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2017年03月27日

道灌橋の跡と井草川の暗渠 (陣幕)

杉並区には、昔から「陣幕」と呼ばれているところがあります。早稲田通りの今川三丁目交差点付近(路線のイメージだと、JR西荻窪駅と西武上井草駅の間で、やや上井草駅に近いエリア)。ここは太田道灌が豊島氏の石神井城を攻める際、陣を敷いた場所と伝えられています。
付近には道灌公園、道灌橋、道灌坂など、道灌由来の地名が多数残っています。今回訪ねた「道灌橋の跡」は、やや高台となっている「陣幕」の北側を流れる井草川沿いにあります。

<井草川>
Dokanbashi (4).jpg
川と言っても、現在緑道となっています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。井草川の水源は「切通し公園(上井草4丁目)の谷頭で、流れは上井草から下井草を通り、やがて妙正寺川に合流します。道灌堀とも呼ばれたそうです。道灌橋の石碑はこの暗渠(井草川緑道)沿いにあります。

<道灌橋之跡>
Dokanbashi (2).jpg
ありました。石碑には「道灌橋之跡」と刻まれています。

かつてここに井草川が流れ、そこに橋があった。川も橋も姿はありませんが、石碑と暗渠からそう連想されます。まぁここが道灌橋の正確な位置とまでは思いませんが、多分この付近だったのでしょう。川もこんな真っ直ぐではないにせよ、この付近が低地になっていることは明らか。駅からの道のりで実感済みです(具体的には井草中学校付近から南側が谷)。

豊島氏を攻める道灌軍は、高台から下って井草川に至り、架けた橋を渡って進軍したのでしょう。今でいう道灌坂を下り、道灌橋を渡った。その進軍ルートの先には、愛宕山塁があります。愛宕山塁とは、道灌が石神井城を攻略するために築いた陣城。まぁ臨時の城ですね。ちなみに、石神井川沿いの丘の上に築かれたその城跡は、現在では高校(早稲田高等学院)になっています。

血気盛んな太田道灌と、追い詰められる豊島一族・・・
そんなことを漠然と想像しながら、付近をうろうろと散歩してから帰りました。

<道灌橋公園>
Dokanbashi (5).jpg
石碑は上井草駅から南へ徒歩10分ほど。この「道灌橋公園」が目印です。

<道灌橋の跡と井草川の暗渠>
Dokanbashi (1).jpg
こんな感じの場所です。右手が道灌橋公園。石碑は公園内ではなく緑道沿いです。
小さいですが、宝探しのつもりでみつけて下さい。

[東京都杉並区上井草]


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posted by Isuke at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2017年03月25日

道灌陣城のなごり (沼袋氷川神社)

つわものどもが夢の跡
道灌が大勝負の際に陣を敷いた場所を訪ねました。

■陣城跡■
<沼袋氷川神社>
Dokannumabukuro (1).jpg
太田道灌が江古田・沼袋原の戦いで陣を張った神社。西武新宿線「沼袋駅」近くです。やや高台になっており、宅地化されていながら地形的には城跡でもおかしくないような雰囲気です。陣城だったことは間違いなさそうです。

<道灌杉の案内板>
Dokannumabukuro (4).jpg
道灌杉は、太田道灌が豊島氏と戦った際、社殿の前に杉の苗木を植えて勝利を祈願したことからそう呼ばれるようになったそうです。高さ30mに達する巨樹。現地の説明文によると、昭和19年(1944年) 頃に枯れてしまったとあります。そんな最近(長い歴史で考えれば)までこの地にそびえ立っていたのですね。現在は杉の根だけが残っています。


■足軽戦法も勝因?■
道灌は足軽戦法の生みの親とも言われています(実態は不明)。足軽が戦う姿は、時代劇などを見慣れた我々にはイメージしやすいですが、古くは武将同士の一騎打ちが戦の中心でした。道灌は当時としての常識を覆し、敵の名だたる武将を大勢の足軽で襲撃する手法を戦場に持ち込みました。この地での合戦においても、豊島軍の騎馬武者に、軽装の足軽が集団で攻めかかったことが勝因とする説もあります。

もしかしたら「卑怯」と罵られたかもしれませんね。
私が豊島軍の一員なら、きっとそう言ったと思います。なにせ新しいこと苦手ですから、、、。
優れた戦術は、それまでの慣習や常識を無視するところから生まれます。足軽戦法は、すぐに戦国時代の常識になりました。悲劇の最期を知っているせいでしょうか、、、太田道灌が重ねる活躍は、どれも清々しく感じてしまいます。

[東京都中野区沼袋]


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タグ:太田道灌
posted by Isuke at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

道灌vs豊島兄弟 江古田原古戦場のなごり

つわものどもが夢の跡
あの太田道灌と宿敵・豊島兄弟の激突の場を訪ねました。

■江古田・沼袋原の戦い■
江古田・沼袋原(えごたぬまぶくろはら)の戦いは、扇谷上杉氏重臣の太田道灌と石神井城主の豊島泰経との間で行われた合戦です。時は1477年(室町時代後期)、場所は現在の東京都中野区。道灌が武蔵の名族・豊島氏を滅ぼした戦いとして知られています。500年以上も前の合戦。今回の訪問はその古戦場です。

<石碑>
Dokannumabukuro (2).jpg
[東京都中野区松が丘]
この付近、江古田川と妙正寺川、そしてその支流が広がる湿地帯でした。今となっては何もない古戦場です。城跡めぐりといっしょで、土地の高低差とか川とか、地形を見て想像するしかありません。

<石碑のすぐ裏>
Dokannumabukuro (3).jpg
石碑の向う側は江古田川と妙正寺川の合流地点。残された緑とコンクリの川を見て、昔は雑木林やら沼地がひろがっていたのだろうと勝手に推定しながら楽しみます(正確なことは分りませんが、実際にそうだったと言われています)。

■豊島氏と太田道灌■
豊島氏は坂東八平氏の秩父氏の一族。練馬氏、板橋氏、平塚氏など多くの庶流を配し、武蔵国で大きな勢力を誇っていました。太田道灌と戦ったこの時、豊島氏の本城は石神井城(現在の石神井公園)、当主は豊島泰経。長きに渡り繁栄し続けた豊島氏ですが、この時すでにピークを過ぎていたことは否めません。

一方、道灌は勢いに乗っている真っ最中。破竹の勢いで戦乱の世となった関東を席巻し、衰えかけていた上杉家の勢力を取り戻していきます。江戸城の築城者として有名な道灌ですが、武勇伝・逸話が沢山の後世に語り継がれる英雄。その全盛期です。

<沼袋氷川神社>
Dokannumabukuro (1).jpg
[東京都中野区沼袋]
太田道灌が陣を張ったのがこの沼袋氷川神社。西武新宿線「沼袋駅」近くです。

■激突■
まず江戸城を出た太田道灌が、豊島泰明(泰経の弟)が城主を務める練馬城に矢を撃ち込み、周辺にも放火。泰明は石神井城の兄と急ぎ連絡をとり、石神井城・練馬城双方から挙兵。太田道灌が引き返してこれを迎え撃つことになり、両郡が激突することになったのが、江古田原付近ということになります。

史実は以上ですが、豊島兄弟は挑発にのってしまい、わざわざ道灌にとって有利な場所に誘き寄せられたという見方が有力です。練馬城への攻撃は挑発に過ぎず、最初から伏兵を潜ませた平地へ豊島軍を誘い込み、一気に勝負をつけたと思われます。

---参考画像---

練馬城跡 (としまえん)
1nerima.jpg

石神井城跡(石神井公園)
1shyaku1.jpg

太田道灌銅像(JR日暮里駅前)
Dokan nippori (2).jpg

■結果■
結果は道灌軍の大勝利です。豊島氏は逃げ延びますが、その後まもなく滅亡となりました。

太田道灌、この時四十代半ば。主君に暗殺される悲劇まで、もう残り十年も無い時の大活躍です。


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2017年03月22日

四ツ谷門のなごり

<四谷見附跡>
fan34yotsu (4).jpg
見附は見張り番を置いている場所のことです。よく江戸城三十六見附と言われますが、四谷見附もそのうちの一つ。まぁ実際には城の出入り口は三十六以上あったようですがね。とにかく、ここ四谷も重要な城門が設置されていた場所です。

工事を担当したのは毛利家。輝元の長男秀就(ひでなり)のお仕事です。関ケ原では徳川を敵に回した毛利家ですが、徐々に関係を修復。秀就の正室は、家康の次男・結城秀康の娘です。

四ツ谷門の痕跡はこの石垣のみ。いわゆる枡形(ますがた)になっていた当時を勝手に想像し、そのなごりを勝手に楽しみます。

これだけを見に来たのか?いやいや、江戸城の遺構は見附の石垣だけではありません。周辺を含めて、城のなごりが漂っています。ではちょっと散歩してみますかね。

<土塁の上>
fan34yotsu (5).jpg
ここは見附跡北側の土塁の上。散歩道になっています。街から隔離され、いかにも城跡っぽい雰囲気です。

<土塁跡>
fan34yotsu (6).jpg
ここは冒頭の見附跡付近から南側へ向かう道。上智大学沿いの通り(ソフィア通り)です。土塁の向こう側はもう外濠で、この道は濠の内側なので千代田区紀尾井町。濠の向こう側は新宿区四谷になります。

<真田濠> 四谷濠
fan34yotsu (1).jpg
江戸城の外濠跡です。ここは真田濠と呼ばれています。濠などの整備は、全国の有力大名に割り振られましたが、工事を請け負った家の名が、そのまま濠の名となっているのはここだけです。真田幸村の兄である信之(と仲間達)のお仕事の跡。埋め立てられ、現在は上智大学のグラウンドです。今でも見ごたえがありますが、かつてはもっともっと深い濠でした。

昔と違って、最近では雑誌やネット等で古地図が簡単に入手できます。参考にしながら、外濠沿いを散策するのも結構面白いものです。更に南へ進めば今度は弁慶堀も楽しめますが、今回はここまで。この付近は桜の名所でもあります。その頃また来ますかね。

四谷見附
[場所:千代田区六番町]
四ッ谷駅のすぐそば。駅そのものが区境


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2017年03月21日

渋谷の城跡 (金王八幡宮) 渋谷城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は街の中の城跡巡りです

<渋谷城跡>
Fan33shibuya (5).jpg
初めて聞く人は渋谷に城?と思われるのではないでしょうか。渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。

私は普通にJR渋谷駅から現地へ向かいました。渋谷はその名の通りもともとは谷。河川に削られてできた低地です。そこから緩やかな坂を登ることになりますので、到着前からそれらしい雰囲気を味わえます。現地へ着くと、金王八幡宮付近は周辺よりも更に一段高くなっていますので、城が築かれるだけの要件が整っていることを実感できます。

<説明文>由緒
Fan33shibuya (2).jpg
この金王八幡宮は、渋谷氏の祖・河崎基家によって建立され、その子である重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まり・・・

城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定で、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しているのではないでしょうか。

源義家、いわゆる八幡太郎ですね。源頼朝や足利尊氏などの祖先に当たる有名な方です。で、河崎基家ですが、訪問時の私はあまり存じ上げず実感がわかず・・・(⇒秩父から現在の川崎に移り住み、地名をとって河崎氏を名乗ったそうです)。まぁ大筋で『桓武平氏秩父氏の一族』が源氏に従って功績を上げこの地を与えられた!そして河崎基家の子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが、渋谷城の始まり。当日は、そういうことで妥協しました。ラフですみません!

あとで調べると、神奈川県にも渋谷氏が存在し、諸々の言い伝えはそちらを指しているのではないかという説もあります(現在の大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を張った渋谷氏)。ただこの地に渋谷氏が城を構えたのも事実のようですから、河崎基家を祖とする渋谷一族があちらこちらへ進出したのだと受け止めることにしました。

<金王八幡宮境内>
Fan33shibuya (3).jpg
戦国時代に、北条氏綱と扇谷上杉氏との戦い(高輪原の戦い)に巻き込まれ、渋谷城は焼失したという話があります。廃城はその時ですかね。

<砦の石>
Fan33shibuya (1).jpg
いわゆる遺構は何も残っていません。「砦の石」なるものを発見しましたが、私は個人的に違和感があるのでこれも参考程度に。

<やや高台の境内>
Fan33shibuya (4).jpg
ここは北東の低い谷地と西の渋谷川に守られた天然の要害。そう思えたことは収穫でした。納得したのは地形のみですが、来てみて良かったと思える城跡です。

とても渋谷とは思えない静かでいい雰囲気。気持ちが落ち着く場所でした。

[東京都渋谷区渋谷]3丁目


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-----■追記と暗渠ブログご紹介■-----
渋谷城付近には小川が流れ、かつては城内に湧水もあったとのこと。ということで、日を改めて再訪問。街の中の城跡とセットで暗渠探しをしてみました。

暗渠は確かにありました。ただ・・・
Fan33shibuya (6).jpg
途中で見失いました。力不足、まだまだです。

下記はその時に私が参考にした暗渠ブログです。この付近の暗渠をレポートしてます。興味のある方はどうぞ。
東京PEELING!
(自称:中級暗渠ハンターの方のブログです)
http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-b8c7.html

タグ:暗渠
posted by Isuke at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2017年03月20日

中世武士館の比定地 目黒氏館跡

<目黒氏館跡>
Fan21yuten (3).jpg
目黒氏の館跡と言われる場所を訪ねました。目黒高校付近?と聞いたのですが、これまたなにも無い。都内の城跡巡りで遺構なしというのは良くありますが、地形とか付近の川とか、何か雰囲気だけでもあれば良いのですが、見事に現代の街です。ここへ来る途中に目黒税務署がありましたが、地形だとそちらの方が雰囲気がありました。まぁそれも個人的な感覚的なので、まったく根拠はありません。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国に割拠した横山党と言われる武士団のなかに目黒氏がいたとされています。この地に目黒氏館があったことは、江戸時代の文献に記載されているとのこと。根拠が無いわけではないのですね。

実は目黒氏館の比定地はもう一つあります。どうも地形的にはそちらの方が説得力があるようですが、やはり遺構はないようなので、この日は近くの祐天寺付近をのんびり散策して帰りました。

<祐天寺>
Fan21yuten (1).jpg
名前だけは知っていましたが、初めて来ました

<暗渠>
Fan21yuten (2).jpg
個人的な興味で、城跡との直接は関係ありません
(この位置と流れは目黒川の支流ですね)

[東京都目黒区祐天寺]


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posted by Isuke at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2017年03月18日

平山の城址公園

高幡城跡を探索した後、以前から名前だけは知っていた城跡を訪問しました。とりあえず来たという感じで、詳しいことは後から調べました。

<平山城址公園>
2hirayama (1).jpg
想像していたより広い。ここは多摩丘陵の一画、地形が興味深いですね。園内の高低差は30m。要所要所に曲輪や堀切を配置すれば、立派な山城に成り得る場所です。

<公園内>
sirononagoriHIRAYAM (7).jpg
下の方には、湧水を集めた池がありました。日野市は多くの湧水群があります。緑豊かで水にも恵まれた場所です。周辺の苔の感じもいいですね。

2hirayama (3).jpg
左手の石垣は公園として整備したもので、遺構ではありません。昔の見張り台をイメージしているようです。

この付近でちょっと・・・

■探索を中止■
あくまで個人的な感覚ですが、ほぼ貸切り状態の園内をしばらく一人で歩いていると、突然妙な気分が・・・
「ん?この感覚はなんだ?」
辺りには誰もいません。廃城巡りはいつも独りなので、いわゆる孤独感というのはありません。
「まえもこんな感覚を味わったなぁ〜」
むかしむかし、山形県の山奥の河原を独りで歩いている時に「ん?」と感じたのと似ています。まぁ簡単に言ってしまうと
落ち着きません
私は小心者なのでしょうか・・・。谷底の探索は中止して、そそくさと上まで戻りました。

■平山の歴史■
この城は平山季重(ひらやま すえしげ)と関連するという説があります。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将です。現在の平山城址公園付近で生まれ、後に源氏について数々の功績を上げました。時代背景としては、いわゆる源平合戦の頃の話。平山季重はあの「一ノ谷の戦い」などても活躍し、褒美としてこの地を与えられたとされています。ただ詳細な史料は無く、この城との関係を疑問視する声もあります。

<案内図>
sirononagoriHIRAYAM (2).jpg
公園そのものは八王子市と日野市にまたがっています。良く整備されており、起伏もあり、ウォーキングなどには最適かもしれません。また、桜の名所としても知られており、大人が楽しめる公園ではないでしょうか。

城跡としてですが、あくまで個人的な見解ながら、公園内にリアルな遺構は無いと感じました。ですから、こんなブログを読んで頂いている城マニアの方は、行ってみるとちょっとガッカリするかもしれません。ただ、歴史的に推定されていることや、日野市内には他にも沢山の城跡・館跡があることを考えると、何となくそれらしく感じます。百草城、川辺堀之内、南平館などなど、気になる場所はまだまだあります。機会を作って、いつかまた日野の城跡を探索したいと思います。

<平山城址公園駅>
2hirayama (2).jpg
京王線です。

<駅からの道のり>
sirononagoriHIRAYAM (1).jpg
平山という名で油断していましたが、周辺も含めてわりと厳しい地形です(歩けますが平坦ではないという意味)。いかにも城跡が待っててくれそうな道のりでした。現地そのものより、行くまでのワクワク感の方が大きかったような気がします。城址公園で遺構は見つけられませんでしたが、この付近の地形なら、どこに館のようなものが存在していても不思議ではない。そんな気がしました。


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2017年03月16日

高幡不動の山城 高幡城

<高幡城跡>
5takahata (4).jpg
京王線の駅名にもある高幡不動尊。既に何度も訪れていますが、この裏山が城跡だった聞き、改めて訪問してみました。

<高幡不動尊>
5takahata (1).jpg
高幡不動尊は通称で、正式には金剛寺。

<土方歳三>
5takahata (8).jpg
新選組副長の土方歳三の菩提寺で、境内には土方歳三の像があります。新撰組ファンの人もたくさん訪れるようです。鳩もやってきます。 (歳三さんの頭の上)

<おまんじゅう屋さん>
5takahata (2).jpg
かなり力が入っています。ここ日野市は新撰組ゆかりの地。土方歳三、井上源三郎、近藤勇、沖田総司らのつわものどもが集い、武術に 励み、やがて幕末の歴史にその名を残します。

さて、これでも城ブログのつもりなので城跡の話を

城址は寺院背後の山です。事前の調べでは、高幡城は比高50m程度の独立峰を利用した山城。築城は室町時代以前と推定され、尾根に沿って複数の曲輪が連続するシンプルな構造のようです。

山へ入ります。
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遊歩道が用意されており、簡単に登れます。
5takahata (5).jpg
私は意識してませんでしたが、山道は八十八箇所廻りのコースになっていて、あちらこちらで仏像と出逢います。これはこれで興味深いですが、このコース通りに登っても、なかなか遺構らしきものとは出会いませんでした(見落としもあったかもしれません)。

<それらしい場所>
5takahata (7).jpg

5takahata (3).jpg

ここ高幡城に関する記録は見つかっておらず、詳細は不明のようです。ただ室町時代の後記、付近の合戦※において負傷した武将がこの地へ逃れ、自害したという記録があります。その当時から、砦のような機能を果たしていたのかも知れませんね。

[東京都日野市高幡町]
※分倍河原の戦い:鎌倉公方勢と関東管領勢の合戦


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