2019年11月04日

駿府城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。

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こちらは復元された駿府城の櫓です

■近世城郭■
戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。
<家康像>
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駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。

<大手門跡>
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城の南側の大手門跡。食い違い虎口になっています。

<縄張り図>
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三重の堀を持つ輪郭式平城です。近代城郭らしく石垣を廻らせました。本丸の北西には5重7階の天守を配置したと伝わります。

天守はのちの火災(1635年)で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。でも石垣で固められた天守台は残ります。明治時代に軍の誘致で取り壊され、堀も埋められてしまいますが、今回の発掘調査で地中に埋もれていた天守の基礎部分が明らかにされようとしています。

<発掘調査>
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一般人も見学できます。予約も必要なく無料です!

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埋められてしまったことが幸いしたとも言えますね。上部が取り壊されても、土中には基底部分が残されていました。
今回の調査で、天守台の下層から別の天守台も発見されたようです。別の天守?

<2つの天守台>
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2016年からの発掘調査により、まず家康が築いた天守台が見つかりました。更に、その天守台とは別の天守台が確認されました。これは豊臣時代のもの?というのが有力です。駿府城を築城した家康は、その後関東に国替えしています。もうひとつの天守台は、その後城に入った秀吉の家臣・中村一氏が築いたものとみられています。

奥が深いですね


■駿府城公園■
縄張り図では堀が三重になっていましたが、内側の堀は埋められ、外側の堀は一部埋められ、中堀が当時を思わせる雰囲気で残っている状態です。中堀の内側、つまり二の丸と本丸が駿府城公園として整備され、遺構と復元された櫓により、かつての城のなごりを楽しむことができます。城好きの方々からは厳しい言葉も聞かれますが、都市開発の波のなかで、平城を良くここまで残してくれているなと私は感心しました。

<中堀>
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<巽櫓>
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<二の丸>
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<坤櫓>ひつじさるやぐら
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二ノ丸の南西の方角に復元された櫓です。未(ひつじ)と申(さる)は方角を表しています。

公園を中心にご紹介しましたが、外にも断片的に城のなごりが漂います

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■つわものどもが夢の跡■
長らく埋められていたことで確認できる遺構。正真正銘のなごりですね。
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-------■ 駿府城 ■-------
別 名:府中城 静岡城
築城年:1589年(天正17)
(今川氏居館時代除く)
築城者:徳川家康
改修年:1607年(慶長12)
改修者:徳川家康
城 主:徳川氏 中村氏
内藤氏(松平氏)
廃 城:1869年(明治2)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]



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2019年08月15日

諏訪四郎勝頼のなごり

武田勝頼は弱くない!

以前そんなタイトルで投稿したことがあります。
その時のブログ→『記事へ進む
諏訪原城訪問で同じ思いが込み上げてしまいました。ほぼ同じ内容です。そんなのでも良ければお付き合い下さい。

<諏訪原城跡>
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■弱いイメージ■
甲斐武田家第20代当主勝頼武田信玄の息子であり後継者です。でも信玄があまりに有名なことに加えて、勝頼の代で武田家は滅亡したことから一般的な評価はあまり高くありませんね。場合によっては無能な武将であるかのように思われています。でも城跡巡りに付随して知る勝頼の戦歴は、無能とは程遠いものばかり。今回の諏訪原城訪問で再びこの思いが込み上げてきたので、またちょっと触れさせて頂きます。


■諏訪勝頼■ すわかつより
勝頼は武田信玄(晴信)の長男ではなく四男。実は、生まれた場所や時期がはっきりとしていません(1546年とされています)。母は諏訪家当主・頼重の娘ですが、実名はよくわかっていません。
信濃国の諏訪家と武田家の関係ですが、信玄の父・信虎の時には同盟関係にありました。諏訪家は古くから軍神として名高い諏訪大社と深い関係にあり、神官と武士の双方の顔を持つ特別な一族で、高い権威を維持していました。しかし信玄の代になると、武田家は諏訪領へ侵攻。やがては第19代当主である諏訪頼重を自害に追い込み、領地を武田家のものとしています。この時、信玄は当主の娘を側室とし、生まれたのが勝頼でした。

諏訪家の血をひく勝頼は、旧諏訪領に送り込まれ、諏訪四郎勝頼を名乗ります。勝頼の『』は諏訪家の通字です。高遠城主となり、武田勢として戦にも参加して数々の武功を挙げています。何ごとなければ、武田信玄の優秀な四男として名を残した武将なのです。

<二の丸の外堀>
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■武田家へ戻る■
武田信玄の嫡男は義信。信玄のあとを継ぐはずでした。しかし謀反の疑いからその権利をはく奪され自害。三男・信之は既に亡くなっており、次男(海野)信親は目が見えなかったことから、四男の勝頼が諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

めでたく武田家の後継者に!と言いたいですが、諏訪家に行っていた勝頼が、将来自分たちのお屋形様になることに、抵抗感のある家臣が多かったことは否めません。

信玄の実の子!

ではありますが、家臣団の間では諏訪勝頼として既に浸透してしまっています。諏訪家は神官として一目置かれる一方で、武士団の勢力としては一般の国人衆と変わりありません。また、武田家の歴代当主は将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのに勝頼にはそれもなく、そもそも名に武田家の通字である「信」もありません。明らかにお屋形様となるべき武田家より格下。一門衆の一人に過ぎません。家臣団から見れば自分たちとほぼ並列という感覚でもおかしくはないのではないでしょうか。それが将来は自分たちより上の立場となる。

面白くねぇ

そういう目は避けられないような気がします。ということで勝頼、いろいろと気苦労があったのではないでしょうか。


■第20代当主■
1573年、武田信玄が亡くなります。勝頼はここでようやく家督を相続し、武田姓に戻しています。第20代当主の誕生です。

信長包囲網の主力である武田信玄の死により、織田・徳川連合軍は一気に巻き返しを図ります。信長は将軍・足利義昭を京から追放し、浅井長政ほかを滅ぼし、勢力を拡大していきます。では信玄不在、そして想定外の人物が当主となる武田家はどうなったのでしょうか?

当主となった勝頼は、信玄の拡大路線を継承して外征に乗り出します。1574年には、織田領に侵攻して明知城を落とします。同年、徳川領に侵入して、かつて信玄でも落とせなかった高天神城を落としています。

凄い勢いではありませんか!

ただこの戦いぶり、何やら悲壮な覚悟を感じずにはいられません。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合う事。勝頼は先代の路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。

今回訪問の諏訪原城は、ちょうどそんな時期に勝頼が築いた城です。高天神城を攻略するための陣城のような扱いだったのかも知れません。

<曲輪と土塁>
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<内堀>
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<石碑>
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■織田・徳川軍に大敗■
1575年の長篠の戦い で武田勝頼の軍勢は敗退。総崩れとなって敗走する中で、諏訪原城築城者の馬場信春を含む多くの重臣層を失うことになります。

この戦いに動員された武田軍の兵は1万5千と言われていますが、当時の勝頼の総兵力の半分以下です。出陣の際、織田・徳川連軍と総力戦になるとは想定していなかったのでしょう。織田信長が自軍を率いてやってくることを知り、馬場信春は勝頼に撤退を進言したと言われています。しかし勝頼は決戦を選びました。そして合戦の途中で不利に気付きながらも、やはり兵を退きませんでした。

こういった勝頼の判断について、専門家の方々によるいろんな批評がありますが、根底には、身内の統率に対する強い意識があったのではないでしょうか。数奇な運命から養子に出され、母方の家を継ぐつもりだった諏訪勝頼が急きょ武田勝頼となった。そんな本人でしか分からない、深い事情があったような気がします。

<国指定文化財>
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築城者は馬場信春です

<諏訪神社>
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二の丸に祀られた諏訪大明神


■1582年自害■
勝頼は敗戦後も外交その他で生き残る道を模索しますが、中核の家臣を失った武田家の弱体化は否めません。やがて1582年、天目山に追い詰められた勝頼の自害により、戦国最強を謳われた名門武田家は滅亡しました。

以上で終わりです。

史実を確認しながら書きましたが、個人的な思い込みがかなり込められています。歴史好きの会社員のブログですので、そのあたりはご容赦下さい。似たような感覚の人の目に触れれば幸いです。最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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2019年08月11日

諏訪大明神を祀った城 諏訪原城のなごり

つわものどもが夢の跡
駿河と遠江の国境に築かれた城跡を訪ねました。

<土橋>
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貴重な遺構。国の史跡となっています

■舌状台地の丘城■
今回訪問の諏訪原城は、台地の突き出た部分の先端に築かれた山城です。いわゆる舌状台地ですので三方に高低差があり、残りの一方に念入りに堀や曲輪を配置する縄張りとなっています。

<絵図>
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[撮影:諏訪原城ビジターセンター]
こんな感じです。

大井川と菊川に挟まれた南北に細長い台地、その南側の先端部を利用した城です。すぐそばには旧東海道が通っていることから、昔から交通の要所だったと思われます。城の三方が断崖で、突きだした台地の端が本丸(主郭)。地続きとなる台地側に細長い二の丸を設けて本丸への直進を拒み、その二の丸への入口(虎口)には念入りに馬出しを設ける。主郭を要に、扇状に広がる縄張りに武田氏らしさが漂います。


■武田氏の城■
城の始まりは武田信玄が築いた砦という説があるものの、定かではありません。1573年に武田勝頼の命で馬場美濃守信房により築かれた。諏訪原城はこの時に始まるという説が有力で、少なくとも本格的な築城はこのタイミングと考えて良さそうです。

築城の目的は、ずばり遠江(徳川領)の攻略です。駿河と遠江はもともとは今川氏の支配下でしたが、その衰退により、駿河は武田遠江は徳川という構図になっていました。信玄亡きあと、武田内部に混乱はあったものの、勝頼は拡大路線を引き継いで遠征を続け、1574年には駿河と遠江の国境に位置する高天神城を攻略しています。これは父・信玄でも成し得なかったこと。そう、武田の後継者・勝頼は結構強いのです!


■築城の名手・馬場信房■ ばばのぶふさ
諏訪原城の築城者とされる馬場信房は、信虎・信玄・勝頼三代に仕えた武田屈指の家臣。当然「武田二十四将」の一人に数えられます。ちょっと大げさですが、幾多の合戦に参加しながら、長篠の戦いで討死するまではかすり傷一つ負わなかったと言われています。
戦場での働きもさることながら、馬場信房は築城の名手という評価も得ています。武田氏の多くの支城が信房により築城されました。ここからは逸話のレベルですが、その馬場信房に築城術を教えたのは山本勘助という話もあります。

■徳川氏の城■
武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しましたが、あの有名な長篠の戦い(1575年)で織田徳川連合軍に大敗し、一気に勢いを失います。徳川家康はこれに乗じて遠江の武田氏拠点を次々攻略し始めます。諏訪原城はひと月あまり抵抗したものの、城主今福浄閑斎(いまふくともきよ)が討死し、落城となりました。徳川側の手に落ちたことで、諏訪原城は逆に勝頼率いる武田軍を牽制する城となりました。

家康は諏訪原城を大改修し、名も牧野城と改め、亡き今川義元の嫡男・氏真を城番として送り込みます。推定ですが、ここで今川氏真を用いたのは、この地がもともと今川氏の所領だったことから、まずは地元民との調和を優先したからではないでしょうか?(繰り返しますが推定です)。次に送り込まれた松平家忠は、城に関わる土木の技能に優れた人物です。整備を重ねる必要があったということでしょうか(これも推定)。いずれにせよ、諏訪原城は徳川氏の遠江攻略の拠点としてしばらく機能し続けます。

しかし1582年、天目山に追い詰められた勝頼の自害により武田氏が滅亡すると、城そのものの存在意義が徐々に薄れ始めます。正確な時期は分かりませんが、豊臣秀吉の命で徳川家康が関東へ転封となった直後、諏訪原城は廃城となったのではないかと考えられています。


■現地訪問■
本丸・二の丸の前に、まずは更に外側の曲輪から
<大手曲輪と外堀>
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城の南側の大手曲輪と南側の外堀です。勿論、昔はもっと深かったわけですね。

<大手曲輪>
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大手とは城の正面のこと。まぁ正門のある方です。ここに位置することから大手曲輪と呼ばれるわけですね。主たる曲輪より更に外側に設けられた外曲輪です。武田勝頼が家康配下の高天神城を攻略すべくこの城を築いた頃は、この外曲輪はありませんでした。徳川氏により増築されたものと考えられます。周辺の茶畑も、かつての大手曲輪です。

<大手曲輪と外堀>
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こちらは大手曲輪の北側の堀です。堀の右手は惣曲輪と呼ばれる区画になります。曲輪と曲輪隔てる堀ということですね。この細長い堀は城の南側を通る旧東海道付近にまで達します。徳川氏による城の拡張は、街道を城内に取り込むためだったのかも知れませんね。

<諏訪原城跡の石碑>
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先ほどの堀を越えた惣曲輪にて撮影。近くに説明板もありました。親切な城跡です。ただの道と思って撮影しませんでしたが、この付近に馬場もあったようです。

<三日月堀と丸馬出>3号堀
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惣曲輪を進むと大きくて独特の堀が目に飛び込んできます。三日月堀ですね。そしてそれとセットの半円形の馬出し。丸馬出です。ここは徳川時代の造成のようですが、堀の特徴としては武田流築城術の特徴です。画像の右手が二の丸。その出入り口を守る馬出ということになります。

<馬出側から撮影>
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ここは「二の曲輪中馬出」と表示されていました。諏訪原城にはたくさん馬出がありますが、大きさで最大級です。このすぐ北側に北馬出しがあります。

<二の丸(二の曲輪)へ>
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橋が用意されていますので、二の丸側へ渡って撮影。左手が先ほどの丸馬出と二の丸を隔てる堀です。

<二の丸の外堀>
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北へ向って撮影。復元された薬医門が見えています。あの付近が北馬出。

<惣曲輪と二の丸の最北端>
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城はここまで。ここより北は断崖です。ちょっと戻って、向う側へ渡ることに。

<北馬出し>
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城の最北端ということになります。

<復元された門>
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馬出と内側を隔てる門がこの付近にあったということですね。現地の状況を感覚で捉えるのに役に立ちました。

<二の丸>
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細長い曲輪です。途中に段差があり、二つの曲輪とみなすこともできます。あるいは段差を帯状にした帯曲輪のような機能も考えられますが、どうなんでしょう?

<二の丸の北側>
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先ほどと似た画像になりますが、こちらは段差を越えた北側。本丸へはこの区画を通らないとたどり着けません。高くしているには訳があるのですね。

<本丸>
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本丸の入り口付近、いわゆる虎口に到着です。

ということで
ここまで大手曲輪・惣曲輪から二の丸経由で本丸までをご紹介しました。一番大きな二の丸の周辺には、まだまだ貴重な遺構がたくさん。

<探索中>
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この日は会社の友人二人と訪問。蚊に備えて暑いなか長袖です(私も)。以下はこんな雰囲気でてくてくと探索した結果を、個別にご紹介させて頂きます。

<大手馬出>
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こちらは城正面の大きな三日月堀と丸馬出です。先ほどご紹介した中馬出同様、二の丸への侵入を拒む防衛施設です。木漏れ日の関係でちょっと見にくい画像ですが、実物は迫力満点の遺構でした。

<南馬出>
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こちらは更に南側の丸馬出。やや小規模になりますが、立派な遺構です。

<東馬出>
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<内堀>
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<断崖の堀>
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<土橋>
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<空堀>
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<井戸>
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そして最後に

<諏訪神社>
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大手馬出の近くには、武田の守護神・諏訪明神が祀られています。この城の名の由来です。結果として武田信玄の後継者となった勝頼ですが、一度は諏訪家に養子として出されていた身。勝頼の「頼」は諏訪氏の通字です。そう思うと感慨深いですね。


■つわものどもが夢の跡■
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遠江攻略を目論む武田勝頼の命で築かれた城です。やがて宿敵の手に渡り、勝頼の死を境に役割を終えました。

------■諏訪原城■------
別 名:牧野城・扇城
築城主:馬場信春
築城年:1573年(天正元)
城 主:今川氏真・松平家忠
廃城年:1592年(天正18)
[静岡県島田市金谷]


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2019年08月04日

城用語 三日月堀・丸馬出

今回は堀の形状でよく耳にする三日月堀のご紹介です。

<三日月堀>
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諏訪原城跡で撮影した三日月堀です。その名の通り、三日月のような形をした堀です!構造そのものは絵図の方が説明しやすいので、下の画像をご覧ください。

<絵図>
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[撮影:諏訪原城ビジターセンター]
こんな感じです。複数の三日月堀が配置されていますね。

■半円状の区画とセット■
三日月型の堀は、全て半円状の区画とセットになっています。この半円の区画と外部を隔てるため、堀は結果として三日月状になります。更に注目すべきは、これらが城のどこに配置されているかです。絵図を良く見て下さい。城の出入り口に配置されていますね。

出入り口のことを、城用語では虎口(こぐち)といいます。この虎口のすぐ外側に設ける区画のことを城用語では馬出しといいます。まぁ名の通り、馬を待機させておく場としても機能しますが、それだけではなく、戦闘用の曲輪の一つと捉えた方がいいかもしれません。実際に、馬出曲輪と呼ばれることもあります。大きな意味では城の出入り口の防御のためですが、攻め手を迎撃する時に効果を発揮するので、極めて攻撃的な施設といえます。

この馬出しが半円になっている。これを「丸馬出」といい、武田氏がよく用いたとされています。そして丸馬出しとセットなのが三日月堀。この構造が全て武田氏によるものとは限りませんが、まぁ私個人のイメージでも、丸馬出し・三日月堀と聞けば武田流の築城術です。

■馬出しの効果■うまだし
まず馬出しと堀があることで、攻め手は虎口に直進することができません。更に、馬出しそのものに土塁が設けられているので、中の様子をうかがい知ることもできません。敵は堀を迂回しようとして分散された上に、土塁の内側に潜む城兵の力量も見積もれないまま戦うことになります。また、城内からもよく見える場所でありながら、虎口を目指す攻め手の行動範囲が限定されるため、狙い撃ちしやすくなります。つまり、馬出しと城内の双方から攻撃することができます。また、左右にある馬出しの出入り口のうち、どちらか片方に敵が押し寄せてた場合は、逆側から馬出しの外へ飛び出して背後を狙うことも可能です。

繰り返しになりますが、馬出しは防御施設でありながら、極めて攻撃的なのです。


<諏訪原城の三日月堀>
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駿河・遠江はもともと今川氏が拠点とした場所ですが、甲斐の武田氏が侵攻した結果、多くの城跡に武田流の築城術が取り入れられています。ここ諏訪原城の三日月堀も武田氏によるもの?と思いきや、最近の調査で、武田滅亡後に徳川家康が改修した時のものと結論づけられたそうです。ただ、優れた技術は継承されていくもの。当時として最高レベルの武田流築城術を、家康も真似たのでしょう。そう考えると、やはり武田流と言っても良いのかもしれませんね。

以上、三日月堀と丸馬出のご紹介でした。

■訪問:諏訪原城
[静岡県島田市金谷]

■絵図の引用:
諏訪原城ビジターセンター
[静岡県島田市菊川]1174

shirononagori359ad.JPG
説明に使用した絵図はこちらの施設で撮影しました。入場無料でトイレも完備。諏訪原城の説明は勿論、城の楽しみ方などがパネルで分かりやすく紹介されています。



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2019年06月22日

早雲生涯の居城 韮山城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国初期の英雄・北条早雲生涯の居城を訪ねました。
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■韮山城■ にらやまじょう
北条早雲の城として知られる韮山城。その築城年については、あまりはっきりしたことは分っていません。既にあった小規模な城を、この地を領有することになった早雲が、本拠とすべく本格的な改修を行ったと考えられています。早雲が小田原城を攻略して相模へ進出したあとも、韮山城は早雲の本拠であり続けました。

生涯の城

韮山の城は北条早雲にとってそういう城でした。


■北条早雲■ ほうじょうそううん
北条早雲と言えば、素浪人から大名にのし上がったいわゆる下剋上の典型のようなイメージですね。ただ最近の研究では、名も無き浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた一族の出という説が有力になっています。本名とされる伊勢新九郎、伊勢宗瑞が示す通り、名門とされる伊勢氏の出。早雲も幕府の役人を務め、その頃に名だたる寺で禅を学んだとされています。こういったことは、早雲本人の生き方に影響しただけではなく、子・氏綱や孫・氏康といった戦国に名を残す後継者たちにも影響を及ぼしているのかもしれませんね。ちなみに、北条早雲とはのちの呼び名で、ご本人は北条を名乗っていません。話が長くなるので、今回は北条早雲で通します。

今川家の客将となった早雲は、当主・義忠が戦死するとまだ幼い嫡男・龍王丸をサポートし政敵を排除。この頃、兵を率いて駿河へやってきた太田道灌とも面会しているようです。

龍王丸が氏親を名乗って今川家当主になると、早雲には伊豆に近い興国寺城が与えられます。この城を拠点に、早雲は伊豆へ進出。最大勢力の内紛に乗じて伊豆堀越御所を襲撃し、堀越公方足利政知の子・茶々丸を追い払います。そして焼き払った御所近くの城を改修し、拠点を興国寺城からこの城へ移します。これが今回訪問の韮山城です。

さて
支配者を追い払ったぐらいでは国を治められません。韮山城へ移った早雲は、味方になるなら本領を安堵することを領民に約束し、更に税の負担を軽くし(四公六民)、配下の兵には乱暴狼藉を禁止しました。茶々丸の悪政に苦しんでいた領民は、たちまち早雲に従ったと伝わります。

<城内>
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戦国初期の英雄の城です。北条氏の拠点が小田原に移ったあとも、伊豆の統治、そして武田氏などに対抗するための防御拠点として、韮山城は重要な城でありつづけました。


■北条氏規■ うじのり
小田原北条氏にとって重要拠点であり続けた韮山城。戦国末期となり、秀吉が20万を越える大軍で北条征伐に乗り出した時には、北条氏規が城を守っていました。氏規は第4代当主・氏政の弟です。織田信雄(信長の次男)率いる4万とも言われる大軍を前に、氏規は10分の1以下の約3千6百の兵で応戦し、韮山城で約百日間も持ちこたえました。

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兄の氏照(八王子城主)や氏邦(鉢形城主)と比較して、武勇ではやや地味な印象の氏規ですが、これは善戦と言って良いのでではないでしょうか。開城を促すべく、天下軍が力攻めをしなかったという説もありますが、百日これに応じなかったことは事実です。

最後は秀吉に派遣された徳川家康の説得により、城を明け渡すことに。この背景には、北条側の主要な城が既に落とされていたこともありますが、城主である氏規本人が、交渉役となった家康と親交があったことも影響したと思われます。氏規は人質として今川家へ送られ駿府で過ごした経験があり、同じく人質であった家康とは古くからの知り合いでした。

そもそもの話として、氏規はこの戦には反対でした。一族存続のため、秀吉へ臣従するべきと主張していたのですが、兄の氏政・氏照らがこれを認めず、巨大な勢力を敵にまわすことになりました。

■廃城■
北条氏滅亡後は、家康の家臣・内藤信成が伊豆国1万石を与えられ入城します。その内藤信成が駿府城を与えられ4万石の領主となる時に、韮山城は城としての役割を終えています(1601年)。


■現地訪問記■
<城池親水公園>
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韮山城は典型的な山城です。麓は公園として整備されていて、ご覧の通り大きな城池となっています。この日は友人の車で訪問。公園の駐車場に車を停めて探索開始です。

<道標>
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韮山城は右手ですね。とても親切な公園なので、道に迷うこともありません。ちなみに、表示のある江川邸は重要文化財にもなっている代官屋敷跡です。今回はあくまで韮山城そのものにテーマを絞っていますが、隣接する山にも複数の砦が築かれたそうです。

<説明板>
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予習しなくてもここでじっくり読めば充分です。

一部だけ抜粋すると『明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。』とのこと。また、城が築かれた山は、通称・龍城山と呼ばれるそうです。左側が城の縄張り図。南北に細長い山の尾根上に、曲輪が直線的に配置されています。

では
説明板の位置から進入しやすい三の丸方面へ向かいます。

<山城>
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本来なら険しい道のりのはずですが

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登城口にはこういった木段が設けられています。草木を掻き分けて登るような覚悟は不要です。

<三の丸の土塁>
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ついに来たかという満足感で一杯でした。三の丸の一部はテニスコートとなっていましたが、それもまた良し。市民から親しまれている城跡ということですね(人影が見えたので撮影せず)。テニスコートの三方を厚みのある土塁が囲んでいる状態です。

<堀切と虎口>
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堀切が見えました。別の曲輪への入口(虎口)です。

<道標>
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この先は三の丸の南側の権現曲輪ということですね

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とりあえず案内に従って権現曲輪方面へ

<熊野神社の鳥居>
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権現曲輪を象徴する景色です。ここが一番心癒されましたかね。奥の土の壁は、二の丸の切岸です。荒々しく閉鎖的な空間ですが、中央に鳥居があるだけで凛とした空気が漂います。

<熊野神社の社殿>
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早雲が城の守り神として祀ったことに始まります。

<高低差>
shirononagori345 (14).JPG
高低差を味わいながら下から見上げた社殿。熊野神社付近は、明らかに周辺とは違う雰囲気の区画となっているので、櫓を築くなどしたなごりではないでしょうか。

<上から見た三の丸虎口>
shirononagori345 (16).JPG
これはテニスコートがあった三の丸へ向かう木段を、上から撮影したものです。ボッーと歩いていると、この位置から撃たれていたことになりますね。要所要所でそんなことを感じるのも、現地ならではの楽しみです。

次に二の丸・本丸方面へ向かいます。ここから一気に

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堀切の道を進みます

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通り抜けた先に広い区画があるようです

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二の丸跡ですね

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山頂からの眺め

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そして本丸跡です

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本丸より先の尾根づたいに、更に魅力的な遺構が続きます。方角でいうと城の南側です。

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ちょっと構造が分りにくいですが、左手は土塁で、その下は道になっています。むかしどのように使われていたのかが分からず

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人の手による工夫がしっかりと巡らされています。どのように機能していたのか分からず

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この付近は塩曲輪とか煙硝曲輪とか呼ばれるエリア。食糧にせよ火薬にせよ、物資を備蓄していた区画ということでしょうか。私はそう受け止めました。

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障子堀かと思うような構造でしたが、ちょっと分からず。凝った堀が必要な場所とは思えなかったので、勘違いということにしておきます。

経験不足から、南側の区画では遺構の具体的な役割を想像することができませんでした。ただどれも興味深く、今回の訪問で最も時間を割きました。

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切り立った崖の上に設けられた細長い区画の探索もここまでです。

最後は山の麓へ

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shirononagori345 (35).JPG
この窪みは船の利用と関係しているのでしょうかね

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この付近まで湿地が迫っていた。そんな雰囲気が漂いますが、あくまで個人の見解です。

ちょっと駆け足になりましたが、城内はだいたいこんな感じです。


■つわものどもが夢の跡■
ネズミが2本の大杉を食い倒し、のちに虎となる。
これは早雲が見た夢の話です。ネズミは子年生まれの自分であり、大きな2本の杉は、即ち当時関東で勢力を誇っていた山内と扇谷の両上杉氏のこと。早雲はこの夢をきっかけに関東進出を決意しました。やがて息子の氏綱が関東で勢力拡大、そして孫の氏康が両上杉氏を実質的な滅亡にまで追い込みました。よく二代目はダメという話を耳にしますが、逆に二代三代とますます拡大していった北条氏。代々受け継がれたのは、出来上がってしまった地位やら富ではなく、未完のままの夢だったのではないでしょうか。

夢の結末を知ることなく、早雲は韮山城で没しました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori345 (19).JPG

------■韮山城■------
別 名:龍城
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
改修者:北条早雲
城 主:北条早雲・北条氏規
廃城年:1601年(慶長1年)
[静岡県伊豆の国市韮山]



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タグ:北条
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2018年10月28日

暗渠と城跡18 谷戸の水と興国寺城

(興国寺城の追記です)

暗渠と城跡

山麓の地形を利用して築かれた興国寺城。高台から低地へ降り立つと、見事な暗渠が続いていました。
<低地と山城>
shirononagori278 (33).JPG
[沼津市根古屋]
深い谷戸から続く暗渠。奥の山が城跡です。

■暗渠と城跡■あんきょ
当ブログでは、都市化によって埋もれてしまった川と城を、「暗渠と城跡」と題して投稿させてもらっています。

コンセプトとしては
「暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ」
とまぁこんな感じです。水は川や沼、湿地といった形で城の防衛に大きく貢献しますからね。姿を消した水を感じれば、同じ縄張り図を見ても感慨深いものがあります。

ただ都市化が極端に進むと、視界を遮る高いビルが立ち並び、川跡と城跡を実感しにくい場合もありますね。まぁそれを乗り越えて実感に至るというプロセスも、楽しみといえば楽しみなのですが・・・

今回のご紹介の「暗渠と城跡」は、構造として極めて分かり易い状態。周辺に遮るモノがなにもありません。いわば「都市から建物を取り除けば、暗渠と城跡はこんな感じ」という仮想の構造見本です。こういうある意味中途半端というか、開発途上の状態を頭に入れておくと、街中の城巡りでも、より想像力が働くのではないでしょうか。

■山の麓の城■
静岡県の東部の愛鷹山(あしたかやま)、ご存じでしょうか?富士山の南隣に位置する山。東海道から見れば、手前にある山です。富士山麓同様、愛鷹山の麓も水が豊富。地図で見ると、あちらこちらに山側から海に向う水の流れが確認できます。

今回訪問の興国寺城は、そんな山の麓の最先端に位置します。平野との境目のような場所。
城の東と西の両サイドが谷戸。つまり、水が山のすそのを浸食して形成した谷です。南側で台地(山の裾)が途切れますので、何もしなくても三方は低地。そんな場所です。

山に降った水は、川となって流れ落ち、高低差を失ったところで溜まりやすくなる。つまり、城跡付近の低地には水が溜まりやすい。まさに天然の要害だったと考えられます。
縄張りで重要なのは、まずはこういう場所選び。地の利の無い場所で堅固な城を築くには、相当な労力が必要になります。曲輪や堀の配置を考える前に、どんな場所を選ぶかは築城者の腕の見せ所です。

これはここ興国寺城のような山麓の城に限らず、いま東京23区内で都市に埋もれてしまっている城にとっても同じです。世田谷城、奥沢城、、、これらはあまりに都市化されて実感が湧きにくいですが、ビルを取り除き、コンクリを剥がせば、武蔵野台地の地形を上手く利用していることがわかります。街の構造物を無視して、地形に注意を払い、想像してみる。これが街の中の城巡りのコツなんです。

さて、話を興国寺城周辺に戻します。

<山城の西側より>
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谷戸から山を撮影。手前の低地には自然の川が流れ、湿地帯だったのでしょうね。

<平らな土地>
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水は地表から姿を消し、平らな区画が広がっています。駐車場ではないのですが、探索中に車を止めさせてもらいました。

<暗渠>
shirononagori278 (36).JPG
湧き水が豊富なエリア。人が手を加えなければ、いまでもあちらこちらが水辺になっていることでしょう。周辺の水は効率よくこのコンクリの川に集まり、更に下流へ向かいます。蛇行もせず、溢れることもない。いわば優等生の川ですね(人にとって)。まだまだ余裕をもって眺めることができますが、いつかは周辺もコンクリに覆われ、建物が建ち並ぶのでしょうね。

<暗渠の行先>
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人知れず大活躍しているこの暗渠は、道の向こうまで続いています。更に南で開渠となり、高橋川へ合流してから海へと繋がります。

<かつての水辺>
shirononagori278 (1).JPG
私はここまで「湿地」と説明してきましたが、ある程度の規模の沼があったとも考えられています。かつての沼津には、大小の沼があちらこちらに点在しており、それらを総称して浮島沼と呼ぶそうです。厳密なところまでは分かりませんが、この付近でも高台の直前まで、沼が迫っていた可能性もありますね。そして谷戸、そこに広がっていたであろう泥田。城を守っていたとされる水辺の話を、まだなんとなく受け入れやすい景色です。


<城の南端>
shirononagori278 (2).JPG
城跡の目の前まで道路が迫っています。訪問者が勝手なことを言って申し訳ありませんが、歴史ある貴重な城跡、もうしばらくはこののどかさと共存して欲しいですね。コンクリで覆われた街なかより、やはりこうして自然の中で城跡を味わいたいものです。自然の地形や水の流れを活かして、城は築かれるのですから。

姿は見えませんが、暗渠も水の流れ。それを意識した上で、広々とした平地を眺めれば、かつての湿地の姿が容易に想像できます。


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タグ:暗渠と城跡
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2018年10月27日

早雲始まりの城 興国寺城

つわものどもが夢の跡
北条早雲の最初の居城として知られる沼津市の城跡を訪ねました。

<興国寺城>
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北条早雲はのちに関東覇者となる小田原北条氏の祖。韮山城を拠点としたことで知られていますが、最初の城はここ興国寺城です。当時の名は伊勢新九郎盛時。北条早雲は後世の人による呼び名です。

■興国寺城■ こうこくじじょう
国の史跡に指定されています。山の麓に位置し、低湿地に向かって半島状に突き出した台地上に築かれました。城の東西は谷、南方は低湿地という天然の地形を上手く活かした縄張りです。

先述の通り、北条早雲が旗揚げした城として有名ですが、ここ沼津はそもそも戦国時代の激戦区であり、北条氏のほかに今川氏武田氏、そして徳川氏とも関わりのある城です。東海道に続く竹田道と根方街道が交差する交通の要所。重要拠点であり続けたわけですね。

■築城■
築城の時期は不明です。1487年頃の今川家の家督争いで、今川氏親を助けた北条早雲が富士郡に所領を与えられ、この城に入ったということですから、その時には既に興国寺城は存在していたわけですね(早雲が築城者ではない)。この地にはもともと興国寺という寺があり、寺の移転後に城が築かれました。

■現地訪問■
低地から山に向かって曲輪が配置された連郭式の山城です。南側の低地から探索を開始しました。

<平地>
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昔は湿地だったと思われる平地

<平地との高低差>
shirononagori278 (3).JPG
この高低差が城の始まり。奥へ進むほど高くなっていきます。

<三の丸から二の丸>
shirononagori278 (5).JPG
手前が三の丸。奥に向かって二の丸、本丸と続きます。曲輪同士の高低差はあまりなく、緩やかな山の裾野を平らに造成して築いたようですね。奥がこの城の見どころですが、当初城が築かれたのはこの三の丸付近(16世紀半ば頃)で、奥へ向かって拡張していったようです。湿地帯の微高地を利用した小規模な城から始まったわけですね。

<本丸>
shirononagori278 (8).JPG
一番広い曲輪です。奥が行き止まりになっていますね。山の一部?と見間違いますよね。あれがこの城の最大の特徴と言えるでしょう。

<本丸の北側の土塁>
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圧倒的な迫力の「土塁」です。

当然登りますが、その前に土塁手前(つまり本丸の奥)の神社へ

<穂見神社> ほみじんじゃ
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穂見神社です。創建は1857年。安政の大地震による津波の影響(塩害)で凶作が続き、この地に農業神を祀るに至ったようです(現在の山梨県南アルプス市の穂見神社から分祀)。
右手には北条早雲、そして家康の家臣で駿河国興国寺藩主となった天野康景の碑があります。

<幟と説明板>
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続日本100名城スタンブラリーの幟が風になびいていました。左手は説明板。すぐ裏は土塁。

<説明文>
shirononagori278 (11).JPG
戦国大名北条早雲が初めて城主となった城・・・

<北条早雲石碑>
shirononagori278 (14).JPG
説明文にもありますが、ここがあの北条早雲の旗揚げの場所かと思うと、何とも感慨深いですね。初代城主と彫られてますが、どうなんでしょうか。まぁそこはあまりこだわりません。早雲は今川氏の後継者をめぐる対立を解決し、領地を与えられてこの城に入りました。やがて堀越公方家(足利茶々丸)を倒し、韮山城を築城して伊豆を制覇。小田原、三浦半島へ勢力を拡大しました。

さて、いよいよ土塁の探索です。

<土塁の上の道標>
shirononagori278 (21).JPG
先ほど神社の上が天守台。そして土塁の向こう側は巨大な空堀となっています。

<土塁の上から撮影>
shirononagori278 (24).JPG
下に見えるのは先ほどの神社。高さもあり急角度です。

<土塁上から見た本丸>
shirononagori278 (23).JPG
凄い眺め

<堀側を撮影>
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深い・・・

shirononagori278 (17).JPG
急勾配・・・

ではその堀へ降りてみますかね

<大空堀の中>
shirononagori278 (27).JPG
見事過ぎる大空堀。美しさすら感じます。画像だと普通の堀に見えてしまいますが、かなりの深さです。

<人と比較>
shirononagori278 (25).JPG
スケールが伝わらないので友人に登場してもらいます。後ろ姿だから勘弁ね。

<人と比較2>
shirononagori278 (26).JPG
先を行く友人は右折、北の丸を目指して再び登り始めました。どれだけ大きいか、分って頂けると思います。手前は振り返った私。別の友人が撮影してくれました。

<大空堀の底>
shirononagori278 (29).JPG
そろそろ出口へ

<堀の途切れるところ>
shirononagori278 (30).JPG
構造的に、普段は城の出入り口しても使用されていたのではないかと感じましたが、あくまで個人の感想です。右手に石垣のようなものが映っていますが、そういう地層と考えた方が良さそうです。

<出口>
shirononagori278 (31).JPG
出ました。かつては湿地だったと思われる低地です。

それにしても凄い土塁と空堀でした。こんな莫大な土を全部積み上げたのか?詳細不明ですが、山の麓に位置していることから、もともとの不規則な傾斜地を利用し、本丸側と堀側の両方を削り、その土も盛ったと想像する方が現実的なように思います(これも個人意見です)。


■江戸初期まで続く城■
繰り返しになりますが、この地は有力な戦国大名がしのぎを削った場所。興国寺城の主は、今川・北条・武田・徳川といった具合に目まぐるしく変わりました。

北条氏の拠点が小田原に移っていた頃、興国寺城は再び今川氏配下の城になっています。その今川氏が桶狭間の戦いで敗れると、今度は駿河に侵攻した武田氏の城となりました。これを小田原の北条氏が奪回。しかし武田氏と北条氏はのちに和議を結びますので、興国寺城はまた武田氏の配下となります。この時は、武田一門の穴山梅雪の家臣・保坂掃部介が城主として興国寺城に入りました。その武田氏が滅ぶと、興国寺城は徳川の配下に。そして関ヶ原の戦いのあとは、家康の家臣である天野康景が城主となりました。

かなり省略しましたが、大筋はこんな感じです。諸説あるのを承知でまとめてしまいました。お許し下さい。

■最後の城主■
天野康景は三河の奉行として徳川家に貢献したのち、1万石を与えられて興国寺藩主となりました。農政や治水工事に尽力する優秀な藩主であったようですが、領内での揉め事の裁定を巡って失脚。蓄えていた資材を盗もうとした天領の農民を、自藩の足軽が斬ってしまい、この者を幕府に引き渡すことを拒否して出奔したそうです。

興国寺城の最後の城主、なんとも立派な方ではないですか!話の筋を重んじる方だったようですね。それにしても、三河時代からの忠義の武士にこんな思いをさせてしまっては、団結力の強い徳川家臣団の絆にひびが入ったりしないのですかね?

康景が没したあとの話になりますが、息子の康宗は赦免され、天野氏は旗本として存続します。ということで、ちょっとだけ救われる話で納まっています。


■廃城■
天野康景の出奔が1607年(慶長12年)の出来事。このタイミングで興国寺城は廃城となりました。北条早雲がこの城に入ってから、百年以上あとの話です。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori278 (28).JPG
この城は早雲始まりの城です。まずそれだけで満足。そして巨大な土塁は早雲より後の時代のものと思われますが、これはこれで純粋に城として見事。ほれぼれする遺構でした。

来て良かった。

心からそう思える城跡でした。

-------■興国寺城■-------
別 名:根古屋城 杜若城
築城年:不明(15世紀後期)
築城者:不明
城 主:北条氏・武田氏・松平氏 他
廃 城:1607年(慶長12)

[静岡県沼津市根古屋]


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2018年10月21日

武田勝頼は弱くない 城跡巡りで感じること

(蒲原城訪問の追記です)
<蒲原城の北曲輪>
shirononagori275 (28).JPG

今回訪問の蒲原城跡は、ほんとうにいろんなドラマのあった山城です。今川の城であり、北条の城でもあり、武田の城でもあります。こんな拙ブログではとてもその全てご紹介できませんが、訪問してみて、かなり個人的な思い入れになりますが、城を攻略した武田勝頼のことが頭を離れません。

<険しい山城>
shirononagori275 (35).JPG
1569年、勝頼は北条新三郎が立て籠もるこの山城を攻略します。

蒲原城の要害性を見極めた勝頼は、力攻めを避けます。城を落とせても、自軍が痛むことが得策でないことを承知しているからですね。勝頼は兵の一部を率いて城の前を素通り。これを見た北条側は、武田勝頼を討ち取るチャンスとみて、城門を開いて飛び出します。すると、この時をじっと待っていた残りの武田兵が素早く動き出し、更に勝頼率いる兵も城に押し寄せ、蒲原城は落城となりました。
 
堅城に籠城する敵を、知略で落とした勝頼。素晴らしいですね。他の城跡巡りでも時々思うのですが、武田勝頼という武将は、とても優れた人物なのではないでしょうか。あの武田信玄と比較されるので、どうしても見劣りし、世間一般でもあまり強いイメージがありません。むしろ低く見られる・・・。

戦歴をひとつひとつ見みれば、決して弱くなんかないのです!むしろ賢く勇敢な戦国武将!甲斐源氏に相応しい武田家第20代当主!第19代の信玄の輝きがまぶし過ぎるだけなのです。

shirononagori275 (11).JPG

勝頼は生い立ちからして苦労の人。挙げ句の果てに、信玄が残した無理難題を引き受けた男・・・なんですがね。

駿府の城の追記なので、今回はここまでにします。
このような勝手な言い分にお付き合い頂き、ありがとうございました。


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