2018年06月10日

保科正之と幻の天守閣 江戸城本丸跡

つわものどもが夢の跡
今回はいわずと知れた江戸城本丸跡です。外国人観光客が多い有名なスポットですね。梅雨の合間の晴れの日、広々とした曲輪まで登ってみました。

<天守台>
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本丸の北側にある天守台。本来なら、この上に天守閣があるわけですね。

いや、久しぶりに見ましたがホントに大きいです。41m×45mという広さ。石積みの高さは11mとのこと。どんな天守閣を想定していたのでしょうか。


■江戸城の天守閣■
江戸時代初期、天守閣は権力の象徴でした。ましてここは将軍の城です。徳川家康のみならず、秀忠も家光もそれぞれ天守閣を築き直しています。家光のときには、五層構造の天守閣だったそうです。これが江戸城の歴史で最も壮大、そして最後の天守閣でした。


■天守閣は江戸初期のみ■
三代将軍家光が築いた天守閣は、明暦3年(1657年)の火災で焼け落ちてしまいました。翌年に天守台が築かれていましたが、城下の復興を優先すべきという考えから、再建は見送られました。そしてそれ以降、天守台の上に天守閣が築かれることはありませんでした。つまり、江戸城に天守閣が存在したのは、江戸初期の約五十年間ということになります。

<御影石>みかげいし
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天守台の工事を請け負ったのは加賀前田家でした。この時の藩主は前田綱紀。威信をかけた大工事です。5千ともいわれる工夫を動員し、石材は御影石(カコウ岩ですネ)を瀬戸内から運ばせたそうです。その姿が、今に残る天守台です。

■保科正之■ほしな まさゆき
城下の復興を優先させることを提唱したのは、会津藩主の保科正之。家光の異母兄弟ですね。1657年3月2日の明暦の大火。この時の将軍は第4代の家綱でした。しかしまだ若く(17歳)、復興の指揮はサポート役である保科正之がとったと考えられています。

当時の江戸の大半を焼いたといわれる大災害に対し、保科正之は「天守閣より民の暮らし」を優先させる判断を下しました。
常識的?
いまの私たちの価値観なら当たり前かもしれませんが、当時ですからね。どういう葛藤があったのでしょうか。しかも天守台は出来上がっています。乱世の雰囲気が和らぎつつあっても、まだ安泰という時代ではありません。威厳を必要とする将軍家で、慣習を変える判断には抵抗もあったことでしょうね。まぁなにもかも推測の域を出ませんが、結果として、新たな天守閣の構想は幻となりました。

正之は、いわば将軍の隠し子。当初はその存在さえも明らかにされず、父・秀忠にとって側近の中の側近であった土井利勝など数名が承知しているのみでした。信濃高遠藩主保科正光が預かり、保科家の子として育てられました。やがて腹違いの兄・家光から信頼を得て、その遺言により将軍の補佐役となります。当時はまだまだ時代の変革期。保科正之の手腕は、後の徳川幕府の体制に大きな影響を与えています。

<幻となった天守閣の土台>
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それ以降天守閣は築かなかった。だから天守台しかない。それはそれで、立派な歴史の痕跡だと思えます。

ちょっと話がそれますが、天守閣があったのは第4代将軍までなので、いわゆる「暴れん坊将軍」である吉宗(第8代)が、しみじみと天守閣を見上げるといったシーンには無理がありますね。まぁこれは「水戸黄門」他の時代劇にもありがちな演出ですので、容認してドラマそのものを楽しんだ方がいいですかね。


■つわものどもが夢の跡■
<紫陽花と石垣>
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移り変わることは、悪い事ばかりではありません。既存の価値観の何が必要で、何が不要なのか。大切なのは、その選択ができる勇気なのかも知れませんね。保科正之はそれができる人だったのでしょう。幕府から松平姓を名乗るよう勧められましたが、正之が葵の紋を受け入れることはありませんでした。自分を育てた保科家への恩義だったと伝わります。


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真正面から江戸城を訪問

つわものどもが夢の跡
誰でも知っている城に、真正面から入ってみました。梅雨の晴れ間、多くの外国人観光客に混じって久しぶりの訪問です。

<大手門>
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最初の完成は1607年。築城技術に定評のある藤堂高虎(たかとら)によって築かれました。後の改修者には、あの伊達政宗も名を連ねます。

■江戸城の正門■
当ブログでは、街に埋もれそうな堀跡や見附跡にスポットライトを当ててきました。

<赤坂見附跡>
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<四谷見附跡>
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どちらも城本体から切り離された遺構です。まぁそれがまた魅力なのですが・・・主だった江戸城の城門を指して「江戸城三十六見附」といいます。見附とは見張り番のいる城門のこと。赤坂見附も四谷見附も三十六見附に含まれる重要な城門です。

さてさて、今回の大手門はいわば江戸城の正門。現役です。三十六見附の中で最も重要な虎口(=入口)ということになります。

<大手門>
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大手門とは正門のこと。追手門(おうてもん)も同じ意味ですね。


■枡形■ますがた
当ブログで見附跡などを紹介する際に、よく「枡形」という言葉を使います。枡はいわゆる器の枡のこと。四角形の容器のことですね。そんな形をしている城の出入り口。これを城用語で桝形とか、桝形虎口いいます。虎口は「とらぐち」じゃなくて「こぐち」と読んで下さい。

ここ大手門の構造も桝形門です。高麗門と渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門と言えます。石垣だけ残っている見附跡とは異なり、門もしっかりと形として見ることができるので、構造として分りやすい。

説明下手ですが、画像に筆を入れてちょっとだけ説明させて頂きます。

<大手門>加筆
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(青は人の導線)
オレンジは高麗門。死角を減らすべくやや低めに造られています。この一つ目の門をくぐると、四角く囲まれた小部屋のような空間(この形状から枡と呼ばれる)が待っています。これは侵入者の直進を防ぐ役割と、城兵が待機するスペースの両方の機能を備えた場所です。さて、侵入者が城内を目指すには右手に曲がらざるを得ません。そこに設けられているのが二つ目の渡櫓門。門の上が頑丈な櫓となっており、枡に入り込んだ敵を狙い撃ちすることができます。

<無理やり図解>
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まぁこういうことです。
下手な上に簡素でスミマセン。私の手作りですw

<渡櫓門>
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最初の門を突破できても、上から狙われます。しかも壁に囲まれているので行き場が制限され、隠れる場所もありません。

<壁の内側>
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城兵が待機する場所でもあるので、外に向かって銃を撃つための準備がなされていますね。

<狭間>
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銃を撃つための小窓。狭間(さま)といいます。

<説明板>
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<渡櫓門の石垣>
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門をくぐって櫓の土台を撮影。じっと見つめる。
1629年の改修工事では、幕府の中核・酒井忠世(ただよ)が門を担当したそうです。そして石垣部分は仙台藩主・伊達政宗。この時に「桝形」として完成したようです。

典型的な枡形門
ざっとこんな感じです。ちなみに、高麗門は1657年の明暦の大火後に再建されたものです。そして立派な渡櫓門ですが、こちらは第二次大戦で焼失してしまったそうで、現存のものは昭和になってからの復元だそうです。でもむかしむかしもこんな雰囲気だったのでしょう。見る価値ありの枡形門です。


■大手門から登城■
あとはどっかの殿様気分で本丸まで。かつて多くの大名が、ここから登城していました。

<石材>
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おお!これは!
中世の「土の城」のファンですが、たまにはいいですね!この石垣。石材だけで圧倒されます。下の二段だけで、大人の身長よりずっと高い。
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隙間に詰めた小石まで気になる。
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こちらは隙間すらない。細かいことですが、強度に影響することです。

さて、石垣だけで楽しめますが、向うに何やら見えてきました。

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<同心番所>
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まだ本丸まで遠いですが、早くも番所。厳重ですね。
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登城する大名の供の者を監視していたとのこと。番所はこの先にもあり、奥へ進むほど位の高い役人が詰めていました。

<番所と石垣>
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どうしても石垣の大きさに目がいってしまいます。建物と比較して、とんでもなく大きいこと、伝わりますでしょうか。

そしてもうすこし進むと

<百人番所>
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この長い建物も番所
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百人番所というそうです。ここは登城する者の監視や検問をするところですが、有事に備えて幕府直轄の者が詰めている場所でもありました。直轄の警備員たち?それは古くから徳川と縁のある伊賀組などの同心たちです。他に甲賀忍者に由来する甲賀組、そして紀州の根来寺に由来する根来組など。伊賀と甲賀といえば忍者、そして根来(ねごろ)といえば手ごわい僧兵、のちの徳川配下の鉄砲隊。なんかやたら強そうな人たちを想像してしまいますね。

さて、その百人番所から見えている次の巨大な門へ

<中乃門跡>
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おお・・・ホントにむかし造ったのか疑いたくなる近代的な石垣。この付近の石垣は、江戸城内でも最大級の石材が使用されているそうです。35トン前後?どうやってここまで上げましたかね?というより、そもそもとこから運んできましたかね?

これらの石材、主な供給源は伊豆でした。良質の安山岩が採石できる伊豆半島には、かつて多くの石丁場がありました。いまも伊豆半島とその周辺には、石を切り出した石丁場跡が史跡として残されています。で、小田原よりも遠い伊豆から、どうやって江戸まで運んだか?これは専用の舟です。伊豆の山で切り出した巨大な石を、海路で江戸まで運ぶ。とても400年前のこととは思えませんが、事実のようです。昔の日本人、凄いですね。


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また建造物が見えますね

<大番所>
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また番所。同心番所→百人番所に続き、いよいよもっともグレードの高い番所ですね。ここを通過してもうちょっ登れば、いよいよ本丸。後ろに見えている石垣は、本丸の石垣です。

<本丸への道>
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ちょっとと言っても道は曲がりくねってますので、昔はそれなりに監視の目が光っていたのでしょう。
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昔はここにも門があったのでしょうね
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石垣に見惚れて、ちょっと振り返る

そしていよいよ

<本丸跡>
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到着です。天守閣はありませんが、遠くにその土台が見えています。

ということで、大手門から本丸まで、あまり寄り道しない場合の道のりでした。

普通に公園として楽しめますが、当然史跡も多数。ほんの一部だけ紹介すると

<富士見櫓>ふじみやぐら
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本丸の東南隅に位置する櫓です。外側から見た方が堂々と見えますが、今回は城内から。本丸に現存する唯一の櫓で、天守台の次に高い場所にあります。天守閣の代わりとして使用されたこともあるそうです。

<石室>
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何となく異様な雰囲気の石の部屋。何に使われたのか、はっきりとは分かっていないようです。石の室の内部は約20平方メートル。大奥の納戸付近に位置していたとのことです。万が一の時の脱出口?そんなわけないですかね。耐火性を意識した蔵という説もあります。

<松之大廊下>まつのおおろうか
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「忠臣蔵」で有名な松の廊下の跡です。浅野内匠頭、ここでいよいよ我慢できなくなった訳ですね。

<天守台>
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天守閣の土台部分ですね。これについては別途投稿させて頂きます。

ということで、今回はここまでです。
写真中心でしたが、最後までお付き合い頂きありがとうございます。


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2018年05月19日

外濠さんぽ 四谷見附から赤坂見附

本日は土曜日ですが、仕事の関係でちょっと赤坂方面へ出かけることになり、ついでに江戸城の外濠と見附跡を楽しんできました。具体的には、四谷見附跡から赤坂見附付近まで。そもそも見附とは何かと言えば、見張り番を置いている場所のこと。城郭で見附と言えば、警備員を配置して厳重に監視する出入り口ということになります。四谷も赤坂も「江戸城三十六見附」に数えられる重要な出入り口。既にブログでは紹介済なので、今回は外濠とセットで、画像を中心にまとめさせて頂きます。

<四谷見附跡>
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残っているのはかつての見附の一部ですが、相変わらず堂々としています。この石垣の右手(北側)の土塁も散歩道として楽しめますが、今回は赤坂方面に向かうので、左手(南側)へ向かいます。


<土塁の上の散歩道>
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これは土塁の上です。いつもならこの土塁を見上げながら道路の歩道を歩きますが、今日は何となく登ってみたくなり、この道を選びました。

<現在位置>
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冒頭の四谷見附と現在位置。このまま濠に沿って土塁の散歩道を移動します。この図だと左方向。方角だと南へ向かっています。

<真田濠>
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この付近の外濠は真田信之が工事を請け負いました。真田濠と呼ばれています。現在の姿は上智大学のグラウンドですが、埋め立てられてなおもこの高低差。堀跡のこの区画と土塁だけで、立派な遺構と言えます。

四谷濠とも言われていますが、私は真田家のファンなので真田濠と呼んでいます。真田信之、つまり雪村のお兄さんですね。そして昌幸にとっては長男坊。

<新緑>
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5月としてはやや気温が高くなりましたが、土塁の上は風が心地よく、気持ちの良い外濠さんぽとなりました。外濠は桜の時期もいいですが、みずみずしい若葉もいいですね。

<行き止まり>
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土塁の上の緑の散歩道も、ここで終了。この先は「喰違(くいちがい)見附」と呼ばれたところで、一旦土塁が途切れます。位置で言うと、四谷見附と赤坂見附のちょうど真ん中くらいでしょうか。とりあえず階段を下りて一般道へ。

<弁慶濠>
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土塁の切れ間となっている喰違見附跡付近から、外濠の続きを撮影。ここから先は弁慶濠と呼ばれています。外濠も見る場所によっていろんな魅力がありますが、弁慶濠は「かつての雰囲気を残す」と評価される区間。あまり手が加えられていないということでしょうね。ちなみに、ここ喰違見附も江戸城三十六見附に数えられる重要な場所ですが、構造そのものはシンプル。左右の土塁が喰い違うように設けられていることから、直進を拒めるようになっていましたが、四谷見附や赤坂見附のような重厚な石組みは無かったようです。

さて、このまま外濠沿いを歩く前に、ちょっと立ち寄る場所があるので・・・。といってもすぐ近く。真田濠沿いの土塁を降りてすぐのところです。

<屋敷跡の石碑>
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ホテルニューオータニ付近の石碑と説明板。ここは「彦根藩井伊家屋敷跡」です。

格式の高さで名高いホテルニューオータニ。その敷地は、かつて井伊家の屋敷があった場所です。超近代的なホテルも、そういう目で見ると感慨深いものがありますね。

ところで、井伊家の屋敷といえば桜田門の近くが有名です。屋敷そのものが有名というより、井伊直弼が屋敷から桜田門までの短い道のりの途上で襲撃されたことが有名、そう言った方が良いでしょうか。まぁとにかく、桜田門は内堀に設けられた門、そしてここは外濠の近く。これはどういうことでしょう。

正確に言うと、ここは井伊家の「中屋敷跡」です。そして桜田門のすぐ近くにあった屋敷は上屋敷。他に下屋敷が二か所もあったといいますから、さすが徳川幕府を支え続けた名門家ですね。


話を外濠にもどします。

<弁慶橋から見た弁慶濠>
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ここは赤坂見附付近の弁慶濠。一部が釣り堀として利用されていますね。橋も歴史のある橋ですが、もともとここに橋は架かってなかったことだけつけ加えさせていただくとして、橋の説明は割愛させて頂きます。

<昔のなごり>
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自然な感じがいいですね。今となっては、高層ビルの立ち並ぶ街のオアシスです。江戸城の外濠は、総延長が10km以上という壮大スケールでしたが、残っているのはその一部だけ。貴重です。弁慶濠はこの付近、つまり赤坂見附まで。その先は溜池(これも外濠の一部)でしたが、現在その姿を見ることはできません。

<赤坂見附>
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先ほどの弁慶橋を渡って、ちょっと坂を登れば到着。赤坂見附跡です。

<枡形門のなごり>
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構造としてはいわゆる「枡形門」でした。いまは門の姿はなく、石垣だけ。この石垣部分を造ったのは黒田家。官兵衛の孫の代のお仕事です。

<再整備>
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プレートに「ここが見附であったこと」が説明文と写真で記されています。また、この地を再開発の際、石垣の一部が復元されました。ありがたいです。

<プレートの白黒写真>
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明治初期の赤坂御門です。


<見附跡>
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右手と左手。高低差も含めて眺めると感慨深いものがあります。

ということで、二つの見附跡と外濠のご紹介でした。
どちらも江戸城の一部。いまに残る城のなごりです。

当ブログがきっかけで、いままでただ通り過ぎていた方が、ちょっと足を止めてくれたら嬉しいです。

[当ブログ過去記事]
四谷見附→『記事へすすむ
赤坂見附→『記事へすすむ


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-------追 記-------
赤坂見附跡を再訪してみると、脇に立派な説明板が設置されていました。追記として画像を貼っておきます。

<赤坂見附跡と説明板>
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<説明板>
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<地形と赤坂見附の位置>
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<赤坂御門>
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[撮影:2020年6月]
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2018年05月03日

暗渠と城跡17 蛇崩川と弦巻砦

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は世田谷区の弦巻3丁目。ここにかつて世田谷城の支城があったと聞き、現地へ行ってきました。久しぶりに城跡巡り暗渠巡り のダブルプレーです。

■弦巻神社■つるまきじんじゃ
<砦跡推定地>
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[世田谷区弦巻]3-18-22
砦推定地。現在は神社です。


■現地訪問■地形を楽しむ
遺構は無いと聞いています。こういう時は地形を意識して行動。とりあえず最寄駅に到着。

<桜新町駅>
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東急の桜新町駅で下車。よく通過しますが、下りるのは初めてです。

<お出迎え>
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あ、こんにちは

ここから北へ向かってちょっと歩くだけ。そんなに遠くありません。

<駅から北へ>
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劇的な高低差などはないものの、駅から遠ざかるにつれて緩やかな坂、ちょっとした高低差を実感しました。下っていく感じ、伝わりますでしょうか?

そろそろ到着かと思っていたら

<ゴルフ練習場>
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ゴルフ練習場に到着。だいたいこのヘンで良いはずですが、見当たりません。ゆるやかな坂道を下りながら、これ以上進むのはどうかと迷い始めた時、練習場の向こう側の敷地に木々の緑を発見。

ぎっしりと宅地化されたエリアで緑が残っている。これは期待できます。ちょっとだけ行き過ぎたようなので、このまま一旦谷まで下りて、回り込むことにしました。

<谷>
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あれ、これはいわゆる・・・

暗渠ですね。「あんきょ」と読みます。地下に埋設された川とか水路という意味に受け取って下さい。地形からして、ここに水が集まり、更に低い場所へ向かって流れていくわけですね。

<車止め>
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暗渠となっている道に「車止め」はつきもの。歩く人の安全を確保する目的もありますが、川に蓋をした状態、つまりこの下に空洞を確保した構造なので、重量の大きな車両は困るということです。

それにしても、あまり他では見かけないユニークに車止めです。私がドライバーなら、擦りたくないので近寄りません。効果抜群。

<暗渠はつづくよ>
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地形に従った緩やかなカーブ。いいですね。ただこのまま暗渠を追いかけると目的地を通過してしまうのでここまで。いい感じの暗渠でした。

<目的地>
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上の画像の位置から右手を見るとこんな感じ。目的地はこの奥です。鳥居が見えています。暗渠付近、つまり谷側から撮影したので、砦推定値が高くなっていることが実感できます。

<到着>
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コンパクトな空間に厳格さが漂います。

<説明板>
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弦巻神社の説明。八幡社、天神社、稲荷社の三社が合祀しされて弦巻神社となったようです。砦についての記載ありません。

<境内>
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広くはありませんが、凛とした空間です。ちょっとだけお邪魔します。

<高低差>
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ここから降りてみますかね

<道から撮影>
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これは土塁とかではなく、手前が削られて生まれた高低差ですね。この手前の道、かつて川だったのでしょうか。まぁとにかく、神社は微高地に鎮座しています。


■弦巻砦■世田谷城の支城?
弦巻神社の敷地だけではなく、この一帯が砦だったと考えられています。世田谷城の支城ということですから、吉良氏配下の砦ということになりますね。遺構はなく、築城者も不明。ただ、地形には納得します。位置的に、世田谷城の南側を守る出城のような役割を担ったのでしょうね。


■蛇崩川■じゃくずれがわ
もっともっと地形に納得する手があります。それはすぐ近くの暗渠を意識すること。

<暗渠>
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さきほどの暗渠。砦にとっては北側の谷になります。これはもともとあった自然の川で、名を「蛇崩川」といいます。現在は流域のほぼ全てが暗渠化され、その姿を見ることはできません。ここ世田谷区を流れ、目黒区を通って目黒川へ合流。合流する直前の僅かな区間だけ、地表に姿を現します。

今回訪問の吉良氏砦跡はあくまで推定地ですが、もし事実なら、北側の蛇崩川が天然堀の役割を果たしていたということになります。城好きであれば、川が見えていれば納得できる構図。暗渠に気付くことで、想像で補うことができますね。

<暗渠と砦跡>ちょっと画像を加工
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手前がで、奥の微高地が。まぁこんな感じですかね。

また、蛇崩川は南側にも別な流れがあり、砦の東側で一本の川となります。つまり、砦は西以外は川だったわけですね。

更にもっと良く調べると、北側の蛇崩川は人の手によるもの?という情報も見つかりました。ただ現地を見る限り、明らかに周辺より低地です。人が手を加えなくても、なんらかの水の流れはあったと推定して良いのではないでしょうか。

三方が川。今と違って、無秩序に流れる水により、このあたりの低地は湿地だったのでしょう。その微高地に砦が築かれる。納得できる構図です。そういえば、吉良氏の本拠である世田谷城も、三方を烏山川に守られた舌状台地の上に築かれました。その烏山川も今では暗渠。台地の麓の緑道を川とみなすことで、当時の面影を感じることができます。

最後に

道を暗渠と呼んで川扱いする。ちょっと実感を持てない方のために蛇崩川暗渠の行き先をご紹介して終わりにします。

<目黒川との合流地点>
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ここは中目黒駅近く。暗渠の出口です。蛇崩川が地表に現れるのはここだけです。

でもほら、水はちゃんと流れていますよ。暗渠も川なんです。



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タグ:暗渠と城跡
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2018年04月29日

半蔵門と甲州街道 伊賀越えの記憶

今回の訪問は服部半蔵に由来する門。

<半蔵門>
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数ある江戸城の門の中で、家臣の名がそのまま呼び名となっているのはここだけです。場所は江戸城の西側。大手門に対し、裏門にあたります。

■現地訪問■
半蔵門駅から新宿通り(=甲州街道)をお堀の方向に歩くだけ。

<半蔵門駅>
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半蔵門線の半蔵門駅で下車して半蔵門へ。ちょっとくどいですかね(言ってみたかっただけです)。

<駅の地図>
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ちょっと筆をいれました。赤丸〇が目的地。出口だと3aか3bがお勧め。徒歩約5分程度です。この地図だと下側が西。簡単ですね。

ただし江戸城の他の門とは異なり、半蔵門は遠くから見ることしかできません。

<半蔵濠と門>
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左手は半蔵濠。門の向こう側は吹上御苑(ふきあげぎょえん)になります。なかはわかりませんが、天皇陛下のお住まいに最も近い御門。時々テレビなどで拝見する皇居内の水田もこの奥のようです。警備が厳重で当然ですね。

<道灌濠と門>
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向かって右手は道灌堀になります。

<高低差>
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改めて見てみると凄い高低差ですね。土橋部分を残して掘ったわけですから大工事です。

<門付近>
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遠くから携帯カメラの望遠で撮影してます。画像が悪くてすみません。まぁ良すぎると警備にご迷惑かもしれませんので、こんなもんで良いでしょう。

江戸城時代の半蔵門はいわゆる「枡形(ますがた)」となっていて、高麗門と渡櫓門があったそうです。外からだと現状の構造はわかりませんが、もう渡櫓門は無いそうです。もうひとつ、高麗門ですが、オリジナルは空襲で焼失したため、和田倉門の高麗門を移築したものとのこと。

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どっちから撮影しても中はわかりませんね。ただ、門の部分が前に突き出ているのは分りますので、あれが「枡形」のなごりと思うことにします。


■半蔵たちが守った門■
その名の通り、服部半蔵に由来する門ですね。半蔵はこの門の外、麹町付近に組屋敷を構えていました。その家来たち(与力・伊賀同心)も半蔵門に通じる甲州街道沿いに住んだそうです。今も厳重に警備されていますが、そのむかしは服部家がその役割を担っていた訳ですね。

■有事の脱出用■
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諸説ありますが、甲州街道に通じるこの半蔵門は、有事に将軍が脱出する門だったそうです。裏門から抜け出し、服部半蔵配下の者たちに守られて難を逃れる。そういう手はずということですね。

本能寺の変の直後、窮地に追い込まれた家康が、伊賀越えで生を拾ったことを思い出します。その時が縁で召し抱えられた伊賀衆が、半蔵の指揮のもと、脱出ルートに配置されていたわけですね。三河時代からの家臣との絆が強い家康さんですから、信用できる人は他にも沢山いたはず。個人的見解ですが、きっと「縁起も担いだのだろう」と思っています。伊賀越えはそれくらい奇跡の生還だったのでしょう。そして、そういった思いを忘れないところが、徳川家康の魅力だと思います。繰り返しますが、あくまで私の個人的な思いです。

さて、この付近の地形ですが、結構複雑です。一応武蔵野台地の上にあるものの、隅っこであることから高台と谷が入り混じります。甲州街道は谷を避け、台地の上だけを繋いだ通り道。いわば尾根道です。よって、同じく台地の上の半蔵門を出てから、地形に進行を遅らされることなく移動することができます。
これを逆に考えると、城に接近しやすい道ということにもなりますね。城全体のことを考えると、地形的にはリスクのある方角ということになります。守る側にとって、これは放っておけない問題ですね。

ここ半蔵門から甲州街道(=新宿通り)を西へ進めば四谷です。そこには四谷見附が設けられていました。半蔵門同様、江戸城三十六見附の一つです。そして「真田堀」と呼ばれる深い堀。江戸城の外濠はもともとの谷を上手く利用しているところもありますが、四谷付近は武蔵野台地を深く削って造り上げた人工の高低差です。

半蔵門から始まる有事のための脱出ルート。普段の警備も完璧です。

<道灌濠>
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太田道灌から始まる江戸城。徳川家により近代城郭へと変貌を遂げました。

構造の一つ一つに、思惑が込められた城郭です。


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posted by Isuke at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2018年04月10日

仙石山と神谷町の谷  (番神山城)

つわものどもか夢の跡
太田道灌が砦を築いたと伝わる港区の山を訪ねました。

といっても、この日は土曜日にも関わらず仕事だったので、帰りに軽い気持ちで立ち寄っただけ。遺構も石碑もなし。それを承知の訪問です。こういう城跡はいつもの通り、地形を中心に楽しみます。

<仙石山の石碑>
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他の方のブログで見た目印。まずここを目指して訪問しました。

■番神山城■ばんじんやま
別名は太田道灌塁。江戸城築城者である太田道灌が、その出城として現在の仙石山に築いた城です。というか、遺構はないので、そう伝わるとしか言いようがありません。都内には道灌が築城、あるいは関与したと伝わる砦跡はたくさんあります。ここもそのひとつということですね。

戦国の世が終わり徳川の時代になると、番神山城のあったこの山は「土取り場」となり、道灌時代の城のなごりは消えうせました。江戸時代初頭までは、すぐ近くまで海(日比谷入江)でしたからね。そりゃ近くの山は削られますよね。

明治時代にはまだ土塁が残っていた。そんな資料もあるそうです。見てみたかったですね。せめて縄張りだけでも。どんな構造だったのでしょう。残念。


■仙石山■せんごくやま
江戸時代、この山には出石藩(いずしはん)仙石家の屋敷がありました。これは確実なお話です。仙石氏はもともと美濃国の豪族で、但馬国の出石藩へ移る前は上田藩主を任されていました。その『お殿様』が移り住んだことで、高台は「仙石山」という呼ばれるようになったそうです。5万8千石ですからね。立派な『お殿様』です。現在でもこのエリア全体が仙石山と呼ばれています。ただ住所表示上は存在せず、虎ノ門または六本木になります。冒頭の石碑は「仙石山」という呼び名を残すべく石に刻んだもの。昭和になってからの設置だそうです。


■神谷町■かみやちょう
さて、東京都港区といえば都会の中の都会ですが、地下鉄もバスも利用しないで、てくてくと歩いてみると、地形が思いのほか起伏に富んでいることに気付きます。ここ神谷町付近もそうです。まぁ地名に「谷」とつくので、カンの鋭い方はなんとなく想像して頂けると思います。渋谷や四ツ谷、市ヶ谷とか千駄ヶ谷。「谷」が付く地名は、だいたいその地形をあらわしている場合が多いですよね。

神谷町の場合、地名そのものの由来は三河国にあった「神谷村」と言われています。ただ、その名が選ばれること自体、この地の地形と関係あると思っています(個人意見)。また「ちなみに」ですが、先ほどの「仙石山」と同様、神谷町という町名もありません(今は)。虎ノ門になります。神谷町交差点、神谷町駅・・・と、港区ではけっこうメジャーな名前なんですがね。虎ノ門5丁目なんて言うより、神谷町のほうが伝わります。まぁとにかく、住所表示上はありません。


■都会の谷■高低差を楽しむ
さて、古くは西久保とも呼ばれた神谷町の低地。「くぼ」は「窪」だったのかもしれませんね。とりあえずそれを実感してみますかね。

その前に
谷の状況を簡単に説明すると、まず西側城山と呼ばれる高台と今回訪問の仙石山。東側は芝公園付近の高台と愛宕山になります。ちなみに、古地図を見る限り、先述の日比谷入江は、現在の新橋付近から日比谷へとつづく入り江でした。愛宕山が立ち塞がることで、神谷町そのものは当時から陸地。山と山の間を、まもなく海と出会う川が流れる低地。神谷町はそんな場所だったわけですね。道灌が築いた番神山城も、仙石家の屋敷も、そんな谷を見下ろせる山に築かれたというわけです。

ではどんな感じなのか

谷の東側

まず愛宕山の東側、つまり昔なら海側にあたる道を探索。

<愛宕下通り沿いの道>
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この付近は住所だと愛宕二丁目。木の陰に立派な門が見えます。

<青松寺>せいしょうじ
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創建は太田道灌。いきなり道灌のなごりが登場しましたが、もともとは別の場所(千代田区)にあったそうです。徳川家康により、この地へ移されました。江戸の町の曹洞宗寺院を統括する3寺院の一つ。さすがに立派です。

ただご紹介するのは青松寺そのものではなく
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この段差。奥へ向かって高くなっていますね。山の斜面であること、伝わりますでしょうか。

もう少し歩くと、もっと分りやすい高低差が出現します。愛宕下通りを更に北へ進むと

<愛宕神社の石段>
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愛宕神社へとつづく石段です。

<男坂>
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男坂と呼ばれる86段の急階段。出世の石段とも呼ばれてます。私も何度か登りましたが、特に出世はしてません。ただ登ったからこそ、なんとか人並なのかも知れません。ありがとうございます。

視覚で十分に伝わると思いますが、実際に登ると本当に高低差を実感できます。そして多少乱れる息と引き換えに、高台ならではの景色を味わえます。愛宕山は標高でいうと約26メートル。この高さで、東京23区内の最高峰です(天然の山として)。よって低いレベルながら「最高峰に登った」というささやかな達成感も得られます。

ちょっと長くなりましたが、この愛宕山が神谷町にとっての東側の山。さきほどの男坂はその山の東斜面です。

さて、神谷町へと向かいます。

<愛宕山のトンネル>
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こんな便利なものがあるので、愛宕山をくぐって目的地へ

<神谷町交差点付近>
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神谷町の交差点。地下鉄の神谷町駅もこの付近です。

整然とした都会の街並みですが、見方をちょっと変えれば、コンクリや建物で表面が覆われているだけ。江戸の町の地形はしっかりと残っています。

<現在位置>
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現在位置はこの地図この中央付近。下が東側、上が西側。この地図だと、いま下から上に移動している最中です。地形で言うと、山を越えて(まぁ実際にはくぐりましたが)谷に出て、そのど真ん中あたりにいる。そしてこれからまた山へ向かおうとしている。そんな感じですかね。


では次に谷の西側へ

<斜面の始まり>
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通りから一本西へ入れば段差が始まります。

<坂>
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これはこの日の目的地へ向かう坂。登っている途中で振り返り撮影しました。

<冒頭の石碑>
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見つけました。思っていたより小さいです。

良く見ると「仙石山町會防護團」と刻まれています。城の石碑ではないのですが、何かを目的地に定めないと達成感がないので、この瞬間ちょっとだけ安心しました。

あとはのんびりと探索

<丘の上の暗渠>あんきょ
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これはちょっと本題とズレますが、いわゆる暗渠。水は当然の如く下へ向かって流れます。斜面を下り、神谷町の「谷」へ注ぐわけですね。

一旦坂を下りて、もうちょっと南方面(飯倉方面)へ移動します。少し歩くと

<西久保八幡神社>
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こちらは西久保八幡神社の石段

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かつての「西久保」の名を今に残す神社です。

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説明板によれば、貝塚が発掘された場所とのこと(現在の社殿の裏手斜面)。西久保八幡貝塚と記載されていますね。東京都文化財になっているそうです。ここにも「西久保」の名が残っています。

ここ西久保八幡神社、昔は「八幡山普門院」という天台宗の寺院だったそうです。創建は1004年〜1012年といいますから、そうとう古い神社ですね。やがて太田道灌が江戸城を築城する際に、この場所に移さしたと伝わります。江戸城から見て南西。裏鬼門という意味があったのかも知れませんね。

ということで
太田道灌が築城したとされる番神山城訪問。遺構とは出会えませんでしたが、谷を肌で感じて山城の地の利を味わい、最後に道灌ゆかりの神社に立ち寄ることができました。半日は仕事という中途半端な土曜日でしたが、少し楽しめた気がします。

<飯倉の交差点方面>
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更に南へ進むとまた高くなっていますね(画像だとはっきりしないので赤線をいれさせてもらいました)。東西を山に囲まれ、行った先がまた高台。窪地であることを実感し、探索を終了させました。以上です。

会社員の拙ブログ、最後までお付き合い頂きありがとうございました。


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posted by Isuke at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2018年03月28日

コンクリ渓谷を行く 前田家下屋敷跡

<石神井川の桜>
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咲き誇る桜を眺めながらの石神井川散歩。板橋から王子まで歩くコースのスタート地点として、この場所を選びました。住所は板橋区加賀。加賀?そうです、あの加賀百万石の加賀です。このあたり一帯は加賀藩前田家の下屋敷があった場所です。

<加賀公園>
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この公園が目印。屋敷内にあった築山とその周辺が公園となっています。

<公園内>
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全体を撮影したかったのですが、この日は花見の人達で一杯。地味に傾斜だけ撮影しました。

<別の日に撮影した画像>
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これは桜が咲く前に撮影した石神井川と加賀公園。まぁこんな感じです。この川が屋敷の天然堀の役割を果たしていたのだろう。初めはそう思いましたが、ちょっと違うようです。

<説明板>
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現地で撮影。これが下屋敷の全体図です。なんと、敷地の中に石神井川が流れています。

<コンクリ渓谷>
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すみません。こちらも桜が咲く前に撮影したものです。ご覧の通り、現在の石神井川はしっかりとコンクリで固められています。かなり深い谷だとうこと、伝わりますでしょうか。

この付近、川が激しく蛇行する渓谷でした。その天然川を内包する屋敷とは、どれだけ大きかったのでしょうね。約21万7千坪とのこと。加賀百万石はスケールが違いますね。

前田家の場合、上屋敷は本郷、中屋敷は本駒込、そして下屋敷がここ板橋に設けられました。そもそも上中下ってなに?まぁ位置的には、江戸城に近い順で上屋敷・中屋敷・下屋敷と思って間違いありません。ただ、どこの家でも必ず3つあるというわけではありません。

そもそも江戸の屋敷は、石高に応じて場所や広さが考慮され、幕府から与えられるものです(あげるのではなく貸すだけ)。あてがわれた屋敷で事が足りる場合は、屋敷は一か所だけです。まずこれが基本。実際にそういうケースもあります。ただ、大きな所帯だとなかなかそれでは納まりきらず、別宅として郊外に大きめの屋敷を構えたりします。これが下屋敷。そして、これに加えて更に中屋敷を設ける場合もありますので、ようするに家の事情によってまちまちです。

前田家といえば外様屈指の大大名。今回訪問の下屋敷跡は、前田家にとって、江戸におけるいわば別荘のようなところ。それなりに広く、贅沢で当然かもしれませんね。ちなみに、前田家の上屋敷跡は東京大学になっています。あの有名な赤門は、もともと前田家の屋敷の門でした。


<軍事利用>
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ここが前田家の屋敷跡ということに間違いはありませんが、のちの時代、明治から終戦まで、火薬の製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所)として使われていたようです。

城跡でも時々あることですが、まとまった敷地があることから、軍やそれに関連する組織に利用されたということですね。それぞれの時代で事情があることですから特にコメントしませんが、もしかしたらその時の造成により、屋敷らしいなごりは一掃されてしまったのかもしれませんね。

<石碑>
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ただまぁこうして石碑もあるし。遺構うんぬんより、歴史がはっきりしているだけで満足です。

<屋敷跡付近の桜>
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ということで、なんとなく納得の訪問となりました。

この付近の桜は見事です。また来年来ますかね

[東京都板橋区加賀]


-------おまけ画像-------

ちょっと蛇足かも知れませんが・・・
<新板橋駅>
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最寄駅の都営三田線・新板橋です。

ホームの壁面、なんとなく武家屋敷を象っているようにも見えますね。これは調べてないので確証はありません。前田家の屋敷をイメージしているのだろう。個人的にはそう思っています。
posted by Isuke at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]

2018年03月26日

コンクリ渓谷を行く 滝野川城跡(金剛寺)

板橋から王子まで、桜が咲き誇る石神井川沿いを歩いてみました。その途中、以前当ブログでもご紹介した金剛寺に立ち寄りました。豊島一族の滝野川氏の城跡と推定されている場所です。追記の意味も込めて、投稿させてもらいます。

<コンクリ渓谷>
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このコンクリで固められた石神井川の崖の上、つまり桜で隠れているところが金剛寺です。

前の訪問記はこちらです
豊島一族の城跡(滝野川城)

前回は真冬でした。今回は3月下旬。春の日差しを浴びながらの再訪です。


■地の利の再確認■

<石神井川の桜>
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人がいない一瞬をとらえて撮影。見事な桜のおかげで、前回は遠く感じたのに、あっという間に滝野川城跡へ到着しまた。

<無音もみじ緑地>
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これこれ。この緑地の地形が重要な意味を持ちます。

<滝野川城跡>
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左が現在の石神井川の流路。右側は無音もみじ緑地。斜面を登った所に金剛寺があります。

今回の画像の方が「地の利」がはっきりします。桜や人の大きさと比較して、水面までいかに高低差があるか一目瞭然ですね。繰り返しになりますが、ここはむかしは渓谷でした。

<同じ画像を加工>
sirononagori213 (5).JPG
かつての石神井川はもっと好き勝手に蛇行していました。この付近だと赤い線がかつての流路高台の城跡がどのような場所に築かれたのか、ご理解頂けるのではないでしょうか。単に川沿いというのではなく、舌状台地の上にありました。つまり三方の大半が川に面していたということですね。更にカーブだけではなく、地形ももっと複雑だったはずです。そもそも「滝野川」とは、具体的には石神井川のことを指していました。「滝のような川」というのが名の由来、そして地名の由来と考えられています。水量も今とは比較にならないほど多かったようです。

川と高低差による地の利。かつては『天然の要害』の要件を満たす場所だっと推定できますね。というか、遺構はないので、この状況証拠と伝わる話を信じ切って眺めるしかありません。


■金剛寺■城跡のいま
さて、折角立ち寄ったので・・・あまりお寺さんに詳しくないのに恐縮です。

<下から撮影>
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まず石神井川沿いの歩道から見上げた金剛寺(と桜)

<金剛寺の山門>
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上に登ってみました。ここが真言宗豊山派寺院の金剛寺です。左の石碑には紅葉寺と刻まれています。周辺には桜が咲き誇っていますが、かつては紅葉の名所で、寺の別名として紅葉寺(もみじでら)とも呼ばれています。

<説明板>
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前回と重複しますが、ここは源頼朝ゆかりの地でもあります。源頼朝の布陣伝承地。「石橋山の戦いに破れた頼朝が、鎌倉に向かう途中に布陣した場所」とのことです。豊島氏や滝野川氏に関する説明はありません。ただ、敗れた頼朝が再び挙兵し、やがて関東を平定するさいに、豊島氏が従軍していることは史実として明らかになっています。源頼朝と豊島氏、まったく無関係ということではありません。

<弘法大師像>
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弘法大師が創建したと伝わります。

<金剛寺本堂>
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本堂の右手が石神井川になります。つまりかつての渓谷ですね。

<弁天堂>
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<境内にて>
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一番左は毘沙門天ですね。おじゃましました。前回は地形に満足して早々に立ち去りましたが、今回はゆっくり拝見させて頂きました。

■つわものどもが夢の跡■
かつて石神井川沿いに次々と拠点を設け、栄華を誇った豊島氏一族。1477年、太田道灌との戦いに敗れ、滝野川氏は本家の豊島氏とともに滅亡しました。石神井城や練馬城と同様、この地にあったとされる城もその後まもなく廃城となりました。

-------■滝野川城■-------
別 名:豊島城
築城年:不明(15世紀後半)
築城者:滝野川氏
城 主:滝野川氏
廃 城:1477年頃
現 状:金剛寺
[東京都北区滝野川]3丁目

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タグ:豊島一族
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