2018年10月21日

駿府激戦の山城 蒲原城のなごり

つわものどもが夢の跡
かつて駿府にあった激戦の山城を訪ねました。

<蒲原城跡石碑>
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■今川氏の重要拠点■
築城時期は明らかではありませんが、今川氏によって、南北朝時代に築かれたのではないかと考えられています。戦国時代になると、今川氏の家臣にして一族でもある蒲原氏が守る拠点となっていました。位置的に今川領の東側に睨みを利かす城ということですかね。今川氏にとっての重要拠点であり続けました。

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■今川氏の衰退■
1560年の桶狭間の戦い。超有名な戦いですね。織田信長が、たった数千の兵で今川の大軍を破った戦いです。この敗戦を機に、名門・今川氏の力はあっという間に衰退しました。今川領はどうなってしまうのでしょうか?
ここで、今川氏とは同盟関係にあった小田原の北条氏が援軍として駿河に進出。今回訪問の蒲原城は、実質北条氏配下の城となりました。

■今川領分割案■
崩壊しそうな今川を支援する北条。同盟国を守る「義」ともとれますが、甲斐の武田氏が出てくると厄介という事情もありますね。かといって駿河だけに拘るわけにもいきません。北条氏は関東でもライバルと戦わなければなりません。戦国時代はホント大変ですね。

この局面で、武田信玄は北条側(氏康と氏政)に対し、今川領の分割を提案します。つまり『まぁ互いに争うより、半分ずつ分け合いましょう』ということですね。

相手にも利益があり、己も利益を得ようという交渉ですから、いわゆるWin-Winの提案。ただ北条側はこれを拒否しました。そう、この提案では今川氏が置き去りになっていますよね。北条氏はこれを受け入れませんでした。

Win-Winはよく使われる言葉ですが、もともと経営学用語。経済では済まない、人としての何かがあるということですね。最後の最後に、北条氏はその何かを優先した。こういう解釈、私は好きですね。

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■武田の駿河侵攻■
武田軍の進攻が始まります。今回訪問の蒲原城は重要拠点。当然戦乱に巻き込まれます。1569年、武田勝頼が率いる軍に攻撃されて落城。この時の城主は北条一族の新三郎。あの北条早雲の孫です。配下の兵約7百人とともに全滅だったと伝わります。
蒲原城は武田氏の支城となりました。

■孤立する武田■
蒲原城が武田配下になった4年後(1573年)、あの武田信玄が他界します。これは一大事ですね。そして1575年の長篠の戦いで、当主の座を継いだ武田勝頼の軍は、織田信長・徳川家康連合軍に大敗してしまいます。一般的に、ここで既に勝負あったかのようなイメージですよね。しかし勝頼は、その後も何とか生き残る道を画策。1577年には北条氏政の妹を継室に迎えて同盟を強化します。

その翌年、今度は越後の上杉謙信が亡くなります。これは直接関係ないようで、実はその後の運命を大きく左右しました。勝頼は上杉の後継者となる景勝と和睦(甲越同盟)。景勝と後継者争いをした景虎は北条出身ですので、北条氏から同盟を破棄されることに繋がりました。北条氏は織田・徳川と手を組みます。これにより、武田の立場はますます苦しくなりました。

■廃城■
しばらく武田の支配だった蒲原城。織田・徳川連合軍による武田領侵攻が始まると、徳川軍に攻められ落城(1582年)。後の小田原征伐の時(1590年)に徳川軍が陣を張った実績がありますが、実質はこの時に廃城となっていたようです。


■現地訪問■
城跡巡りはほぼ一人ですが、この日は久しぶりに会社の仲間2人とともに探索。現地まで車で送ってもらい、ちょっと楽させて頂きました。ありがとうございます。

<駐車場>
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山を登る途中に駐車場があります。麓から歩いた方が険しさを実感できますが、他の城も行く予定なので、この位置から登ることにしました。向かい側にはトイレもあります。右手の小さな建物です。

<相棒>
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この日お世話になった車と携帯で各々情報を確認する二人。イケメンですが、プラプラ遊んでる様子が勤め先で広まると面倒なので、顔は隠させて頂きました。車のナンバーも。

<案内板>
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駐車場から尾根道を進んで行くと、山城への侵入口付近に案内板があります。ここで大筋どんな構造か分ります。

<蒲原城址鳥観図>
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丘陵地帯に位置しますが、蒲原城が築かれたのは独立峰。典型的な山城です。山の標高は約150m。手前はもう海ですから、比高もそんな感じでしょう。本丸(主郭)は山頂。まぁ基本ですね。南北に長い区画となっています。その北東側に堀が設けられ、その先がまた曲輪。他にも西側から南側にかけては土塁や切岸などなど。本丸から外側へ向かって、高低差を意識した城の仕掛けが散りばめられています。これら全ては無理ですが、その一部を探索する。今回はそんな感じですね。

<険しい>
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<良く見えないけど堀>
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現在は公園ですが、迫力満点で「城のなごり」が漂います。ただもうちょっとだけ草が刈ってあると助かりますね。まぁガッチガチに再造成されてしまうより、趣があって良いのかもしれません。

<山登道>
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道は確保されていますので、草を掻き分けるといったことなく登れます。

<遺構の中>
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お仲間二人が草木に覆われた斜面に何か見つけたようです。注意深く見れば、あちらこちらで城の痕跡に気付きます。

<大空堀>
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ところどころこんな案内があります。この下は空堀。ちょっと撮影困難ですが、現地では谷になっていることが実感できます。ちょっと深すぎるので、もともとの地形のような気もしましたが・・・(個人の感覚)

<遺構と夏草>
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「夏草や兵どもが夢の跡」などという情緒に浸る余裕もなく、てくてくと進んでいきましたが・・・

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ちょっと行く手を阻まれました。凄い草の量!ただこれは脇道(正確には細長い曲輪)。頂上までのコースは、ちゃんと確保されていますので、訪問される方はご安心を。あと、他の方のブログを見ると、もうちょっと草が刈ってあります。タイミングが悪かったかもしれません。

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傾斜と草の具合で、この上は曲輪だと分ります。ここから登るのは得策でないと判断し、一旦通りすぎることに。ただ、結局は後でチャレンジすることに。

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押し寄せる自然

<説明板:布橋桜>
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仲間の一人が佇んでいましたが、周辺に木々が多く、私はどの木を指しているのか確認しないまま通り過ぎてしまいました。ちゃんと読み返すと、深い謂れがあるようです。

無茶なことをしなくても、登山道から遺構を確認できます。

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<駿河湾>
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まもなく頂上というところで撮影。右手に見える海に突き出た陸地が、東海道の難所と呼ばれる薩垂峠(さったとうげ)です。この城を無視して、東西に行き来することは叶いませんね。

<主郭・南曲輪>頂上
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主郭は神社(城山八幡宮)となっています。冒頭の石碑のほか、討死した北条新三郎(戒名のため現地では分からず)の供養碑があります。この日は穏やかな日でしたが、海風をまともにくらう場所ですね。

<南曲輪の北の隅>
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<主郭から見た別の曲輪>
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主郭から見た北側の曲輪。来る途中に断念した善福寺曲輪(北曲輪)です。残念ながら間に空堀があり、ここからは行けないようです。


<善福寺曲輪虎口>
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帰りに再チャレンジ。ここが善福寺曲輪の虎口、そして立っている場所は曲輪の下に設けられた腰曲輪でした。
何も見えませんが、草を掻き分けるしかありません。ここだけは一人で突入しました。曲輪の側面に石垣らしきものを見ましたが、草ボウボウで撮影できず。

<善福寺曲輪(北曲輪)>
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視界が開けました。奥に木造の物見櫓が復元されていますが、木に覆われて遠くは見えません。

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善福寺曲輪碑

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発掘調査で出土したもの説明

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城内はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
<険しい山城>
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激戦区だけに、いろんなドラマがありました。その欠片だけでも感じることができ、有意義な訪問となりました。

------■蒲原城■------
築城主:詳細不明(蒲原氏)
築城年:詳細不明(南北朝時代)
城 主:蒲原氏(今川家臣)・北条氏他
廃城年:1582年頃

[静岡県静岡市清水区蒲原]



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2017年05月29日

真田の不落城 上田城

上田城

<本丸の水堀>
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とても有名です
上田城は真田昌幸により築かれた千曲川沿いの平城。徳川軍を二度も退けたことで、難攻不落の城として知られています。2016年の大河ドラマ「真田丸」で更に有名になりました。日本百名城にも選ばれています。

真田家
真田一族は現在の長野県上田市を本拠地とする土豪でした。武田氏との関係ですが、昌幸の父である幸隆が、武田信玄の家臣となった時から始まります。幸隆は信玄が欲した砥石城を攻略するなど、武田家臣団の中で頭角を現していきます。
よく「真田三代」という言葉を耳にしますが、「幸隆・昌幸・幸村」のことを指している場合が多いですね。私もそういう認識です。まぁ真田の家を軸に考えると、昌幸の次は幸村ではなく、兄の信幸なんですがね・・・。当主として着実に真田家を守った兄より、華々しく散った弟の方が人気は高いですね。
また、昌幸も長男ではなく三男。一時は跡継ぎのいない武藤家(甲斐の有力な国人領主)の養子となり、武藤喜兵衛と名のっていました。しかし二人の兄が長篠の戦いで(1575年)で戦死してしまいます。昌幸本人もこの負け戦いに加わっていましたが、総大将である武田勝頼の身辺を守っていたことから、命までは落としませんでした。兄の信綱や昌輝は、ともに武田二十四将に数えられる武将。武田滅亡へ繋がる大敗は、昌幸から兄にして強力な味方だった二人を奪いました(三男昌幸は真田の家に戻り、家督を相続します)。

真田の城
昌幸は兄から引き継いだ「真田本城」を拠点としていましたが、上田の地に新たなに城を築きます(もともとあった館に目を付け大規模に拡張)。1583年、これが上田城の始まり。

表裏比興の者
表裏比興(ひょうりひきょう)の者とは、いわゆる「卑怯」とはちょっと意味が異なり、「老獪なやつ」とか「くわせ者」といった意味になります。今でこそ真田の名は有名ですが、信州から上州にまたがる小勢力に過ぎません。大きな勢力の風向きに翻弄され続けます。それでも真田を守り続けた昌幸。昌幸を「表裏比興の者」と評する場合、嘲るようでありながら、才覚を褒めるような微妙なニュアンスが含まれています。


<上田城跡公園>
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表裏比興の者と言われた真田昌幸が本領発揮した城の跡です。昌幸はこの城で徳川軍を二度も退けました。
しかし・・・
関ヶ原の戦いで西軍に与したことから昌幸は幽閉され、その翌年上田城も一旦破壊されてしまいました。じゃ現在の城跡は?これは仙石氏時代に再整備されたものになります。

<上田城大手門>
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右手の石垣のなかには「真田石」と呼ばれるひときわ大きな石があります。信之が松代藩移封となった時、持ち出そうとしたが運べなかったとか・・・。昌幸が息子に向かって「わしゃ〜動かんからな!」と言ってるようで、ちょっと笑ってしまう話です。

<つわものどもが夢の跡>
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再整備され形は変わっても、私にとっては真田昌幸の城です。

■上田城■
築城主:真田昌幸
築城年:1583年(天正11年)
主な城主:真田氏、仙石氏、松平氏
(廃城は明治になってから)
[長野県上田市二の丸]

■歴史本■ Amazon



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2017年03月15日

海賊城の縄張り 伊豆長浜城

(伊豆長浜城のつづきです)

■海の山城■
海側に突き出した小さな半島を利用した城です。山城?と分類して良いと思います。

<第二曲輪>
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この区画(画像手前)が一番広い曲輪です。櫓が見えますが、その向こう側が第一曲輪。山の頂上です。

<海に突き出る曲輪>
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第一曲輪から撮影。半島先端の頂上から下に向かって高低差のある曲輪が連続して配置されています。それ自体は珍しくありませんが、その先に堀でも湿地でもなく、海が広がっていることがとても新鮮です。

<下から見上げると>
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登り降りはできますが、ほぼ確実に城兵に邪魔される構造。防衛施設である曲輪が段々畑状になっていると思って頂ければ良いかと思います。

<更に下ると海>
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城(突き出た半島)の両側が入江で舟溜りとなっており、湾の奥で波も穏やかなことから、現在でもたくさんのヨットが。舟の基地としては最適の場所なのですね(舟の知識ありませんが、きっと)。城の機能で言うと「馬出し」といったところでしょうか。

<曲輪と曲輪の間の堀切跡>
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「堀切」と表現してよいのか分りませんが、明らかに尾根を削って造られてます。ここに跳ね橋があったようです(柱がその目印です)。この位置、もともと第二曲輪と第三曲輪を切り離す「堀切」で、平時に通行しやすいように跳ね橋が設けられました。のちの時代に埋められ、幅を狭くして虎口に造りかえられたようです(現地説明板を参考に多少私が推定)。虎口とは、曲輪(くるわ)の入り口のことです。

<遺構>
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部分的に石垣も残されています。個人的には戦国期のものという気はしませんでしたが、雰囲気はありました。曲輪、土塁、堀切。全体として遺構に満足です。

<展示されていた模型>
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ようするに、城全体はこれを見るのが一番分りやすいですね。麓が海なので特殊な構造ではありますが基本的に山城の縄張りです。この山を登ったり下りたりしながら、城のなごりを肌で感じることができました。やはり実際に体感することは大切ですね。

■城用語 曲輪■
それにしてもこの模型、分りやすいですね。ここでちょっと城用語について。

山の中腹や頂上付近、平らな部分がありますね。こういう区画を「くるわ」といいます。漢字だと曲輪または(このブログでは曲輪で通しています)。その曲輪の重要度で、本丸とか二の丸とかに区分されます(よく耳にする「主郭」は、本丸と同じ意味です)。知ってしまえば簡単な理屈ですね。
その曲輪と曲輪の間を堀状に削ってあるのが見えますでしょうか?平地であれば「堀」ですね。山で尾根を削ってつくる堀を「堀切り」と呼びます。自然の地形をベースに、曲輪をどこに配置するかとか、堀や堀切りをどこに造るといったことを決めるのが「縄張り」。縄張りはいまでは別の意味で使われますね。

(ちょっと脱線しました)

■希な城■
ここ伊豆長浜城跡には、三井家の別荘が建っていた時期もあるようですが、それが取り壊されて以降は荒れる一方だったそうです。沼津市が用地を取得の上で整備し、現在の姿となっています。とてもユニークな城。珍しい山城を体感することができました。維持・管理に感謝致します。沼津市さん、ありがとうございました。

[静岡県沼津市内浦重須]


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海賊城のなごり 伊豆長浜城

■沼津の海賊城■

<長浜城>
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国の史跡に指定されている海賊城があると聞いて、静岡県沼津市へ行ってきました。

その前に、まずは・・・

<港メシ>
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グルメブログではないので解説しませんが、たまにはいいですね。
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沼津港というと、もっと男臭い漁師の港を想像していました。観光地化しているエリアもあるのですね。家族で安心して楽しめる場所です。沢山の観光客で賑わっていました。

では目的地へ

<ヨット>
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伊豆長浜城跡の無料駐車場からの眺め。城は画像の左手になります。

それにしても、こういうヨットとか保有している人って、どんな暮らししてるんでしょう。凄いですね。タダでもらえても、普通のサラリーマンでは維持することもできません。車一台で精一杯です。

<車>
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ということで同僚の車。新車だそうです。これはこれで羨ましい。本日の城跡巡りは、会社で苦楽を共にしているお仲間二人と。珍しく単独行動ではありません。

<石碑と入口>
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階段が設置してあり、ここから登ります。


この城の築城時期は不明。推定で15世紀後半と考えられています。

小田原北条氏の傘下でした。駿河国を手中に収めた武田氏に対し、北条氏は重要拠点の韮山城(静岡県伊豆の国市韮山)を守るべく周辺の城を整備。ここ伊豆長浜城も、その頃本格的に再整備(改修)されたと考えられています。これが1579年頃の話。北条氏の当主が四代目・氏政の時のですね。以降、北条水軍は幾度となく武田水軍と駿河湾で交戦。北条水軍の拠点は他にもあったようなので、ここもその一つということです。

水軍を強化したい北条氏は、その道のプロフェッショナルとして梶原景宗(かじわらかげむね)を家臣として招き入れました。三代目当主の氏康に見込まれて家臣となったということは、先述の伊豆長浜城改修以前から、北条水軍と関わっていたことになりますね。どうも北条氏とは長い付き合いのようですが、正式な家臣と言い切って良いのやら、、、。というのも、北条記には海賊と記されているほか、海運を得意とする商人だとする説もあるようです。つまり、身分は良くわかっていません。ただその戦歴は明らか。ということは、小田原北条氏傘下のここ伊豆長浜城にも出入りしていた可能性はありますね。

この梶原景宗、秀吉の小田原征伐(1590年)の時も北条側として天下軍と戦っています(敗れました)。伊豆長浜城ですが、この大戦においては出番がなかったようです。

※秀吉が築城 した長浜城(滋賀県長浜市)と区別するため、このブログでは「伊豆長浜城」と記載させてもらいます。

<登り階段の途中で撮影>
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北条の家紋をしるした幟が海風にたなびいています。かなり遠くまで見渡せますね。まぁさえぎるものが無いんだから、当たり前ですかね。

つわものどもが夢の跡
ここから城内探索開始です (次の投稿へ続く)。
海賊城の縄張り

[静岡県沼津市内浦重須]

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2017年03月01日

城跡の維持・管理(三島市の山中城跡)

(山中城追記)

■城跡の維持・管理■

<山中城の遺構>
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三島市のホームページによれば、山中城は昭和48年から発掘調査と復元整備が開始され、昭和56年に一般開放されたようです。更に平成25年度からは、傷みの目立つ西櫓(にしやぐら)、西ノ丸、元西櫓、二ノ丸を再整備し、開園した昭和56年当時の復元状況に戻したとのこと。「北条流築城術の粋 障子堀と畝堀」と表現されています。

リニューアルしたばかりだったのですね。
行ってみてまず実感したのは、かなり整備されていることと、思っていたより広いこと。

<障子堀>
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こういうのはネットや雑誌でしか見たことがありませんでした。実物を見られて満足です。障子は元々「さえぎるもの」という意味。いわゆる家の障子に似ているからではなく、さえぎる仕切りがあることから障子堀と呼ばれています。

<表面に芝>
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障子堀の表面は本来なら土ですが、ここでは保護のため芝がはられています。

<念入りな保護>
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ここはまだ芝をはって間もない感じですね。保護してもらっている様子を強調すべく、この画像にしました。

全てという訳にはいきませんが、城跡の広範囲にわたって、曲輪や土塁にも同じ措置がなされています。やや凝りすぎた復元も含まれますが、総じて感謝したくなる城跡でした。

■凝り過ぎてないエリア■
芝のはっていないごく自然な遺構も沢山あります。これはこれで別の楽しみがあります。

<堀切>
2017yamanaka (5).jpg
なんとなく中世の「城のなごり」が漂います。

<本丸付近の堀>
2017yamanaka (1).jpg
堀の底に更に窪みがありますね。復元されていませんが、ここも障子堀と類似した形状だった可能性も、、、などと楽しむことができます。


■つわものどもが夢の跡■
訪問は冬です。冬枯れの城跡を眺めながら、かつての「兵どもが夢」を思い浮かべながら散策してまわりました。公園を運営する側としては、春から秋までさまざまな花が楽しめるのも自慢のようです。それに合わせて訪れれば、また別の顔を楽しめるのかも知れませんね。

そういえば「兵どもが夢の跡」の前は「夏草や」でしたね。では、夏にまた訪れたいと思います。草木が青々と生い茂る城跡に、自分が何を感じるのか楽しみです。

城跡好きでまだ行かれてない方、ここはお勧めです。
特に城好きでない人にとっても、きっと楽しめる場所です。

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[静岡県三島市山中]
※現地に無料駐車場あり


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2017年02月28日

北条氏勝と山中城

つわものどもが夢の跡
かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。

<山中城の障子堀>
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豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。

■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。

<本丸付近>
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北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。

そして・・・

氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。

北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。

<山中城から望む富士>
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山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。

まさに「国破レテ山河アリ」ですね。

籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。


■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。

(最後に)
今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。
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2017年02月27日

間宮康俊と山中城

つわものどもが夢の跡
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本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。

■山中城の戦い■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。

城攻めは攻め手に不利な点が多い。更に良く造られた山城。ただ、数が違い過ぎます。
激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。

■出丸■
<岱崎出丸>だいさき
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三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。

<スリバチ曲輪>
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岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。


■天下軍の力攻め■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。力攻めですね。強引さ故に攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。

<障子堀>
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■強者■つわもの
北条側副将格の間宮康俊(まみや やすとし)という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。

この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。

出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。


■つわものどもが夢の跡■
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負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。

■間宮康俊■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です


生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます


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2017年02月26日

山中城のなごり

つわものどもが夢の跡
障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。

<障子掘と富士山>
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■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築城されました。

そして・・・

1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。現在の城跡はその頃のものということでしょうか。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。

<案内図>
2017yama (2).JPG
日本百名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。

「小田原城の支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。

ここを避けては通れない。

山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。

<三の丸堀>
2017yama (3).JPG
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・

<田尻の池>
2017yamanaka (3).jpg
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。

さらに登ると

<畝堀>うねぼり
2017yamanakashyo (2).JPG
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。

<障子堀>
2017yamanaka (6).jpg
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。

どんなつもりなのか・・・

その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。


■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。

山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が戦死しました。

時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。

■つわものどもが夢の跡■
2017yamanaka (10).jpg
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。

見事な遺構に加えて、いろんな人の思惑が余韻として漂う城跡でした。

-------■山中城■-------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
主な城主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中]

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タグ:障子堀 北条
posted by Isuke at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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