つわものどもが夢の跡
新田義貞率いる軍勢が鎌倉幕府軍と激突した古戦場を訪問しました。
<久米川古戦場碑>くめがわ
■新田義貞の挙兵■
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞は、鎌倉幕府を倒すべく上野国で挙兵しました。当初は少人数だったものの、鎌倉に向けて南下するほど人数は増え続け、利根川に至ったところで既に7千騎だったと言われています。各地の武士の心は、既に幕府から離れていた証拠ですね。打倒幕府の口火を切ったのが新田義貞でした。
■現地訪問■
最寄り駅は西武鉄道の東村山。駅を出てまずは伝説となったヒーローにご挨拶
<志村けん銅像>
新型コロナウイルスのため急逝した志村けんさん。背後のコメントの通りです。ありがとうございました。
続いて現地へ向かう途中に通った道
<旧鎌倉古道>
この何気ない道は古道だったようです。鎌倉街道に沿って南下した新田義貞も通った道かもしれません
<勝陣場橋>かつじんばばし
いい名前の橋ですね
<将陣場橋>しょうじんばばし
こんな橋も
<諏訪神社>
地名の由来となった神社です
<丘陵地帯>
ここまで平らな道を歩いてきましたが、低層の山が見えてきました。古戦場跡の石碑まであと少しです。
<久米川古戦場跡>
目的地に到着です。公園の隅に石碑と説明板が設置されています。
<説明板>
一部を抜粋させて頂きます(『』内は原文転記)。
まず『北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた』とのこと。そして『上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった』と記されていいます。群馬で挙兵し、鎌倉を目指す新田軍にとって、この地は通るべくして通った場所ということですね。
新田義貞率いる軍が利根川を越えたところで、足利尊氏の嫡子である千寿王が合流します。こういう言い方もなんですが、足利家は当時の新田家より明らかに格上です。有力者の加勢によりますます兵が集まり、新田軍は数万規模になったとされています。
これを迎撃したい幕府軍は、現在の所沢市北野(手指ヶ原)で新田軍と激突しますが敗退。
今回訪問の東村山市諏訪で、再び新田軍に襲い掛かりました。新田軍は奇襲に失敗して苦戦となりましたが、高台に陣を構えて態勢を整えます。
<八国山>
八国山は狭山丘陵の東端に位置し、東村山市と所沢市にまたがる山です。説明板の表現をそのまま引用させて頂くと『駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山』が見渡せたことが名の由来となっています。
新田軍は高低差を味方につけたわけですね。地理的優位を背景に、新田軍の反撃が始まりました。鎌倉幕府軍の激しい抵抗にあいましたが、最後は新田軍が攻めきり、ここでの勝負を決めました。
久米川の戦い
反幕府軍である新田軍の勝利です
これにより、反鎌倉幕府の機運はますます高まりました。次の戦いの場となる分倍河原(府中市)で、鎌倉幕府は実質滅亡しています。
<八国山登山道>
登ってみました
<低層の山中>
森の道を更に奥へ
<将軍塚>
新田義貞ゆかりの将軍塚です。元々ここにあった塚に義貞が旗を立てたことから、将軍塚と呼ばれるようになったといわれています。
鎌倉幕府を倒すことを目標に掲げた新田義貞にとって、久米川の戦いはまだまだ夢の途上での出来事です。最終的には幕府の本隊を滅ぼすことになりますが、この地で勝利を得た夜、どんな思いで次に備えていたのでしょうね。
<将軍塚の石碑>
つわものどもが夢の跡
■訪問:
久米川古戦場碑
[東京都東村山市諏訪町]
将軍塚
[埼玉県所沢市松が丘]
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■参考
現地説明文(東京都教育委員会)
Wikipedia:2024/2/10
2024年02月10日
徳蔵寺塁(東村山市)
東村山市の久米川古戦場跡を訪問した際、すぐ近くに砦跡と関係がありそうな場所があることを知り、足を伸ばしてみました。
<徳蔵寺山門>とくぞうじ
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門
事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…
<高低差>
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。
<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。
帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。
ということで
城跡巡りとしては以上です。
せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。
<徳蔵寺>
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。
<板碑保存館>
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目
お城巡りランキング
■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
<徳蔵寺山門>とくぞうじ
こちらです。住宅地に毅然と佇む山門
事前に調べることもなく、地図に記されていた徳蔵寺塁跡という文字だけが頼りの訪問です。素人の勝手な想像として、塁とつく以上は何らかの痕跡が残されているであろうと…
<高低差>
結論を言うと、徳蔵寺さんの境内及び周辺を探索しましたが、多少の高低差を実感できるのみでした。
<徳蔵寺橋と前川>まえかわ
周辺はすっかり住宅地となり、川も水路のようにコンクリで固められています。ただ、むかしはこの川沿いに低湿地が続き、右手(現在の徳蔵寺)の微高地が浮き島のようになっていたのかもしれませんね。
帰宅してから調べてみると、新田義貞ゆかりの城砦があった、あるいは義貞が戦勝祈願をしたという話を目にしました。しかし出典などが分からず、私としては曖昧なまま終了となりました。
ということで
城跡巡りとしては以上です。
せっかく立派なお寺さんなお邪魔させて頂いたので、迷惑にならない程度にご紹介だけせて頂きます。
<徳蔵寺>
長い歴史を誇る臨済宗大徳寺派の寺院です。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615〜1623)と伝わる由緒正しい寺院です。
<板碑保存館>
隣接するこの近代的な建物も徳蔵寺の一部です。国の重要文化財を含め、なんと150を越える板碑が保存されています。ホームページからして、新田義貞にゆかりがありそうな印象でしたが、素人会社員が下手な解釈をするのはやめておきます。参考として、徳蔵寺さんのホームページのリンクを下に貼っておきますので、より深く知りたい方はそちらを参考にお願い致します。
拙ブログにお付き合い頂きありがとうございました。
■訪問:徳蔵寺塁
[東京都東村山市諏訪町]1丁目
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■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/about/
・城郭図鑑
「板倉屋敷」
http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/012tokyo/159itakura/itakura.html
勝陣場橋(東村山市)古戦場に架かる橋
<勝陣場橋>かつじんばばし
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です
ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。
<久米川古戦場碑>
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。
<古戦場跡の橋>
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。
以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。
■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5
お城巡りランキング
■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
東村山市と所沢市の境を流れる北川に架かる橋です。戦に勝利した軍勢が通ったと伝わる橋です
ここは久米川古戦場跡のすぐ近く。鎌倉幕府を倒すために挙兵した新田義貞の軍勢が、これを阻止せんとする幕府軍と激突した場所です。結果は新田軍の勝利。橋の名は新田義貞にちなんだ呼び名ということになりますね。
<久米川古戦場碑>
この日の目的地です。古戦場碑と説明板が設置されています。古戦場そのものはこの周辺一帯であるといわていますので、先ほどの橋の付近も古戦場と…言えなくもない。
<古戦場跡の橋>
古戦場に架かる橋。せっかく来たので、そう思うことにしました。この付近には他にも将陣場橋、軍勢が勢揃いしたことに由来する勢揃橋があります。いかにも古戦場らしいネーミングですね。
以上です。
歴史素人の会社員ブログですので、その程度に受け止めて頂きますようお願い致します。
■訪問:勝陣場橋
[東京都東村山市久米川町]5
お城巡りランキング
■参考
・徳蔵寺HP
http://www.tokuzo-ji.com/highlight/
・東京の橋
https://www.djq.jp/bridge_liblary/river_maekita/tokyo_bridge_kita029_katsujinba.php
2023年03月29日
喰違見附のなごり(千代田区)
今回は見附の土塁を意図的に前後にずらして築いた虎口のなごりの話です。
<喰違見附跡>くいちがいみつけ
ただの道?まぁそうなんでが、奥の土塁が江戸城外郭門のなごりです。もうちょっと接近してみますかね。
<喰違虎口>くいちがこぐち
虎口とは入口のことで、ここは江戸城の内側へ進むための入口ということになります。左手前の土塁と右奥の土塁が前後にズレて築かれていること、伝わりますでしょうか?通り道をジクザクにすることで、直進を阻む効果があります。江戸城は近世城郭として完成しますが、このように道を「食い違い」にする方法は戦国時代の城でも多くみられます。
土塁の上から撮影しました。道の向こう側とは土塁がズレていますね。
<真田濠>さなだぼり
喰違見附の場所は真田濠(現在は上智大学がグラウンドとして使用)の南側です。喰違見附は真田濠や反対側の弁慶濠とセットで機能しますが、これらの堀が整備されるより前に、既に築かれていました。江戸城にとって、重要な場所だったことが伝わってきますね。城門としては、赤坂見附と四谷見附の間に位置しています。
■訪問:喰違見附
[東京都千代田区紀尾井町]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2023/3/29
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<喰違見附跡>くいちがいみつけ
ただの道?まぁそうなんでが、奥の土塁が江戸城外郭門のなごりです。もうちょっと接近してみますかね。
<喰違虎口>くいちがこぐち
虎口とは入口のことで、ここは江戸城の内側へ進むための入口ということになります。左手前の土塁と右奥の土塁が前後にズレて築かれていること、伝わりますでしょうか?通り道をジクザクにすることで、直進を阻む効果があります。江戸城は近世城郭として完成しますが、このように道を「食い違い」にする方法は戦国時代の城でも多くみられます。
土塁の上から撮影しました。道の向こう側とは土塁がズレていますね。
<真田濠>さなだぼり
喰違見附の場所は真田濠(現在は上智大学がグラウンドとして使用)の南側です。喰違見附は真田濠や反対側の弁慶濠とセットで機能しますが、これらの堀が整備されるより前に、既に築かれていました。江戸城にとって、重要な場所だったことが伝わってきますね。城門としては、赤坂見附と四谷見附の間に位置しています。
■訪問:喰違見附
[東京都千代田区紀尾井町]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2023/3/29
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見附跡の春(千代田区)牛込見附
<牛込見附跡>うしごめみつけ
牛込見附はいわゆる「江戸城三十六見附」のひとつ。江戸城から神楽坂などを経由して板橋方面に向かう道筋に目を光らせる役割を担いました。
<石垣>
石垣はそのなごりということですね
<説明板>
親切な説明がなされています。石垣に関するところを抜粋させて頂くと『江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。 江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のように二つの門を直角に配置した「枡形門」という形式をとっています。』と記されています。
<桜と石垣>
私の訪問は3月中旬の日曜日です。東京の桜のピークはまだ先ですが、ここだけ桜が見頃となっていることを知り、外出ついでに立ち寄りました。予想以上に人が多く、人の姿を避けて撮るのに苦労しました。先ほどの説明板によれば、むかしは周辺に楓が植えられ、秋になると紅葉が見事だったようです。
<牛込橋>
見附前の橋は見附とセットと言って過言ではありません。かつての牛込橋はその役割を担っていました。
<神楽坂>
牛込橋を渡って坂を下れば神楽坂です。人気の街ですので、人通りも多い訳ですね
江戸城牛込見附は、徳島藩主であった蜂須賀忠英によって建設されました(1636年)。蜂須賀?そう、ひいじいさんは秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。元服に際し、忠英は松平の称号を受けています。見附解体の際、石垣の角石に蜂須賀忠英を示す松平阿波守の文字が見つかったとのこと。石垣そのものが何よりの証拠となったわけですね。
<駅前>
牛込見附跡は飯田橋駅から徒歩0分
<ホーム>
ホームからも石垣が見えています
■訪問:牛込見附跡
[東京都千代田区富士見]2丁目
■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/29
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牛込見附はいわゆる「江戸城三十六見附」のひとつ。江戸城から神楽坂などを経由して板橋方面に向かう道筋に目を光らせる役割を担いました。
<石垣>
石垣はそのなごりということですね
<説明板>
親切な説明がなされています。石垣に関するところを抜粋させて頂くと『江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。 江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のように二つの門を直角に配置した「枡形門」という形式をとっています。』と記されています。
<桜と石垣>
私の訪問は3月中旬の日曜日です。東京の桜のピークはまだ先ですが、ここだけ桜が見頃となっていることを知り、外出ついでに立ち寄りました。予想以上に人が多く、人の姿を避けて撮るのに苦労しました。先ほどの説明板によれば、むかしは周辺に楓が植えられ、秋になると紅葉が見事だったようです。
<牛込橋>
見附前の橋は見附とセットと言って過言ではありません。かつての牛込橋はその役割を担っていました。
<神楽坂>
牛込橋を渡って坂を下れば神楽坂です。人気の街ですので、人通りも多い訳ですね
江戸城牛込見附は、徳島藩主であった蜂須賀忠英によって建設されました(1636年)。蜂須賀?そう、ひいじいさんは秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。元服に際し、忠英は松平の称号を受けています。見附解体の際、石垣の角石に蜂須賀忠英を示す松平阿波守の文字が見つかったとのこと。石垣そのものが何よりの証拠となったわけですね。
<駅前>
牛込見附跡は飯田橋駅から徒歩0分
<ホーム>
ホームからも石垣が見えています
■訪問:牛込見附跡
[東京都千代田区富士見]2丁目
■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/29
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2023年03月26日
小石川橋(千代田区)江戸城外郭門のなごり
今回は神田川に架かる橋の話です。
<小石川橋>
ただの橋?ではありますが、ここはもともと江戸城の城門が設けられていた地点です。
<説明板>
こちらに詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。
『江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、1636年(寛永13年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は1872年(明治5年)に取り壊され、その石材を利用して1877年(明治10年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。1895年(明治28年)に甲武鉄道飯田町駅が近くにできると、橋も修繕されました。この橋は関東大震災で被災し、1927年(昭和2年)に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化のため2012年(平成24年)に改修されました。』
江戸城外郭とは、外壕で囲まれた区域をさします。工事を請け負ったのは岡山藩の初代藩主池田光政。江戸城内濠の名だたる城門と同じく、外濠の場合も構造はいわゆる枡形門で、橋は城門とともに架けられました。
<説明板写真>
こんな外観だったのですね。説明板には『旧江戸城写真帖1871(明治4年)撮影』と記されています。橋は奥の枡形門とセットで見附としての役割を担っていました。
<現在の橋>
現在の橋は2012年に改修されたと記されていましたので、まだ新しいですね。現代の街並みにすっかり溶け込んでいますが、深い歴史を今に継承する橋と言えます。
■訪問:小石川橋
[千代田区飯田橋]3丁目
[文京区後楽]1丁目
■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/26
<小石川橋>
ただの橋?ではありますが、ここはもともと江戸城の城門が設けられていた地点です。
<説明板>
こちらに詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。
『江戸城外郭門のひとつ。小石川門は、1636年(寛永13年)岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造されました。明治維新後、枡形石垣は1872年(明治5年)に取り壊され、その石材を利用して1877年(明治10年)に日本橋川下流の常磐橋の石橋が建造されました。江戸時代の橋は門とともに架けられ、城門撤去とともに木橋が架け直されました。1895年(明治28年)に甲武鉄道飯田町駅が近くにできると、橋も修繕されました。この橋は関東大震災で被災し、1927年(昭和2年)に鋼橋に架け替えられましたが、老朽化のため2012年(平成24年)に改修されました。』
江戸城外郭とは、外壕で囲まれた区域をさします。工事を請け負ったのは岡山藩の初代藩主池田光政。江戸城内濠の名だたる城門と同じく、外濠の場合も構造はいわゆる枡形門で、橋は城門とともに架けられました。
<説明板写真>
こんな外観だったのですね。説明板には『旧江戸城写真帖1871(明治4年)撮影』と記されています。橋は奥の枡形門とセットで見附としての役割を担っていました。
<現在の橋>
現在の橋は2012年に改修されたと記されていましたので、まだ新しいですね。現代の街並みにすっかり溶け込んでいますが、深い歴史を今に継承する橋と言えます。
■訪問:小石川橋
[千代田区飯田橋]3丁目
[文京区後楽]1丁目
■参考及び抜粋
・現地説明板(千代田区)
・Wikipedia:2023/3/26
2023年02月28日
小石川後楽園の外壁(文京区)江戸城外堀の石垣材
小石川後楽園の外壁には、江戸城外堀の発掘調査で出土した石垣材が使われています。
小石川後楽園の西側です。築地塀も立派ですが、この日のお目当ては石垣の方です。
しっかりとプレートに記されています。外壁の全てではなく、あくまで外壁の一部が、かつての外堀で使用された石材が使われているようです。
ここで活かされたわけですね。石材の再利用とも言えますが、貴重な遺構と受け止めました。
矢穴の跡もくっきり。本物ですね
刻印もくっきり。これは山という字ですね
江戸城築城には多くの諸大名が関わっています。石垣の刻印は誰が工事を請け負ったかの手がかりとなりますが、見ただけで分かる人は稀ではないでしょうか?
ちなみに、この石垣材の「山」の刻印は、備中成羽藩山崎家のです。なぜそう言い切れる?これはWIKIさんのお陰です。成羽藩(なりわはん)のページに記された山崎家と今回の石垣に関係するところを、下記に転記させて頂きます。『』内は原文のままです。
『寛永13年(1636年) 、江戸城外堀普請(丸の内1丁目鍛冶橋付近)において、親戚筋の備前国岡山藩主池田光政を組頭とする石垣方四組に属し普請を行っている。その後その石垣は小石川後楽園に移設され、現在でも山崎家の刻印が掘られた石垣を見ることができる。』
工事のチームリーダーは岡山藩主の池田家だったようですね。ということは池田家の印が刻まれた石もあるのかもしれません。私はあっさりと退散してしまいましたが、興味のある方は宝探しのつもりで探してみて下さい。
ということで
小石川後楽園外壁の石垣のご紹介でした。
■訪問:小石川後楽園
(西側の外壁付近)
[東京都文京区後楽]1丁目
■参考及び出典■
Wikipedia:2023/2/28
お城巡りランキング
小石川後楽園の西側です。築地塀も立派ですが、この日のお目当ては石垣の方です。
しっかりとプレートに記されています。外壁の全てではなく、あくまで外壁の一部が、かつての外堀で使用された石材が使われているようです。
ここで活かされたわけですね。石材の再利用とも言えますが、貴重な遺構と受け止めました。
矢穴の跡もくっきり。本物ですね
刻印もくっきり。これは山という字ですね
江戸城築城には多くの諸大名が関わっています。石垣の刻印は誰が工事を請け負ったかの手がかりとなりますが、見ただけで分かる人は稀ではないでしょうか?
ちなみに、この石垣材の「山」の刻印は、備中成羽藩山崎家のです。なぜそう言い切れる?これはWIKIさんのお陰です。成羽藩(なりわはん)のページに記された山崎家と今回の石垣に関係するところを、下記に転記させて頂きます。『』内は原文のままです。
『寛永13年(1636年) 、江戸城外堀普請(丸の内1丁目鍛冶橋付近)において、親戚筋の備前国岡山藩主池田光政を組頭とする石垣方四組に属し普請を行っている。その後その石垣は小石川後楽園に移設され、現在でも山崎家の刻印が掘られた石垣を見ることができる。』
工事のチームリーダーは岡山藩主の池田家だったようですね。ということは池田家の印が刻まれた石もあるのかもしれません。私はあっさりと退散してしまいましたが、興味のある方は宝探しのつもりで探してみて下さい。
ということで
小石川後楽園外壁の石垣のご紹介でした。
■訪問:小石川後楽園
(西側の外壁付近)
[東京都文京区後楽]1丁目
■参考及び出典■
Wikipedia:2023/2/28
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2022年12月17日
古戦場はどこだったのか(高輪原の戦い)
<高輪3丁目付近>
武蔵国進出を目論む北条氏綱が、扇谷上杉軍と激突した高輪原の戦い。高輪原、つまり現在の港区高輪です。高級な街として知られていますが、起伏も多く、地形的に興味深い街です。大筋では、北西一帯が台地上、南東は海に向かって低地となっています。今回はそんな街を訪ねてみたという内容です。
■品川駅から高輪方面へ■
この日は品川駅から高輪方面を目指して歩きました。理由はシンプルで、武蔵野台地上の高輪と、海に面していた低地の高低差を実感するためです。スタート地点の品川駅一帯は、もともとは海辺でした。
<高山稲荷神社>
まずはこちらにお邪魔しました。いまでこそ低い位置にありますが、むかしは丘の上の神社で、江戸湾を行き来する船の目標となったそうです。
<柘榴坂>ざくろざか
では台地を登ります。高輪三丁目と四丁目の境になっている坂道です。今でこそ真っ直ぐですが、むかしは曲がりくねった坂だったようです。方角で言うと、品川駅から西に向かっています。
<武蔵野台地の隅>
コンクリの街で土の斜面。向かっている先が台地の隅であること、少しは伝わるかと思います。某施設の駐車場の奥でしたが、警備の方のお許しを得て、一枚だけ撮らせて頂きました。ありがとうございました。
<高輪カトリック教会>
柘榴坂を登りきりました。
<台地上>
あとは平らな地形が続きます。
<路地>
歩き回りましたが、いかにも都会の街で、古戦場を連想させるものは何もありません。
<高野山東京別院>
江戸時代に高野山江戸在番所高野寺として建立された立派な寺院です。
<広い境内>
高輪としてはかなり広い空間が確保されていました。
<国道1号線>
あと広々とした空間といえば国道1号線くらいでしょうか
ということで、予想通りではありますが、ぎっしりと建物が立ち並び、いかにも古戦場という景色には出会えませんでした。まぁ北条軍と扇谷上杉軍は何度も激突したというのですから、特定の場所というより、この高輪の台地上のあちらこちらで戦ったのでしょう。そういえば、渋谷城を訪問した時に、高輪原の戦いの余波で渋谷城が焼き払われたという情報を得ました。両軍の争いは高輪に限らず、江戸城からみて南側の広範囲で起こっていたのだと思うことにします。
<港区旧町名由来板>
こんな説明板を見つけたのでのぞいてみました。
<説明文>
高輪の名の由来?こちらの説明によれば、高台の縄手道(=あぜ道)から高縄と呼ばれ、のちに高輪に書き改めてられたとのこと。なるほど。地形や道の様子が伝わってくる感じがしました。北条軍も扇谷上杉軍も、高台のあぜ道、まぁ一本道のようなものでしょう、そこを通って兵を進め、ある程度まとまった平地でで激突した。勝手な想像ですが、そう思うことにしました。
■高輪原の戦い■たかなわはら
高輪原の戦いとは、小田原城を拠点に武蔵方面への勢力拡大を画策する北条氏綱と、そうはさせじと立ちはだかる扇谷上杉家が、現在の高輪付近で激突した戦いです(1524年)。
武力だけではなく、調略にも長けていた氏綱は、扇谷上杉家の有力家臣だった太田資高(すけたか)を既に寝返らせていました。資高の祖父はあの太田道灌です。扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献しながら、主に暗殺されてしまった悲劇の名将です。資高は扇谷上杉家に従ってはいましたが、そのことを決して忘れることはなかったことでしょう。江戸城を任されていた資高の内応を受け、北条氏綱は一気に軍を進めました。
扇谷上杉家は大軍を動かしてこれを迎え撃ち、高輪原で激しい戦闘となりました。両軍は一進一退を繰り返しながら何度も戦ったようです。北条軍の圧勝という情報もありますが、互角の勝負だったのでしょうか。ただ、最後の最後はやはり北条軍が勝り、扇谷上杉軍は撤退することになりました。
高輪原の戦い
北条氏綱の勝利
ということです。
ただこれでは終わらず、北条軍は扇谷上杉軍が逃げ帰った江戸城にまで押し寄せました。その結果、扇谷上杉家の当主である朝興は河越城まで逃走します。居城である江戸城を放棄せざるを得なかった背景には、太田資高の内通があったと考えられます。
江戸城はもともと資高の祖父・太田道灌が築いた城です。
じっちゃんの仇だ!
そんな思いもあったかもしれませんね。
早雲の意志を継ぐ北条氏綱の戦いはまだまだ続きますが、今回は高輪がテーマなのでここまでにします。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:高輪付近
[東京都港区高輪]
■参考
港区旧町名由来板
Wikipedia:2022/12/17
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武蔵国進出を目論む北条氏綱が、扇谷上杉軍と激突した高輪原の戦い。高輪原、つまり現在の港区高輪です。高級な街として知られていますが、起伏も多く、地形的に興味深い街です。大筋では、北西一帯が台地上、南東は海に向かって低地となっています。今回はそんな街を訪ねてみたという内容です。
■品川駅から高輪方面へ■
この日は品川駅から高輪方面を目指して歩きました。理由はシンプルで、武蔵野台地上の高輪と、海に面していた低地の高低差を実感するためです。スタート地点の品川駅一帯は、もともとは海辺でした。
<高山稲荷神社>
まずはこちらにお邪魔しました。いまでこそ低い位置にありますが、むかしは丘の上の神社で、江戸湾を行き来する船の目標となったそうです。
<柘榴坂>ざくろざか
では台地を登ります。高輪三丁目と四丁目の境になっている坂道です。今でこそ真っ直ぐですが、むかしは曲がりくねった坂だったようです。方角で言うと、品川駅から西に向かっています。
<武蔵野台地の隅>
コンクリの街で土の斜面。向かっている先が台地の隅であること、少しは伝わるかと思います。某施設の駐車場の奥でしたが、警備の方のお許しを得て、一枚だけ撮らせて頂きました。ありがとうございました。
<高輪カトリック教会>
柘榴坂を登りきりました。
<台地上>
あとは平らな地形が続きます。
<路地>
歩き回りましたが、いかにも都会の街で、古戦場を連想させるものは何もありません。
<高野山東京別院>
江戸時代に高野山江戸在番所高野寺として建立された立派な寺院です。
<広い境内>
高輪としてはかなり広い空間が確保されていました。
<国道1号線>
あと広々とした空間といえば国道1号線くらいでしょうか
ということで、予想通りではありますが、ぎっしりと建物が立ち並び、いかにも古戦場という景色には出会えませんでした。まぁ北条軍と扇谷上杉軍は何度も激突したというのですから、特定の場所というより、この高輪の台地上のあちらこちらで戦ったのでしょう。そういえば、渋谷城を訪問した時に、高輪原の戦いの余波で渋谷城が焼き払われたという情報を得ました。両軍の争いは高輪に限らず、江戸城からみて南側の広範囲で起こっていたのだと思うことにします。
<港区旧町名由来板>
こんな説明板を見つけたのでのぞいてみました。
<説明文>
高輪の名の由来?こちらの説明によれば、高台の縄手道(=あぜ道)から高縄と呼ばれ、のちに高輪に書き改めてられたとのこと。なるほど。地形や道の様子が伝わってくる感じがしました。北条軍も扇谷上杉軍も、高台のあぜ道、まぁ一本道のようなものでしょう、そこを通って兵を進め、ある程度まとまった平地でで激突した。勝手な想像ですが、そう思うことにしました。
■高輪原の戦い■たかなわはら
高輪原の戦いとは、小田原城を拠点に武蔵方面への勢力拡大を画策する北条氏綱と、そうはさせじと立ちはだかる扇谷上杉家が、現在の高輪付近で激突した戦いです(1524年)。
武力だけではなく、調略にも長けていた氏綱は、扇谷上杉家の有力家臣だった太田資高(すけたか)を既に寝返らせていました。資高の祖父はあの太田道灌です。扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献しながら、主に暗殺されてしまった悲劇の名将です。資高は扇谷上杉家に従ってはいましたが、そのことを決して忘れることはなかったことでしょう。江戸城を任されていた資高の内応を受け、北条氏綱は一気に軍を進めました。
扇谷上杉家は大軍を動かしてこれを迎え撃ち、高輪原で激しい戦闘となりました。両軍は一進一退を繰り返しながら何度も戦ったようです。北条軍の圧勝という情報もありますが、互角の勝負だったのでしょうか。ただ、最後の最後はやはり北条軍が勝り、扇谷上杉軍は撤退することになりました。
高輪原の戦い
北条氏綱の勝利
ということです。
ただこれでは終わらず、北条軍は扇谷上杉軍が逃げ帰った江戸城にまで押し寄せました。その結果、扇谷上杉家の当主である朝興は河越城まで逃走します。居城である江戸城を放棄せざるを得なかった背景には、太田資高の内通があったと考えられます。
江戸城はもともと資高の祖父・太田道灌が築いた城です。
じっちゃんの仇だ!
そんな思いもあったかもしれませんね。
早雲の意志を継ぐ北条氏綱の戦いはまだまだ続きますが、今回は高輪がテーマなのでここまでにします。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:高輪付近
[東京都港区高輪]
■参考
港区旧町名由来板
Wikipedia:2022/12/17
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