2020年07月23日

城跡として訪ねる豪徳寺(世田谷城)

今回の訪問は世田谷区の豪徳寺です。大名井伊家の菩提寺として知られている一方で、招き猫発祥の地としても知られ、縁起の良いスポットとして人気です。

■豪徳寺の概要■ごうとくじ
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曹洞宗の寺院です。当地は戦国時代には吉良家の居城・世田谷城でした。城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の菩提のために創建した臨済宗弘徳院が豪徳寺の前身と言われています。江戸時代に井伊家菩提寺となり、豪徳寺と改号されました。

<井伊家菩提寺>
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<井伊家墓所>
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この先が彦根藩主井伊家墓所です。なかの撮影は遠慮させて頂きました。13 代藩主・井伊直弼のお墓もこちらです。

<鐘楼>
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<三重塔>
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そして人気のスポット

<松福庵(招福庵)>
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はい
詳細は省略しますが境内はだいたいこんな感じです。


■城跡として訪ねる豪徳寺■
では
ここからは城跡目線で

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まず参道です。世田谷城は丘の上に築かれたほぼ単郭(主郭のみ)の城です。現在の豪徳寺の境内がほぼそのまま主郭と思って間違いないです。ここは曲輪の南側の虎口(入口)です。両脇の黒松も見事ですが、土が盛ってあることを意識すると、いかにも城への侵入口であること感じることができます。ちょっと思い込みも必要ですが

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塀でわかりにくいですが、土塁のなごり

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塀の向こう側はもっと分かりやすい。主郭の虎口(入口)へ向かう道の両側に土塁があり、たぶんその途中に門が設けられていたのでしょう。

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境内ギリギリまで土塁

次に境内

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境内の起伏ですが『首塚碑』がありましてので参考程度に

では
城の外周も見て回りますかね

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豪徳寺東門です。正確にこの位置かどうか分かりませんが、この付近にも城への侵入口があったと思われます。
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東門を入った左手。整備されて境内に溶け込んでいますが、石は別として、これがかつての土塁のラインであろうと受け止めました。つまりここより右手(北側)が主郭であろうと。あくまで個人的見解です。

次に北側へ

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豪徳寺裏門です。南側・東側に続き、この付近にも城への侵入口があったと思われます。しかも主郭に直結する虎口だったと思います。また個人的に

ではちょっと豪徳寺を離れて

南側へもう一度戻って坂を下ります。繰り返しますが世田谷城の主郭(豪徳寺)は丘の上ですので、谷へ移動することになります。そんなことも実感しながら移動すると

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世田谷城阯公園です。

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二重堀の跡でしょうか。いわゆる城の遺構です。ここだけが城跡と思っている方も多いようですね。主郭は丘の上の豪徳寺として、ここは麓の出城のような存在だったのでしょう。

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説明板に地図があります。ちょっと拡大してみてみますかね

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北側の高台が豪徳寺。現在位置の世田谷城阯公園は南側の麓。こういう構造です。

地図をよく見ると、世田谷城阯公園より更に南側に緑色の線が入っていますね。これはかつての川で、現在は緑道となっています。この川(緑道)が、ここで一旦ゆるやかに南側へ蛇行しているのは、豪徳寺がある高台が南側の低地へ向かって突き出ているから。いわゆる舌状台地ということですね。

城にとっての川
天然堀ということです

どうせここまで来たのですから、この城にとっての『地の利』までも味わうことをお勧めします!

ということで川跡へ

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烏山川の跡です。緑道となっていますが、かつての川です。ここには『城下橋』と名付けられた橋が架かっていたようです。

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ここには『城向橋』という橋が架かっていたようです。川がないので橋もなくなりましたが、こうやって記してくれることが嬉しいですね。

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正確に言うと、烏山川はなくなったのではなく、地下に埋設されただけ。地上からは姿を消しましたが、見方を変えると現役の川なのです。蓋をされた川。いわゆる暗渠ですね。

以上です
こんな風な目線で豪徳寺を訪ねる人もいる。城好きの人と、それが共有できれば幸いです。

■世田谷城について■
世田谷城の築城については詳細不明ながら、吉良治家が1366年に築城したと考えられています。足利一門の名族だけに、周囲からは一目置かれる存在だったそうです。15世紀後半には、あの太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄しました。やがて小田原の北条氏が関東の覇者として君臨しますが、吉良頼康の代に北条氏と縁戚関係をもち、実質は配下でありながら、他とは異なる待遇だったようです。
1590年の秀吉による北条征伐後、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。

つわものどもが夢の跡
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------■世田谷城■------
築城主:詳細不明(吉良治家)
築城年:詳細不明(1366年)
城 主:吉良氏
廃城年:1590年頃
現 況:豪徳寺・世田谷城址公園
[東京都世田谷区豪徳寺]2丁目

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豪徳寺駅からは徒歩で10分程度です。世田谷線の宮の坂駅が最寄り駅で徒歩5分程度。今回は城の北側の地形も見たかったので豪徳寺駅を利用しました。


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2020年07月21日

世田谷区に2つの城向橋(暗渠と城跡24) 橋跡に漂う城のなごり

今回は橋跡というだけで川のなごりと城のなごりが漂う場所の話です。

まずは
<城向橋>しろむかいばし
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世田谷区豪徳寺の烏山川緑道です。緑道沿いには、暗渠化される前の川のなごりとして、複数の橋の名前が残っています。この橋跡もその一つです。

次に
<城向橋>しろむかいばし
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こちらは世田谷区自由が丘の九品仏川緑道です。道と交差する地点に「城向橋」の標識があります。この道が川を渡るための橋が架けられていたのでしょうね。これも川のなごりです。

城向橋とは、城の向かいの橋、あるいは城へ向かう途中の橋というのが名の由来でしょうか。いずれにせよ、かつてそこに城があったことに由来する名前ですね。そして川があるが故の橋。橋が架かっていた川は暗渠化され姿は見えませんが、かつては水が流れ、城の天然堀の役割を担っていたのでしょう。いわば城にとっての『地の利』ですね。


■烏山川と世田谷城■
<烏山川>からすやまがわ
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緑道となった目黒川の支流

<世田谷城跡>
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城跡はいまは豪徳寺


■九品仏川と奥沢城■
<九品仏川>くほんぶつがわ
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緑道となった呑川水系の支流

<奥沢城跡>
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城跡はいまは九品仏浄真寺


世田谷城は吉良氏の居城。奥沢城はその支城です。かつて栄華を誇った名門吉良氏の城は、ともに寺院へと姿を変えました。そして、それぞれの城を掠めるように流れていた川は、ともに緑道に姿を変えました。

城や川と同じく姿を消した橋の名が、それらのなごりを今に留めています。

■訪問:城向橋
[世田谷区豪徳寺]
[世田谷区自由が丘]


------ブログ過去記事------
当ブログの過去記事のご紹介です。

暗渠(あんきょ)とは地下に埋設された川のこと。暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。天然の堀だった川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ。

だいたいそういう内容です。
ブログを始めたばかりの頃の記事でお恥ずかしいですが、良かったら覗いてみて下さい。

暗渠と城跡 1 奥沢城のなごり
→『記事へすすむ

暗渠と城跡 2 世田谷城のなごり
→『記事へすすむ


------お勧め暗渠本------
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
本田創/山英男/吉村生/三土たつお



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2020年07月19日

暗渠と城跡23 渋谷川と渋谷城

都内にもあるつわものどもが夢の跡。今回の舞台は渋谷です。こんな若者の街に城跡が?と思われる方が大半かと思います。でも実際に存在していました。遠い昔、中世のことですが。

<渋谷城跡>
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渋谷3丁目の金王八幡宮の一帯が渋谷城跡と推定されています。当ブログで二度目の投稿となりますが、今回はもうちょっと渋谷の地形を加味してご案内できればと思っています。

■現地訪問■
最寄り駅はJR渋谷駅。そもそもこの駅自体が『渋谷』という名が示す通り谷にあります。谷には川が流れ、複数の突き出た台地に囲まれている状態です。その台地の一つに渋谷城が築かれました。
<歩道橋から撮影>
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渋谷駅付近から六本木りを撮影。高低差があることは伝わると思います。コンクリの街なので『台地』を実感しにくいですが、渋谷駅周辺には道玄坂や宮益坂といった有名な坂が多いですよね。それらは全て谷から台地へ登る道なのです。画像の坂ですが、登りきる手前に鎮座する金王八幡宮付近が、かつての城跡の中心部分と言われています。台地の高低差、そして天然堀の役割を果たした川が、渋谷城の『地の利』ということになります。

渋谷で川?

はい。渋谷川という川が谷を流れています。多くの人が渋谷を訪れますが、この川を見かける人は少ないかもしれません。理由は、かなりの部分が地下に埋設されているからです。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。これでは目にするのは無理。ただし、一部のエリアを除いてです。

<稲荷橋>
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橋があるのに川の姿がありませんね。ただ、この地下はいまでも現役の川なのです。

<現在位置>
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稲荷橋付近に川はありませんね。でもちょっと南側(左下)から川が始まっています。

<暗渠の出口>
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暗渠の出口です。地図の上ではここから渋谷川が始まります。こういう状態(普通に見えている状態)を、暗渠に対して開渠(かいきょ)といいます。ここから先の渋谷川はいまでも開渠なのです。

<渋谷川>
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コンクリで固められ、まぁちょっと窮屈な状態ですが、間違いなく川です。しかも昨日今日の川ではなく、古くからの水の流れです。現在の新宿御苑付近を水源とし、多くの支流の水を集める川でした。開発の都合で多少の流路変更もありましたが、渋谷の谷底であることに変わりありません。また、かつての支流はその大半が下水道として暗渠化され、よほどの大雨以外は水が渋谷川に流れ込むこともなくなりました(下水は地下で別のルートに流されるようになっています)。よって水量も減りましたが、本流そのものの流れはずっと続いているのです。

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だいぶ姿は変わっても、かつての城にとっての天然堀、あるいは物資運搬の手段のなごりとして受けとめて良いと思います。

さて『地の利』を確認できたところで
具体的な城跡へ

<金王八幡宮>
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ここが城跡の一部とされる場所です。渋谷駅から500mくらいでしょうか。渋谷城そのものはもっと広範囲だったと考えられています。渋谷駅からここへ来るまでに、既にかつての城跡を歩いていたのかもしれませんね。もちろん石垣も天守もありません。中世のお話ですから、土塁や堀で区画を囲った館のようなものをイメージしたもらった方が良いかもしれません。

渋谷城そのものの築城年代は分かっておらず、諸々のことが推定であり、諸説あるようです。ただ、渋谷氏の先祖にあたる河崎基家が、源義家よりこの地を与えられたというのはどの説にも共通しています。この河崎基家は桓武平氏・秩父氏の一族で(秩父基家)、源義家が奥州・安倍一族と戦った際に従軍し、功績を上げたことで河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えられ、河崎氏を名乗りました。

秩父平氏は支流が多く、すべて把握できませんが、武蔵国各地で頭角を現した武士団だと畠山氏や稲毛氏、あと豊島氏などが思い出されます(他にも多数)。河崎氏も祖を辿れば同じということですね。

この神社は河崎基家により建立され、その子である渋谷重家がこの地に館を築いたのが渋谷城の始まりと考えられています。河崎基家は河崎荘のみならず、広範囲に所領を与えられ、現在の渋谷区も含まれていたと受け止めて良いのですかね?一方で、同じく河崎基家の子孫で、神奈川(相模国)の渋谷荘を治めて渋谷氏を名乗っていた一族が、ここ(武蔵国)に移り住んだという話もあります。ちょっと順序というか、経緯がはっきりしませんが、とにかく河崎基家を祖とする渋谷一族がここに城を構えたことだけは事実のようです。

ちなみに、金王八幡宮の金王は、渋谷重家の子である渋谷常光に由来します。常光はこの神社に祈願し、金剛夜叉明王の化身となったことにより金王丸と称したとされています。金王丸は源義朝(頼朝の父ですね)に従い功績をあげました。そして、金王丸の名を後世に残すべく、神社は金王八幡宮とされたと伝わります。

史実と言い伝えがうまく分けられず恐縮です。渋谷城は源氏に従った渋谷氏の居城から始まると受け止めて下さい。

<入口付近の説明板>
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説明文の一部を使わせて頂きました。

せっかくですので金王八幡宮を簡単に

<神門(赤門)>
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<狛犬>
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<神楽殿>
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<社殿>
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江戸時代には将軍家の信仰を得て、家光の乳母である春日局と守役である青山伯耆守忠俊により社殿が造営されました。家光の将軍決定のお礼ということですね。渋谷区指定有形文化財です。

<玉造稲荷社>たまつくりいなりしゃ
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詳細省略で恐縮ですが、境内はこんな感じです。

<説明板>
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こちらの説明板には、城に関する記載がありました。後半の一部をそのまま抜粋させて頂きます。
『このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、帯にだと、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいた』とのこと。低層の台地ながら谷には水が集まり、天然の要害だったのでしょう。付近から湧き水があったことにも言及されています。

説明の最後には、1524年に城館は『北条氏の一軍に焼き払われてしまった』とあります。諸説ありますが、今回はこれを城の最後と思うことにします。北条氏綱と扇谷上杉朝興が高輪で激突した戦いがありました(高輪原の戦い)。北条氏綱が上杉氏を圧倒して終わるこの戦いのなかで、北条氏の別動隊が渋谷城にも襲い掛かったということですね。北条軍は渋谷城の東の鎌倉道を通って江戸へ攻め進んだようです。

<砦の石>
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これも城のなごりということでしょうか。中世の城で石垣は実感が湧かないので、参考程度に受け止めておきます。

地形を見に来たようなものです。外も見て回りました。
かつては付近に湧き水も出て、小川水も豊かな地だった模様です。

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ああいうのは台地を削った堀切のなごりでしょうか?確証はなく、ほぼ想像で楽しみました

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堀切跡?かもしれない道を挟んだお隣は稲荷神社です。

<豊栄稲荷神社>とよさかいなりじんじゃ
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神秘的な参道。鳥居を前にすると心が凛とします。
<社殿>
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コンパクトにまとまったこの美しい神社は、実は渋谷氏ゆかりの神社です。渋谷高重によって創建されたと田中稲荷神社と、別の場所(道玄坂)にあった豊澤稲荷神社が昭和になって合祀され、現在の社殿が建立されました。

田中稲荷神社はもともと渋谷駅近くに鎮座していたとのこと。渋谷駅付近、つまり地形で説明すると谷底ですね。渋谷川が渋谷城の堀として利用されたため『堀の外稲荷』と称されたという話が伝わっています。こういった話にも、当時の城、そして川が城に果たした役割を感じることができます。

<傾斜>
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豊栄稲荷神社から低い場所へと続く道。どうせなら来た時とは違う道で戻りますかね

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明治通りに出ました。通りの向こうに橋らしき姿が見えています。

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また会いましたね。渋谷川です。現地説明では城の『西には渋谷川がながれ』とありましたが、西側は既に暗渠化されて姿は見えません。ただ渋谷川は駅付近で緩やかにカーブし、城跡の南側に回り込んでいます。こちらはまだ暗渠化されておらず、水面を見ることができます。

暗渠を渡って城跡がある東へ向かい、帰りは高台から南の低地へ降りて開渠に出た。非常に分かり易い結末で、この日の探索は終了しました。

<つわものどもが夢の跡>
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地形に納得し、渋谷川とも出会えました。城跡の一部が神社であるが故に、都市化から外されていることにも助けられ、城のなごりを感じることができました。決定的な遺構はありませんが満足な訪問でした。

-------■世田谷城■-------
別 名:金王丸城
築城年: 不明(平安末期)
築城者:渋谷重家
城 主:渋谷氏
廃城年:不明(1524年?)
現 状 : 金王八幡宮
[東京都渋谷区渋谷]


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2020年05月03日

加賀藩前田家上屋敷のなごり:赤門(御守殿門)

<赤門>
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東京大学を象徴する存在ですね。そしてこの敷地が、もともとは前田家の屋敷跡ということも比較的有名なお話。今回はその辺りをもうちょっとだけ詳しくご紹介したいと思います。

■大名の屋敷■
前田家の場合、上屋敷がここ本郷、中屋敷は本駒込、そして下屋敷は板橋に設けられました。屋敷の上中下ですが、位置的に江戸城に近い順で上屋敷・中屋敷・下屋敷と思って良いです(大筋)。大名にも大小ありますので、どの家でも必ず上中下の屋敷があった訳ではありません。今回主役の前田家は、加賀百万石ですからね。これに仕える家臣も沢山いました。一番郊外にある板橋の屋敷は、なんと約21万7千坪もありました。

■赤門■
この門の誕生は江戸時代後期。11代将軍の徳川家斉(いえなり)の娘である溶姫(ようひめ)が、前田家当主の斉泰輿入れするに際し朱色の門が造設されました。

これは大名が将軍家から嫁を迎える際のしきたり、つまり基本ルールだったようです。そのお住まいは御守殿(ごしゅでん)と呼ばれ、出入り口には朱塗りの門が設けられ、御守殿門と呼ばれたそうです。

そういうことなら、他にも赤門がたくさん残っていそうな気もしますよね?

しかし現存するのがここ東京大学の赤門だけのようです。もともとは現在の位置より15メートルほど奥に建っていましたが、1903年(明治36)に大学建設のためいまの位置に移されたそうです。

<御守殿門>ごしゅでんもん
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当時15歳だった溶姫が、17歳の加賀藩主に嫁いだ時の門です。かつての大名屋敷の貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されています。あくまで東京大学の門ですので、訪問される方は学生の皆さんの迷惑にならないよう見学して下さい。

■訪問
東京大学赤門(御守殿門)
[東京都文京区本郷] 7丁目


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2020年04月11日

荏原氏館のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は源氏の末裔のとされる豪族の館跡を訪ねた時の記録です。場所は品川区旗の台。東急大井町線の荏原町駅の北側です。

■法蓮寺■ほうれんじ
<荏原氏館跡>えばら
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館跡の一部と推定されている日蓮宗の法蓮寺です。

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こちらの寺院は、この地の豪族であった『荏原氏』の館を寺としたのが始まりとされています。

●徳川将軍ゆかりの寺
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江戸時代の話になりますが、法蓮寺の住職が11代将軍の徳川家斉と相撲を取ったとあります。住職は天下の将軍に手加減はせず、逆に気に入られたそうです。住職の人柄、そして普段の信頼関係があってのことですね。

法蓮寺の境内にいわゆる遺構の類はありません。ただ、隣接する八幡神社が小高い台地となっていると聞き及んでいましたので、そちらへ向かうこととしました。

ということで
何となく高低差を感じながら八幡神社へ
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■旗岡八幡神社■はたがおかはちまん
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旗岡八幡神社です。先ほどの法蓮寺を含むこの付近一帯が館跡と推定されています。

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●源氏ゆかりの神社
旗岡という呼び名、そして当地の地名である旗の台についてですが、平安時代(1030年)に下総で起きた乱を制圧すべく、源頼信がこの地に陣を張って源氏の白旗を掲げたことに由来します。そして源氏の氏神である八幡神を奉って戦勝を祈願した。これが旗岡八幡神社の発祥とされています。

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やがて鎌倉時代中期にこの地の領主となった荏原左衛門尉義宗が、八幡神社を建立。いまに至ります。

だいたいこんな感じです

■つわものどもが夢の跡■
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荏原氏を名乗る地元豪族の館跡を訪ねてみたら、河内源氏の祖である源頼信、それから徳川11代将軍にとってもゆかりの地だった。そうそうたる顔ぶれです。遺構はありませんが雰囲気も良く、訪問した甲斐がありました。

------■荏原氏館■------
別 名:荏原館
築城主:荏原氏
築城年:不明(鎌倉時代)
城 主:荏原氏
廃城年:不明
現 況:法蓮寺・旗岡八幡神社
[東京都品川区旗の台]


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2020年03月20日

新井宿城のなごり

つわものどもが夢の跡
前回の『馬込城跡』に引き続き、今回も小田原北条氏家臣・梶原氏によって築かれたと伝わる城跡です。
<新井宿城跡>あらいじゅく
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低地に面した急斜面

■訪問記■
訪問したのは大田区山王の熊野神社。JR大森駅から徒歩で10程度の距離です。
<熊野神社>
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この熊野神社付近が城跡ではないかと推定されています。遺構は無いと聞いていましたので、恒例によって地形を楽しむことにしました。神社は台地上にあり、南側は崖状になっています。

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低地へ向かう斜面。わりと急です。遺構はなくとも、要害性は納得です。

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階段はありますが、足がデカイ人には不利

だいたいこんな感じですかね

ちなみに
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斜面を下った先(この画像だと左手)には、戦国末期開創と伝わる善慶寺があります。城跡からやや話がそれますが、善慶寺には江戸時代に村の窮状を将軍に直訴しようとして領主(旗本・木原氏)に処刑された六人衆の墓があることでも知られています。切実な願いは叶いませんでしたが、新井宿義民六人衆として語り継がれています。

<境内社>
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こちらの稲荷社は、もともとは善慶寺の稲荷堂であったとのこと

城のなごりに話を戻します
北条早雲から始まる北条氏が、既に関東一円を支配していた頃、その家臣である梶原氏がこの付近を治め、今回訪問の大田区山王にも拠点を築いていた。全体をざっくりとまとめるとそんな感じの説明になりますかね。今回訪問した場所は低地に面した山王台地の隅。急な斜面と高低差から、それらしい『地の利』を実感することができました。遺構はありませんが、城跡と推定されるのに相応しい場所だと思います。

つわものどもが夢の跡
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梶原氏居城跡と伝わる場所は複数ありますが、他は疑わしいとか思わず、一族が分散して拠点を構えていたと受けとめることにします。その方が楽しいですからね

------■新井宿城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明(戦国時代)
城 主:梶原氏
廃城年:不明
現 況:山王熊野神社ほか
[東京都大田区山王]


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馬込城のなごり

つわものどもが夢の跡
小田原北条氏の家臣の城跡とされる場所を訪ねました。
<馬込城跡>
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画像は大田区南馬込の湯殿神社。この付近一帯が小田原北条氏家臣・梶原助五郎(三河守)の所領で、その居城については諸説あるなか、この地も候補とされています。

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湯殿神社は周囲と比較して一段高い台地上に位置しています。遺構はありませんが、所領を与えられた梶原氏は、この地形を利用して統治の拠点としたのかもしれませんね。

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梶原助五郎の主は北条氏直のようなので、時代としては戦国末期といった感じでしょうか。氏直が第5代当主となったのが1580年、豊臣秀吉によって北条氏が滅びるのが1590年ですから、梶原助五郎が馬込村に所領を与えられて居城を構えていたのは、だいたいそのあたりですかね。

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広範囲に及んだとされる梶原氏の所領も、いまはそのほとんどが都市化の波にのみこまれ、当時の姿を偲ぶことはちょっと難しいです。ただ、高低差に富んだ地形は嘘をつきません。谷地にはかつて沼なども存在したとのこと。現地を実際に訪ね、そういったことを肌で感じられた。それだけで満足です。

<つわものどもが夢の跡>
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梶原助五郎については、鎌倉幕府の有力な御家人・梶原景時の末裔とする説もあるようですが、無関係とする説もあり、事実は定かではないようです。関東をほぼ制覇した小田原北条氏配下の拠点が、ここ湯殿神社付近にもあった。そして梶原氏を名乗っていた。そう受け止め、探索を終了しました。

------■馬込城■------
別 名:梶原城
築城主:梶原氏
築城年:不明
城 主:梶原助五郎
廃城年:不明
現 況:湯殿神社ほか
[大田区南馬込]5丁目


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2020年03月15日

古城に咲き続ける梅の花 赤塚城跡

2020年の春は新型コロナウイルスの影響で各種イベントが中止。そして人が多く集まるようなところへは行かないという空気に包まれています。

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こちらは2018年の3月に撮影した赤塚城跡の梅林です。約200本もの梅の木が植えられています。ふと思い立って訪問してみたら、たまたまイベントと重なってしまい、人の多さに戸惑いました。

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年に一度の『赤塚梅まつり』。2020年は3月14日・15日の二日間にわたり開催される予定でした。しかし新型コロナウイルスの影響で中止です。多くの出店や武者行列や鉄砲隊の演武などなど。楽しみにしていた方も多かったでしょう。残念ですね。

ただ、それでも花は咲き誇ります。
今年も来年も、その先もずっと。

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またいつかお邪魔しますかね

■ご紹介の城:赤塚城
[東京都板橋区赤塚]

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posted by Isuke at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[都内]
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