2021年12月04日

身を捨てて藩を守った若き家老 水野元宣 (山形市・豊烈神社)

藩主不在の山形藩で指揮をとり、責任を全て引き受けた家老の話です。

<水野元宣>みずのもとのぶ
Mizuno-Motonobu.JPG
山形城からの帰り道に立ち寄らせて頂きました

<豊烈神社境内>ほうれつじんじゃ
Horetsu-Shrine-Mizuno-Motonobu.JPG
場所は神社の境内です

水野元宣は幕末の山形藩の筆頭家老だった人物です。藩主の不在時に戊辰戦争に巻き込まれ、国元を預かる者として奮闘し、最後は奥羽越列藩同盟に参加した責任を負って処刑されました

<境内の説明板>
Mizuno-Motonobu-Guide-Plate.JPG
こちらに詳細が記されています。私は予備知識もなかったので、現地で非常に助かりました。少し長いので、まず冒頭を抜粋させて頂きます。
『水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。』とのこと。
藩主と同族の家系ではありますが、若くして抜擢されたわけですね。当時の22歳ですから今とは覚悟も違うし、家柄からして特別な教育も受けていたとは思いますが、それでも若いですね。

説明文の続きを要約すると、明治維新の際には藩主が京都にいて不在だったため、首席家老となっていた26歳の元宣が、国元を仕切っていたようです。そして慶応4年(1868年)春、官軍が山形に迫ります。山形藩は、官軍の命に従って庄内征伐のため進撃することとなりました。庄内藩は石高でも武器の近代化でも山形藩を大幅に上回る強豪です。敗走となり、戦火は山形市街地の目前にまで迫りました。説明文には、この時元宣が『領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。』と記されています。また『山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。』とあります。つまり山形藩も東北諸藩の軍事同盟に加わったわけですね。しかし結果は官軍の勝利。明治政府から反逆の罪に問われますが、元宣は『山形藩の責任はすべて自分一人にあり』と申し出て、他の者には寛容の処置を求める嘆願書を提出したそうです。責任を一身に負った水野元宣は、長源寺庭において処刑されることとなりました(明治2年)。

山形藩と聞くと、江戸初期のかなり大きな藩を連想してしまいますが、江戸末期は全盛期の10分の1以下の五万石だったそうです。五万石は決して少ない石高ではないですが、仙台藩・会津他周辺の大きな藩には及びません。つまり発言力も及びません。説明文でも『官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった』と記されています。自分の思いだけでは方針を決められなかった。しかし、明治政府から突き付けられた罪は一身に背負った。本当のリーダーだったのですね。説明文の後半には『山形市民の大恩人と称すべきである。』と記されています。

<豊烈神社>
Horetsu-Shrine-Yamagata.JPG
旧山形藩士達らが豊烈神社の分霊を勧請したことに始まります(1880年)。

豊烈神社とは、浜松城の城主だった水野忠邦が、城内に祖である水野忠元を祀ったことに始まる神社です。以降水野家の氏神とされてきました。水野家は古くから徳川家に仕えた譜代大名の一つ。そして水野忠邦といえば、老中にまでなった幕府の中核。天保の改革を思い浮かべる方も多いかと思います。この改革の失敗により忠邦は隠居し、家督を継いだ忠精(ただきよ)が藩主の時に、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封となります(1845年)。この際に、豊烈神社も山形城へ移されました。
ちょっと話が長くなりますが、水野家は所領のつながりから下総山川(現在の茨城県結城市)と縁が深く、豊烈神社はその後下総山川に移されることになります。旧山形藩を思う元藩士たちの働きかけで、その分霊が勧請され、山形に再び豊烈神社が建立されました。

<由緒>
Guide-Plate-Horetsu-Shrine.JPG
御祭神として水野忠元、中興の祖・水野忠邦とともに『明治維新殉難者二十四柱』と記されています。そのなかに『水野三郎エ門元宣』も含まれています。身を捨てて藩を守った若き家老の霊は、ここにあると受け止めさせて頂きました。

<水野元宣像>
Watching-over.JPG
山形城跡のすぐ近くです。きっと今も山形城下を見守っているのですね。

■訪問:水野元宣像
(豊烈神社)
[山形県山形市桜町]7番

■参考及び出典
・現地説明板
 水野三郎右衛門像の記
 豊烈神社由緒



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2021年10月30日

勝坂(川崎市)勝利した北条氏康が駆け上がった坂道

戦に勝利した北条氏康が「勝った!勝った!」と叫びながら駆け上ったと伝わる坂を訪ねました。

<勝坂>かちざか
Kachizaka.JPG
こちらです。氏康にちなんで勝坂と呼ばれています。

この地で戦があったのは1530年、小沢原の戦いと呼ばれています。北条氏康は多摩丘陵の山城(小沢城)を拠点にして、南下してくる扇谷上杉の軍を迎え撃ちました。山城の麓での戦いでは敗退し、一旦城に立て籠りますが、夜営のために低地の川沿いに移動した扇谷上杉の陣を襲撃して、見事逆転勝利となりました。夜襲に対応できなかった扇谷上杉勢は総崩れとなり、そのまま敗走したと伝わります。

氏康が「勝った!」と叫ぶのですから、勝坂は戦が終結した後に通った坂ということになりますね。場所は川崎市麻生区千代ケ丘5丁目。石碑などの目印はないので、とりあえず近くの公園を目指して訪問しました。

<千代ヶ丘5丁目公園>
Chiyogaoka-5-Park.JPG
目印にした公園が見えてきました。

<傾斜>
Chiyogaoka-Slope.JPG
振り返って撮影。長い長い坂でした。

<公園内>
Chiyogaoka-Park.JPG
目的地はこの公園の裏手になります。更に坂を登ることになりますが、ここまでくれば着いたようなものです。

そして

<勝坂>
Kachizaka-Kawasaki.JPG
事前にネット検索で見ていたのと同じ景色が現れました。ここで間違いないようです。漏れ聞く話では、むかしは説明板があったようですが、それに類するものは何も見つけられませんでした。氏康がどういうルートでここまで登ってきたかは分かりませんが、とにかくここは通ったのでしょう。

<勝坂からの眺め>
Kachizaka-view.JPG
まさに住宅街です。ただ地形は残ります。正確な場所は示せませんが、小沢原の戦いの古戦場ということになります。

ここでちょっとした疑問が・・・
北条氏康が上杉軍と交戦となったのは川が流れる低地です。勝利して小沢城へ戻るだけなら、わざわざこんな丘に駆け上がる必要があったのか?方角は間違いありませんが、小沢城に戻るには、複雑な地形の丘陵地帯を抜けていかなくてはなりません。登ったり降りたりするより、低地を上手く辿った方が楽なのではないか?と

まぁ戦というものは大筋で勝負がついても「はい終了!」という訳にはいきません。勝手な想像になってしまいますが、氏康はほぼ勝ったという状況を見極めた上で、敵の残党を蹴散らしながら自軍を安全な所へ導いたのかもしれません(まったく根拠はありません)。ちょっと疑問は残ったままですが、この戦いには、幼少から氏康を世話してきた指導役の清水吉政、そして地形を知り尽くした地元武士の中島隼人佐らがお供をしています。その状況で、適切な判断だったのでしょう。

<勝坂ハイツ>
KachizakaHeights.JPG
勝坂ハイツ。いい名前ですね。ここなら景色も最高です。新百合ヶ丘駅から徒歩で20分くらいかと思いますが、ちょっと坂が厳しいですね。まぁとにかく、現地には石碑も説明板もないので、勝坂という文字が嬉しかったです。

<つわものどもが夢の跡>
Ozawahara.JPG
敵を敗走させた氏康は、どんな思いでこの景色を眺めたのでしょう。夜襲だったのですから、目にしたのは月明かりが頼りの谷ということになりますね。氏康はこの時まだ16歳。初陣での見事な逆転勝利の夜でした。

■訪問:勝坂
[川崎市麻生区千代ケ丘]5丁目

------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg
[川崎市多摩区菅仙谷]


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2021年09月26日

義経の正室として生きた豪族の娘 郷御前 (河越重頼・源義経・郷御前供養塔)

源義経の正室となり、この世を去るその時まで付き添った姫様の話です。

<供養塔>
Kawagoeshigeyori-Satagozen-Yoshitsune.JPG
埼玉県川越市の常楽寺で撮影しました。地元豪族の河越重頼源義経、そして郷御前の供養塔です。

■ 郷御前 ■ さとごぜん
郷御前は武蔵国有数の勢力を誇った豪族の娘。父である河越重頼は、源頼朝と当初は敵対したものの、のちに同じ秩父一族の畠山重忠らとともに頼朝の傘下に入り、以降は御家人として重く用いられました。母は、源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の次女(河越尼)。比企尼は頼朝が伊豆国に流罪となっている間、仕送りなどで長きに渡って頼朝を支援し続けた人物。いわば頼朝の不遇時代の恩人です。河越重頼の武蔵国での実力に加えて、その娘が妻となっているわけですから、河越氏は頼朝も一目置く豪族であり、重要な御家人でした。その頼朝の命により、郷御前は義経に嫁ぐこととなり、故郷である河越の地を離れ京へ向かいました(1184年)。このため京姫とも呼ばれいます。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
供養塔があるこのお寺そのものが、河越氏館跡の一画に建てられています。この地が郷御前の故郷であり、義経へ嫁ぐ時もこの地から京へ旅立ったと思われます。


■ 頼朝・義経の確執 ■
源頼朝の鎌倉幕府樹立に、弟の義経が武功で貢献したことは言うまでもありません。その後の確執については、頼朝の弟に対する妬みや恐れ、統制が効かない煩わしさ、他の御家人への配慮など、いろいろと語られていますね。いずれにせよ、義経が朝廷からの官位を勝手に受けてしまったことが、兄弟の亀裂を決定的にしてしまったようです。

私見になりますが、義経は頼朝が抱える複雑な事情への配慮は欠けるものの、あくまで純真な武士であり、兄に対抗するつもりなどなく、むしろ認めてもらいたかったのではないでしょうか。兄弟の心のすれ違いは、そのまま危機となって郷御前に迫っていました。


■ 奥州平泉へ ■
郷御前が嫁いだ翌年、夫である義経は鎌倉に凱旋しようとするものの頼朝に拒まれ京に戻ります。更に、義経は頼朝の命を受けた追手に襲撃され、返り討ちにするものの、もはや京にはいられなくなります。同じ頃、郷御前の父である河越重頼は、義経の義父であることを理由に領地を没収され、嫡男である重房共々殺されてしまいました。

武勇に優れた夫
武蔵国屈指の豪族である父

それが、なんでこうなりますかね。その後も頼朝に追われ続けた義経は、最終的に奥州平泉の藤原秀衡を頼りました。この時、義経は郷御前に故郷の河越へ戻るよう命じたようです。しかし、郷御前は義経の後を追って奥州平泉へ向かいました。


■ 義経・郷御前の最期 ■
奥州藤原氏に匿われた義経と郷御前の間には娘が生まれ、三人はしばらく平穏の日々をおくりました。しかし義経を迎え入れた藤原秀衡が亡くなる(1187年)と、状況が少しずつ変わっていきます。秀衡の後を継いだ泰衡も、当初は義経を匿い続けましたが、頼朝の圧力はますます強まり、これに逆らい続けることはできませんでした。

泰衡は父秀衡の遺言を破り、義経の館を攻めます(1189年)。取り囲まれた義経は、これに抗うこともなく持仏堂に入り、郷御前と娘を殺し、自害して果てました。源義経31歳、郷御前22歳、娘はまだ4歳でした。


■ 武士の娘 ■
義経が愛した女性といえば、まず静御前を思い浮かびますよね。伝わる話はとても切なく、語り継がれるだけのことはあります。ただ、最後の最後まで義経から離れることがなかった女性は郷御前だけです。正室というだけでなく、河越氏という関東屈指の武士の家で育ったことが、結末に深く影響しているように思えます。静御前が当時のプロの芸人であったように、郷御前は生粋の武士の娘だった。ともに悲劇のヒロインのようにな結末となってしまいましたが、それぞれの生き方で後世の人に慕われ、愛され、語り継がれるのだと思います。

ということで
河越重頼の娘であり、源義経の正室であった郷御前のご紹介でした。今回もまた個人的な想像が入ってしまっていますが、素人会社員のブログですので、その程度に受けて止めて頂きますようお願い致します。

<供養塔と石碑>
Memorial-Tower-Kawagoe-family.JPG
郷御前のお墓は平泉にあります。生まれ育った場所に、供養塔が建てられました。

■訪問:常楽寺
[埼玉県川越市上戸]194

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/26
・現地説明(碑文)


-------■ 追 記 ■-------
<河越氏館跡>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG
こちらは現在の河越氏館跡です。手前は説明板、右手の建物は供養塔のある常楽寺です。河越重頼の死後、源頼朝は没収した河越氏本領を妻である河越尼に安堵しています。弟である義経との確執はともかく、河越氏に対してはちょっとやり過ぎたという後悔があったのでしょう。


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2021年09月23日

河越氏ゆかりの神社(川越市)上戸日枝神社

かつて武蔵国で勢力を誇った河越氏ゆかりの神社を訪ねました。河越氏は鎌倉幕府の有力な御家人であり、ここ上戸の地を拠点に勢力を誇っていました。

<上戸日枝神社>うわどひえじんじゃ
Uwadhie-Shrine-torii.JPG
まず正面の石鳥居から。参道の左右には、境内社が祀られています。

<神明社>
Uwadohie-Precincts-shinmei-shrine.JPG
<八坂神社>
Precincts-haciman-shrine-Uwadohie.JPG
参道を挟んで向き合って配置されています。

更に進むと

<参道と拝殿>
Uwadohie-Shrine- Haiden.JPG
いよいよ拝殿です

<拝殿>
Kawagoe-Uwadohie-Shrine- Haiden.JPG
京都の新日吉山王社に河越氏が荘園領地を寄進した際に勧請したと伝わります。河越氏は代々この神社を鎮守として崇めました。日枝神社と改称したのは明治になってから。それ以前は新日吉山王宮と呼ばれていたわけですね。

<本殿と境内社>
Uwadohie-precincts.JPG
本殿は隙間から拝見させて頂きました。撮影できなくもなかったのですが構図に無理があり断念。本殿の両脇には日枝の神使である猿の像が置かれていました。右手の境内社は疱瘡神社・八幡神社・八坂神社です。

<本殿と境内社>
Uwadohie-Shrine-Precincts.JPG
こちらは社殿の向かって左側の境内社。大地主神社・御嶽神社・白山神社が祀られています。

そして
<浅間大神>
Fuji-worship.JPG
<愛宕神社>
Atago-Shrine.JPG
それぞれ境内の一画に祀られています。全てご紹介できたわけではありませんが、雰囲気はお伝えできたと思います。

さて
河越氏ゆかりの神社としてお邪魔させて頂いておりますので、現地で確認した由緒をご紹介します。
<日枝神社(新日吉山王宮)の由来>
honorable-history.JPG
こちらの碑文には、河越氏は『河肥三十三郷を荘園として後白河法皇に寄進し、自らは荘園官として力を振るう』と説明されています。この繋がりで、ここ上戸に新日吉山王(日枝神社)が勧請されたわけですね。
その後の説明では『江戸館の主である江戸氏は、河越氏の分れであることから』江戸館を築く時に河越氏の氏神の分霊社を鎮守社として祀り、これが赤坂の日枝神社である旨が記されています。
[『』内は原文の抜粋]

なるほど。江戸氏も河越氏と同じく秩父氏の支流。河越氏の祖となった河越重綱の四男重継が江戸氏の祖です。江戸郷を領して江戸氏を名乗りました。その江戸氏が館を築く際に一族の神を祀った。納得です。

ただ、それが赤坂の日枝神社というのが、私にはどうもしっくりしません。個人的に太田道灌好きなせいもありますが、赤坂の日枝神社は江戸城築城者の道灌が勧請したのが始まりというお話を信じています。

このあたり、どちらを信じる?というより、どう受け止めますかね。

<社額>
Uwad-Hie-Shrine.JPG

江戸氏が新たな領地となった江戸郷の守護神として、河越氏館近くの上戸日枝神社を勧請した。いい話ですね。
太田道灌が江戸城を築城し、江戸の繁栄を願って川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請した。こちらもいい話ですね。

私は学者ではないのでこれ以上考えず、両方受け入れたいと思います。

ということで
河越氏が鎮守とした上戸日枝神社のご紹介でした。北条氏による鎌倉幕府独裁体制の基礎を築いた北条時頼より、社領の寄付を受けた神社です。その当時の河越氏の勢力、御家人としての立ち位置までも伝わってきますね。

■訪問:上戸日枝神社
[埼玉県川越市上戸]316-1

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/23
・猫の足あと:2021/9/23
・現地説明(碑文)
『日枝神社(新日吉山王宮)の由来』


■参考画像(当ブログ内)■
<河越氏館跡>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG
[埼玉県川越市上戸]

<赤坂日枝神社>
shirononagori323 (2).JPG
[東京都千代田区永田町]



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2021年09月13日

街道沿いの将軍御休所跡(野木町)友沼八幡神社

将軍が日光東照宮参拝時に休憩所とした栃木県野木町の神社を訪問しました。

<友沼八幡神社>ともぬま
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
日光街道沿いのこちらの神社です。

<説明板>
Tomonuma-Hachiman.JPG
入口付近に『将軍御休所跡』と題して、詳しい説明が記されています。ありがたいですね。ただちょっと長いので、当ブログ用に要約しながら一部抜粋させて頂きます。

冒頭は徳川家康の亡骸がいったんは駿河の久能山に葬られ、一周忌に日光へと改葬されたことが記されています。その続きとして『東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。』とあります。更に、秀忠から始まる社参が、十二代将軍の家慶の社参まで19回に及んだと記されています。

なるほど
徳川に従う諸大名などに限らず、庶民も参詣した。街道沿いが賑わうわけですね。

興味深いのが将軍ご一行の旅のスケジュール。これについては『四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。』とのこと。

東京から日光までは150q以上あります。日光御成道から始まる日光街道の旅は、3泊4日がスタンダードだったのですね。そして将軍本人の宿泊は岩槻城・古河城・宇都宮城。他に休憩する宿や寺社なども決められており、今回訪問の八幡神社は、将軍が二泊目の古河城を出発して最初に休憩する場所だったようです。

旅と表現してしまいましたが、弥次さん喜多さんの身軽な旅とは異なり、かなり厳格なイベントだったのでしょうね。付き添う人たちの気苦労を思うと、ちょっと複雑な思いがします。あと、おカネもかかりますね。

説明文はまだまだ続きますがこのへんで。野木町教育委員会さん、ありがとうございました。


せっかくですので境内の様子を少しだけ

<二の鳥居>
Next-Gate.JPG

<拝殿>
Tomonuma-Hachiman-Shrine.JPG

<本殿>
Main-Shrine.JPG

そして

<大木と説明板>
Hachiman-Shrine-Keyaki.JPG
大木の前に説明板が設置されています

<説明板>
Explanatory-Text.JPG
ここ友沼八幡神社が将軍御休所であったことと、ケヤキの説明が記されています。推定樹齢550年とのこと。

<大ケヤキ>
Shogun's-rest-area.JPG
大きすぎてちょっと撮影が困難でした

ということで
将軍が古河城を出て次の宿泊先である宇都宮城までの道中で小休止をとった神社のご紹介でした。いまも語り継がれていることが、そのまま将軍の残した足跡ということですね。宿泊場所なら分かりますが、将軍の旅は小休止の場所すらきっちり決められたのですね。付き添った家臣たちの苦労まで考えさせられる訪問となりました。

<説明板の絵図>
Picture.JPG
説明文によると友沼八幡神社は『「日光道中略記」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている』とのこと。眺めの良いところだったようです。


■訪問:友沼八幡神社
(将軍御休所跡)
[栃木県野木町友沼]

■参考及び出典
現地説明板
(野木町教育委員会)



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タグ:日光街道
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2021年08月08日

鳥居元忠を祀る神社(壬生町)精忠神社

徳川家康の家臣・鳥居元忠を祀る神社を訪問しました。

<精忠神社>せいちゅうじんじゃ
Seichujinja.JPG
場所は壬生城址公園のお隣です

■壬生藩鳥居家■みぶはん とりいけ
<壬生城跡>
Mibu-Castle-Main-Gate.JPG
こちらは栃木県壬生町の壬生城跡です。江戸中期から明治になるまで、8代にわたり壬生藩主だった鳥居家の居城です。壬生藩鳥居家の先祖は、徳川家康に仕え、忠義を貫き果てた鳥居元忠です。


■関ヶ原の戦いの前哨戦■
1600年8月26日(慶長5年7月18日)、関ヶ原の戦いに先立ち、鳥居元忠は伏見城を守って石田三成方と戦いました。いわゆる伏見城の戦いです。守る側が2千人強だったのに対し、攻め手は4万とも言われています。伏見城は13日もの攻防戦の末に落城となり、鳥居元忠は討ち取られました(城内で自刃したとする説もあります)。

この戦い、鳥居元忠は石田三成の降伏勧告を断り戦い続けました。玉砕を覚悟した激闘です。のちに家康は、伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓におき、登場する諸大名の頭上に掲げました。明治維新によって江戸城が明け渡しとなると、血染め畳は壬生の鳥居家に渡り、精忠神社の境内に埋納されました。

■精忠神社■
1712年から壬生城主を務めた鳥居忠英(ただてる)が、城内に鳥居元忠を祀ったのが精忠神社の始まりとされています。忠英は父親の死後、一旦所領を没収された身です。しかし鳥居家の祖である元忠の功績が考慮され、改めて能登に1万石の所領を与えられました。その後の活躍が認められ、壬生3万石の藩主となりました。先祖に感謝する思いは、人一倍強かったでしょうね。

<鳥居>
Seichujinja-Torii.JPG

<唐門>
Mibu-Castle-Shrine.JPG

<由緒>
Seichujinja-Yuisyo.JPG
1799年に神紙菅領吉田家より精忠霊神の神号を受けて精忠神社となったと記されています。また、現在の地に移ったのは江戸時代末期のようです。鳥居元忠については『徳川家康の命を受け伏見城の主将として慶長五年西軍の城攻めを死守して自刃した』と説明されています。

<境内>
Seichu-shrine.JPG

<拝殿>
Seichujinja-Haiden.JPG

<本殿>
Seichujinja-Main-shrine.JPG

1600年の上杉討伐の際、京から出陣して会津へ向かう徳川家康は、石田三成が挙兵することを充分に予測していたとされています。留守を任される鳥居元忠も、そのことは承知していたようです。

二人は歳も近く、家康が今川家で長らく人質として暮らしていた時も、元忠は近習として仕えていました。そして、家康が関わった数々の戦で戦功を挙げています。そんな元忠に、家康は死に等しい役目を託したことになります。それを引き受ける鳥居元忠。家康の家臣団の結束力を象徴する出来事のひとつと言えるのではないでしょうか。

元忠の跡を継いだ忠政は、関ヶ原の戦いでは家康より江戸城留守居役を命じられています。また、二度の大坂の陣でも、やはり江戸城留守居役を命じられています。留守居役が如何に重要な役割かは父親が証明していますが、元忠の子を最前線に送り込まない家康の配慮もあったのではないでしょうか(ここはあくまで個人的な見解です)。忠政は鳥居元忠の次男ですが、兄は既に亡くなっていたので、そのまま鳥居家の家督を継いでいます。やがては出羽山形22万石の藩主となる忠政の家系が、そのまま壬生藩鳥居家に繋がっています。

Seichujinja-ending.JPG
鳥居元忠は子孫がたどり着いた壬生の地に祀られています

■訪問:精忠神社
[栃木県壬生町本丸]1-9-13
壬生町城址公園の西側

■参考及び抜粋
・現地説明板(由緒)
・Wikipedia:2021/8/8



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2021年05月15日

寿能城主の名を冠する橋(大宮区)潮田橋

今回はかつてこの付近に存在した城の城主の名を冠する橋の話です。

<潮田橋>うしおだばし
Ushioda-Bridge.JPG
久しぶりの訪問です。どう見ても普通の橋。いや、むしろ地味ですね。初めて訪問した時は何も気付かず通り過ぎてしまいました。

<水路>
Waterway.JPG
橋はこちらの水路に架かっています。ただの水路ではありませんよ。これは江戸時代の治水工事のなごりなのです。

<説明板>
Explanation-Board.JPG
橋の近くに説明板があります。私が下手な説明をするより、こちらをご紹介する方が得策です。ちょっとカラスの糞にやられていますが、読むのに影響はありません。

まずは水路の説明ですね。抜粋させて頂くと『見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728年)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。』とあります。もう少し説明は続きますが、要するに昨日今日の水路ではないということです。

さて本題に
『「潮田橋」は戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます』とのこと。はっきりはしてない様子ですが、因んでいることは確かなようですね。

<橋と城跡>
Map-Ushioda-Bridge.JPG
橋と城跡の位置関係です。橋のすぐそばの微高地に、かつての城跡があります。

<寿能城跡>じゅのうじょう
Juno-Castle.JPG
こちらが説明板の地図にあった寿能城跡です。もはやただの公園です。寿能城そのものはもっと広い城でした。ここかつての城の一部に過ぎません。

<資忠の墓碑>
Ushioda-Suketada-Tombstone.JPG
城跡の象徴的な存在となっている潮田資忠(うしおだすけただ)の墓碑です。資忠の子孫(古河藩家老・潮田資方)が、資忠没後150年に建立しました。

寿能城については、当ブログで過去にご紹介させて頂いております。今回は先ほどの説明文の続きをご紹介させて頂きます。

『寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されましたが、天正18年(1590)に小田原城攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城しました』とのこと。

潮田資忠は城主というだけでなく、寿能城の築城者でもあります。岩槻城の支城として役割を担いますが、豊臣秀吉による小田原征伐の際、岩槻城は北条氏配下であったことから、豊臣軍の攻撃対象となってしまい、支城である寿能城も大軍により攻め落とされました。少し補足すると、城主である資忠本人は、嫡男とともに小田原城に駆けつけ、籠城戦に加わって討死となっています。潮田家は資忠の次男が継いでいます。

<潮田>
Ushioda.JPG
天下人の大軍に立ち向かった関東武士の名ということですね

ということで
潮田橋のご紹介でした。ありきたりの景色も、意味を知ると素通りできなくなりますね。

■訪問:潮田橋
[さいたま市大宮区寿能]2丁目

■参考及び出典
・現地説明板(さいたま市)



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-----当ブログ過去記事-----

消えた見沼の浮き城 寿能城
[投稿:2018年01月17]
→『記事へすすむ

寿能城主・潮田資忠の末裔
[投稿:2018年08月01日]
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2021年01月23日

直江兼続屋敷跡(米沢市)ちょっと地味な兼続ゆかりの地

今回は米沢市の直江兼続屋敷跡のご紹介です。
<直江兼続屋敷跡>
Naoe-Kanetsugu-Yashiki.JPG
こちらが米沢市の直江兼続屋敷跡

<通り沿い>
Naoe-Kanetsugu-Residence.JPG
といってもご覧の通りです。当時を偲ばせるものは何もなく、駐車場隅の説明板が目印です。これがなければ、直江兼続の屋敷跡と気付く人はいないでしょう。

<上杉博物館>
Yonezawa-Castle.JPG
場所は米沢市上杉博物館(左手の建物が上杉博物館)の南側の通り沿いです。

関ケ原の戦いの後、領地を大幅に減らされた上杉家にとって、米沢での城下町整備や新田開墾は急務でした。その舵取りを任されていたのが重臣の直江兼続。米沢はそれ以前から兼続の所領でしたが、そこへ主君である上杉景勝を筆頭に、約6千人ともいわれる家臣、そしてその家族を受け入れることになりました。小さな町だった米沢は人であふれ、住まいの確保も困難だったようです。そんな難題に立ち向かっていた頃の兼続の屋敷が、今回訪問の場所ということになります。

<松岬神社>
Shrine-Enshrined-Kanetsugu.JPG
こちらは米沢城の本丸近くの松岬神社。兼続が米沢城主だった頃は、この地に屋敷があったそうです。上杉家が会津120万石から米沢30万石に減封されると、兼続は屋敷を景勝に譲って転居したそうです。


ということで
直江兼続屋敷跡のご紹介でした。上杉ファンで米沢好きの男が当ブログを運営しております。よって米沢に関することはこれまでもたくさん投稿してきました。ただ、兼続の屋敷跡は本当に何もないのでないないご紹介しにくく、画像を放置していました。

本日は兼続の西暦での命日(1620年1月23日没)です。ふと屋敷跡のことを思い出し、取り上げさせて頂きました。このためだけにわざわざ訪問する場所とは思えないものの、観光スポットが集中しているエリアですので、ついでに足を運んでくれる人がいれば嬉しいです。

■訪問:直江兼続屋敷跡
[山形県米沢市城南1丁目]


-------追 記-------
■当ブログの過去記事ご紹介
<謙信の旗印>
sirononsgori YONEZAWA 148 (1).jpg
120万石から30万石へ減封となりながら、苦楽を共にしてきた者たちを一人も解雇しなかった上杉家。普通なら破たんする状況に立ち向かい、藩政の指揮をとった兼続の活躍をまとめた内容です。
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タグ:山形への旅
posted by Isuke at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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