埼玉県鴻巣市の「小さな東照宮」にお邪魔させて頂きました。
<東照宮>
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です
<紫の幟>
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。
<東照宮入口>
石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。
<狭い参道>
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…
<境内>
ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。
<説明板>
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?
以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』
将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。
鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。
<江戸図屏風>
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。
将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。
やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。
説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。
<石碑>
東照宮 敷地奉納記念碑
<石祠>せきし
石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。
無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。
<御成町>おなりちょう
将軍が御成りになった町です
■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」
https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html
2023年12月24日
2023年12月10日
熊谷直実像(熊谷駅前)日ノ本一の剛の者
今回は、源平合戦などで活躍し、源頼朝から「日ノ本一の剛の者」と讃えられた武将の銅像の話です。
<熊谷直実像>くまがいなおざね
ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。
熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。
<熊谷次郎直実>
熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。
銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。
これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。
少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。
<熊谷駅北口ロータリー>
冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。
■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
<熊谷直実像>くまがいなおざね
ここは熊谷駅の北側のロータリー広場です。
熊谷で下車するのは初めてではありませんし、この銅像の存在は以前から知っていました。ただ、ロータリーが広く遠くから眺めるだけだったので、わざわざ足を止めることはありませんでした。改めてよく見れば、かなり迫力のある銅像ですね。Wikiさんによればこの銅像は北村西望作とのこと。私は彫刻に詳しくないですが、あの有名な長崎平和祈念像を造った方といわれれば納得です。
<熊谷次郎直実>
熊谷直実は現在の熊谷市出身。通称は次郎。源頼朝の御家人となり、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。義経の奇襲として有名な「ひよどり越え逆落とし」にも、畠山重忠や和田義盛らとともに加わっています。この時、敵陣に一番乗りで突入したものの、死にかけたという猛者です。
銅像からも荒々しさが伝わってきます。
ただ、人情味溢れる逸話も伝わっています。
これも源氏と平氏が激突した「一ノ谷の戦い」でのこと。敗走する平家の武将を呼び止め、一騎討ちに至りますが、相手が我が子と歳の変わらぬ若武者であることに気付き、とどめを刺すのを躊躇います。状況からして討ち取らないわけにはいかず、涙ながらに若者の命を奪うことになりました。心の傷となり、この世の無常を感じたことが、のちの出家につながったと伝わります。
少し大ざっぱですが、こんな感じのお話で「平家物語」の中にも描かれています。儚さ、虚しさが漂う悲話ですね。直実が討ち取ったのは、平清盛の甥にあたる敦盛でした。
<熊谷駅北口ロータリー>
冷静沈着というより、人間味溢れる直情型の武将だったのかもしれません。根強い人気の理由かもしれませんね。
■訪問:熊谷直実像
[埼玉県熊谷市筑波]
お城巡りランキング
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2023/12/10
・熊谷商工会議所HP
「熊谷次郎直実とは」
https://www.kumagayacci.or.jp/events_information/kumagai_jjiro/
2023年10月28日
前田利家ゆかりの地(金沢)尾山神社
戦国武将・前田利家が祀られている神社を訪ねました。
<尾山神社>おやまじんじゃ
創建は1873年(明治6年)です。前田利家が没したのは1599年(慶長4年)ですから、相当あとの話になりますね。この当時、各地で藩祖又は藩主を祀る神社が流行りとなっていました。尾山神社の創建も、そういった世の中の風潮に乗ったものだったようです。それまで前田利家の霊が祀られていた卯辰八幡社は、尾山神社建立を境に宇多須神社となりました。
<鳥居>
堂々とした鳥居は日本風ですが…
<神門>
え?これが神社の門!和漢洋の三様式が混合されたこの珍しい神門は、国の重要文化財に指定されています。
<異彩>
神社でステンドグラスかぁ…ちなみに、てっぺんの避雷針は日本で最古のものとのことです。
<拝殿>
旧加賀藩士等により社殿が築かれました
<前田利家像>
かなり高い位置に設置されています。
<槍の又左>やりのまたざ
豊臣政権下で五大老に名を連ねた大御所の姿ではなく、織田信長配下で槍の又左衛門として名を馳せた頃の雄姿ですね。利家は当時としてはかなりの大男で、180cm前後はあったようです。
<母衣>ほろ
背中の大きな丸い袋は母衣です。若い頃の利家は赤い母衣を背負う母衣衆のリーダー的な存在でした。敵から目立ってしまいますが、背後から飛んくる矢から身を守る効果がありました。
<境内の様子>
尾山神社の境内は、もともとは金沢城の一部で、金谷出丸と呼ばれていました。出丸はやがて隠居した藩主の居住地となり、金谷御殿と呼ばれました。
<東神門>
見どころ沢山の境内と比較するとちょっと地味ですが、尾山神社の裏門(東神門)には、かつての金沢城二の丸の門が移設されています。
<金谷神社> かなやじんじゃ
こちらは境内にある金谷神社です。利家の嫡男・利長から始まる前田家歴代当主、そしてその正室が祀られています。前田家の血筋は現在も受け継がれています。
<神苑>しんえん
旧金谷御殿の池泉廻遊式の庭園とされています。江戸末期から明治初期にかけて造られたようです。廃藩置県が1871年(明治4年)ですから、藩として造園した最後の庭園の部類と思われます。
<おまつの方の石碑>
藩祖・前田利家を祀る神社として創建されましたが、1998年(平成10年)に正室のお松の方も合祀されました。松は利家を支え続け、没後は菩提を弔うために出家して「芳春院」と号しました。息子利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられると、自ら人質として江戸に入り、加賀藩を救いました。
<観光名所>
「利家とまつ」が祀られ、金沢の人気スポットのひとつとなっています。
■訪問:尾山神社
[石川県金沢市尾山町]11-1
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2023/10/25
・ほっと石川旅ねっと
>石川の観光スポットを探す>尾山神社
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4830
<尾山神社>おやまじんじゃ
創建は1873年(明治6年)です。前田利家が没したのは1599年(慶長4年)ですから、相当あとの話になりますね。この当時、各地で藩祖又は藩主を祀る神社が流行りとなっていました。尾山神社の創建も、そういった世の中の風潮に乗ったものだったようです。それまで前田利家の霊が祀られていた卯辰八幡社は、尾山神社建立を境に宇多須神社となりました。
<鳥居>
堂々とした鳥居は日本風ですが…
<神門>
え?これが神社の門!和漢洋の三様式が混合されたこの珍しい神門は、国の重要文化財に指定されています。
<異彩>
神社でステンドグラスかぁ…ちなみに、てっぺんの避雷針は日本で最古のものとのことです。
<拝殿>
旧加賀藩士等により社殿が築かれました
<前田利家像>
かなり高い位置に設置されています。
<槍の又左>やりのまたざ
豊臣政権下で五大老に名を連ねた大御所の姿ではなく、織田信長配下で槍の又左衛門として名を馳せた頃の雄姿ですね。利家は当時としてはかなりの大男で、180cm前後はあったようです。
<母衣>ほろ
背中の大きな丸い袋は母衣です。若い頃の利家は赤い母衣を背負う母衣衆のリーダー的な存在でした。敵から目立ってしまいますが、背後から飛んくる矢から身を守る効果がありました。
<境内の様子>
尾山神社の境内は、もともとは金沢城の一部で、金谷出丸と呼ばれていました。出丸はやがて隠居した藩主の居住地となり、金谷御殿と呼ばれました。
<東神門>
見どころ沢山の境内と比較するとちょっと地味ですが、尾山神社の裏門(東神門)には、かつての金沢城二の丸の門が移設されています。
<金谷神社> かなやじんじゃ
こちらは境内にある金谷神社です。利家の嫡男・利長から始まる前田家歴代当主、そしてその正室が祀られています。前田家の血筋は現在も受け継がれています。
<神苑>しんえん
旧金谷御殿の池泉廻遊式の庭園とされています。江戸末期から明治初期にかけて造られたようです。廃藩置県が1871年(明治4年)ですから、藩として造園した最後の庭園の部類と思われます。
<おまつの方の石碑>
藩祖・前田利家を祀る神社として創建されましたが、1998年(平成10年)に正室のお松の方も合祀されました。松は利家を支え続け、没後は菩提を弔うために出家して「芳春院」と号しました。息子利長が徳川家康から謀反の疑いをかけられると、自ら人質として江戸に入り、加賀藩を救いました。
<観光名所>
「利家とまつ」が祀られ、金沢の人気スポットのひとつとなっています。
■訪問:尾山神社
[石川県金沢市尾山町]11-1
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2023/10/25
・ほっと石川旅ねっと
>石川の観光スポットを探す>尾山神社
https://www.hot-ishikawa.jp/spot/4830
2023年10月21日
高山右近ゆかりの地(金沢市)伴天連屋敷跡
金沢城の北西側には、かつて宣教師の屋敷があったと伝わります。
<伴天連屋敷跡>バテレン
金沢城下にあった伴天連屋敷跡に関する説明板と甚右衛門坂の名を記した石柱です。
まずは説明板の内容を転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。
慶長19年(1614年)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。』
右近は、キリシタン大名として知られる高山右近のことですね。戦国の世にありながら、人生の大半をキリスト教に捧げた武将です。説明文には江戸幕府による追放が紹介されていますが、キリシタン故の苦難はそれ以前から始まっていました。
6万石の大名になりながら、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)により追放されてしまいます。まぁ正確には、本人が領地や財産より信仰を選んだということになります。
そんな右近を客将として迎え入れたのが、前田利家でした。右近は武将として優れ、築城の名人でもありました。城下の整備にも関わり、約26年間を金沢で過ごしました。説明文によれば、その間右近を慕い、キリシタン武将や加賀藩士がこの地に集まったようです。その終焉が、1614年のキリシタン禁教令ということになります。
つぎに
甚右衛門坂について
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。基本的に一般人は立入禁止です。警備の方にお願いして、写真だけ撮らせて頂きました(撮影した日は一時的に雨となり濡れています)。加賀前田家の居城として有名な金沢城ですが、その始まりは本願寺による金沢御堂の創建です(1546年)。つまり、この地はいわゆる加賀一向一揆の拠点だったということです。そこへ佐久間盛政が率いる織田軍が攻めかかった際(1580年)、本願寺方の浪士である平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。
敵方のヒーローの名が坂の名の由来?何となく前田家にとって都合の良い名とは思えないのですが、そう呼ばれているのだから、そのまま受け止めます。
話を宣教師の屋敷へ戻すと
伴天連屋敷は甚右衛門坂の下周辺にあったとされますが、そのご近所といっていいところに、前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷がありました。
<黒門前敷地>
夫である宇喜多秀家が島流しとなったあと、加賀藩の支援を受けながら豪姫が余生をおくったと伝わる場所です。すぐ近くの伴天連屋敷への出入りや、高山右近との交流もあったかもしれませんね。ちなみに、山右近の屋敷は金沢城の南側ですが、ここから大した距離ではありません。
人望が厚い高山右近の影響を受けて、キリシタンとなった者も多いと伝わります。影響を受けた人の名をあげたらきりがありませんが、有名な戦国武将では、蒲生氏郷や黒田孝高などもそれに該当します。また、キリスト教宣教師の屋敷が城のすぐ近くにあったのですから、加賀藩そのものも、キリスト教信仰に理解を示していたのではないでしょうか。幕府の命で高山右近は日本を去りますが、信仰を貫いた生きざまは、多くの人の心に残り続けました。
ということで
金沢に長く滞在していたキリシタン・高山右近ゆかりの地のご紹介でいた。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■伴天連屋敷跡
(甚右衛門坂付近)
[石川県金沢市尾山町]7-41
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
・Wikipedia:2023/10/21
<伴天連屋敷跡>バテレン
金沢城下にあった伴天連屋敷跡に関する説明板と甚右衛門坂の名を記した石柱です。
まずは説明板の内容を転記させて頂きます(『』内は原文のまま)。
『金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。
慶長19年(1614年)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽に流され、その地で人生を終えたとされている。』
右近は、キリシタン大名として知られる高山右近のことですね。戦国の世にありながら、人生の大半をキリスト教に捧げた武将です。説明文には江戸幕府による追放が紹介されていますが、キリシタン故の苦難はそれ以前から始まっていました。
6万石の大名になりながら、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)により追放されてしまいます。まぁ正確には、本人が領地や財産より信仰を選んだということになります。
そんな右近を客将として迎え入れたのが、前田利家でした。右近は武将として優れ、築城の名人でもありました。城下の整備にも関わり、約26年間を金沢で過ごしました。説明文によれば、その間右近を慕い、キリシタン武将や加賀藩士がこの地に集まったようです。その終焉が、1614年のキリシタン禁教令ということになります。
つぎに
甚右衛門坂について
<甚右衛門坂>じんえもんざか
金沢城と城下をつなぐ坂道です。基本的に一般人は立入禁止です。警備の方にお願いして、写真だけ撮らせて頂きました(撮影した日は一時的に雨となり濡れています)。加賀前田家の居城として有名な金沢城ですが、その始まりは本願寺による金沢御堂の創建です(1546年)。つまり、この地はいわゆる加賀一向一揆の拠点だったということです。そこへ佐久間盛政が率いる織田軍が攻めかかった際(1580年)、本願寺方の浪士である平野甚右衛門が坂道で奮闘して討死を遂げたことから「甚右衛門坂」と呼ばれています。
敵方のヒーローの名が坂の名の由来?何となく前田家にとって都合の良い名とは思えないのですが、そう呼ばれているのだから、そのまま受け止めます。
話を宣教師の屋敷へ戻すと
伴天連屋敷は甚右衛門坂の下周辺にあったとされますが、そのご近所といっていいところに、前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷がありました。
<黒門前敷地>
夫である宇喜多秀家が島流しとなったあと、加賀藩の支援を受けながら豪姫が余生をおくったと伝わる場所です。すぐ近くの伴天連屋敷への出入りや、高山右近との交流もあったかもしれませんね。ちなみに、山右近の屋敷は金沢城の南側ですが、ここから大した距離ではありません。
人望が厚い高山右近の影響を受けて、キリシタンとなった者も多いと伝わります。影響を受けた人の名をあげたらきりがありませんが、有名な戦国武将では、蒲生氏郷や黒田孝高などもそれに該当します。また、キリスト教宣教師の屋敷が城のすぐ近くにあったのですから、加賀藩そのものも、キリスト教信仰に理解を示していたのではないでしょうか。幕府の命で高山右近は日本を去りますが、信仰を貫いた生きざまは、多くの人の心に残り続けました。
ということで
金沢に長く滞在していたキリシタン・高山右近ゆかりの地のご紹介でいた。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■伴天連屋敷跡
(甚右衛門坂付近)
[石川県金沢市尾山町]7-41
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■参考及び出典
・現地説明板
「甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡」
・Wikipedia:2023/10/21
2023年10月17日
豪姫ゆかりの地(金沢市)豪姫住居遺址
金沢市の黒門前緑地で豪姫に関する説明板を目にしました。
<豪姫住居遺址説明板>
ここはあの豪姫の屋敷跡なのかぁ
詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。
『Go-Hime was the fourth daugther of Maeda …』
はい
ちょっと撮影に失敗してしまいました。転記も和訳も厳しいので、いつも通り奥の日本語版にします。
『豪姫は一五七四年(天正二)、加賀藩藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称される。
一六〇〇年(慶長五)、関ヶ原の合戦に敗れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より粧田千五百石を与えられ、この辺りで居住したと文献は伝えている。
一六三四年(寛永十一)五月二十三日、豪姫はこの地で六十年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。』
前田家で生まれ、豊臣家の養女となり、宇喜多家に嫁いだ。凄い経歴です。
秀吉や正室の寧々に寵愛された豪姫と、秀吉から信頼され、豊臣政権下で五大老まで務めた57万石を領する岡山城主・宇喜多秀家という夫婦。こういう言い方もなんですが、当時のセレブ同士の結婚です。何ごと無ければ、日本史素人の私の記憶に残ることもなかったかもしれません。
何ごと無ければ…
ご存じの通り、関ヶ原の戦いにおいて、宇喜多秀家の率いる軍勢は西軍の主力でした。活躍するものの東軍の勝利。宇喜多氏は身分を剥奪され所領も没収となりました。説明文にもある通り秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰ることになりました。藩主となっていた弟・前田利常から支援を受けて、この辺りで居住したようです。
豪姫にしてみれば、夫だけでなく、授かった子供まで島流しとなったわけです。当時の八丈島は、食糧をはじめ物資が不足していました。豪姫の必死の働きかけもあり、幕府の許可を得て、加賀前田家は島に流された宇喜多家への支援を始めました。その支援は豪姫なきあとも、そして秀家亡き後も続き、なんと江戸時代が終わるまで継続しました。別な見かたをすれば、徳川幕府が宇喜多家を許すことはありませんでした。
やがて明治政府から罪を許され、宇喜多秀家の子孫は八丈島から、下屋敷のあった東京の板橋へ移ったそうです。そうとう先の話となりましたが、豪姫の願いが叶ったということですね。
<黒門前緑地>
豪姫は八丈島へ渡る機会に恵まれることもないまま、この地で亡くなりました(1634年)
■訪問:豪姫の屋敷跡
(黒門前緑地)
[石川県金沢市丸の内]5-16
お城巡りランキング
--------追 記--------
■黒門前緑地について■
この緑地は金沢地方検察庁検事正官舎の敷地を整備したもので、かつての官舎の一部、そしてアドレナリンの発見などで世界的に知られる化学者・高峰譲吉博士の家屋が移築され、日本庭園風の公園となっています。豪姫が暮らした屋敷は残されていませんが、敷地内は建物も含めて自由に見学できます。
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
「豪姫住居遺址」
・金沢市HP
「金沢市の紹介」
>施設案内> 黒門前緑地
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/midoritohananoka/gyomuannai/4/1/6346.html
<豪姫住居遺址説明板>
ここはあの豪姫の屋敷跡なのかぁ
詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。
『Go-Hime was the fourth daugther of Maeda …』
はい
ちょっと撮影に失敗してしまいました。転記も和訳も厳しいので、いつも通り奥の日本語版にします。
『豪姫は一五七四年(天正二)、加賀藩藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主・宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称される。
一六〇〇年(慶長五)、関ヶ原の合戦に敗れた秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰る。三代藩主利常より粧田千五百石を与えられ、この辺りで居住したと文献は伝えている。
一六三四年(寛永十一)五月二十三日、豪姫はこの地で六十年の生涯を閉じた。豪姫の人生の半分は両親ゆかりの金沢で過ごしたといってよい。』
前田家で生まれ、豊臣家の養女となり、宇喜多家に嫁いだ。凄い経歴です。
秀吉や正室の寧々に寵愛された豪姫と、秀吉から信頼され、豊臣政権下で五大老まで務めた57万石を領する岡山城主・宇喜多秀家という夫婦。こういう言い方もなんですが、当時のセレブ同士の結婚です。何ごと無ければ、日本史素人の私の記憶に残ることもなかったかもしれません。
何ごと無ければ…
ご存じの通り、関ヶ原の戦いにおいて、宇喜多秀家の率いる軍勢は西軍の主力でした。活躍するものの東軍の勝利。宇喜多氏は身分を剥奪され所領も没収となりました。説明文にもある通り秀家は徳川家康により八丈島に流され、豪姫は金沢に帰ることになりました。藩主となっていた弟・前田利常から支援を受けて、この辺りで居住したようです。
豪姫にしてみれば、夫だけでなく、授かった子供まで島流しとなったわけです。当時の八丈島は、食糧をはじめ物資が不足していました。豪姫の必死の働きかけもあり、幕府の許可を得て、加賀前田家は島に流された宇喜多家への支援を始めました。その支援は豪姫なきあとも、そして秀家亡き後も続き、なんと江戸時代が終わるまで継続しました。別な見かたをすれば、徳川幕府が宇喜多家を許すことはありませんでした。
やがて明治政府から罪を許され、宇喜多秀家の子孫は八丈島から、下屋敷のあった東京の板橋へ移ったそうです。そうとう先の話となりましたが、豪姫の願いが叶ったということですね。
<黒門前緑地>
豪姫は八丈島へ渡る機会に恵まれることもないまま、この地で亡くなりました(1634年)
■訪問:豪姫の屋敷跡
(黒門前緑地)
[石川県金沢市丸の内]5-16
お城巡りランキング
--------追 記--------
■黒門前緑地について■
この緑地は金沢地方検察庁検事正官舎の敷地を整備したもので、かつての官舎の一部、そしてアドレナリンの発見などで世界的に知られる化学者・高峰譲吉博士の家屋が移築され、日本庭園風の公園となっています。豪姫が暮らした屋敷は残されていませんが、敷地内は建物も含めて自由に見学できます。
■参考及び出典
・現地説明板(金沢市)
「豪姫住居遺址」
・金沢市HP
「金沢市の紹介」
>施設案内> 黒門前緑地
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/midoritohananoka/gyomuannai/4/1/6346.html
2023年09月27日
出羽国の戦国武将・最上義光ゆかりの寺院(山形市)光禅寺・常念寺・専称寺
最上義光ゆかりの寺院で、当ブログに掲載させて頂いた内容を下記にまとめました。
■ 光禅寺 ■ こうぜんじ
[山形県山形市鉄砲町] 2丁目
最上家11代当主にして山形藩初代藩主・最上義光の菩提寺です。同時に、次男の家親(2代藩主)と孫の義俊(3代藩主)の菩提寺でもあります。
『→記事へ進む』
■ 常念寺 ■ じょうねんじ
[山形県山形市三日町]2丁目
山号は義光山。最上家12代当主になるはずだった最上義光の長男・義康の菩提寺です。
『→記事へ進む』
■ 専称寺 ■ せんしょうじ
[山形県山形市緑町]3丁目
「東国一美しい姫」と言われた最上義光の次女・駒姫のお墓があります。理不尽な理由で豊臣秀吉に処刑され、15歳でこの世を去りました。
『→記事へ進む』
最上義光は、名門ながら小勢力となっていた最上家を、たった一代で全国屈指の大大名へと押し上げた出羽国の英雄です。調略に優れた智将であると同時に、合戦場では勇猛果敢な戦いぶりを見せた猛将でもありました。戦だけではなく、城下町の整備や新田開発でも実績を残しました。外に厳しい反面、身内に優しく、領民には寛容という印象です。ただ、全てが順調だったわけではなく、深い悲しみを背負って生きました。当ブログがきっかけで、その一部だけでも共有できれば嬉しいです。
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■ 光禅寺 ■ こうぜんじ
[山形県山形市鉄砲町] 2丁目
最上家11代当主にして山形藩初代藩主・最上義光の菩提寺です。同時に、次男の家親(2代藩主)と孫の義俊(3代藩主)の菩提寺でもあります。
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■ 常念寺 ■ じょうねんじ
[山形県山形市三日町]2丁目
山号は義光山。最上家12代当主になるはずだった最上義光の長男・義康の菩提寺です。
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■ 専称寺 ■ せんしょうじ
[山形県山形市緑町]3丁目
「東国一美しい姫」と言われた最上義光の次女・駒姫のお墓があります。理不尽な理由で豊臣秀吉に処刑され、15歳でこの世を去りました。
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最上義光は、名門ながら小勢力となっていた最上家を、たった一代で全国屈指の大大名へと押し上げた出羽国の英雄です。調略に優れた智将であると同時に、合戦場では勇猛果敢な戦いぶりを見せた猛将でもありました。戦だけではなく、城下町の整備や新田開発でも実績を残しました。外に厳しい反面、身内に優しく、領民には寛容という印象です。ただ、全てが順調だったわけではなく、深い悲しみを背負って生きました。当ブログがきっかけで、その一部だけでも共有できれば嬉しいです。
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タグ:山形への旅
2023年09月25日
最上家の祖となった斯波兼頼の墓(山形市)光明寺
最上家初代当主である斯波兼頼の墓所を訪ねました。
<斯波兼頼墓所>しば かねより
山形市七日町の光明寺です。
<足利二つ引き>あしかがふたつひき
足利一門である証がひときわ目をひきます。斯波兼頼は八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫。奥州探題斯波家兼の次男としてこの世に生をうけた正真正銘の源氏です。
<光明寺縁起>こうみょうじ
光明寺の創建は1375年(永和元年)。兼頼本人が、自ら築城した山形城内に草庵を設けたのが始まりとされています。兼頼は城内で出家し、其阿覚就と号しました。死後は草庵に葬られ、後継者となった最上直家が寺院として整備し、兼頼の戒名から光明寺と名付けたそうです。
第2代当主となった直家の正室は伊達宗遠の娘。息子たちは天童家ほか各地に配置されました。父兼頼から始まる最上家の支配体制をより強化しました。
<境内案内図>
わかりやすい案内図。現在位置が入口です。正面に本堂、左手が墓所になりますが、斯波兼頼のお墓は左手に曲がった正面ということになります
<墓所>
どうやら一番奥に見えているのが斯波兼頼のお墓のようです
<斯波兼頼のお墓>
こちらですね。気持ち、遠くから撮影しました。最上家の祖となった斯波兼頼(最上兼頼)のお墓です。
繰り返しになりますが、兼頼は源氏の名族・足利一門。南北朝時代に北朝方として活躍しました。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奧州探題を継承していく大崎氏の祖となった直持です。山形の地に城を築いて居城としたのが1356年。1379年に城内で没し、葬られた草庵が、やがて光明寺へと繋がるわけですね。
戒名は「光明寺殿成覚就公大居士」です。
■訪問:光明寺
[山形県山形市七日町]5丁目
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■参考及び出典
・現地説明板(光明寺縁起)
・山形市HP
山形市:歴史・観光・見所>光明寺
https://www.dewatabi.com/murayama/yamagata/koumyou.html
■当ブログ過去記事■
当ブログでは斯波兼頼について過去に投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
<斯波兼頼像>
2021年11月28日
『街中の斯波兼頼公像』
(クリックで記事に移動します)
<斯波兼頼墓所>しば かねより
山形市七日町の光明寺です。
<足利二つ引き>あしかがふたつひき
足利一門である証がひときわ目をひきます。斯波兼頼は八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫。奥州探題斯波家兼の次男としてこの世に生をうけた正真正銘の源氏です。
<光明寺縁起>こうみょうじ
光明寺の創建は1375年(永和元年)。兼頼本人が、自ら築城した山形城内に草庵を設けたのが始まりとされています。兼頼は城内で出家し、其阿覚就と号しました。死後は草庵に葬られ、後継者となった最上直家が寺院として整備し、兼頼の戒名から光明寺と名付けたそうです。
第2代当主となった直家の正室は伊達宗遠の娘。息子たちは天童家ほか各地に配置されました。父兼頼から始まる最上家の支配体制をより強化しました。
<境内案内図>
わかりやすい案内図。現在位置が入口です。正面に本堂、左手が墓所になりますが、斯波兼頼のお墓は左手に曲がった正面ということになります
<墓所>
どうやら一番奥に見えているのが斯波兼頼のお墓のようです
<斯波兼頼のお墓>
こちらですね。気持ち、遠くから撮影しました。最上家の祖となった斯波兼頼(最上兼頼)のお墓です。
繰り返しになりますが、兼頼は源氏の名族・足利一門。南北朝時代に北朝方として活躍しました。父は奥州探題の斯波家兼、兄は奧州探題を継承していく大崎氏の祖となった直持です。山形の地に城を築いて居城としたのが1356年。1379年に城内で没し、葬られた草庵が、やがて光明寺へと繋がるわけですね。
戒名は「光明寺殿成覚就公大居士」です。
■訪問:光明寺
[山形県山形市七日町]5丁目
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■参考及び出典
・現地説明板(光明寺縁起)
・山形市HP
山形市:歴史・観光・見所>光明寺
https://www.dewatabi.com/murayama/yamagata/koumyou.html
■当ブログ過去記事■
当ブログでは斯波兼頼について過去に投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
<斯波兼頼像>
2021年11月28日
『街中の斯波兼頼公像』
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タグ:山形への旅
2023年09月24日
出羽の虎将・最上義光の菩提寺(山形市)光禅寺
最上家11代当主・最上義光の菩提寺を訪ねました。義光は出羽国の小勢力となっていた最上家を、たった一代で全国有数の大大名に押し上げた戦国武将です。あの伊達政宗の叔父に当たります。
<光禅寺>こうぜんじ
山形市鉄砲町にある曹洞宗の寺院です
<光禅寺境内>
荘厳の境内。凛とした空気が漂います
光禅寺は最上義光が1602年(慶長7年)に向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創した時に始まります。当初の名は慶長寺でした。最上義光の葬儀も「慶長寺」の時に行われています。その後の幕府の方針で、年号を寺院名とすることが禁じられたため、光禅寺と改められました。
また、寺は当初、現在の七日町3丁目にありました。山形城の大手筋に位置し、かつ広大な敷地で、出羽山形藩主に相応しい敷地だったようです。
しかし最上家は改易となってしまい、代わって山形を任された鳥居忠政により、ここ鉄炮町に移されました。これは磐城国にあった鳥居忠政の父(鳥居元忠)の菩提寺を移すためです。義光の墓所を訪ねているせいか、やや強引さを感じてしまいますが、藩主が入れ替わったのですから仕方ないですね。あと、最上義光同様に、鳥居忠政も城下町の強化に力を注ぎましたので、その一環でもあり、大手門から近い寺の配置は、軍事的な意味もあったのかもしれません。
移転に際しては、最上家に仕えていた浪人が500人から600人集まり、義光の遺骸を運んだと伝わります。ということは、最上義光本人の墓所であると同時に、彼を慕っていた家来たちの思いも、この地に残されているということですね。
光禅寺も理不尽な扱いを受けた印象もありますが、最上義光から寄進されていた250石は、その後も寺社領として幕府から安堵されたようです。良かったですね。現在の光禅寺も、庭園を含めてかなり広い敷地を維持していますので、恵まれた寺院という印象です。
<鐘楼と観音堂>
鐘楼の梵鐘は江戸時代初期の作と伝わります
<本堂>
明治時代の大火(1894年)で境内の建物の多くは消失。先ほどご紹介させて頂いた観音堂と鐘楼以外は全焼したそうです。現在の本堂は大正時代に再建されたものです。
<扁額>
山号は天瀧山
そして
出羽の虎将の墓所へ
<最上義光墓所>
こちらです。中央が最上義光のお墓です。やや遠くから撮影しました。また、周囲の墓石は多少加工させて頂きましたのでご了承ください。雰囲気は伝わると思います。すぐ近くに説明板が設置されていますので、そちらをご紹介します。
<墓所説明板>
ここ光禅寺は、義光の菩提寺であるとともに、山形藩2代藩主となった家親、3代藩主・義俊の菩提寺でもあります。家親は義光の次男、義俊その嫡子で義光からみて孫です。これをみると、義光が69歳まで生きたのに対し、家親は36歳、義俊は26歳で没していますので、ちょっと短いという印象です。また、藩主それぞれの墓とともに、最上義光の死に殉じた四人の家臣の墓もあります。画像は投稿しませんが、四義士の墓石は義光墓所のすぐそばに一列に並んでいます。
<永和二年阿弥陀板碑>いたび
こちらは墓石ではなく板碑。山形城二の丸で発掘された1376年の板碑で、山形市有形文化財に指定されています。最上の祖であり、山形城の築城者でもある斯波兼頼が、城内に草庵を結んで出家した翌年のものとのこと。斯波氏は清和源氏足利氏の一族。つまり最上氏も足利家一門です。
<境内の水路>
境内を通っているこの水路は山形五堰のひとつ笹堰です。山形五堰は鳥居氏時代に城下の治水事業の一環として設けられました。そういえば、最上義光の娘・駒姫の墓所(専称寺)にも、同じく山形五堰のひとつ御殿堰が通っていました。
<遠州流林泉庭園>
本堂の裏手には遠州流“心字池”庭園があります。江戸時代初期のものと推測され、山形県内の庭園としては最古の部類とのこと。山形市指定名勝となっています。
<遠州流心字の池>
先ほどの水路の水が滝となって注がれています。
境内は以上です
最上義光は、どういう訳か身内の不幸が多かった武将です。逸話などから推測すると、力強い武将でありながら、かなり人情味もあったようなので、涙することも多かったのではないでしょうか。それらを背負ったうえで、浮き沈みの激しい戦国の世を生き抜き、衰退していた名門家を57万石の大大名にまで押し上げました。出羽の英雄であり、のちの山形発展の礎を築いた人物です。個人的には上杉ファンですが、敵対した最上義光も、好きな戦国武将のひとりです。
<足利二つ引き>あしかがふたつひき
足利家一門の家紋がひときわ目を引きます。義光の居城・山形城には何度かお邪魔させて頂いていますが、菩提寺の訪問は初めて。来れて良かったという思いで、現地をあとにしました。
■訪問:光禅寺
[山形県山形市鉄砲町] 2丁目
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■参考及び出典
・現地説明板
(山形市教育委員会)
・光禅寺縁起
(曹洞宗光禅寺)
・墓所説明板
・Wikipedia:2023/9/24
■当ブログ過去記事■
当ブログでは最上義光について過去に投稿しています。やや古い記事で、更に個人的な思い入れが多い記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。
<最上義光騎馬像>
2017年10月17日
『出羽の虎将・最上義光』
(クリックで記事に移動します)
<光禅寺>こうぜんじ
山形市鉄砲町にある曹洞宗の寺院です
<光禅寺境内>
荘厳の境内。凛とした空気が漂います
光禅寺は最上義光が1602年(慶長7年)に向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創した時に始まります。当初の名は慶長寺でした。最上義光の葬儀も「慶長寺」の時に行われています。その後の幕府の方針で、年号を寺院名とすることが禁じられたため、光禅寺と改められました。
また、寺は当初、現在の七日町3丁目にありました。山形城の大手筋に位置し、かつ広大な敷地で、出羽山形藩主に相応しい敷地だったようです。
しかし最上家は改易となってしまい、代わって山形を任された鳥居忠政により、ここ鉄炮町に移されました。これは磐城国にあった鳥居忠政の父(鳥居元忠)の菩提寺を移すためです。義光の墓所を訪ねているせいか、やや強引さを感じてしまいますが、藩主が入れ替わったのですから仕方ないですね。あと、最上義光同様に、鳥居忠政も城下町の強化に力を注ぎましたので、その一環でもあり、大手門から近い寺の配置は、軍事的な意味もあったのかもしれません。
移転に際しては、最上家に仕えていた浪人が500人から600人集まり、義光の遺骸を運んだと伝わります。ということは、最上義光本人の墓所であると同時に、彼を慕っていた家来たちの思いも、この地に残されているということですね。
光禅寺も理不尽な扱いを受けた印象もありますが、最上義光から寄進されていた250石は、その後も寺社領として幕府から安堵されたようです。良かったですね。現在の光禅寺も、庭園を含めてかなり広い敷地を維持していますので、恵まれた寺院という印象です。
<鐘楼と観音堂>
鐘楼の梵鐘は江戸時代初期の作と伝わります
<本堂>
明治時代の大火(1894年)で境内の建物の多くは消失。先ほどご紹介させて頂いた観音堂と鐘楼以外は全焼したそうです。現在の本堂は大正時代に再建されたものです。
<扁額>
山号は天瀧山
そして
出羽の虎将の墓所へ
<最上義光墓所>
こちらです。中央が最上義光のお墓です。やや遠くから撮影しました。また、周囲の墓石は多少加工させて頂きましたのでご了承ください。雰囲気は伝わると思います。すぐ近くに説明板が設置されていますので、そちらをご紹介します。
<墓所説明板>
ここ光禅寺は、義光の菩提寺であるとともに、山形藩2代藩主となった家親、3代藩主・義俊の菩提寺でもあります。家親は義光の次男、義俊その嫡子で義光からみて孫です。これをみると、義光が69歳まで生きたのに対し、家親は36歳、義俊は26歳で没していますので、ちょっと短いという印象です。また、藩主それぞれの墓とともに、最上義光の死に殉じた四人の家臣の墓もあります。画像は投稿しませんが、四義士の墓石は義光墓所のすぐそばに一列に並んでいます。
<永和二年阿弥陀板碑>いたび
こちらは墓石ではなく板碑。山形城二の丸で発掘された1376年の板碑で、山形市有形文化財に指定されています。最上の祖であり、山形城の築城者でもある斯波兼頼が、城内に草庵を結んで出家した翌年のものとのこと。斯波氏は清和源氏足利氏の一族。つまり最上氏も足利家一門です。
<境内の水路>
境内を通っているこの水路は山形五堰のひとつ笹堰です。山形五堰は鳥居氏時代に城下の治水事業の一環として設けられました。そういえば、最上義光の娘・駒姫の墓所(専称寺)にも、同じく山形五堰のひとつ御殿堰が通っていました。
<遠州流林泉庭園>
本堂の裏手には遠州流“心字池”庭園があります。江戸時代初期のものと推測され、山形県内の庭園としては最古の部類とのこと。山形市指定名勝となっています。
<遠州流心字の池>
先ほどの水路の水が滝となって注がれています。
境内は以上です
最上義光は、どういう訳か身内の不幸が多かった武将です。逸話などから推測すると、力強い武将でありながら、かなり人情味もあったようなので、涙することも多かったのではないでしょうか。それらを背負ったうえで、浮き沈みの激しい戦国の世を生き抜き、衰退していた名門家を57万石の大大名にまで押し上げました。出羽の英雄であり、のちの山形発展の礎を築いた人物です。個人的には上杉ファンですが、敵対した最上義光も、好きな戦国武将のひとりです。
<足利二つ引き>あしかがふたつひき
足利家一門の家紋がひときわ目を引きます。義光の居城・山形城には何度かお邪魔させて頂いていますが、菩提寺の訪問は初めて。来れて良かったという思いで、現地をあとにしました。
■訪問:光禅寺
[山形県山形市鉄砲町] 2丁目
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■参考及び出典
・現地説明板
(山形市教育委員会)
・光禅寺縁起
(曹洞宗光禅寺)
・墓所説明板
・Wikipedia:2023/9/24
■当ブログ過去記事■
当ブログでは最上義光について過去に投稿しています。やや古い記事で、更に個人的な思い入れが多い記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。
<最上義光騎馬像>
2017年10月17日
『出羽の虎将・最上義光』
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タグ:山形への旅