保存されています。

氷川神社は東京・埼玉の荒川沿いを中心に約280社あります。総本社は大宮に鎮座する武蔵一宮氷川神社。主祭神は建速須佐之男命(すさのおのみこと)です。

さて
たくさんある氷川神社のなかで、今回こちらの氷川神社をご紹介する理由は、下の御由緒に興味を持ったからです。

<御由緒>
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詳しく説明されています

ここに地名に関わる記載があり、これがこの日の最大の関心事となりました。『地名の由来は、当社の鳥居扁額に「元府址(もとふと)」と書かれていることから、国府の出先機関があった』とのこと。

元府趾?

もとは府があったあと

もとふと

なるほど。もう一度冒頭の鳥居を確認すると、確かに『元府趾』となっています。

<扁額>
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説明を読んでからでなかったら、まぁ良く分からない古い文字くらいに受け止めて素通りするところでした。良く見れば確かに元府趾と記載されています。

府、つまりは律令制の政府の出先機関、もっと簡単に言ってしまえば政務を取り扱う役所のようなものがこの地にあったということですね。教科書レベルかそれ以下の知識しかないのでなんとも言えませんが、奈良時代くらいと思って良いでしょうか?いずれにせよ、そうとう古い話ながら、かつてはここ本太は、統治のための拠点だったようです。

中央集権的な支配を目指す大きな流れのなごり

当時の中央から遠く離れたところで、そんなものに出会ったかと思うと、何となく感慨深いものがありました。役人が駐在していたのか、あるいは実質は地元の豪族に任されていたのか分りませんが、統治される側の地元の皆さんは、どんな立ち位置でこれと向き合っていたのでしょうかね。


<明治鳥居>
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本太氷川神社には昭和・室町・明治の3つの鳥居があります。この順番で鳥居をくぐるのがお勧めのようですが、私は逆になってしまいました。元府址の扁額がある鳥居は室町鳥居です。

<昭和鳥居>
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この付近のだけを見ると平坦な地形です。ただ御由緒には『東西に狭く、南北に長い小さな谷』とありました。ゆるやかな低地といった感じなのでしょうか。そして『「ふと」は低地や耕作・居住に適する地上いう意味』もあることから、これが地名の由来とする説もあるそうです。本当のところはどっちなんでしょうかね。

国府の出先機関があったあと
そう受け止めることにして浦和区本太をあとにしました。

■訪問:本太氷川神社
[埼玉県さいたま市浦和区本太]4

2019年08月03日

武士たちから始まる茶畑

<茶畑>
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こちらは静岡県島田市の茶畑です。幕府崩壊により失業した徳川家の家臣たちが、主の移住先である静岡で茶畑開墾に従事した。有名な話!らしいのですが、恥ずかしながら私は今年の諏訪原城訪問で初めて知りました。

江戸時代はまだ原野だった牧之原台地。
エリアでいうと現在の島田市と牧之原市、そして菊川市にまたがる台地です。高い場所にあることから、水の供給にも事欠いたということでしょうか。地元の農民も手を出さなかった土地に、果敢に挑んだ武士たちがいた。徳川家が幕府から一大名として駿府へ移された背景などを考えると、胸が熱くなる話です。やがて地元農民らによる開墾も加わり、いまでは日本一の製茶地帯です。凄いことですね。

生きる糧を得るための大変な苦労だったかと思いますが、武士たちの挑戦は今に繋がっています。当ブログで初めて知ったという方がいたら嬉しいです。

<堀跡と茶畑>
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こちらは牧之原台地の隅を利用して築かれた諏訪原城の堀跡です。向う側に茶畑が見えます。戦国末期に廃城となった城の一部も、茶畑に姿を変えました。


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