2017年11月25日

日比谷門のなごり

■江戸城の見附■

〈日比谷見附跡〉
shirononagori hibiya (2).jpg
江戸城三十六見附の一つ「日比谷見附」の跡です。もともとは高麗門・枡形・渡櫓(わたりやぐら:通路的な機能)・番所という構造でしたが明治初期に撤去(勿体ない!)。それらを取り囲む石垣だけが残されました。枡形門は伊達政宗が築いたそうです。どんな立派な見附だったのでしょうね。この石垣は言わばそのなごり。素通りする方が多いですが、たまには立ち止まって眺めて欲しいですね。

■見附の管轄■
見附とは見張り番を置いている場所。まぁ警備員が待機している主要な門ということになりますね。いまの世の中ですと警備会社さんに委託なんて方法もありますが、この江戸城の警備、全部徳川家の身内で管轄していたのでしょうか?三十六見附と言っても、実際にはもっと多かったようです。結構大変ですね。

まず城の内側というか、本丸近い方。これはやはり信用されている譜代大名が担当したそうです。具体的には大手門・桔梗門など。これに対し外濠付近の門は外様大名。桜田門や今回ご紹介の日比谷門などです。イレギュラーなケース、旗本の扱いなどは除いた「大筋」の話です。

■堀のなごり■
<心字池>
shirononagori hibiya (1).jpg
石垣の西側の「心字池」。これは水堀のなごり。構造として城の内側にあたるので、内堀ですね。いい感じです。

見附跡のある日比谷公園、もともとは名だたる藩の上屋敷が立ち並ぶ場所でした。明治になって更地となり、官庁の建設という案もあったそうですが、地盤の関係で公園となりました。まぁこの付近、ずっと昔は海(入江)でしたからね。公園造成で堀を埋める際に一部を埋め残し、池として整備したようです。すぐそばの江戸城日比谷濠もいいですが、ひっそりと残された水堀のなごり。別な趣があります。

いつもいつも慌ただしく通り過ぎないで、たまには立ち止まってみるのも良いかもしれません。

[東京都千代田区日比谷公園]


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2017年11月15日

海の出城・親子二代の夢の跡 (浜離宮)

つわものどもが夢の跡
いわゆる「浜離宮」を訪問しました。

<浜離宮>
shirononagori hamarikyu (1).JPG
浜離宮の入口です。徳川将軍家の庭園だったことで有名ですね。前から存在は知っていたものの、あまり庭園には興味が無く、結果としてご縁もありませんでした。今回は「江戸城の一部?」などという勝手な思い込みから訪問。何となく遠く感じていましたが、新橋駅から僅か約四百メートル程度です。来ようと思えばいつでも来れる場所でした。正式には「浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)」。宮内省管轄を経て、現在は東京都が管理しています。

<浜離宮と橋>
shirononagori hamarikyu (5).JPG
ちょっと大げさですが、海を渡る橋です。

<大手門橋>
shirononagori hamarikyu (6).JPG
橋の正面に到着。まっすぐ進むと大手門が待っています。

<大手門>
shirononagori hamarikyu (7).JPG
立派過ぎる!今は石垣だけですが、当時は櫓門が設けられていた訳ですね。庭で片づけるにはあまりにも軍事的な要素が強すぎる(などと感じながら探索開始)。入口はしっかりと枡形虎口になっています。ほとんど「城」です。案内図を見ても、園内の造りが城の縄張りに見えてしまいます・・・(整備の履歴まで調べてないので、現地での個人的な想像です)。

まぁ後日調べた感じでは、やはり庭園ということで良いと思います。ただ「出城」としての役割を充分期待されていた庭園のようです。海路で江戸に迫ろうとする外敵に備えて。せっかく訪問したので、その完成に至までの経緯をまとめてみました。

■甲府藩屋敷■松平綱重屋敷
始まりは1654年。もともと鷹狩りで使われていたこの地に、甲斐甲府藩主・松平綱重が埋め立て工事を施し、甲府藩の屋敷としました。「甲府浜屋敷」と呼ばれたそうです。

なんで甲府藩?

松平綱重は徳川家光の三男。独立して甲府藩主となったものの、将軍家の身内として江戸で暮らしていたそうです。それなら納得しますね。

■綱重とその息子■
綱重の兄は第4代将軍・家綱、弟は5代将軍・綱吉。さすが徳川家光の息子たち。豪華な兄弟ですね。ただ綱重本人は将軍になる機会には恵まれず、35歳で亡くなりました。若すぎますね。将軍になれたかどうかは別として、幕府内で一定の役割を担えたはずの人物でした。

さて、弟の綱吉。歴代将軍の中でも有名な方ですね。その名を聞けば、まず「生類憐れみの令」を連想する人が多いのではないでしょうか。それと比較してあまり知られていないのは、男子には恵まれなかったこと。実は、兄の家綱も同じでした。

あれ・・・では6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)ってどなたの息子さんでしたっけ?

家宣は将軍にはなれなかった綱重の長男です。つまり甲府藩主の長男。元の名は綱豊(つなとよ)といい、早死にした父に代わり17歳で家督を継承。やがて「家宣」と改名綱吉の養子を経て将軍となりました。


■浜御殿■家宣による改修
話を浜離宮に戻します。当初は松平綱重により築かれた甲府藩の屋敷。やがてその実子の家宜により改修され、将軍家の別荘となりました。「浜御殿」と呼ばれていたそうです。埋め立てから考えると、親子二代の工事で完成したわけですね。

<正面>
shirononagori hamarikyu (2).JPG

<裏門>
shirononagori hamarikyu (4).JPG
裏門(中の御門)も形状は枡形門。規模は小さくなりますが、景色としてはこっちの方がいい雰囲気です(個人的に)。

<堀?>
shirononagori hamarikyu (3).JPG
水堀ではなく海の一部ですね。


最後に
この庭園が出城として注目されるのはそうとう後のお話。ペリー来航後、護岸に砲台が築かれたそうです。

■訪問
浜離宮恩賜庭園
[中央区浜離宮庭園]1-1


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2017年11月10日

成宗城 杉並区にも中世の城

久しぶりに都内の城跡を訪問しました。場所は杉並区。11月上旬の晴れの日、情報は少ないながらウォーキングも兼ねて探索しました。

■現地訪問■

〈善福寺川〉
shirononagori suginsmi (6).JPG
善福寺川(ぜんぷくじがわ)。しっかりとコンクリで固められてますが、同じ区内の善福寺池に源を発する自然の川。中野区で神田川と合流します。城探索というより、ほぼ川沿い散歩。整備され、とてもきれいな場所です。

〈成宗(なりむね)城跡推定地〉北側
shirononagori suginsmi (3).JPG
城跡到着。場所は蛇行する善福寺川を見下ろす高台。そもそも杉並区の大半は武蔵野台地上にありますので、低地となる川沿いにはここと類似した地形が多いような気がします。推定地は現在は共立女子学園の敷地となっています。土塁などがあると良いのですが、さすがに入るわけにはいきません。裏手に回りました。

<周辺との高低差>
shirononagori suginsmi (2).JPG
共立女子学園の敷地と道の高低差

〈敷地〉南側から
shirononagori suginsmi (1).JPG
坂を下って敷地を撮影(道路から見えてる景色)。敷地内の段差が曲輪跡なら面白いですね。ただまぁ大学の敷地として造成したものでしょう。それでも、高低差だけはわかります。あの丘の上に城が築かれ、城の主は川およびその先の街道を見渡していたのでしょう。今では建物が多くて視界も開けませんので、傾斜を体感しながら更に善福寺川へ向かって移動してみます。

〈暗渠〉あんきょ
shirononagori suginsmi (5).JPG
移動途中のおまけです。独特の車止め。暗渠ですね。姿は見えませんが、この下に水路が埋設されています。さてさて、位置的には「城の堀」として理想的です。かつての堀跡がやがて水路として使われるようになった。なんて発見だと嬉しいのですが、この位置からもう少し坂を下れば「天然の堀」が待っていますので、ちょっと状況としてあり得ませんかね。

〈更に高低差〉
shirononagori suginsmi (9).JPG
まもなく冒頭の画像・善福寺川に到着。要所要所で高低差を目の当たりにします。

成宗城、分類すると山城(平山城)で良いのかと思えます。とは言っても、坂はかなりなだらか。むかしむかし、川が氾濫すると広範囲に影響があったのかもしれませんね。高台に対して、低地は湿地のような状態だったのでしょうか。

〈蛇行する善福寺川〉
shirononagori suginsmi (7).JPG
川は突き出た台地に沿っています。城にとって、これは天然堀の役割を果たしていました。三方を川に囲まれた山城。これが成宗城の「地の利」ということになりますね。川沿いの低地が湿地のような状態だったすれば、城の守りとしてはなおさら好都合ですね(推定で言ってます)。


■城が存在したのは明らか■
現在の杉並区は、中野区や練馬区とともにかつて太田道灌と豊島氏が争ったエリアです。よって陣城なども含め、あちらこちらに軍事的な拠点が築かれていても不思議ではありません。事実、道灌にまつわる伝承を持つ史跡は結構あります。ただ「城跡」と言われる場所はあまりないですね。特に文献で確認できているのはここだけ(正確にはこの付近だけ)。つまり杉並区において、存在の裏付けがある唯一の「城跡」が今回訪問の成宗城ということになります。

■誰の城?■
さて、「どうも城があった」ということは明らかなようなのですが、誰の城なのか?文献により異なります。中野左兵衛門之尉成宗という人物が、鎌倉街道を見張るために砦を構えたという記録があり、これが有力だと思われます。ほかに、先述の太田道灌が家臣に守らせたという話もあり興味深いのですが、あまり細かい情報は得られませんでした。

<屋倉橋>
shirononagori suginsmi (8).JPG
麓の橋です。「やぐら」といえば物見のための櫓(やぐら)を想像しますが、この橋の名はその名残りでしょうか?確証がないほど、想像力が活発になります。杉並区の成宗城、地形に納得するものの遺構は無く、築城時期や役割も曖昧なままなので、この橋の名を「城のなごり」と信じることにして探索を終了させました。

[杉並区成田西]四丁目


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2017年10月02日

プラチナ土塁 白金長者屋敷

<白金台の土塁>看板付
SN shirokane (2).JPG

いわゆる「しろかね」にも土塁があると聞いて訪問してきました。場所は港区白金台国立自然教育園の園内。室町時代の豪族が館を構えたと伝わります。

<自然教育園>
SN shirokane.JPG
もともと高松藩松平家の下屋敷があった場所です。現在は「国立科学博物館附属自然教育園」ということで、入園料大人310円です。

<御料地>
SN shirokane yakataato (1).JPG
城址の石碑かと思って接近。違いました。皇室の御料地だったこともあるのですね。

<園内地図>
SN shirokane map.JPG
ちゃんと「館跡」が載ってます。入口から歩いてすぐですね。一般的に白金長者屋敷跡と呼ばれてますが、園内の表示も「館跡」なので、以下はそれで通します。

<土塁>
SN shirokane (1).JPG
園内地図の「館跡」に辿りつく前ですが、早くも土塁と出あえました。思っていたよりは高い土塁です。

草木を紹介するのと同じように「土塁」という看板があります(園内の主役は草木です)。もともと起伏のある場所なので判断しかねるところもありますが、ここに限らず、園内の至る所に土塁らしきものを見ることができます。


<館周辺の案内図>
SN shirokane map2.JPG
館を囲むように土塁が造られていたのですね。これはもう、ちょっとした城郭です。想像ですが、土塁の上に柵なども設けていたのかも知れません。

■白金長者とは■
1400年前後にこの付近を開墾した柳下上総介を指します。富豪だったようです。白金(しろがね)は、いわゆるプラチナではなく、銀(しろかね)の意味でした。銀をたくさん持っている富豪であることから「白金長者」と呼ばれるようになり、その呼び名が町名となっています。

そういえば、白金台で育った知人は、この地の館跡を「長者丸」と呼んでいました。それが一般的かどうかはわかりませんが・・・


<土塁>
SN shirokane yakataato (4).JPG
この道は土塁を壊して造られたようです。つまり道から見えるのは土塁の断面です。

<高台>
SN shirokane yakataato (7).JPG
遺構を通過すると坂道。館跡は高台に位置しています。画像は下から見上げた眺め。

白金・白金台といえば人気の街ですね。現地の地形をみて回りましたが、同じ町名でも随分と高低差があります。丘あり、そして低地あり。小規模な崖も存在しています。今回訪問の「白金長者屋敷」は丘の上。経緯が経緯なので、都市開発に巻き込まれず、豊かな自然とともに館(屋敷)のなごりまで残されました。とても貴重です。

<館跡と土塁>
SN shirokane yakataato (5).JPG
説明板の背後も土塁です

この街を指して「プラチナ」と呼ぶのは一般的ですが、城跡好きにとっては、こんな都会に残された土塁そのものがプラチナです。来た甲斐がありました。

--■白金長者屋敷■--
(柳下上総介の館)
築 城:1400年頃
築城者:柳下上総介
館 主:柳下上総介
[東京都港区白金台]


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2017年09月06日

暗渠と城跡10 入間川と深大寺城

(深大寺城訪問の追記です)

<深大寺城の曲輪>くるわ
shirononagori jindaijijo (3).jpg

■深大寺城探索■ 珍しく事前調査しました
今回の深大寺城訪問は、事前に地形を調べ、それらを現地で体感するという理想的な城跡巡りとなりました。

<深大寺城入口>投稿済
shirononagori jindaijijo (B) (1).jpg
記事→城周辺はこちら

<城内>投稿済
shirononagori jindaijijo (2).jpg
記事→城内はこちら

ここまで予習するのはレアケース。普段は「とりあえず行ってみる」というパターンが多いです。偶然テレビで「国分寺崖線」という言葉に耳にし、オタク根性に火がついてしまって、結果として念入りに予習することになりました。その予習の総仕上げとして、深大寺城からの帰り道、京王線つつじヶ丘駅(調布市)へ向かいました。

■目的地到着■

<川のない橋>
irimagawa ankyo (3).jpg
[調布市東つつじヶ丘]1丁目
ちょっと凄い光景です。手すりの向うは壁。この橋ができた時には、意味があったのでしょう。

<入間橋>全体
irimagawa ankyo (2).jpg
こんな姿ですが、これは川に架かる橋です。ただし、コンクリより先に川の姿はありません。

<橋の反対側>上の画像の右手
irimagawa ankyo (4).jpg
こっち側は水面が見えていますね。コンクリで固められ、まるで水路のようですが、これは川。大昔から流れている川の現在の姿です。

川の名は入間川(いりまがわ)。
深大寺城探索で見た野川の支流です。調布市入間町と狛江市東野川の境界で、野川に合流します。やや有名な埼玉の入間川(いるまがわ:荒川水系)とはまったく別の川。こちらは多摩川水系です。

地図上ではここから急に川が始まりますが、まさか水が湧き出ているわけないですよね。これより上流はいわゆる「暗渠」です。毎回のように同じ説明で恐縮ですが、これは「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川という意味に受け取って下さい。つまりこの入間橋より上流側にも、水の流れはあります。ただ一部を除いて土の中。北上して東深大寺町方面へと続きますが、人の目に触れず、意識されることもありません。まぁ「暗渠」に敏感な人には、緑道が川だと気付いてもらえますが・・・。

この暗渠の行方を調査するのもそれはそれで面白そうですが、まぁ城ブログなので、そこはもっと大まかに。この川の上流部、地形的に台地と台地に挟まれた谷になっています。入間川はもともと自然の川。厳密な流路はともかく、その谷が入間川の源流地帯です


■何を確認したか■
深大寺城は、まず西から南にかけては野川が流れ、やや離れた東には入間川がながれていた。ということですね。江戸時代の治水により、野川・入間川ともに流路の変更があったようですが、それはもう少し下流のお話。深大寺城付近に関しては、崖線と現在も残る川及び暗渠から、城が築かれた頃の状況を推測して間違いないと思われます。

<野川>
jindaiji nogawa (2).jpg

<入間川>
irimagawa ankyo (1).jpg


■結論■
崖線に位置する深大寺城は、三方を低湿地に守られ、天然堀として南には野川が流れる山城。それだけでも天然の要害と言えますが、更に東側には「入間川が台地を削ったと思われる谷もあった!」ということです。

それだけ。たったそれだけを確認するためにつつじヶ丘へ行ってまいりました。

(おわり)

マニアックで恐縮です。だから何?と言われたら終わってしまう内容ですね。最後までお読み頂いた方、本当にありがとうございます。


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タグ:暗渠と城跡
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2017年09月02日

深大寺城 調布市「ふるき郭」

■ふるき郭■ もともと城跡だった

shirononagori jindaijijo (2).jpg
河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原北条氏(氏綱)に対抗するために改修した城です。この地にはもともと「ふるき郭」があったとされています。つまり城跡でした。ただ誰の城だったかは分かっていません。武蔵七党の狛江氏という説もあります。

■激闘はなし■ 1537年
北条氏綱は深大寺城をけん制しながらも攻撃せず、迂回して河越城を直接狙いにいきました。これは城を整備した扇谷上杉側にとっては、戦略上の大誤算ですね。前線基地の意味が無くなった訳ですから。
この戦は北条側の大勝利。河越城を攻略した北条氏綱は、関東覇者への道を着実に進んで行きます。深大寺城はそんな時代に改修された城跡。その後使われた様子が無いことから、当時の姿をいまに残す貴重な城跡と言えます。
※余談ですが、同じく小田原北条氏の戦で有名な「河越夜戦」は1546年のこと。つまり更に後の話です。北条氏綱の息子・氏康が奇襲で大勝利しましたね。

■この頃の北条氏■ 二代目氏綱の成熟期
北条早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱。相模から関東全体への勢力拡大を目指し、着実にその基盤を構築してゆきます。よく二代目は駄目というケースは多いですが、氏綱はまったく違っていました。その息子・三代目氏康もこれまた凄かったので、代替わりを成功させる秘訣でもあったのでしょうか?まぁそれはまた別途研究するとして、この二代目氏綱、深大寺城が再整備されたこの頃には既に51歳でした。翌年には、国府台城で里見氏・足利義明の連合軍に勝利。勢いだけでなく、経験に経験を積んだ大将だった訳ですね。前線基地として整備したここ深大寺城があっさりと迂回されてしまい、扇谷上杉側は相当焦ったことでしょう。
それにしても、東京・埼玉で戦って、次に千葉で戦って、関東を制するのは大変な道程ですね。その途上、氏綱は55歳で生涯を閉じました。

■この頃の扇谷上杉家■ 若年当主
当主は家督を継いだばかりの上杉朝定(ともさだ)。1525年生まれとあるので、えっとまだ12歳?ということですか。北条氏綱は当主が若年であることをチャンスと考えたとも言われています。まぁ実際には側近たちがいろいろと判断していたのでしょうが、こういう歴史の長い名門組織では、まとまり難いことも多々あります。もう英雄・太田道灌(1486年没)のような絶対的な家臣もいません。まぁいずれにせよ結果は敗北。陰りの見える扇谷上杉家は、すでに江戸から川越へ追いやられていたわけですが、この戦いで更に北(松山城=埼玉県吉見町=川越より更に北方面)へ逃れることとなりました。道灌が亡くなってから約50年。扇谷上杉家の運気は落ちる一方ですね。朝定は何とか生き延びますが、先述の河越夜戦で北条氏に討たれます。実質最後の当主でした。

<湿地帯>
shirononagori jindaijijo (B) (1).jpg
城跡は深大寺に隣接する「水生植物園」にあります。美しい。当時も湿地帯でした。右手の山、ただの雑木林ではありません。深大寺城跡です。


<曲輪>
shirononagori jindaijijo (3).jpg
最初に二の丸(第二郭)。広いですね。石が建物跡の目印

<曲輪を囲む土塁>
shirononagori jindaijijo (4).jpg
いいですね。すごくいい。いかにも中世の城郭。

<虎口>
shirononagori jindaijijo (5).jpg
曲輪への出入り口でしょうか

<二重土塁>
shirononagori jindaijijo (7).jpg
これ堀ではなく土塁が連続した構造になっています。当然ですが、築城時はもっとシャープだったことでしょう。ここは昔の城の一部ですが、見応えがあります。復元も含まれると聞いていますが、遺構に満足できる城跡です。


■つわものどもが夢の跡■

北条氏に落とされた関東の城は、その後北条氏の手によって改修されている場合が多いですが、ここはそのまま。その当時のままです。天然の要害ですが、北条氏の戦略上は拠点とする魅力が無かったようです。その北条氏の進攻を何とかくいとめたい。何百年も前のその思いが、形となって残っている場所です。

--------■深大寺城■--------
築城者:不明(狛江氏)
築城年:不明
改修者:難波田広宗(扇谷上杉家臣)
城 主:難波田広宗
廃城年:1537年(天文6)

[東京都調布市深大寺元町]


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国分寺崖線の城跡 深大寺城

深大寺城訪問

shirononagori jindaijijo (B) (1).jpg
[東京都調布市深大寺元町]
雨のち晴れの夏の日。ほぼ一日かけて深大寺城を探索しました。湿地帯の山城。城郭は右手の山です。武蔵野台地の南側の崖線に位置し、高低差と水の豊かさが印象に残る場所でした。


■まず深大寺へ■ じんだいじ
昔から「深大寺そば」は知っていましたが、現地へ来るのは初めて。開発が進む調布駅前からちょっとバスに乗るだけで、こんな緑豊かな場所に到着しました。寺の始まりは奈良時代。浅草寺に次ぐ古い歴史と言われています。環境といい歴史といい、素晴らしい所なんですね。城跡を見に来たのに、まずは深大寺に圧倒されました。立派な本堂、軒を連ねるお蕎麦屋さん、おみやげ屋さんなどなど。深大寺ビールなんていうのもあるんですね(我慢しました)。ただ、やはり気になったのは地形ですね。そして

<山門>
nagori jindaiji (5).jpg
深大寺の名は、深沙(じんじゃ)大王という水神に由来。教典を求めて旅する三蔵法師を救ったとか。深沙大王寺がやがて深大寺となったそうです。

<水車>
nagori jindaiji (4).jpg

湧水・清流・水車・水量の多い側溝・・・水の音を感じる場所です。

<不動の滝>
nagori jindaiji (6).jpg

shirononagori jindaiji mizu (1).jpg

nagori jindaiji (7).jpg

この付近は武蔵野台地の南縁。川が台地を浸食して造り上げた段丘面に位置しています。

shirononagori jindaiji mizu (2).jpg

nagori jindaiji (14).jpg
ちょっと癒される苔

<深大寺境内絵図>
nagori jindaiji (8).jpg
個別の画像より、この境内図のほうが高低差が伝わるかもしれませんね。

■崖線とは■がいせん
川が歳月をかけて台地を削った崖。これは良くみかけますね。崖線はこの崖地がずっとずっと続いている(地図で見ると長い線になっている)状態を指します。

■国分寺崖線■ 武蔵野台地
国分寺崖線は武蔵村山市(東京都の多摩地域北部)から大田区まで続いている崖線を指します。総じて湧水に恵まれ、自然豊かな場所。開発がすすんだ現在でも、みどりに覆われた環境が点在しています。23区内の渓谷として有名な等々力渓谷もこの一部です。

国分寺崖線そのものはちょっと長すぎるので、訪問した調布市付近に限定すると、ほぼ野川の北に沿って続き、深大寺城付近を通り、つつじヶ丘方面へと続きます。「線」という表現で良いのですが、細かく見れば崖線は入り乱れていて、深大寺付近もかなり複雑です。深大寺と深大寺城も大筋同じエリアですが、厳密に言えば両者の間にも細長い低地が入り込んでいます。そして地図で見れば幅が狭いその低地も、実際に歩くと結構厄介な存在。城はこういった地形を意識して築かれるのでしょう。


■野川■

<天然の水濠>
jindaiji nogawa (1).jpg
多摩川の支流。「のかわ」ではなく「のがわ」。発音が濁ります。ただ水は綺麗です。この川は崖線とほぼ平行して流れ、崖線(台地の先端)に位置する深大寺城にとっては天然の堀といえますね。

<東京の川>
jindaiji nogawa (2).jpg
ここ東京ですよ。少し上流に歩くともう三鷹市でした。カワセミがいますが、ちょっと見えにくいですね。PCで見て頂いてる方は、気付くかも知れません(無理?)。

<カワセミ>
jindaiji nogawa (3).jpg
上の画像の拡大。画像悪くてすみません。

<暗渠>あんきょ
nogawa2ankyo.jpg
宅地化されても、水はただ低い方へ進むしかありません。これも野川に注ぐ水の流れです。

すみません。城の周辺の紹介だけで長くなりました。

崖線に位置するがゆえの「地形」「豊富な水」。そして地形を造った川。この日はこれらをしつこく見て歩きました。肌で感じて、地の利に納得。あとは実際の山城を探索するだけです。


■いざ深大寺城跡へ■
城跡へは深大寺に隣接する「水生植物園」から登城できます。案内図だと上の部分。オレンジ色で城山(国史跡:深大寺城跡)と表示されているエリアです。
shirononsgori jindaijijo14.jpg
冒頭の画像は、その植物園に入ってすぐの景色。美しい湿地帯となっいます。

山城の内部、次の投稿へつづきます深大寺城 調布市「ふるき郭」



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2017年04月15日

外濠のなごり 赤坂見附

赤坂見附跡
sirononagori akasakamitsuke (2).jpg
駅は有名ですが、いわゆる「赤坂見附」へ行かれた方は少ないのではないでしょうか?

行く必要がない……

まぁ普通そうかも知れませんが、駅からそう遠くないところで城のなごりを感じられる場所ですので、ちょっとご紹介させて頂きます。

ここ赤坂見附も四谷見附などと並んで「江戸城三十六見附」の一つ。複数の家が作業を分担して完成させたようですが、この石垣部分はあの「黒田家」によって築かれました。

これで終わり?

はい。ただまぁここまで来たら、すぐそばの外濠も見てみましょう。

<弁慶橋>
sirononagori akasakamitsuke (1).jpg
立派な橋が目の前に現れます。その名も弁慶橋。義経と弁慶の出会いを想像してしまいますが、江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作ったので、弁慶橋と名付けられたそうです。

ここは港区元赤坂 と千代田区紀尾井町の境界。ちなみに、紀尾井町(きおいちょう) の名は、この一帯に紀州と尾張の徳川家、そして井伊家の屋敷があったことに由来します。つまり、やんごとなき人たちのお屋敷街だったということですね。で、今でこそ歩いて渡れますが、江戸時代には濠を渡れる橋はありませんでした。

橋が架けられたのは明治22年。あら?棟梁の弁慶さんと時代が合いませんね。

弁慶橋そのものは、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れる川(藍染川)に架かっていました。
明治になって弁慶橋が廃橋となり、ここに移設されたとのこと。もっと詳しく調べてみると、どうも移設というより、解体した廃材を再利用して橋が架けられたという方が実態に近いかもしれません。もともとの弁慶橋とは形状は異なるものの、その名前が使われたようです。

いい意味で名前が残るのは名誉なことですが、職人の気質を考慮すると、弁慶さんは「こんなのワシの仕事じゃねぇ!」とか天国で言ってたかもしれませんね。
(現在は更に鉄筋に生まれ変わってます)

外濠(弁慶濠)
shirononagori Benkeibori.jpg
赤坂見附跡の付近では、旧江戸城の外濠がほぼ原形を留めて残っています。埋められずに済んだ外濠です。
昔の雰囲気を残す濠。都内に残る貴重な城のなごりです。

赤坂見附駅付近
sirononagori akasakamitsuke (3).jpg
都会の中の都会。慌ただしく通り過ぎるのが当たり前のような街の景色ですが、ほんのちょっと、外堀通りを渡るだけで別世界と出会えます。


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  8. 8. 慶次清水 前田慶次ゆかりの里
  9. 9. 東北屈指の名城 会津の若松城
  10. 10. 世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり
  11. 11. 犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道
  12. 12. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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