2020年03月26日

武士の背中と桜 再訪したら桜がなくなっていた近藤さんの墓所

<武士の背中と桜>
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[撮影:2019年3月]
この構図が好きで、毎年春になると訪問してきました。ここは新撰組局長の墓所。そう、桜を見つめる武士は近藤勇です。武士の世が終わりに近づくなかで、武士として認められるべく幕府に尽し、最後はここ板橋で散った最後の武士。その背中と桜が、なんとも言い難く

ところが

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[撮影:2020年3月]

今年訪問してみると、桜がなくなっていました

残念です

再開発ですっかり綺麗に、そして便利になった板橋駅ですが、あの桜だけは残して欲しかったですね。

ということで
満開の桜に囲まれた近藤勇墓所を訪問した時の記事をご紹介して終わりにします。良かったら覗いてみて下さい。

■記事: 最後の武士と桜
 [投稿:2018年3月]
→『記事へすすむ
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2019年08月25日

東京国際フォーラムの太田道灌像

文武ともに一流、そして江戸城築城者としても知られる太田道灌が、主に裏切られ暗殺されたのが1486年8月25日。つまり今日です。何となく意識して、道灌の銅像がある場所を訪ねてみました。

<太田道灌像>
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東京国際フォーラムの太田道灌像です。室外ではなく、近代的なガラス張りの建物の中にあります。

<展示スペース>
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銅像とともに道灌のプロフィールや戦績などを紹介するパネル、そして江戸城の模型が展示されています。

<江戸城天守模型>
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84分の1大に作られた模型

<道灌時代の江戸城>
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これは興味深いですね。家康により拡張される前の江戸城です。日比谷の入り江が城近くまで迫っています。扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が江戸城を築いたのは長禄元年(1457年)。道灌は当時25歳でした。

<銅像>
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制作者:朝倉文夫

<開都五百年記念>
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この銅像は江戸城築城500年(開都500年)を記念して旧東京都庁の敷地内に建てられたものです(1956年)。都庁の新宿移転に伴い、跡地に建てられた東京国際フォーラムに設置し直されました。

城下町江戸といえば徳川時代をイメージしますよね。ただスケールこそ違えど、道灌の時代にも城下に庶民は暮らしていました。道灌がこの地に一定規模の城を完成させた。その基盤があったからこそ、関東に入った家康もこの地を拠点にできた訳ですね。そういう意味で、道灌による江戸城築城をもって開都と呼ぶのは分かる気がしますね。江戸の基礎を築いた男。それが太田道灌ということですね。

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道灌の目線の先は江戸城です。

ということで
旧都庁の敷地に建つ太田道灌像のご紹介でした。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる人がいたら嬉しいです。

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太田道灌像はフォーラムの1階。東京駅側の入り口付近です。

■訪問:東京国際フォーラム
[東京都千代田区丸の内]3丁目


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タグ:太田道灌
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2019年08月19日

秩父神社の社殿 代官・成瀬正一のなごり

とても有名な神社を訪ねました。

<秩父神社>
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JR秩父駅からは徒歩圏内。宝登山神社、三峯神社とならび秩父三社のひとつです。

創建は紀元前と伝わる秩父神社。こんな関東屈指の歴史を誇る神社を、拙ブログでご紹介なんてとんでもないのですが、現存する社殿徳川家康寄進ということで、その部分だけ触れさせて頂きます。


■家康により再建された社殿■
家康の時代の社殿が現役で活躍している。これだけでも凄いことですよね。勿論、たいへんなメンテナンスを施しているのでしょう(1970年には解体復元)。当時の建築様式を留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。

<社殿正面>
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<社殿の彫刻>
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当時の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)により施された豪華な彫刻が目をひきます。日光東照宮の眠り猫も甚五郎によるもの。ちなみに、名の由来は左利きであったためともいわれています。

戦国末期、秩父は小田原北条氏の支配下でした。実質的には鉢形城を拠点とする北条氏配下ですかね。しかし豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると(1590年)、関東に入った徳川家康の支配下となります。そして1592年、徳川家康は社領57石を秩父神社に寄進し、代官・成瀬吉右衛門に社殿を建造させました。


■成瀬正一■ なるせまさかず
家康の命を受けて秩父神社の本殿再建を行った成瀬正一、通称・吉右衛門は、古くから徳川に仕える三河武士。出奔して武田氏に仕えたこともありますが、再び徳川に戻り、数々の有名な合戦で活躍しています。

家康が武田軍に完敗した三方ヶ原の戦いにも参加。この時、兄である成瀬正義は家康本陣を守り、武田軍屈指の武将・馬場信春が迫ると正一に家康の警護を託し、自らは主が逃げる時間を稼ぐために討死。正一は浜松まで逃げ帰る家康に同行し、のちに成瀬の家督を継ぐことになりました。

武田勝頼に奪われた高天神城を家康が奪回した戦(1580年)においては、正一は日下部定好と共に各砦の包囲網強化で勝利に大きく貢献。また、武田滅亡後の信長の『武田狩り』に対しては、旧武田家臣を匿い、のちには家康に働きかけて徳川氏への取り込みを図っています。更には、徳川の軍法を知り尽くした家康の側近中の側近である石川数正が豊臣秀吉の元へ出奔すると、正一には武田式の軍法を取り入れる大きな役割が回ってきます。かなり省略しましたが、いかに家康から信頼されたかご理解頂けるかと思います。

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やがて鉢形城の代官になった成瀬正一は、家康から秩父神社の本殿再建を命じられます。その時に完成したのが、現存する秩父神社の本殿。代官・成瀬正一のなごりです。

ちなみに、一般には正一の長男・正成の方が有名かもしれません。鉄砲隊を率いて活躍し、家康に認められ、やがては犬山城主となります。そう、明治どころか平成まで城主だった(城を私有していたという意味)成瀬氏の祖となった人物です。今回ご紹介の成瀬正一は、息子らが家康から充分過ぎるほど認められていることを理由に、敢えて大名にはならなかったと言われています。

以上です。
見どころ沢山の秩父神社で、家康とその家臣・成瀬正一のことを思い出してくれたら嬉しいです。

■訪問:秩父神社
[埼玉県秩父市番場町]1-1


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2019年05月05日

仙波東照宮 日光へ向かう途上の大法要

今回は川越の東照宮の話です。

<仙波東照宮>
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■仙波東照宮■ せんばとうしょうぐう
言うまでもなく家康を祀る東照宮。神格化された徳川家康、つまり東照大権現を祀る神社のことですね。一時期その数は五百を越えたそうです。凄いですね。大名が将軍家に気を使い、競うように建立したことも影響しているようです。ちなみに、現存は約130社とのこと。それでも多いですね。今回訪問の東照宮もそのうちの一つではありますが、深い歴史があることを、ちょっとだけご紹介させて頂きます。

<随身門>
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ここ仙波東照宮は、喜多院の住職となった天海僧正が家康を祀ったものです。徳川家康は駿府城で亡くなりました。遺言に従い、一旦は久能山(静岡)に葬られましたが、日光山(栃木)に改葬の途中(つまり移送する途上)、天海は家康の遺骸を喜多院(埼玉)に4日間留め、大法要を営んだそうです。そのことから、喜多院の境内に東照宮が祀られることになりました。久能山から日光まで19日を要したようですが、そのうち4日は喜多院に留まっていたということですね。

<石段>
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重要文化財の鳥居を通過すると石段

日光・久能山・仙波を「日本三大東照宮」と呼ぶそうです。まぁ日光と久能山に自社を加えて「三大」とする例は、ほかの東照宮でも見聞きしますが、せっかく来たのだし、歴史の重みも感じたので、しばらくそう思うことにします。

<東照宮拝殿・幣殿>
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更に奥に見えているのが本殿です。

<説明板>
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歴代川越城主が奉納した石灯籠の配置

<平唐門と本殿>
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国指定重要文化財です。1638年(寛永15年)におきた川越の大火災で一旦は消失したものの、3代将軍家光の指示ですぐに再建されました。現在に至るこの社殿は、その時(1640年)に完成したものです。

明治初期の神仏分離令により、仙波東照宮は喜多院から切り離され、川越八幡宮の管理するところとなりました。とはいえ同じ敷地内です。喜多院訪問の際には、家康のブレーン的な存在だった天海が大法要を営んだことなどを思い浮かべながら、そのなごりを感じてみては如何でしょうか。

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■訪問:仙波東照宮
[埼玉県川越市小仙波町] 1-21-1


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2019年02月27日

浦和にもある戦国武将ゆかりの地 廓信寺 (浦和郷と高力清長)

岩槻や川越と比べると、戦国武将との縁が少ないめの浦和。いわゆる城下町だった訳ではなく、中山道の宿場として発展した町ですからね。今回はそんな浦和で、家康の有力家臣だった高力清長と関係のあるお寺を訪ねました。

<廓信寺>かくしんじ
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北浦和の浄土宗寺院。 由緒ある古い寺として知られています。1609年、浦和郷の代官だった中村弥右衛門吉照により創建されました。

<仁王門>
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<金剛力士像(阿形・吽形)>
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さいたま市の有形文化財です

■高力清長と浦和■こうりき きよなが
高力清長は徳川家康の三河時代からの側近です。活躍を上げたらきりがありませんが、家康最大級のピンチだった伊賀越えに随行していたと言えば、その存在の重みが伝わるのではないでしょうか。更に、かなりの「正直者」だったそうで、家康からの信頼も絶大なものがありました。

浦和と何が関係あるのか?

家康に従って戦乱の世を駆け抜けてきた清長は、小田原北条氏滅亡後、岩槻に2万石の所領を与えられます。この時、浦和郷1万石も預けられました。

預かる?

これは正式な所領とは異なり、幕府の土地(蔵入地)を預かるという意味です。預り地は、実質領地のように扱われ、年貢も管理者が役得としてもらっても問題なかったようですが、浦和郷を預かった清長はこれを良しとせず、年貢は全て江戸へ運ばせたそうです。

戦国武将・高力清長は、役人としても立派だったわけですね。

清長が浦和郷の統治のために代官に任命したのが中村弥右衛門。浦和に陣屋(針ヶ谷陣屋)を構えて、その任務にあたりました。清長を慕っていた中村弥右衛門は、清長が亡くなるとその冥福を祈るため、今回訪問の廓信寺を創建しました。これが江戸初期のお話。廓信寺の長い長い歴史はここから始まります。

<廓信寺山門>
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立派な寺院。そして浦和郷を預かった高力清長のなごりです。

ということで、浦和にもある戦国武将ゆかりの地のご紹介でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■訪問
超勝院 廓信寺
[さいたま市浦和区北浦和]3丁目


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2019年01月19日

静御前ゆかりの地 旧静村(久喜市)

JR栗橋駅近くにある『静御前の墓』を訪ねました。
<栗橋駅構内>
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■静御前の墓■ しずかごぜんのはか
<墓所>
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義経の内妻として知られる静御前の墓所です。

<静御前の墓>
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当ブログ、お墓そのものはなるべく載せないようにしていますが今回は失礼させて頂きます。気持ち遠くから撮影。中央が静御前のお墓です。

それにしても
どうしてここ埼玉に?

静御前は、義経を追って奥州に向かいましたが、義経の死を知り、この地で亡くなったと伝わります(1189年)。そのまま地元の高柳寺(こうりょうじ)の境内に埋葬されたそうです。

義経の兄であり敵であり、時の権力者である源頼朝に命じられ、源氏の氏神である鶴岡八幡宮社前で舞うことになった静御前。ここで堂々と義経を慕う歌に合わせて舞い踊った心意気は見事です。頼朝は激怒しますが、妻の北条政子により命は救われました。

このとき既に義経の子を宿していましたが、生まれた子か男子であったことから、頼朝の命により由比ヶ浜に沈められました。中世といまでは背景となる価値観が異なりますが、それにしてもなんとも厳しい措置です。失意の静御前は京に帰されましたが、その後の消息がはっきりしていません。これにより、いろんな説が存在しています。当地で亡くなったという話も、その一つということですね。

<説明用パネル>
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墓所には義経招魂の碑や歌碑も建てられているほか、見学者用にさまざまな工夫がなされています。

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手前は「まちめぐりスタンプ用」で、一番奥の石碑は「源義経招魂碑」です。

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静女塚碑(左)と坐泉の歌碑(右)

左の石碑には、義経を慕ってこの地で亡くなった静御前の逸話が刻まれています。

また、右の石碑には江戸時代の歌人・坐泉の詩が記されています。
『舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ』


だいたいこんな感じになります。

先述の高柳寺は、のちに現在の古河市へ移転。名を光了寺と改めています。静御前の墓がこの地に残されることになりましたが、墓標がないことを哀れんだ関東郡代が、1803年に建立したと伝わります。

<墓所入口>
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左手の柱に光了寺の文字

■静村■しずかむら
くりかえしになりますが、静御前の終焉の地については諸説あります。ここもその一つ。かつての村名は「静村」でした。静村は1957年に栗橋町・豊田村と合併した時に消滅し、現在は久喜市となっています。

その静村はもともと6つの別々の村。伊坂村・佐間村・松永村・間鎌村・高柳村・島川村が合併して誕生した村です。思いを込めた「静」の名は消えてしまいましたが、静御前が悲恋の死を遂げた伊坂村の名は、現在の住所表示に見ることができます。久喜市伊坂。場所は下車した栗橋駅の西側。墓所がある東口の反対側になります。

ということで
静御前の墓のご紹介でした。駅から徒歩1分という近さ。栗橋駅をご利用の際に、立ち寄ってみては如何でしょうか。特に「なにかにつけて判官びいき」の方、義経を愛した悲運の姫を訪ねてあげて下さい。静と義経の子の慰霊塔も建てられています

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■訪問
静御前の墓
[久喜市栗橋中央]


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2018年06月24日

反骨の学者 熊沢蕃山ゆかりの地 (古河市)

<鮭延寺> けいえんじ
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茨城県古河市の鮭延寺です。

この寺を訪問した理由は、出羽の戦国武将・鮭延秀綱ゆかりの寺だから。それだけでした。

<石碑の文字>
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実際に現地へ行ってみると、石碑には「鮭延越前守秀綱」と並んで「熊沢蕃山」の文字が刻まれています。

えっと、どこかで聞いたような名前だけど・・・
どなたでしたっけ?

こんなブログをやっていますが、私の歴史知識などはその程度です。訪問時は、とにかく鮭延秀綱で頭がいっぱいだったので、後から調べることにしました。

帰宅してネット検索してみると、岡山藩の池田光政、陽明学・・・何となく思い当たる点もありながら、名前以外はほとんど分かっていないことを実感。大半は、初めて知ることばかりでした。なぜ古河市の石碑に名が刻まれているか。これも分かりました。その結果、男としてちょっと惚れました。

鮭延寺訪問そのものは少し前の話ですが、熊沢蕃山にテーマを絞り、改めてご紹介させて頂きます。


■熊沢蕃山■くまざわ ばんざん
江戸時代初期の陽明学者です。しかも「著名な!」陽明学者ですね。師匠は中江藤樹。個人的に陽明学というと中江藤樹さんの方がピンときますが、歴史に詳しい人に聞いたら、蕃山も同じレベルで有名とのこと。ホントでしょうか。私が「中江藤樹」なら知っていたというと

その中途半端さがわからない…

とのこと。

まぁいずれにしても「著名な!」陽明学者です。岡山藩主池田光政(あの池田輝政からみて孫)に仕えて藩政に参画。農民の救済や土木事業で業績をあげました。

さてさて、この辺りは言われてみれば「そうでしたか〜」で終り。調べる以前から何となく感じていた「西の方の人」というイメージも外れていません(かなりアバウトですが)。では、何で古河市の寺に名前が?

蕃山は何しに茨城へ?


■反骨の学者■
朱子学が統治者側に好まれたのに対し、日本における陽明学は反体制的な理論を含むこともあったことから、幕府からは嫌われる傾向にありました。

中江藤樹の門下でその陽明学を学んだ熊沢蕃山。壮絶な生きざまの末に、体制批判が激しすぎて、幕府から蟄居謹慎を命じられました。身柄を預かったのが下総国古河藩でした。なるほど。

熊沢蕃山、この時69歳。この年齢であるにも関わらず、幕府は放っておく訳にいかったのですね。


<超コンパクトな年表>
1619年 京都稲荷生まれ
1634年 岡山藩主池田光政に仕える
1639年 20歳の時に京都に戻る
1642年 中江藤樹に陽明学を学ぶ
1645年 池田光政に再び仕える
1654年 備前の飢饉救済に尽力
1657年 藩改革で家老らと対立
1661年 京都に移住し塾を開く
1687年 幕府圧力で追放
1691年 古河で生涯を閉じる

全ては書けませんが、この年表の行間は相当濃いです。強烈な個性と己の意志を貫いて民に尽くすその生涯は、常に逆風に曝されました。


■治水事業■
蕃山はいわば学者さんです。一方で治水・土木に秀でていた方でした。蕃山の理念は日本固有の気候・地形に根ざした水土[すいど]論、徹底した森林保全主義者であったそうです。

謹慎を命じられたはずの蕃山ですが、その能力を古河藩から見込まれ、晩年の地である古河でも治水・土木の指導をしてまわったようです。

干されてるのに頼りにされる

なんか格好よくないですか?


■蕃山の言葉■
いろんな名言を残していますが、一つだけ紹介します。

我は我、人は人にてよく候

まぁ「自分は自分、人は人で良いのだよ」ということですね。いろんな意味に解釈できます。いい言葉です。

ということで、戦国武将ゆかりの寺を訪ねたら、「著名な!」陽明学者ゆかりの寺でもあったという内容でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■鮭延寺■
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[茨城県古河市大堤]

■熊沢蕃山■
江戸時代初期の陽明学者
1619年〜1691年(9月9日)
師:中江藤樹



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2018年02月24日

慶次清水 前田慶次ゆかりの里

戦国武将ファンです。そして漫画「花の慶次」ファン。今回は、天下御免の傾奇者(かぶきもの)前田慶次郎ゆかりの里を訪問した時の記録です。

■慶次清水■けいじしみず

<慶次清水>
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前田慶次ゆかりの清水です。場所は山形県米沢市の郊外。ここで晩年を過ごした慶次が、飲用水として使っていたと伝わる湧き水。住処とした「無苦庵(むくあん)」の飲料水確保のために掘られたとも伝わります。

風流を楽しんで隠居生活を送ったとされる慶次。この付近は手つかずの自然が残されていますので、もしかしたら昔もこんな雰囲気だったのかもしれませんね。この訪問は晩秋。冬になれば雪景色です。

<現役の湧水>
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かつてはもっと水量があったそうですが、いまはこの程度。それでも現役。静かに、そして人知れず水が湧き続けています。

<説明板 >
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初めての方でも分りやすい。むかしは何もありませんでした。慶次ファンとしては嬉しいですね。

<樵路躑躅>
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慶次の晩年の歌が紹介されています。万世ふるさとづくり委員会さん、ありがとうございます。慶次ファンですので、これは良く知る内容。高畠町の亀岡文殊堂での詩会の時のものですね。武人でありながら歌人でもある前田慶次。ちょっとだけ紹介させて下さい。

山柴に 岩根のつつじ かりこめて 花をきこりの 負い帰る道

意訳『山柴の中に岩の根っこに咲いていたつつじが刈り込められている。それを背負って家路に帰るきこりの姿が花をまとっているようだ。』

今回は私のヘンな解釈ではなく、万世ふるさとづくり委員会さんの意訳をそのまま転記してます。さすが、スッキリとして分かりやすいです。

暮らしに生きる人の背中に花を見る。風流人であり、人を慈しむ慶次の思いが伝わってくるような気がします。このヘンは過去に当ブログでも紹介させて頂いているので、よろしければのぞいてみて下さい。
記事へすすむ→出羽の歌会


■慶次晩年の地■
米沢市万世町堂森。この地は慶次が晩年過ごした場所です。戦国の世を駆け抜けた前田慶次は、上杉家に従って米沢へ移り住み、この地で生涯を閉じました。

<八幡原野球場周辺>
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慶次清水の場所は八幡原野球場西側の雑木林の中。むかしは分りにくかったのですが、最近は幟がたてられていて、初めての訪問でも安心。画像のような景色が現れたら、慶次清水はもうすぐそばです。

この付近、慶次ゆかりの寺「堂森善光寺」の北東に位置します。堂森善光寺から歩いて10分強で到着しますが、山を半周するためでしょうか、何となく遠く感じます(個人的に)。

<堂森善光寺>どうもりぜんこうじ
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こちらが前田慶次の供養塔がある善光寺。

<山門>
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真言宗豊山派の寺院。慶次ファンにとっては、いわゆる「聖地」かもしれません。私も何度も足を運んでいます。何があるの?と良く聞かれますが、慶次の魂としかいいようがありません。

<前田慶次供養塔>
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毎年6月に供養祭が行われ、多くの慶次ファンが訪れます。

<慶次の力石>
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地元民と親しんだ慶次。この石で力試しをしたと伝えられます。漫画や小説だと誰にも負けそうにありませんが、晩年の慶次ですから、実際はどうだったのでしょうね。

<裏山へ>
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裏山の月見平へ。通り道となる墓所には、上杉二十五将のひとり志駄義秀(しだよしひで)のお墓もあります。

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この日はあいにくの雨で足場が悪かったのですが、せっかくですので登ってみました。斜面にも墓石が多数。一般の方のお墓も含まれるので、なるべく避けて撮影してます。

<月見平からの眺め>
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ちょっと霞んでますが、晴れの日はもっと遠くまで見渡せます。


■そもそも慶次とは■
戦国一の「かぶき者」こと前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)。大変謎の多い武将ですが、戦国末期から江戸初期にかけて実在した人物です。謎が多い。資料も少ない。それなのに逸話はたくさんの人気キャラクターです。

「話に尾ひれがついてんじゃないの?」

はい。そう思います。それを受け入れながらも、語り継がれる話にどうしても戦国ロマンを感じてしまう。私にとって前田慶次郎とはそういう男です。


■名前が沢山■
私の説明は長くなるので、また「ウィキペディア」さんの一部をそのまま引用させてもらいます。
『前田利益(まえだ とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。小説や漫画の影響で現在では前田慶次/慶次郎の通称で知られるが、宗兵衛、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、道号でも、穀蔵院飄戸斎(こくぞういん ひょっとこさい)や穀蔵院忽之斎(こくぞういん ひょつとさい)、または龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)と時期によって名乗りが異なる。
滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。子は一男三女(一男五女という説も有る)をもうけた。兜は、南蛮笠式兜。』
[出典元:wikipedia]


その存在を知ったきっかけは「花の慶次」です。よって私にとって慶次の名は利益です。


■生きるまで生きたらば■
苦しみの無い庵「無苦庵」で隠居生活を楽しんでいた慶次。以下は慶次が自画像に書き添えた文。慶次ファンの方なら、これがもっと長い文だと知っていますね。今回はその一部。最後のところだけ。

九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ

大体の意味
『極楽浄土へ迎えられたい欲もないが、地獄に落ちるような罪もない。命が尽きるまで生きたら、ただ死ぬということだろう。』
個人的な思いも入った意訳ですが、あまり間違えていないと思います。晩年の慶次の心境、何となく伝わってきますね。

慶次といえば
乱世を自由奔放に生きた
というイメージが浸透しています。羨ましい・・・

ただどうでしょう。伝わる史実をちょっと冷めた目で見てみたり、あるいは『花の慶次』の原作である「一夢庵風流記」をじっくり読むとそんなに環境に恵まれていたとは思えません。まぁ喰うに困るレベルではありませんが、嫌なこと、不自由さや理不尽さも充分に見受けられます。慶次はそれとどう向き合ったのか何を優先して生きたのか。そこに心魅かれるのだと思います。

どうであれ、悔いは残さない。

澄んだ湧水の如きこの清々しさ。これが語り継がれる理由ではないでしょうか。

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タグ:山形への旅
posted by Isuke at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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