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2024年02月27日

白石様堀のなごり(白岡市)

新井白石ゆかりの堀跡を訪ねました。

<白石様堀>はくせきさまぼり
Hakusekisamabori-Twitter-X-Isuke240224.jpg


■ 現地訪問 ■
この日の探索のスタートはJR新白岡駅

<新白岡駅西口>
Shin-Shiraoka-Station-Weat-Entrance.JPG
駅の東側はニュータウンとなっています。今回の目的地は西側です。

<白石様堀公園>はくせきさまぼりこうえん
Hakusekisamabori-park.JPG
[白岡市新白岡]7丁目
駅近くの白石様堀公園。新田開発を行った新井白石の功績をたたえて名付けられました。目的地はまだ先ですが、実は白石様堀跡は既にここから始まっています

<公園内説明板>
Hakusekisamabori-Explanation-board.JPG
『新井白石と野牛』と題した説明板です。江戸時代に野牛村と呼ばれたこの付近が、1709年から新井白石の領地となったこと、そして明治まで新井家代々が知行したことが記されています。

ちょっと長いので、新井白石の幕府での活躍などは省略させて頂きます。説明文の後半を転記させて頂くと『低湿地であった野牛の田んぼに排水路として、「殿様堀」「白石様堀」と呼ばれる一条の堀を設け、良田に改良するとともに、領民のために飢饉などの備えとして郷蔵を設けた。』とあります。儒学者として名高い白石ですが、領民にとって良き殿様であったことがうかがえますね。文中の郷倉(ごうくら)とは、村や集落といった共同体で管理する米の貯蔵庫のことです。

<説明板の航空写真>
Hakusekisamabori-aeria-photo.JPG
航空写真に白石様堀跡が記されています。とても分かりやすい。これを見ると、堀跡が公園を斜めに横切っていることが分かります。右側(東側)は線路の向こう側に至っています。暗渠と表示されていますので、地下に埋設された状態。直接見ることは叶いません。

見えなくても感じることはできる。

西側を探索する前に、一応線路の向こう側を先に見ておくことにしました。

<線路の東側>
Hakusekisamabori-Ankyo-bicycle-parking.JPG
白石様堀公園のすぐ近くに踏切がありますので、すぐに到着。画像の右側、奥が自転車置き場として利用されているところが、白石様堀の暗渠です。

暗渠は水路ですから、下は空洞になっています。道路のように、重量のある自動車に耐えられる構造ではありません。こういった理由から立入禁止になっている場合もありますが、歩道や自転車置き場として利用される場合も多いです。ここは暗渠の有効活用の典型といえる場所ですね。

さてさて
もう一度公園に戻って、白石様堀の跡を追いかけることにします。

<堀跡の公園>
Hakusekisamabori-koen.JPG
先述の通り、この敷地の一部もかつての白石様堀です。ただ、ここまで綺麗に整備されていると、どこが堀跡なのか分かりません。

分かりやすい暗渠を辿りたいと思います。

<堀跡の暗渠>
Hakusekisamabori-Ankyo-Twitter-X-Isuke240224.jpg
歩道が堀跡。分かりやすいですね。ここをひたすら西へ向かいます

<堀跡の暗渠>
Hakusekisamabori-Ankyo.JPG
気付かなければただの歩道ですが、地下は水路です。

<庚申塔>こうしんとう
Hakusekisamabori-Ankyo-Kousinntou.JPG
進行方向左手の分かれ道に庚申塔。青面金剛立像が見えます。ということは、この脇道は古くからある道なのでしょう。歩道はもともと堀だったわけですから、昔はここに橋が架かっていたのかもしれませんね?(想像です)

<暗渠沿いに神社>
Hakusekisama-bori-Ankyo.JPG
進行方向右手(北側)に神社が見えました。説明板の航空写真にもあった久伊豆神社。地元の歴史と関係が深いはず。立ち寄ることにしました。

<野牛久伊豆神社>
Yagyu-Hisaizujinja-Shiraoka.JPG
久伊豆神社は埼玉県内の特に荒川流域に多く分布する神社です。野牛久伊豆神社の創建は不詳のようですが、村の鎮守として祀ったものと考えられています。

<境内>
Yagyu-Hisaizujinja-Explanation-board.JPG
朝鮮通信使奉納扁額?お隣の説明板によれば、社殿正面に掲げられた篇額が、朝鮮通信使の李礥(り・ひょん)が新井白石のために書いたものであるとのこと。

<朝鮮通信使奉納扁額>へんがく
Yagyu-Hisaizujinja-Hengaku.JPG
久伊豆社の文字。白石が奉納したこの扁額と下書きは、白岡市指定文化財に指定されているとのこと。これも白石がこの付近を領していたなごりと言えますね。

<御嶽神社>みたけじんじゃ
mitakejinjya-torii-shiraoka.JPG
mitakejinjya-shiraoka.JPG
境内はこちらの御嶽神社ほか多数

さて
再び堀跡の暗渠を進みます

<暗渠の終着点>
Hakusekisamabori-Ankyo-Destination.JPG
どうやら暗渠はこの付近までのようです

<暗渠の出口>
Hakusekisamabori-Ankyogate.JPG
地下の水路はここで終わり。水面が見えていますね。ここからは開渠です

<堀跡の開渠>
Hakusekisamabori-Kaikyo.JPG
堀らしくなってきました

<この日のゴール>
Hakusekisamabori.JPG
急に視界が開けました。ここがこの日の探索のゴールです。説明板が設置されています。

<説明板>
Hakusekisama-bori-Explanation-board.JPG
新井白石が領有した野牛村は低湿地でしばしば洪水にあい、排水が悪く良好な農地ではなかった。しかし白石が測渠を堀って排水を良くしたことで、農地は良田となり、収穫量も増えた。ちょっと要約させて頂きましたが、そう記載されています。また、開削当時と比べると、流路も含め姿は変わってしまったものの、今も排水路としての役割を果たしていると記されています。つまり、現在の排水路そのものが、白石様堀のなごりということですね。

<郷倉跡>ごうくら
Hakusekisamabori-Goukura-Ato.JPG
こちらは説明板からすぐ近くの郷倉跡。白石が領民のために設けた郷倉のなごりです。

儒学者である白石は、第6代将軍の徳川家宣のもとで「正徳の治」を行なった政治家でもあります。いわば幕府の中枢にまでなった人物。その一方で、領民の期待に応える顔も持ち合わせていました。白石は若い頃の浪人生活で貧困を経験し、庶民との接点も多かったようです。領民の暮らしを思う気持ちの土壌は、その時に培われたものなのかもしれませんね。

白石は政治の世界では失脚してしまいますが、野牛村の豊かさを願って造った堀は残り続けました。白岡市となったいまも、地元ゆかりの偉人として語り継がれています。

<白石様堀のなごり>
Hakusekisamabori-Ato.JPG
堀の呼び名に「様」がつくのですから、よほど感謝されたのでしょう。


会社員の拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:白石様堀
[埼玉県白岡市野牛]1000

---------■ 参考画像 ■---------

<新井白石像>
Arai-Hakuseki-statue.JPG
[君津市久留里字内山]
千葉県の久留里城跡で撮影しました。現在の白岡市の領主となった新井白石は、君津市の生まれです。白石の父は久留里藩の藩士でした。藩主に才覚を認められた白石は、青年期を久留里の地で過ごしました。


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■参考及び出典
・現地説明板(白岡市教育委員会)
・久伊豆神社説明板( 〃委員会)
・白石様堀公園説明板
・Wikipedia:2024/2/25
・白岡市観光協会HP
 名所案内 › 白石様堀

http://www.shiraoka-kanko.info/hakusekibori.html
タグ:暗渠
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2023年10月14日

総構えの堀にも利用された用水路(金沢市)鞍月用水

城下町金沢には、天然の川から引き込んだ用水が、網目のように張りめぐらされています。用水は防火や消雪、排水など、ひとの暮らしを支える重要な役割を果たしてきましたが、一部の区間では、金沢城総構えの堀の役割も担っていました

<鞍月用水>くらづきようすい
kuratuki-yousui-plate.JPG
画像は市内を流れる鞍月用水です。築造された時期ははっきりしませんが、市内最古といわれる大野庄用水とともに、江戸時代の初期には完成していたと考えられています。諸説ありますが、二代藩主・前田利長が、城下の防備を目的に高山右近に命じて造らせたとも伝わります(1599年)。
用水は多目的に利用されましたが、その始まりは、防衛ということになりますね。

<下九曜橋>しもくようばし
kuratuki-yousui-Kanazawa-City.JPG
kuratsuki-yousui.JPG
鞍月用水に架かる下九曜橋付近で撮影しました。ちなみに、近くに設置されている説明によれば、下九曜橋の名は、加賀八家の長家の家紋に由来するようです。ここからすぐ近くの玉川公園には、かつて長家の屋敷があり、家臣たちの屋敷もこの付近だったようです。

<説明板>
kuratsuki-yousui-Guide-plate.JPG
用水と下九曜橋界隈について、いろいろと説明が記されています。右下の地図が興味深いので、ちょっと拡大させて頂きます。

<延宝年間の金沢>えんぽう
kuratsuki-yousui-Guide-plate-Map.JPG
1680年頃の地図です。鞍月用水と並行して、大野圧用水も記されています。

説明文によれば、鞍月用水は『犀川から水を取り入れ金沢の中心部を通りぬけて昔の鞍月村(現在の南神保町あたり)へ流れています』とのこと。村の名が用水の名の由来ということですね。そして『江戸時代は、水田をうるおす農業用だけでなく、金沢城や城下町を守る役目もありました』と記されています。つまり、外敵を想定した堀という役割を担ったということですね。

鞍月用水の総延長は約15qにも及びます。そのうち、金沢城の西側から南側にかけての区間が、総構えの堀として機能していました(西外惣構堀と呼ばれています)。私が足を止めた下九曜橋付近は、この区間からちょっとだけ外れているようですが、都市化にともなってところどころ暗渠化(地下への埋設)がすすむなかで、かつての総構えの堀と同じ流れの水面を眺めることができたことに、ある種の感動がありました。

Kuratsukiyousui.JPG
いまでは争いごととは無縁のせせらぎ

むかしはもう少し幅広だったのかもしれませんね

■訪問:鞍月用水
(下九曜橋付近)
[石川県金沢市芳斉]1丁目


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■出典及び参考
・現地説明板
「鞍月用水と下九曜橋界隈の案内」
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 鞍月用水

https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18471.html
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2023年10月08日

城郭の建築材運搬から始まった水路(金沢市)大野庄用水

金沢市の観光地として有名な長町武家屋敷跡を訪ねる途中で、風情のある水路に足が止まりました。

<大野庄用水>
naga-machi-onosyo-yousui.JPG
いい感じだなぁ

城下町金沢には多くの水路がありますが、こちらの大野庄用水はそのなかでも最古のものだそうです。

始まりは金沢城築城と深く関係しています。城の建築材の運搬のために造られたそうで、戦国時代末期には開通していたようです。ということは、400年以上の歴史があるわけですね。伝承では、前田利家の家臣・富永佐太郎が開削したとされています。

<適度に蛇行する水路>
onosyo-yousui-kanazawa.JPG
大野庄用水の総延長は10km強。水の流れは、天然の河川を経由し、現在の金石港(旧宮腰)まで続きます。港で陸揚げされた木材などが、この用水を経由して運ばれ、金沢城の一部となったわけですね。

その後の大野庄用水は、農業用水など、多目的な用水として役割を担いました。金沢という大きな町の防火にも役立ちますし、雪国ならではの貢献もあったことでしょう。


用水の機能に着目してご紹介させて頂きましたが、付近の武家屋敷跡とともに、美しい景観となって訪れる人の目を楽しませてくれています。

<長町武家屋敷跡>
naga-machi-bukeyashiki.JPG
土塀の街並み

<武家屋敷跡付近の大野庄用水>
nagamachi-onosyoyousui.JPG
深い歴史の用水路

ということで
用水の町といっても過言ではない金沢で、城の建築材運搬から始まった最も古い大野庄用水のご紹介でした。

■撮影:大野庄用水
(長町武家屋敷跡付近)
[石川県金沢市長町]


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■参考及び出典
・Wikipedia:2023/10/8
・金沢市HP
「歴史都市金沢のまちづくり」
>用水・惣構> 大野庄用水

https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/rekishitoshisuishinka/gyomuannai/1/1/18455.html
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2023年07月06日

城山から水を引いた水路のなごり(大多喜町)大多喜水道水路

千葉県大多喜町の山城を探索中、岩盤に奇妙な穴をみかけました。

Otaki-suido-ato.JPG
これは城の抜け道か?

ちょっと期待しましたが違いました。設置されている説明板によれば、これは水路の跡だそうです。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。

『城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。最後の城主である松平(大河内)正質の頃ようやく水道の工事が具体化し、明治二年(1869)十一月に工事を始め、翌明治三年五月に完成しました。この水道によって、城下二百戸が潤い、三十ヘクタールの水田の灌漑が行われました。』

大多喜の地図を見ると、大多喜城の天然堀として機能した夷隅川(いすみがわ)がひときわ目を引きます。ただ、かなり谷は深かったらしいので、高低差の関係で、水を引き込めるエリアは限られていたのかもしれませんね(あくまで個人の感覚です)。
最後の城主として紹介されている松平正質(まさただ)は、大多喜藩の第9代藩主にして幕府の中核メンバーです。敗れたとはいえ、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を総督として指揮した人物です。新政府軍からみれば敵の大物ということになりますが、その後の立ち振る舞いで何とか許され、大多喜藩知事となっています。大多喜水道の完成は明治になってからですが、松平正質(大河内に改名)が引き続き大多喜を統治している間に完成しているわけですね。

説明板によれば、水源はここから西へ約2qとのこと。そして、全長約5.8qの水路のうち、約4qはトンネルとのこと。当時としては大変な工事です。説明板には、責任者として小高半左衛門、工事を請け負ったと思われる三上七五郎・高橋四郎左衛門の名が記されています。小高半左衛門は豪商で地元の大地主のようです。

friend-in-cave.JPG
同行した友人を撮影しました。大人が通り抜けるのはちょっと厳しいです。

waterway-tunnel-Otaki.JPG
でも奥に明かりが見えています。

Otaki-waterway.JPG
城下に水の恵みを与え続けた水路のなごりです。

■訪問:大多喜水道跡
(大多喜城跡の登り坂)
[千葉県大多喜町大多喜]481

■参考及び出典
現地説明板



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2023年07月02日

荘厳の治水施設(春日部市)首都圏外郭放水路

水害を減らすための巨大な治水施設を訪ねました。

<調圧水槽>
Metropolitan-Area-Outer-Underground-Discharge-Channel.JPG
地下神殿とも称される空間です

■地下の水路■
<庄和排水機場>
facility-building.JPG
訪問したのは春日部市にあるこちらの施設です。冒頭の画像は、延長約6.3kmにも及ぶ地下放水路の一部に過ぎません。といってもかなり重要な場所で、地下水路を流れてきた水を調圧水槽から巨大ポンプ・排水樋管を通して江戸川に排水します。それらすべてを、この施設内で集中管理しています。

<施設グラウンド>
facility-ground.JPG
「地下神殿」はこのグラウンドの下になります

<説明板>
Outer-Underground-Discharge-Channel-Guide-plate.JPG
素人の私でも大まかには分かる説明が記されています。少しだけご紹介します。

<地形>
Guide-plate-Up.JPG
説明板の地形に関するところを拡大させて頂きました。ピンク色の綾瀬川から元荒川・大落古利根川、そして中川と江戸川までが周囲と比較して明らかに低くなっていますね。この低地は、昔の利根川の本流が流れていたところです。江戸時代より前の利根川は、東京湾へ注ぐ川でした。長年かけて形成されたこの低地は雨水が集まりやすく、洪水を防ぐための対策として地下排水路が造られました。

<説明板拡大>
Outer-Underground-DischargeChannel.JPG
こちらは説明板の地下排水路に関する部分です。ご覧の通り、特定の川ではなく、低地に位置している各河川の水を地下に取り込んで、地底50メートルのトンネルから江戸川に流す仕組みになっています。一番右側の第1立坑、そして調圧水槽等が今回訪問の庄和排水機場の施設となります。

<シールド工法>
shield-method.JPG
延長約6.3km、内径約10mの地下放水路はシールドマシンによって掘削されました。東京湾アクアラインなどと同じシールド工法による建設ということですね。

<江戸川>
Edo-gawa.JPG
Edogawa.JPG
集められた水は比較的余力のある江戸川へ

<第1立坑>
pit.JPG
奥に見えている円柱状の空間が立坑です。

<巨大な柱>
water-tank.JPG
左下に小さく映っているのが人です。いかに巨大か伝わると思います。柱がやや変色しているのは、実際にこの空間に水が入った時の痕跡です。濁った水があの高さに達するまで入ってきたということですね。

私は、この施設はあくまで「万が一」に備えたもので、滅多に稼働することはないものと思っていました。しかし、なんと年に8回程度は稼働するそうです。それによって、低地の河川の洪水が抑制されているわけですね。勉強になりました。

<地下神殿>
Outer-Underground-Discharge-Channel.JPG
荘厳の治水施設です。

■訪問:庄和排水機場
(首都圏外郭放水路)
[埼玉県春日部市上金崎]
※訪問には予約が必要です

■参考及び出典
・現地説明板
(江戸川河川事務所)
・Wikipedia:2023/7/01
・江戸川河川事務所ホームページ
(首都圏外郭放水路とは)

https://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00402.html
posted by Isuke at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 川跡・暗渠

2023年04月30日

総構のなごり(小田原市)渋取川

城下町を堀や土塁で取り囲んだ小田原城の総構。今回はそのなごりをいまに留める川の話です。

<渋取川>しぶとりがわ
Shibutori-River-Odawara.JPG
どこにでもありそうな水路ですが、この水の流れの背景には、かつて小田原北条氏が築いた総構と深く関係しています。

<説明板>
Shibutori-River-Guide.JPG
川沿いに説明が設置されていましたので、冒頭を以下に転記させて頂きます。『』内は原文のままです。

『戦国時代・小田原北条氏が本拠として小田原城は東西約2.9q、南北9qの規模を誇る戦国時代最大級の城郭です。その一番外側の守りは「総構」と呼ばれています。総構の東縁部、「井細田」から「山王口」にかけては、天然の湿地帯に堀を掘り、その内側に土塁を構築していたと考えられます。この地域は小字「渋取」と呼ばれ、この一帯は堀の跡地ではないかと考えられています。』

総構の外周は広範囲に及びましたので、山だったり谷だったり、場所によって環境が異なります。東側の低地部は湿地帯だったので、これを活かす工夫がなされたわけですね。

説明文の続きを要約させて頂くと、冒頭の画像の渋取川は、江戸時代に堀を埋めた水田の排水路と考えられているそうです。総構の構造は、秀吉の小田原攻めで北条氏が滅んだ後も存在し続けましたが、この説明を読む限りでは、堀の一部が水田に転用されるなど、運用がやや緩和されたということでしょうか。

<総構のなごり>
Shibutori-River.JPG
稲などから染み出る液を意味する『渋』が、渋取の名の由来のようです

説明板の最後には『令和3年に渋取川にかかっていた「新逢橋」は解体され、川は一部暗渠となりました。「新逢橋」lの銘板は、地域の歴史を物語る資料として小田原市郷土文化館に保管されています。』 と記されています。暗渠(あんきょ)とは、地下に埋設された川のことですね。渋取川もこの付近では水面が見えていますが、場所によっては地上からは姿を消しています

このあと
説明板の地図にもある「山王口」方面へ向かいました。その途上にある蓮上院土塁堀の内側築いた土塁跡です。これについては次の投稿にさせて頂きます。

<説明板の地図>
Shibutori-River-Guide-Map.JPG


■訪問:渋取川
(広小路南交差点付近)
[神奈川県小田原市栄町]

■参考及び出典:
現地説明板
「小田原城総構〜渋取〜」



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2022年06月19日

庭園の池と海をつないでいた水の路(芝離宮) 

今回は芝離宮の敷地外にある水路の話です

Shibarikyu-Seawater-way.JPG
水路の側面には昔の石垣が残されています。しっかりと積まれた石垣を活かした上で、コンクリートで補強しているようですね。これは芝離宮に海の水を引き込むための水路の跡です。庭園内の池はいまでこそ真水ですが、かつては江戸湾とつなげることで、潮の満ち引きによる変化を楽しめるようになっていました。

Shibarikyu-Ishigaki-Waterway.JPG
周囲の開発の都合で、芝離宮の池はいまは海から遮断されていますが、かつての「潮入りの池」のための施しが、庭園の外側にこうして残されているわけですね。

Shibarikyu-Ankyo-Way.JPG
こちらでは蓋をされていますが、ここも水路だったことは伝わってきます。いわゆる暗渠ですね。もう役割を終えているのに、こうして痕跡だけは残る。情緒的に惹かれてしまうのはちょっとヘンですかね?

Shibarikyu.JPG
ご紹介させて頂いた水路は芝離宮の東側、つまり東京湾側になります。当ブログがきっかけで、普通なら気付かれない海の水の通り路を探してくれる人がいたら嬉しいです。


■訪問:芝離宮
(旧芝離宮恩賜庭園)
[東京都港区海岸]1


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タグ:暗渠
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2022年05月21日

姿なき水路沿いの石橋供養塔(府中市)

府中市を散策中にこんな光景と出会いました

Ankyo-Fuchuyosui-Memorial-Stone.JPG
なんでこんな場所に橋の供養塔が?

周囲に川や水路の雰囲気は漂いません。ただ、ちょっとしたヒントはありました。

Ankyo-Fuchuyosui.JPG
これは水の流れを模したものか

この時点では半信半疑でしたが、延々と続く歩道が、実は水路かもしれないと思った瞬間でした。

ちょっとこの日は別な目的があったので、帰宅してからゆっくり調べました。するとやはり、私が歩いていたのは府中用水とよばれる水路でした。多摩川の水を引き込むための水路で、その始まりは江戸時代初期にまで遡ります。歴史ある水路ということですね。

水路には人が行き交うために橋が架けられ、安全祈願あるいは感謝の気持ちとして橋の供養塔が建てられたということのようです。

現代人にもそういった感覚は多少引き継がれていると思いますが、むかしの人は、橋に魂が宿ると考える傾向が強かったようです。

むかしってどの程度?

素人なので明言はできませんが、少なくとも江戸時代にはそういう考え方はありました。

府中用水そのものはいまでも現役です。
しかし、ここ分倍河原付近は都市化にともない、地下に埋設されています。いわゆる暗渠ですね。

地表から姿を消し、道を隔てることもなくなった用水路沿いに、かつてあった石橋の供養塔が残されている。

Onceuponatime-therewasabridge.JPG
水辺だったなごり。そして、橋に込めた人の思いのなごりですね

■訪問:石橋供養塔
[府中市分梅町]1丁目27-3

■参考
Wikipedia:2022/5/21
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