2017年08月28日

最後の城主・天童頼澄と守護神・喜太郎

(天童城訪問記の追記です)

天童城最後の城主・天童頼澄(てんどうよりずみ)。周辺の国人と連携して一度は最上義光を退けたものの、それまで最大の味方だった延沢満延が調略により最上側へ寝返り、最後は城を追われることになりました(1584年)。頼澄は、母の実家の国分氏を頼って落ち延び、陸奥国に移り住みました。

■陸奥国にコネ?■
国分(こくぶん)氏は戦国時代の末頃まで陸奥国に勢力のあった一族。起源には諸説ありますが、平氏の流れをくむ千葉氏から枝分かれした士族のようです(この説だと初代は国分胤通)。陸奥国に根をはった子孫は留守氏や伊達氏とも争いました。国分盛氏の時に、伊達氏から人を招いて当主を継がせたため、長年続いた血族による継承は途切れてしまいす。天童頼澄の母は、この国分氏血統最期の当主の娘。これを頼りに、陸奥国を目指しました。

■守護神・喜太郎■
<喜太郎稲荷神社>
sn kitaroinari.JPG
[山形県天童市]
天童城訪問時に立ち寄りました。天童の守護神「喜太郎」を祀る神社です。現地の説明によれば、天童氏家臣の狐崎喜太郎が、幻術を使って最上勢悩ませ、更に敗戦により天童氏が逃れるのを助けたとあります。

喜太郎?幻術?頭をよぎるのは「ゲゲゲの鬼太郎」あるいは音楽家の喜多郎さん。喜太郎とはどんな存在なのでしょう。城巡りの最中は歩き回るので精一杯なので、帰宅してから調べました。現地で読んだものと若干違いますが、以下のような伝説があるようです。

●喜太郎の伝説1
『天童氏初代の里見頼直が京都に赴いた時、家臣の喜太郎が伏見稲荷で神力を得るに至った。喜太郎は頼直から生き神として崇められるとともに天童の守護神となることを託され、神社が建てられた。時は経ち、九代城主天童頼澄が最上義光に敗れて陸奥国へ落ち延びようとした時、漆黒の闇に一行の足が止まると、喜太郎が現れて火を灯し、道案内をした。』

いろんな受けとめ方があって良いと思います。こういう話そのものを、私はあまり信じませんが、何となく好きですね。人が何かに感謝している気持ちが伝わってくるような気がするからです。

違う設定の伝説もみつかりました。

●喜太郎の伝説2
『最上義光に敗れ、難を逃れた天童頼澄。陸奥国へ向かう関山峠で暗闇に行く手を阻まれました。このとき喜太郎という忍者が現れ、火を灯して道案内を務め、頼澄は無事に峠を越えることができた。』
ちょっと設定が違いますが、こちらの方が現実的ですかね。ほぼ同じ話で『喜太郎という足軽が先導して難を逃れた』というのもあります。もっと現実的ですね。

関山峠は現在の宮城県と山形県とを結ぶ峠。どの話からも、この峠を越えることが楽ではなかったことが伝わってきます。朝を待つ余裕もなく、必死で逃れたのでしょうね。天童頼澄は無事に陸奥国へ入り、伊達氏を頼りました。

注)厳密に言うと天童頼澄は後の名。この時はまだ「頼久」です。このブログは頼澄で通しています。

■伊達藩家臣■
陸奥国へ逃れた天童頼澄。その後は伊達政宗に仕えました。宮城郡八幡(現在の宮城県多賀城市八幡)に屋敷を拝領したと伝わります。

<宝国寺>
sn suenomatsuyama.JPG
[宮城県多賀城市]八幡2丁目
八幡にある天童氏の菩提寺です。頼澄の屋敷をはじめ、家臣たちもこの周辺に住んだようです。

ところで
この宝国寺の山号は末松山。そうです。ここはいわゆる波越さじの「末の松山」。有名な歌枕の地でもあります。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは


清原元輔の歌。清少納言のお父様ですね。ちょっと雑ですが「末の松山を波が決して越えることがないように、我々も変わることはないと、涙ながらに約束しましたよね?ね!」という感じでしょうか。なんか恨み節に聞こえるのは、私のセンスの無さかも知れません。やんごとなき皆様の世界。適切な解釈は、ちゃんとしたサイトでお調べ願います。

やや話が逸れました。もとへ戻します。


■伊達藩の天童氏■

領地1000石。伊達政宗から家格準一家を命ぜられたとあります。準一家?どの程度か分らず調べました。仙台藩では、家臣の序列を付ける目的で家格という制度を採用していました。上から順に、一門・一家・準一家・・・(この下たくさんあります)。要するに準一家はかなり上の方です。もともと天童城主だったご本人の心境は分りませんが、伊達政宗が天童頼澄を良い条件で受け入れていたことが分りますね。とにかく命すら危うい状況から逃れてきたのですから、頼澄も満足し、そして感謝していたのではないでしょうか。伊達政宗に。そしてもしかしたら喜太郎に。

私は訪問していませんが、多賀城市八幡にも「喜太郎稲荷明神」があります。別名は天童神社。国が変わっても、喜太郎は守護神であり続けたのですね。


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2017年08月26日

天童と将棋駒 天童城跡

将棋の町・天童

将棋駒生産量の大半は天童といわれています。城巡りが目的で訪問しましたが、将棋も多少はたしなむので、以前から「天童の将棋」は意識していました。そもそもいつから始まったのでしょうか。

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[天童公園(天童城跡)]

■始まりは天童織田藩■
天童で将棋駒づくりが始まったのは江戸後期藩主が織田信学(のぶみち)の時と言われています。当時の財政は厳しく、藩士たちも生活に困っていました。そこで、米沢の職人から将棋の駒を作る技術を学び、藩士たちの手内職として奨励。これが天童の駒作りの始まりです。ということは、お隣の米沢でも駒作りをしていたのですね。そこから学び、そして浸透させました。天童織田藩家老・吉田大八の働きかけと伝わります(戊辰戦争での働きもあり、公園内に銅像もあります)。
やがて明治になり、天童では本格的な産業として駒作りが発展します。昭和になると、天童駒は全国的に知られるようになりました。平成の今でも、天童の駒は全国生産高の約9割以上(95%以上?)。将棋の駒と言えば天童。将棋に多少でも興味がある人にとっては、これはもう当たり前ですかね。

将棋は奈良時代に日本へ伝わりました。たくさん駒の種類がありますが、どうしていたのでしょうか?貴族あるいは武家の館の発掘調査から、昔の人たちは自分で作った駒で将棋を指していたとがわかっています。そうですね。まぁ体裁を気にしなければ我々でも作れます。
日本独自の進化をとげながら広まっていった将棋。江戸時代には庶民の間にも広がっていきました。将棋の駒を生産して商売が成り立つ。そこには、本当に長い時間をかけて熟成された将棋という文化、そして今も愛されているが故の需要がある訳ですね。

■天童の人間将棋■
shirononagori tendo (7).JPG
[天童公園(天童城跡)]
毎年4月、この公園(城の曲輪跡)において「人間将棋」が行われています。この人間将棋、天童藩主が人間を将棋の駒に見立てて対局したという話を再現したもの。毎年ニュースでも取り上げられるので、このイベントは将棋に興味がない人でも知っているのではないでしょうか。殿様の優雅な遊びにも映りますが、経緯がわかると、内職で駒作りを始めた武士たちの想いが受け継がれた姿にも見えますね。

日本の合戦と将棋

最近また将棋ブームですね。起源は海外ですが、われわれが思っている将棋、つまり日本将棋は世界的に見ても独特のものです。その国の文化が、将棋という世界にも表れているような気がします。
決定的に違うのは、やはり相手の駒を使える点ではないでしょうか。「持ち駒」という考え方ですね。これはチェスにも中国の将棋にもありません。倒すことより、降伏させることを目指す。個人的にはそんな風に受け止めています。それが戦国時代を含む日本的な合戦のあり方。現実として悲惨な戦がたくさんあったとしても、同じ民族同士の争いで形成されていった戦のあり方は、やはり外国のそれとは背景が異なるのではないでしょうか。

■駒の個性■
実際に将棋をしていると、本来なら活躍できるはずの駒を活かせないといったケースが多々ありますね。かといって相手には渡したくない。敵方につかれてはたまらない程、その駒が優秀ということです。逆に相手はそういう優秀な駒を欲しがっています。潰そうとしているのではなく、こちらの味方になって欲しいと思っているのです。何となく日本の戦国史と重なりませんかね?

また、駒の優劣と関係なく、今どうしてもあの駒が欲しいという局面があります。例えば、潜在能力の高い「角」を手放して、相手の「銀」を取りにいくようなケース。これは一般的な評価による優劣より、その駒の個性の方が価値が高いという状況ですね。私はいわゆる「へぼ将棋」のレベルですが、その程度のことは理解しています。これは個性の異なる駒には、適材適所で働きの場があるということ。戦国時代でも、名声や身分よりその場で役に立つ者が徴用されたりしますね。そしてそれが出来る集団こそが強い集団。なんとなく似ている気がします。

更に、駒の立場で考えると、捨て駒で使われるくらいなら、主を変えて存分に働いた方が気分がいいですね。戦国時代でも、主君を鞍替えするケースは多々ありました。似てますね。

日本将棋独特の「持ち駒」というシステム。これはこういった日本的な戦のあり方の影響を受けて生まれてきた。きっとそうですね。ただ兵と兵を激突させて潰し合うのではなく、優勢な状態を作り出し、敵将に「参りました」と言わせれば終わる。とても魅力的なルールですね。

最後に
駒が敵方につくのは「裏切り」でしょうか?まぁ感覚の問題ですが、ちゃんと手続きを経たうえですので、私にはそうは思えません。手続きもないまま、急に駒の向きが変わったら「裏切り」ですね。これは現実の戦では多々ありますが、将棋の世界ではないことです。駒はいつでも王将と、そして味方の駒と同じ方向を向いています


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2017年08月25日

中世山城のなごり 天童公園(天童城)

■山城・天童城■

<中央郭の虎口>
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石碑は天童古城記念碑。背後に土塁。

天童市の東南に位置する舞鶴山(比高で百メートル強)。天童城はこの地に築かれた山城です。村山地方最大の山城は、現在「天童公園」として整備されています。
※山形盆地を中心とした地域・山形市を含む県の中心です。

<曲輪と土塁>
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それにしても広すぎる・・・小さな山城だと、麓も含めて探索するのですが、ここはちょっと無理でした。厳密に言うと城は3つの山に跨っており、私の探索は主に主郭から中央郭と呼ばれる付近(2つ分)。土塁や曲輪(くるわ)などを確認しながら他もなんとか歩き回りましたが、タオルを首から下げて、ただ茫然と通り抜けて終わったような気もします。

shirononagori tendo (4).JPG
もうろうとしながら撮影。ちょっと気がきかない画像ですが、段差が連続している様子、伝わりますでしょうか?山の斜面を段階的に削って平らな区画を形成しています。山城らしいですね。ただ広めの曲輪は別として、他は何となく古墳を連想させるなだらかな形状のものが多い気がしました。遺構らしきもの全てが昔のものとも限りませんので、雰囲気だけ味わいました。

■天童丸■ 築城者推定
天童城の築城者については諸説あります。有力なのは北畠天童丸。素性も不確かですが、村上源氏の流れを汲む名門・北畠氏の子孫とされています。1336年に天童城を築城。山形の斯波氏(しばし)に対抗しました。これは南北朝時代のお話。天童丸のそれ以降の消息は不明です。外圧から天童城を去ることになったと考えられています。

ここで斯波氏についてですが、室町将軍・足利氏の有力一門です。やがて出羽を支配する最上氏は、その分家ということになります。源氏の血をひく最上氏のルーツですね。最上氏の祖は斯波兼頼(しばかねより)。最上兼頼です。

■天童氏の勢力拡大■
上記の最上兼頼の孫の里見義直が天童城へ入城。天童氏を名乗ります。これははっきりしているようなので、天童城の初代城主は「里見氏」と考えるほうが良いのかも知れませんね。えっと最上の孫で里見?ちょっと複雑ですが、斯波氏で後に最上を名乗った人物の孫が養子で里見氏に入り、後に天童氏を名乗った・・・(ここでやめますね。)

里見氏。現在の千葉県で勢力を拡大した安房里見氏と同系です。ともに新田氏から分かれた名門ですね。この里見氏が、どういう経緯でいつごろ出羽国へ進出したかは不明のようです。で、その里見氏の家系(清和源氏新田氏流里見氏)が途絶えると、次は最上氏(足利氏流斯波氏一門の)が城へ入り、やはり天童の姓を引き継ぎます。ずっと直系の嫡男が継承というわけにはいきませんが、歴代天童氏当主はこの城を拠点に勢力を拡大。村上地方の中心的な存在となっていきます。

当ブログ、いつも曖昧に「名門」で済ましていますが、ちゃんと記載する時には一応調べます。読んで頂いている方が納得してくれるなら嬉しいですが、そもそも「名門」という世界が複雑(私が戦国期以外の日本史に疎いこともあります)な上に、天童氏も事情が複雑。私が読者なら読み流したくなります。すみません。話が逸れました。本題に戻ります。


■最上義光と対立■ 天童八楯の崩壊
天童氏の説明をさせて頂いて、その後の細かい説明が雑だと、下記は「えっ?」ということになります。相当な時間を経ていますし、兄弟・親戚で争うことも多い時代。いつのまにか本家の最上氏、というより具体的に最上義光(よしあき)とは領地などをめぐって対立関係となっていました。そんな感じで何となく受け止めて下さい(このブログはそのレベルなので。更に言うと、最上義光いよいよでてきたかぁ〜!という漠然とした躍動感でこの事態を受け止めています)。

1577年
最上義光に攻撃されるが撃退
城は堅城・周囲の援軍もあり

1584年
また最上義光攻められ落城
周囲の味方は既に最上に屈していた

最後の城主は、当主の天童頼澄。天童の地から去りました。かつて天童氏を盟主に形成されていた有力国人領主による連合「天童八楯(てんどうやつだて)」は、この時すでに崩壊していました。主要メンバーで、最上義光に下っていた延沢満延(のべさわみつのぶ)の嘆願により、最上軍は逃亡する天童頼澄を見逃しました。難を逃れた天童頼澄は、伊達氏に仕えることになります。

中世の山城としての天童城は、この時に廃城となりました。


その後
■織田氏陣屋■
かなり時を経てからの話になります。1830年に織田氏が天童藩主に。織田信長の次男・信雄(のぶかつ)の後裔ですね。天童織田藩の始まりです。
<建勲神社>
shirononagori tendo (3).JPG
織田信長を祀った神社。天童織田家については別途投稿しました。よろしければ→織田乃里

舞鶴山が再び政治の中心地として機能し始めます。西の麓の平野部に、外堀と内堀を持つ陣屋が築かれました。かつての戦闘用の山城ではなく、統治のための拠点ですね。天童織田藩は廃藩などもなく、明治まで続きます。戊辰戦争に巻き込まれ(天童藩は新政府側)、この時に陣屋は焼失したそうです。

■つわものどもが夢の跡■
<天童公園>
shirononagori tendo (7).JPG
全国的には人間将棋の会場として有名ですね。テレビにはここしか映りませんが、しっかり見て歩けば、中世の頃と思われる遺構がところどころ確認できる山城です。将棋の一手一手に思惑があるように、遺構それぞれにも意味があり、人の思惑が託されています。

--------■天童城■--------
別 称:舞鶴城・天童古城
築城者:不明(北畠天童丸)
築城年:不明(1336年)
城 主:天童氏歴代
廃城年:1584年
(天童織田藩陣屋は除く)

[山形県天童市大字城山]


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2017年08月17日

上山藩武家屋敷(山形県上山市お勧め)

(上山城訪問記のつづきです)
観光スポットがたくさんの山形県上山市。城跡中心の当ブログでは「武家屋敷」をお勧めします。上山城のすぐ北側です。藩としても繁栄した上山。その時代の雰囲気を残す武家屋敷です。

■上山藩武家屋敷■
 shirononagori kaminoyama (5).JPG
[山形県上山市鶴脛町]
あまりこういう経験はないので新鮮です。当時の武士の生活を忍ばせる4軒の屋敷。いい感じです。平屋でのんびりと、池のある庭などを眺めながら暮らす。住んでみたいですね。城から近いので通勤も楽。満員電車に揺られることもなく、ゆっくり歩いて帰宅。いいですね。ただこれは、、、ちょっと失礼かもしれませんが、藩でどのくらい出世すれば、こういう生活ができたのでしょうか。

<案内図>
 shirononagori kaminoyama (4).JPG
森本家・三輪家・山田家・旧曽我部家
(4軒すべて 市の有形文化財)

<案内文>
『上山城(月岡城)が天文四年(1535年)に築かれると、その西・北部一帯は武家屋敷となり、この仲丁通りには、藩の要職にあった家臣が居住していた。 現存している屋敷は、茅葺屋根、鉤形の曲屋で、玄関と通用口とを別にする武家中門造りの建築様式であり、十七世紀中頃の建造と推定され、屋敷の周りには土塀または土塁が築かれていた。』
[案内図説明をそのまま転記]

三百年以上前に建てられた」ものだそうです。手直ししているとはいえ凄いですね。

藩の「要職の家臣が居住」とありますね。そうですか。そりゃそうですよね。森本さんや三輪さん、凄い方々だったようですね。仮にこの時代に生きていても、私には縁の無い屋敷のようです。残念。

 shirononagori kaminoyama (6).JPG
やや他人事となりましたが、いいものはいいですね。

■ 武家屋敷の詳細 ■
上山市ホームページ
http://kaminoyama-spa.com/tourism/data/000063.php
※無料と有料がありますので参考にして下さい。 (原則水曜が休館)


<城下町上山のシンボル>
 shirononagori kaminoyama (2).JPG
観光スポットのほかに、上山は温泉も有名ですね。私は時間もお金も余裕なく、上山ラーメンだけでした。撮影しませんでしたが、あっさり目の澄んだ醤油スープに細めの麺。美味しかったですよ。まぁ楽しみ方は人それぞれ。私は僅か半日で次の場所へ移動してしまったので、上山の魅力の一部に触れたに過ぎません。今度行ったら、もっとゆっくりと楽しみたいですね。ラーメンはまた食べるとして、まぁできれば温泉なんかも。一泊でいいから。







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2017年08月16日

温泉宿場城下町の山城 上山城

上杉と最上が激突した北の関ヶ原(慶長出羽合戦)。最上義光の居城・山形城の支城として上杉軍を苦しめた上山城(かみのやまじょう)。そのなごりを求めて、山形県上山市を訪問しました。二十四あったといわれる山形城の支城で、上杉軍の猛攻に屈しなかったのは長谷堂城とここ上山城だけです。

<現在の上山城>
 shirononagori kaminoyama (3).JPG
あれ、ちょっと立派過ぎるんですが!

堅城と呼ばれた中世の山城。私にとって、上山城とはそういう城。これは明らかに別の世界ですね。早々と廃城になった長谷堂城とは異なり、上山城は江戸時代を通して町の中心であり続けました。
※長谷堂城訪問記記事へ進む

■米沢と山形の狭間で■
上山は、古くから米沢の伊達氏と山形の最上氏が、その支配権をめぐって衝突する場所でした。両勢力の間に位置しています。これはこの地の宿命ですね。

■北の関ヶ原■ 戦の重要拠点
伊達氏に続いて米沢を支配したのは上杉家です。日ノ本が東軍と西軍に分かれて戦った際には、2万を数える上杉軍が最上領へ侵攻。支城は次々と落とされ、残る支城は長谷堂とここ上山だけになりました。
この時に上山城を任されたのは里見民部(さとみみんぶ)。上杉軍本体から派遣された別働隊を迎え討ち、見事に撃退しました。籠城で耐えたというより、周囲に伏兵を潜ませ、奇襲で勝ったようです。大手柄ですね。ただこの後、里見民部は最上義光との不仲が原因で、最上家を去りました。
里見民部という剛の者。勿体ないですね。ここに書ききれませんが、かなりドロドロで複雑なことになってしまい、あまりいい事はありませんでした。ただそれも元々の強い気質と、そこへ至る経緯があってのこと。それら全てをもって、里見民部らしいと思うしかありませんね。


■上山藩成立■ 城下町・宿場町
上山城は、その後も最上家の身内が城主を務めます。しかし最上義光亡き後、お家騒動(最上騒動)で改易され、城は没収となります。最上家による上山支配はここで終わりました。先述の「長谷堂城」はこの時に廃城。しかし、ここ上山城は統治のための城として、その後も長く存続しました。
能見松平家の松平重忠4万石で城主となり、上山藩を立藩。以降は城主を務める氏族が次々と変わり、城も改修されたり取り壊されたりして形が変わりますが、上山藩そのものは幕末まで続きました

まぁ誰が殿様でも、統治の城があれば秩序は保たれ人も集まります。もともと街道の宿場町だったこともあり、上山は栄えます。古くから温泉も発見されていましたので「温泉宿場城下町」ですかね。山形と米沢に挟まれた場所ですから、二つの勢力が争った頃はいろいろと難儀だったかもしれませんが、太平の世となれば、逆に好条件と言えます。


■つわものどもが夢の跡■

<模擬天守>
 shirononagori kaminoyama (2).JPG
戦国期には生々しい戦闘のあった場所です。そして江戸時代を通して町の中心だった場所。今では、江戸期の本丸跡には月岡神社が祀られ、二ノ丸跡は公園となっています。そして鉄筋で造られた天守。「羽州の名城」は、郷土資料館として生まれ変わりました。
実は城跡巡りを始めた当初、観光施設としての城の再現はあまり好きではありませんでした。史実の痕跡。それだけで充分だと思っていたわけですね。ただ、模擬天守を見上げる子供の姿とか、充実した資料館とか、そんな光景をいろんな城跡で見かけるうちに、考え方も変わりました。ここ上山城についても、もともとの天守とは形が異なり、場所もかつての本丸ではありません。ただ立派ではないですか。どうせならこのくらい立派にやって欲しい。マニアの細かい拘りは意識の彼方に追いやられ、ごくごく自然に「綺麗だ」と感じました。

闘うためでも治めるためでもありません。歴史ある城下町の象徴として、天守が堂々たる姿を見せてくれています。

--------■上山城■--------
別 称:月岡城
築城者:武衛義忠(上山氏)
城 主:武衛氏・・・多数
築城年:1535年
廃城年:1871年(明治4)
※上山城が現在の場所に移った時の築城者

[山形県上山市元城内]


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2017年08月14日

北の関ヶ原・激戦の山城 長谷堂城

関ヶ原の戦いと同じ日。遠く離れた北の大地でも、西軍と東軍が激しく戦っていました。

■長谷堂城■ はせどうじょう

<菅沢山から見た長谷堂城>
sirononagori sakenobe (7).JPG
現在の山形市南部に位置する山城です。最上氏の居城・山形城にとって、防衛のための重要な支城の一つでした。歴史は古いものの、その存在が大きくクローズアップされたのは慶長出羽合戦の時。米沢から北上してくる上杉の大軍を、長谷堂城は最前線で受けとめました。

■慶長出羽合戦■ 北の関ヶ原
慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた合戦。具体的には、かねてから緊張状態にあった上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の激突です。この時点では、上杉120万石最上25万石。明らかに最上側が不利ですね。まず上杉側が重臣・直江兼続を総大将に最上領へ侵攻し、最上側の支城を次々と攻略。当主にしてこの戦の総大将・最上義光は、甥の伊達政宗に援軍を要請し、自らも出陣。最終的には、上杉軍対最上・伊達連合軍の戦いとなりました。

■長谷堂城の戦い■
長谷堂は慶長出羽合戦の主戦場となった場所です。この地で戦いが始まったのは、くしくも関ヶ原と同じ慶長5年9月15日。長谷堂城は集結した上杉軍1万8千に包囲されました。

<上杉軍本陣跡>菅沢山
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上杉軍総大将は直江兼続。2万を率いて米沢方面から最上領内に攻め入りました。長谷堂城と並んで堅城と呼ばれる上ノ山城(かみのやまじょう)に2千の兵を送り、自身はここ長谷堂の地で采配を振ります。城の目と鼻の先にある「菅沢山」に陣取りました。

一番最初の画像は、その菅沢山から撮影しました。カメラだとやや遠く見えますが、肉眼では本当にすぐ近くです。攻める側も守る側も、かなりの緊張状態だったでしょうね。一瞬のことではなく、昼も夜もいつもですから。水田が広がっているのが見えますね。合戦の時も、城の周辺は稲田だったと伝わります。

<展示されている推定復元図>
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[現地撮影(学習研究社)]
城を任されたのは最上家屈指の智将・志村光安(しむら あきやす)。そして副将格として、これもまた最上家屈指の名将である鮭延秀綱(さけのべひでつな)が入城。説明図にも、山の頂上主郭付近にこの二人の名が記載されています(オレンジ色)。千人という少数ながら精鋭を集結させ、上杉の大軍の前に立ちはだかりました。山城をかすめるように天然の川(本沢川)が流れています。推定図では、この川から水をひいて、掘削した堀を水堀としたようになっていますね。

一方、山城の右上に描かれているのが菅沢山(上杉本陣)。直江兼続のほかに、春日右衛門・色部修理・上泉主水の名があります。少し距離を置いたところには杉原常陸の名も。攻める側もそうそうたるメンバーですね。

この状況、千人対1万8千人です。城を出てまともに激突したら、最上側に勝ち目はありません。堅城の強みを生かし、まずは籠城。そう思わせておいて、夜襲を仕掛けて上杉軍を翻弄。また籠城する最上軍に対し、上杉軍は刈田狼藉(敵側の田畑を荒らす・あるいは収穫物を略奪する行為)で誘い出そうとしますが、智将・志村光安はこれに乗らず、直江兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされます。「笑わせるなアホ」という意味。アホは私の個人的な解釈ですが、とにかく老獪ですね。副将格の鮭延秀綱も、手勢を連れて城を出ては上杉軍を翻弄。敵の総大将に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」とまで言わせる活躍でした。


<縄張り図>
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長谷堂城は独立峰に築かれた典型的な山城。構造的にも優れています。しかし「難攻不落の城」と呼ばれる所以は、大軍を前に必死で戦う城兵たち、そしてこの上杉軍との戦いの実績です。長谷堂城より前に上杉軍に立ちはだかった畑谷城(はたやじょう)では、城主・江口五兵衛光清を含む五百の城兵が全員討ち死にしています。いくら戦国の世でも、全員というのは珍しいケース。最上軍の士気がいかに高いか、それを物語っていると思います。

<パンフレット>
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私の訪問時には、説明板の左下に無料パンフレットがありました。山形市作成「長谷堂城跡公園散策マップ」です。頂きました。ありがとうございます。公園内のみどころや、おすすめ周遊コースなど、いろいろと丁寧に記載されています。そしてこの城の遺構(土塁・曲輪など・写真付き)や歴史についても。
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上杉軍は米沢方面(つまり南側)から最上領に侵攻すると同時に、当時やはり上杉の領地だった庄内地方(まぁ北側と思って頂ければよいかと)からも兵を進めています。これらの総称が慶長出羽合戦。長谷堂城の戦いは、そのなかでも最大の戦いとなりました。

■山城探索■
<薬研堀>
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城の手前で堀の一部が復元されていました。ちょっと綺麗すぎますし、実際にはこんな程度ではなかったはず。まぁ雰囲気は味わいました。要するに、この付近より先は既に城内ということですね。

<長谷堂城の入口>
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私はここから登ってみました。標高230mですが、麓からの高さで85mの小規模な山です。小規模といっても、城としては結構な広さになります。

<登山道>
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山城らしい雰囲気が漂いますが、残念ながらこれは中世の登山道ではありません。現在は長谷堂城跡公園として整備されていますので、ある程度時間は要しますが、ウォーキングの感覚で登って行けます。頂上直前で、ちょっとだけ険しくなるだけです。私の訪問は夏。蚊の大軍に襲われました。訪問する人はそれなりの準備が必要です。

<山城の頂上>
sironagori hasedojo S (3).JPG
主郭に到着しました。長谷堂城の天守からの眺め。中央に見える高層ビルの辺りが最上義光の居城「山形城」です。8q程度。この日は遠くまで見渡せました。味方の城を遠くに、そして敵の陣を目の前にして、立て籠もる兵たちはどんな気持ちで戦ったのでしょうか?私だったら「総大将、早く助けに来てくだされ」と思うことでしょう。しかし士気の高い最上の城兵は屈しません。関ヶ原の戦いが僅か一日で終わったことも知らないまま、城兵たちは約半月間も奮闘します。

■最上義光出陣■伊達軍も到着
9月21日 伊達の援軍
最上義光の依頼に応えて政宗が派遣した伊達政景(=留守政景:政宗にとって叔父)が率いる約3千の軍勢が到着。

9月25日 最上義光出陣
山形城を出陣し、自ら本隊を率いて長谷堂城救出へ向かいます。

上杉軍1万8千と最上・伊達連合軍1万2千の総力戦となりました。ただいきなり激突することはなく、しばらく緊張状態が続きます。これには諸説ありますが、上杉・最上双方が、美濃国関ヶ原の戦況が分るまで様子を見ていたとも考えられています。そして9月29日、会津若松城の上杉景勝より、関ヶ原の戦いの報せが直江兼続のもとへ届きます。石田三成率いる西軍の大敗を知り、上杉軍は兵を退くことに。ここでこれ以上犠牲を出しても意味が無いということですね。最上側にも10月1日には報せが届き、最上義光は自ら先頭にたって撤退する上杉軍を追いかけます。長谷堂城を任されていた志村光安もこの追撃に加わり活躍。この最上軍の追撃は相当激しいものになりましたが、上杉軍は総大将・直江兼続が自ら殿(しんがり=撤退する軍の最後尾で敵を食い止める役割)を務めてこれを防ぎ、最上領内から去っていきました。

慶長出羽合戦における最大の激突「長谷堂城の戦い」はこれで終わりました。

■つわものどもが夢の跡■
sironagori hasedojo S (4).JPG
上杉の大軍を退けた長谷堂城。それから約二十年後の話になりますが、お家騒動により最上家は城も領地も没収となります。西軍上杉と戦った功績で57万石にまでなった最上家ですが、終焉を迎えます。幕府は領内各地に軍勢を向かわせ、城の明け渡しを要求。長谷堂城を任されたのは、米沢30万石の藩主となっていた上杉景勝でした。最上義光も直江兼続も、既にこの世を去った後の出来事。難攻不落の山城は、その後まもなく廃城となりました。

-----■長谷堂城■-----
別 名:亀ヶ城
築城年:不明(16世紀初期)
築城者:最上氏
城 主:最上氏・志村氏・坂氏
 (坂氏も最上家臣です)
廃城年:1622年

[山形県山形市長谷堂]


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2017年08月11日

鮭延秀綱の軌跡(鮭延城から鮭延寺)

戦国武将好きです。今回は鮭延秀綱(さけのべひでつな)について。ややマイナー武将ですが、知る人ぞ知る出羽の名将です。

■旅の始まり■真室川町
<鮭延城跡>
sirononagori sakenobe (2).jpg
[山形県最上郡真室川町]
秀綱居城の入り口。山城です。

<山城探索>
sirononagori sakenobe (5).jpg
かなり「放っとかれた状態」でした。苔類がクッションになり、踏みつけるのが心苦しいくらいです。

中世末期、出羽国北部を支配した鮭延氏の居城です。築城時期は不明。真室川を望む高台にあり、別名は真室城。出羽の名将・鮭延秀綱の歴史はここから始まりました。

<真室川> まむろがわ
sirononagori sakenobe (6).jpg
最上川水系鮭川支流。秀綱にとって故郷の川ですね。

<正源寺> しょうげんじ
sirononagori sakenobe (4).jpg
山城の近くにある鮭延氏の菩提寺。鮭延貞綱(佐々木貞綱=秀綱の父)の菩提寺として開かれ、当初は「鮭延山総国寺」という名でしたが、秀綱が城主の時に正源寺に改称されたそうです。

立派な山門です(高さ13m、間口9.7m、奥行6.1m)。 門前が踏切(しかも参道の一部です)という状況は大変珍しい。鎌倉の江ノ電でもなかなか見ないような光景ですね。山と川に挟まれた狭い平地に寺も線路もあるので、結果としてこういうことになります。城が築かれたエリアの地形そのものが興味深いものでした。

<真室川駅>
SIRONONAGORImamuro.JPG
駅も素敵でした。

■そもそも鮭延氏とは■ 近江源氏
鮭延氏は近江源氏佐々木氏の一族。十五世紀末頃に一族で出羽国へ下り、地元の豪族である小野寺氏に仕えました。正確な時期は不明ながら、小野寺氏は最上氏他との抗争から、客将である佐々木氏を真室郷鮭延の地に派遣。この時に拠点となった天然の要害が、鮭延城の始まりです。またこの際に、小野寺氏から抗争の最前線を託された佐々木氏が、地名をそのまま名乗ったことが鮭延氏の始まりとされています。

■鮭延氏と最上氏■ 敵から始まり・・・
鮭延秀綱を語るのに、最上義光(よしあき)の名を省略することはできません。元々は敵対関係。秀綱が城主の時に、鮭延城は勢力拡大を目指す最上義光の攻撃を受けます。激しく抵抗したようですが、勢いもあり、更に調略にも長けた最上軍には勝てませんでした(1581年)。しかし命を奪われることなく、本領も安堵され、秀綱は最上家に仕えることになります。これにより、鮭延城は最上氏配下の北の拠点となりました。

<山形城・最上義光銅像>
sirononagori sakenobe (3).jpg
[山形県山形市]
最上家11代目当主。あの伊達政宗の伯父でもあります。仲は悪かったようです。

個人的に上杉びいきなので、対立する最上義光に最初は良いイメージがありませんでした。ところが、良く知ればこれまた魅力的な大将。出羽国の覇者であり、人間味溢れる英雄。そして鮭延秀綱の主です。

■家臣として大活躍■ 勇猛にして忠義の武士
戦歴すべては書けませんが、特に最上家に危機が迫った「長谷堂城の戦い」で大活躍。相手は直江兼続率いる上杉軍です。秀綱は直接兵を率いて上杉本陣に迫るなど、敵からも賞賛される働きをしました。直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめたほどです。

<長谷堂城>
sirononagori sakenobe (7).JPG
[山形県山形市]長谷堂古戦場
堅城と賞される山城。最上義光の居城・山形城の支城です。くしくも関ヶ原の戦いと同日に戦いの火蓋が切られました。関ヶ原の結末を知らないまま、戦いは約半月間。秀綱は副将格としてこの城に入り奮闘します。最上側は数的に不利ながら善戦しました。

■主が57万石石高ランキング5位
「長谷堂城の戦い」後、反徳川の上杉と戦った最上義光は、57万石の領地を支配することになります。これはこの当時で全国5位。最上氏は義光の時に繁栄を極めます。家臣である鮭延秀綱にとっても、人生の絶頂期だったかも知れませんね。

■最上騒動■ 義光亡き後
最上義光亡き後、最上家は家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)で改易されてしまいます。ようするに城も領地も没収ということです。身分までも。
最上家において既に重臣となっていた鮭延秀綱は、騒動を長引かせたというお咎めにより、佐倉藩主・土井利勝の元に預かりとなりました。

<佐倉城跡>
sirononagori sakura9.jpg
[千葉県佐倉市]
老中・土井利勝の城です。

■この頃の逸話■
この頃の逸話は有名ですが、聞く話によって微妙に違います。私が聞いた話の要点だけをを抜粋してまとめるとこんな感じです。

『罪を許された鮭延秀綱ですが、土井利勝から手を差し伸べられたにも関わらず「我が主は最上義光のみ」と言いって召し抱えの話を断り、出羽から自分を慕ってついて来た家来とともに江戸へ向かいます。家来たちは秀綱のために町人仕事に奮闘しますが上手くいかず、それでも何とか主を養おうと乞食に身を落とすことに。自分を慕う者達の必死の姿を見かねて、秀綱は過去へのこだわりを捨て、土井利勝に仕える道を選びました。』

こんな感じです。

■乞食大名■ 小説のタイトルです
直木賞作家の海音寺潮五郎の小説「乞食大名」(短編集『かぶき大名』収録)に、その人望がよく描かれています。勇猛でありながら部下思いのリーダー。私にとっての鮭延秀綱もそういう男です。どうせ仕事をするなら、こういう人のために精一杯働きたい。そう感じさせる人です。

■5千石■ かなりいい条件
土井利勝は5千石で鮭延秀綱を召し抱えました。決して少なくない石高です。ただ秀綱はこれを己のものとはせず、出羽以来の家来に全て分け与えてしまい、自身は家来のもとを転々として暮らしたともいわれています。

■旅の終わり■ 土井利勝とともに古河へ
土井利勝の国替えに従い、鮭延秀綱も古河へ移り住みます。この地が波乱の人生の最後の地となりました。

<古河城本丸跡>
kogajo (4).JPG
[茨城県古河市]

■つわものどもが夢の跡■
<鮭延寺> けいえんじ
sirononagori sakenobe (1).jpg
[茨城県古河市]
石碑には「鮭延越前守秀綱」と刻まれています。菩提を弔うため、秀綱を慕う家臣たちによって創建されました。出羽の名将のお墓は、ここ古河市の鮭延寺にあります。

鮭延寺shirononagori.jpg


最後に
冒頭の山形県真室川町、そして茨城県古河市。かなり距離がありますね。この二つの都市、接点もなさそうですが、姉妹都市を締結しています。そう、お察しの通りです。鮭延秀綱で繋がっています。


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タグ:山形への旅
posted by Isuke at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2017年03月14日

九戸城を訪ねた勢いで・・・(四戸城)

二戸市を訪れたついでにと言っては失礼ですが、四戸城を訪問しました。南部氏が九戸城を攻めた時に拠点とした城跡です。

■四戸城■しのへ
<四戸城跡>
9ninohe (13).JPG
現地までなんとかたどり着き、地元の人に場所を尋ねると、「石しかないよ」と笑われました。行ってみると、たしかに四戸城跡を示す標柱と大きな石があるだけ。石は「ベゴ石」と呼ばれているらしい。あとは周辺に墓地が確認できるだけ。地形そのもので判断すると、ちょっとした高台を利用した城だったようです。

<説明>
9ninohe (14).JPG
何か書いてありますね。画像下の説明部分です。

『四戸城は上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城であったが、四戸氏がいつ頃から当地に居住したのかは良く分かっていない。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻で、また宗泰の妻は政実の叔母であった。
四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力を持っていた九戸氏とは親しい間柄であった。
しかし、天正19年・・・・九戸の戦いを前に・・・(以下読めず)』


なるほど
「城主四戸宗泰の妹は、九戸城主九戸政実の妻
「九戸氏とは親しい間柄」
だったわけですね。

しかし諸事情から四戸氏はこの地を去り、四戸城は九戸政実と対立する南部信直方の居城となりました。四戸氏も九戸氏も南部支族。大きな意味では身内なんですがね。いつの時代でも、人間関係は難しいのですね。九戸政実にとって、この地は途中までは友好の城、南部氏と関係が悪化してからは敵方の拠点だったことになりますね。

そして・・・
「上館、中館、下館の3つの曲輪からなっている」
だそうです。ならばその痕跡を探すのが城マニア。これこそ城跡巡りの楽しみのですね。

<遺構の画像>
(ありません・・・)
撮影しなかった訳ではなく、カメラの電池切れでもありません。探索できませんでした。

城跡と思われる敷地は結構広く、この日はそうとう寒く、更に九戸城探索で体力を使い切ってしまい、もう気力が残っていませんでした。ここまで来たのですがね。曲輪と曲輪の間の堀くらいは確認したかったです。今から思えばですが・・・

仕方がないので帰宅してから他の方のブログで確認。皆さん詳しく調べていらっしゃいますね!人の手を借りて恐縮ですが「四戸城」で検索するだけで、素晴らしい城ブログと出会えます。特に地元の方と思われるブログは読んでいて楽しいですね。私のように「やっとこさ行ってきた」というのと違って、ブログの行間から肌感覚のようなものが伝わってきます。これは大事です。気候とか、人の気質とか、ものの見かたとか、そこで暮らさなければ分らないものってありますよね。参考になりました。ありがとうございます。

皆さんの情報によれば、3つの曲輪は北から南へ縦に配置されたようですね。連郭式城郭ということです。馬淵川(まべちがわ)左岸の段丘の城。そして、九戸政実の乱のあと、ほどなくして廃城となったようです。

<いわて銀河鉄道>
9ninohe (12).JPG
雰囲気のあるローカル線。二戸駅と金田一温泉駅の間で利用しました。四戸城の別名は金田一城です。

疲れましたが、いい旅でした。

[岩手県二戸市金田一舘]
↑九戸城も四戸城も二戸市にあります。


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タグ:天を衝く
posted by Isuke at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
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