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2017年10月09日

再訪・九戸城 (また来ましたよ!)

<九戸城跡>
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秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実の居城です。二度目の訪問。前回は真冬の訪問でしたが、今回は冬まだ遠い10月上旬。天気に恵まれた上に、ボランティアの方からパンフレットまで頂きました。「荒城の月」を意識した素敵なパンフレット。ありがとうございます。

■最初の訪問記■九戸政実への思い
政実への思いは「北の猛将・九戸政実を訪ねて」と題して、最初の訪問記にすべて書き込んでしまった気がします。よろしければ覗いてみて下さい→記事へすすむ

自分でもう一度読み返して、やや説明が足りないなぁと思ったのは、南部氏の内部事情。まるで南部氏そのものを悪役の如く扱っているような雰囲気が漂います。南部氏は源氏の流れをくむ名門。ただ、その名門家の当主に強引になった上に、秀吉とも上手くやった南部信直さん。この方には、ちょっと反感を持ちました。まぁこれもものの見方で、26代当主となった信直を、南部氏発展に寄与した功労者と評価する意見もあります。

<とある虎口にて>
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最初の訪問時には素通りしてしまいましたが、これは枡形虎口のなごり?かもしれませんね。二度目ならではの発見もあります。

■九戸氏対南部氏■同族の争い
九戸氏も、当時三戸城を拠点としていた南部家宗家も同じ一族です。祖は同じ。一族の中で既に実力者であった政実は、宗家の家督相続に不満を募らせこれと対立。やがて1591年、当主となっていた南部信直に反旗を翻しました。と、こういう話は戦国期には良くある話ですね。ここに天下人となった秀吉が絡むことで、九戸政実は天下に背く反乱者の如き扱いとなってしまいます。

(ここから内容が重複しますが再び)

■九戸軍対天下軍■5千対6万
九戸軍は南部の精鋭。手を焼いた南部信直は、天下人に助けを求め、豊臣秀次を総大将とする6万の大軍(奥州再仕置軍)が九戸城に到着します。籠城する九戸軍は10分の1以下の5千ですが、城は三方を川に囲まれた天然の要害であり、城兵の士気も高く、大軍をもってしても攻めあぐねます。硬直状態ののち、天下軍がとった策は騙し討ち。和議を勧告しておきながら、開城とともに城へ突入。城兵は勿論のこと、女子供まで焼き殺され、政実本人も斬首となりました。

■あまり語られない日本史■偽りの和議
戦国ファンの間では当たり前に知られていることですが、世間一般ではあまり語られることもありませんね。日本史ではあまり耳にしない大掛かりな皆殺し(二の丸跡の発掘調査で明らかになっています)。私も高橋克彦さんの小説・天を衝くと出会うまで、その事実を知りませんでした。今回はやや客観的に城を眺めることができましたが、最初に訪れた時には、かなり感情が高ぶっていたような気がします。

■九戸城のその後■蒲生氏郷の居残り
秀吉の家臣・蒲生氏郷(がもう うじさと)により改修されます。最初は、決着してなおも蒲生氏郷の出番があることに違和感がありましたが、勢力を誇った九戸氏の残党を警戒した秀吉の指示だったようです。改修された城は、三戸城から移った南部信直に引き渡され、名前も福岡城と改められました。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続け、いまでもそう呼ばれています。

<本丸の空堀>
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この城跡には、九戸時代の城の特徴と、蒲生氏改修による西国の城の特徴があると言われます。この堀?どちらですかね。「政実の城」で充分なので、調べていません。

■つわものどもが夢の跡■
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天下統一を目前にした秀吉による奥州仕置。これに対する不満から、葛西大崎一揆、仙北一揆など、大規模な一揆が各地で勃発しました。「揆」の訓読みは「はかりごと」。一揆というと、何となくイメージが悪いですね。本人達にとってはあくまで決起です。天下人に都合の良い秩序を受け入れず、奥州の猛者たちは大軍を敵に回して闘いました。ここ九戸城は最後の舞台。後世に語り継がれる、いや、語り継がれるべき悲劇の城となりました。


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2017年10月07日

雨の青葉山 仙台城訪問

<伊達政宗騎馬像>
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10月の雨のなか、仙台城を訪問しました。画像は言うまでも無く仙台藩初代藩主・伊達政宗の銅像。久しぶりに実物を見ましたが、大きいですね。立派です。
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映りが悪いですが、影だけでも威風堂々。

この城を初めて訪問したのは相当前です。まだ「城跡」に大した興味もなく、この銅像の前で会社の先輩と慌ただしく写真を撮った記憶しか残っていません(仕事中?)。
今回の訪問(純粋な旅です)もあまり時間は割けませんでしたが、城跡への思い、そして伊達政宗への思いは以前とは全く異なります。「行ったことがある」ではなく、自分なりに感じるものがあり、有意義な訪問でした。

築城者も城も有名なので、ネット検索すると情報が溢れていますね。まぁ自分なりに感じたこと、拘っているたところだけまとめると以下の通りです。

■天然の要害■戦国時代?
この言葉は良く使いますが、縄張りも含めて「険しい山城」といった印象を受けました。広瀬川に面した山に築かれ、本丸の東側と南側は断崖となっています。関ヶ原の戦い以後の築城でありながら、伊達政宗は山城を選択。戦国のなごり、周辺との緊張の度合いが伝わってくる城跡です。

<石碑>
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ちょっとビニールゴミ落ちてましたが・・・柵があって拾えず。そのまま撮影しました。

■上杉景勝を意識■強すぎるライバル
伊達政宗が徳川家康と「何とか」うまくやっている一方で、隣国の会津上杉は反徳川のまま。関ヶ原の戦いが終わっても、まだ緊張状態が続いていました。政宗が仙台城の建設に着手したのはそんな時期ですので、場合によっては会津120万石の上杉と一戦交える可能性もあったわけですね。和睦が成立して上杉家が米沢30万石へ減封となるのは、仙台城築城開始後です。

■千代城跡■せんだいじょう
青葉山には、鎌倉時代末期から既に城があり(陸奥守・島津氏の居城)、戦国末期には国分氏が居城していました。ただこの国分氏(国分盛重)は政宗と対立してこの地を去り、古くからあった城(千代城)は一旦廃城となりました。

出奔した国分盛重(こくぶん もりしげ)、実は政宗の叔父です。もともと伊達政重という名で、兄弟は政宗の父・輝宗や政景(後の留守政景)。兄である輝宗が当主の時に国分氏を継ぎました。国分氏はもともとこの地域(現在の仙台市含む)の有力者。仙台城の前身の千代城を居城としていました。当ブログでは天童氏との関係でちょっとだけ登場。やや話が横にズレますが、良かったら読んでみて下さい→『最後の城主・天童頼澄
その国分氏、伊達氏が当主となったところで血筋が途切れました。これは伊達輝宗の圧力によるものですね。しかしその当主も、輝宗の息子の政宗によって追い出されるのですから、なんだかドロドロの人間関係ですね。


■広いし不便■大規模な連郭式山城
仙台城跡はいわゆる市街地の西方に位置する丘陵地帯。車用の道は整備されていますが、もともと「本気で戦う」ことを想定して場所を選んでいるだけあって、くまなく探索するのは結構大変です。なるべく城跡周辺も含めて探索するようにしてますが、いろんな制約から「バス」を多用し、肌で感じるというより、なんとか目で確かめるという訪問となりました。
「まぁ来れただけでも有り難い」
縄張り図だと連郭式山城ということになります。しかし本丸だけが特出して高いところにあり、他の曲輪との高低差、そして行き来の悪さに愕然とします(バイクで城巡りする人が羨ましく思えました)。構造も私の目には特殊に見えます。ちょっと極端な言い方ですが、頂上だけが戦闘を意識した城で、他は付属施設。そんな感じです。

<城と城下町>
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現地の案内板を撮影

■城跡のいま■
山頂(本丸・西ノ丸)はもはや観光地といった感じですかね。眺めが良く、城の復元も進んでいます。そして麓の二の丸。これは二代目藩主・忠宗時代に造成されたもので、現在は東北大学になっています。城跡にして、緑豊かなキャンパス。人生のひと時をこんな環境で過ごせるなんていいなぁ。などと一瞬あたまをよぎりましたが、そもそもこんな難関大学に縁は無いので、ほのぼのとした諦め感で景色だけ眺めました。そして三の丸は仙台市博物館。次の予定もあるので、この付近の遺構はバスの中から眺めるだけでした。本来なら徒歩でゆっくり歩くべき場所。それだけの価値があります。いつになることやら、とにかくまた訪問したいと思いました。

■天守閣はなし■もともと
仙台空襲によって大半の建築物が焼失した仙台城ですが、天守閣はもともとありませんでした。諸説ありますが、徳川家康に対する遠慮(敵意はありませんという意志表示)から建造しなかったとも言われています。ただ、このことは太平の世には都合の良い結果となりました。険しい山の頂上は、戦には向いていても統治には不向き。そんな場所に莫大な費用で天守閣を築いていたら、不便な上に維持費もかかり、きっと藩政の重荷となっていたことでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸からの眺め>
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雨の仙台平野を見下ろす

政宗から始まる仙台藩。街づくりを含め、二代目の忠宗に引き継がれます。人の暮らしが豊かになる。街が栄える。若い頃から戦に明け暮れ、ギリギリのところで生き残ってきた伊達政宗ですが、晩年にはそんなことを夢見ていたのではないでしょうか。

-----■ 仙台城 ■-----
別 名:青葉城
築城年:1601年
築城者:伊達政宗
改修者:伊達忠宗
(政宗次男・ 第2代藩主)
城 主:伊達家歴代
廃城年:1871年

[宮城県仙台市青葉区川内]


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2017年09月09日

在来線の旅 猪苗代城訪問追記   

(猪苗代城訪問の追記です)
訪問記は→こちら

■お城巡り■
<猪苗代城跡>
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中世においては猪苗代氏代々の居城。猪苗代氏が去っても、この場所は長らく城として機能し続けました。江戸期には会津若松城の支城という位置付け。その会津若松城が鶴ヶ城と呼ばれたのに対し、猪苗代城は亀ヶ城と呼ばれました。本城と支城、鶴と亀というコンビですね。

連続して配置された曲輪(くるわ)や石垣・土塁・空堀など、遺構がたくさんの山城です。特に尾根を削って作る「堀切」は見応えがありました。

<堀切>ほりきり
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城用語では、山の尾根を削って造る堀を「堀切」と呼びます。堀は通行を妨害するもの。普段は橋を掛けていたのかも知れません。不便ですからね。

訪問記では「城跡」らしい画像を選んで投稿していますが、町が管理している公園ですので、整然と整備されたエリアもあります。若いお母さんが小さな子供を遊ばせている光景と出会いました。静かで良い所です。
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[福島県耶麻郡猪苗代町古城町]

■現地在来線の旅■
<猪苗代駅>到着時
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郡山までは新幹線。その先は在来線で移動。ここまでクルマで来れる自信がないので。磐越西線(ばんえつさいせん)の旅です。山あり川あり、水田ありの会津。ゆっくりと車窓を楽しむことができました。また、猪苗代まで来てしまえば、あと5駅30分強で会津若松です。

<野口英世>
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ご本人及び猪苗代の皆様に失礼ながら、到着した時点では「なんでここに?」と思ってしまいました。そう、猪苗代のご出身ですよね。むかし三上博史さんが野口英世を演じた「遠き落日」という映画、そういえば舞台はここだったなぁ。などと、じわりじわりと思い出しました。まぁ現地ではその程度でしたが、帰宅してから調べたら、野口英世さんは子供の頃、猪苗代城跡でよく遊んでいたそうです。故郷に歴史の深い城跡があって、そこで遊んだなんて、大人になっても忘れられない思い出ですね。羨ましい。そして更に分かったのは、仙台藩士として伊達家に仕えた猪苗代氏の子孫にあたるそうです。ではご先祖さまと関係のある城なのですね。ご本人が意識してたかどうかは別にして。こういうことを事前に知っていれば、旅先でそういう見方もできたかも知れません。まぁ後からでも知らないよりいいや。※私は訪問しませんでしたが「野口英世記念館」が人気のようです。

<この日の相棒>
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猪苗代城は駅から微妙な距離(約1.5km)。更に、城の周辺も見てまわりたかったので、レンタル自転車を利用しました。恒例により一人旅なので、とても頼もしく感じた相棒です。ありがとう。晴れていますが、この時既に、激しく雨が降るであろうことを風が教えてくれました。夕立が多い関東の田舎で育ちましたので、肌で分ります。そのイヤな予感も何となく懐かしく、子供のように必死にペダルをこいで駅へと向かいました。

<雨の猪苗代駅>帰り
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たどりついたら雨降り。いつも、じゃないからこれもまぁいい思い出です。

猪苗代は自然豊かで観光スポットの多い町。私は目的が限定されていたので、「在来線」プラス残りは「自転車」で頑張りましたが、本格的な観光したい方はやはりクルマですかね?まぁどちらにしても、もっとゆっくりしたい町でした。


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2017年09月08日

猪苗代湖北岸の山城 猪苗代城

猪苗代湖の北に位置する山城を訪問しました。別名は亀ヶ城。中世から近代に至るまで、長きにわたって城とし機能した場所です。

<堀切>
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■猪苗代氏400年■それ以上長い歴史の城跡
築城の詳細については不明ですが、鎌倉時代初期(頃?)から長らくこの地を治めた猪苗代氏の拠点です。場所は猪苗代湖の北岸。構造としては典型的、というかやや古典的な山城。山上の本丸から麓までの間に、一定の間隔をおいて平らな区画を設ける縄張りです。凄く凝っているというところは見られませんでしたが、探索するのに丁度いい大きさ(比高で約30m)。全体をイメージしやすいので、歩いていて楽しい山城です。現在は「亀ヶ城公園」として整備されています。

城跡を管理する猪苗代町のホームページによりますと「猪苗代経連(いなわしろつねつら)が建久2年(1191年)、本格的な築城法によって築いた日本最古の平山城とあります。相当古いのですね。しかも戊辰戦争で「建物が全焼」したということは、とんでもなく長いあいだ城として機能していたことになります。平山城(ひらやまじろ)とは、周辺が平野になっている山城のことです。一般的な城用語ですが、このブログでは山城に分類しています。

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整備し過ぎではないのがいいですね。

■猪苗代氏■蘆名氏と同族
猪苗代氏は三浦氏を祖とする一族。三浦氏といえば相模国(神奈川県)ですよね?むかしむかし、三浦氏の一族(佐原氏)が源頼朝の奥州藤原氏征伐に従軍し、その功績により会津に領地を得て、猪苗代氏を名の名のりました。これが猪苗代氏の始まり。同じ経緯で、やがて会津覇者となる蘆名氏と同族ということになります。ただ、猪苗代氏はいつも蘆名氏に服従しているわけではなく、一定の独立性を保っていました。
やがて伊達氏に寝返り、蘆名氏滅亡に関与しました。深くて長い歴史のなかで、私が猪苗代城と猪苗代氏を強く意識するのはこの瞬間ですね。

■伊達軍が猪苗代城に集結■ 摺上原の戦い
摺上原の戦い(すりあげはら)は、戦国時代の1589年7月17日、猪苗代において伊達軍と蘆名軍が激突した戦いです。この時、猪苗代城は伊達軍の拠点となりました。

話の前提として、 会津覇者の蘆名氏は既に絶頂期を過ぎ、身内の問題から衰退期にさしかかっていました。当時米沢を拠点としていた伊達政宗は、この機を狙って出兵。蘆名氏配下の城を次々と攻略し、更には蘆名氏の重臣であった猪苗代盛国を内応させ、その居城・猪苗代城へ入りました。
米沢の伊達氏にとって、猪苗代は会津攻略の足掛かりとして都合の良い場所ですね(方角的に中間に位置するため)。政宗に続き、伊達成実片倉小十郎(景綱)らも猪苗代城に入城。万全の体制で蘆名氏との決戦に備えました。 一方、黒川城(のちの会津若松城)を出た蘆名軍は猪苗代湖の北側に本陣を敷きます。猪苗代城の目と鼻の先ですね。蘆名軍は湖畔の民家に放火して挑発(一般人迷惑。ただ、こういう挑発はこの時代は多いですね)。これに反応し、伊達政宗は兵を率いて猪苗代城から出撃。両軍が激突しました。

戦いに有利な城を出て、野戦を選んだ伊達軍。単純に挑発に乗ったとは思えませんね。「勝てる」という思い、あるいは長年厄介な存在だった蘆名氏を「いま潰す」という決意でしょうか。蘆名軍16,000に対し、政宗は領内の兵をかき集めて23,000の軍を編成しました。単純比較で伊達軍の方が多いですが、圧倒的というほどでもありません。数の差以上に、蘆名軍の連携の悪さが際立つ戦となりました。この時の蘆名軍は諸氏の寄せ集め。かつての蘆名盛氏(もりうじ)のような、統率力のあるリーダーもいません。戦況不利と見るや、戦線から離れる隊が続出し、軍は総崩れとなりました。蘆名家はこの敗北で事実上壊滅します。

この戦い、よく「猪苗代氏の裏切りにより」という文言をみかけます。まぁ形としてはそうなりますが、実は猪苗代氏内部にも父子の対立という構図があり、伊達と蘆名に分かれて戦っています。この戦、よりによって両軍の先鋒が猪苗代氏。戦況不利を見て戦わずして逃げ出す蘆名軍の諸氏と比較すると、むしろ一戦交える前から態度が明らかな猪苗代氏は筋が通っているのではないでしょうか。勝手ながらそう受け止めています(「摺上原の戦い」には、ここに書ききれないほどの複雑な事情、人間ドラマがあります。戦国武将好きの方は別途検索することをお勧めします)。

<城内>
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何となく中世の雰囲気が漂います。

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江戸時代はあくまで会津若松城の支城ですから、中世の時のまま利用したエリアもけっこう多いのではないでしょうか・・・。こういう景色、とても好きですね。ぼっとしてると蚊に襲われますが・・・

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このヘンは近世城郭のなごりでしょうか(すべて私個人の感覚です)。

■その後の猪苗代氏■
ついに蘆名を倒した伊達政宗でしたが、豊臣秀吉に会津を取り上げられてしまいます。この時、伊達氏に下っていた12代当主猪苗代盛国は先祖代々の土地に別れを告げ、伊達氏に従って陸奥国へ移ります。盛国(もりくに)には、五千石が与えられました。子孫も仙台伊達藩に仕えます。
蘆名軍として戦った猪苗代盛胤(もりたね)。盛国の息子にして、猪苗代氏13代目の当主でした。摺上原の戦いでは、城を父に乗っ取られた上に、奮闘むなしく破れました。激闘でしたが命は落とさず、落ちのびる蘆名氏と行動をともにします。しかし最終的には蘆名氏とも別れ、再び故郷へ。猪苗代で没しました。

■その後の猪苗代城■戦国で終わらない
猪苗代城ですが、秀吉の命により会津にやってきた蒲生氏郷によって改修されました。蒲生氏郷の次の会津領主は上杉景勝。徳川を敵に回した会津上杉120万石ですね。この時、城代として猪苗代城を任されたのは家臣の水原親憲(すいばらちかのり)でした(ここ飛ばしても良いところですが、水原さん、好きな戦国武将の一人なので)。

江戸時代、幕府の方針の原則は一国一城。しかし猪苗代城は例外としてとして扱われました(会津若松の支城として機能)。これにより、幕末の戊辰戦争(1868)で建物が焼失するまでの間、戦あるいは統治のための城であり続けました。

■つわものどもが夢の跡■
<本丸へ向かう石段>
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訪問にあたり、強く意識していたのは戦国期です。しかしこの城にとって、それも歴史の一部に過ぎないようです。時代を越えた沢山の武士たちの思いが込められている城跡です。

--------■猪苗代城■--------
別 名:亀ヶ城
築城者:猪苗代経連(つねつら)
築城年:1191年頃(推定)
城 主:猪苗代氏・蒲生氏ほか
廃城年:1868年

[福島県耶麻郡猪苗代町古城町]



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2017年08月29日

伊達政宗生誕の城は?(舘山城と米沢城)

伊達政宗といえば仙台というイメージが強いですね。しかし生まれは米沢。かつて米沢は伊達家の領地でした。政宗も多感な青年期を米沢で過ごしています。つまり故郷ですね。さて、ドラマや小説などでは「政宗は米沢城で生まれ・・・」とあり、私も長らくそう思っていました。ところが近年、新たな候補が現れています。

■舘山城■
<舘山城>
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[山形県米沢市館山]
米沢市の南西部に位置する舘山城です。二つの川が合流する丘陵地に築かれた山城。米沢市の整備保存の働きかけにより、昨年(2016年3月)国の史跡に指定されました。最近ではこの城、あるいはこの付近が、伊達政宗誕生の地ではないかという説が有力視されています。

それってどういうこと?

伊達氏にとっての「米沢城」。これは上杉家が米沢に入って居城とした米沢城(つまり現在の米沢城跡)と同じものと考えられてきました。この解釈にメスが入り、議論となっています。

何で今頃になって?

本格的発掘調査は2001年。すぐに全てが分る訳ないですよね。粘り強くコツコツと調査し、大規模な縄張りが確認されていきました。

<現地>
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戦国時代の山城の面影を残す城跡。
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曲輪(くるわ)ですね。広い区画です。
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川沿いの台地上に築かれた城です。
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大樽川です。最上川源流と表示されていました。最上川はこの大樽川と米沢市内を流れる松川が合流して本流となります。相当な山奥に映るかもしれませんが、米沢城から西へわずか4km程度。城跡巡りと切り離しても素敵な場所です。
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これはいつの時代のものか分かりませんが、人の営みのなごりを感じます。どんな人たちが、どんなつもりであの鳥居をくぐったのでしょうか。

調査をすすめるうちに、伊達時代と推定される出土品に加えて、石垣まで確認されました。ただ、のちに石垣の方は上杉時代のものと判明。ということは、この地は伊達時代にも上杉時代にも何らかの目的で使用されていた城跡のようです。

■現在の米沢城■
<米沢城跡>
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[山形県米沢市丸の内]

<伊達政宗生誕の地>
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松岬公園(米沢城跡)にある石碑。私が初めて訪問した時は木製でした。いつの間にか石碑になっています。立派、そしてかなり大きいです。

■二つの候補地■
同じ米沢市で、両方の城が「伊達政宗生誕の地」をアピールしている状態ですね。その道のプロの方々の間でも、意見は分かれているそうです。

伊達政宗は米沢の出身。これは間違いありませんね。では誕生の城はどちらなのでしょうか?

まぁ私は長らく「米沢城」と思っていたので、今後もはっきりするまではそう信じたいと思います。舘山城は、きっと昔からあった砦跡のようなものを上杉氏が何らかの目的(支城的な役割を担ってもらうためなど)で手を加えた。そう思うことにします。

ただ、米沢城は平地に築かれた平城。最近注目されている舘山城は最上川源流沿いの山城です。政宗がやがて仙台に難攻不落の山城を築き上げることを思うと、伊達一族には元々山城のためのノウハウがあった!なんて勝手に想像するのも面白いですね。


■つわものどもが夢の跡■
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今年は伊達政宗生誕450年(1567年9月5日生)。生誕の地の議論はまだまだ続きそうですね。どちらにしても、ここ舘山城が中世の城跡だったことは間違いありません。そして、どうやら伊達・上杉とも関わりのあった山城。来た甲斐がありました。


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タグ:山形への旅
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2017年08月28日

最後の城主・天童頼澄と守護神・喜太郎

(天童城訪問記の追記です)

天童城最後の城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)。周辺の国人と連携して一度は最上義光を退けたものの、それまで最大の味方だった延沢満延が調略により最上側へ寝返り、最後は城を追われることになりました(1584年)。頼澄は、母の実家の国分氏を頼って落ち延び、陸奥国に移り住みました。

■陸奥国にコネ?■
国分(こくぶん)氏は戦国時代の末頃まで陸奥国に勢力のあった一族。起源には諸説ありますが、平氏の流れをくむ千葉氏から枝分かれした士族のようです(この説だと初代は国分胤通)。陸奥国に根をはった子孫は留守氏や伊達氏とも争いました。国分盛氏の時に、伊達氏から人を招いて当主を継がせたため、長年続いた血族による継承は途切れてしまいす。天童頼澄の母は、この国分氏血統最期の当主の娘。これを頼りに、陸奥国を目指しました。

■守護神・喜太郎■
<喜太郎稲荷神社>
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[山形県天童市]
天童城訪問時に立ち寄りました。天童の守護神「喜太郎」を祀る神社です。現地の説明によれば、天童氏家臣の狐崎喜太郎が、幻術を使って最上勢悩ませ、更に敗戦により天童氏が逃れるのを助けたとあります。

喜太郎?幻術?頭をよぎるのは「ゲゲゲの鬼太郎」あるいは音楽家の喜多郎さん。喜太郎とはどんな存在なのでしょう。城巡りの最中は歩き回るので精一杯なので、帰宅してから調べました。現地で読んだものと若干違いますが、以下のような伝説があるようです。

●喜太郎の伝説1
『天童氏初代の里見頼直が京都に赴いた時、家臣の喜太郎が伏見稲荷で神力を得るに至った。喜太郎は頼直から生き神として崇められるとともに天童の守護神となることを託され、神社が建てられた。時は経ち、九代城主天童頼澄が最上義光に敗れて陸奥国へ落ち延びようとした時、漆黒の闇に一行の足が止まると、喜太郎が現れて火を灯し、道案内をした。』

いろんな受けとめ方があって良いと思います。こういう話そのものを、私はあまり信じませんが、何となく好きですね。人が何かに感謝している気持ちが伝わってくるような気がするからです。

違う設定の伝説もみつかりました。

●喜太郎の伝説2
『最上義光に敗れ、難を逃れた天童頼澄。陸奥国へ向かう関山峠で暗闇に行く手を阻まれました。このとき喜太郎という忍者が現れ、火を灯して道案内を務め、頼澄は無事に峠を越えることができた。』
ちょっと設定が違いますが、こちらの方が現実的ですかね。ほぼ同じ話で『喜太郎という足軽が先導して難を逃れた』というのもあります。もっと現実的ですね。

関山峠は現在の宮城県と山形県とを結ぶ峠。どの話からも、この峠を越えることが楽ではなかったことが伝わってきます。朝を待つ余裕もなく、必死で逃れたのでしょうね。天童頼澄は無事に陸奥国へ入り、伊達氏を頼りました。

注)厳密に言うと天童頼澄は後の名。この時はまだ「頼久」です。このブログは頼澄で通しています。

■伊達藩家臣■
陸奥国へ逃れた天童頼澄。その後は伊達政宗に仕えました。宮城郡八幡(現在の宮城県多賀城市八幡)に屋敷を拝領したと伝わります。

<宝国寺>
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[宮城県多賀城市]八幡2丁目
八幡にある天童氏の菩提寺です。頼澄の屋敷をはじめ、家臣たちもこの周辺に住んだようです。

ところで
この宝国寺の山号は末松山。そうです。ここはいわゆる波越さじの「末の松山」。有名な歌枕の地でもあります。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは


清原元輔の歌。清少納言のお父様ですね。ちょっと雑ですが「末の松山を波が決して越えることがないように、我々も変わることはないと、涙ながらに約束しましたよね?ね!」という感じでしょうか。なんか恨み節に聞こえるのは、私のセンスの無さかも知れません。やんごとなき皆様の世界。適切な解釈は、ちゃんとしたサイトでお調べ願います。

やや話が逸れました。もとへ戻します。


■伊達藩の天童氏■

領地1000石。伊達政宗から家格準一家を命ぜられたとあります。準一家?どの程度か分らず調べました。仙台藩では、家臣の序列を付ける目的で家格という制度を採用していました。上から順に、一門・一家・準一家・・・(この下たくさんあります)。要するに準一家はかなり上の方です。もともと天童城主だったご本人の心境は分りませんが、伊達政宗が天童頼澄を良い条件で受け入れていたことが分りますね。とにかく命すら危うい状況から逃れてきたのですから、頼澄も満足し、そして感謝していたのではないでしょうか。伊達政宗に。そしてもしかしたら喜太郎に。

私は訪問していませんが、多賀城市八幡にも「喜太郎稲荷明神」があります。別名は天童神社。国が変わっても、喜太郎は守護神であり続けたのですね。


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2017年08月26日

天童と将棋駒 天童城跡

将棋の町・天童

将棋駒生産量の大半は天童といわれています。城巡りが目的で訪問しましたが、将棋も多少はたしなむので、以前から「天童の将棋」は意識していました。そもそもいつから始まったのでしょうか。

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[天童公園(天童城跡)]

■始まりは天童織田藩■
天童で将棋駒づくりが始まったのは江戸後期藩主が織田信学(のぶみち)の時と言われています。当時の財政は厳しく、藩士たちも生活に困っていました。そこで、米沢の職人から将棋の駒を作る技術を学び、藩士たちの手内職として奨励。これが天童の駒作りの始まりです。ということは、お隣の米沢でも駒作りをしていたのですね。そこから学び、そして浸透させました。天童織田藩家老・吉田大八の働きかけと伝わります(戊辰戦争での働きもあり、公園内に銅像もあります)。
やがて明治になり、天童では本格的な産業として駒作りが発展します。昭和になると、天童駒は全国的に知られるようになりました。平成の今でも、天童の駒は全国生産高の約9割以上(95%以上?)。将棋の駒と言えば天童。将棋に多少でも興味がある人にとっては、これはもう当たり前ですかね。

将棋は奈良時代に日本へ伝わりました。たくさん駒の種類がありますが、どうしていたのでしょうか?貴族あるいは武家の館の発掘調査から、昔の人たちは自分で作った駒で将棋を指していたとがわかっています。そうですね。まぁ体裁を気にしなければ我々でも作れます。
日本独自の進化をとげながら広まっていった将棋。江戸時代には庶民の間にも広がっていきました。将棋の駒を生産して商売が成り立つ。そこには、本当に長い時間をかけて熟成された将棋という文化、そして今も愛されているが故の需要がある訳ですね。

■天童の人間将棋■
shirononagori tendo (7).JPG
[天童公園(天童城跡)]
毎年4月、この公園(城の曲輪跡)において「人間将棋」が行われています。この人間将棋、天童藩主が人間を将棋の駒に見立てて対局したという話を再現したもの。毎年ニュースでも取り上げられるので、このイベントは将棋に興味がない人でも知っているのではないでしょうか。殿様の優雅な遊びにも映りますが、経緯がわかると、内職で駒作りを始めた武士たちの想いが受け継がれた姿にも見えますね。

日本の合戦と将棋

最近また将棋ブームですね。起源は海外ですが、われわれが思っている将棋、つまり日本将棋は世界的に見ても独特のものです。その国の文化が、将棋という世界にも表れているような気がします。
決定的に違うのは、やはり相手の駒を使える点ではないでしょうか。「持ち駒」という考え方ですね。これはチェスにも中国の将棋にもありません。倒すことより、降伏させることを目指す。個人的にはそんな風に受け止めています。それが戦国時代を含む日本的な合戦のあり方。現実として悲惨な戦がたくさんあったとしても、同じ民族同士の争いで形成されていった戦のあり方は、やはり外国のそれとは背景が異なるのではないでしょうか。

■駒の個性■
実際に将棋をしていると、本来なら活躍できるはずの駒を活かせないといったケースが多々ありますね。かといって相手には渡したくない。敵方につかれてはたまらない程、その駒が優秀ということです。逆に相手はそういう優秀な駒を欲しがっています。潰そうとしているのではなく、こちらの味方になって欲しいと思っているのです。何となく日本の戦国史と重なりませんかね?

また、駒の優劣と関係なく、今どうしてもあの駒が欲しいという局面があります。例えば、潜在能力の高い「角」を手放して、相手の「銀」を取りにいくようなケース。これは一般的な評価による優劣より、その駒の個性の方が価値が高いという状況ですね。私はいわゆる「へぼ将棋」のレベルですが、その程度のことは理解しています。これは個性の異なる駒には、適材適所で働きの場があるということ。戦国時代でも、名声や身分よりその場で役に立つ者が徴用されたりしますね。そしてそれが出来る集団こそが強い集団。なんとなく似ている気がします。

更に、駒の立場で考えると、捨て駒で使われるくらいなら、主を変えて存分に働いた方が気分がいいですね。戦国時代でも、主君を鞍替えするケースは多々ありました。似てますね。

日本将棋独特の「持ち駒」というシステム。これはこういった日本的な戦のあり方の影響を受けて生まれてきた。きっとそうですね。ただ兵と兵を激突させて潰し合うのではなく、優勢な状態を作り出し、敵将に「参りました」と言わせれば終わる。とても魅力的なルールですね。

最後に
駒が敵方につくのは「裏切り」でしょうか?まぁ感覚の問題ですが、ちゃんと手続きを経たうえですので、私にはそうは思えません。手続きもないまま、急に駒の向きが変わったら「裏切り」ですね。これは現実の戦では多々ありますが、将棋の世界ではないことです。駒はいつでも王将と、そして味方の駒と同じ方向を向いています


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2017年08月25日

中世山城のなごり 天童公園(天童城)

■山城・天童城■

<中央郭の虎口>
shirononagori tendo (1).JPG
石碑は天童古城記念碑。背後に土塁。

天童市の東南に位置する舞鶴山(比高で百メートル強)。天童城はこの地に築かれた山城です。村山地方最大の山城は、現在「天童公園」として整備されています。
※山形盆地を中心とした地域・山形市を含む県の中心です。

<曲輪と土塁>
shirononagori tendo (5).JPG

それにしても広すぎる・・・小さな山城だと、麓も含めて探索するのですが、ここはちょっと無理でした。厳密に言うと城は3つの山に跨っており、私の探索は主に主郭から中央郭と呼ばれる付近(2つ分)。土塁や曲輪(くるわ)などを確認しながら他もなんとか歩き回りましたが、タオルを首から下げて、ただ茫然と通り抜けて終わったような気もします。

shirononagori tendo (4).JPG
もうろうとしながら撮影。ちょっと気がきかない画像ですが、段差が連続している様子、伝わりますでしょうか?山の斜面を段階的に削って平らな区画を形成しています。山城らしいですね。ただ広めの曲輪は別として、他は何となく古墳を連想させるなだらかな形状のものが多い気がしました。遺構らしきもの全てが昔のものとも限りませんので、雰囲気だけ味わいました。

■天童丸■ 築城者推定
天童城の築城者については諸説あります。有力なのは北畠天童丸。素性も不確かですが、村上源氏の流れを汲む名門・北畠氏の子孫とされています。1336年に天童城を築城。山形の斯波氏(しばし)に対抗しました。これは南北朝時代のお話。天童丸のそれ以降の消息は不明です。外圧から天童城を去ることになったと考えられています。

ここで斯波氏についてですが、室町将軍・足利氏の有力一門です。やがて出羽を支配する最上氏は、その分家ということになります。源氏の血をひく最上氏のルーツですね。最上氏の祖は斯波兼頼(しばかねより)。最上兼頼です。

■天童氏の勢力拡大■
上記の最上兼頼の孫の里見義直が天童城へ入城。天童氏を名乗ります。これははっきりしているようなので、天童城の初代城主は「里見氏」と考えるほうが良いのかも知れませんね。えっと最上の孫で里見?ちょっと複雑ですが、斯波氏で後に最上を名乗った人物の孫が養子で里見氏に入り、後に天童氏を名乗った・・・(ここでやめますね。)

里見氏。現在の千葉県で勢力を拡大した安房里見氏と同系です。ともに新田氏から分かれた名門ですね。この里見氏が、どういう経緯でいつごろ出羽国へ進出したかは不明のようです。で、その里見氏の家系(清和源氏新田氏流里見氏)が途絶えると、次は最上氏(足利氏流斯波氏一門の)が城へ入り、やはり天童の姓を引き継ぎます。ずっと直系の嫡男が継承というわけにはいきませんが、歴代天童氏当主はこの城を拠点に勢力を拡大。村上地方の中心的な存在となっていきます。

当ブログ、いつも曖昧に「名門」で済ましていますが、ちゃんと記載する時には一応調べます。読んで頂いている方が納得してくれるなら嬉しいですが、そもそも「名門」という世界が複雑(私が戦国期以外の日本史に疎いこともあります)な上に、天童氏も事情が複雑。私が読者なら読み流したくなります。すみません。話が逸れました。本題に戻ります。


■最上義光と対立■ 天童八楯の崩壊
天童氏の説明をさせて頂いて、その後の細かい説明が雑だと、下記は「えっ?」ということになります。相当な時間を経ていますし、兄弟・親戚で争うことも多い時代。いつのまにか本家の最上氏、というより具体的に最上義光(よしあき)とは領地などをめぐって対立関係となっていました。そんな感じで何となく受け止めて下さい(このブログはそのレベルなので。更に言うと、最上義光いよいよでてきたかぁ〜!という漠然とした躍動感でこの事態を受け止めています)。

1577年
最上義光に攻撃されるが撃退
城は堅城・周囲の援軍もあり

1584年
また最上義光攻められ落城
周囲の味方は既に最上に屈していた

最後の城主は、当主の天童頼澄。天童の地から去りました。かつて天童氏を盟主に形成されていた有力国人領主による連合「天童八楯(てんどうやつだて)」は、この時すでに崩壊していました。主要メンバーで、最上義光に下っていた延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願により、最上軍は逃亡する天童頼澄を見逃しました。難を逃れた天童頼澄は、伊達氏に仕えることになります。

中世の山城としての天童城は、この時に廃城となりました。


その後
■織田氏陣屋■
かなり時を経てからの話になります。1830年に織田氏が天童藩主に。織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の後裔ですね。天童織田藩の始まりです。
<建勲神社>
shirononagori tendo (3).JPG
織田信長を祀った神社。天童織田家については別途投稿しました。よろしければ→織田乃里

舞鶴山が再び政治の中心地として機能し始めます。西の麓の平野部に、外堀と内堀を持つ陣屋が築かれました。かつての戦闘用の山城ではなく、統治のための拠点ですね。天童織田藩は廃藩などもなく、明治まで続きます。戊辰戦争に巻き込まれ(天童藩は新政府側)、この時に陣屋は焼失したそうです。

■つわものどもが夢の跡■
<天童公園>
shirononagori tendo (7).JPG
全国的には人間将棋の会場として有名ですね。テレビにはここしか映りませんが、しっかり見て歩けば、中世の頃と思われる遺構がところどころ確認できる山城です。将棋の一手一手に思惑があるように、遺構それぞれにも意味があり、人の思惑が託されています。

--------■天童城■--------
別 称:舞鶴城・天童古城
築城者:不明(北畠天童丸)
築城年:不明(1336年)
城 主:天童氏歴代
廃城年:1584年
(天童織田藩陣屋は除く)

[山形県天童市大字城山]


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