2021年05月12日

天神山城のなごり(三鷹市)

つわものどもが夢の跡
今回は三鷹市の川沿いの丘に残る城のなごりの話です。
<天神山城>てんじんやまじょう
Tenjinyamajo.JPG
こちらです。斜面を下った先には川が流れています。城に関する詳細は不明ですが、深大寺城の支城として築かれたとする説、小田原北条氏が築いたとする説などがあります。

<仙川>せんかわ
Sengawa-River.JPG
こちらは城跡の麓をかすめるように流れる仙川。今でこそ護岸をコンクリで固められ、まるで人工の水路のようですが、古くからあった自然の川です。

<仙川と天神山城跡>
Riverside-Small-mountain.JPG
仙川を挟んで撮影するとこんな感じです。川が奥でカーブしているとこ、伝わりますでしょうか。

<地図>
Tenjinyama-Map.JPG
こちらの地図で見れば一目瞭然ですね。現在位置(新川天神山青少年広場)が城跡。川は地形に合わせて蛇行し、城は川に向かって突き出た丘陵に築かれました。

<公園入口>
Tenjinyamajo-Mitaka.JPG
天神山は公園として整備されています。先ほどの地図はここで撮影したものです。

<土塁>
Tenjinyamajo-dorui.JPG
これは土塁跡とみなしてよさそうですね。向こう側(右手奥)は逆に掘り下げられたような跡がありました。

<曲輪>
Tenjinyama-Bailey.JPG
ここ全体がひとつの曲輪と思われます。ただ、エリアによって微妙な高低差があるので、もともとは複数の曲輪が設けられていたものの、のちの時代に平らにされてしまったのか?などなど、勝手に想像して楽しみました。

<堀切?>
Tenjinyama-River.JPG
再び仙川を挟んだ画像です。白い塀が見えているお隣(左手)との間は丘が窪んでいます。人の手で削られたのかもしれません。堀切でしょうか?あそこが城の端だと仮定して、小規模な単郭式の砦だったのだろうとか、あるいは城跡らしきところは主郭に過ぎないとか、勝手に想像するのも楽しみ方のひとつです。


さて
冒頭にも触れさせて頂きましたが、あくまで天神山城の詳細は不明です。ただ深大寺城の支城あるいは小田原北条氏の築城だとすれば、時期的には1537年頃と推定するのが妥当ではないでしょうか。というのも、河越(川越)を拠点とする扇谷上杉氏が、小田原の北条氏の進軍に備えるべく、配下の難波田広宗に深大寺城を整備させたのがだいたいその頃。この時、攻め手の北条氏綱は直接深大寺城を攻撃することなく、けん制しながら通り過ぎてしまいました。いわばスルーした訳ですね。この「けん制」のために築いた陣城が今回訪問の天神山城だとしたら、やはり築城は同じ頃ということになりますね。

当時の北条氏は、早雲(伊勢盛時)の後を継いだ氏綱が、相模から関東全体へ勢力を拡大していた時期です。深大寺城を通過した氏綱は、そのまま北上して河越城を見事攻め落としました。これが1537年の出来事です。これにより、既に陰りの見えていた扇谷上杉家は、更に北の松山城(埼玉県吉見町)へ逃れることになりました。

<つわものどもが夢の跡>
Tenjinyama-Castle.JPG
北条氏綱の陣城と仮定すると、大きな結果に繋がる重要な役割を担った城跡ということになりますね。伝わる話に素人会社員が仮説を立てて妄想しているだけですが、そんな楽しみ方もあることを共有できれば幸いです。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

------■ 天神山城 ■------
別 名:天神山砦
築城主:不明(北条?扇谷上杉?)
築城年:不明(1537年頃?)
城 主:不明(北条?扇谷上杉?)
現 状:新川天神山青少年広場
[東京都三鷹市新川]2丁目


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2021年05月04日

島屋敷跡と柴田勝家ゆかりの勝淵神社(三鷹市)

つわものどもが夢の跡
今回は徳川幕府に旗本として仕えた柴田勝重の屋敷跡の話です。勝重?でピンとこない方も多いかと思います。祖父の名は勝家。織田信長の重臣で、のちの勢力争いで秀吉に敗れたあの柴田勝家ですね。その孫が勝重です。
<島屋敷跡>
Shima-Yashiki.JPG
こちらです

<新川団地>
Housing-complex.JPG
場所は三鷹市新川の団地内。緑が多く、整備された素敵な生活空間です。冒頭の説明板は、団地内のバス亭近くの少し奥まったところにひっそりと設置されています

あれ、遺構は?
はい、ありません。立派な説明板だけが唯一の手掛かりです。

<島屋敷遺跡>
Shima-Yashiki-Explanation-Board.JPG
ちょっと見にくくてすみません。ここに『島屋敷』と発掘調査の実績が記されています。この団地内に遺構が確認されたことは事実のようです。

<新川・島屋敷通り>
Shima-Yashiki-Street.JPG
通りの名にもかつて屋敷があったなごりが漂います。その屋敷の主が、柴田勝重ということになります。

柴田勝重は、関ヶ原の戦いで初陣を飾り、大坂の陣での働きが認められて、仙川村付近を含む5百石を加増されました。既に2千石を与えられていたので計3500石です。凄いですね。越前や加賀を支配した祖父と比較しては元もこもありませんが、決して少なくありません。

あと、厳密なことを言えば、勝重は柴田勝家の直系の孫ではありません。勝重の父は柴田勝家の姉の子であり、武勇が認められて柴田家の養子となりました。ただ、血縁者であることに変わりはありませんね。

<周辺>
Yashiki (1).JPG
高台というほどではないですが、近くを流れる仙川の谷と比較すると、明らかに高い位置にあります。先ほどの説明板によれば、この高低差こそが『島屋敷』と呼ばれる由来ということになります。また、柴田勝重が屋敷を構える以前から、この地には武蔵七党のひとつ村山党の金子氏居館があったことも記されていました。低湿地に囲まれた島のような微高地は、拠点を構えるのに何かと都合が良かったのでしょう。

<説明板>
Yashiki-Explanation-Board.JPG
周辺を散策していたら別の説明板を見つけました。向こう側は土塁?いやいや、団地として造成した時のなごりでしょう

<仙川>せんかわ
Sengawa-River.JPG
近くを流れる川。多摩川水系野川支流の仙川です。現在の仙川の上流は人工の川ですが、この付近は昔からある自然の川。地形に合わせて蛇行して流れます。

<丸池公園>
Maruike-Park.JPG
屋敷から仙川を渡って数百メートルのところにある丸池公園

<丸池>
Maruike.JPG
こちらはかつてこの付近にあった「丸池」と呼ばれる池を復元したものです。台地から低地へ変わるこの付近からはたくさん水が湧き出していたことから「千釜」と呼ばれ、それが仙川の名の由来といわれています(諸説あり)。

そして
<低地から見た台地>
Katsubuchi-hiii.JPG
かつて湿地帯だったなごりの丸池からすぐ近くの丘に神社があります

<勝淵神社>かつぶち
Katsubuchi-Jinja-Gate.JPG
ここにはもともと水を司る神の祠があったとのこと。この地を柴田勝重が領したことで、柴田家ゆかりの神社として生まれ変わりました。

<柴田勝家の兜>
Explanation-Board.JPG
Katsubuchi-Jinja.JPG
仙川に陣屋を構えた勝重は、屋敷近くのこの地に神社を建立し、祖父・勝家の兜を埋納したと伝わります。先祖の大切な宝を地中に納める。この地で生きてゆく覚悟のような思いを想像するのは私だけでしょうか。54歳で没した勝重の墓も、同じく三鷹市新川にあります。

<つわものどもが夢の跡>
Katsubuchi-Shrine.JPG

■訪問■
島屋敷遺跡
[東京都三鷹市新川]4丁目25
勝淵神社
[東京都三鷹市新川]3丁目20

■参考■
・Wikipedia:2021/5/4
・現地説明板



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2021年05月03日

砦があったとされる調布市柴崎の丘(柴崎陣屋)

つわものどもが夢の跡
かつて武士の砦があったと伝わる調布市の丘を訪ねました。
<柴崎稲荷神社>しばさき
Shrine-on-the-hill.JPG
最寄り駅は京王線の柴崎駅。徒歩圏内の住宅地の小高い丘に鎮座するこの稲荷神社周辺が、砦跡ではないかと言われています。

■現地訪問■
<柴崎稲荷神社参道>
Approach-Shibasakijinja.JPG
ここから入ります

<坂道>
ShibasakiJinya-Slope.JPG
左手側に見えている鳥居が今回の目的地。それにしとも右側の道はかなりの急こう配です。

<急こう配>
Steep-Slope.JPG
横からみるとこんな感じです。徒歩以外で登るのはちょっと厳しいですね。神社の境内がそのまま砦跡だと仮定すると、丘の中腹を造成して築かれた?そんな感じになりますかね

<鳥居>
Shibasaki-Shrine-Gate.JPG
砦跡のつもりで訪問していますが、当然一礼して潜らせて頂きました。旧柴崎村の鎮守です。よそ者がお邪魔致します。

<稲荷神社>
Shibasaki-Inari- Shrine.JPG
稲荷神社です。祭神は倉稲魂命ですね。高台に鎮座しています。

<拝殿>
Shibasaki-Inari- Shrine-Main.JPG
大きすぎず小さすぎず。綺麗に管理されていて、凛とした空気が漂います。創建年代は不詳ですが、小田原北条氏の時代に社地の寄進を受けていたとのこと(参考サイト『猫の足あと』)。つまり戦国時代には既に存在していたわけですね。では砦だったというお話は、それよりもっと以前ということでしょうか…

<周囲との高低差>
difference-of-elevation.JPG
まぁ砦であってもおかしくない地形ですが…なんとも言えません

現地に城に関する説明板などはありません。武蔵七党のひとつ、与野党の柴崎氏(地名のままですね)の砦跡、あるいは江戸氏一族で、太田道灌に追われて現在の世田谷区喜多見に逃れた木田見(喜多見)の砦跡ではないかと言われています。

調布市と言えば深大寺城が有名ですね。ここから比較的近いのですが、支城?だったとか、何となく関係がありそうですがはっきりしません。

<丘の麓>
Jinya-Shibasaki.JPG
鳥居の手前は一段と低くなっています

<暗渠>あんきょ
ShibasakiJinya-Ankyo.JPG
蓋をされていますが水路ですね。かつての堀のなごり?という期待を込めて眺めましたが、開発途上で造られた用水路のなごりですね(たぶん)。

通りから奥に入った場所ですが、思いのほか人目につきます。階段を登ったり降りたり、はたまた水路に入り込んだりと、どう考えても怪しい行動をしているので、早々に立ち去りました。

かつてこの丘に何らかの砦があったのだろう

確証はないのですが、地形だけは納得ししました。少なくとも、むかしは見晴らしが良く、低地を遠くまで見渡せる場所だったのでしょう。それを実感できただけで満足です。

------■ 柴崎陣屋 ■------
別 名:柴崎城・柴崎館
築城主:不明(柴崎氏?)
築城年:不明(柴崎氏?)
城 主:不明(柴崎氏?)
現 状:柴崎稲荷神社
[東京都調布市柴崎]2-11-4

■参考■
・Wikipedia:2021/5/3
・猫の足あと

https://tesshow.jp/tama/chofukomae/shrine_chofu_shibasaki.html


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2020年09月13日

雉子橋見附門のなごり

前回は日本橋川沿いの一ツ橋門跡をご紹介させて頂きました。その数百メートル上流の橋で、こんな説明板を見つけました。
<雉子橋>きじばし
shirononagori481 (4).jpg
<説明板>
shirononagori481 (3).jpg
橋の説明かと思いきや見附?

一ツ橋門のすぐそばですが、どうやらこちらにも雉子橋門と呼ばれる城門があったようです。江戸城に近いだけあって、随分厳重に守りを固めていたのですね。城門が設けられたのは『1629年(寛永6年)』とありますから、江戸初期には既に城門があったわけですね。

名前のキジですが、これは『家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したこと』に由来するのこと。なるほど。キジがご馳走だったわけですね。当時の人が肉を食するイメージがなかったので意外ですが、鳥は比較的よく食べられていたようで、その中でもキジは上等な食材だったようです。そのキジで朝鮮の使節(朝鮮通信使)をもてなす。秀吉の朝鮮出兵を機に日本と朝鮮の関係は悪化していましたが、徳川家康が関係改善に力を注いでいた様子がうかがえる興味深い呼び名ですね。

江戸時代の雉子橋は、いまよりもうちょっと西側にあったそうです(ようするに日本橋川の流路がいまとは違うという意味です)。明治になると城門は撤去され、橋は鉄橋となりました。現在の橋は関東大震災後の大正14年(1925年)日に架けられたものとのこと。

一ツ橋門跡のように城門の石垣が残されている訳ではありませんが、説明板のお陰で足を止めることになり、いろんな想像をさせてもらいました。

<日本橋川の石垣>
shirononagori481 (1).jpg
見附そのものの痕跡はありませんが、この付近の日本橋川の護岸には、いまでも沢山の石垣が残されています。

■訪問
雉子橋(雉子橋見附跡)
[東京都千代田区一ツ橋]

■参考資料:現地説明板


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-------追 記-------

実は雉子橋のすぐ近くでこんな光景と出会いました。

<街のなかの石垣>
shirononagori481 (2).jpg
枡形の石垣か?

かなり立派な石ばかりです。もしかしたら、雉子橋見附を取り壊した時の石を積み直したのかもしれません。本文に入れなかったのは、どうもそうらしいというだけで、はっきりしなかったからです(一応調べたのですが確証なく断念)。若干積み方に違和感もありましたが、迫力満点の石垣です。もし雉子橋見附のものなら、残してもらったことに感謝です。

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2020年09月10日

高架下の城のなごり (一ツ橋門跡)

今回は日本橋川沿いを歩いていて偶然見つけた城のなごりの話です。

<一ツ橋門跡>
shirononagori480 (2).jpg
あの形はもしかして

高架下の目立たない所にありますが、明らかに城門の土台となる石垣です。こんなブログをやっていますが、意識して訪問したわけではなく、まったくの偶然でした。この日は真夏日で、江戸城の平川門跡に寄ったあと、強い日差しを避けて高速道路の日陰に逃げ込んだことが幸いしました。

<一ツ橋>ひとつばし
shirononagori480 (5).jpg
場所は日本橋川に架かる一ツ橋のたもと

<現地地図>
shirononagori480 (4).jpg
ここです。平川門から信号を渡って日本橋川に向かって歩けばすぐ。現地では川より高速道路の方が目立つので、そちらを目印にした方が良いかもしれません。

冒頭の石垣は一ツ橋を渡った先にあります。古地図などで確認すると、城門は橋とほぼセットで機能していたようです。

<橋の上から撮影>
shirononagori479.jpg
ちょっと薄い・・・

桝形門という立派な構造だったようです。これだけで原型を想像するのはちょっと難しいので、同じく桝形門だった日比谷見附の石垣を参考までに貼っておきます。

<比較用:日比谷見附跡>
shirononagori271 (1).JPG
こちらは日比谷見附跡です。門そのものはありませんが、石垣の一部が残っている状態です。あくまで参考です。一ツ橋門の石垣も、きっとこれくらい重厚なものだったことでしょう。

ちなみに
桝形門とは、石垣などで周囲を囲まれた方形の区画を確保して、出入口に門を設ける構造をいいます。ちょっと説明が雑ですかね。城用語を説明した投稿がありますので、良かったら覗いてみて下さい。

桝形・桝形虎口・桝形門
→記事へすすむ


<護岸の一部>
sn480.jpeg
桝形門の大半は取り壊されましたが、川に面した部分は護岸の一部として機能しているため、残されたわけですね(推定)。石垣が崩れないように反対側はコンクリで固められています。

橋を渡ってもうちょっと近づいてみました。

<隅石>
shirononagori480 (3).jpg
立派な隅石です。石垣の強度を保つ上で最も重要視されるのがこの隅っ子の石。比較的大きな石を綺麗な方形に加工し、長短を交互にして積み上げていきます。算木積み(さんぎづみ)という技法で、江戸城に限らず、近代城郭では決して珍しい技法ではありません。ただ、石垣全体がこのような姿になっているだけに、妙に愛おしく感じてしまいます。

後で調べて分かったのですが、残されている部分は枡形の櫓台のようです。さぞりっぱな石垣だったのでしょう。江戸城三十六見附(赤坂見附や虎ノ門といった江戸城の主要な出入口の総称)の一つに数えられる城門でした。その当時の石垣が、目立たない高架下に人知れず残っているわけですね。

さてさて
貴重な歴史の痕跡ではありますが、石垣に関する説明板は見当たりません。ただし一ツ橋についての説明板はありました。そこには『内濠川に架かる見附橋』と記されており、『徳川家康が江戸城に入ったころは、大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていた』とありました。家康が江戸に入る以前から、一ツ橋と呼ばれていたわけですね。橋が『一つ』で一ツ橋。なるほど。これとは別に、橋の付近で二つの川が合流して『一つ』になる地点だったから一ツ橋と呼ばれたというお話もあります。まぁいずれにせよ、架かっていた橋の名はそのまま地名となり、のちには地名に由来して、徳川家の血縁が一ツ橋家と称しました。先ほどの地図の中央下に丸紅東京本社ビルとありますが、こちらは一橋徳川家の屋敷跡です。

<城門のなごり>
shirononagori480 end.jpg
明治になって一ツ橋見附は撤去されました。取り除かれなかった石垣が、城門のなごりを留めています。

■訪問:江戸城一ツ橋門跡
[東京都千代田区一ツ橋]


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-------追 記-------

文中にあった平川門付近の画像を貼っておきます。こちらは今でも有名な江戸城の出入り口。一ツ橋門見附のご紹介はちょっとマニアックなので、まずはこちらを目当てに訪問されることをお勧めします。

<平川橋>
sn480hira.jpg
一橋徳川家の登城口でもありました
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2020年07月23日

城跡として訪ねる豪徳寺(世田谷城)

今回の訪問は世田谷区の豪徳寺です。大名井伊家の菩提寺として知られている一方で、招き猫発祥の地としても知られ、縁起の良いスポットとして人気です。

■豪徳寺の概要■ごうとくじ
sn452GOTOKOJI (34).jpg
曹洞宗の寺院です。当地は戦国時代には吉良家の居城・世田谷城でした。城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提のために創建した臨済宗弘徳院が豪徳寺の前身と言われています。江戸時代に井伊家菩提寺となり、豪徳寺と改号されました。

<井伊家菩提寺>
ShiroAnkyo452 (2).jpg

<井伊家墓所>
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この先が彦根藩主井伊家墓所です。なかの撮影は遠慮させて頂きました。13 代藩主・井伊直弼のお墓もこちらです。

<鐘楼>
sn452GOTOKOJI (27).jpg

<三重塔>
sn452GOTOKOJI (33).jpg

そして人気のスポット

<松福庵(招福庵)>
sn452GOTOKOJI (10).jpg
sn452GOTOKOJI (12).jpg
sn452GOTOKOJI (26).jpg

はい
詳細は省略しますが境内はだいたいこんな感じです。


■城跡として訪ねる豪徳寺■
では
ここからは城跡目線で

sn452GOTOKOJI (25).jpg
まず参道です。世田谷城は丘の上に築かれたほぼ単郭(主郭のみ)の城です。現在の豪徳寺の境内がほぼそのまま主郭と思って間違いないです。ここは曲輪の南側の虎口(入口)です。両脇の黒松も見事ですが、土が盛ってあることを意識すると、いかにも城への侵入口であること感じることができます。ちょっと思い込みも必要ですが

sn452GOTOKOJI (8).jpg
塀でわかりにくいですが、土塁のなごり

sn452GOTOKOJI (15).jpg
塀の向こう側はもっと分かりやすい。主郭の虎口(入口)へ向かう道の両側に土塁があり、たぶんその途中に門が設けられていたのでしょう。

shirononagori452 (3).jpg
境内ギリギリまで土塁

次に境内

shirononagori452 (5).jpg
境内の起伏ですが『首塚碑』がありましてので参考程度に

では
城の外周も見て回りますかね

sn452GOTOKOJI (9).jpg
豪徳寺東門です。正確にこの位置かどうか分かりませんが、この付近にも城への侵入口があったと思われます。
sn452GOTOKOJI (7).jpg
東門を入った左手。整備されて境内に溶け込んでいますが、石は別として、これがかつての土塁のラインであろうと受け止めました。つまりここより右手(北側)が主郭であろうと。あくまで個人的見解です。

次に北側へ

sn452GOTOKOJI (24).jpg
豪徳寺裏門です。南側・東側に続き、この付近にも城への侵入口があったと思われます。しかも主郭に直結する虎口だったと思います。また個人的に

ではちょっと豪徳寺を離れて

南側へもう一度戻って坂を下ります。繰り返しますが世田谷城の主郭(豪徳寺)は丘の上ですので、谷へ移動することになります。そんなことも実感しながら移動すると

sn452GOTOKOJI (31).jpg
世田谷城阯公園です。

sn452GOTOKOJI (18).jpg
二重堀の跡でしょうか。いわゆる城の遺構です。ここだけが城跡と思っている方も多いようですね。主郭は丘の上の豪徳寺として、ここは麓の出城のような存在だったのでしょう。

sn452GOTOKOJI 5.jpg
説明板に地図があります。ちょっと拡大してみてみますかね

sn452GOTOKOJI (19).jpg
北側の高台が豪徳寺。現在位置の世田谷城阯公園は南側の麓。こういう構造です。

地図をよく見ると、世田谷城阯公園より更に南側に緑色の線が入っていますね。これはかつての川で、現在は緑道となっています。この川(緑道)が、ここで一旦ゆるやかに南側へ蛇行しているのは、豪徳寺がある高台が南側の低地へ向かって突き出ているから。いわゆる舌状台地ということですね。

城にとっての川
天然堀ということです

どうせここまで来たのですから、この城にとっての『地の利』までも味わうことをお勧めします!

ということで川跡へ

sn452GOTOKOJI (29).jpg
烏山川の跡です。緑道となっていますが、かつての川です。ここには『城下橋』と名付けられた橋が架かっていたようです。

ShiroAnkyo452 (1).jpg
ここには『城向橋』という橋が架かっていたようです。川がないので橋もなくなりましたが、こうやって記してくれることが嬉しいですね。

ShiroAnkyo452 (3).jpg
正確に言うと、烏山川はなくなったのではなく、地下に埋設されただけ。地上からは姿を消しましたが、見方を変えると現役の川なのです。蓋をされた川。いわゆる暗渠ですね。

以上です
こんな風な目線で豪徳寺を訪ねる人もいる。城好きの人と、それが共有できれば幸いです。

■世田谷城について■
世田谷城の築城については詳細不明ながら、吉良治家が1366年に築城したと考えられています。足利一門の名族だけに、周囲からは一目置かれる存在だったそうです。15世紀後半には、あの太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄しました。やがて小田原の北条氏が関東の覇者として君臨しますが、吉良頼康の代に北条氏と縁戚関係をもち、実質は配下でありながら、他とは異なる待遇だったようです。
1590年の秀吉による北条征伐後、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。

つわものどもが夢の跡
sn452GOTOKOJI (1).jpg

------■世田谷城■------
築城主:詳細不明(吉良治家)
築城年:詳細不明(1366年)
城 主:吉良氏
廃城年:1590年頃
現 況:豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]2丁目

shirononagori452 (1).jpg
豪徳寺駅からは徒歩で10分程度です。世田谷線の宮の坂駅が最寄り駅で徒歩5分程度。今回は城の北側の地形も見たかったので豪徳寺駅を利用しました。



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2020年07月21日

世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり

今回は橋跡というだけで川のなごりと城のなごりが漂う場所の話です。

まずは
<城向橋>しろむかいばし
ShiroAnkyo452 (1).jpg
世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。

次に
<城向橋>しろむかいばし
sn Okusawa Ankyo (8).JPG
こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。

城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。


■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
ShiroAnkyo452 (3).jpg
緑道となった目黒川の支流

<世田谷城跡>
ShiroAnkyo452 (2).jpg
城跡はいまは豪徳寺


■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
sn Okusawa Ankyo (9).JPG
緑道となった呑川水系の支流

<奥沢城跡>
sn Okusawajo (20).JPG
城跡はいまは九品仏浄真寺


世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。

城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。

■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]


------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。

暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。

だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。

暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ

暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ



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2020年07月19日

暗渠と城跡23 渋谷川と渋谷城

都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回の舞台は渋谷です。こんな若者の街に城跡が?と思われる方が大半かと思います。でも実際に存在していました。遠い昔、中世のことですが。

<渋谷城跡>
shirononagori451a.jpg
渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。

■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
shirononagori451b.jpg
渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。

渋谷で川?

はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。

<稲荷橋>
sn451Ankyo.jpg
橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。

<現在位置>
shirononagori451c.jpg
稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。

<暗渠の出口>
shirononagori451d.jpg
暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。

<渋谷川>
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コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。

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だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。

さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ

<金王八幡宮>
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ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。

渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。

秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。

この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。

ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。

史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。

<入口付近の説明板>
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説明文の一部を使わせて頂きました。

せっかくですので金王八幡宮を簡単に

<神門(赤門)>
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<狛犬>
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<神楽殿>
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<社殿>
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江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。

<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
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詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。

<説明板>
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こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。

説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。

<砦の石>
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これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。

地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。

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ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました

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堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。こちらも渋谷城の一部だったのでしょう

<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
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神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
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コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。

田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。

<傾斜>
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豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね

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明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。

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また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。

暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。

<つわものどもが夢の跡>
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地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。

-------■渋谷城■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[東京都渋谷区渋谷]


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posted by Isuke at 20:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[都内]
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