2021年12月07日

街の中の土塁跡 山形城三ノ丸のなごり

今回は山形市の市街地に取り残された城のなごりの話です。
<土塁>
Sannomaru-Earthworks.JPG
立派な土塁です。それにしても、山形城址である霞城公園からはかなり遠いところです。出城の土塁でしょうか?

<三の丸土塁跡>
Yamagata-Castle-Earthworks.JPG
三の丸?こんなところまで城の内側だったということですね

あまり知られていませんが、山形城は全国でも屈指の広さを誇る平城でした。基本構造は本丸・二ノ丸・三ノ丸と外へ向かって広がる輪郭式。縄張りそのものは複雑ではありませんが、スケールが違います。三ノ丸は東西が約1.5q、南北約2qもの広さだったそうです。広々とした三ノ丸には、武家屋敷が立ち並んでいたようです。しかし明治の廃城令により城は取り壊され、堀も大半が埋められました。特にもっとも外側の曲輪となる三ノ丸は市街地化のため姿を消しました。

そんな状況でありながら
土塁がこうして残っている

街に埋もれながらも
取り除かれることなく今日まで残っている

素晴らしいですね!

山形城といえば、私にとっては最上義光の居城です。三ノ丸を含めた城の拡張は最上義光の時代になされました。そして最上家改易後、山形へ入った鳥居忠政らの手で近代城郭となりました。復原工事によるものではなく、そのなごりが形となって残っているわけです。

<つわものどもが夢の跡>
Earthworks-Yamagata-Castle.JPG


■訪問:
山形城三ノ丸土塁跡

[山形県山形市十日町]


お城巡りランキング
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2021年12月06日

山形城のなごり(霞城公園)進化し続ける城址公園

<晩秋の山形城跡>
Yamagata-Castle-Moat.JPG
久しぶりに訪問しました

■霞城公園■ かじょう
山形駅から徒歩圏内の山形城跡。かつての本丸・二ノ丸が城址公園として整備されています。久しぶりに訪問してみると、内部へ行くほど様子が変わっており、着々と進む復原工事や、丁寧な説明板の設置に驚かされました。

<二ノ丸南大手門>
South-Gate.JPG

<城門跡の石垣>
ishigaki-sumiishi.JPG

<本丸の堀>
honmaru-moat.JPG

<本丸枡形虎口の石垣>
Stone-wall-corner.JPG

<本丸一文字門大手橋>
Yamagata-jo-Honmaru-Gate.JPG

<二ノ丸東大手門>
rehabilitation.JPG
Gate.JPG

山形城は明治の廃城後、建物の取り壊しだけでなく、本丸の堀も埋められました。山形市により整備された城址公園内は、一部で遺構と呼べるものもありますが、目をひくものの大半は復原です。国指定の史跡ですので、これらはしっかりとした調査・研究の裏付けがあってのこと。この辺りが、城郭ファンをも魅了するポイントなのかもしれませんね。

山形城跡は市民のための公園でもあるので、城郭ファンのみならず、お城入門者にも楽しんでもらえる工夫が随所に施されています。

<説明板と展示物>
Explanation-board- (1).JPG
Stone-Exhibits.JPG
Explanation-board-Ishihiki.JPG
Exhibits-Ishihiki.JPG

城にほぼ無関心でも、とくつろげる場所です

<二ノ丸曲輪>
strong-hold.JPG
市民の憩いの場です


■東北最大の城■
最上家初代となる斯波兼頼が山形城を築いたのが1357年(延文2年)。最上家の勢力は第11代当主の義光の時にピークとなり、江戸時代初期には57万石の大大名にまで上り詰め、居城の山形城も東北最大の城に拡張されました。

<最上義光公騎馬像>
Gajo-koen-Mogomi-Yoshiaki.JPG
山形城は最上義光が城主の時に拡張したものが原型とされています。そして、のちに山形へ入った鳥居忠政により改修がなされ、近代城郭として完成されたと考えられています。

<山形藩の藩主に関する説明板>
Guide-Plate-History.JPG
最上家57万石から始まり、鳥居忠政の時は22万石です。その後少しずつ石高は減り続け、江戸末期の水野家の時は5万石だったようです。最上義光が拡張した山形城は、5万石の居城としては広すぎます。説明文の最後には、三ノ丸の一部は田畑として利用されていたと記されています。

その三ノ丸も、今ではすっかり市街地化されています。城の中心だった二ノ丸堀の内側が、かつての姿を今に伝える城址公園となっており、日本100名城にも選定されています。今後さらに復原工事が進められるとのことですので、ますます魅力的な城跡となることでしょう。

<石垣>
corner-stone.JPG
復原は江戸期の近代城郭をイメージしているようです。城の原形を築いたのは最上義光の時には石垣はまだなく、いわゆる『土の城』でした。

<二ノ丸外周の堀と土塁>
yamagatajo-shirononagori.JPG
最上時代はこんな感じだったのかもしれませんね(勝手な想像です)。

-------■ 山形城 ■-------
別 名:霞ヶ城・霞城(かじょう)
築城年:1357年
築城者:斯波(最上)兼頼
改修者:最上義光・鳥居忠政
城 主:最上代・鳥居氏・水野氏他
廃城年:1871年(明治4)
[山形県山形市霞城町]

■参考及び出典
・現地説明板
・Wikipedia:2021/12/6


■当ブログ過去記事■
山形城については別途投稿したことがあります。よかったら覗いてみて下さい
最上家歴代当主の居城 山形城
→記事へすすむ

山形城追記
出羽の虎将 最上義光
→記事へすすむ


お城巡りランキング
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2021年11月28日

街なかの斯波兼頼像(山形市)羽州探題最上氏の祖となった武将

今回は山形駅から山形城へ向かう途上で出会った武将の話です。

<山形市内>
Kaneyori-Shiba.JPG
雰囲気からしてどこそかの文化人?かと思いましたが違いました

<斯波兼頼>しばかねより
Kaneyori-Nameplate.JPG
えっ!あの斯波兼頼ですか

山形城の築城者です。そして羽州探題最上氏の祖となった武将。何度文献を読んでもそれ以上は頭に入りませんが、それだけは確かです。そんな武将との予期せぬ出会いに感謝しました。

ただ…

私にとって山形城といえばまず最上義光。そして最上家といえばまず最上義光。そんな感覚で漠然と想像する斯波兼頼つまり最上兼頼は、もっと勇ましくなくてはならない?のですが、あまりにも優しそうな雰囲気なので、ちょっと拍子抜けしました。

<最上義光像>もがみよしあき
Northern-Hero.JPG
山形城の最上義光像です。厳しい戦国時代を生き抜いた出羽の虎将。最上家第11代当主です。

まぁ最上家歴代当主がみんなこんなイメージなわけないですね。はい。

<最上家初代>
Kaneyori-Mogami-Statue.JPG
最上家初代の兼頼は、源氏の名族である足利家の血筋で、南北朝時代に北朝方として活躍した武将です。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奥州管領家の大崎氏の祖となった直持です。山形城を築いたのは1356年。それ以降、山形城は最上家代々の居城となりました。

<晩秋の山形城>
Yamagata-Castle-Moat.JPG
いつも最上義光を意識して訪問していますが、城の始まりは羽州探題として山形に入った斯波兼頼ということですね。街なかで銅像に偶然出会ったおかげで、再確認する機会を得ました。

■訪問:
斯波兼頼公像

(すずらん通り)
[山形県山形市香澄町]

山形城
(霞城公園)
[山形県山形市霞城町]

■参考:
・Wikipedia:2021/11/28



お城巡りランキング
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2020年01月02日

上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍

今回は戦国最強の武将と言われる上杉謙信の軍旗についてです。

shironaonagori402 (1).JPG
shironaonagori402 (2).jpg
毘・龍の文字。見覚えがある方もおおいのではないでしょうか。毘は文字として分りやすいとして、流れるような字体の龍は「懸かり乱れ龍」と言われています。「毘」はご推察の通り、毘沙門天を表しています。そして「龍」ですが、これはいわゆる龍ではなく、不動明王を表しています。

■毘沙門天■
毘沙門天は別名で多聞天。仏法を守る四天王の一人として呼ぶ場合は多聞天、単独で呼ぶ場合は毘沙門天とするのが一般的です。北方の守護神、そして戦の神様。いかにも越後の上杉謙信らしいですね。謙信が毘沙門天を深く崇拝していたことはとても有名な話です。

■不動明王■
さて、一方の不動明王ですが、まず『正しい智恵により迷いの世界から煩悩を絶ち切る道を示してくれる神』と受け止めて良いかと思います。仏像の多くが穏やかな姿をしているのに対し、不動明王は龍が巻きついた剣を持ち、恐ろしい表情をしている場合が多いですね。闘神?まぁ戦う姿ではあると思いますが、仏の道に導き救済することありきであって、そのために悪を絶つ姿をされていると受け止めたいと思います。

ざっくりではありますが、個別の旗が意味するところはそんな感じです。ここでちょっと興味深い点は、毘と龍の軍旗は常に対で掲げられていたことでしょうか。各々に充分な意味が込められていると思われます。しかし、上杉謙信にとってはセットでなければいけなかった。諸説あるようですが、私にはなるほどと思えるものがなく、いまだに謎を抱えたままです。

<米沢城址>松が岬公園
sirononsgori yonezawajo10 (3).JPG
こちらは米沢城本丸跡への入り口、そして上杉謙信を祀る上杉神社の参道でもあります。いつ訪れても、左右に掲げられた毘と龍の軍旗が出迎えてくれます。

この毘と龍の軍旗、実は上杉軍が総攻撃を仕掛ける時にだけ本陣に掲げられたと伝わります。ちょっと別な見方をすれば、全軍が総がかりで敵と激突する場面というのはそうそうあるものではないので、戦場に毘・龍の旗がたなびくことは滅多になっかたのかもしれませんね。

<上杉家御廟所>うえすぎけごびょうしょ
sirononsgori 151UESUGI (7).jpg
謙信は米沢藩歴代当主たちとともにここにいます。


■訪問:米沢城本丸跡
[山形県米沢市丸の内]

   :上杉家廟所
[山形県米沢市御廟]
posted by Isuke at 21:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2019年12月14日

赤穂事件殉難追悼碑 上杉家にとっての赤穂事件

本日12月14日は赤穂浪士討ち入りの日

ということで
今回は米沢城本丸跡にある目立たない石碑をご紹介します。

shirononagori391 (2).JPG
誰も足を止めない石碑

場所は上杉家と関連する刀や甲冑が展示されている人気スポット・上杉神社稽照殿のすぐ近くです。

shirononagori391 (3).JPG
正直、現地ですらすらとは読めません。碑文の文字そのものは綺麗です。ただ光の関係で見えにくいのと、文そのものが難しい(私には)。キーワードを途切れ途切れに拾うと『元禄15年(1702)12月15日黎明・浅野内匠頭家臣数十人・吉良・本所邸・狼藉・急変不意・老中下知・上杉家の不幸後年に及ぶ・・・』などなどと。

吉良と上杉?
吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘でした。そして赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、上野介の実子が上杉家に養子入りして藩主となっていたのです。この石碑がどんなメッセージを込めて設けられたか分からないものの、赤穂事件について、上杉家側にもそうとう苦悩があったことは伝わってきますね。個人的には、吉良上野介の実子である上杉綱憲に対し、あまり良いイメージがありません。ただ、この人物を藩主として支えねばならなかった家臣団の苦悩、これはちょっと想像できます。碑文後半の『上杉家の不幸後年に及ぶ』が、全てを表しているような気がします。

shirononagori391 (1).JPG
当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいたら嬉しいです。

■訪問:赤穂事件殉難追悼碑
[山形県米沢市丸の内]


お城巡りランキング
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

上杉の町の武田武士のなごり 屋代町

米沢城本丸跡からの帰り道
小さな標柱に足が止まりました。

sn390 (1).JPG
屋代町?

ここは現在の住所だと米沢市丸の内です。どうやら旧町名が記されているようです。わざわざ記してあるには理由があるのだろう。そう思って側面の説明文を読んでみると、なるほど、納得でした。

sn390 (3).JPG
抜粋すると『信濃の屋代から移ってきた侍が住んでいたとされている』とのこと。その補足説明としてしっかりと『武田氏滅亡後、信玄の6男信清をはじめとして上杉氏に帰属した侍が多くいた』と記されています。地名の由来として他の諸説も記載されていましたが、もう冒頭のこの説明だけで満足してしまいました。

まず
武田信玄の娘である菊姫が上杉景勝の正室となり、武田滅亡後にはその弟・信清が姉の縁を頼って上杉氏に属した。ここまでは有名なお話ですね。直江兼続のお墓があることで知られる林泉寺を訪ねると、境内には武田信清のお墓もあります。信清は甲斐武田家のあとは上杉家の家臣となり、越後・会津を経てここ米沢で没しました。はい。

では標柱の何が満足なのか

武田信清がたった一人でやって来るわけないですよね。仕える者も多かったでしょう。また、信清を頼って集ってくる旧武田武士もいたでしょう。なんといっても、あの武田信玄の血族ですからね。そんな当たり前のことを考えたこともなかったので、妙に新鮮でした。武田信清は明治まで(そして現在も)続く米沢武田家の祖です。それに従う旧武田武士たちが米沢城下で暮らしていた。ごく自然なことです。

sn390 (2).JPG
場所は米沢城本丸跡の南側です。本丸に近いこんな場所に住んでいたのですから、上杉家臣団のなかでも重要な役割を担っていたのでしょうね。



お城巡りランキング

---------参考画像---------

<武田信清の墓>
Rinsenji-Tkada-Nobukiyo.JPG
こちらは林泉寺武田家墓所の画像です。気持ち遠くから撮影させて頂きました。中央奥(五輪塔が目印)が武田信清のお墓です。
[山形県米沢市林泉寺]1丁目
タグ:山形への旅
posted by Isuke at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

2019年12月13日

軍神の亡骸が祀られた御堂 上杉謙信祠堂跡 

今回は上杉謙信の遺骸が納められていた御堂の話です。場所は米沢城本丸跡です。

■上杉謙信祠堂跡■うえすぎけんしんしどう
上杉謙信の居城といえば越後の春日山城ですね。戦国最強の武将といわれた謙信は、春日山城で生まれ、春日山城で没しました(49歳)。遺骸は城内に祀られましたが、継承者の上杉景勝が豊臣秀吉から国替えを命じられて会津120万石を領することになると、越後の地を離れることになります。やがて関ヶ原の戦いで西軍に組した上杉家が、徳川家康の命で出羽米沢30万石へ削封されると、謙信の亡骸も米沢へと移されました。

上杉景勝の命により、米沢城の本丸に謙信公祠堂が創設されます。それ以降、謙信の遺骸を納めた御堂は、米沢城内の特別な場所であり続けました。

<上杉謙信公祠堂跡>
shirononagori390 (3).JPG
この階段の先ですね

<祠堂跡の石碑>
shirononagori390 (1).JPG
ありました。平城の米沢城としては最も高い場所です

<説明板>
shirononagori390 (4).JPG
亡くなった謙信の遺骸は『甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている』とのこと。甲冑姿のままカメに収められたようです。また『遺骸の左右に善光寺如来と泥足毘沙門天像が置かれ』たと記されています。謙信とともに祀られていたということですね。ひとつは、いわゆる長野の善光寺に由来する阿弥陀如来像。そして泥足毘沙門天像ですが、こちらは謙信ファンの方の間では有名な話に由来する仏像です。ある時、戦から帰って毘沙門堂へ上がった謙信が見たものは、毘沙門天像まで続く泥の足跡でした。謙信は毘沙門天が共に戦ってくれたと受け止め、その毘沙門天像を泥足毘沙門天と呼ぶようになった。 幼少より深い信仰心を持っていた謙信らしい逸話です。御堂はなくなり、善光寺如来像と泥足毘沙門天像は、現在米沢市内の法音寺に祀られています。

<上杉謙信公祠堂跡>
shirononagori390 (2).JPG
城下を見渡せる場所に祀られていたわけですね。上杉謙信の遺骸は、江戸時代を通してここに安置されていました。ずっと上杉の町を見守っていた。そんな印象を受けました。

<高台>
shirononagori390 (5).JPG
城外から撮影。一番高い位置が御堂があった場所です。城に出入りする者たちにとって、特別な意味を持つ場所だったのでしょう。上杉謙信は最強の戦国武将であっただけでなく、死してなお長きに渡って上杉家臣団の心の支えであり続けたわけですね。

やがて明治になり、米沢城は廃城。謙信の遺骸は上杉家歴代の墓所に移されます。そして、ずっと米沢城とともにあった謙信の魂を祀るべく、上杉神社が建立されました。


<上杉家廟所>うえすぎけびょうしょ
sirononsgori 151UESUGI (7).jpg
亡骸は米沢藩歴代藩主たちの墓所へ

<上杉神社>
shirononagori389 (13).JPG
謙信の魂が祀られています

上杉謙信は本来越後の人
でもここ米沢にいると受け止めています

■訪問:上杉謙信公祠堂跡
米沢城本丸跡(松が岬公園)
[山形県米沢市丸の内]
posted by Isuke at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]

米沢詣で 上杉の町へ

令和元年の年末も押し迫った12月中旬
無理矢理休暇を取って米沢を訪ねました。
<米沢駅>
shirononagori389 (1).jpg
この日は朝から霧が濃く、遠くの山々はもちろん、米沢の街並みも霞んで見えました。夏から秋にかけて訪問することが多いので、ちょっと不思議な光景でしたが、地元の方にお聞きすると、この時期はよくあるとのこと。

<米沢城本丸跡>
shirononagori389 (5).JPG
戦国最強の武将として語り継がれる上杉謙信の軍旗「毘」「龍」が見えました。「毘」は謙信が信仰していた毘沙門天、「龍」は不動明王を表しています。ここはかつての米沢城の本丸跡。このまま堀を渡って直進すれば謙信を祀る上杉神社。本丸への入り口が、そのまま長い長い参道になっています。


平凡な会社員ですので、予算にも時間にも余裕がありません。そのわりに、同じ場所に何度も行くので、周囲からは不思議がられます。

何があるの?

そう問われても、ちょっと困りますね。上杉家にまつわる史跡やゆかりの地が、市内に数多く存在するのは事実ですが、何度も行く理由はそれだけでは説明できません。


<上杉神社一の鳥居>
shirononagori389 (11).JPG
何度目か分かりませんが、今年は来れないと思っていたので感慨深かったです

<二の鳥居>
shirononagori389 (12).JPG
初めて訪問した時のような新鮮さでした。こちらの鳥居は木造です

<神門>
shirononagori389 (13).JPG
もうここで空気吸えただけでいいや
今回はそんな気分でした

<狛犬>
shirononagori389 (14).JPG
shirononagori389 (15).JPG
神門前の狛犬です。

<拝殿>
shirononagori389 (16).JPG
もともとは上杉謙信と上杉鷹山を祭神としていました。現在の祭神は謙信のみです。取り囲む透かし塀も含め、派手過ぎず、威厳のある空間です。もともとの拝殿は大正8年の米沢大火で失われましたが、大正12年に再建され現在に至っています。


次に松岬神社へ

<松岬神社一の鳥居>まつがさきじんじゃ
shirononagori389 (2).JPG
こちらは上杉神社と比べて地味ですが、私としては足を運ばざるを得ない場所です。

<松岬神社境内>
shirononagori389 (4).JPG
米沢は雪国。冬支度ですね。松岬神社の敷地は、もともとは上杉景勝の屋敷があった場所です。屋敷の庭のなごり?かもしれません。

<二の鳥居と拝殿>
shirononagori389 (3).JPG
祭神は米沢藩の礎を造った上杉景勝と直江兼続、中興の祖・上杉鷹山。そして鷹山の師である細井平洲と、鷹山に抜擢され藩政改革に尽力した竹俣当綱と莅戸善政です。

祀られているのは全て、逆境と向き合った人たちばかり。神格化された上杉謙信とは異なり、泥臭く地味に現実と向き合った人たちです。

人が人を祀る。そして語り継がれる。
そこには、人が心惹かれる何かがあるのでしょうね。


<本丸周辺を散策>
shirononagori389 (6).JPG
shirononagori389 (20).JPG

<昼になったので>
shirononagori389a (1).JPG
米沢城跡の目の前といっていい場所にある上花輪さん

<米沢ラーメン>
shirononagori389a (2).JPG
上花輪さんは味噌が人気のようですが、醤油のチャーシュー麺にしました。ここはむかし家族と来た店。親の趣味につき合わされた子供にとっては、あまり楽しい旅ではなかったようですが、この店では笑みがこぼれていました。今回は独りですが、気を使わなくてすむからでしょうか?ラーメンそのものは更に美味しく感じました。
上花輪さん、あの日も今回もありがとうございます。


こんな感じで午前の部は終了しました。

結局のところ
どこどこへ行った事があるとか、なになにを食べた事があるとか、どうでも良いことのように思えます。どんな気持ちでそこにいたか。どんな気持ちでそれを食べたか。自分にとってそれが満たされたものなら、もう充分です。

■つわものどもが夢の跡■
必死に生き抜いた偉人たちゆかりの地です。そして、それにまつわる物語がある町。人が長く語り継ぐには訳があり、それを感じるためだけに足を運んでいる。そんな気がします。

shirononagori389 (9).JPG
shirononagori389 (10).JPG
shirononagori389 (8).JPG

お邪魔しました。
また来ますからね!


お城巡りランキング
posted by Isuke at 06:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[東北]
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  2. 2. 街の中の土塁跡 山形城三ノ丸のなごり
  3. 3. 北条五代の夢の跡 (小田原城)
  4. 4. 巣鴨駅近く 徳川慶喜ゆかりの地
  5. 5. 東京国際フォーラムの太田道灌像
  6. 6. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  7. 7. 岡崎城のなごり
  8. 8. 高天神城のなごり
  9. 9. 伊奈一族と玉川上水
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
最新記事
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

クルマで行く山城さんぽ100 絶対インスタにアップしたい「絶対見たい名城」30選 (CARTOP MOOK ACTIVE LIFE 009)

[当サイトお勧め本]

図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防 (サイエンス・アイ新書) [ 萩原さちこ ]

小説上杉鷹山 (集英社文庫) [ 童門冬二 ]