元禄 15年 12 月 14日夜
旧赤穂藩士47名が,江戸本所松坂町の吉良邸へ討ち入りました。今回の訪問は、主君の仇討ちを果たした赤穂浪士のうち、9人が預けられた大名屋敷の跡地です。
■水野監物邸跡■ みずのけんもつ
<屋敷跡地>
ここは三河岡崎藩水野家芝三田屋敷跡。とっても、路地の奥の狭いスペースに、屋敷の庭を模したような空間があるだけ。石灯籠と説明板が目印です。
<説明板>
本懐を遂げた赤穂浪士たちは、肥後熊本藩細川家・三河岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家・長門長府藩毛利家に分かれて 幕府の沙汰を待ちました。大石内蔵助は細川家。ここ水野家には以下の9人が預けられました。
間光興・奥田行高・矢頭教兼
村松高直・間瀬正辰・茅野常成
横川宗利・三村包常・神崎則休
この時の藩主は第4代の水野忠之(監物)。将軍吉宗の享保の改革を老中として支えた人物であり、後に天保の改革で名を馳せる水野忠邦は忠之の子孫。名門の譜代大名家ということですね。
赤穂事件の時、水野忠之はまだ三十代前半(老中となるのはもっと後の話です)。細川家を手本に、浪士たちを手厚くもてなしたと伝わります。
<石灯籠>
そして2月4日
幕命により、浪士たちは屋敷内で切腹となります。庭先ながら畳二枚が敷かれ、格式を重んじた形で刑に処されました。
<慶応仲通り商店街>
場所はJR田町駅から徒歩数分。ここを潜って更に進んだ小径の奥が屋敷跡です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。
■訪問:水野監物邸跡
[東京都港区芝] 5-20-20
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2018年12月14日
2018年12月06日
勝海舟 生誕の地 (両国公園)
つわものどもが夢の跡
幕末に活躍した幕臣・勝海舟の生まれた場所を訪ねました。
<両国公園>
最寄り駅はJR両国駅。両国公園の一角が、勝海舟生誕の地です。父親・小吉の実家で生まれた勝海舟(幼名麟太郎)は、7歳までこの地で過ごしたそうです。
もともと石碑だけだったようですが、大河ドラマ(西郷どん)の影響もあるのでしょうか?内容が充実しています。
大きな説明パネルには、勝の経歴が詳しく記されています。鳶が鷹を生んだ・黒船来航・幕府海軍の礎となる・・・
充実しすぎて、全部読むには時間がかかります(私には)。
かなり抜粋すると
蘭学を学び、西洋の測量や航海なども学び、やがて幕府の船として初めて太平洋を横断する咸臨丸の航海にも加わりました。新政府軍による江戸城総攻撃の直前、幕府側の代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城に成功。のちには明治政府にも重用されました。そして最後は、徳川慶喜が政府に赦免されることにも尽力しています。
大活躍ですね。
生い立ちに遡れば、勝の実家は旗本といっても知行は僅か41石。組織の安定期においては、重要なポストに就くことなどできない家柄です。外圧により組織の秩序が流動化した。これにより、働きの場を得ることができたのでしょうね。
■訪問:両国公園
[墨田区両国4-25-24]
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幕末に活躍した幕臣・勝海舟の生まれた場所を訪ねました。
<両国公園>
最寄り駅はJR両国駅。両国公園の一角が、勝海舟生誕の地です。父親・小吉の実家で生まれた勝海舟(幼名麟太郎)は、7歳までこの地で過ごしたそうです。
もともと石碑だけだったようですが、大河ドラマ(西郷どん)の影響もあるのでしょうか?内容が充実しています。
大きな説明パネルには、勝の経歴が詳しく記されています。鳶が鷹を生んだ・黒船来航・幕府海軍の礎となる・・・
充実しすぎて、全部読むには時間がかかります(私には)。
かなり抜粋すると
蘭学を学び、西洋の測量や航海なども学び、やがて幕府の船として初めて太平洋を横断する咸臨丸の航海にも加わりました。新政府軍による江戸城総攻撃の直前、幕府側の代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城に成功。のちには明治政府にも重用されました。そして最後は、徳川慶喜が政府に赦免されることにも尽力しています。
大活躍ですね。
生い立ちに遡れば、勝の実家は旗本といっても知行は僅か41石。組織の安定期においては、重要なポストに就くことなどできない家柄です。外圧により組織の秩序が流動化した。これにより、働きの場を得ることができたのでしょうね。
■訪問:両国公園
[墨田区両国4-25-24]
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2018年12月04日
町火消「め組」の供養碑 増上寺
つわものどもが夢の跡
今回は江戸の消防団として活躍した「め組」の話です。
<供養碑>
増上寺境内に設けられている町火消「め組」の供養碑です。徳川家の菩提寺として知られる寺の境内に、町人の供養碑があることが意外でした。
■町火消■まちびけし
火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。
武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのでしょうね。
■め組■
町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。
吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です。
■め組の喧嘩■1805年3月
これは江戸時代に実際に起きた町火消しと力士の乱闘事件です。芝神明宮境内で開催中の相撲の入場を巡ってトラブルになり、これを発端に双方が徐々にエスカレートして、最後は大乱闘に至ったというものです。屈強な鳶職が多いといっても、よりによって力士と戦わなくてもと思いますが、その辺りが気質を現わしているのかも知れませんね。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言ったりしますが、め組はその両方を地でいった男達なのかもしれませんね。
<め組のけんか>
芝大門の近くで撮影
で、この喧嘩に対する町奉行のお裁きや如何に?これには相撲興行を取り仕切る寺社奉行、更には勘定奉行まで加わって協議がなされたそうです。結果はめ組に厳しいものとなりました。そもそも喧嘩の原因は、入場無料の「め組」の二人が、知人まで境内に連れ込もうとした事。更に、緊急時しか使用が認められていない火の見櫓の早鐘を、喧嘩で鳴らしており、これらの事実を元に、裁きが言い渡されたようです。め組は二人が江戸追放で他は罰金。比較的軽い罰で済んだようです。力士は江戸払いが一人、他はお咎めはなしでした。ちょっと変わった裁きが、この時に鳴らされた小型の鐘が遠島となっています。
<芝神明宮のいま>
現在の芝神明宮。増上寺のすぐそばです。伊勢宮の分霊を祀っていることから、「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。明治以降は芝大神宮と呼ばれています。
<拝殿>
<め組>
この界隈はめ組の管轄でした。左右の狛犬の足元、台座にしっかりと『め組』の名が刻まれています。
<境内の力石>
力石は力競べのための重い石のことですね。境内のこの力石は、芝大神宮で行われた興行で、力士・藤吉が片手で持ち上げたものとされています。五拾貫余?50貫は約190キロになります。それを片手で!凄いですね。
め組の喧嘩を意識し過ぎて、江戸時代の力士?と思い込んでしまいましたが、後で調べたら藤吉(通称は「金杉の藤吉」)は明治時代の力士とのことです。ただ、神社と相撲と庶民が、いまよりずっと近い距離だったような雰囲気は味わえました。
<芝大神宮>
[東京都港区芝大門]
■つわものどもが夢の跡■
<供養碑>
増上寺の境内は史跡が多く、見どころ満載。その中にあって、この供養碑はちょっと地味です。ただ、当ブログがきっかけで立ち止まってくる人がいたら嬉しいです。江戸の町を悩まし続けた火事。これに命掛けで立ち向った者達の供養碑です。
<増上寺>
[東京都港区芝公園]
今回は江戸の消防団として活躍した「め組」の話です。
<供養碑>
増上寺境内に設けられている町火消「め組」の供養碑です。徳川家の菩提寺として知られる寺の境内に、町人の供養碑があることが意外でした。
■町火消■まちびけし
火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。
武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのでしょうね。
■め組■
町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。
吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です。
■め組の喧嘩■1805年3月
これは江戸時代に実際に起きた町火消しと力士の乱闘事件です。芝神明宮境内で開催中の相撲の入場を巡ってトラブルになり、これを発端に双方が徐々にエスカレートして、最後は大乱闘に至ったというものです。屈強な鳶職が多いといっても、よりによって力士と戦わなくてもと思いますが、その辺りが気質を現わしているのかも知れませんね。『火事と喧嘩は江戸の華』などと言ったりしますが、め組はその両方を地でいった男達なのかもしれませんね。
<め組のけんか>
芝大門の近くで撮影
で、この喧嘩に対する町奉行のお裁きや如何に?これには相撲興行を取り仕切る寺社奉行、更には勘定奉行まで加わって協議がなされたそうです。結果はめ組に厳しいものとなりました。そもそも喧嘩の原因は、入場無料の「め組」の二人が、知人まで境内に連れ込もうとした事。更に、緊急時しか使用が認められていない火の見櫓の早鐘を、喧嘩で鳴らしており、これらの事実を元に、裁きが言い渡されたようです。め組は二人が江戸追放で他は罰金。比較的軽い罰で済んだようです。力士は江戸払いが一人、他はお咎めはなしでした。ちょっと変わった裁きが、この時に鳴らされた小型の鐘が遠島となっています。
<芝神明宮のいま>
現在の芝神明宮。増上寺のすぐそばです。伊勢宮の分霊を祀っていることから、「関東のお伊勢さま」として親しまれてきました。明治以降は芝大神宮と呼ばれています。
<拝殿>
<め組>
この界隈はめ組の管轄でした。左右の狛犬の足元、台座にしっかりと『め組』の名が刻まれています。
<境内の力石>
力石は力競べのための重い石のことですね。境内のこの力石は、芝大神宮で行われた興行で、力士・藤吉が片手で持ち上げたものとされています。五拾貫余?50貫は約190キロになります。それを片手で!凄いですね。
め組の喧嘩を意識し過ぎて、江戸時代の力士?と思い込んでしまいましたが、後で調べたら藤吉(通称は「金杉の藤吉」)は明治時代の力士とのことです。ただ、神社と相撲と庶民が、いまよりずっと近い距離だったような雰囲気は味わえました。
<芝大神宮>
[東京都港区芝大門]
■つわものどもが夢の跡■
<供養碑>
増上寺の境内は史跡が多く、見どころ満載。その中にあって、この供養碑はちょっと地味です。ただ、当ブログがきっかけで立ち止まってくる人がいたら嬉しいです。江戸の町を悩まし続けた火事。これに命掛けで立ち向った者達の供養碑です。
<増上寺>
[東京都港区芝公園]
大平出羽守と奥澤神社
つわものどもが夢の跡
吉良氏から奥沢城を任された大平出羽守ゆかりの地を訪ねました。
■奥澤神社■
<奥澤神社>
世田谷区奥沢の奥澤神社です。
創建の時期は明らかではありませんが、世田谷城を居城とする吉良氏が奥沢に城を築いた頃と考えられています。城を任された家臣の大平氏が、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請した。これが現在に続く奥澤神社の始まりと考えられています。
<鳥居と大蛇>
これは目立ちますね
<藁で作った大蛇>
江戸時代中期頃から、厄除としてこの大蛇を抱えて練り歩く行事が行われるようになったそうです。いまでも「大蛇お練り行事」として続いています。この地の伝統となっているわけですね。
■奥沢城■
<奥沢城跡>
当ブログでも何回かご紹介させて頂いた奥沢城跡です。吉良頼康により築かれ、家臣の大平出羽守が城主をつとめました。世田谷城の出城的な存在。築城者を大平出羽守とする説もあります。大平氏はもともと地元の有力な土豪。戦国期に吉良氏の家臣に加わり、耕地の開発などで力を発揮しました。
<土塁跡>
城のなごり。低湿地の台地に築かれた平城を、ほぼ方形に取り囲んでいた土塁の跡です。
<九品仏浄真寺>
戦国末期、吉良氏は北条氏の勢力に組み込まれていました。豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、奥沢城は廃城。跡地に浄真寺が創建され、現在に至っています。
<境内>
深まる秋
■帰農■
吉良氏の家臣としてこの地を任された大平出羽守。その間、娘・常盤姫が吉良頼康の側室となりながら亡くなる悲劇もありました。そして1590年の小田原北条氏滅亡。主君である吉良氏は下総国に逃れました。では大平出羽守はどうしたのでしょう。
元々地元の土豪だった大平氏。この地に留まり、等々力で帰農しました。地元の名主と伝わります。
■つわものどもが夢の跡■
名門家の配下となり、世田谷周辺の村々を任された大平出羽守。この神社は、領内の更なる発展に思いを馳せた大平出羽守の夢の跡なのかも知れませんね。
<奥澤神社本堂>
[世田谷区奥沢]
お城巡りランキング
-----■追 記■-----
奥沢城については別途まとめています。城跡ブログのつもりで運営しておりますので、良かった覗いてみて下さい。『鷺草伝説』として語り継がれる大平出羽守の娘の悲話についても多少触れさせて頂いています。
→『記事へ進む』
吉良氏から奥沢城を任された大平出羽守ゆかりの地を訪ねました。
■奥澤神社■
<奥澤神社>
世田谷区奥沢の奥澤神社です。
創建の時期は明らかではありませんが、世田谷城を居城とする吉良氏が奥沢に城を築いた頃と考えられています。城を任された家臣の大平氏が、世田谷郷東部の守護として八幡社を勧請した。これが現在に続く奥澤神社の始まりと考えられています。
<鳥居と大蛇>
これは目立ちますね
<藁で作った大蛇>
江戸時代中期頃から、厄除としてこの大蛇を抱えて練り歩く行事が行われるようになったそうです。いまでも「大蛇お練り行事」として続いています。この地の伝統となっているわけですね。
■奥沢城■
<奥沢城跡>
当ブログでも何回かご紹介させて頂いた奥沢城跡です。吉良頼康により築かれ、家臣の大平出羽守が城主をつとめました。世田谷城の出城的な存在。築城者を大平出羽守とする説もあります。大平氏はもともと地元の有力な土豪。戦国期に吉良氏の家臣に加わり、耕地の開発などで力を発揮しました。
<土塁跡>
城のなごり。低湿地の台地に築かれた平城を、ほぼ方形に取り囲んでいた土塁の跡です。
<九品仏浄真寺>
戦国末期、吉良氏は北条氏の勢力に組み込まれていました。豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、奥沢城は廃城。跡地に浄真寺が創建され、現在に至っています。
<境内>
深まる秋
■帰農■
吉良氏の家臣としてこの地を任された大平出羽守。その間、娘・常盤姫が吉良頼康の側室となりながら亡くなる悲劇もありました。そして1590年の小田原北条氏滅亡。主君である吉良氏は下総国に逃れました。では大平出羽守はどうしたのでしょう。
元々地元の土豪だった大平氏。この地に留まり、等々力で帰農しました。地元の名主と伝わります。
■つわものどもが夢の跡■
名門家の配下となり、世田谷周辺の村々を任された大平出羽守。この神社は、領内の更なる発展に思いを馳せた大平出羽守の夢の跡なのかも知れませんね。
<奥澤神社本堂>
[世田谷区奥沢]
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-----■追 記■-----
奥沢城については別途まとめています。城跡ブログのつもりで運営しておりますので、良かった覗いてみて下さい。『鷺草伝説』として語り継がれる大平出羽守の娘の悲話についても多少触れさせて頂いています。
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2018年11月27日
江戸無血開城に至る会談の場所 田町の薩摩藩邸跡
■西郷・勝会見の場所■
<西郷南洲・勝海舟会見の地>
新政府軍による江戸城総攻撃が開始される直前、攻める側の西郷隆盛と、幕府側の勝海舟の会談が行われた場所です。2018年大河ドラマ「西郷どん」の影響で、ちょっとした人気スポットになっています。
<現地撮影>
西郷と勝の会談
<現地撮影(地図)>
ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷があったところ。
<三菱自動車>
現在は三菱自動車工業の本社ビルとなっています。
二人の会談はまず高輪の薩摩藩下屋敷で行われ、翌日この地にて2度目の話し合いがなされたようです。二人といっても、各々が複雑な事情をたくさん背負った上での交渉。条件が合意に至らない場合、戦もあり得ました。既にその準備はできていましたので。ギリギリの話し合いだったわけですね。
ちょっと移動して、同じく港区芝の別の場所へ
<薩摩藩上屋敷跡>
こちらは薩摩藩上屋敷跡。NEC本社ビルの敷地です。
<石碑>
冒頭の蔵屋敷跡から徒歩圏内。上屋敷があるなら、なんでここを会談の場所としなかったの?実は薩摩藩と対立関係にあった庄内藩の焼き討ちにより、薩摩藩の上屋敷は既に焼失していました。
<NEC本社ビル付近>
晩秋の薩摩藩上屋敷跡。将軍家に嫁ぐ篤姫が、江戸で暮らし始めた場所ということですね。
■江戸無血開城■
江戸城の明け渡しが決まりました。これにより、江戸城下は戦火を免れました。兵士のみならず、市民の命も救われたわけですね。
ただ、ここで戦はここで終わりませんでした。徳川家の本城が、戦うことなく明け渡された。この事実は、のちの会津戦争にも大きく影響したのではないでしょうか。そういう意味でも、今回訪問の地は、歴史的に重みのある場所だと思えました。
<田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)跡>
[東京都港区芝]5丁目
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<西郷南洲・勝海舟会見の地>
新政府軍による江戸城総攻撃が開始される直前、攻める側の西郷隆盛と、幕府側の勝海舟の会談が行われた場所です。2018年大河ドラマ「西郷どん」の影響で、ちょっとした人気スポットになっています。
<現地撮影>
西郷と勝の会談
<現地撮影(地図)>
ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷があったところ。
<三菱自動車>
現在は三菱自動車工業の本社ビルとなっています。
二人の会談はまず高輪の薩摩藩下屋敷で行われ、翌日この地にて2度目の話し合いがなされたようです。二人といっても、各々が複雑な事情をたくさん背負った上での交渉。条件が合意に至らない場合、戦もあり得ました。既にその準備はできていましたので。ギリギリの話し合いだったわけですね。
ちょっと移動して、同じく港区芝の別の場所へ
<薩摩藩上屋敷跡>
こちらは薩摩藩上屋敷跡。NEC本社ビルの敷地です。
<石碑>
冒頭の蔵屋敷跡から徒歩圏内。上屋敷があるなら、なんでここを会談の場所としなかったの?実は薩摩藩と対立関係にあった庄内藩の焼き討ちにより、薩摩藩の上屋敷は既に焼失していました。
<NEC本社ビル付近>
晩秋の薩摩藩上屋敷跡。将軍家に嫁ぐ篤姫が、江戸で暮らし始めた場所ということですね。
■江戸無血開城■
江戸城の明け渡しが決まりました。これにより、江戸城下は戦火を免れました。兵士のみならず、市民の命も救われたわけですね。
ただ、ここで戦はここで終わりませんでした。徳川家の本城が、戦うことなく明け渡された。この事実は、のちの会津戦争にも大きく影響したのではないでしょうか。そういう意味でも、今回訪問の地は、歴史的に重みのある場所だと思えました。
<田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)跡>
[東京都港区芝]5丁目
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2018年11月05日
吉良邸跡 清水一学ほか家臣の石碑
つわものどもが夢の跡
赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡を訪問しました。
■本所松坂町公園■ほんじょ
吉良家屋敷跡はJR両国駅東口から徒歩圏内(10分以内)です。国技館や大江戸博物館とは逆側になります。
<吉良邸跡>
到着しました。ここですね。では中に入ってみますか。赤穂浪士は47名で討ち入りましたが、一人で突入です。
<入口>
いきなり奥に吉良上野介を発見!といっても、何の遺恨もありません。
<吉良上野介義央公座像>よしひさ
吉良家は清和源氏足利氏流の名門。吉良義央は、幕府の儀式や典礼を任されている高家旗本でした。そしてこの屋敷の主ですね。
<首洗いの井戸>
みしるし洗いの井戸。名の通りです。
<松坂稲荷>
こちらは「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。
<展示物>
忠臣蔵に基づいた各種の展示物。忠臣蔵は好きです。大好きな話です。ただ、諸説ありながら、ほぼヒール役になっている吉良さんに同情する思いもあります。そもそもここは、吉良さんのおうちですよね!
<忠臣蔵に関する立て札>
公園というより、壁に囲まれたミニ博物館のような空間です。広さは30坪弱。ここはかつての屋敷の一部に過ぎず、吉良邸の広さはこの説明文によれば2550坪だったそうです。ピンときませんが、そうとう広いことは分ります。
赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入ったことは良く知られていますね。ではその距離とはどんなものだったのか?47名で押し入っても、討ち漏らす可能性は充分あったのではないか?
それを実感してみたい。空間を肌で感じてみたい。今回の訪問の目的は、たったそれだけです。
公園から少し離れたところに、吉良邸の正門跡と裏門跡の立て札があります。これを確認してみますかね。
<吉良邸正門跡>
屋敷の東側、ここですね。門はありませんが、この札のお陰で位置はわかります。大石内蔵助を筆頭に、23人が正門から屋敷へ突入しました。大高源五や原惣右衛門は表門隊です。
<吉良邸裏門跡>
場所は変わってこちらは裏門跡。屋敷の西側です。最年少の大石主税を筆頭に、24人がこちら側から討ち入りました。堀部安兵衛や不破数右衛門、潮田又之丞らも裏門隊です。
ということで、同じ屋敷の正門と裏門ですが、結構な距離でした。屋敷を挟んで意思の疎通を図るのは難しそうですね。吉良邸は東西約134m、南北が約63mもあったとのこと。炭小屋に隠れた吉良上野介を、なかなか見つけられなかったというのも納得です。また、確実を期するため、浪士数名がこの周辺に住んで事前調査を行っていたというのも分かる気がしました。
■吉良家の家臣■
松之大廊下での刃傷事件から約半年後、吉良家は呉服橋(今で言うと八重洲)からこの地に移転を命じられました。以前より人気の少ない郊外へ引っ越してくれたのですから、これは襲撃する側にとっては好都合。狙われるかもしれない上野介本人も、吉良家の家臣たちも、そのことは充分意識していたことでしょう。
<家臣の石碑>
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士たちが遂に吉良邸へ討ち入りました。厳密にいうと15日の明け方ということになります。当時屋敷内には百人前後の家来がいましたが、実際に赤穂浪士たちと戦ったのは40人にも満たなかったとされています。石碑には、寝込みを襲われながら奮闘し、命を落とした家臣たちの名が刻まれています。
<吉良家家臣二十士>
吉良家側の死傷者は三十八名とされています。この石碑には家老の小林平八郎、清水一学など、二十士の名が記されています。みな主君を守るべく戦いました。
■清水一学■ いちがく
忠臣蔵の小説や時代劇では、知的にして二刀流の達人として登場しますね。私のイメージもそのままです。よって、名門吉良家に古くから仕える家柄なのだろうと思っていました。
ところが、実際には三河の百姓の生まれです。幼名は藤作。少年期から剣術に励み、吉良家当主である義央に目をかけられ、15歳で中小姓にとりたてられました。剣術に優れていたようですが、二刀流というのは後世のつくり話のようです。赤穂浪士が討ち入った時、一学は25歳になっていました。主である吉良上野介を守るべく奮戦したようですが、この屋敷内で命を落としました。
自分の才能を見出してくれた人に、一学はきっと日頃から忠義を尽くしていたことでしょう。それは立場が上の者にただ従うといった組織上の役割ではなく、己を認めた者に対し、恩を返したいという欲求に近いものだったのではないでしょうか。死を覚悟で討ち入った赤穂浪士も忠義なら、命懸けでこれと戦った清水一学もやはり忠義の侍。そう受けとめたいですね。
以上
赤穂浪士ファンが、吉良邸の広さを実感してみたくなり現地を訪問したものの、吉良家の家臣団に同情するような気持ちになったという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問
本所松坂町公園
[東京都墨田区両国]
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赤穂浪士が討ち入った吉良邸跡を訪問しました。
■本所松坂町公園■ほんじょ
吉良家屋敷跡はJR両国駅東口から徒歩圏内(10分以内)です。国技館や大江戸博物館とは逆側になります。
<吉良邸跡>
到着しました。ここですね。では中に入ってみますか。赤穂浪士は47名で討ち入りましたが、一人で突入です。
<入口>
いきなり奥に吉良上野介を発見!といっても、何の遺恨もありません。
<吉良上野介義央公座像>よしひさ
吉良家は清和源氏足利氏流の名門。吉良義央は、幕府の儀式や典礼を任されている高家旗本でした。そしてこの屋敷の主ですね。
<首洗いの井戸>
みしるし洗いの井戸。名の通りです。
<松坂稲荷>
こちらは「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。
<展示物>
忠臣蔵に基づいた各種の展示物。忠臣蔵は好きです。大好きな話です。ただ、諸説ありながら、ほぼヒール役になっている吉良さんに同情する思いもあります。そもそもここは、吉良さんのおうちですよね!
<忠臣蔵に関する立て札>
公園というより、壁に囲まれたミニ博物館のような空間です。広さは30坪弱。ここはかつての屋敷の一部に過ぎず、吉良邸の広さはこの説明文によれば2550坪だったそうです。ピンときませんが、そうとう広いことは分ります。
赤穂浪士が正門と裏門の二手に分かれて討ち入ったことは良く知られていますね。ではその距離とはどんなものだったのか?47名で押し入っても、討ち漏らす可能性は充分あったのではないか?
それを実感してみたい。空間を肌で感じてみたい。今回の訪問の目的は、たったそれだけです。
公園から少し離れたところに、吉良邸の正門跡と裏門跡の立て札があります。これを確認してみますかね。
<吉良邸正門跡>
屋敷の東側、ここですね。門はありませんが、この札のお陰で位置はわかります。大石内蔵助を筆頭に、23人が正門から屋敷へ突入しました。大高源五や原惣右衛門は表門隊です。
<吉良邸裏門跡>
場所は変わってこちらは裏門跡。屋敷の西側です。最年少の大石主税を筆頭に、24人がこちら側から討ち入りました。堀部安兵衛や不破数右衛門、潮田又之丞らも裏門隊です。
ということで、同じ屋敷の正門と裏門ですが、結構な距離でした。屋敷を挟んで意思の疎通を図るのは難しそうですね。吉良邸は東西約134m、南北が約63mもあったとのこと。炭小屋に隠れた吉良上野介を、なかなか見つけられなかったというのも納得です。また、確実を期するため、浪士数名がこの周辺に住んで事前調査を行っていたというのも分かる気がしました。
■吉良家の家臣■
松之大廊下での刃傷事件から約半年後、吉良家は呉服橋(今で言うと八重洲)からこの地に移転を命じられました。以前より人気の少ない郊外へ引っ越してくれたのですから、これは襲撃する側にとっては好都合。狙われるかもしれない上野介本人も、吉良家の家臣たちも、そのことは充分意識していたことでしょう。
<家臣の石碑>
元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂浪士たちが遂に吉良邸へ討ち入りました。厳密にいうと15日の明け方ということになります。当時屋敷内には百人前後の家来がいましたが、実際に赤穂浪士たちと戦ったのは40人にも満たなかったとされています。石碑には、寝込みを襲われながら奮闘し、命を落とした家臣たちの名が刻まれています。
<吉良家家臣二十士>
吉良家側の死傷者は三十八名とされています。この石碑には家老の小林平八郎、清水一学など、二十士の名が記されています。みな主君を守るべく戦いました。
■清水一学■ いちがく
忠臣蔵の小説や時代劇では、知的にして二刀流の達人として登場しますね。私のイメージもそのままです。よって、名門吉良家に古くから仕える家柄なのだろうと思っていました。
ところが、実際には三河の百姓の生まれです。幼名は藤作。少年期から剣術に励み、吉良家当主である義央に目をかけられ、15歳で中小姓にとりたてられました。剣術に優れていたようですが、二刀流というのは後世のつくり話のようです。赤穂浪士が討ち入った時、一学は25歳になっていました。主である吉良上野介を守るべく奮戦したようですが、この屋敷内で命を落としました。
自分の才能を見出してくれた人に、一学はきっと日頃から忠義を尽くしていたことでしょう。それは立場が上の者にただ従うといった組織上の役割ではなく、己を認めた者に対し、恩を返したいという欲求に近いものだったのではないでしょうか。死を覚悟で討ち入った赤穂浪士も忠義なら、命懸けでこれと戦った清水一学もやはり忠義の侍。そう受けとめたいですね。
以上
赤穂浪士ファンが、吉良邸の広さを実感してみたくなり現地を訪問したものの、吉良家の家臣団に同情するような気持ちになったという内容でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問
本所松坂町公園
[東京都墨田区両国]
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2018年11月02日
港区の塩釜公園 伊達家ゆかりの地
つわものどもが夢の跡
新橋5丁目の公園を訪ねました。
<公園のシンボル>
訪問した公園を象徴する鳥居と参道。鹽竈(しおがま)神社です。
<塩釜公園>
場所は新橋5丁目。港区の愛宕山から5百メートルほど東へ行ったところです。画像は公園の入り口付近、奥は冒頭の神社になっています。昼時には、どこからともなくサラリーマンが集まってきて、思い思いにランチを済ます姿が見受けられる場所。この時もなるべく人を避けて撮影しました。
この公園、港区のホームページによれば『関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付した』とのこと。
伊達?そう、あの伊達家です。興宗(おきむね)さんは明治生まれの伊達家32代当主(ちなみに政宗で17代)です。ここは仙台伊達藩の屋敷(中屋敷?)のあった場所。伊達家のご厚意から始まり、現在の姿に至っているわけですね。
もうちょっと正確に言うと、屋敷内にあった鹽竈神社の境内だった場所です。伊達家に限らず、大名は屋敷内に自身の国から神社の分霊を移して祀りました。鹽竈神社は、伊達の領内(塩竈市)にある本社から、四代藩主綱村(正宗のひ孫)が、芝口上屋敷(汐留の伊達家屋敷)へ分霊を迎え祀ったのがはじまりです(1695年)。のちにこの地に移されました。
<鹽竈神社のお隣>
同じ敷地内の稲荷神社です。こちらもいい雰囲気です。
つわものどもが夢の跡
<鹽竈神社の社殿>
伊達家屋敷内の神社は、いつしか庶民にも参拝が許されるようになります。安産の神様として信仰を受け、多くの女性が安産祈願に訪れたそうです。やがて境内が公園として整備され、いまでは会社員の憩いの場。もともとは伊達家の私的な神社でしたが、開かれたことで、たくさんの人に恩恵を与え続けています。
■訪問:塩釜公園
[港区新橋]五丁目19-7
-------追 記-------
2020年の12月初旬に再訪したところ、銀杏が鮮やかだったので画像を追加しておきます。
続いて
お隣の稲荷神社
よく見ると大黒さまと恵比寿さまが顔を出して笑ってます
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新橋5丁目の公園を訪ねました。
<公園のシンボル>
訪問した公園を象徴する鳥居と参道。鹽竈(しおがま)神社です。
<塩釜公園>
場所は新橋5丁目。港区の愛宕山から5百メートルほど東へ行ったところです。画像は公園の入り口付近、奥は冒頭の神社になっています。昼時には、どこからともなくサラリーマンが集まってきて、思い思いにランチを済ます姿が見受けられる場所。この時もなるべく人を避けて撮影しました。
この公園、港区のホームページによれば『関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付した』とのこと。
伊達?そう、あの伊達家です。興宗(おきむね)さんは明治生まれの伊達家32代当主(ちなみに政宗で17代)です。ここは仙台伊達藩の屋敷(中屋敷?)のあった場所。伊達家のご厚意から始まり、現在の姿に至っているわけですね。
もうちょっと正確に言うと、屋敷内にあった鹽竈神社の境内だった場所です。伊達家に限らず、大名は屋敷内に自身の国から神社の分霊を移して祀りました。鹽竈神社は、伊達の領内(塩竈市)にある本社から、四代藩主綱村(正宗のひ孫)が、芝口上屋敷(汐留の伊達家屋敷)へ分霊を迎え祀ったのがはじまりです(1695年)。のちにこの地に移されました。
<鹽竈神社のお隣>
同じ敷地内の稲荷神社です。こちらもいい雰囲気です。
つわものどもが夢の跡
<鹽竈神社の社殿>
伊達家屋敷内の神社は、いつしか庶民にも参拝が許されるようになります。安産の神様として信仰を受け、多くの女性が安産祈願に訪れたそうです。やがて境内が公園として整備され、いまでは会社員の憩いの場。もともとは伊達家の私的な神社でしたが、開かれたことで、たくさんの人に恩恵を与え続けています。
■訪問:塩釜公園
[港区新橋]五丁目19-7
-------追 記-------
2020年の12月初旬に再訪したところ、銀杏が鮮やかだったので画像を追加しておきます。
続いて
お隣の稲荷神社
よく見ると大黒さまと恵比寿さまが顔を出して笑ってます
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2018年11月01日
仙台伊達藩ゆかりの地 日テレタワー
つわものどもが夢の跡
今回は東北の雄・伊達家の上屋敷跡を訪ねました。場所は汐留の日本テレビです。
<現地>
■伊達家の上屋敷■
仙台の伊達家といえば加賀の前田家、薩摩の島津家につぐ外様大名。上屋敷もさぞ立派だったのでしょうね。仙台藩の初代藩主はご存じ伊達政宗ですね。政宗の時代の上屋敷は、現在の日比谷公園にあったとされています。
<日比谷公園>
こちらは日比谷公園内の上屋敷跡です。
以前投稿させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
当ブログ関連記事→『記事へすすむ』
他に愛宕下(現在の新橋5・6丁目)にも江戸屋敷を構えていましたが、1641年(既に政宗亡きあと)、今回訪問の場所に屋敷を設け、のちに上屋敷として使用したようです。
<今回の訪問の説明板>
こんな雰囲気だったようです
発掘調査の結果、屋敷には庭園、付近には汐留川に接する舟入場なども確認されたそうです。
<日テレタワーの下>
昔の面影はありませんが、この手前の道は、どうやら昔からあった道のようです。
■とある事件■
『寛永18年(1641)に設けた屋敷は、当初下屋敷として用いられたが、延宝4年(1676)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。
元禄15年(1702)12月15日、本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥のもてなしを受けたと言われる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られた粥は、仙台名産の仙台糒(ほしい:うるち米を蒸して乾燥させた保存食)であった。』
[説明文を転記]
説明文の最後は仙台市と日本テレビの連名となってますから、信用できますね。
糒は干し飯とも書きます。読み方は同じ「ほしい」。一度煮た米を天日に干したもので、要するに非常食ですね。戦の時の携帯食でもありました。これに急ぎ手を加え、赤穂浪士たちに振舞ったわけですね。
極寒の冬。本懐を遂げた武士たち。伊達家、粋な計らいですね。大石内蔵助は、のちに取調べを受けますが、この件には触れませんでした。仙台伊達藩に迷惑がかかることを避けたかったのですね。戦国時代に遡れば、奥州の覇者を目指した伊達家と、豊臣秀吉に徴用された浅野家とは不仲。美談として脚色があったとしても、いい話ですね。
つわものどもが夢の跡
<日テレタワー>
赤穂浪士たちはこの付近を通って主君の墓所へ向ったわけですね。
■訪問:日本テレビ
(仙台藩芝口上屋敷跡)
[港区東新橋]
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今回は東北の雄・伊達家の上屋敷跡を訪ねました。場所は汐留の日本テレビです。
<現地>
■伊達家の上屋敷■
仙台の伊達家といえば加賀の前田家、薩摩の島津家につぐ外様大名。上屋敷もさぞ立派だったのでしょうね。仙台藩の初代藩主はご存じ伊達政宗ですね。政宗の時代の上屋敷は、現在の日比谷公園にあったとされています。
<日比谷公園>
こちらは日比谷公園内の上屋敷跡です。
以前投稿させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
当ブログ関連記事→『記事へすすむ』
他に愛宕下(現在の新橋5・6丁目)にも江戸屋敷を構えていましたが、1641年(既に政宗亡きあと)、今回訪問の場所に屋敷を設け、のちに上屋敷として使用したようです。
<今回の訪問の説明板>
こんな雰囲気だったようです
発掘調査の結果、屋敷には庭園、付近には汐留川に接する舟入場なども確認されたそうです。
<日テレタワーの下>
昔の面影はありませんが、この手前の道は、どうやら昔からあった道のようです。
■とある事件■
『寛永18年(1641)に設けた屋敷は、当初下屋敷として用いられたが、延宝4年(1676)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。
元禄15年(1702)12月15日、本所吉良邸において、主君浅野内匠頭長矩の仇討ちを成し遂げ、その墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士は、この場所で粥のもてなしを受けたと言われる。あたかもレトルト食品のように瞬く間に作られた粥は、仙台名産の仙台糒(ほしい:うるち米を蒸して乾燥させた保存食)であった。』
[説明文を転記]
説明文の最後は仙台市と日本テレビの連名となってますから、信用できますね。
糒は干し飯とも書きます。読み方は同じ「ほしい」。一度煮た米を天日に干したもので、要するに非常食ですね。戦の時の携帯食でもありました。これに急ぎ手を加え、赤穂浪士たちに振舞ったわけですね。
極寒の冬。本懐を遂げた武士たち。伊達家、粋な計らいですね。大石内蔵助は、のちに取調べを受けますが、この件には触れませんでした。仙台伊達藩に迷惑がかかることを避けたかったのですね。戦国時代に遡れば、奥州の覇者を目指した伊達家と、豊臣秀吉に徴用された浅野家とは不仲。美談として脚色があったとしても、いい話ですね。
つわものどもが夢の跡
<日テレタワー>
赤穂浪士たちはこの付近を通って主君の墓所へ向ったわけですね。
■訪問:日本テレビ
(仙台藩芝口上屋敷跡)
[港区東新橋]
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