2020年01月02日

上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍

今回は戦国最強の武将と言われる上杉謙信の軍旗についてです。

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毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。

■毘沙門天■
毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方の守護神、そして戦の神様。いかにも越後の上杉謙信らしいですね。謙信が毘沙門天を深く崇拝していたことはとても有名な話です。

■不動明王■
さて、一方の不動明王ですが、まず『正しい智恵により迷いの世界から煩悩を絶ち切る道を示してくれる神』と受け止めて良いかと思います。仏像の多くが穏やかな姿をしているのに対し、不動明王は龍が巻きついた剣を持ち、恐ろしい表情をしている場合が多いですね。闘神?まぁ戦う姿ではあると思いますが、仏の道に導き救済することありきであって、そのために悪を絶つ姿をされていると受け止めたいと思います。

ざっくりではありますが、個別の旗が意味するところはそんな感じです。ここでちょっと興味深い点は、毘と龍の軍旗は常に対で掲げられていたことでしょうか。各々に充分な意味が込められていると思われます。しかし、上杉謙信にとってはセットでなければいけなかった。諸説あるようですが、私にはなるほどと思えるものがなく、いまだに謎を抱えたままです。

<米沢城址>松が岬公園
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こちらは米沢城本丸跡への入り口、そして上杉謙信を祀る上杉神社の参道でもあります。いつ訪れても、左右に掲げられた毘と龍の軍旗が出迎えてくれます。

この毘と龍の軍旗、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わります。ちょっと別な見方をすれば、全軍が総がかりで敵と激突する場面というのはそうそうあるものではないので、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になっかたのかもしれませんね。

<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
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謙信は米沢藩歴代当主たちとともにここにいます。


■訪問:米沢城本丸跡
[山形県米沢市丸の内]

   :上杉家廟所
[山形県米沢市御廟]
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2019年12月14日

赤穂事件殉難追悼碑 上杉家にとっての赤穂事件

本日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日

ということで
今回は米沢城本丸跡にある目立たない石碑をご紹介します。

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誰も足を止めない石碑

場所は上杉家と関連する刀や甲冑が展示されている人気スポット・上杉神社稽照殿のすぐ近くです。

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正直、現地ですらすらとは読めません。碑文の文字そのものは綺麗です。ただ光の関係で見えにくいのと、文そのものが難しい(私には)。キーワードを途切れ途切れに拾うと『元禄15年(1702)12月15日黎明・浅野内匠頭家臣数十人・吉良・本所邸・狼藉・急変不意・老中下知・上杉家の不幸後年に及ぶ・・・』などなどと。

吉良と上杉?
吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘でした。そして赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、上野介の実子が上杉家に養子入りして藩主となっていたのです。この石碑がどんなメッセージを込めて設けられたか分からないものの、赤穂事件について、上杉家側にもそうとう苦悩があったことは伝わってきますね。個人的には、吉良上野介の実子である上杉綱憲に対し、あまり良いイメージがありません。ただ、この人物を藩主として支えねばならなかった家臣団の苦悩、これはちょっと想像できます。碑文後半の『上杉家の不幸後年に及ぶ』が、全てを表しているような気がします。

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当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:赤穂事件殉難追悼碑
[山形県米沢市丸の内]


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上杉の町の武田武士のなごり 屋代町

米沢城本丸跡からの帰り道
小さな標柱に足が止まりました。

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屋代町?

ここは現在の住所だと米沢市丸の内です。どうやら旧町名が記されているようです。わざわざ記してあるには理由があるのだろう。そう思って側面の説明文を読んでみると、なるほど、納得でした。

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抜粋すると『信濃の屋代から移ってきた侍が住んでいたとされている』とのこと。その補足説明としてしっかりと『武田氏滅亡後、信玄の6男信清をはじめとして上杉氏に帰属した侍が多くいた』と記されています。地名の由来として他の諸説も記載されていましたが、もう冒頭のこの説明だけで満足してしまいました。

まず
武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝の正室となり、武田滅亡後にはその弟・信清が姉の縁を頼って上杉氏に属した。ここまでは有名なお話ですね。直江兼続のお墓があることで知られる林泉寺を訪ねると、境内には武田信清のお墓もあります。信清は甲斐武田家のあとは上杉家の家臣となり、越後・会津を経てここ米沢で没しました。はい。

では標柱の何が満足なのか
武田信清がたった一人でやって来るわけないですよね。仕える者も多かったでしょう。また、信清を頼って集ってくる旧武田武士もいたでしょう。なんといっても、あの武田信玄の血族ですからね。そんな当たり前のことを考えたこともなかったので、妙に新鮮でした。武田信清は明治まで(そして現在も)続く米沢武田家の祖です。それに従う旧武田武士たちが米沢城下で暮らしていた。ごく自然なことです。

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場所は米沢城本丸跡の南側です。本丸に近いこんな場所に住んでいたのですから、上杉家臣団のなかでも重要な役割を担っていたのでしょうね。



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2019年12月13日

軍神の亡骸が祀られた御堂 上杉謙信祠堂跡 

今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。

■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう
上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封されると、謙信の亡骸も米沢へと移されました。

上杉景勝の命により、米沢城の本丸に謙信公祠堂が創設されます。それ以降、謙信の遺骸を納めた御堂は、米沢城内の特別な場所であり続けました。

<上杉謙信公祠堂跡>
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この階段の先ですね

<祠堂跡の石碑>
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ありました。平城の米沢城としては最も高い場所です

<説明板>
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亡くなった謙信の遺骸は『甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている』とのこと。甲冑姿のままカメに収められたようです。また『遺骸の左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ』たと記されています。謙信とともに祀られていたということですね。ひとつは、いわゆる長野の善光寺に由来する阿弥陀如来像。そして泥足毘沙門天像ですが、こちらは謙信ファンの方の間では有名な話に由来する仏像です。ある時、戦から帰って毘沙門堂へ上がった謙信が見たものは、毘沙門天像まで続く泥の足跡でした。謙信は毘沙門天が共に戦ってくれたと受け止め、その毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようになった。 幼少より深い信仰心を持っていた謙信らしい逸話です。御堂はなくなり、善光寺如来像と泥足毘沙門天像は、現在米沢市内の法音寺に祀られています。

<上杉謙信公祠堂跡>うえすぎけんしんしどう
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城下を見渡せる場所に祀られていたわけですね。上杉謙信の遺骸は、江戸時代を通してここに安置されていました。ずっと上杉の町を見守っていた。そんな印象を受けました。

<高台>
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城外から撮影。一番高い位置が御堂があった場所です。城に出入りする者たちにとって、特別な意味を持つ場所だったのでしょう。上杉謙信は最強の戦国武将であっただけでなく、死してなお長きに渡って上杉家臣団の心の支えであり続けたわけですね。

やがて明治になり、米沢城は廃城。謙信の遺骸は上杉家歴代の墓所に移されます。そして、ずっと米沢城とともにあった謙信の魂を祀るべく、上杉神社が建立されました。


<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
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亡骸は米沢藩歴代藩主たちの墓所へ

<上杉神社>
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謙信の魂が祀られています

上杉謙信は本来越後の人
でもここ米沢にいると受け止めています

■訪問:上杉謙信公祠堂跡
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
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米沢詣で 上杉の町へ

令和元年の年末も押し迫った12月中旬
無理矢理休暇を取って米沢を訪ねました。
<米沢駅>
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この日は朝から霧が濃く、遠くの山々はもちろん、米沢の街並みも霞んで見えました。夏から秋にかけて訪問することが多いので、ちょっと不思議な光景でしたが、地元の方にお聞きすると、この時期はよくあるとのこと。

<米沢城本丸跡>
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戦国最強の武将として語り継がれる上杉謙信の軍旗「毘」「龍」が見えました。「毘」は謙信が信仰していた毘沙門天、「龍」は不動明王を表しています。ここはかつての米沢城の本丸跡。このまま堀を渡って直進すれば謙信を祀る上杉神社。本丸への入り口が、そのまま長い長い参道になっています。


平凡な会社員ですので、予算にも時間にも余裕がありません。そのわりに、同じ場所に何度も行くので、周囲からは不思議がられます。

何があるの?

そう問われても、ちょっと困りますね。上杉家にまつわる史跡やゆかりの地が、市内に数多く存在するのは事実ですが、何度も行く理由はそれだけでは説明できません。


<上杉神社一の鳥居>
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何度目か分かりませんが、今年は来れないと思っていたので感慨深かったです

<二の鳥居>
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初めて訪問した時のような新鮮さでした。こちらの鳥居は木造です

<神門>
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もうここで空気吸えただけでいいや
今回はそんな気分でした

<狛犬>
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神門前の狛犬です。

<拝殿>
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もともとは上杉謙信と上杉鷹山を祭神としていました。現在の祭神は謙信のみです。取り囲む透かし塀も含め、派手過ぎず、威厳のある空間です。もともとの拝殿は大正8年の米沢大火で失われましたが、大正12年に再建され現在に至っています。


次に松岬神社へ

<松岬神社一の鳥居>まつがさきじんじゃ
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こちらは上杉神社と比べて地味ですが、私としては足を運ばざるを得ない場所です。

<松岬神社境内>
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米沢は雪国。冬支度ですね。松岬神社の敷地は、もともとは上杉景勝の屋敷があった場所です。屋敷の庭のなごり?かもしれません。

<二の鳥居と拝殿>
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祭神は米沢藩の礎を造った上杉景勝と直江兼続、中興の祖・上杉鷹山。そして鷹山の師である細井平洲と、鷹山に抜擢され藩政改革に尽力した竹俣当綱と莅戸善政です。

祀られているのは全て、逆境と向き合った人たちばかり。神格化された上杉謙信とは異なり、泥臭く地味に現実と向き合った人たちです。

人が人を祀る。そして語り継がれる。
そこには、人が心惹かれる何かがあるのでしょうね。


<本丸周辺を散策>
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<昼になったので>
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米沢城跡の目の前といっていい場所にある上花輪さん

<米沢ラーメン>
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上花輪さんは味噌が人気のようですが、醤油のチャーシュー麺にしました。ここはむかし家族と来た店。親の趣味につき合わされた子供にとっては、あまり楽しい旅ではなかったようですが、この店では笑みがこぼれていました。今回は独りですが、気を使わなくてすむからでしょうか?ラーメンそのものは更に美味しく感じました。
上花輪さん、あの日も今回もありがとうございます。


こんな感じで午前の部は終了しました。

結局のところ
どこどこへ行った事があるとか、なになにを食べた事があるとか、どうでも良いことのように思えます。どんな気持ちでそこにいたか。どんな気持ちでそれを食べたか。自分にとってそれが満たされたものなら、もう充分です。

■つわものどもが夢の跡■
必死に生き抜いた偉人たちゆかりの地です。そして、それにまつわる物語がある町。人が長く語り継ぐには訳があり、それを感じるためだけに足を運んでいる。そんな気がします。

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お邪魔しました。
また来ますからね!


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2018年11月08日

戸沢氏の居城 新庄城のなごり 

つわものどもが夢の跡
山形県新庄市の城跡を訪ねました。出羽新庄藩主歴代の居城です。

<本丸表御門跡>
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現在は石垣のみです。

■江戸初期の築城■
城が築かれたのは1624年。出羽新庄藩の初代藩主となった戸沢政盛が築城者ということになります。ただ縄張りは義兄にあたる山形城主の鳥居忠政。1622年に最上家が家中騒動の不始末を理由に改易されると、旧領は徳川幕府の重臣・鳥居忠政とその縁戚に与えられました。鳥居忠政は最上家が去ったあとに城下町山形の基礎を築いた人物です。そしてその妹が戸沢政盛の正室。そんな関係です。最上家は57万石でしたから、鳥居忠政が如何に大物かわかりますね。

新庄藩6万石の藩主となった戸沢政盛は、当初は、最上氏の家臣・鮭延氏の居城(真室城または鮭延城)を居城としましたが、こちらは戦国時代の山城のため、統治には不向き。更に手狭ということもあり、新たに城を築くことになりました。これが新圧城の始まりです。

■縄張り■
方形の本丸の南側に二の丸を配置した上で、三の丸でそれらを取り囲む。構造としてはシンプルです。分類すると輪郭式の平城。当初は天守も築かれましたが、早い時期に火災で焼失。以降築かれることはありませんでした。

<水堀>
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■名族戸沢氏■とざわし
戸沢氏の発祥については諸説ありますが、桓武平氏の流れを組む名門一族と考えられています。祖は平衡盛(ひらもり)。出羽国にて勢力を拡大しました。戦国期になると、戸沢氏は出羽角館城(現在の秋田県仙北市)を拠点とする小大名となっていましたが、18代当主・盛安の代で再び勢いを取り戻します。盛安は若くして没してしまいましたが、その子・政盛が関ヶ原の戦いで東軍に与していたことから、再び運気に恵まれました。やがて新庄藩初代藩主となった政盛は、新田開発などを積極的に推し進め、藩の基礎固めをしました。
その政盛の後を継いだ正誠(まさのぶ)ですが、新庄藩の第2代藩主として約60年にわたり統治に関わることになります。長期政権ならではの政策や城下町整備の推進などで藩政を安定させ、新庄藩の最盛期を迎えることとなりました。
その後も戸沢氏が代々藩主を務める新庄藩は、江戸を通して存続します。その間、他の藩に漏れず飢饉や財政難といった苦しい時代もあり、更に戊辰戦争にも巻き込まれましたが、藩そのものは廃藩置県で新庄県となるまで続きました。
新庄と戸田氏は、きっても切れない関係という感じですね。

■新庄城焼失■
戊辰戦争の時、新庄藩の藩主は第11代の戸沢正実でした。奥州列藩同盟から離脱したことで庄内藩に攻め込まれ、新庄城の大半はこの時に焼失しています。城下も甚大な被害を受けました。ただ奥州列藩同盟からの離脱は、勝者となった新政府軍から評価され、功績として称えられています。


■つわものどもが夢の跡■

<戸澤神社>
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創建は明治になってから。旧領民の有志によって本丸跡に創られました。代々藩主を務めた戸沢氏の祖・戸田衡盛、中興の祖とされる新庄藩初代藩主・戸沢政盛、そして最後の藩主となった戸沢正実を祭神とする神社です。

戸沢氏で始まり、戸沢氏で幕を引いた城跡に鎮座する神社です。

-----■新庄城■-----
別 名: 沼田城
築城者: 戸沢政盛
築城年: 1624年
城 主: 戸沢氏
廃城年: 1868年
現 況:最上公園
[山形県新庄市堀端町]



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2018年09月29日

荒城の月 若松城跡にて

若松城跡にて撮影しました。

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土井晩翠が作詞した「荒城の月」はとても有名ですね。この歌の舞台となった城はどこなのか?実は論争になっています。今回訪問した若松城もその候補地の一つ。しかも、一般的にはかなり有力な候補となっています。

[候補地]
青葉城 宮城県仙台市
若松城 福島県会津若松市
九戸城 岩手県二戸市
岡 城 大分県竹田市
富山城 富山県富山市

それぞれ歌碑が設置されています。


ここからは個人ブログなのでお許し頂きたいのですが、私は「荒城の月」と聞けば「九戸城」を思い浮かべます。ただ、そうでなくてはいけないとも思っていません。

どこかより、どう心に響くか

一般人はそれで良いのではないでしょうか?その方が、晩翠が思いを込めて作った詩の可能性が広がります。

荒城の月
作詞:土井晩翠
作曲:滝廉太郎
.
春 高楼の花の宴
巡る盃 影さして
千代の松が枝 分け出でし
昔の光 今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐

天上影は 変わらねど
栄枯は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

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栄枯は移る世の姿・・・


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東北屈指の名城 会津の若松城

つわものどもが夢の跡
東北屈指の名城を訪ねました。

<若松城>わかまつじょう
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近代城郭のなごり

<天守閣>
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再建された天守。深い歴史を刻んだ会津若松市のシンボルです

■黒川から若松へ■
歴史が長すぎて、どの時代を意識して城探索をして良いのかわかりません。私は戦国武将好きなので、意識としては主に黒川城時代ということになります。つまり会津の覇者・蘆名氏歴代の城。この印象が一番強いですね。第7代当主の直盛が東黒川館を築いたのが始まりと考えられています。
その蘆名氏を滅ぼした伊達政宗、そして秀吉の命を受けてこの地へやってきた蒲生氏郷の城。氏郷の時に城や城下町の整備が更にすすみ、地名が黒川から若松と改められました
あとはやはり上杉ファンですので、徳川家康も警戒した会津120万石・上杉景勝の城ですかね。登場するのは大物ばかり。凄い城です。

ここまででもう充分歴史の重みがありますが、若松城は江戸時代を通じて存在。1643年(寛永20年)には幕府の中枢として活躍するあの保科正之が23万石で入封し、以降は正之の子孫である会津松平家の居城となります。幕府にとっての重要拠点であり続けたわけですね。保科正之は徳川秀忠の子(ストレートに言うと隠し子)ですが、自身を育てた保科家の名を変えることはありませんでした。保科から松平への改名は、正之の亡くなったあとの話になります。

<歴代城主>
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これを見るのが一番早いですね


■戊辰戦争■1868年
歴史の長い若松城。江戸末期には戊辰戦争に巻き込まれます。会津は戦いの舞台となり(会津戦争)、城は新政府軍から激しい攻撃を受けました。惨劇ですから軽々しく言いたくありませんが、この戦いにより、若松城は後世に語り継がれ、全国的に知られる城となりました。

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1868年10月、新政府軍の猛攻が開始されますが、若松城はひと月もち堪えました。そう簡単に落とせる城ではないということですね。しかし孤立した城内は食糧も絶たれ、負傷者や死者も多数。衛生面も含めて悲惨な状況でした。
壮絶な現実は城の外も同様です。白虎隊の悲劇は有名ですね。更には戦闘と関係ない人々、子供までも犠牲になりました。資料などを読むと、眉間にしわがよります。会津の地は、とてもこのような拙ブログでは表現できない惨劇の場と化しました。

粘っても、もはや勝ち目はありません。新政府軍からの勧告もあり、会津はついに降伏。1868年11月6日、若松城には白旗が掲げられました。

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現地で撮影。明治5年頃の写真です


■現地訪問■
北出丸から城内に入りました。

<名称>
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今回の訪問まで、私はずっと会津若松城と呼んでいました。公式名は若松城。会津の皆さんは鶴ヶ城と呼ぶようです。

<内堀>
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<大手門跡>
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いわゆる枡形の構造ですね

<枡形の内側>
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<説明板>
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石垣は加藤時代とあります。大手門が城の北側に移される時、もともとの馬出を出丸として整備したようです。この北出丸、仮に敵兵に占拠されても周囲から攻撃できるような構造になっています。別名は「みなごろし丸」というそうです。すごい呼び名ですね

<内側から見た石垣>
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<城内各所の石垣>
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石垣は近代城郭の魅力の一つ


<土塁>
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城内の石垣があまりに立派なので、逆にこういう方に目がいきます。

<土塁の上>
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外側は石垣

<横矢掛り>
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死角を少なくするための工夫。敵を正面と横から攻撃できます

<天守閣>
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幕末の姿に復元した5層の天守閣

<天守台>
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この石垣は蒲生氏郷が築いたとされています。城内の他の石垣と比較して、自然な感じの石だと思いませんか?石をあまり加工せず、組み合わせを考えて積み上げる野面積みです。1611年の会津地震で天守が倒壊した時も、この石垣は崩れなかったそうです。ちょっと見どころですね。

<御三階跡>
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戦火を逃れた建物は、市内の阿弥陀寺に移築されているそうです。

<武者走り>
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言うまでも無く、兵が登り降りするためです。太鼓櫓門への移動用です。


<本丸から二の丸方面へ>
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二の丸へ渡る手前。美しさに足が止まりました。勿論、過酷な歴史と切り離しての話しですが・・・

<高石垣と堀>
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<高石垣と廊下橋>
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<廊下橋と堀>
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橋を落とせば敵の侵入を防げますね。

<茶壺櫓跡から見た堀>
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茶器類が納められていた櫓

<月見櫓跡>
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櫓で月見?

<押し寄せる自然>
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<二の丸跡>
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<三の丸跡>
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<八重の銅像>
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新島八重の像。設置場所は三の丸跡になります。


■つわものども夢の跡■
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ながいながい歴史の若松城ですが、現在の姿から連想されるのは、やはり戊辰戦争ではないでしょうか。そんなに昔の話ではありませんよね。そして資料もある程度信憑性があります。歴史ロマンという言葉が似合わない、重みのある訪問となりました。

もっと自分の国の近代史を知らなくてはならない。そう感じました。

------■若松城■------
別 名:鶴ヶ城・会津城
旧名称:黒川城
築城主:蘆名直盛
築城年:1384年
改修者:蒲生氏郷・加藤明成
城 主:蘆名氏歴代・伊達政宗
    蒲生氏・上杉景勝
    加藤氏・保科氏松平氏
廃城年:1874年(明治7年)

[福島県会津若松市追手町]


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