今回は日比谷通りから見える重要文化家財のご紹介です。徳川将軍家ゆかりの門です。
<旧有章院霊廟二天門>
■有章院霊廟■ゆうしょういんれいびょう
まず有章院ですが、これは将軍・徳川家継の院号です。家継?でピンとこない方でも、幼くして就任した将軍の話は聞いた事があるかもしれませんね。それが第7代将軍・家継です。第6代将軍・徳川家宣の四男ですが、兄弟はみな体が弱く早世し、その結果僅か4歳で将軍となりました(1713年)。新井白石などから教育を受け、将来を期待されましたが、風邪を悪化させて病の床に臥し、そのまま亡くなりました(1716年)。在位は3年でした。
<三つ葉葵>
家継の霊廟は、第8代将軍の徳川吉宗により1717年に建立されました。日光の東照宮を意識した豪華なものだったそうです。しかし、1945年の空襲により、当時国宝だった霊廟は大半が焼失。霊廟の表門が焼失を免れ、現在は東京プリンスホテルの敷地内に佇んでいます。国指定重要文化財です。土葬されていた家継の遺体は、増上寺内の徳川将軍墓所に移されています。15人の将軍のうち6名。家継の他に秀忠(2代)・家宣(6代)・家重(9代)・家慶(12代)・家茂(14代)がこの墓所で眠っています。
実はこの立派な門、修繕が終わったばかりなのです。修繕前は、朱塗りや金箔が剥げ落ち、やや痛々しいが漂う門でした。保存修理工事を大成建設が請け負うことになり、それ以降は長らく工事用のベールに包まれ、中を伺うことはできませんでした。
それが先月一部が見えるように
<2019年7月撮影>
作業現場を囲む壁はそのままですが、覆いが外されていました。いよいよかという期待を持ちながらも、その後なかなか明るいうちに訪問することができず、ようやくその全容を確認することができました。
<2019年8月撮影>
二天門、 つまり左右一対の天を安置した門です。この門の場合、多聞天と広目天。
<多聞天>たもんてん
右側が多聞天。北方を守る神です。別名の毘沙門天の方がよく知られていますかね。
<広目天>こうもくてん
左側は広目天。西方を守る神です。
この二神と増長天(南方を守る神)、持国天(東方を守る神)で、いわゆる四天王ですね。
かつての家継(有章院)の霊廟は、父であり6代将軍である家宣の文照院霊廟と並んでいたそうです。焼けてしまった文照院の門には、増長天と持国天の像が置かれていました。
ということで
改修工事が終わったばかりの旧有章院霊廟二天門のご紹介でした。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる人がいたら嬉しいです。
■訪問:
旧有章院霊廟二天門
[東京都港区芝公園]3
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2019年08月17日
2019年04月22日
ビルの谷間の首塚 将門塚(大手町)
<将門塚>まさかどづか
ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。
■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。
<大手町>
将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。
<説明板>
将門首塚の由来が記されています。
<屋敷跡>
右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。
■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。
上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと。
[将門塚保存会説明を抜粋]
<神田明神の幟>
14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。
<神田明神による説明>
少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。
<将門塚碑>
当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。
<カエルの置き物>
傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。
ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。
受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。
日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。
私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。
<平将門の首塚>
怖い場所ではありません
たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。
■訪問
平将門の首塚(将門塚)
[千代田区大手町]1-2-1
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ビルが建ち並ぶ東京のど真ん中。ひっそりとしていながら、神聖な空気が漂います。ここは平将門を供養している場所です。
■平将門の首塚■ たいらのまさかど
戦いに敗れた平将門の首級は、平安京まで運ばれ、都大路の河原に晒されました。3日目に夜空へ舞い上がり、故郷に向かって飛んでゆきましたが、力尽きてこの地に落ちたと伝えられています。将門の首級が落ちたと伝わる場所は他にも複数ありますが、ここ大手町が最も有名な伝承地。ちなみに、「さらし首」という言葉はよく耳にしますが、史料で確認できる範囲では将門が最初だそうです。
<大手町>
将門塚の位置に黄色の丸で加筆させてもらいました。正直言って、遠くからはあまり目立ちません。三井物産本社ビル付近、住所だと千代田区大手町一丁目2番1号になります。
<説明板>
将門首塚の由来が記されています。
<屋敷跡>
右手の説明板によれば、ここは江戸時代、酒井雅楽頭(譜代大名)の上屋敷だったそうです。
■平将門の戦い■
平将門は桓武平氏の武将。下総国佐倉(現在の佐倉市)を領有していました。上総国の国司であった父の死後、将門はまず身内と争って勝利、そしてその勢いは関東の他の国へと及びました。やがて自らを「新皇」と称し、朝廷と対立する立場に。つまり、朝廷からみて逆賊となったわけですね。しかし勢いもそこまで。関東武士・藤原秀郷らによって討たれました。
上の説明板から引用すると『平良将の子将門は 下総国に兵を起し 忽ちにして坂東八ヶ国を平定 自ら平新皇と称して政治の改革を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった』とのこと。
[将門塚保存会説明を抜粋]
<神田明神の幟>
14世紀初頭に疫病が流行。「これは将門の祟りだ」と噂されました。そこで神田明神が将門の霊を供養したところ、蔓延していた疫病が収まりました。これを機に、神田明神では平将門を神として祀ったそうです。
ただ明治時代になると、天皇が参拝する神社に「逆臣」が祀られていることが不都合となり、祭神から外されてしまったそうです。再び将門が神として祀られたのは昭和になってから。しかも昭和59年といいますから、復活までずいぶん長い時間を要したわけですね。
<神田明神による説明>
少し抜粋すると、『(平将門公は)武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました』とのこと。
西暦800年代の話ですからね。「強き」は絶大な権力を持つ朝廷から派遣された役人、そして「弱き」は民衆ということでしょう。搾取され続ける民衆の立場からすれば、将門は英雄だったのかもしれません。
<将門塚碑>
当ブログ、お墓の類は極力撮影を避けますが、こちらは供養碑ということで。ガラス張りとなっています。畏れ多くも、直接触れようとする方が多いからでしょうか。
<カエルの置き物>
傍らにガマガエルの置き物。ここだけでなく、周辺には多数の蛙の置物が奉納されています。将門の首が胴体を求めて飛んできたという伝説から「無事にカエル」という意味が込められているとのこと。そんな願いから、この地を訪れる人もいるわけですね。
ここ将門塚については、「移設しようとすると関係者が急死する」といった言い伝えがあります。最近でも、触れれば祟られると噂されたり、心霊スポットとして取り上げられたりしています。
受けとめ方は人それぞれで良いと思います。どうであれ、多くの人が訪れているのは事実。今回の私の訪問時(日曜日)にも、人が途切れることはありませんでした。
日本には「たたり神」という言葉、というか考え方が存在します。普通なら恐れられたり避けられたりする対象が、手厚く祀りあげることで、逆に強力な守護神となるという考え方です。菅原道真の例と同じく、将門が祀られる背景には、こういうものの捉え方があるわけですね。権力に苦しめられる民衆にとって、既存の権力を打ち砕く将門はどんな存在だったのでしょうか。それを感じてみる。思いを馳せてみる。日本人らしいとはどういうことなのか、気付く機会になるのではないでしょうか。
私なりに思うところがありましたが、それは私の内側にしまっておきます。ただ「鎮魂」という言葉の意味が、この日はいつもより重く感じられました。
<平将門の首塚>
怖い場所ではありません
たくさんの人たちから崇敬を受け続けてきた場所なのです。
■訪問
平将門の首塚(将門塚)
[千代田区大手町]1-2-1
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2019年04月21日
家康ゆかりの池 策の池 (荒木町)
今回は街探索の仲間たちと四谷の地形を楽しんでいたら、家康ゆかりの池と出会ったというお話です。良かったお付き合い下さい。
<策の池>むちのいけ
訪問は4月上旬。桜が満開でした。
■現地■
四谷三丁目駅に近い新宿区荒木町。ここは地形マニアの間では有名な場所です。起伏が激しく、更に四方を囲まれた窪地というユニークな構造。その道の方々が「スリバチ」と呼ぶ構造になっています。
水の流れが長年台地を削ることで、低地の三方が囲まれているというなら理解もできますが、ここは四方。ちょっと不自然な地形です。これは人の手によるもの?あるいは谷の出口で土砂崩れ?などなど。現地ではいろいろ考えてしまいましたが、帰宅してから調べたら、やはり人の手、つまり造成された結果のようです。具体的には、北側にあった谷の出口に、土手が築かれたとのこと。
<スリバチの細道>
尾根道となっている甲州街道を逸れて、低い場所へと向かいます。この細い路地、何となく心魅かれます。
<階段>
細い路地を降りきると、東側に階段が現れました。高低差、伝わりますでしょうか。こういう地形の中で人が暮らすと、結果として階段の多い町になりますね。今回のご紹介は、そんなスリバチ地形の底でみつけた小さな池です。
<現地>
ここです。
<崖の下>
池の向こう側は壁。昔なら崖ということでしょうか
<池と弁天様>
池の隅には弁天様
<津の守弁財天>つのかみ
津の守は摂津守にちなんだ呼び名です。この辺り一帯は、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷でした。庭には湧き出す水を堰き止めて造った池があり、そのなごりがこの池です。昔はもっと大きく、更には天然の滝が流れ込む池だったようです。崖のどこかが地水の出口となっていたわけですね。
■家康ゆかりの池■
鷹狩りの際、徳川家康が馬に用いるムチ(策)をこの地で洗ったとされることから、池は「策の池」と呼ばれるようになったとされています。
<説明板>
策の池の説明。ちょっと撮影しにくい説明板でした。前半を抜粋させてもらうと『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。』とのこと。人気だったようですね。
説明文の後半にも記されていますが、この付近一帯は先述の松平摂津守の上屋敷となり、池は一般庶民からは遠い存在となります。しかし明治になると再び庶民に解放され、湧き出る水が人を魅了する景勝地として知られたそうです。いまでは水も枯れ、滝の姿はありませんが、残された小さな池にそのなごりを感じることができました。
<北側の階段からの眺め>
四方を囲まれたスリバチ状の地形。どうも北側のこの付近が、人が手を加えた地形のようです。松平摂津守の屋敷が造られた時に、谷の出口を塞いだと考えられます。
このユニークな地形を存分に味わい、家康ゆかりの池とも出会えました。
<策の池の桜>
そして桜も見事でした。
ということで
満足な荒木町散歩となりました。
■訪問:
津の守弁財天・策の池
[新宿区荒木町]
----- 追加画像 -----
<住友不動産四谷ビル>
近くのビル。通り過ぎようとしたら
<気になるサイン>
古地図らしきものが目に入り立ち止まる
<史跡案内>
この地が松平摂津守の上屋跡であることが記されています。こういう粋な演出、街探索をする側にとっては嬉しいですね。
<策の池>むちのいけ
訪問は4月上旬。桜が満開でした。
■現地■
四谷三丁目駅に近い新宿区荒木町。ここは地形マニアの間では有名な場所です。起伏が激しく、更に四方を囲まれた窪地というユニークな構造。その道の方々が「スリバチ」と呼ぶ構造になっています。
水の流れが長年台地を削ることで、低地の三方が囲まれているというなら理解もできますが、ここは四方。ちょっと不自然な地形です。これは人の手によるもの?あるいは谷の出口で土砂崩れ?などなど。現地ではいろいろ考えてしまいましたが、帰宅してから調べたら、やはり人の手、つまり造成された結果のようです。具体的には、北側にあった谷の出口に、土手が築かれたとのこと。
<スリバチの細道>
尾根道となっている甲州街道を逸れて、低い場所へと向かいます。この細い路地、何となく心魅かれます。
<階段>
細い路地を降りきると、東側に階段が現れました。高低差、伝わりますでしょうか。こういう地形の中で人が暮らすと、結果として階段の多い町になりますね。今回のご紹介は、そんなスリバチ地形の底でみつけた小さな池です。
<現地>
ここです。
<崖の下>
池の向こう側は壁。昔なら崖ということでしょうか
<池と弁天様>
池の隅には弁天様
<津の守弁財天>つのかみ
津の守は摂津守にちなんだ呼び名です。この辺り一帯は、美濃国高須藩主・松平摂津守の上屋敷でした。庭には湧き出す水を堰き止めて造った池があり、そのなごりがこの池です。昔はもっと大きく、更には天然の滝が流れ込む池だったようです。崖のどこかが地水の出口となっていたわけですね。
■家康ゆかりの池■
鷹狩りの際、徳川家康が馬に用いるムチ(策)をこの地で洗ったとされることから、池は「策の池」と呼ばれるようになったとされています。
<説明板>
策の池の説明。ちょっと撮影しにくい説明板でした。前半を抜粋させてもらうと『江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。』とのこと。人気だったようですね。
説明文の後半にも記されていますが、この付近一帯は先述の松平摂津守の上屋敷となり、池は一般庶民からは遠い存在となります。しかし明治になると再び庶民に解放され、湧き出る水が人を魅了する景勝地として知られたそうです。いまでは水も枯れ、滝の姿はありませんが、残された小さな池にそのなごりを感じることができました。
<北側の階段からの眺め>
四方を囲まれたスリバチ状の地形。どうも北側のこの付近が、人が手を加えた地形のようです。松平摂津守の屋敷が造られた時に、谷の出口を塞いだと考えられます。
このユニークな地形を存分に味わい、家康ゆかりの池とも出会えました。
<策の池の桜>
そして桜も見事でした。
ということで
満足な荒木町散歩となりました。
■訪問:
津の守弁財天・策の池
[新宿区荒木町]
----- 追加画像 -----
<住友不動産四谷ビル>
近くのビル。通り過ぎようとしたら
<気になるサイン>
古地図らしきものが目に入り立ち止まる
<史跡案内>
この地が松平摂津守の上屋跡であることが記されています。こういう粋な演出、街探索をする側にとっては嬉しいですね。
2019年04月07日
若き剣豪 沖田総司終焉の地 (千駄ヶ谷)
つわものどもが夢の跡
新選組一番隊組長・沖田総司終焉の地を訪ねました。
<説明板>
剣豪としても知られる沖田総司。とても明るい性格だったようです。しかし若くして肺を患い、第一線から退いてここ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われていました。
<説明板の背後>
説明板の後ろ側、これは堀跡?
かつての堀なら興味深いところですが、川の跡です。ここには旧渋谷川が流れていました。そして総司が身を寄せていた植木屋平五郎の家は、この付近、つまり渋谷川沿いだったようです。
<旧渋谷川>
明治以前の千駄ヶ谷ですからね。今と違って、のどかに川が流れる場所だったのでしょう。天才剣士・沖田総司が眺めたかもしれない川は、暗渠化されて姿を消しました。しかし残された区画には、人を和ませる空気がいまも漂っています。
総司は幕府の医師・松本良順の治療の甲斐も無く、植木屋平五郎宅でそのまま亡くなったと伝わります(慶応4年5月30日)。この時の年齢については諸説ありますが、いずれにせよ20代。新選組局長・近藤勇が、板橋の刑場で処刑されてから2ヶ月後のことでした。
周囲の者達の配慮で、師である近藤の死が総司に伝わることはありませんでした。それ故に、総司は死の間際まで近藤の安否を気にしていたそうです。
■訪問:沖田総司 逝去の地
(大京町交番の隣)
[新宿区大京町]28番地
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新選組一番隊組長・沖田総司終焉の地を訪ねました。
<説明板>
剣豪としても知られる沖田総司。とても明るい性格だったようです。しかし若くして肺を患い、第一線から退いてここ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に匿われていました。
<説明板の背後>
説明板の後ろ側、これは堀跡?
かつての堀なら興味深いところですが、川の跡です。ここには旧渋谷川が流れていました。そして総司が身を寄せていた植木屋平五郎の家は、この付近、つまり渋谷川沿いだったようです。
<旧渋谷川>
明治以前の千駄ヶ谷ですからね。今と違って、のどかに川が流れる場所だったのでしょう。天才剣士・沖田総司が眺めたかもしれない川は、暗渠化されて姿を消しました。しかし残された区画には、人を和ませる空気がいまも漂っています。
総司は幕府の医師・松本良順の治療の甲斐も無く、植木屋平五郎宅でそのまま亡くなったと伝わります(慶応4年5月30日)。この時の年齢については諸説ありますが、いずれにせよ20代。新選組局長・近藤勇が、板橋の刑場で処刑されてから2ヶ月後のことでした。
周囲の者達の配慮で、師である近藤の死が総司に伝わることはありませんでした。それ故に、総司は死の間際まで近藤の安否を気にしていたそうです。
■訪問:沖田総司 逝去の地
(大京町交番の隣)
[新宿区大京町]28番地
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2019年03月20日
ひっそりと佇む将軍ゆかりの門 御成門
<御成門>おなりもん
都営三田線に「御成門」という駅があります。駅名で○○門と聞くと、桜田門・虎ノ門・半蔵門といった「江戸城の城門」を想像しますよね(私だけ)?今回訪問の御成門は城の門ではなく、寺の門。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の門です。
<柵の中>
やや置物のような佇まい。ひっそりと映るのは、門としては機能していないからでしょうか?様式としては、城門などでも良く見かける高麗門です。
<アップ>
全体としては趣がありますが、細部においてはちょっと疲れた感が漂います。
増上寺の門とご紹介しましたが、現在の増上寺からはちょっと離れた場所にあります。具体的には東京プリンスホテルの駐車場の北側。最初からここにあったわけではなく、もともとは現在の御成門交差点(駅付近)にありました。道路(日比谷通り)整備の都合で、明治25年に移設されました。
<御成門駅出口>
<付近の地図>
御成門交差点は右下。この付近まで増上寺だったということですね。そして、そこに御成門があった。なるほど。
この御成門、もともとは増上寺の「裏門」だったそうです。将軍家が参詣する際によく使用したことから、やがて御成門と呼ばれるようになりました。
<将軍が出入りした門>
ということで
御成門は増上寺の門、そして将軍家ゆかりの門というお話でした。同じ景色も、知れば違った景色に映りますね。
■訪問:御成門
[港区芝公園]
----- 追 記 -----
2019年11月に再訪
今度は門の内側から撮影しました。こちらは更に疲れた感が漂います。
<御成門の裏側>
表以上に老朽化が目立ちます。
歴史を刻んだ貴重な建物。過度な修復は期待しませんが、もう少しだけ手を加えてもらえると安心できますね。
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都営三田線に「御成門」という駅があります。駅名で○○門と聞くと、桜田門・虎ノ門・半蔵門といった「江戸城の城門」を想像しますよね(私だけ)?今回訪問の御成門は城の門ではなく、寺の門。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の門です。
<柵の中>
やや置物のような佇まい。ひっそりと映るのは、門としては機能していないからでしょうか?様式としては、城門などでも良く見かける高麗門です。
<アップ>
全体としては趣がありますが、細部においてはちょっと疲れた感が漂います。
増上寺の門とご紹介しましたが、現在の増上寺からはちょっと離れた場所にあります。具体的には東京プリンスホテルの駐車場の北側。最初からここにあったわけではなく、もともとは現在の御成門交差点(駅付近)にありました。道路(日比谷通り)整備の都合で、明治25年に移設されました。
<御成門駅出口>
<付近の地図>
御成門交差点は右下。この付近まで増上寺だったということですね。そして、そこに御成門があった。なるほど。
この御成門、もともとは増上寺の「裏門」だったそうです。将軍家が参詣する際によく使用したことから、やがて御成門と呼ばれるようになりました。
<将軍が出入りした門>
ということで
御成門は増上寺の門、そして将軍家ゆかりの門というお話でした。同じ景色も、知れば違った景色に映りますね。
■訪問:御成門
[港区芝公園]
----- 追 記 -----
2019年11月に再訪
今度は門の内側から撮影しました。こちらは更に疲れた感が漂います。
<御成門の裏側>
表以上に老朽化が目立ちます。
歴史を刻んだ貴重な建物。過度な修復は期待しませんが、もう少しだけ手を加えてもらえると安心できますね。
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2019年03月10日
風さそふ 浅野内匠頭終焉の地
つわものどもが夢の跡
浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太の屋敷跡を訪ねました。
<浅野内匠頭終焉之地碑>
■場所は新橋■
江戸城松之大廊下での事件のあと、拘束された浅野内匠頭の身柄は一関藩田村家の上屋敷へ移されました。屋敷は芝愛宕下、現在の住所だと港区新橋4丁目付近となります。
<説明板>
藩主は田村建顕(たつあき)。官位として従五位下・右京大夫を任ぜられ、田村右京太の名で通っています。
■慌ただしい一日■
江戸城内での事件は午前。その後すぐ(午後2時頃には)、田村家へのお預けが決まります。田村右京太は急ぎ屋敷に戻り、藩士75名を身柄受け取りのために江戸城へ向かわせました。
夕方には浅野内匠頭が当地へ移送されています。その後間もなく、大目付の庄田安利らが田村家の屋敷に到着し、切腹と浅野家の改易を言い渡しました。
田村家では「しばらく預かる」つもりでいたようです。それが即刻切腹。間もなく、屋敷の庭で切腹が執行されました。
突然の事件、慌ただしいお役目、そして想定外の措置。田村家も大混乱だったことでしょう。
■田村家屋敷跡■
冒頭の石碑は日比谷通り沿いにあります。厳密に言うと、屋敷はもうちょっと奥(つまり現在の日比谷通りに面してはいない区画)のようです。石碑は目立つように、あえて人通りの多い場所に設置したのでしょう。まぁだいたい合ってます。
ところで
この付近で営業している和菓子屋さんがいま人気となっています。
<新正堂>
こちら。新正堂さんです。
<看板>
この看板の通り、このお店の名物は「切腹最中」です。
<切腹最中>
お詫びの品としても人気があります。
新正堂さんは石碑から数百メートルのところ。田村家屋敷があった区画のようです。
■浅野内匠頭終焉の地■
さて
松之大廊下での刃傷から僅か半日で、浅野内匠頭には身分剥奪と所領の没収、切腹が言い渡されました。そして預けられた田村家屋敷でそのまま切腹。心の準備もなく、無念であったこと計り知れません。
<浅野内匠頭>
官名から内匠頭(たくみのかみ)と呼ばれる浅野長矩(ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。この時35歳でした。
沙汰が言い渡された長矩は、幕府の役人に付き添われ、屋敷の庭へと移されました。切腹場は、朝廷から官位を任ぜられた五万石の藩主には似つかわしくない、とても簡素なものでした。お家断絶と切腹を言い渡した大目付ら立会いのもと、長矩は幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で果てました。これが1701年4月21日の出来事です。
■浅野内匠頭 辞世の句■
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん
<つわものどもが夢の跡>
私の訪問は3月上旬。終焉之地の石碑の隣で、今年もまた春の花が咲き誇っていました。
■訪問
浅野内匠頭終焉之地碑
[港区新橋]4丁目
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--------追 記--------
別な日に訪問した新正堂さんの画像を追加で貼っておきます。
<新正堂>
とても美味しかったです。新正堂さん、素敵な商品をありがとうございます。
浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太の屋敷跡を訪ねました。
<浅野内匠頭終焉之地碑>
■場所は新橋■
江戸城松之大廊下での事件のあと、拘束された浅野内匠頭の身柄は一関藩田村家の上屋敷へ移されました。屋敷は芝愛宕下、現在の住所だと港区新橋4丁目付近となります。
<説明板>
藩主は田村建顕(たつあき)。官位として従五位下・右京大夫を任ぜられ、田村右京太の名で通っています。
■慌ただしい一日■
江戸城内での事件は午前。その後すぐ(午後2時頃には)、田村家へのお預けが決まります。田村右京太は急ぎ屋敷に戻り、藩士75名を身柄受け取りのために江戸城へ向かわせました。
夕方には浅野内匠頭が当地へ移送されています。その後間もなく、大目付の庄田安利らが田村家の屋敷に到着し、切腹と浅野家の改易を言い渡しました。
田村家では「しばらく預かる」つもりでいたようです。それが即刻切腹。間もなく、屋敷の庭で切腹が執行されました。
突然の事件、慌ただしいお役目、そして想定外の措置。田村家も大混乱だったことでしょう。
■田村家屋敷跡■
冒頭の石碑は日比谷通り沿いにあります。厳密に言うと、屋敷はもうちょっと奥(つまり現在の日比谷通りに面してはいない区画)のようです。石碑は目立つように、あえて人通りの多い場所に設置したのでしょう。まぁだいたい合ってます。
ところで
この付近で営業している和菓子屋さんがいま人気となっています。
<新正堂>
こちら。新正堂さんです。
<看板>
この看板の通り、このお店の名物は「切腹最中」です。
<切腹最中>
お詫びの品としても人気があります。
新正堂さんは石碑から数百メートルのところ。田村家屋敷があった区画のようです。
■浅野内匠頭終焉の地■
さて
松之大廊下での刃傷から僅か半日で、浅野内匠頭には身分剥奪と所領の没収、切腹が言い渡されました。そして預けられた田村家屋敷でそのまま切腹。心の準備もなく、無念であったこと計り知れません。
<浅野内匠頭>
官名から内匠頭(たくみのかみ)と呼ばれる浅野長矩(ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。この時35歳でした。
沙汰が言い渡された長矩は、幕府の役人に付き添われ、屋敷の庭へと移されました。切腹場は、朝廷から官位を任ぜられた五万石の藩主には似つかわしくない、とても簡素なものでした。お家断絶と切腹を言い渡した大目付ら立会いのもと、長矩は幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で果てました。これが1701年4月21日の出来事です。
■浅野内匠頭 辞世の句■
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん
<つわものどもが夢の跡>
私の訪問は3月上旬。終焉之地の石碑の隣で、今年もまた春の花が咲き誇っていました。
■訪問
浅野内匠頭終焉之地碑
[港区新橋]4丁目
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--------追 記--------
別な日に訪問した新正堂さんの画像を追加で貼っておきます。
<新正堂>
とても美味しかったです。新正堂さん、素敵な商品をありがとうございます。
2019年01月18日
白旗塚 源義家のなごり (足立区)
今回は足立区の古墳を訪ねました。
ついに古墳ブログになったのか?
そうではなく、この地が源義家ゆかりの地と聞いて訪問しました。
■白旗塚史跡公園■
<公園入口>
竹ノ塚駅から歩いて10分程度です。
<公園内>
古墳時代の雰囲気を醸し出すレプリカです。
<人形埴輪>
ちょっと寂しげに感じるのは私だけでしょうか?
さてさて
この公園のメインは本物の古墳です。
<白旗塚古墳>
直径12m高さ2.5mの円墳。
古墳時代初頭の6世紀前半頃のものと考えられています。かつては8基の古墳が並んでいたそうですが、現存するのはこの1基のみとなっています。
東京都指定史跡です。保護のためもあるのでしょう。堀が復元されています。
<古墳の正面>
橋が架かっていますが立ち入りは禁止
ということで、説明が控えめで申し訳ございません。なにせ古墳の知識がほとんどありません。そろそろ本題に移ります。
■源氏の白旗■
<説明板>
東京都教育委員会さんの説明文です。
最後の部分だけ抜粋すると
『白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗をたてたためと言われています』
とのこと。つまりこの地を通ったということですね。
源頼義は武勇の誉れ高い河内源氏2代目棟梁です。
そして有名な源義家。源氏を武家棟梁にまで押し上げた武将ですね。義家の評価については諸説あるものの、八幡太郎の名で語り継がれる英雄であることは間違いありません。
で、先ほどの説明だと「この地に白旗をたてた」とのこと。そうですか。実は「義家がこの地で白旗をたてて戦った」と聞き及んで訪問しました。奥州はまだまだ先。地元の野武士集団に襲われながら、これを苦戦の末に退けたのだと。しかしそんな説明はありませんでした。
ただまぁ白旗は戦における源氏の旗印。源平合戦では、源氏が白旗を掲げ、平家は赤旗を掲げました。日本人に浸透している「紅白」での対抗という構図はここからきているわけですね。その白旗をたてたということは、戦闘に至ったと拡大解釈しても・・・良いとはいいませんが、素人の私はそんなふうに受けとめました。
ここに限らず、足立区には奥州征伐に向かう源義家ゆかりの地が複数あります。のちの時代に街道として整備される以前から、この地は北へ向かうための通り道だったのでしょう。そのうちの一つに触れた。そんな小さな満足感で現地を後にしました。
<白旗塚>
■訪問
白旗塚史跡公園
[足立区東伊興]3丁目
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ついに古墳ブログになったのか?
そうではなく、この地が源義家ゆかりの地と聞いて訪問しました。
■白旗塚史跡公園■
<公園入口>
竹ノ塚駅から歩いて10分程度です。
<公園内>
古墳時代の雰囲気を醸し出すレプリカです。
<人形埴輪>
ちょっと寂しげに感じるのは私だけでしょうか?
さてさて
この公園のメインは本物の古墳です。
<白旗塚古墳>
直径12m高さ2.5mの円墳。
古墳時代初頭の6世紀前半頃のものと考えられています。かつては8基の古墳が並んでいたそうですが、現存するのはこの1基のみとなっています。
東京都指定史跡です。保護のためもあるのでしょう。堀が復元されています。
<古墳の正面>
橋が架かっていますが立ち入りは禁止
ということで、説明が控えめで申し訳ございません。なにせ古墳の知識がほとんどありません。そろそろ本題に移ります。
■源氏の白旗■
<説明板>
東京都教育委員会さんの説明文です。
最後の部分だけ抜粋すると
『白旗塚という名の由来は、源頼義、義家父子が、奥州安倍氏の反乱(前九年の役)の鎮圧にむかう途上に、この地に白旗をたてたためと言われています』
とのこと。つまりこの地を通ったということですね。
源頼義は武勇の誉れ高い河内源氏2代目棟梁です。
そして有名な源義家。源氏を武家棟梁にまで押し上げた武将ですね。義家の評価については諸説あるものの、八幡太郎の名で語り継がれる英雄であることは間違いありません。
で、先ほどの説明だと「この地に白旗をたてた」とのこと。そうですか。実は「義家がこの地で白旗をたてて戦った」と聞き及んで訪問しました。奥州はまだまだ先。地元の野武士集団に襲われながら、これを苦戦の末に退けたのだと。しかしそんな説明はありませんでした。
ただまぁ白旗は戦における源氏の旗印。源平合戦では、源氏が白旗を掲げ、平家は赤旗を掲げました。日本人に浸透している「紅白」での対抗という構図はここからきているわけですね。その白旗をたてたということは、戦闘に至ったと拡大解釈しても・・・良いとはいいませんが、素人の私はそんなふうに受けとめました。
ここに限らず、足立区には奥州征伐に向かう源義家ゆかりの地が複数あります。のちの時代に街道として整備される以前から、この地は北へ向かうための通り道だったのでしょう。そのうちの一つに触れた。そんな小さな満足感で現地を後にしました。
<白旗塚>
■訪問
白旗塚史跡公園
[足立区東伊興]3丁目
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2018年12月17日
大石内蔵助 終焉の地 細川家下屋敷跡
つわものどもが夢の跡
主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。
<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。
<現在の屋敷跡>
扉の隙間から中を撮影
預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。
■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。
■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。
死罪・切腹・助命
選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。
<屋敷跡>
こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。
<旧細川邸のシイ>
[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。
<説明板>
高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。
<巨木>
東京都指定天然記念物です。
<高低差>
シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。
<崖の上>
下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。
■大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。
そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。
細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。
■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。
[細川家で切腹した17名]
大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門
この地が終焉の地となりました。
藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。
<赤穂義士史蹟碑>
■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■
あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし
浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20
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主君・浅野内匠頭の仇討ち後、大石内蔵助が預けられた大名の屋敷跡を訪ねました。
<肥後熊本藩細川家下屋敷跡>
■四家預かり■
吉良上野介の首を、泉岳寺の主君の墓前に供えた赤穂浪士たち。その身柄は、細川綱利(肥後熊本藩)・水野忠之(三河岡崎藩)・松平定直(伊予松山藩)・毛利綱元(長門長府藩)の4家にお預けとなりました。今回訪問したのは細川家の屋敷跡。肥後熊本藩細川家下屋敷跡です。ここには大石内蔵助を含む17名が預けられました。
<現在の屋敷跡>
扉の隙間から中を撮影
預けられた家によりますが、浪士たちは罪人のような扱いではなく、あくまで武士として扱われたと伝わります。その中でも、特に細川家の待遇は良かったようです。まぁ初めてのことで、預かる側の対応も当初はまちまち。戸惑いもあったでしょう。浪士を預かった大名たちは互いに連絡を取り合い、細川家に倣った対応をしたようです。
■細川綱利■
幕府より17名の預かりを命じられた細川綱利は、いろんな文献を読む限り、かなり赤穂浪士たちに惚れ込んでいたような気がします。あまりの厚遇に、大石内蔵助ら浪士側から、食事などを簡素にするよう頼まれたそうです。ほぼ接待のような感じだったのでしょうか?
更に綱利は、浪士たちの助命を幕府に願い出て、召抱えの話までしていたそうです。これはもう「惚れ込んだ」という表現が一番適切なのではないでしょうか。
■沙汰を待つ■
浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には、即日切腹が決まりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討入りについては、40日以上の時間が費やされました。死を覚悟しているとはいえ、浪士たちはこの間どんな思いだったのでしょうか。
死罪・切腹・助命
選択肢はこの3つです。ただの罪人という扱いなら死罪。武士の面目を保つなら切腹。助命は浪士の行為を認めることになります。
<屋敷跡>
こちらは冒頭の画像の位置からちょっと離れた場所。周辺も散策してみました。柵があって入れませんが、この付近一帯も細川家の下屋敷だったようです。
<旧細川邸のシイ>
[港区高輪]1−16−25
赤穂事件の当時から、屋敷内にあったとされるシイノ木です。ということは、死を覚悟している赤穂浪士達も、この木を眺めたのかもしれませんね。
<説明板>
高さ10mで、幹の囲りは8mもあるようです。
<巨木>
東京都指定天然記念物です。
<高低差>
シイノ木の脇に階段があります。下まで結構な高低差がありますね。
<崖の上>
下から撮影。屋敷は崖の上にあったようですね。
■大石内蔵助良雄■くらのすけよしたか
赤穂浪士たちを率いて、仇討ちを成し遂げたことで知られる大石内蔵助。この方、もともとの立場は播磨国赤穂藩の筆頭家老。重要ポストですね。赤穂事件後、血気盛んな元藩士たちを抑えて、ひたすら『お家再興』を優先しようとしたのも、その立場あってのことかもしれません。
そもそも大石家は下野国で名を馳せた小山氏の一族(藤原秀郷の末裔)。常陸国で浅野家に仕えて、浅野長直(浅野長政の三男)が赤穂に転封されるタイミングで大石家も赤穂へ移りました。内蔵助本人は赤穂の生まれ。赤穂城内で生まれたそうです。
細川家に預けられた時、内蔵助は四十代半ばでした。もはや思い残すこともない。そんな感じでしょうか。ただ、かなり思慮深い男です。そして主君・浅野内匠頭に仕えるだけでなく、浅野という「家」を支えてきた家老です。もしかしたら、沙汰を待つこの状況においても、まだ僅かな期待があったかもしれませんね。だからこそ、仇討後に勝手に自害するのではなく、出頭して幕府に判断を委ねたのでしょう。
■切腹■
元禄16年2月4日 (1703年3月20日)
幕命により赤穂浪士達は各々の屋敷で切腹となりました。細川家では、場所は庭先ながら畳三枚を敷くなど最高の格式とし、介錯人も厳選したとされています。
[細川家で切腹した17名]
大石内蔵助
吉田忠左衛門・原惣右衛門
片岡源五右衛門・間瀬久大夫
小野寺十内・間喜兵衛
礒貝十郎左衛門・堀部弥兵衛
近松勘六・富森助右衛門
潮田又之丞・早水藤左衛門
赤埴源蔵・奥田孫太夫
矢田五郎右衛門・大石瀬左衛門
この地が終焉の地となりました。
藩主の細川綱利は、切腹後に血で染まった庭を清めることを拒否。赤穂浪士は守り神であると言ったそうです。また、幕府は浪士たちに切腹を命じるとともに、吉良家の領地没収と信州配流を決めています。
<赤穂義士史蹟碑>
■大石内蔵助(良雄)の辞世の句■
あら楽し
思ひは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし
浅野家のお家再興は叶いませんでしたが、やるだけのことはやった。そんな思いでしょうか。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
肥後熊本藩細川家下屋敷跡
(大石良雄外十六人忠烈の跡)
[東京都港区芝] 5-20-20
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