<白金台の土塁>看板付
いわゆる「しろかね」にも土塁があると聞いて訪問してきました。場所は港区白金台の国立自然教育園の園内。室町時代の豪族が館を構えたと伝わります。
<自然教育園>
もともと高松藩松平家の下屋敷があった場所です。現在は「国立科学博物館附属自然教育園」ということで、入園料大人310円です。
<御料地>
城址の石碑かと思って接近。違いました。皇室の御料地だったこともあるのですね。
<園内地図>
ちゃんと「館跡」が載ってます。入口から歩いてすぐですね。一般的に白金長者屋敷跡と呼ばれてますが、園内の表示も「館跡」なので、以下はそれで通します。
<土塁>
園内地図の「館跡」に辿りつく前ですが、早くも土塁と出あえました。思っていたよりは高い土塁です。
草木を紹介するのと同じように「土塁」という看板があります(園内の主役は草木です)。もともと起伏のある場所なので判断しかねるところもありますが、ここに限らず、園内の至る所に土塁らしきものを見ることができます。
<館周辺の案内図>
館を囲むように土塁が造られていたのですね。これはもう、ちょっとした城郭です。想像ですが、土塁の上に柵なども設けていたのかも知れません。
■白金長者とは■
1400年前後にこの付近を開墾した柳下上総介を指します。富豪だったようです。白金(しろがね)は、いわゆるプラチナではなく、銀(しろかね)の意味でした。銀をたくさん持っている富豪であることから「白金長者」と呼ばれるようになり、その呼び名が町名となっています。
そういえば、白金台で育った知人は、この地の館跡を「長者丸」と呼んでいました。それが一般的かどうかはわかりませんが・・・
<土塁>
この道は土塁を壊して造られたようです。つまり道から見えるのは土塁の断面です。
<高台>
遺構を通過すると坂道。館跡は高台に位置しています。画像は下から見上げた眺め。
白金・白金台といえば人気の街ですね。現地の地形をみて回りましたが、同じ町名でも随分と高低差があります。丘あり、そして低地あり。小規模な崖も存在しています。今回訪問の「白金長者屋敷」は丘の上。経緯が経緯なので、都市開発に巻き込まれず、豊かな自然とともに館(屋敷)のなごりまで残されました。とても貴重です。
<館跡と土塁>
説明板の背後も土塁です
この街を指して「プラチナ」と呼ぶのは一般的ですが、城跡好きにとっては、こんな都会に残された土塁そのものがプラチナです。来た甲斐がありました。
--■白金長者屋敷■--
(柳下上総介の館)
築 城:1400年頃
築城者:柳下上総介
館 主:柳下上総介
[東京都港区白金台]
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2017年10月02日
2017年09月02日
深大寺城 調布市「ふるき郭」
■ふるき郭■ もともと城跡だった
河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原北条氏(氏綱)に対抗するために改修した城です。この地にはもともと「ふるき郭」があったとされています。つまり城跡でした。ただ誰の城だったかは分かっていません。武蔵七党の狛江氏という説もあります。
■激闘はなし■ 1537年
北条氏綱は深大寺城をけん制しながらも攻撃せず、迂回して河越城を直接狙いにいきました。これは城を整備した扇谷上杉側にとっては、戦略上の大誤算ですね。前線基地の意味が無くなった訳ですから。
この戦は北条側の大勝利。河越城を攻略した北条氏綱は、関東覇者への道を着実に進んで行きます。深大寺城はそんな時代に改修された城跡。その後使われた様子が無いことから、当時の姿をいまに残す貴重な城跡と言えます。
※余談ですが、同じく小田原北条氏の戦で有名な「河越夜戦」は1546年のこと。つまり更に後の話です。北条氏綱の息子・氏康が奇襲で大勝利しましたね。
■この頃の北条氏■ 二代目氏綱の成熟期
北条早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱。相模から関東全体への勢力拡大を目指し、着実にその基盤を構築してゆきます。よく二代目は駄目というケースは多いですが、氏綱はまったく違っていました。その息子・三代目氏康もこれまた凄かったので、代替わりを成功させる秘訣でもあったのでしょうか?まぁそれはまた別途研究するとして、この二代目氏綱、深大寺城が再整備されたこの頃には既に51歳でした。翌年には、国府台城で里見氏・足利義明の連合軍に勝利。勢いだけでなく、経験に経験を積んだ大将だった訳ですね。前線基地として整備したここ深大寺城があっさりと迂回されてしまい、扇谷上杉側は相当焦ったことでしょう。
それにしても、東京・埼玉で戦って、次に千葉で戦って、関東を制するのは大変な道程ですね。その途上、氏綱は55歳で生涯を閉じました。
■この頃の扇谷上杉家■ 若年当主
当主は家督を継いだばかりの上杉朝定(ともさだ)。1525年生まれとあるので、えっとまだ12歳?ということですか。北条氏綱は当主が若年であることをチャンスと考えたとも言われています。まぁ実際には側近たちがいろいろと判断していたのでしょうが、こういう歴史の長い名門組織では、まとまり難いことも多々あります。もう英雄・太田道灌(1486年没)のような絶対的な家臣もいません。まぁいずれにせよ結果は敗北。陰りの見える扇谷上杉家は、すでに江戸から川越へ追いやられていたわけですが、この戦いで更に北(松山城=埼玉県吉見町=川越より更に北方面)へ逃れることとなりました。道灌が亡くなってから約50年。扇谷上杉家の運気は落ちる一方ですね。朝定は何とか生き延びますが、先述の河越夜戦で北条氏に討たれます。実質最後の当主でした。
<湿地帯>
城跡は深大寺に隣接する「水生植物園」にあります。美しい。当時も湿地帯でした。右手の山、ただの雑木林ではありません。深大寺城跡です。
<曲輪>
最初に二の丸(第二郭)。広いですね。石が建物跡の目印
<曲輪を囲む土塁>
いいですね。すごくいい。いかにも中世の城郭。
<虎口>
曲輪への出入り口でしょうか
<二重土塁>
これ堀ではなく土塁が連続した構造になっています。当然ですが、築城時はもっとシャープだったことでしょう。ここは昔の城の一部ですが、見応えがあります。復元も含まれると聞いていますが、遺構に満足できる城跡です。
■つわものどもが夢の跡■
北条氏に落とされた関東の城は、その後北条氏の手によって改修されている場合が多いですが、ここはそのまま。その当時のままです。天然の要害ですが、北条氏の戦略上は拠点とする魅力が無かったようです。その北条氏の進攻を何とかくいとめたい。何百年も前のその思いが、形となって残っている場所です。
--------■深大寺城■--------
築城者:不明(狛江氏)
築城年:不明
改修者:難波田広宗(扇谷上杉家臣)
城 主:難波田広宗
廃城年:1537年(天文6)
[東京都調布市深大寺元町]
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河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原北条氏(氏綱)に対抗するために改修した城です。この地にはもともと「ふるき郭」があったとされています。つまり城跡でした。ただ誰の城だったかは分かっていません。武蔵七党の狛江氏という説もあります。
■激闘はなし■ 1537年
北条氏綱は深大寺城をけん制しながらも攻撃せず、迂回して河越城を直接狙いにいきました。これは城を整備した扇谷上杉側にとっては、戦略上の大誤算ですね。前線基地の意味が無くなった訳ですから。
この戦は北条側の大勝利。河越城を攻略した北条氏綱は、関東覇者への道を着実に進んで行きます。深大寺城はそんな時代に改修された城跡。その後使われた様子が無いことから、当時の姿をいまに残す貴重な城跡と言えます。
※余談ですが、同じく小田原北条氏の戦で有名な「河越夜戦」は1546年のこと。つまり更に後の話です。北条氏綱の息子・氏康が奇襲で大勝利しましたね。
■この頃の北条氏■ 二代目氏綱の成熟期
北条早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱。相模から関東全体への勢力拡大を目指し、着実にその基盤を構築してゆきます。よく二代目は駄目というケースは多いですが、氏綱はまったく違っていました。その息子・三代目氏康もこれまた凄かったので、代替わりを成功させる秘訣でもあったのでしょうか?まぁそれはまた別途研究するとして、この二代目氏綱、深大寺城が再整備されたこの頃には既に51歳でした。翌年には、国府台城で里見氏・足利義明の連合軍に勝利。勢いだけでなく、経験に経験を積んだ大将だった訳ですね。前線基地として整備したここ深大寺城があっさりと迂回されてしまい、扇谷上杉側は相当焦ったことでしょう。
それにしても、東京・埼玉で戦って、次に千葉で戦って、関東を制するのは大変な道程ですね。その途上、氏綱は55歳で生涯を閉じました。
■この頃の扇谷上杉家■ 若年当主
当主は家督を継いだばかりの上杉朝定(ともさだ)。1525年生まれとあるので、えっとまだ12歳?ということですか。北条氏綱は当主が若年であることをチャンスと考えたとも言われています。まぁ実際には側近たちがいろいろと判断していたのでしょうが、こういう歴史の長い名門組織では、まとまり難いことも多々あります。もう英雄・太田道灌(1486年没)のような絶対的な家臣もいません。まぁいずれにせよ結果は敗北。陰りの見える扇谷上杉家は、すでに江戸から川越へ追いやられていたわけですが、この戦いで更に北(松山城=埼玉県吉見町=川越より更に北方面)へ逃れることとなりました。道灌が亡くなってから約50年。扇谷上杉家の運気は落ちる一方ですね。朝定は何とか生き延びますが、先述の河越夜戦で北条氏に討たれます。実質最後の当主でした。
<湿地帯>
城跡は深大寺に隣接する「水生植物園」にあります。美しい。当時も湿地帯でした。右手の山、ただの雑木林ではありません。深大寺城跡です。
<曲輪>
最初に二の丸(第二郭)。広いですね。石が建物跡の目印
<曲輪を囲む土塁>
いいですね。すごくいい。いかにも中世の城郭。
<虎口>
曲輪への出入り口でしょうか
<二重土塁>
これ堀ではなく土塁が連続した構造になっています。当然ですが、築城時はもっとシャープだったことでしょう。ここは昔の城の一部ですが、見応えがあります。復元も含まれると聞いていますが、遺構に満足できる城跡です。
■つわものどもが夢の跡■
北条氏に落とされた関東の城は、その後北条氏の手によって改修されている場合が多いですが、ここはそのまま。その当時のままです。天然の要害ですが、北条氏の戦略上は拠点とする魅力が無かったようです。その北条氏の進攻を何とかくいとめたい。何百年も前のその思いが、形となって残っている場所です。
--------■深大寺城■--------
築城者:不明(狛江氏)
築城年:不明
改修者:難波田広宗(扇谷上杉家臣)
城 主:難波田広宗
廃城年:1537年(天文6)
[東京都調布市深大寺元町]
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国分寺崖線の城跡 深大寺城
深大寺城訪問
[東京都調布市深大寺元町]
雨のち晴れの夏の日。ほぼ一日かけて深大寺城を探索しました。湿地帯の山城。城郭は右手の山です。武蔵野台地の南側の崖線に位置し、高低差と水の豊かさが印象に残る場所でした。
■まず深大寺へ■ じんだいじ
昔から「深大寺そば」は知っていましたが、現地へ来るのは初めて。開発が進む調布駅前からちょっとバスに乗るだけで、こんな緑豊かな場所に到着しました。寺の始まりは奈良時代。浅草寺に次ぐ古い歴史と言われています。環境といい歴史といい、素晴らしい所なんですね。城跡を見に来たのに、まずは深大寺に圧倒されました。立派な本堂、軒を連ねるお蕎麦屋さん、おみやげ屋さんなどなど。深大寺ビールなんていうのもあるんですね(我慢しました)。ただ、やはり気になったのは地形ですね。そして水。
<山門>
深大寺の名は、深沙(じんじゃ)大王という水神に由来。教典を求めて旅する三蔵法師を救ったとか。深沙大王寺がやがて深大寺となったそうです。
<水車>
湧水・清流・水車・水量の多い側溝・・・水の音を感じる場所です。
<不動の滝>
この付近は武蔵野台地の南縁。川が台地を浸食して造り上げた段丘面に位置しています。
ちょっと癒される苔
<深大寺境内絵図>
個別の画像より、この境内図のほうが高低差が伝わるかもしれませんね。
■崖線とは■がいせん
川が歳月をかけて台地を削った崖。これは良くみかけますね。崖線はこの崖地がずっとずっと続いている(地図で見ると長い線になっている)状態を指します。
■国分寺崖線■ 武蔵野台地
国分寺崖線は武蔵村山市(東京都の多摩地域北部)から大田区まで続いている崖線を指します。総じて湧水に恵まれ、自然豊かな場所。開発がすすんだ現在でも、みどりに覆われた環境が点在しています。23区内の渓谷として有名な等々力渓谷もこの一部です。
国分寺崖線そのものはちょっと長すぎるので、訪問した調布市付近に限定すると、ほぼ野川の北に沿って続き、深大寺城付近を通り、つつじヶ丘方面へと続きます。「線」という表現で良いのですが、細かく見れば崖線は入り乱れていて、深大寺付近もかなり複雑です。深大寺と深大寺城も大筋同じエリアですが、厳密に言えば両者の間にも細長い低地が入り込んでいます。そして地図で見れば幅が狭いその低地も、実際に歩くと結構厄介な存在。城はこういった地形を意識して築かれるのでしょう。
■野川■
<天然の水濠>
多摩川の支流。「のかわ」ではなく「のがわ」。発音が濁ります。ただ水は綺麗です。この川は崖線とほぼ平行して流れ、崖線(台地の先端)に位置する深大寺城にとっては天然の堀といえますね。
<東京の川>
ここ東京ですよ。少し上流に歩くともう三鷹市でした。カワセミがいますが、ちょっと見えにくいですね。PCで見て頂いてる方は、気付くかも知れません(無理?)。
<カワセミ>
上の画像の拡大。画像悪くてすみません。
<暗渠>あんきょ
宅地化されても、水はただ低い方へ進むしかありません。これも野川に注ぐ水の流れです。
すみません。城の周辺の紹介だけで長くなりました。
崖線に位置するがゆえの「地形」「豊富な水」。そして地形を造った川。この日はこれらをしつこく見て歩きました。肌で感じて、地の利に納得。あとは実際の山城を探索するだけです。
■いざ深大寺城跡へ■
城跡へは深大寺に隣接する「水生植物園」から登城できます。案内図だと上の部分。オレンジ色で城山(国史跡:深大寺城跡)と表示されているエリアです。
冒頭の画像は、その植物園に入ってすぐの景色。美しい湿地帯となっいます。
山城の内部、次の投稿へつづきます→深大寺城 調布市「ふるき郭」
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[東京都調布市深大寺元町]
雨のち晴れの夏の日。ほぼ一日かけて深大寺城を探索しました。湿地帯の山城。城郭は右手の山です。武蔵野台地の南側の崖線に位置し、高低差と水の豊かさが印象に残る場所でした。
■まず深大寺へ■ じんだいじ
昔から「深大寺そば」は知っていましたが、現地へ来るのは初めて。開発が進む調布駅前からちょっとバスに乗るだけで、こんな緑豊かな場所に到着しました。寺の始まりは奈良時代。浅草寺に次ぐ古い歴史と言われています。環境といい歴史といい、素晴らしい所なんですね。城跡を見に来たのに、まずは深大寺に圧倒されました。立派な本堂、軒を連ねるお蕎麦屋さん、おみやげ屋さんなどなど。深大寺ビールなんていうのもあるんですね(我慢しました)。ただ、やはり気になったのは地形ですね。そして水。
<山門>
深大寺の名は、深沙(じんじゃ)大王という水神に由来。教典を求めて旅する三蔵法師を救ったとか。深沙大王寺がやがて深大寺となったそうです。
<水車>
湧水・清流・水車・水量の多い側溝・・・水の音を感じる場所です。
<不動の滝>
この付近は武蔵野台地の南縁。川が台地を浸食して造り上げた段丘面に位置しています。
ちょっと癒される苔
<深大寺境内絵図>
個別の画像より、この境内図のほうが高低差が伝わるかもしれませんね。
■崖線とは■がいせん
川が歳月をかけて台地を削った崖。これは良くみかけますね。崖線はこの崖地がずっとずっと続いている(地図で見ると長い線になっている)状態を指します。
■国分寺崖線■ 武蔵野台地
国分寺崖線は武蔵村山市(東京都の多摩地域北部)から大田区まで続いている崖線を指します。総じて湧水に恵まれ、自然豊かな場所。開発がすすんだ現在でも、みどりに覆われた環境が点在しています。23区内の渓谷として有名な等々力渓谷もこの一部です。
国分寺崖線そのものはちょっと長すぎるので、訪問した調布市付近に限定すると、ほぼ野川の北に沿って続き、深大寺城付近を通り、つつじヶ丘方面へと続きます。「線」という表現で良いのですが、細かく見れば崖線は入り乱れていて、深大寺付近もかなり複雑です。深大寺と深大寺城も大筋同じエリアですが、厳密に言えば両者の間にも細長い低地が入り込んでいます。そして地図で見れば幅が狭いその低地も、実際に歩くと結構厄介な存在。城はこういった地形を意識して築かれるのでしょう。
■野川■
<天然の水濠>
多摩川の支流。「のかわ」ではなく「のがわ」。発音が濁ります。ただ水は綺麗です。この川は崖線とほぼ平行して流れ、崖線(台地の先端)に位置する深大寺城にとっては天然の堀といえますね。
<東京の川>
ここ東京ですよ。少し上流に歩くともう三鷹市でした。カワセミがいますが、ちょっと見えにくいですね。PCで見て頂いてる方は、気付くかも知れません(無理?)。
<カワセミ>
上の画像の拡大。画像悪くてすみません。
<暗渠>あんきょ
宅地化されても、水はただ低い方へ進むしかありません。これも野川に注ぐ水の流れです。
すみません。城の周辺の紹介だけで長くなりました。
崖線に位置するがゆえの「地形」「豊富な水」。そして地形を造った川。この日はこれらをしつこく見て歩きました。肌で感じて、地の利に納得。あとは実際の山城を探索するだけです。
■いざ深大寺城跡へ■
城跡へは深大寺に隣接する「水生植物園」から登城できます。案内図だと上の部分。オレンジ色で城山(国史跡:深大寺城跡)と表示されているエリアです。
冒頭の画像は、その植物園に入ってすぐの景色。美しい湿地帯となっいます。
山城の内部、次の投稿へつづきます→深大寺城 調布市「ふるき郭」
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2017年04月15日
外濠のなごり 赤坂見附
赤坂見附跡
駅は有名ですが、いわゆる「赤坂見附」へ行かれた方は少ないのではないでしょうか?
行く必要がない……
まぁ普通そうかも知れませんが、駅からそう遠くないところで城のなごりを感じられる場所ですので、ちょっとご紹介させて頂きます。
ここ赤坂見附も四谷見附などと並んで「江戸城三十六見附」の一つ。複数の家が作業を分担して完成させたようですが、この石垣部分はあの「黒田家」によって築かれました。
これで終わり?
はい。ただまぁここまで来たら、すぐそばの外濠も見てみましょう。
<弁慶橋>
立派な橋が目の前に現れます。その名も弁慶橋。義経と弁慶の出会いを想像してしまいますが、江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作ったので、弁慶橋と名付けられたそうです。
ここは港区元赤坂 と千代田区紀尾井町の境界。ちなみに、紀尾井町(きおいちょう) の名は、この一帯に紀州と尾張の徳川家、そして井伊家の屋敷があったことに由来します。つまり、やんごとなき人たちのお屋敷街だったということですね。で、今でこそ歩いて渡れますが、江戸時代には濠を渡れる橋はありませんでした。
橋が架けられたのは明治22年。あら?棟梁の弁慶さんと時代が合いませんね。
弁慶橋そのものは、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れる川(藍染川)に架かっていました。
明治になって弁慶橋が廃橋となり、ここに移設されたとのこと。もっと詳しく調べてみると、どうも移設というより、解体した廃材を再利用して橋が架けられたという方が実態に近いかもしれません。もともとの弁慶橋とは形状は異なるものの、その名前が使われたようです。
いい意味で名前が残るのは名誉なことですが、職人の気質を考慮すると、弁慶さんは「こんなのワシの仕事じゃねぇ!」とか天国で言ってたかもしれませんね。
(現在は更に鉄筋に生まれ変わってます)
外濠(弁慶濠)
赤坂見附跡の付近では、旧江戸城の外濠がほぼ原形を留めて残っています。埋められずに済んだ外濠です。
昔の雰囲気を残す濠。都内に残る貴重な城のなごりです。
赤坂見附駅付近
都会の中の都会。慌ただしく通り過ぎるのが当たり前のような街の景色ですが、ほんのちょっと、外堀通りを渡るだけで別世界と出会えます。
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駅は有名ですが、いわゆる「赤坂見附」へ行かれた方は少ないのではないでしょうか?
行く必要がない……
まぁ普通そうかも知れませんが、駅からそう遠くないところで城のなごりを感じられる場所ですので、ちょっとご紹介させて頂きます。
ここ赤坂見附も四谷見附などと並んで「江戸城三十六見附」の一つ。複数の家が作業を分担して完成させたようですが、この石垣部分はあの「黒田家」によって築かれました。
これで終わり?
はい。ただまぁここまで来たら、すぐそばの外濠も見てみましょう。
<弁慶橋>
立派な橋が目の前に現れます。その名も弁慶橋。義経と弁慶の出会いを想像してしまいますが、江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作ったので、弁慶橋と名付けられたそうです。
ここは港区元赤坂 と千代田区紀尾井町の境界。ちなみに、紀尾井町(きおいちょう) の名は、この一帯に紀州と尾張の徳川家、そして井伊家の屋敷があったことに由来します。つまり、やんごとなき人たちのお屋敷街だったということですね。で、今でこそ歩いて渡れますが、江戸時代には濠を渡れる橋はありませんでした。
橋が架けられたのは明治22年。あら?棟梁の弁慶さんと時代が合いませんね。
弁慶橋そのものは、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れる川(藍染川)に架かっていました。
明治になって弁慶橋が廃橋となり、ここに移設されたとのこと。もっと詳しく調べてみると、どうも移設というより、解体した廃材を再利用して橋が架けられたという方が実態に近いかもしれません。もともとの弁慶橋とは形状は異なるものの、その名前が使われたようです。
いい意味で名前が残るのは名誉なことですが、職人の気質を考慮すると、弁慶さんは「こんなのワシの仕事じゃねぇ!」とか天国で言ってたかもしれませんね。
(現在は更に鉄筋に生まれ変わってます)
外濠(弁慶濠)
赤坂見附跡の付近では、旧江戸城の外濠がほぼ原形を留めて残っています。埋められずに済んだ外濠です。
昔の雰囲気を残す濠。都内に残る貴重な城のなごりです。
赤坂見附駅付近
都会の中の都会。慌ただしく通り過ぎるのが当たり前のような街の景色ですが、ほんのちょっと、外堀通りを渡るだけで別世界と出会えます。
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2017年04月13日
外堀土塁跡の桜 四谷見附
外堀の土塁上の小路
江戸城外濠は桜の名所となっているところが多いですが、ここ四谷駅付近もこの季節は魅力的な場所です。普段は城のなごりが地味に漂うだけですが(それは別の意味で魅力的ですが)、春になると姿が一変。普段なら素通りするであろうビジネスマンが立ち止まり、咲き誇る染井吉野にカメラを向けています。
四谷見附については一度投稿させて頂きました。
■その時の記事はこちら■↓
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/36/0
(「四ツ谷門のなごり」 2017年03月22日)
春が来たので改めて
■四谷見附■
江戸城の主要な門を指す江戸城三十六見附。四谷見附もその一つです。
見附とは要するに城門のことなんですが、見張り番付で、更にそれ相応の施設として築かれているからそう呼ばれています。江戸城を完成させるための工事には全国の大名がかり出されていますが、この四谷門は毛利家が担当しました。門そのものは残されていませんが、石垣や土塁が遺構として残されています。
入口
冒頭の画像はJR四谷駅すぐ近く。ちょっとだけ寄り道してこの階段を登れば、素敵な空間が待っています。
何と言うか・・・思考が止まるような感覚を味わいました。
日々忙しい人こそ、ほんの5分くらいでも良いので立ち寄ってみては如何でしょうか。
お城巡りランキング
江戸城外濠は桜の名所となっているところが多いですが、ここ四谷駅付近もこの季節は魅力的な場所です。普段は城のなごりが地味に漂うだけですが(それは別の意味で魅力的ですが)、春になると姿が一変。普段なら素通りするであろうビジネスマンが立ち止まり、咲き誇る染井吉野にカメラを向けています。
四谷見附については一度投稿させて頂きました。
■その時の記事はこちら■↓
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/36/0
(「四ツ谷門のなごり」 2017年03月22日)
春が来たので改めて
■四谷見附■
江戸城の主要な門を指す江戸城三十六見附。四谷見附もその一つです。
見附とは要するに城門のことなんですが、見張り番付で、更にそれ相応の施設として築かれているからそう呼ばれています。江戸城を完成させるための工事には全国の大名がかり出されていますが、この四谷門は毛利家が担当しました。門そのものは残されていませんが、石垣や土塁が遺構として残されています。
入口
冒頭の画像はJR四谷駅すぐ近く。ちょっとだけ寄り道してこの階段を登れば、素敵な空間が待っています。
何と言うか・・・思考が止まるような感覚を味わいました。
日々忙しい人こそ、ほんの5分くらいでも良いので立ち寄ってみては如何でしょうか。
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2017年04月01日
赤羽の地形と道灌築城の城跡(稲付城)
<稲付城跡>
太田道灌が築城したと推定されている稲付(いなつけ)城です。急な石段。凄いところにありますね。見ての通りの山城です。地名「稲付(いなつけ)」は、暴れ川だった荒川が氾濫すると、この地に近隣の村の稲が流れついた事に由来します。
<物的証拠とされる石>
説明付きで展示されています(置いてあるという表現の方が適切かもしれません)。これは参考程度に。
<山頂>
石段を登ると山門、静勝寺というお寺になります。
<境内(本丸跡)>
遺構のようなものはありません。ただ静勝寺南方面でおこなわれた昭和62年(1987年)の発掘調査によれば、戦国時代に築かれたとみられる空堀が確認されました(マンション建設に伴う調査だったようです)。また、静勝寺に伝わる「静勝寺除地(よけち)検地絵図」には、城の空堀の遺構が道として描かれているとのこと(情報は北区飛鳥山博物館のホームページから入手しました)。
城は台地の東端に位置しています。現在の寺の境内はそのなかでも最も高い場所。本丸(主郭)と考えられています。
■道灌築城?■
そう伝えられています。他に扇谷上杉氏の築城という説もありますが、道灌の主ですので、やはり関わりがあったと考えて良いのかもしれませんね。また、道灌の孫の太田資高(及びその子である太田康資まで)が館を築いていたとされていますので、やはり「道灌ゆかりの城」と考えて良いと(個人的に)思っています。これを前提にして、この赤羽という場所の位置から推定すると、稲付城は江戸城と岩槻城(埼玉県)を結ぶ拠点として築かれたと考えるのが妥当ですね。
■赤羽の地形と稲付城■
凄い地形でよね……道そのものが空堀のなごりかも?などと勝手に思ってます(根拠ありません)。
ここ赤羽は、北には荒川が流れており、駅から見ると東側と北側に低地が広がっています。これとは対照的に、西側が高台。武蔵野台地の北端にあたる場所。つまり台地が途切れる場所です。
この台地と低地、結構な高低差がある上にあちらこちらで複雑なことになっており、地形だけでも楽しめます(地形好きの人は)。稲付城は駅西側の高台に位置し、周辺はいま見ても複雑な地形のまま。興味が尽きません。更に赤羽という街は、買い物も便利で飲み屋さんも豊富。楽しみが多く、ついつい足をはこんでしまいます。頻繁に訪問しているため、投稿している画像の季節がバラバラとなっていますが、そのヘンはご容赦下さい。
稲付城跡は赤羽駅から徒歩5分くらい。遺構らしいものはないですが、苦労なく行ける城跡ですので、赤羽で下車する機会があったら、気軽に訪問することをお勧めします。
[東京都北区赤羽西]
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太田道灌が築城したと推定されている稲付(いなつけ)城です。急な石段。凄いところにありますね。見ての通りの山城です。地名「稲付(いなつけ)」は、暴れ川だった荒川が氾濫すると、この地に近隣の村の稲が流れついた事に由来します。
<物的証拠とされる石>
説明付きで展示されています(置いてあるという表現の方が適切かもしれません)。これは参考程度に。
<山頂>
石段を登ると山門、静勝寺というお寺になります。
<境内(本丸跡)>
遺構のようなものはありません。ただ静勝寺南方面でおこなわれた昭和62年(1987年)の発掘調査によれば、戦国時代に築かれたとみられる空堀が確認されました(マンション建設に伴う調査だったようです)。また、静勝寺に伝わる「静勝寺除地(よけち)検地絵図」には、城の空堀の遺構が道として描かれているとのこと(情報は北区飛鳥山博物館のホームページから入手しました)。
城は台地の東端に位置しています。現在の寺の境内はそのなかでも最も高い場所。本丸(主郭)と考えられています。
■道灌築城?■
そう伝えられています。他に扇谷上杉氏の築城という説もありますが、道灌の主ですので、やはり関わりがあったと考えて良いのかもしれませんね。また、道灌の孫の太田資高(及びその子である太田康資まで)が館を築いていたとされていますので、やはり「道灌ゆかりの城」と考えて良いと(個人的に)思っています。これを前提にして、この赤羽という場所の位置から推定すると、稲付城は江戸城と岩槻城(埼玉県)を結ぶ拠点として築かれたと考えるのが妥当ですね。
■赤羽の地形と稲付城■
凄い地形でよね……道そのものが空堀のなごりかも?などと勝手に思ってます(根拠ありません)。
ここ赤羽は、北には荒川が流れており、駅から見ると東側と北側に低地が広がっています。これとは対照的に、西側が高台。武蔵野台地の北端にあたる場所。つまり台地が途切れる場所です。
この台地と低地、結構な高低差がある上にあちらこちらで複雑なことになっており、地形だけでも楽しめます(地形好きの人は)。稲付城は駅西側の高台に位置し、周辺はいま見ても複雑な地形のまま。興味が尽きません。更に赤羽という街は、買い物も便利で飲み屋さんも豊富。楽しみが多く、ついつい足をはこんでしまいます。頻繁に訪問しているため、投稿している画像の季節がバラバラとなっていますが、そのヘンはご容赦下さい。
稲付城跡は赤羽駅から徒歩5分くらい。遺構らしいものはないですが、苦労なく行ける城跡ですので、赤羽で下車する機会があったら、気軽に訪問することをお勧めします。
[東京都北区赤羽西]
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タグ:太田道灌
2017年03月29日
道灌館跡 御殿山
<太田道灌館跡>
太田道灌が江戸城へ移るまで居城とした場所。一般的には「御殿山城」と呼ばれています。
綺麗に整備され(開発され)、昔の痕跡は見当たりません。土塁も堀も、何もなし。まぁ都内の城跡巡りでは良くあることなので、いつものように地形を楽しみます。
当時の品川の地理的・自然的条件を思えば、城の立地として納得できます。太田道灌は、江戸城築城後もこの地を城将(宇多川和泉守長清)に守らせました。重要拠点だったんですね。
「御殿山」という呼びの名は、徳川家康がこの地を鷹狩の休憩所として使ったことに由来します。つまり、太田道灌よりあとの時代の呼び方ということになりますね。ここではあえて御殿山城跡ではなく、道灌館跡と呼ばせてもらいます。
つわものどもが夢の跡
この地を拠点としていた太田道灌は、夢のお告げにより江戸城を築城したと伝わります。
道灌が夢を見た場所。現在は綺麗な庭園となっています。
[東京都品川区北品川]4丁目
最寄り駅は京急北品川駅になります
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太田道灌が江戸城へ移るまで居城とした場所。一般的には「御殿山城」と呼ばれています。
綺麗に整備され(開発され)、昔の痕跡は見当たりません。土塁も堀も、何もなし。まぁ都内の城跡巡りでは良くあることなので、いつものように地形を楽しみます。
当時の品川の地理的・自然的条件を思えば、城の立地として納得できます。太田道灌は、江戸城築城後もこの地を城将(宇多川和泉守長清)に守らせました。重要拠点だったんですね。
「御殿山」という呼びの名は、徳川家康がこの地を鷹狩の休憩所として使ったことに由来します。つまり、太田道灌よりあとの時代の呼び方ということになりますね。ここではあえて御殿山城跡ではなく、道灌館跡と呼ばせてもらいます。
つわものどもが夢の跡
この地を拠点としていた太田道灌は、夢のお告げにより江戸城を築城したと伝わります。
道灌が夢を見た場所。現在は綺麗な庭園となっています。
[東京都品川区北品川]4丁目
最寄り駅は京急北品川駅になります
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タグ:太田道灌
2017年03月28日
道灌の砦跡 道灌山
<道灌山(どうかんやま)>
太田道灌の出城だったと推定されている山です。北に日光連山、西には富士山、そして東に筑波山が見渡せる景勝地だったようです。
<説明文と広重の「江戸百景」>
現地の説明文にもありますが、太田道灌の砦跡という説がある一方で、小田原条氏家臣の関道閑の屋敷跡という説がもあります。
場所はJR西日暮里駅の西側の丘陵地。山そのものだけでなく、この付近一帯(西日暮里公園から諏訪神社にかけて)が砦だったと推定されています。
明確な遺構がある訳ではないので、城跡探索という感じにはなりませんでしたが、西日暮里駅すぐ近いことから、気軽に訪れることをお勧めします。実際に現地へ行ってみると、山と谷の高低差を実感します。「中世の山城」が好きという方にお勧めです。
[東京都荒川区西日暮里]
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太田道灌の出城だったと推定されている山です。北に日光連山、西には富士山、そして東に筑波山が見渡せる景勝地だったようです。
<説明文と広重の「江戸百景」>
現地の説明文にもありますが、太田道灌の砦跡という説がある一方で、小田原条氏家臣の関道閑の屋敷跡という説がもあります。
場所はJR西日暮里駅の西側の丘陵地。山そのものだけでなく、この付近一帯(西日暮里公園から諏訪神社にかけて)が砦だったと推定されています。
明確な遺構がある訳ではないので、城跡探索という感じにはなりませんでしたが、西日暮里駅すぐ近いことから、気軽に訪れることをお勧めします。実際に現地へ行ってみると、山と谷の高低差を実感します。「中世の山城」が好きという方にお勧めです。
[東京都荒川区西日暮里]
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タグ:太田道灌