つわものどもが夢の跡
江戸時代としては画期的な運河。そのなごりを留める公園を訪問しました。
<竹林と桜と水路>
桜も竹林も好きですが、この公園の主役は江戸時代に築造された運河です。
<木造の閘門式運河>こうもんしき
なるほど・・・ここで水を塞き止めて、水位を調整するわけですね
■見沼通船堀■
見沼通船堀は日本で一番古い『閘門式運河』です。水位に差がある場合に、閘門を使って水位を調整し、船を通過させる仕組み。私がうだうだ説明するより、パナマ運河を想像してもらった方が早いですかね。
ただし、そのパナマ運河よりも約180年も前に、日本には閘門式運河が存在していました。まだ江戸時代のお話。日本人は凄いですね!場所は現在の埼玉県。埼玉は凄いですね・・・ね(県民なので、ちょっと言ってみたいだけです)。
■芝川と水路をつなぐ■
二つの水路(見沼代用水西縁と東縁)の間を流れていた芝川。江戸へと繋がる水運上重要な川でした。この川と見沼の水路、繋げてしまえば便利ですが、地形の事情で水位の差が約3mありました。江戸からの物資を積んだ船が芝川から水路へと移るためには、この高低差を克服しなくてはなりません。そこで船を通す堀(通船堀)に閘門を設け、水位を調整することで通過を可能にしました。
この仕組みが造られたのが1731年(享保16年)。これは実験といった段階の話ではなく、実際に稼働し、地域に貢献しました。水運の範囲が広がることは、そのまま経済の発展に繋がります。この当時のまさに物流革命。地元の村々は、経済の中心地である江戸と結ばれることになりました。江戸は「水の都」と呼ばれるほど水路が充実しています。そして物流の主役は水運。そこと水の道で繋がることは、大きな意味を持ちました。
この見沼通船堀、明治時代に至るまで重要な役割を担ったそうです。
むかしの人たちの仕事。凄いですね。そもそも、こういう創意工夫、実現する技術や品質が、我々日本人の得意とするところなのではないでしょうか。こんな仕事をした人たちと比較して、足りないものがあるとすれば、どうしても成し得ようとする情熱かもしれませんね。それは言い換えれば、かなり「具体的に夢をみる力」なのではないでしょうか。
桜を楽しみ、竹林に癒されながら、そんなことを考えさせられる訪問となりました。
<つわものどもが夢の跡>
■見沼通船堀公園■
[さいたま市緑区大字大間木字八町]
↑要するに「東浦和駅」から徒歩5分程度です
2018年03月31日
2018年01月05日
三十間堀のなごり 舟入堀の痕跡
街の中で痕跡に気付く・・・
今回は新橋駅近くのとある痕跡をご紹介します。
■三十間堀■さんじっけんほり
<三十間堀の痕跡>
[中央区銀座8-13]
住所は銀座ですが8丁目なので、新橋駅から5分程度の場所です。ちょっと目立たない場所ですが、かつて堀があったことを今に伝えています。堀の名は三十間堀。
<礎石>
三十間堀で実際に使われていた石です。かつての護岸より発掘されたものです。
<説明板>
三十間堀は江戸の町に造られた堀川です。運河と思ってもらった方がイメージしやすいですかね。名前の由来は堀の幅。三十間は54mなので相当幅広かったことになります。慶長17年(1612年)、幕府の命を受けた西国大名により京橋川から汐留川にいたる区間が開削されました。場所は現在の中央区。中央通りと昭和通りの間を流れていました。
まぁ場所をもっと大まかに言うと、新橋駅から銀座方面ということになります。中央通りと昭和通りの間には沢山のビルや路地がありますが、それら全てがかつての堀跡にあるということですね。この石碑の場所ですが、
<説明板の場所>
新橋駅の東側。銀座8丁目の御門通り沿い。赤い線を入れさせてもらいましたが、こんな景色を進んで行くと右手に現れます。首都高速が横を走っていますが、その新橋出口付近になります。
<高速出口>
この裏側です。
■水の都・江戸■
江戸城の城下町は水の都。たくさんの運河が縦横に張りめぐらされていました。この水上輸送のネットワークが、江戸の繁栄に貢献していたことは言うまでもありませんね。舟入堀として整備されたここ三十間堀川も、そんな巨大プロジェクトの一部だったわけです。
<三原通り>
かつて三原橋があった方面へ続く道。ご紹介した説明板のすぐそばから始まります。
説明板から抜粋→『三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。』
三原橋は三十間堀に架かっていた橋の一つ。ではその橋を目指して、かつての堀跡、つまりこの通りを歩いてみますかね。
<GINZA SIXの裏>
ここは中央通りと昭和通りの間にいくつかある通りの一つ。つまり、私はかつての堀川の中を進んでいることになりますね。しばらく行くと、今をときめく商業施設「銀座シックス」に到着。ただし、その裏側(左手が銀座シックス)です。正面、つまり中央通り側は混んでますが、こちらは歩きやすい。
<三原橋付近>
更に進んで行くと大きな通り(晴海通り)に出ます。そして手前が工事中。ベールに包まれてますが、そこだけちょっと道路が盛り上がってますね。橋のあった場所です。堀は埋められ、橋の本来の意味は失われましたが、その橋の下の空間を利用して地下商店街が造られました。といっても1952年の話。一時期は賑わったらしいのですが、建築上(耐震性)の問題もあり、つい最近、2014年4月に閉鎖されました。まぁその三原橋地下街の歴史も、いま工事中という事実も、かつてここにあった堀のなごり。三十間堀の余韻ですね。
さてさて、また新橋方面へ戻ります。どうせなら違う道をと彷徨っていたらこんな地下道を通ることに。
<地下道>
彼方にG SIXの文字。銀座シックスにつながる地下道です。なんだか神秘的な空間。さきほどまでは「堀跡の上」を歩いていたわけですが、今度は堀の底くらいの位置でしょうか。三十間堀を意識して探索しているせいか、感慨深いものがあります。
かつての堀川。ご覧のように、その姿を見ることはもうできません。埋められたのは戦後まもなく。東京大空襲後の瓦礫処理のためです。瓦礫は片付き、土地は有効利用される。物流も水運から陸運へ。そして今ではこのように立派な街並。これで良かった、のでしょうね・・・
『水の都』
美しい響きですね。この石碑はそのなごり。失われた水の都のなごりです。
慌ただしい街中でこういう場所と出会うと、何となくほっとします。新橋駅の東側。似たような感覚をお持ちの方が、何かのついでにちょっと立ち寄ってくれたら嬉しいです。
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今回は新橋駅近くのとある痕跡をご紹介します。
■三十間堀■さんじっけんほり
<三十間堀の痕跡>
[中央区銀座8-13]
住所は銀座ですが8丁目なので、新橋駅から5分程度の場所です。ちょっと目立たない場所ですが、かつて堀があったことを今に伝えています。堀の名は三十間堀。
<礎石>
三十間堀で実際に使われていた石です。かつての護岸より発掘されたものです。
<説明板>
三十間堀は江戸の町に造られた堀川です。運河と思ってもらった方がイメージしやすいですかね。名前の由来は堀の幅。三十間は54mなので相当幅広かったことになります。慶長17年(1612年)、幕府の命を受けた西国大名により京橋川から汐留川にいたる区間が開削されました。場所は現在の中央区。中央通りと昭和通りの間を流れていました。
まぁ場所をもっと大まかに言うと、新橋駅から銀座方面ということになります。中央通りと昭和通りの間には沢山のビルや路地がありますが、それら全てがかつての堀跡にあるということですね。この石碑の場所ですが、
<説明板の場所>
新橋駅の東側。銀座8丁目の御門通り沿い。赤い線を入れさせてもらいましたが、こんな景色を進んで行くと右手に現れます。首都高速が横を走っていますが、その新橋出口付近になります。
<高速出口>
この裏側です。
■水の都・江戸■
江戸城の城下町は水の都。たくさんの運河が縦横に張りめぐらされていました。この水上輸送のネットワークが、江戸の繁栄に貢献していたことは言うまでもありませんね。舟入堀として整備されたここ三十間堀川も、そんな巨大プロジェクトの一部だったわけです。
<三原通り>
かつて三原橋があった方面へ続く道。ご紹介した説明板のすぐそばから始まります。
説明板から抜粋→『三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。』
三原橋は三十間堀に架かっていた橋の一つ。ではその橋を目指して、かつての堀跡、つまりこの通りを歩いてみますかね。
<GINZA SIXの裏>
ここは中央通りと昭和通りの間にいくつかある通りの一つ。つまり、私はかつての堀川の中を進んでいることになりますね。しばらく行くと、今をときめく商業施設「銀座シックス」に到着。ただし、その裏側(左手が銀座シックス)です。正面、つまり中央通り側は混んでますが、こちらは歩きやすい。
<三原橋付近>
更に進んで行くと大きな通り(晴海通り)に出ます。そして手前が工事中。ベールに包まれてますが、そこだけちょっと道路が盛り上がってますね。橋のあった場所です。堀は埋められ、橋の本来の意味は失われましたが、その橋の下の空間を利用して地下商店街が造られました。といっても1952年の話。一時期は賑わったらしいのですが、建築上(耐震性)の問題もあり、つい最近、2014年4月に閉鎖されました。まぁその三原橋地下街の歴史も、いま工事中という事実も、かつてここにあった堀のなごり。三十間堀の余韻ですね。
さてさて、また新橋方面へ戻ります。どうせなら違う道をと彷徨っていたらこんな地下道を通ることに。
<地下道>
彼方にG SIXの文字。銀座シックスにつながる地下道です。なんだか神秘的な空間。さきほどまでは「堀跡の上」を歩いていたわけですが、今度は堀の底くらいの位置でしょうか。三十間堀を意識して探索しているせいか、感慨深いものがあります。
かつての堀川。ご覧のように、その姿を見ることはもうできません。埋められたのは戦後まもなく。東京大空襲後の瓦礫処理のためです。瓦礫は片付き、土地は有効利用される。物流も水運から陸運へ。そして今ではこのように立派な街並。これで良かった、のでしょうね・・・
『水の都』
美しい響きですね。この石碑はそのなごり。失われた水の都のなごりです。
慌ただしい街中でこういう場所と出会うと、何となくほっとします。新橋駅の東側。似たような感覚をお持ちの方が、何かのついでにちょっと立ち寄ってくれたら嬉しいです。
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タグ:堀川
2017年12月17日
街の中で痕跡に気付く
仕事や私生活の圏内でも、アンテナを立てていれば、ちょっとした感動と出会えたりします。気付きに近い小さな感動。こう思えとか、こう思うべきというのはありません。そんなものが決まっているなら、つまらないですね。
<江戸城外堀の痕跡>
一部とはいえ立派な石組。説明書きによれば「江戸城外堀跡 溜池櫓台」。櫓は堀が直角に折れる角に設けられていたようです。ビルとビルの間、目立たない場所に江戸城の痕跡を見つけました。[港区]
<三田用水の痕跡>
水路の断面が分かるように残してもらったのですね。どなたかのブログで見たことがありますが、実物を見るのは初めてです。 [港区]
廃城となった城跡で、ひっそりと残っている土塁に気付く。姿を消した川跡で、取り残された橋の欄干に気付く。情緒的に重なるものがあり、当ブログでも何度かご紹介させてもらいました。
今回ご紹介の二つ。似た感情を持つ一方、ちょっとだけ違うのは「誰かが意図的に残してくれた」痕跡だということ。
伝えようとする思い。私には有り難いですね。消えてなお残るものに愛おしさを感じる。自分だけではないような気がして、何となく、じんわりと嬉しいです。
こんな感覚を持ち合わせていると、普段の生活圏内でも、ちょっとした感動と出会えたりします。いや、既に出会っているものが、違うモノに映ったりします。
流行りとかに右往左往するの、疲れませんかね。まぁたまにはボケっとくだらなく、人の同意も期待せず、何でもなさそうなモノを見つめてみては如何でしょうか。私の場合は城とか水路ですが、なんだっていいです。心の琴線に触れるモノがあったら、その感覚と向き合ってみる。大切なのは、あまり理屈で考えないことですかね。せっかく出会ったものを、だいなしにしないように。
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■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
暗渠マニアック ! (柏書房)
:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
<江戸城外堀の痕跡>
一部とはいえ立派な石組。説明書きによれば「江戸城外堀跡 溜池櫓台」。櫓は堀が直角に折れる角に設けられていたようです。ビルとビルの間、目立たない場所に江戸城の痕跡を見つけました。[港区]
<三田用水の痕跡>
水路の断面が分かるように残してもらったのですね。どなたかのブログで見たことがありますが、実物を見るのは初めてです。 [港区]
廃城となった城跡で、ひっそりと残っている土塁に気付く。姿を消した川跡で、取り残された橋の欄干に気付く。情緒的に重なるものがあり、当ブログでも何度かご紹介させてもらいました。
今回ご紹介の二つ。似た感情を持つ一方、ちょっとだけ違うのは「誰かが意図的に残してくれた」痕跡だということ。
伝えようとする思い。私には有り難いですね。消えてなお残るものに愛おしさを感じる。自分だけではないような気がして、何となく、じんわりと嬉しいです。
こんな感覚を持ち合わせていると、普段の生活圏内でも、ちょっとした感動と出会えたりします。いや、既に出会っているものが、違うモノに映ったりします。
流行りとかに右往左往するの、疲れませんかね。まぁたまにはボケっとくだらなく、人の同意も期待せず、何でもなさそうなモノを見つめてみては如何でしょうか。私の場合は城とか水路ですが、なんだっていいです。心の琴線に触れるモノがあったら、その感覚と向き合ってみる。大切なのは、あまり理屈で考えないことですかね。せっかく出会ったものを、だいなしにしないように。
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■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
:本田創/山英男/吉村生/三土たつお
暗渠マニアック ! (柏書房)
:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
2017年10月19日
山形五堰 城下町の治水(山形市)
古くから最上氏宗家の城だった山形城。徳川幕府の命令で最上家が去っても、山形城の歴史はまだまだ続きます。江戸時代を通して栄えた城下町。城跡訪問のついでに街中を探索しました。
<七日町御殿堰>
[山形市七日町]
ここはかつての雰囲気を再現した復刻版水路。駅から徒歩15分くらいでしょうか。城跡好きですが、水路好きでもあるので興味深いです。
雰囲気もいいですね。水路沿いの柳やお店もなんとなく昔ふう。看板につられてソフトクリーム(抹茶とほうじ茶のミックス)を衝動的に購入してしまいました。美味い!ただオジサン一人の立ち喰い、あまりサマになりません。なんとなく早めに食べ終えました。岩淵茶舗さん。地元では有名な老舗ですね。ごちそうさまでした。
さて「孤独のグルメ」はいいとして、この復刻版水路。結構おカネをかけてますね。そうまでする理由。これはもう、この街にとって水路が特別なものだということでしょう。
扇状地に位置する山形市。市内にはまるで網の目のように水路が張り巡らされています。「水路の街」とまで言ったら大げさでしょうか。これは昨日今日のものではありません。水路への長年の取り組みは、城下町として栄えた山形市の歴史の一部です。
■山形五堰■ やまがたごせき
山形五堰は五つの堰(用水路)の総称。具体的には笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)の五つの用水路になります。市内にはこの五つの水路から分水した水路が放射状に広がっています。
ことの始まりは約四百年前。出羽山形藩主・鳥居忠政の治水事業の一環として水路が作られました。鳥居忠政は徳川家康の古くからの家臣。改易された最上家に代わって山形を任されました。忠政は最上義光により拡張された山形城を更に改修し、街の整備も推し進めました。
忠政が着手した治水事業とは、城の東側を流れる馬見ヶ崎川の流路変更。最上川水系須川支流のこの川は、たびたび洪水をおこす悩みの種でした。忠政はこの洪水対策を施すと同時に、川の5ヶ所に取水口を設けて、城内の水の確保、そして城下町全体へ生活用水を行き届かせるための水路を造りました。これが山形五堰の始まりです。
<せせらぎ小路>
山形大学付近で撮影。ここは水路と散歩道がセットになっていますね。水路が市民に親しまれている感じがします。いいですね。これは「笹堰」の支流になります。
<御殿堰>
[緑町三丁目]
最上義光ゆかりの専称寺。境内にも水路が通っています。これは御殿堰。開発が進み、この下流ではところどころ水路が地下に隠れています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。ちょっとマニアックですが、城下町の暗渠路地もそれはそれで興味深い。
■最上の城下町■
領内の復興にも力を入れていた最上義光。領民からも慕われていたようです。これに対し、後任の鳥居忠政の評判はあまり良いものではなかったようです。厳しい検地、増税、公共事業への無償参加。領民は嘆いたと伝わります。
「最上の殿様の方が良かった」
そんな声が聞こえてきそうですね。
ただどうでしょう。これは仕方がないことのようにも思えます。地元を良く知る地元出身の統治者と、命令で着任した幕府に近い存在つまり「よそ者」では、やり方も違うでしょうし、そもそも親近感が違います。また最上義光が山形城を拠点に57万石を支配できたのに対し、鳥居忠政は22万石(旧最上氏領は分割されました)。財力にも差があります。当時不評だったのは事実のようですが、鳥居忠政の統治が、他の藩主と比較して悪政だったとも言いえないのではないでしょうか。
最上義光の城下町を引き継ぎ、鳥居忠政は藩の更なる発展のために仕事をこなしました。山形五堰もそのなごりということですね。
戦国武将好きなので、今後も「山形城といえば最上義光」です。しかしゆっくりと山形の街を徘徊させてもらい、鳥居忠政も意識するようになりました。
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<七日町御殿堰>
[山形市七日町]
ここはかつての雰囲気を再現した復刻版水路。駅から徒歩15分くらいでしょうか。城跡好きですが、水路好きでもあるので興味深いです。
雰囲気もいいですね。水路沿いの柳やお店もなんとなく昔ふう。看板につられてソフトクリーム(抹茶とほうじ茶のミックス)を衝動的に購入してしまいました。美味い!ただオジサン一人の立ち喰い、あまりサマになりません。なんとなく早めに食べ終えました。岩淵茶舗さん。地元では有名な老舗ですね。ごちそうさまでした。
さて「孤独のグルメ」はいいとして、この復刻版水路。結構おカネをかけてますね。そうまでする理由。これはもう、この街にとって水路が特別なものだということでしょう。
扇状地に位置する山形市。市内にはまるで網の目のように水路が張り巡らされています。「水路の街」とまで言ったら大げさでしょうか。これは昨日今日のものではありません。水路への長年の取り組みは、城下町として栄えた山形市の歴史の一部です。
■山形五堰■ やまがたごせき
山形五堰は五つの堰(用水路)の総称。具体的には笹堰(ささぜき)・御殿堰(ごてんぜき)・八ヶ郷堰(はっかごうぜき)・宮町堰(みやまちぜき)・双月堰(そうつきぜき)の五つの用水路になります。市内にはこの五つの水路から分水した水路が放射状に広がっています。
ことの始まりは約四百年前。出羽山形藩主・鳥居忠政の治水事業の一環として水路が作られました。鳥居忠政は徳川家康の古くからの家臣。改易された最上家に代わって山形を任されました。忠政は最上義光により拡張された山形城を更に改修し、街の整備も推し進めました。
忠政が着手した治水事業とは、城の東側を流れる馬見ヶ崎川の流路変更。最上川水系須川支流のこの川は、たびたび洪水をおこす悩みの種でした。忠政はこの洪水対策を施すと同時に、川の5ヶ所に取水口を設けて、城内の水の確保、そして城下町全体へ生活用水を行き届かせるための水路を造りました。これが山形五堰の始まりです。
<せせらぎ小路>
山形大学付近で撮影。ここは水路と散歩道がセットになっていますね。水路が市民に親しまれている感じがします。いいですね。これは「笹堰」の支流になります。
<御殿堰>
[緑町三丁目]
最上義光ゆかりの専称寺。境内にも水路が通っています。これは御殿堰。開発が進み、この下流ではところどころ水路が地下に隠れています。いわゆる暗渠(あんきょ)ですね。ちょっとマニアックですが、城下町の暗渠路地もそれはそれで興味深い。
■最上の城下町■
領内の復興にも力を入れていた最上義光。領民からも慕われていたようです。これに対し、後任の鳥居忠政の評判はあまり良いものではなかったようです。厳しい検地、増税、公共事業への無償参加。領民は嘆いたと伝わります。
「最上の殿様の方が良かった」
そんな声が聞こえてきそうですね。
ただどうでしょう。これは仕方がないことのようにも思えます。地元を良く知る地元出身の統治者と、命令で着任した幕府に近い存在つまり「よそ者」では、やり方も違うでしょうし、そもそも親近感が違います。また最上義光が山形城を拠点に57万石を支配できたのに対し、鳥居忠政は22万石(旧最上氏領は分割されました)。財力にも差があります。当時不評だったのは事実のようですが、鳥居忠政の統治が、他の藩主と比較して悪政だったとも言いえないのではないでしょうか。
最上義光の城下町を引き継ぎ、鳥居忠政は藩の更なる発展のために仕事をこなしました。山形五堰もそのなごりということですね。
戦国武将好きなので、今後も「山形城といえば最上義光」です。しかしゆっくりと山形の街を徘徊させてもらい、鳥居忠政も意識するようになりました。
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タグ:山形への旅
2017年07月30日
松平伊豆守と野火止用水
<野火止用水> 玉川上水の分水
立川市(玉川上水)から始まり志木市(新河岸川)まで約25q。江戸時代の壮大な公共事業です。この水路にあうべく、埼玉県新座市を訪問しました。
■野火止用水■ のびどめようすい
老中・松平伊豆守信綱によって開削されたことから「伊豆殿堀」とも呼ばれています。信綱は「知恵伊豆」と呼ばれた知恵者。松平家の養子となり、その才覚で異例ともいえる出世を果たしました。老中ですからね。幕府の中核です。そして川越藩主。玉川上水の開削に成功後、玉川上水からの分水を許可され、乾燥した台地のため水に苦労していた自分の領内にこの水路を築きました(玉川上水7・野火止用水3の割合で分水)。水が領民の暮らしを豊かにしたことは言うまでもありません。まずは飲み水や生活用水がいきわたるようになり、後には農地の開拓にも貢献しました。
<新座駅前>
水車が涼しげに回ってます。到着と同時に水路を意識せざるをえません。
<水路発見>
草で見えにくいですが、水路を見つけました。もっと早くお目にかかれるかと思っていましたが、結構歩きました。これより駅側は暗渠化(地下に埋設)されています。つまり、見ることができません。
■暗渠となる背景■ あんきょ
ここから一気に昭和の話になります。戦後、生活様式の変化や宅地化により、生活排水が用水に流れるようになり水質が悪化。加えて東京の水不足により、玉川上水からの分水が制限されるようになり、野火止用水の水質はますます悪くなります。最後は玉川上水からの取水が停止。やがて汚れた水路には蓋がされ、地表からその姿を消しました。
臭いものには蓋・・・
まぁそうなる背景があってのことですが、そういうことですね。
■価値の見直し■
歴史的な価値を見直す機運が高まっています。先人たちの仕事を見直すことは、人の思いを見直すことのように思えます。見た目以上に美しく感じるのは、きっとそのせいでしょう。
<歴史を刻んだ水の路> みずのみち
知恵伊豆と呼ばれた男の水路。そして領民に感謝された水路。この用水路に蓋がされることはもうないでしょう。本来あるべき姿。いいですね。
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立川市(玉川上水)から始まり志木市(新河岸川)まで約25q。江戸時代の壮大な公共事業です。この水路にあうべく、埼玉県新座市を訪問しました。
■野火止用水■ のびどめようすい
老中・松平伊豆守信綱によって開削されたことから「伊豆殿堀」とも呼ばれています。信綱は「知恵伊豆」と呼ばれた知恵者。松平家の養子となり、その才覚で異例ともいえる出世を果たしました。老中ですからね。幕府の中核です。そして川越藩主。玉川上水の開削に成功後、玉川上水からの分水を許可され、乾燥した台地のため水に苦労していた自分の領内にこの水路を築きました(玉川上水7・野火止用水3の割合で分水)。水が領民の暮らしを豊かにしたことは言うまでもありません。まずは飲み水や生活用水がいきわたるようになり、後には農地の開拓にも貢献しました。
<新座駅前>
水車が涼しげに回ってます。到着と同時に水路を意識せざるをえません。
<水路発見>
草で見えにくいですが、水路を見つけました。もっと早くお目にかかれるかと思っていましたが、結構歩きました。これより駅側は暗渠化(地下に埋設)されています。つまり、見ることができません。
■暗渠となる背景■ あんきょ
ここから一気に昭和の話になります。戦後、生活様式の変化や宅地化により、生活排水が用水に流れるようになり水質が悪化。加えて東京の水不足により、玉川上水からの分水が制限されるようになり、野火止用水の水質はますます悪くなります。最後は玉川上水からの取水が停止。やがて汚れた水路には蓋がされ、地表からその姿を消しました。
臭いものには蓋・・・
まぁそうなる背景があってのことですが、そういうことですね。
■価値の見直し■
歴史的な価値を見直す機運が高まっています。先人たちの仕事を見直すことは、人の思いを見直すことのように思えます。見た目以上に美しく感じるのは、きっとそのせいでしょう。
<歴史を刻んだ水の路> みずのみち
知恵伊豆と呼ばれた男の水路。そして領民に感謝された水路。この用水路に蓋がされることはもうないでしょう。本来あるべき姿。いいですね。
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2017年07月29日
伊奈一族と玉川上水
玉川上水といえば玉川兄弟だろ。はい、その通りです。
伊奈一族の城跡を二つ訪問してみて、いろいろ調べるうちにちょっと思うところがあり、今回軽くふれさせて頂きます。基本的には城跡好きですが、水路好きでもあります。共感頂けると嬉しいです。
<玉川上水>
名前は有名ですね。江戸時代の大事業。現在の羽村市から始まり、新宿区四谷まで続く総距離約43qの水路です。現在でも都内でその姿を見ることはできますが、「昔の玉川上水の雰囲気」が再現されていると聞き、この地を訪問しました。場所は小平市津田町(いわゆる津田塾の津田)。玉川上水沿いが緑に囲まれた小路になっていて、のんびり散歩するのに最適です。
<駅近く>
駅でいうと西武国分寺線の「鷹の台」駅近く。歩いてすぐです。
■大事業です■
玉川兄弟の仕事として有名ですし、実際にそうです。ただ、小さな村で小川から田畑まで水路を掘ったとか、そういうスケールではありません。これは江戸の街にとっての一大事業。とても二人ぼっちでは無理。兄弟とともに現場に参加した人たちは勿論ですが、幕府の許しを得たり、資金を調達したり、人を集めたり、関係する利害関係者と調整したりと、すべき仕事はたくさんあります。
■フォーメーション■
総 奉 行 :松平伊豆守信綱(老中)
水道奉行:伊奈忠治★(関東代官)
工事:庄右衛門・清右衛門兄弟※(町人)
※功績により兄弟には玉川姓が与えられました
あまり知られてませんが、こういうフォーメーションとなっています。玉川兄弟は町人に分類しましたが、まぁもうちょっと具体的に言えば当時の土建業のプロフェッショナルですかね。で、松平伊豆守は一旦「偉い方」で済ますとして(いろいろご苦労されたと思いますがすみません)、ここでは中間的な立場で役割を担った伊奈氏について。
■伊奈忠克■ ただかつ
この人は上に記載した伊奈忠治の長男。通称半左衛門。父から関東代官と赤山城を拠点とした所領七千石を引き継ぎました(弟たちに知行を分け与えたことから、忠克本人は四千石)。
<赤山城跡> ↓ここです
[埼玉県川口市赤山]
父・忠治が赤山領の拠点として築城した城跡。長男忠克はこの地で生まれ、この地を引き継ぎ、関東の治水、新田開発に尽力しました。 (赤山城に関する記事はこちらになります→「伊奈一族の城跡」)
■仕掛中の大仕事■
伊奈一族の仕事として有名な利根川東遷事業(荒川と合流して江戸湾へ注いでいた利根川の流路を、東側へ変更する事業)ですが、父・忠治から始まったものの、完成したのは忠克の時です。そして今回のテーマである玉川上水についても、スターティングメンバーとしては忠治が名を連ねますが、まさにこの工事の最中に没してしまったため、完成に導いたのは忠克ということになります。
★伊奈忠治は、度重なる工事失敗の責任をとって切腹したという話もよく耳にしますが、これは事実ではないようです(病没) 。
■玉川上水誕生■
そもそもこの事業はどうして必要だったのでしょうか。これは一言でいえば急激な人口増加。江戸の街は人が増え続け、飲料水不足が深刻になりつつありました。小石川上水ほかの既存インフラではまかなえず、更に地形の高低差で水が届きにくいエリアもあり、玉川上水が掘られることになりました。大変な事業ですが、工事開始から8ケ月で完成したそうです。1653年の出来事。将軍家が既に四代家綱になっていた頃のお話です。
■あまり有名じゃない■
これだけの事業に尽力したんですがね。伊奈忠克の名を見聞きすることはありません。そもそも、関八州の幕府直轄領の管理を任されていた伊奈一族そのものが、仕事のわりにマイナー。せいぜい初代の忠次と三代目の忠治の名を目にすることがあるくらいですかね。やはりいつの時代でも、管理する仕事というのはあまり注目されませんね。そして立場においても、総責任者とリアルな現場は注目されますが、その間に位置する人は語られることもありません。結構苦労すると思うんですがね。
<笹塚駅付近> 渋谷区
ここも綺麗に残されていますね。ただこの景色がずっと続くわけではありません。
<上の画像のつづき> 暗渠(あんきょ)
ここから先は暗渠。玉川上水は地下に隠れ、地上は緑道となっています。ちなみに、右側の階段部分ですが、これは三田用水へ分水していたなごりです。つまり分水地点というわけです。便利な玉川上水。のちに沢山の分水が造られました。
<新宿御苑内> 新宿区
新宿御苑内の玉川上水・内藤新宿分水散歩道。何となく昔の水路の雰囲気を味わえる場所です。玉川上水の歴史的価値を伝える目的で整備されました。ここの説明文にもある通り、水路は多摩川の羽村堰から43q、土を掘りぬいただけの開渠(かいきょ)で造られました。つまり山をくぐるトンネルとか、谷を渡るための水道橋とかは無し。掘るだけです。羽村と四谷の標高差は僅か100m程度。水は低い方へしか流れませんから、高さを維持しながら、平坦であるはずのない台地を削って造ったということですね。建設機械もポンプも無い時代の話です。この現場力、凄いですね。やはり「玉川上水=玉川兄弟」で語られても仕方ないような気もします。
■老中・松平伊豆守と伊奈氏■
先述した偉い人。川越藩主でもあります。大変出世した方ですが、もともとは松平家の出ではなく、大河内家からの養子です。父は大河内久綱といいます。伊奈忠次配下の代官でした。出身も伊奈忠次屋敷付近と推定されています。
<伊奈氏屋敷跡>↓ここです
[埼玉県伊奈町大字小室]
伊奈氏は社会インフラの整備だけでなく、それに関わる人材の育成でも社会に貢献しました。大河内久綱もその一人です。そして、なんとその息子が、やがて幕府の中核となりました。玉川上水プロジェクトでは、伊奈氏の上司的な存在です。地味な存在ですが、社会に及ぼした影響が大きい。伊奈氏とはそういう一族、地味なつわものどもだと思えます。
今回はやや強引にまとめました。
こんな個人的な思い込みを最後までお読み頂き、ありがとうございます。
お城巡りランキング
伊奈一族の城跡を二つ訪問してみて、いろいろ調べるうちにちょっと思うところがあり、今回軽くふれさせて頂きます。基本的には城跡好きですが、水路好きでもあります。共感頂けると嬉しいです。
<玉川上水>
名前は有名ですね。江戸時代の大事業。現在の羽村市から始まり、新宿区四谷まで続く総距離約43qの水路です。現在でも都内でその姿を見ることはできますが、「昔の玉川上水の雰囲気」が再現されていると聞き、この地を訪問しました。場所は小平市津田町(いわゆる津田塾の津田)。玉川上水沿いが緑に囲まれた小路になっていて、のんびり散歩するのに最適です。
<駅近く>
駅でいうと西武国分寺線の「鷹の台」駅近く。歩いてすぐです。
■大事業です■
玉川兄弟の仕事として有名ですし、実際にそうです。ただ、小さな村で小川から田畑まで水路を掘ったとか、そういうスケールではありません。これは江戸の街にとっての一大事業。とても二人ぼっちでは無理。兄弟とともに現場に参加した人たちは勿論ですが、幕府の許しを得たり、資金を調達したり、人を集めたり、関係する利害関係者と調整したりと、すべき仕事はたくさんあります。
■フォーメーション■
総 奉 行 :松平伊豆守信綱(老中)
水道奉行:伊奈忠治★(関東代官)
工事:庄右衛門・清右衛門兄弟※(町人)
※功績により兄弟には玉川姓が与えられました
あまり知られてませんが、こういうフォーメーションとなっています。玉川兄弟は町人に分類しましたが、まぁもうちょっと具体的に言えば当時の土建業のプロフェッショナルですかね。で、松平伊豆守は一旦「偉い方」で済ますとして(いろいろご苦労されたと思いますがすみません)、ここでは中間的な立場で役割を担った伊奈氏について。
■伊奈忠克■ ただかつ
この人は上に記載した伊奈忠治の長男。通称半左衛門。父から関東代官と赤山城を拠点とした所領七千石を引き継ぎました(弟たちに知行を分け与えたことから、忠克本人は四千石)。
<赤山城跡> ↓ここです
[埼玉県川口市赤山]
父・忠治が赤山領の拠点として築城した城跡。長男忠克はこの地で生まれ、この地を引き継ぎ、関東の治水、新田開発に尽力しました。 (赤山城に関する記事はこちらになります→「伊奈一族の城跡」)
■仕掛中の大仕事■
伊奈一族の仕事として有名な利根川東遷事業(荒川と合流して江戸湾へ注いでいた利根川の流路を、東側へ変更する事業)ですが、父・忠治から始まったものの、完成したのは忠克の時です。そして今回のテーマである玉川上水についても、スターティングメンバーとしては忠治が名を連ねますが、まさにこの工事の最中に没してしまったため、完成に導いたのは忠克ということになります。
★伊奈忠治は、度重なる工事失敗の責任をとって切腹したという話もよく耳にしますが、これは事実ではないようです(病没) 。
■玉川上水誕生■
そもそもこの事業はどうして必要だったのでしょうか。これは一言でいえば急激な人口増加。江戸の街は人が増え続け、飲料水不足が深刻になりつつありました。小石川上水ほかの既存インフラではまかなえず、更に地形の高低差で水が届きにくいエリアもあり、玉川上水が掘られることになりました。大変な事業ですが、工事開始から8ケ月で完成したそうです。1653年の出来事。将軍家が既に四代家綱になっていた頃のお話です。
■あまり有名じゃない■
これだけの事業に尽力したんですがね。伊奈忠克の名を見聞きすることはありません。そもそも、関八州の幕府直轄領の管理を任されていた伊奈一族そのものが、仕事のわりにマイナー。せいぜい初代の忠次と三代目の忠治の名を目にすることがあるくらいですかね。やはりいつの時代でも、管理する仕事というのはあまり注目されませんね。そして立場においても、総責任者とリアルな現場は注目されますが、その間に位置する人は語られることもありません。結構苦労すると思うんですがね。
<笹塚駅付近> 渋谷区
ここも綺麗に残されていますね。ただこの景色がずっと続くわけではありません。
<上の画像のつづき> 暗渠(あんきょ)
ここから先は暗渠。玉川上水は地下に隠れ、地上は緑道となっています。ちなみに、右側の階段部分ですが、これは三田用水へ分水していたなごりです。つまり分水地点というわけです。便利な玉川上水。のちに沢山の分水が造られました。
<新宿御苑内> 新宿区
新宿御苑内の玉川上水・内藤新宿分水散歩道。何となく昔の水路の雰囲気を味わえる場所です。玉川上水の歴史的価値を伝える目的で整備されました。ここの説明文にもある通り、水路は多摩川の羽村堰から43q、土を掘りぬいただけの開渠(かいきょ)で造られました。つまり山をくぐるトンネルとか、谷を渡るための水道橋とかは無し。掘るだけです。羽村と四谷の標高差は僅か100m程度。水は低い方へしか流れませんから、高さを維持しながら、平坦であるはずのない台地を削って造ったということですね。建設機械もポンプも無い時代の話です。この現場力、凄いですね。やはり「玉川上水=玉川兄弟」で語られても仕方ないような気もします。
■老中・松平伊豆守と伊奈氏■
先述した偉い人。川越藩主でもあります。大変出世した方ですが、もともとは松平家の出ではなく、大河内家からの養子です。父は大河内久綱といいます。伊奈忠次配下の代官でした。出身も伊奈忠次屋敷付近と推定されています。
<伊奈氏屋敷跡>↓ここです
[埼玉県伊奈町大字小室]
伊奈氏は社会インフラの整備だけでなく、それに関わる人材の育成でも社会に貢献しました。大河内久綱もその一人です。そして、なんとその息子が、やがて幕府の中核となりました。玉川上水プロジェクトでは、伊奈氏の上司的な存在です。地味な存在ですが、社会に及ぼした影響が大きい。伊奈氏とはそういう一族、地味なつわものどもだと思えます。
今回はやや強引にまとめました。
こんな個人的な思い込みを最後までお読み頂き、ありがとうございます。
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タグ:伊奈一族
2017年05月05日
暗渠に架ける跳ね橋 (堀に囲まれていた蕨宿)
蕨城跡訪問後、せっかくですので宿場跡も探索してみました。
<中山道蕨宿>わらび
蕨は日本橋から出発して二つ目の宿場です。一つ目が板橋、三つ目は浦和。蕨は江戸を通じて宿場町として栄えます。この地が選ばれるのには様々な要素があったと思われますがもともと城があり、城下にある程度の街があったことと無縁ではないようです。
■そもそもの話として■
徳川幕府により五街道の整備が始まり、中山道も整備されました。先ほど板橋宿の次は蕨宿とご紹介しましたが、当初の予定だと浦和宿だったそうです。ただ板橋から距離が有り過ぎることと、戸田で川を渡る必要があり、困難な場合なども考慮され、もともと城跡付近に街があった蕨が選ばれたようです。結果として、蕨宿は浦和宿や大宮宿以上に栄えました。
■城郭のような蕨宿■
宿場の周囲には堀が廻らされていたそうです。まるで城郭ですね。防衛のためと考えるのが自然ですが、人が「逃げ出さないため」という説もあります。まぁ調べきれなかったので、ここでは防衛のためということで。
■跳ね橋■はねばし
目的があって堀が巡らされいた訳ですが、出入りは不便になりますよね。そこで、城郭の堀などでも良くみられる跳ね橋が設けられていたそうです。上げたり下ろしたりできる可動式の橋のことですね。あくまで宿場ですから、昼は下して通行を可能とし、夜は橋を引き上げて出入りを制限するといった使い方でしょうか。
今回の訪問で、その再現をしてくれている場所を見つけました。
<再現された跳ね橋>
個人のお宅のようなので撮影をためらいました。しかし蕨市観光協会さんのページでも紹介されているようです。こうして伝えてもらえるのは嬉しいですね。中央の板状のものが跳ね橋。引き上げた状態です。
堀は無い?
確かに、跳ね橋を架けるべき堀はなく、すんなり通れる歩道になってますね。ただまぁ良く見て下さい。跳ね橋の手前は今でも水が流れています。
<暗渠に架かる跳ね橋>あんきょ
歩道はいわゆる暗渠ですね。つまり、溝の上に蓋がしてある状態です。
暗渠工事(川や水路に蓋をしたり、地下に埋設する工事)により、そこに架かっていた橋がそのまま取り残されている例は沢山あります。当ブログでも「川の無い橋」といった表現で何度か紹介させて頂きました。暗渠マニアの方々も「暗渠に架かる橋」といった表現を多用しています。しかし、ここは暗渠に敢えて架けた橋。よくある事例と順番が逆になります。
明日に架ける橋♪
Bridge over Troubled Water
ではないですが
暗渠に架ける橋!
Bridge over Buried River
です
正確には
暗渠に架ける跳ね橋
Drawbridge over Buried River
ということになりますかね(超直訳)
ちょっとマニアックで恐縮です。まぁこんなくだらない拘りは良いとして、蕨の「跳ね橋」、せっかく再現してもらっていますので、かつての宿場を訪ねることがあったら立ち寄ってみては如何でしょうか。
[埼玉県蕨市北町]
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<中山道蕨宿>わらび
蕨は日本橋から出発して二つ目の宿場です。一つ目が板橋、三つ目は浦和。蕨は江戸を通じて宿場町として栄えます。この地が選ばれるのには様々な要素があったと思われますがもともと城があり、城下にある程度の街があったことと無縁ではないようです。
■そもそもの話として■
徳川幕府により五街道の整備が始まり、中山道も整備されました。先ほど板橋宿の次は蕨宿とご紹介しましたが、当初の予定だと浦和宿だったそうです。ただ板橋から距離が有り過ぎることと、戸田で川を渡る必要があり、困難な場合なども考慮され、もともと城跡付近に街があった蕨が選ばれたようです。結果として、蕨宿は浦和宿や大宮宿以上に栄えました。
■城郭のような蕨宿■
宿場の周囲には堀が廻らされていたそうです。まるで城郭ですね。防衛のためと考えるのが自然ですが、人が「逃げ出さないため」という説もあります。まぁ調べきれなかったので、ここでは防衛のためということで。
■跳ね橋■はねばし
目的があって堀が巡らされいた訳ですが、出入りは不便になりますよね。そこで、城郭の堀などでも良くみられる跳ね橋が設けられていたそうです。上げたり下ろしたりできる可動式の橋のことですね。あくまで宿場ですから、昼は下して通行を可能とし、夜は橋を引き上げて出入りを制限するといった使い方でしょうか。
今回の訪問で、その再現をしてくれている場所を見つけました。
<再現された跳ね橋>
個人のお宅のようなので撮影をためらいました。しかし蕨市観光協会さんのページでも紹介されているようです。こうして伝えてもらえるのは嬉しいですね。中央の板状のものが跳ね橋。引き上げた状態です。
堀は無い?
確かに、跳ね橋を架けるべき堀はなく、すんなり通れる歩道になってますね。ただまぁ良く見て下さい。跳ね橋の手前は今でも水が流れています。
<暗渠に架かる跳ね橋>あんきょ
歩道はいわゆる暗渠ですね。つまり、溝の上に蓋がしてある状態です。
暗渠工事(川や水路に蓋をしたり、地下に埋設する工事)により、そこに架かっていた橋がそのまま取り残されている例は沢山あります。当ブログでも「川の無い橋」といった表現で何度か紹介させて頂きました。暗渠マニアの方々も「暗渠に架かる橋」といった表現を多用しています。しかし、ここは暗渠に敢えて架けた橋。よくある事例と順番が逆になります。
明日に架ける橋♪
Bridge over Troubled Water
ではないですが
暗渠に架ける橋!
Bridge over Buried River
です
正確には
暗渠に架ける跳ね橋
Drawbridge over Buried River
ということになりますかね(超直訳)
ちょっとマニアックで恐縮です。まぁこんなくだらない拘りは良いとして、蕨の「跳ね橋」、せっかく再現してもらっていますので、かつての宿場を訪ねることがあったら立ち寄ってみては如何でしょうか。
[埼玉県蕨市北町]
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2017年04月27日
暗渠登場「ハルさんの休日」 Eテレ
「ふるカフェ系 ハルさんの休日」という番組をご存じでしょうか?
俳優の渡部豪太さんが、全国の古民家カフェをドラマ仕立てで訪ね歩く番組です。
昨日の放送で、当ブログでも紹介した桃園川(ももぞのがわ)が紹介されました。
舞台はこのカフェ
モモガルテンMOMO Garten
桃園川緑道付近の城跡(中野城山)を訪問した帰りに立ち寄りました。
(その投稿はこちら↓暗渠と城跡6)
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/33/0
モモガルテンの店内
緑で覆われていますが、店内は明るい。料理が評判ですが、すみません、私はアイスコーヒーだけでした。
番組で知りましたが、築およそ70年の二軒長屋を改築したカフェとのこと。
桃園川緑道
カフェの前は緑道。これがかつて川だったことや、だから曲がりくねっていたり、橋の跡が残っていたりすること。番組ではそういった事が分かり安く説明されました。
ドラマ仕立てなので、主人公ハルさんが、カフェの外に一人で座っている男性に気付くところから暗渠のコーナーが始まります。ハルさんは何を見ているのか尋ねますが、彼は感じているのだと答えます。
彼は姿なき川に、流れを感じていたのですね。
意味を理解したハルさん。心を研ぎ澄ましてみると、ハルさんにも桃園川のせせらぎが聞こえました。
テーマはあくまでカフェの方です。ただこの暗渠(あんきょ)のコーナー、短いですけど分かり安い。私の下手な説明では伝わらない感覚が上手に表現されているので、共有してもらえるチャンスと思い紹介させて頂きます。
再放送は下記の通りです。
ふるカフェ系 ハルさんの休日
「東京・中野 大都会の人情・二軒長屋」
再放送:2017年4月30日(日曜)
午後6時30分〜7時00分
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
暗渠マニアック ! (柏書房)
著者:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
俳優の渡部豪太さんが、全国の古民家カフェをドラマ仕立てで訪ね歩く番組です。
昨日の放送で、当ブログでも紹介した桃園川(ももぞのがわ)が紹介されました。
舞台はこのカフェ
モモガルテンMOMO Garten
桃園川緑道付近の城跡(中野城山)を訪問した帰りに立ち寄りました。
(その投稿はこちら↓暗渠と城跡6)
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/33/0
モモガルテンの店内
緑で覆われていますが、店内は明るい。料理が評判ですが、すみません、私はアイスコーヒーだけでした。
番組で知りましたが、築およそ70年の二軒長屋を改築したカフェとのこと。
桃園川緑道
カフェの前は緑道。これがかつて川だったことや、だから曲がりくねっていたり、橋の跡が残っていたりすること。番組ではそういった事が分かり安く説明されました。
ドラマ仕立てなので、主人公ハルさんが、カフェの外に一人で座っている男性に気付くところから暗渠のコーナーが始まります。ハルさんは何を見ているのか尋ねますが、彼は感じているのだと答えます。
彼は姿なき川に、流れを感じていたのですね。
意味を理解したハルさん。心を研ぎ澄ましてみると、ハルさんにも桃園川のせせらぎが聞こえました。
テーマはあくまでカフェの方です。ただこの暗渠(あんきょ)のコーナー、短いですけど分かり安い。私の下手な説明では伝わらない感覚が上手に表現されているので、共有してもらえるチャンスと思い紹介させて頂きます。
再放送は下記の通りです。
ふるカフェ系 ハルさんの休日
「東京・中野 大都会の人情・二軒長屋」
再放送:2017年4月30日(日曜)
午後6時30分〜7時00分
■お勧め本■
静かなブームになりつつある『暗渠』に関する本のご紹介です。当ブログでは下記をお勧め致します。
暗渠マニアック ! (柏書房)
著者:吉村生/山英男
※広告掲載期限切れのため書名のみ
タグ:暗渠