2019年07月10日

久地円筒分水と溝口暗渠散歩(川崎市)

今回は久々に水路の話です。

久地円筒分水くじえんとうぶんすい
<円筒分水>
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こちらは川崎市の二ヶ領用水久地円筒分水。中央の円筒から水を湧き上げ、外側の円筒の淵から溢れさせて、水路に流す仕組みになっています。思いのほか大きい!円筒は中央が直径8m、外側は16mです。

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溢れさせて

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分水されて各々の水路へ

<憩いの場所>
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円筒分水そのものは他にもありますが、ここ高津区の円筒分水はその先駆け。今では周辺も整備されて、市民の憩いの場所にもなっています。


■二ヶ領用水の分水■にかりょうようすい
二ヶ領用水とは、多摩川から引き込んだ水を川崎市内の広範囲に渡って供給する用水路で、その始まりは江戸時代初期まで遡ります。ここ久地では、古くから二ヶ領用水の水を4つの堀(久地堀・六ヶ村堀・川崎堀・根方堀)に分水していました。しかし樋(水門)による水量の調整は難しく、水をめぐる揉めごとの種にもなっていたそうです。昭和になってコンクリート製の円筒分水が造られ、円周比による正確な供給が可能になったとか。

円形なら均等に淵から溢れ出ますよね。これを予め約束した比率(灌漑面積に応じた比率)で仕切っておけば、同じ割合で水を供給し続けることができますね。ここへ流れ込む水量が変わっても、分水の比率は変わらない。なるほど、納得です。

以前から存在だけは知っていた二ヶ領用水久地円筒分水。その実物を目の当たりにすることができ、満足な訪問となりました。

■訪問
二ヶ領用水久地円筒分水
[神奈川県川崎市高津区久地]

終わり

ではなく、この日はここから先の水の行方を追いました。円筒分水から分水される4つの堀の1つ、根方堀のいまを確認しに。


溝口暗渠散歩

■根方堀■
根方堀は先ほどご紹介の円筒分水から始まり、現在の川崎市高津区南東部の平地を潤した用水路です。根方十三ヶ村堀ともいいます。ニヶ領用水を、13の村に届けるための水路ということですね。13の村とは、具体的には久本・溝口・坂戸・末永・新作・清沢・厳川・子母口・明津・ 新城・上小田中・下小田中・神地。このうち久本村溝口村のいまを確認すべく、溝口の駅へと向かいました。

と、ここまではいつも通り単独行動。このあと、武蔵溝ノ口駅改札前で街探索のお仲間たちと合流しました。川崎を愛し、川崎を知り尽くしたKさんと、同じく地元で庚申塔に詳しいSさんに導かれ、江戸時代の絵図を片手に古き溝口のいまの姿を確認して歩きました。10人を越える参加者の関心事はまちまちですが、川と水路、そしてそれらが地下に埋設された暗渠は全員共通テーマです。

■溝口探索■
大まかには溝口周辺の散策ですが、この日はリーダーKさんのチョイスで、溝口の南側にに広がる旧久本村をメインに散策しました。

Kさんによれば、久本村は多摩川の氾濫低地を水田として利用し、台地を集落や畑として利用した二段構えの構造になっているとのこと。その間を貫く『神奈川道』と呼ばれる古道、そして二ヶ領用水根方堀を辿る探索です。もちろん、寄り道を沢山しながら。以下脈略ありませんが、散策時の画像です。

<ポレポレ通り>
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人通りの多いポレポレ通りです。上手く人を避けて撮影できましたが、実際には買い物客で賑わっていました。もはや水の雰囲気は漂っていませんが、かつては水路。蛇行する自然の川とは異なり、直線に掘られた用水路のなごりです。

<南田堰>
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かつてここに用水路の堰があったようですね。根方堀がこの付近を流れ、近くにあったこの南田堰をめぐり、溝口村と久本村の間で大きな水騒動がおこったとのこと。こういった水をめぐる争いは、この地に限らず日本全国で起きていた問題です。我が国の農業は水田がメインですからね。水がどれだけ重要か、改めて考えさせられます。


<アーケードの下>
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こちらはアーケードの下に飲み屋がひしめく線路沿いのマニアックなエリア。左手の線路側は
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暗渠になっていますね。ひっそりと。南武線の線路との間を流れていく根方堀の暗渠です。この景色の情緒が人を引き付けるのでしょうか。暗渠ファンには知られた場所で、私もSNSなどで何度かこの景色を見たことがありました。そして今回ついに初訪問です。

<暗渠>
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右側は水路が埋設されている状態なので、その断面を見ただけで、道とは構造が異なるのが分りますね。

<暗渠は続くよ>
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どこまでも

<橋のなごり>
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構造上の理由で取り除かなかった橋のなごりですかね


さてさて
次は暗渠と先述の神奈川道です。

<暗渠と古道>
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丘と低地の境界線を、ここまで寄り添うように並んでいた根方堀と神奈川道ですが、高低差の都合でお別れです。左側の物置の下が根方堀の暗渠。右手に続く道が神奈川道です。神奈川道の行き先は神奈川宿。東海道五十三次の3番目の宿場です。
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物置の向こう側に続く暗渠です。


暗渠以外にもいろいろと

<久本神社>
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高津区久本の久本神社。明治になって、久本村内にあった4社を合祀して創建されました。古くより地元民の尊崇をあつめて来た久本の鎮守です。

<庚申塔>
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こちらは通称片町の十字路にある庚申塔です。庚申信仰の本尊とされる青面金剛が、邪鬼を踏みつけているお姿。その下には見ざる言わざる聞かざるが刻まれています。また、この庚申塔は大山街道の道標としての役割も担っていました。大山街道とは、江戸の赤坂御門から始まり、ここ溝口を経て伊勢原・矢倉沢へ至る長い長い道のり。その街道沿いに立ち、道行く人に行く先が正しいことを示し続けてきたわけですね。

<濱田庄司生誕の地>
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濱田庄司は第1回人間国宝に認定された益子焼の陶芸家。ここ溝口の生まれだそうです。

<久本薬医門公園>
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立派な門です。こちらは江戸時代から8代続いた医家・岡家の屋敷跡です。地域に貢献した岡家跡地は、地元民の願いから公園として整備されています。

かなり省略しましたが、だいたいこんな感じの探索となりました。不慣れな街でありながら、効率的で、更に奥深い体験となりました。ご案内役のKさん、Sさん、そして参加者の皆さまに感謝です。

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以上
溝口暗渠散歩でした。この後は参加者の皆さまと地元の人気店にて。

<玉井 西口店>
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<金運つくね>
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昼も夜も充実の一日でした。


------お勧め暗渠本------
実は今回の溝口暗渠散歩に、暗渠ファンの間では有名な方が参加されていました。いつもなら逆に説明をする立場の方ですが、今回はご自身の関心事に集中できた様子。著書は沢山ありますが、私のお勧めは「はじめての暗渠散歩」です。著者4名のうちお一人が、今回ご一緒させて頂いた方です。さて、誰でしょうねw

はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
本田創/山英男/吉村生/三土たつお




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2019年06月09日

刑場近くの橋のなごり 泪橋と思川

今回は泪橋の話です。

■泪橋と思川■
<泪橋跡>なみだばし
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泪橋の交差点です。場所は南千住駅の南側。川が暗渠化され橋は姿も無く、その名が交差点やバス停残るのみです。

<思川跡>おもいがわ
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姿を消した思川台東区と荒川区の境を流れていました。この道がそのままかつての流路ということになります。

<説明板>
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橋の名の由来として『囚人たちが現世を去るに際し涙を流しながら渡った』または『囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らした』といったことが記されています。[出典元:荒川区教育委員会]


■江戸時代の刑場■
当時の刑場ですから、今では想像もできない「火あぶり」や「はりつけ」といった刑が執行されていました。時代劇のお裁きで「獄門!」という言葉をよく耳にしますが、これは斬首のあとに死体を試し斬りにし、斬り落とした首は台に載せて見せしめとして晒しものにする刑のことです。ですから相当重い裁きということですね。ここまでやるなら獄門が最高刑かと思いきや、これに市中引き回しが付け加えられた例もあったそうです。そう言われてみると「市中引き回しのうえ獄門!」などという台詞をどこかで聞いたような気もします。

泪橋の先にあった小塚原刑場は、山谷地区の北側、現在の東京都荒川区南千住2丁目に位置します。刑場跡(首切地蔵)付近まで足を運んだものの、どうも気が引けて、場所の確認だけで終わってしまいました。あの付近なのだろう。この時はそれで充分でした。

小塚原刑場が設置されたのは1651年。明治になるまでの間に、約20万人が処刑されたそうです。有名なところでは、安政の大獄で処刑された吉田松陰といったところでしょうか。名は他にもあげられますが、事情を良く知るわけでもないのでやめておきます。

そういった人たち
これから刑を執行される者が、小塚原の刑場へ向かう途中に渡った橋が泪橋です。


■もうひとつの泪橋■
品川の鈴ヶ森刑場近くの川に架かっていた橋も「なみだ橋」の名で呼ばれていたそうです。漢字だと涙橋。正式名は浜川橋です。

<涙橋>
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刑場近くの橋という点は荒川区の泪橋と同じです。

<立会川>
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思川は姿を消しましたが、こちらはいまでも現役の川。上流は暗渠となっていますが、河口に近いこの付近は開渠、つまり水面が見える状態です。

ちなみに
小塚原刑場と鈴ヶ森刑場、これに八王子の大和田刑場を加えて江戸三大刑場と呼ぶそうです。小塚原刑場は日光街道沿い、鈴ヶ森刑場は東海道沿い、大和田刑場は甲州街道沿いにあり、みな江戸の入り口とも言える場所に設けられていました。悪巧みで江戸にやってくる者を威嚇する意味があったようです。


■玉姫稲荷にて■
ところで
泪橋というと「あしたのジョー」を思い出す方も多いのではないでしょうか?丹下拳闘クラブは、泪橋の下にありましたね。あのお話の設定だと、ドヤ街に流れてきた人間たちが、涙で渡る橋が泪橋。つまり橋を渡った先を、刑場からドヤ街に置き換えた設定でした。段平はその泪橋を逆に渡って、いつか栄光を掴もうとジョーに語りかけていましたね。

まぁ細かい設定の話は良いとして、かつて実際にあった泪橋跡からの帰り道、立ち寄った神社でジョーと出会うことができました。

<玉姫稲荷神社拝殿>
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出会うといってもパネルです。拝殿の左手です。

<矢吹丈と白木葉子>
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丹下段平ともお会いしたかったのですが、お嬢様の方が絵になるから仕方がないですね。この付近が、あしたのジョーの舞台であることを意識した演出ですね。


ということで
いまはもう無い『泪橋』と『思川』のなごりのご紹介でした。

私の訪問は6ヶ月前です。刑場の話と切り離すわけにはいかないので、ちょっとブログに掲載しにくく、撮影した画像を放置していました。しかしつい先日、文中にある鈴ヶ森刑場跡を訪問するに至り、やっとご紹介しようという気になれました。

受け止め方は人それぞれ
それで良いと思っています。

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■訪問:泪橋交差点
[荒川区南千住]3丁目付近
[台東区日本堤]2丁目付近


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2019年05月25日

新河岸川 舟運のなごり(川越市)

今回は川越の舟運のなごりです。

<河岸場跡>かしばあと
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川越市の中心部からはやや離れていますが、NHKのブラタモリで紹介されているのを見て、一度は来てみようと思っていた場所です。

■新河岸川■ しんがしがわ
江戸時代を通して川越と江戸を結ぶ役割を担っていた新河岸川。かつては多くの舟が行き来した川です。

<新河岸川>
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私が見慣れている新河岸川はもっと下流で、護岸はコンクリです(東京都北区付近)。ですから妙に新鮮ですね。


■松平信綱と新河岸川■
1638年(寛永15年)、川越は大火に見舞われます。この時、三代将軍・家光の命により、被害を受けた仙波東照宮ほかの再建のため、多くの資材が新河岸川を利用して江戸から運ばれました。これがのちに川越の舟運が盛んになるきっかけだったといわれています。

<仙波東照宮>
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川越市小仙波町の仙波東照宮です。大火災で一旦は消失し、1640年に再建されました。

松平信綱が川越藩主となり、本格的な舟運体制を整えられました。NHKのブラタモリで見聞きした説明だと、新河岸川は舟の運行のための水量を保持するため意図的にくねくねと曲がるように整備されたそうです。これにより、年貢米の輸送がスムースになりました。

<カーブ>
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もともと蛇行していた川を真っすぐにする話はよく聞きますが、この川では逆をやったわけですね。「九十九曲り」と呼ばれるほどのたくさんの屈曲をつけたそうです。

<船着場の跡>
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舟運の全盛期は江戸末期。明治になると鉄道が開通し、更には水量不足が原因で川越の舟運は幕引きとなりました。

<舟問屋>
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立派な造りですね。舟問屋・伊勢安のお屋敷です。この街の繁栄のなごりを、こうして維持して頂いていることに感謝です。確かブラタモリにも登場したような?気がします。

■小江戸・川越■
今回下車した駅は新河岸駅です。

<新河岸駅>
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東武東上線の駅です。

駅の構内、具体的には改札を出た正面でこんな光景と出会いました。

<江戸時代の広告>
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右側の説明書きによれば、これは江戸時代に実際に使われていた早船の広告とのこと。よく見ると人が窮屈そうに乗ってます。川越から江戸まで、新河岸川を利用して移動する人たちの姿ですね。物資の運搬から始まった川越の舟運ですが、人も運ぶようになっていったのですね。陸路で江戸へ向かう人が減ってしまうため、川越街道の宿場の旅籠屋からクレームを受けたそうです。

人が行き来すれば、文化も伝わります。

<小江戸・川越>
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小江戸と呼ばれる川越の街並み。江戸と繋がる新河岸川の舟運は、この地の文化にも影響を与えたわけですね。

■訪問
新河岸川 河岸場跡
[埼玉県川越市下新河岸]旭橋付近


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2019年04月11日

玉川上水のなごり 余水吐跡の暗渠

今回は水路跡のお話。江戸という城下町の治水事業のなごりです。

<水路跡>
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■玉川上水余水吐跡■ よすいばけ
当ブログでも何度かご紹介させて頂いている玉川上水。有名ですね。羽村から四谷大木戸(現在の四谷4丁目付近)まで約43キロ。標高差わずか100m程度しかないこの区間を、地面を掘るだけで繋いだ水路です。水は低い方へしか流れませんから、いかに困難なことか想像できますよね。

さて
羽村からはるばるやってきた多摩川の水は、四谷大木戸より先はどうなっていたのでしょう。

<四谷大木戸の碑>よつやおおきど
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甲州街道に設けられた関所跡です。

玉川上水はこの付近まで。ここより先は、樋などを設けて江戸の町へ給水されました。貴重な水は四谷大木戸に設けられた水番所により水量が調節され、余った分は南側の水路で渋谷川へとと流したそうです。

玉川上水のったき出す水路。これが今回訪問の「玉川上水余水吐」です。

<新宿区の秘境>
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玉川上水余水吐は暗渠化され、今では水面を見ることはできません。しかし何とも言えない美しさ。幅に制限があるものの、緑の草原のようです。

<新宿御苑の避難門>
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柵の向こう側は新宿御苑です。ここはその非常口。勿論入れません。余水吐は新宿御苑の東側に沿って続いています。

<水門のなごり>
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水門の跡ですね。ここに堰を設けたのでしょう。こういう痕跡に、人の思惑を感じる。城跡巡りで、予想もしていない遺構と出会った時のような、そんな感覚を味わいました。

<急斜面>
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更に上流へ進むと、急斜面が見えました。あんな急な角度で水が流れ落ちていたのでしょうか?

<斜面上から撮影>
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斜面を登り振り返って撮影

玉川上水余水吐は、自然の川の上流を更に掘削して築いたとされています。もしかしたら、この付近までが自然の川だったのでしょうか?人の手が加わるまでは、この付近で水が湧きだしていた?などなど、いろいろ考えさせられました(感想に過ぎません)。

まぁいずれにせよ、かつてここには水が流れていました。そして渋谷川へと注いでいた。新宿御苑(高遠藩主・内藤家屋敷跡)の池から流れ出る水も加わり、水嵩を増しながら渋谷方面へ流れていったのでしょう。暗渠化され、もうその姿を見ることはできませんが、開発から取り残されたようなこの空間に、そのなごりを感じることはできました。

ということで、玉川上水余水吐跡のご案内でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。


------お勧め暗渠本------
拙ブログでは伝わらない暗渠の魅力が、本になって出版されています。当サイトお勧めは「はじめての暗渠散歩」です。あまり身構える必要はありません。どなたでも気軽に読めるように書かれた一冊です。

はじめての暗渠散歩(ちくま文庫)
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2019年01月05日

赤羽の暗渠(稲付川) 姥ケ橋の跡

今回はまた「暗渠」のお話です。

以前『赤羽の暗渠の果て』と題して、稲付川の暗渠の下流をご紹介したことがありました。今回は、同じ場所から上流へ向かい、川にまつわる人の記憶と出会ったという内容です。よかったらお付き合い下さい。

<稲付川の暗渠>いなづけがわ
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ただの道ではありません。かつては川でした。前回同様ここ(北区赤羽西)を起点に、今度は上流へ向かいます。

<川筋>
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更に進む。冒頭の地点は、川が広い低地に出るところ。進んでいる先は台地の谷間です。ここからは住宅が密集していてちょっと撮影しにくかったですね。その状況を簡単に説明すると、暗渠の道の両側が丘(場所によっては崖に近い)、水が集まることを納得する地形です。暗渠は適度に蛇行し、姿なくとも水の流れを感じずにはいられません。

そして
その谷を抜けて少し行ったところで、私の足は止まりました。

<地蔵尊>
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通り過ぎるところでしたが、凄い場所にあるので立ち止まりました。

<石碑と説明板>
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何だろうと覗き込んだ説明板。そこに辿ってきた「稲付川」の文字をみつけることになりました。

<説明内容>
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稲付川が存在していたこと。そして、その川に架かる橋がこの地にあったこと。暗渠をかつての川と信じて歩いてきているので、何となく嬉しかったですね。

橋の名は姥ケ橋。名前だけは聞いたことがありましたが、実在した橋の名だったのですね。名の由来はやや悲しいお話。私の下手な説明より、しっかりした文をそのまま転記します。原文は長いので、多少抜粋させて頂きます。

『像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用されていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落としたという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。』
[原文:北区教育委員会]

環七通りが出来る時に、川は暗渠化され、橋も姿を消したようです。

<姥ヶ橋延命地蔵尊>
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地蔵尊は江戸時代から橋の脇にあったそうです。工事の関係で多少場所が変わったようですが、だいたいこの辺り。赤羽駅から歩いてきましたが、ここは赤羽西を通り越して上十条です。左側は子育地蔵尊です。

<姥ヶ橋の地蔵様>
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石材を丸彫りした地蔵菩薩

かつてここで暮らしたであろう人たちの営み。その一部が、橋の名前として残っている。その橋跡に記されている稲付川の文字。稲付川は「忘れ去られた川」と思っているだけに、川の記録と出会えたことは嬉しかったですね。そして伝わる話が悲話とはいえ、川にまつわる人の思いがいまでもが漂っている。暗渠化されて姿はありませんが、それら全てがかつてあった川のなごりと言えますね。

<姥ヶ橋の地蔵様>
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姥ヶ橋の地蔵様は地元に人たちに親しまれ、特に縁日には多くの人が訪れるそうです。

以上です。最後までお読み頂きありがとうございました。

■訪問
姥ヶ橋延命地蔵尊
[北区上十条]4-12-4

-----追 記-----
稲付川の下流を訪ねた記事はこちらになります。よかったら覗いて見て下さい
→『赤羽の暗渠の果て
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2018年10月17日

水の砦のなごり 浦和千貫樋

今回は水の砦跡を訪ねました。場所はさいたま市桜区です。

<千貫樋>
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重厚で風格がありますね

これは鴨川が荒川に流れ込む地点に設けられた水門です。荒川が増水すると鴨川は逆流し、周辺住民は洪水に悩まされ続けていました。その対策として、合流地点に逆流する水を食い止める門が設けられたわけですね。歴史は古く、最初の水門は江戸時代にまで遡ります。

<レンガ造り>
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木造だと経年劣化は避けられません。水門は、明治時代にレンガ造りとなりました。

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使用されたレンガが15万以上というから凄い事業です。見た目も立派ですが、どんなに期待されていたかを思うと感慨深いですね。

<千貫樋を潜る>
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現在は片側が通路になっていて、通り抜けできます。何となく小舟で水路を進んでいる気分がします。なんとなく・・・

この付近で荒川と合流していた鴨川。のちに南方面へ川が延長され、同じく荒川に注いでしる別な川と合流するように付け替えられました。流路が変わったということですね。今回訪問の千貫樋水郷公園は、かつて荒川とつながっていた鴨川の旧流路跡ということになります。

<憩いの場>
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かつて水の砦だった千貫樋。役割を終えて、公園の一部として残されています。人が水に挑んだ貴重な建造物。いつまでもこの姿を留めて欲しいですね。

<千貫樋水郷公園>
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■訪問:千貫樋水郷公園
[さいたま市桜区下大久保]

2018年09月18日

街の狭間 真夜中の暗渠

当ブログで時々登場する暗渠。このマニアたちの宴に参加したあと、街に埋もれて見向きもされない夜の路地を探索しました。

<真夜中の暗渠>
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暗渠(あんきょ)
地下に埋設された川や水路

個別に場所は説明しませんが、ご紹介する画像は新宿区と中野区です。都会のなかの都会ですね。過密に凝縮された人の暮らしの狭間で、ひっそりと流れる水の道。街というものに深く足を踏み入れれば、こんな姿もある。そんなことを共有できれば幸いです。

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多少は人も通るであろう暗渠

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特定の人しか通らないであろう暗渠

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漏れひろがる街の明かりが照らす暗渠

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ほぼ闇につつまれた暗渠


誰も見向きもしない街の狭間の暗渠は、閉塞感極まりない世界にも映ります。

ただどうなんでしょう?そんな場所にも、命の躍動があります。

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かつての水辺にカエル

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かつての護岸に苔

神秘的です。人間の都合などまったく関係ない。

ただただ命を謳歌する。

街に便利さばかりを求める私たちより、ずっと力強いのかもしれませんね。

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タグ:暗渠

2018年08月18日

いろは樋 つないできた水の流れ (志木市)

つわものどもが夢の跡
今回もまた水路関連のお話です。ただの水路ではありませんよ!何とかしようという人の思いが込められた江戸時代の「川を渡る水路」です。

<復元模型>
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これはかつて新河岸川に架けられた水路橋の復元(模型)です。川と川に挟まれた地区に、用水路の水を供給する目的で造られました。

■いろは樋■ いろはどい
始まりは1662年、つまり江戸時代です。乾燥した武蔵野台地を潤した「野火止用水(のびどめようすい)の水を、更に川を越えて対岸の村に送るために築かれました。当時その村(宗岡村)は、新河岸川と荒川に挟まれている影響から、水害にあう一方で恒常的な農業水不足に悩まされていました。これでは人の暮らしが成り立ちません。いろは樋はその救済のための水路橋ということですね。

<野火止用水跡>
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こちらは志木市のおとなり新座市で撮影しました。

野火止用水は、現在の東京都立川市で玉川上水から分水し、埼玉県新座市を通って志木市で新河岸川へと流れて出ていました。この「あとは川へ流れ出るだけ」の水に、川を渡ってもらおうとしたわけですね。この付近を知行していた旗本・岡部忠直の命により、家臣の白井武左衛門が架設したと伝わります。

<下り竜>
SN257irohadoi (3).jpg
<登り竜>
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これら江戸時代の復元模型は、志木市本町の「市場坂上」交差点付近に展示されています。下り竜登り竜。下る?登る?説明すると下の通りです。

■ジオラマ模型■
私の下手な説明より、現地に展示されているジオラマ模型を見てもらった方が早いですね。
<ジオラマ模型>
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大きなガラスケースの中を覗けば、全容がわかるようになっています。これを上流から順をおって見てみましょう。

<野火止用水>
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まず野火止用水から。水は左から右へ流れています。一番右手の小屋の付近で小枡(こます)と呼ばれるところに一旦水を貯め、高低差を利用して水を加速させます。

<大枡>おおます
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次に小枡から流れてきた水をここでまた一旦貯め、更に勢いよく落とします。この落ちる部分が「下り竜」で、もともとの地形の高低差も利用し、更に地下までもぐります。地下の水路ですから、この区間はいわゆる暗渠となるわけですね。

<登り竜>
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地下に埋設された水路(暗渠)を勢いよく流れてきた水は、ここで地上に出た樋を一気に登ります。これが登り竜。ボンプもなしに下から上に移動するのですから、水はかなりの勢いで流れいるわけですね。

<掛樋>
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水は高さを維持して移動

<水路橋>
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新河岸川を渡ります

<宗岡村>
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総延長126間(260m)の水路橋のゴール。同時に野火止用水のゴールでもあります。

という感じですかね。

■名前の由来■
水路橋の柱が48本あったことから、いろはの文字数にちなみ「いろは樋」と呼ばれたそうです。

<展示されている写真>
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やや脆弱な造りに映りますが、この水路橋が宗岡村の人たちの暮らしを支えたわけですね。


■つわものどもが夢の跡■
洪水により何度も崩壊した木製の「いろは樋」は、明治期には鉄管やレンガ造りとなっていました。

<つわものどもが夢の跡>
SN257irohadoi (12).jpg
[志木市本町]2丁目
明治時代に使われていた大枡です。こちらは実物。とても貴重な歴史の痕跡です。志木市の指定文化財に指定されています。

進化し続けた。ということは、必要とされ続けたということですね。それぞれの時代のプロたちの仕事が、人の思いに応えて、水の流れを繋いできたわけです。いろは樋そのものはもう存在しませんが、痕跡はこうして残っています。

残してもらったという方が適切でしょうか。後世に伝えようとする人の思いにより、私も知る機会を得ました。ありがとうございます。
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