つわものどもが夢の跡
板橋区にそのなごりを残す中世の山城。そこで毎年3月に開催される「赤塚梅まつり」に本日行ってきました。
<城跡の梅林>はくばい
アクセスが良いので、既に何度か来ています。といってもこの光景は年に一度。しかも今年は3月上旬としては気温が高く、とても過ごしやすい。最高の城日和となりました。ただ花粉症の方にはちょっと厳しい1日だったも知れません。
■現地への道のり■
<西高島平>スタート
他にも交通手段はありますが、私はここで下車。都営三田線の西高島平駅です。ここが終点なので乗り越す心配もありません。駅から赤塚城跡へは、わりと速足の大人の男で10分程度。ゆっくりだともうちょっと掛かりますかね(板橋区ホームページだと徒歩約13分とあります)。
<駅の地図>道のり
ちょっと筆を入れさせてもらいました。赤い径路で進んでいくのが合理的かと思われます。赤丸が目的地の赤塚溜池公園です。
<赤塚梅まつり>到着
第34回赤塚梅まつり。34回もやっているのですね。毎年の恒例行事です。
■赤塚城跡■
<山城の斜面>
23区内とは思えない自然豊かな場所です。ここにかつて城が築かれました。
<郷土資料館の茅葺き>
久しぶり・・・いい雰囲気です。
<暗渠>あんきょ
郷土資料館の裏手。城と直接の関係はありませんが、前回も気になった暗渠です。つまり蓋をした水路ですね。この水の行き先は山城の麓の溜池です。
<溜池>
かつての外堀の跡と言われる場所。この池というより、この付近ということだと思います。先ほどの暗渠もそうですが、周辺の水が高低差により集まりやすいようです。
<水のゆくえ>
また話題が城から遠ざかりますが、こんなタイトルだと興味をそそられます。ただ中世の城と自然の川は密接な関係です。城と無関係というわけではありませんね。
<説明板>
ふむふむ。千葉氏の城跡ということですね。台地上に位置する室町時代の城跡。城山、お林山などと呼ばれているそうです。
<梅まつり各種イベント>
今年の開催は3日(土)・4日(日)の2日間。獅子舞や戦国絵巻武者行列など、いろいろな催しが行われます。画像は本日(4日)のスケジュール。
<本丸へ>
やや急な斜面ですが距離は短く、小さな子供やご高齢の方も元気に登っていました。比高10m程度。本丸(主郭)はもうすぐ・・・
<西洋流火術鉄砲隊>イベント
本丸跡で開催されているイベント。鉄砲隊はもっとたくさんいましたが、大勢の見物人を避けて撮影したのでこんな画像となりました。のんびり眺めていましたが、このあと鉄砲音の大きさに一瞬怯みました。むかしはこういったイベントにあまり興味がありませんでしたが、最近は何となく感謝したくなります。楽しませてもらいました。江戸末期の砲術家・高島秋帆( しゅうはん)が、この付近にて日本初の洋式砲術の訓練が行ったことにちなんでいます。高島平という地名の由来はこの方。江戸時代は徳丸ケ原と呼ばれていました。
<梅林>本日の主役
山の麓にも咲いていますが、こちらも圧巻ですね。城跡の梅の木は紅梅・ 白梅あわせて約200本とのこと。数えてませんが、もっとあるような気がします(それくらい圧倒的という意味です)。春といえば個人的に桜ですが、梅は先駆けて咲くところが粋ですね。
■中世の山城■
<石碑と説明板>
ここはあくまで中世の城跡です。普段ならこの石碑と説明板で人が立ち止まるところですが、今日はさすがに見向きもされません。まぁ梅の花も、そして開催されているイベントも立派ですからね。説明内容は以下の通りです。
武蔵千葉氏と赤塚城跡
『下総国の守護千葉氏は、古河公方足利利成氏と関東管領上杉家が争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と白浜城(現台東区)へ入城しました。
寛正四(1468)年に兄の後を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八(1590)まで勢力をふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかになっていません。』
[現地説明写し:板橋区教育委員会]
ちょっと補足すると兄の実胤(さねたね)は武蔵千葉氏の初代当主。弟の自胤(よりたね)は武蔵千葉氏第2代当主です。ここに出てくる上杉は扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)。千葉兄弟は扇谷上杉家の家宰・太田道灌の支援を受けていました。心強いですね。まぁ道灌には道灌の思惑があったのでしょう。
<堀の中>
梅の花やイベントの華やかさとは対照的に、この付近はいつも通り。堀の底のような場所です。
<土の壁>
奥に見える土の壁。土を盛ったのではなく、こちら側が堀の中という位置関係です。掘ったのか、もともと谷状になっているのを利用したのか分かりにくい。ここは武蔵野台地の端っこ。結構地形が複雑なので…。まぁ人が地形を利用して作った堀切と思うことにします。
近くを荒川が流れ、むかしはその氾濫原だった場所です。周辺を湿地に守られた段丘の上に城を築く。城の「地の利」が分りやすいですね。いかにも中世らしい山城です。
現地説明にもありますが、築城は千葉自胤と考えられています。これには諸説あり、私は以前この城について投稿させてもらった時には、千葉氏も関係しているものの、最初の築城は豊島氏系の赤塚氏とさせてもらいました。まぁいずれにしても、廃城は1590年。これは確かのようです。秀吉による小田原征伐の時ですね。武蔵千葉氏は小田原北条氏の家臣であったため領地は没収、ここ赤塚城もそのまま使われなくなりました。遺構が豊富という訳ではありませんが、曲輪(くるわ)や堀跡と思われる跡も残され、とにかく中世の山城の雰囲気が漂う場所です。都内、しかも23区内にあるのですから、とても有難い城跡です。梅も見事ですし、来年もまた来れたら・・・と思わせる城跡でした。
ということで、最後までお読み頂きありがとうございます。
----------■赤塚城■----------
築城者:千葉自胤
築城年:1456年
(赤塚氏の城を改修した説もあり)
城 主:武蔵千葉氏
廃 城:1590年
[東京都板橋区赤塚]
昨年も赤塚城について投稿させてもらいました。よかった覗いてみて下さい。
豊島一族の城跡(赤塚城)
暗渠と城跡5(赤塚城)
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2018年03月04日
2018年02月10日
筑土城と太田道灌別館
つわものどもが夢の跡
なかなか遠くへは行けず、今回もまた都内に残る城跡探索です。飯田橋駅から徒歩圏内。早稲田通りを少し入ったところに残る「城のなごり」です。
■筑土城■ つくど
<筑土八幡神社>
はい。目的地到着です。
<石段>
現れたのは勾配の石段。この高低差を活かした城跡ということですね。
<上から>
上から下まで10m前後でしょうか。まぁ昔の武器ならこの程度でも充分。
<八幡宮>
登りきった平らな区画には社殿。左手に道路があり、先は下り坂。社殿は高台の先端に位置しています。
この付近が本丸と思って良いのでしょうね。いわゆる遺構はありませんが、ちょっと見回しただけで、小規模な砦としての「地の利」は感じることができます。
<説明板>神社の説明
城に関する説明はありませんね。別途調べた情報では「関東管領・上杉時氏が砦を築いた・・・」と伝わります。なるほど・・・。で、時氏って誰だろう?更に調べましたが、どうも関東管領に「上杉時氏」という名はなく、謎のようです。
説明板から読み取れるのは、神社の社殿は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の朝興(ともおき)により建てられたということ。この地は、朝興の領地だったのですね。扇谷上杉家ゆかりの地です。では時氏は?関係者、親戚縁者に上杉時氏という人物がいたのでしょうかね?あるいは言い伝わるうちに、字が違ってしまったとか・・・。本日ブログにまとめるため、また調べ直しましたが、ちょっと分かりませんでした。
<筑土城跡>
[新宿区筑土八幡町]
ということで。以上が筑土城のなごり。筑土塁とも呼ばれています。
(つづいてお隣へ)
■太田道灌別館■御殿山城
<御殿山坂>
筑土城跡のすぐそば
<御殿山>
江戸時代、徳川家光が鷹狩りをする際の仮御殿を建てたことからそう呼ばれています。
それよりむかし、あの太田道灌がこの地に館を築いたとされており、どちらかというとそちらの方が興味深いですね。理由は場所、つまり現在の東京の北側で勢力を誇っていた豊島氏との位置関係です。石神井川流域に勢力を拡大していった豊島一族は、やがて道灌によって滅ぼされます。江戸城からみて北側(石神井川方面)の出城としてこの地に道灌が拠点を築くことは、理由として説得力があります(素人の推定ですが)。
太田道灌別館、または御殿山城と呼ばれています。ただ御殿山城と言ってしまうと、以前投稿させて頂いた品川駅南側(御殿山ガーデン付近)の城跡と重複してしまうので、このブログでは太田道灌別館と呼ばせて頂きます。
その太田道灌別館、筑土八幡神社とはこの坂を隔ててお隣同士。近すぎますね。もともと一体の砦だったと思う方が自然です。そう仮定すると、この坂そのものが「堀切り」に見えてきます。そう、「城のなごり」を感じずにはいられません。遺構がないわりに、地形だけでわくわくする瞬間です(そうやって楽しむというふうに受け取って下さい)。
■つわものどもが夢の跡■
江戸城築城者の太田道灌。その出城の堀切だと信じきってこの坂道を下りました。
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なかなか遠くへは行けず、今回もまた都内に残る城跡探索です。飯田橋駅から徒歩圏内。早稲田通りを少し入ったところに残る「城のなごり」です。
■筑土城■ つくど
<筑土八幡神社>
はい。目的地到着です。
<石段>
現れたのは勾配の石段。この高低差を活かした城跡ということですね。
<上から>
上から下まで10m前後でしょうか。まぁ昔の武器ならこの程度でも充分。
<八幡宮>
登りきった平らな区画には社殿。左手に道路があり、先は下り坂。社殿は高台の先端に位置しています。
この付近が本丸と思って良いのでしょうね。いわゆる遺構はありませんが、ちょっと見回しただけで、小規模な砦としての「地の利」は感じることができます。
<説明板>神社の説明
城に関する説明はありませんね。別途調べた情報では「関東管領・上杉時氏が砦を築いた・・・」と伝わります。なるほど・・・。で、時氏って誰だろう?更に調べましたが、どうも関東管領に「上杉時氏」という名はなく、謎のようです。
説明板から読み取れるのは、神社の社殿は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の朝興(ともおき)により建てられたということ。この地は、朝興の領地だったのですね。扇谷上杉家ゆかりの地です。では時氏は?関係者、親戚縁者に上杉時氏という人物がいたのでしょうかね?あるいは言い伝わるうちに、字が違ってしまったとか・・・。本日ブログにまとめるため、また調べ直しましたが、ちょっと分かりませんでした。
<筑土城跡>
[新宿区筑土八幡町]
ということで。以上が筑土城のなごり。筑土塁とも呼ばれています。
(つづいてお隣へ)
■太田道灌別館■御殿山城
<御殿山坂>
筑土城跡のすぐそば
<御殿山>
江戸時代、徳川家光が鷹狩りをする際の仮御殿を建てたことからそう呼ばれています。
それよりむかし、あの太田道灌がこの地に館を築いたとされており、どちらかというとそちらの方が興味深いですね。理由は場所、つまり現在の東京の北側で勢力を誇っていた豊島氏との位置関係です。石神井川流域に勢力を拡大していった豊島一族は、やがて道灌によって滅ぼされます。江戸城からみて北側(石神井川方面)の出城としてこの地に道灌が拠点を築くことは、理由として説得力があります(素人の推定ですが)。
太田道灌別館、または御殿山城と呼ばれています。ただ御殿山城と言ってしまうと、以前投稿させて頂いた品川駅南側(御殿山ガーデン付近)の城跡と重複してしまうので、このブログでは太田道灌別館と呼ばせて頂きます。
その太田道灌別館、筑土八幡神社とはこの坂を隔ててお隣同士。近すぎますね。もともと一体の砦だったと思う方が自然です。そう仮定すると、この坂そのものが「堀切り」に見えてきます。そう、「城のなごり」を感じずにはいられません。遺構がないわりに、地形だけでわくわくする瞬間です(そうやって楽しむというふうに受け取って下さい)。
■つわものどもが夢の跡■
江戸城築城者の太田道灌。その出城の堀切だと信じきってこの坂道を下りました。
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タグ:太田道灌
2018年02月03日
牛込城 上州豪族が移り住んだ丘
つわものどもが夢の跡
東京の神楽坂近くに「戦国時代の城跡」があると聞いて訪問してみました。
<光照寺>こうしょうじ
住所だと新宿区。大都会です。神楽坂近くのここ光照寺とその周辺が、かつて小田原北条氏配下だった牛込氏の城跡と推定されています。
<説明板>
しっかりと記載されていますね。今回の城跡はデータに乏しかったので助かります。
『光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。 牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。1532〜55年に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。 1555年重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、1590年北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊される。』
[現地説明:一部省略]
大胡(おおご)氏の流れをくむ一族ということですね。あの聖剣・上泉信綱(かみいずみのぶつな)で世間に知られる上泉氏も大胡氏の一族という説もありますが、まぁ今回のテーマではないのでこのヘンで。いずれにしても、大胡氏は上州で名の知れた一族です。
その流れをくむ牛込氏。どうやら北条氏康の招きでこの地の領主となったようです。氏康と言えば、上杉謙信や武田信玄と勢力争いをした人物。ということは、当時の上州は小田原北条vs越後上杉の激戦区だったわけですね。牛込氏が自らの所領を捨てるにあたっては、そういった大きな力の激突が背景にあったかも知れません。
<周辺>
遺構はありません。ただ飯田橋駅方面から訪問すると、地形には納得できます。今でこそコンクリの街ですが、昔は低い場所に沼や湿地がひろがる荒れ地だったわけですから、その高台に城が築かれたわけですね。
<高低差>
<住宅地>
これは城跡に到着する前に撮影したものです。住所だとこのヘン・・・でもこれ以上進めない。実はこの向う側がもう城跡なのですが、建物がぎっしりと詰まっていてなかなか近づけませんでした。抜け道とかはないので、訪問される方はしっかり道を調べておくことをお勧めします。
(ふたたび光照寺)
<入口>
たどり着いてホッとしました。こんな感じで迎えてくれます。
説明板にもある通り、徳川の時代に城は廃城となりますが、牛込氏は旗本として徳川氏に仕えました。
<本堂>
屋根に先日の雪がまだ残っています。今年は寒いですね。そんななかのでの訪問。境内に遺構はありませんが、戦国時代の城跡だったことは間違いなく、周辺の地形も納得できたので、なんとなく満足です。
-------■牛込城■-------
築城年:不明(1532〜1555年頃)
築城者:大胡勝行
城 主:牛込氏(=大胡氏)
廃 城:不明(1590年以降)
[東京都新宿区袋町]
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東京の神楽坂近くに「戦国時代の城跡」があると聞いて訪問してみました。
<光照寺>こうしょうじ
住所だと新宿区。大都会です。神楽坂近くのここ光照寺とその周辺が、かつて小田原北条氏配下だった牛込氏の城跡と推定されています。
<説明板>
しっかりと記載されていますね。今回の城跡はデータに乏しかったので助かります。
『光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。 牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。1532〜55年に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。 1555年重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、1590年北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊される。』
[現地説明:一部省略]
大胡(おおご)氏の流れをくむ一族ということですね。あの聖剣・上泉信綱(かみいずみのぶつな)で世間に知られる上泉氏も大胡氏の一族という説もありますが、まぁ今回のテーマではないのでこのヘンで。いずれにしても、大胡氏は上州で名の知れた一族です。
その流れをくむ牛込氏。どうやら北条氏康の招きでこの地の領主となったようです。氏康と言えば、上杉謙信や武田信玄と勢力争いをした人物。ということは、当時の上州は小田原北条vs越後上杉の激戦区だったわけですね。牛込氏が自らの所領を捨てるにあたっては、そういった大きな力の激突が背景にあったかも知れません。
<周辺>
遺構はありません。ただ飯田橋駅方面から訪問すると、地形には納得できます。今でこそコンクリの街ですが、昔は低い場所に沼や湿地がひろがる荒れ地だったわけですから、その高台に城が築かれたわけですね。
<高低差>
<住宅地>
これは城跡に到着する前に撮影したものです。住所だとこのヘン・・・でもこれ以上進めない。実はこの向う側がもう城跡なのですが、建物がぎっしりと詰まっていてなかなか近づけませんでした。抜け道とかはないので、訪問される方はしっかり道を調べておくことをお勧めします。
(ふたたび光照寺)
<入口>
たどり着いてホッとしました。こんな感じで迎えてくれます。
説明板にもある通り、徳川の時代に城は廃城となりますが、牛込氏は旗本として徳川氏に仕えました。
<本堂>
屋根に先日の雪がまだ残っています。今年は寒いですね。そんななかのでの訪問。境内に遺構はありませんが、戦国時代の城跡だったことは間違いなく、周辺の地形も納得できたので、なんとなく満足です。
-------■牛込城■-------
築城年:不明(1532〜1555年頃)
築城者:大胡勝行
城 主:牛込氏(=大胡氏)
廃 城:不明(1590年以降)
[東京都新宿区袋町]
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2018年02月01日
和田倉門 大手町駅すぐ近くの城のなごり
今回は東京の大手町
駅チカで楽しめる和田倉門跡をご紹介します。
<和田倉橋より撮影>
江戸城三十六見附の一つです。木製の橋?復元なので、基本は鉄筋コンクリート製。でもなるべく木の橋を模して造られました。濠や石垣とあいまっていい感じです。
■名の由来■
この門の付近に「和田倉」と呼ばれる蔵があった。これが名の由来です。和田さんの蔵?ではなく、海のことを指す「わた」です。海がワタ?はい。そうらしいです。そういえば、ハングル語では海をパダといいますが、もともと似た発音だったのですかね。まぁ言語的なことはこのへんで。要するに、かつてはワタ、つまり海がこの付近まで入り込んでいたことから、海と蔵で「ワタクラ」と呼ばれるようになった。そういうことですね。はっきりしませんが、この地に蔵があったのはそうとう古い話で、家康が江戸に入った時には既に和田倉という村落があったとも言われています(これには諸説ありで、徳川時代の物資の集積地として「倉」の名がついたとも言われています)。
まぁともかく、実在した「蔵」に由来。「蔵の御門」とも呼ばれていたようです。
■訪問■
訪問というより「ちょっと立ち寄った」という感じでしたが、見応えのある構造に足が止まりました。
<桝形>ますがた
ここは東北の諸大名が工事を担当(1620年改築)。この時に枡形となったようです。今は石垣だけですが、枡形特有のの門も関東大震災(1923年)までは残されていたそうです。残念ですね。このうち渡櫓門は大破のため廃棄されましたが、高麗門の方は解体されてしばらく保存されました。そして、後の大戦で半蔵門が焼失するとそちらに移築。つまり、今の半蔵門はもともとはここ「和田倉門」のものということですね。
<隅石>すみいし
さすが江戸時代の城は立派。石垣のレベルが高い。
<石垣の裏側>
門を通りぬけて内側から撮影。ここいいですね。立ち入りはできませんが、すぐ傍で見ることができます。近くに喫煙所もあるし(私はスモーカーです)。
<割栗石>わりぐりいし
石垣の内側(奥)に小さな石が沢山見えてます。石を積み重ねる時、積み石と盛り土の間に同時に詰め込みます。これは石積みの基本です。表の大きな石を安定させると同時に、内部の雨水などを抜けやすくする効果があります。水を溜め込むと、塁は劣化します。
<石垣の暗渠?>
水を逃がす隙間ですかね?ちょっと内側の構造までは分りません。
<和田倉門の奥>
和田倉門の枡形をL字形に通って抜けると、向こうに江戸城の姿が。桔梗門がある付近ですね。今日はそこまでは行きません。
<和田倉噴水公園>
手前は公園として整備されています。江戸時代、ここには会津藩松平家の上屋敷があったそうです。
<土塁と虹>
土塁を背景に虹が!
<街のオアシス>
和田倉門付近を振り返る
<周辺の石垣>
場所によって石の積み方が異なりますね・・・
たとえば隅石より左(濠側)と右・・・違います。じっくり見ていると、石垣だけでも興味が尽きないです。
皇居をゆっくり見るのもいいですね。ただ、しっかりと見ようとすると結構時間が掛かります。私が今回撮影したのは地下鉄大手町駅から徒歩圏内。特に都営三田線の大手町駅だと出口を出てすぐです(D3出口なら徒歩1分)。
都内で仕事をしている人は、通りかかったらちょっと思い出し、眺めてくれると嬉しいですね。城は遠い存在ではありません。本人が意識していないだけで、かつての城跡でお仕事をされている方、結構多いはずですよ。
<和田倉橋・和田倉門>
ということで、都内の「城のなごり」でした。最後までお読み頂きありがとうございます。
[千代田区皇居外苑3]
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駅チカで楽しめる和田倉門跡をご紹介します。
<和田倉橋より撮影>
江戸城三十六見附の一つです。木製の橋?復元なので、基本は鉄筋コンクリート製。でもなるべく木の橋を模して造られました。濠や石垣とあいまっていい感じです。
■名の由来■
この門の付近に「和田倉」と呼ばれる蔵があった。これが名の由来です。和田さんの蔵?ではなく、海のことを指す「わた」です。海がワタ?はい。そうらしいです。そういえば、ハングル語では海をパダといいますが、もともと似た発音だったのですかね。まぁ言語的なことはこのへんで。要するに、かつてはワタ、つまり海がこの付近まで入り込んでいたことから、海と蔵で「ワタクラ」と呼ばれるようになった。そういうことですね。はっきりしませんが、この地に蔵があったのはそうとう古い話で、家康が江戸に入った時には既に和田倉という村落があったとも言われています(これには諸説ありで、徳川時代の物資の集積地として「倉」の名がついたとも言われています)。
まぁともかく、実在した「蔵」に由来。「蔵の御門」とも呼ばれていたようです。
■訪問■
訪問というより「ちょっと立ち寄った」という感じでしたが、見応えのある構造に足が止まりました。
<桝形>ますがた
ここは東北の諸大名が工事を担当(1620年改築)。この時に枡形となったようです。今は石垣だけですが、枡形特有のの門も関東大震災(1923年)までは残されていたそうです。残念ですね。このうち渡櫓門は大破のため廃棄されましたが、高麗門の方は解体されてしばらく保存されました。そして、後の大戦で半蔵門が焼失するとそちらに移築。つまり、今の半蔵門はもともとはここ「和田倉門」のものということですね。
<隅石>すみいし
さすが江戸時代の城は立派。石垣のレベルが高い。
<石垣の裏側>
門を通りぬけて内側から撮影。ここいいですね。立ち入りはできませんが、すぐ傍で見ることができます。近くに喫煙所もあるし(私はスモーカーです)。
<割栗石>わりぐりいし
石垣の内側(奥)に小さな石が沢山見えてます。石を積み重ねる時、積み石と盛り土の間に同時に詰め込みます。これは石積みの基本です。表の大きな石を安定させると同時に、内部の雨水などを抜けやすくする効果があります。水を溜め込むと、塁は劣化します。
<石垣の暗渠?>
水を逃がす隙間ですかね?ちょっと内側の構造までは分りません。
<和田倉門の奥>
和田倉門の枡形をL字形に通って抜けると、向こうに江戸城の姿が。桔梗門がある付近ですね。今日はそこまでは行きません。
<和田倉噴水公園>
手前は公園として整備されています。江戸時代、ここには会津藩松平家の上屋敷があったそうです。
<土塁と虹>
土塁を背景に虹が!
<街のオアシス>
和田倉門付近を振り返る
<周辺の石垣>
場所によって石の積み方が異なりますね・・・
たとえば隅石より左(濠側)と右・・・違います。じっくり見ていると、石垣だけでも興味が尽きないです。
皇居をゆっくり見るのもいいですね。ただ、しっかりと見ようとすると結構時間が掛かります。私が今回撮影したのは地下鉄大手町駅から徒歩圏内。特に都営三田線の大手町駅だと出口を出てすぐです(D3出口なら徒歩1分)。
都内で仕事をしている人は、通りかかったらちょっと思い出し、眺めてくれると嬉しいですね。城は遠い存在ではありません。本人が意識していないだけで、かつての城跡でお仕事をされている方、結構多いはずですよ。
<和田倉橋・和田倉門>
ということで、都内の「城のなごり」でした。最後までお読み頂きありがとうございます。
[千代田区皇居外苑3]
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2017年12月12日
濠の出島の枡形門(江戸城桜田門)
つわものどもが夢の跡
今回はとても有名な江戸城の門についてです。
■桜田門■
<桜田門>
いわゆる「桜田門外の変」で広く世間に知られている名前ですね。その実物。重要文化財です。
正式には外桜田門といいます。更に奥の通称「桔梗門(ききょうもん)」が内桜田門。まぁ普通に「桜田門」といった場合は、この「外桜田門」のことです。
<現地案内板>
[説明文]
『現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました。建築されたのは寛永年間(1624〜44)とされ、現存する門は寛文三年(1663)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。』
[後半の一部省略]
だ、そうです。かつては小田原街道の始点として「小田原口」とも呼ばれていたとのこと。徳川以前、江戸城は小田原北条氏の支配下でしたからね。家康の城となり、この出入り口には枡形構造の門が設けられました。
ところで、上の説明に「二重構造」とか「外桝形」ってどういうことでしょうか。
■桜田門の構造■
<高麗門>こうらいもん
最初の門です。死角を減らすために屋根は小さめ。ここを突破するとどうなるでしょうか。
<枡形>ますがた
門をくぐると「四角い広場」のようなスペースに出ます(手前の部分。撮影が濠と石垣メインとなってしまってすみません)。ここが枡形。マスのように四角い形だからそう呼びます。
さて、入ったはいいが目の前は水堀だし、他は壁、そして次の門により閉ざされています。これが「枡形」の恐ろしいところ。飛び込んだはいいが動きは制限され、城兵から狙い撃ちにされる空間。罠と思っても良いです。
攻め手も理解していると思うので、決死の覚悟で飛び込むしかありません。あるいは、門の造りを見て不利益を見積もり、もうちょっと攻め安い侵入口を探すかですね。
<現地地図>
赤い丸が現在位置になります。半島のように濠に向かって飛び出ている場所。つまり橋を渡り、ようやくたどり着ける場所です。その入り口の門をくぐって最初に目に飛び込んできた濠は、江戸城の巨大な水濠の一部。つまり濠の中の出島みたいな所に、この桜田門がある。まぁそんな感じになります。
<渡櫓門>わたりやぐらもん
さて、次の門が行く手を拒みます。ご覧の通りの門。実際には門は閉ざされていると思って見て下さい。立ち往生している間に、容赦なく上から狙われますね。門の上にこうした櫓を設けるのが櫓門(やぐらもん)。二階門ともいいます。「渡り」ですが、石垣との間を渡すように門櫓を設ける場合に使う言葉です。
最初の門。そしてこの頑丈そうな二つ目の門。つまり枡形の表と内側に築かれる二つの門ですね。このセットメニューが「枡形門」です。二重構造の門です。ここ桜田門に限らず、最初の門は低層でシンプル、二つ目の門は櫓門となっているのが一般的です。
さて、現在のこの位置。最初の門はくぐったものの、まだ城の敷地の「外」という状態です。このように、城の外側に設ける枡形を「外枡形」といいます。逆に枡形が城内の敷地の一部となっている場合は内枡形です。まぁ役割は同じ。構造上の分類ですね。
<現地案内板>
周辺を含めるとこんな構造になります。
一つの門を突破するだけでも大変なこと。行く手にはまだまだ難所が待ち受けます。攻める側にとって、いかに厄介かを感じてもらえれば嬉しいです。守りを固めるとは、その厄介さを造り出すことに他なりません。
[千代田区皇居外苑]
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今回はとても有名な江戸城の門についてです。
■桜田門■
<桜田門>
いわゆる「桜田門外の変」で広く世間に知られている名前ですね。その実物。重要文化財です。
正式には外桜田門といいます。更に奥の通称「桔梗門(ききょうもん)」が内桜田門。まぁ普通に「桜田門」といった場合は、この「外桜田門」のことです。
<現地案内板>
[説明文]
『現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました。建築されたのは寛永年間(1624〜44)とされ、現存する門は寛文三年(1663)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。』
[後半の一部省略]
だ、そうです。かつては小田原街道の始点として「小田原口」とも呼ばれていたとのこと。徳川以前、江戸城は小田原北条氏の支配下でしたからね。家康の城となり、この出入り口には枡形構造の門が設けられました。
ところで、上の説明に「二重構造」とか「外桝形」ってどういうことでしょうか。
■桜田門の構造■
<高麗門>こうらいもん
最初の門です。死角を減らすために屋根は小さめ。ここを突破するとどうなるでしょうか。
<枡形>ますがた
門をくぐると「四角い広場」のようなスペースに出ます(手前の部分。撮影が濠と石垣メインとなってしまってすみません)。ここが枡形。マスのように四角い形だからそう呼びます。
さて、入ったはいいが目の前は水堀だし、他は壁、そして次の門により閉ざされています。これが「枡形」の恐ろしいところ。飛び込んだはいいが動きは制限され、城兵から狙い撃ちにされる空間。罠と思っても良いです。
攻め手も理解していると思うので、決死の覚悟で飛び込むしかありません。あるいは、門の造りを見て不利益を見積もり、もうちょっと攻め安い侵入口を探すかですね。
<現地地図>
赤い丸が現在位置になります。半島のように濠に向かって飛び出ている場所。つまり橋を渡り、ようやくたどり着ける場所です。その入り口の門をくぐって最初に目に飛び込んできた濠は、江戸城の巨大な水濠の一部。つまり濠の中の出島みたいな所に、この桜田門がある。まぁそんな感じになります。
<渡櫓門>わたりやぐらもん
さて、次の門が行く手を拒みます。ご覧の通りの門。実際には門は閉ざされていると思って見て下さい。立ち往生している間に、容赦なく上から狙われますね。門の上にこうした櫓を設けるのが櫓門(やぐらもん)。二階門ともいいます。「渡り」ですが、石垣との間を渡すように門櫓を設ける場合に使う言葉です。
最初の門。そしてこの頑丈そうな二つ目の門。つまり枡形の表と内側に築かれる二つの門ですね。このセットメニューが「枡形門」です。二重構造の門です。ここ桜田門に限らず、最初の門は低層でシンプル、二つ目の門は櫓門となっているのが一般的です。
さて、現在のこの位置。最初の門はくぐったものの、まだ城の敷地の「外」という状態です。このように、城の外側に設ける枡形を「外枡形」といいます。逆に枡形が城内の敷地の一部となっている場合は内枡形です。まぁ役割は同じ。構造上の分類ですね。
<現地案内板>
周辺を含めるとこんな構造になります。
一つの門を突破するだけでも大変なこと。行く手にはまだまだ難所が待ち受けます。攻める側にとって、いかに厄介かを感じてもらえれば嬉しいです。守りを固めるとは、その厄介さを造り出すことに他なりません。
[千代田区皇居外苑]
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2017年11月25日
日比谷門のなごり
■江戸城の見附■
〈日比谷見附跡〉
江戸城三十六見附の一つ「日比谷見附」の跡です。もともとは高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら:通路的な機能)・番所という構造でしたが明治初期に撤去(勿体ない!)。それらを取り囲む石垣だけが残されました。枡形門は伊達政宗が築いたそうです。どんな立派な見附だったのでしょうね。この石垣は言わばそのなごり。素通りする方が多いですが、たまには立ち止まって眺めて欲しいですね。
■見附の管轄■
見附とは見張り番を置いている場所。まぁ警備員が待機している主要な門ということになりますね。いまの世の中ですと警備会社さんに委託なんて方法もありますが、この江戸城の警備、全部徳川家の身内で管轄していたのでしょうか?三十六見附と言っても、実際にはもっと多かったようです。結構大変ですね。
まず城の内側というか、本丸近い方。これはやはり信用されている譜代大名が担当したそうです。具体的には大手門・桔梗門など。これに対し外濠付近の門は外様大名。桜田門や今回ご紹介の日比谷門などです。イレギュラーなケース、旗本の扱いなどは除いた「大筋」の話です。
■堀のなごり■
<心字池>
石垣の西側の「心字池」。これは水堀のなごり。構造として城の内側にあたるので、内堀ですね。いい感じです。
見附跡のある日比谷公園、もともとは名だたる藩の上屋敷が立ち並ぶ場所でした。明治になって更地となり、官庁の建設という案もあったそうですが、地盤の関係で公園となりました。まぁこの付近、ずっと昔は海(入江)でしたからね。公園造成で堀を埋める際に一部を埋め残し、池として整備したようです。すぐそばの江戸城日比谷濠もいいですが、ひっそりと残された水堀のなごり。別な趣があります。
いつもいつも慌ただしく通り過ぎないで、たまには立ち止まってみるのも良いかもしれません。
[東京都千代田区日比谷公園]
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〈日比谷見附跡〉
江戸城三十六見附の一つ「日比谷見附」の跡です。もともとは高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら:通路的な機能)・番所という構造でしたが明治初期に撤去(勿体ない!)。それらを取り囲む石垣だけが残されました。枡形門は伊達政宗が築いたそうです。どんな立派な見附だったのでしょうね。この石垣は言わばそのなごり。素通りする方が多いですが、たまには立ち止まって眺めて欲しいですね。
■見附の管轄■
見附とは見張り番を置いている場所。まぁ警備員が待機している主要な門ということになりますね。いまの世の中ですと警備会社さんに委託なんて方法もありますが、この江戸城の警備、全部徳川家の身内で管轄していたのでしょうか?三十六見附と言っても、実際にはもっと多かったようです。結構大変ですね。
まず城の内側というか、本丸近い方。これはやはり信用されている譜代大名が担当したそうです。具体的には大手門・桔梗門など。これに対し外濠付近の門は外様大名。桜田門や今回ご紹介の日比谷門などです。イレギュラーなケース、旗本の扱いなどは除いた「大筋」の話です。
■堀のなごり■
<心字池>
石垣の西側の「心字池」。これは水堀のなごり。構造として城の内側にあたるので、内堀ですね。いい感じです。
見附跡のある日比谷公園、もともとは名だたる藩の上屋敷が立ち並ぶ場所でした。明治になって更地となり、官庁の建設という案もあったそうですが、地盤の関係で公園となりました。まぁこの付近、ずっと昔は海(入江)でしたからね。公園造成で堀を埋める際に一部を埋め残し、池として整備したようです。すぐそばの江戸城日比谷濠もいいですが、ひっそりと残された水堀のなごり。別な趣があります。
いつもいつも慌ただしく通り過ぎないで、たまには立ち止まってみるのも良いかもしれません。
[東京都千代田区日比谷公園]
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2017年11月15日
海の出城・親子二代の夢の跡 (浜離宮)
つわものどもが夢の跡
いわゆる「浜離宮」を訪問しました。
<浜離宮>
浜離宮の入口です。徳川将軍家の庭園だったことで有名ですね。前から存在は知っていたものの、あまり庭園には興味が無く、結果としてご縁もありませんでした。今回は「江戸城の一部?」などという勝手な思い込みから訪問。何となく遠く感じていましたが、新橋駅から僅か約四百メートル程度です。来ようと思えばいつでも来れる場所でした。正式には「浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)」。宮内省管轄を経て、現在は東京都が管理しています。
<浜離宮と橋>
ちょっと大げさですが、海を渡る橋です。
<大手門橋>
橋の正面に到着。まっすぐ進むと大手門が待っています。
<大手門>
立派過ぎる!今は石垣だけですが、当時は櫓門が設けられていた訳ですね。庭で片づけるにはあまりにも軍事的な要素が強すぎる(などと感じながら探索開始)。入口はしっかりと枡形虎口になっています。ほとんど「城」です。案内図を見ても、園内の造りが城の縄張りに見えてしまいます・・・(整備の履歴まで調べてないので、現地での個人的な想像です)。
まぁ後日調べた感じでは、やはり庭園ということで良いと思います。ただ「出城」としての役割を充分期待されていた庭園のようです。海路で江戸に迫ろうとする外敵に備えて。せっかく訪問したので、その完成に至までの経緯をまとめてみました。
■甲府藩屋敷■松平綱重屋敷
始まりは1654年。もともと鷹狩りで使われていたこの地に、甲斐甲府藩主・松平綱重が埋め立て工事を施し、甲府藩の屋敷としました。「甲府浜屋敷」と呼ばれたそうです。
なんで甲府藩?
松平綱重は徳川家光の三男。独立して甲府藩主となったものの、将軍家の身内として江戸で暮らしていたそうです。それなら納得しますね。
■綱重とその息子■
綱重の兄は第4代将軍・家綱、弟は5代将軍・綱吉。さすが徳川家光の息子たち。豪華な兄弟ですね。ただ綱重本人は将軍になる機会には恵まれず、35歳で亡くなりました。若すぎますね。将軍になれたかどうかは別として、幕府内で一定の役割を担えたはずの人物でした。
さて、弟の綱吉。歴代将軍の中でも有名な方ですね。その名を聞けば、まず「生類憐れみの令」を連想する人が多いのではないでしょうか。それと比較してあまり知られていないのは、男子には恵まれなかったこと。実は、兄の家綱も同じでした。
あれ・・・では6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)ってどなたの息子さんでしたっけ?
家宣は将軍にはなれなかった綱重の長男です。つまり甲府藩主の長男。元の名は綱豊(つなとよ)といい、早死にした父に代わり17歳で家督を継承。やがて「家宣」と改名、綱吉の養子を経て将軍となりました。
■浜御殿■家宣による改修
話を浜離宮に戻します。当初は松平綱重により築かれた甲府藩の屋敷。やがてその実子の家宜により改修され、将軍家の別荘となりました。「浜御殿」と呼ばれていたそうです。埋め立てから考えると、親子二代の工事で完成したわけですね。
<正面>
<裏門>
裏門(中の御門)も形状は枡形門。規模は小さくなりますが、景色としてはこっちの方がいい雰囲気です(個人的に)。
<堀?>
水堀ではなく海の一部ですね。
最後に
この庭園が出城として注目されるのはそうとう後のお話。ペリー来航後、護岸に砲台が築かれたそうです。
■訪問
浜離宮恩賜庭園
[中央区浜離宮庭園]1-1
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いわゆる「浜離宮」を訪問しました。
<浜離宮>
浜離宮の入口です。徳川将軍家の庭園だったことで有名ですね。前から存在は知っていたものの、あまり庭園には興味が無く、結果としてご縁もありませんでした。今回は「江戸城の一部?」などという勝手な思い込みから訪問。何となく遠く感じていましたが、新橋駅から僅か約四百メートル程度です。来ようと思えばいつでも来れる場所でした。正式には「浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)」。宮内省管轄を経て、現在は東京都が管理しています。
<浜離宮と橋>
ちょっと大げさですが、海を渡る橋です。
<大手門橋>
橋の正面に到着。まっすぐ進むと大手門が待っています。
<大手門>
立派過ぎる!今は石垣だけですが、当時は櫓門が設けられていた訳ですね。庭で片づけるにはあまりにも軍事的な要素が強すぎる(などと感じながら探索開始)。入口はしっかりと枡形虎口になっています。ほとんど「城」です。案内図を見ても、園内の造りが城の縄張りに見えてしまいます・・・(整備の履歴まで調べてないので、現地での個人的な想像です)。
まぁ後日調べた感じでは、やはり庭園ということで良いと思います。ただ「出城」としての役割を充分期待されていた庭園のようです。海路で江戸に迫ろうとする外敵に備えて。せっかく訪問したので、その完成に至までの経緯をまとめてみました。
■甲府藩屋敷■松平綱重屋敷
始まりは1654年。もともと鷹狩りで使われていたこの地に、甲斐甲府藩主・松平綱重が埋め立て工事を施し、甲府藩の屋敷としました。「甲府浜屋敷」と呼ばれたそうです。
なんで甲府藩?
松平綱重は徳川家光の三男。独立して甲府藩主となったものの、将軍家の身内として江戸で暮らしていたそうです。それなら納得しますね。
■綱重とその息子■
綱重の兄は第4代将軍・家綱、弟は5代将軍・綱吉。さすが徳川家光の息子たち。豪華な兄弟ですね。ただ綱重本人は将軍になる機会には恵まれず、35歳で亡くなりました。若すぎますね。将軍になれたかどうかは別として、幕府内で一定の役割を担えたはずの人物でした。
さて、弟の綱吉。歴代将軍の中でも有名な方ですね。その名を聞けば、まず「生類憐れみの令」を連想する人が多いのではないでしょうか。それと比較してあまり知られていないのは、男子には恵まれなかったこと。実は、兄の家綱も同じでした。
あれ・・・では6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)ってどなたの息子さんでしたっけ?
家宣は将軍にはなれなかった綱重の長男です。つまり甲府藩主の長男。元の名は綱豊(つなとよ)といい、早死にした父に代わり17歳で家督を継承。やがて「家宣」と改名、綱吉の養子を経て将軍となりました。
■浜御殿■家宣による改修
話を浜離宮に戻します。当初は松平綱重により築かれた甲府藩の屋敷。やがてその実子の家宜により改修され、将軍家の別荘となりました。「浜御殿」と呼ばれていたそうです。埋め立てから考えると、親子二代の工事で完成したわけですね。
<正面>
<裏門>
裏門(中の御門)も形状は枡形門。規模は小さくなりますが、景色としてはこっちの方がいい雰囲気です(個人的に)。
<堀?>
水堀ではなく海の一部ですね。
最後に
この庭園が出城として注目されるのはそうとう後のお話。ペリー来航後、護岸に砲台が築かれたそうです。
■訪問
浜離宮恩賜庭園
[中央区浜離宮庭園]1-1
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2017年11月10日
成宗城 杉並区にも中世の城
久しぶりに都内の城跡を訪問しました。場所は杉並区。11月上旬の晴れの日、情報は少ないながらウォーキングも兼ねて探索しました。
■現地訪問■
〈善福寺川〉
善福寺川(ぜんぷくじがわ)。しっかりとコンクリで固められてますが、同じ区内の善福寺池に源を発する自然の川。中野区で神田川と合流します。城探索というより、ほぼ川沿い散歩。整備され、とてもきれいな場所です。
〈成宗(なりむね)城跡推定地〉北側
城跡到着。場所は蛇行する善福寺川を見下ろす高台。そもそも杉並区の大半は武蔵野台地上にありますので、低地となる川沿いにはここと類似した地形が多いような気がします。推定地は現在は共立女子学園の敷地となっています。土塁などがあると良いのですが、さすがに入るわけにはいきません。裏手に回りました。
<周辺との高低差>
共立女子学園の敷地と道の高低差
〈敷地〉南側から
坂を下って敷地を撮影(道路から見えてる景色)。敷地内の段差が曲輪跡なら面白いですね。ただまぁ大学の敷地として造成したものでしょう。それでも、高低差だけはわかります。あの丘の上に城が築かれ、城の主は川およびその先の街道を見渡していたのでしょう。今では建物が多くて視界も開けませんので、傾斜を体感しながら更に善福寺川へ向かって移動してみます。
〈暗渠〉あんきょ
移動途中のおまけです。独特の車止め。暗渠ですね。姿は見えませんが、この下に水路が埋設されています。さてさて、位置的には「城の堀」として理想的です。かつての堀跡がやがて水路として使われるようになった。なんて発見だと嬉しいのですが、この位置からもう少し坂を下れば「天然の堀」が待っていますので、ちょっと状況としてあり得ませんかね。
〈更に高低差〉
まもなく冒頭の画像・善福寺川に到着。要所要所で高低差を目の当たりにします。
成宗城、分類すると山城(平山城)で良いのかと思えます。とは言っても、坂はかなりなだらか。むかしむかし、川が氾濫すると広範囲に影響があったのかもしれませんね。高台に対して、低地は湿地のような状態だったのでしょうか。
〈蛇行する善福寺川〉
川は突き出た台地に沿っています。城にとって、これは天然堀の役割を果たしていました。三方を川に囲まれた山城。これが成宗城の「地の利」ということになりますね。川沿いの低地が湿地のような状態だったすれば、城の守りとしてはなおさら好都合ですね(推定で言ってます)。
■城が存在したのは明らか■
現在の杉並区は、中野区や練馬区とともにかつて太田道灌と豊島氏が争ったエリアです。よって陣城なども含め、あちらこちらに軍事的な拠点が築かれていても不思議ではありません。事実、道灌にまつわる伝承を持つ史跡は結構あります。ただ「城跡」と言われる場所はあまりないですね。特に文献で確認できているのはここだけ(正確にはこの付近だけ)。つまり杉並区において、存在の裏付けがある唯一の「城跡」が今回訪問の成宗城ということになります。
■誰の城?■
さて、「どうも城があった」ということは明らかなようなのですが、誰の城なのか?文献により異なります。中野左兵衛門之尉成宗という人物が、鎌倉街道を見張るために砦を構えたという記録があり、これが有力だと思われます。ほかに、先述の太田道灌が家臣に守らせたという話もあり興味深いのですが、あまり細かい情報は得られませんでした。
<屋倉橋>
麓の橋です。「やぐら」といえば物見のための櫓(やぐら)を想像しますが、この橋の名はその名残りでしょうか?確証がないほど、想像力が活発になります。杉並区の成宗城、地形に納得するものの遺構は無く、築城時期や役割も曖昧なままなので、この橋の名を「城のなごり」と信じることにして探索を終了させました。
[杉並区成田西]四丁目
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■現地訪問■
〈善福寺川〉
善福寺川(ぜんぷくじがわ)。しっかりとコンクリで固められてますが、同じ区内の善福寺池に源を発する自然の川。中野区で神田川と合流します。城探索というより、ほぼ川沿い散歩。整備され、とてもきれいな場所です。
〈成宗(なりむね)城跡推定地〉北側
城跡到着。場所は蛇行する善福寺川を見下ろす高台。そもそも杉並区の大半は武蔵野台地上にありますので、低地となる川沿いにはここと類似した地形が多いような気がします。推定地は現在は共立女子学園の敷地となっています。土塁などがあると良いのですが、さすがに入るわけにはいきません。裏手に回りました。
<周辺との高低差>
共立女子学園の敷地と道の高低差
〈敷地〉南側から
坂を下って敷地を撮影(道路から見えてる景色)。敷地内の段差が曲輪跡なら面白いですね。ただまぁ大学の敷地として造成したものでしょう。それでも、高低差だけはわかります。あの丘の上に城が築かれ、城の主は川およびその先の街道を見渡していたのでしょう。今では建物が多くて視界も開けませんので、傾斜を体感しながら更に善福寺川へ向かって移動してみます。
〈暗渠〉あんきょ
移動途中のおまけです。独特の車止め。暗渠ですね。姿は見えませんが、この下に水路が埋設されています。さてさて、位置的には「城の堀」として理想的です。かつての堀跡がやがて水路として使われるようになった。なんて発見だと嬉しいのですが、この位置からもう少し坂を下れば「天然の堀」が待っていますので、ちょっと状況としてあり得ませんかね。
〈更に高低差〉
まもなく冒頭の画像・善福寺川に到着。要所要所で高低差を目の当たりにします。
成宗城、分類すると山城(平山城)で良いのかと思えます。とは言っても、坂はかなりなだらか。むかしむかし、川が氾濫すると広範囲に影響があったのかもしれませんね。高台に対して、低地は湿地のような状態だったのでしょうか。
〈蛇行する善福寺川〉
川は突き出た台地に沿っています。城にとって、これは天然堀の役割を果たしていました。三方を川に囲まれた山城。これが成宗城の「地の利」ということになりますね。川沿いの低地が湿地のような状態だったすれば、城の守りとしてはなおさら好都合ですね(推定で言ってます)。
■城が存在したのは明らか■
現在の杉並区は、中野区や練馬区とともにかつて太田道灌と豊島氏が争ったエリアです。よって陣城なども含め、あちらこちらに軍事的な拠点が築かれていても不思議ではありません。事実、道灌にまつわる伝承を持つ史跡は結構あります。ただ「城跡」と言われる場所はあまりないですね。特に文献で確認できているのはここだけ(正確にはこの付近だけ)。つまり杉並区において、存在の裏付けがある唯一の「城跡」が今回訪問の成宗城ということになります。
■誰の城?■
さて、「どうも城があった」ということは明らかなようなのですが、誰の城なのか?文献により異なります。中野左兵衛門之尉成宗という人物が、鎌倉街道を見張るために砦を構えたという記録があり、これが有力だと思われます。ほかに、先述の太田道灌が家臣に守らせたという話もあり興味深いのですが、あまり細かい情報は得られませんでした。
<屋倉橋>
麓の橋です。「やぐら」といえば物見のための櫓(やぐら)を想像しますが、この橋の名はその名残りでしょうか?確証がないほど、想像力が活発になります。杉並区の成宗城、地形に納得するものの遺構は無く、築城時期や役割も曖昧なままなので、この橋の名を「城のなごり」と信じることにして探索を終了させました。
[杉並区成田西]四丁目
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