2020年01月01日

鷹山が向き合った上杉家の氏神 春日神社

今回は米沢市の春日神社と上杉鷹山の話です。
<春日神社>
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場所は上杉神社の向かって左手になります。謙信を祀った上杉神社と比較して地味ではありますが、春日明神は上杉家の氏神であり、歴代米沢藩主、特に上杉鷹山が熱心に信仰しました。

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スケールより、この凛とした姿が印象的です。

■創建■
上杉謙信が大和の春日大社より分霊して越後の春日山城に創設したことに始まります。謙信(当時は長尾影虎)が名を継ぐことになった上杉家は藤原家の家系で、その藤原家の氏神が春日神だったことが背景にあるようです。謙信本人はのちに改宗していますが、謙信亡き後、上杉家は越後から会津を経てここ米沢へ移ることになり、これにともなって春日神社も米沢へ移されました。当初、同じく越後から米沢へ移った林泉寺の境内に鎮座していたそうです。

■春日明神と鷹山■
米沢藩の財政難を立て直すことになる上杉鷹山(治憲)は、藩主となる際、決意表明を記した誓詞を春日神社に奉納しました。その内容は

民の父母の心構えを第一とする
学問・武術を怠らない
質素・倹約を忘れぬ
賞罰は正しく行う

この誓詞は鷹山が亡くなっただいぶあと、林泉寺の火災がきっかけで公になったそうです。つまり、政治家が民に対して掲げる公約ではなく、人知れず己に課したことです。

神社でお願い事をする人の話をよく耳にしますが、私個人にあまりそういう感覚が無く、どちらかというと「ありがとうございます」とか、感謝を伝えるだけです。しかし上杉鷹山の場合は、そのどちらでもないようです。自分がなすべきことを誓う。その証人となってもらう。そんな場なのだと感じました。

上杉鷹山は養子です。親戚関係ではありますが、いわばよそ者です。

よそ者が名門上杉家を継ぐ

挑む覚悟の証として、敢えて上杉家の氏神に宣言をしたのかも知れませんね。

■訪問:春日神社
[山形県米沢市丸の内]


(補足)
当ブログは平凡な会社員が思うことを記しているだけです。なるべく下調べなどもしておりますが、所詮は素人ですので、内容の不適切はご容赦下さい。宜しくお願い致します。

為せば成る 名君といわれる鷹山からのメッセージ

<松が岬公園の鷹山像>
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為せば成る
為さねば成らぬ何事も


広く知られた上杉鷹山の言葉です。どなたでも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。ただこの言葉、実は続きにこそ深い意味が込められています。

為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり

つまり『ことが実現しないのは、人が成し得ようとしないからだ』とも受け止められます。名君といわれる鷹山の言葉、実は結構厳しいメッセージですね。もっと極端な言い方をすると『実は本気でやってないんだろ?』くらいにも感じられます。冒頭の『為せば成る』は、やればなんとかなるといった軽いものではなく、覚悟してことにあたれば成し得るという強い意味なのですね。

強くあらねばと思う時、励みになる名言です。

■ゆかりの地訪問記■
以下は昨年の年末年始に連続してご紹介した上杉鷹山ゆかりの地です。私と同じく、童門冬二さんの小説『上杉鷹山』に感銘を受けたという友人と二人で、米沢を旅した時の記録です。ご興味のあるところだけでも、覗いて頂けたら嬉しいです。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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改革は江戸屋敷から始まりました

A晩秋の米沢城記事へすすむ
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米沢藩は破産寸前でした

B籍田の碑記事へすすむ
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苦難続きの農民たちを励ましました

C白子神社記事へすすむ
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神罰を受ける覚悟でした

D原方衆屋敷跡記事へすすむ
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半農の下級武士とともに歩みました

E山中の塩田跡記事へすすむ
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多くの経済政策を試みました

F普門院記事へすすむ
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鷹山にも師と仰ぐ人がいました

G餐霞館跡記事へすすむ
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隠居してからも戦いました

H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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悲しみを背負って生きました

I松岬神社記事へすすむ
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中興の祖として祀られています

以上です
最後に鷹山を尊敬した大統領の話を

■ケネディが尊敬した日本人■
かつてジョン・F・ケネディ大統領が、日本人記者から「もっとも尊敬する日本人は?」と聞かれ、鷹山の名前を挙げたという話はよく知られています。時を経て、駐日米大使となった長女のキャロライン・ケネディが山形県米沢市を訪問しています。

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大使からのメッセージが記されています。以下に言葉を抜粋します。
『父が敬愛していた上杉鷹山は、領民に対し力を尽くし、教育に献身し、そして、一人一人に世の中を良くする力があるという信念を貫いたリーダーです。』
(中略)
『父は「人は一人でも世の中を変えることができる、皆やってみるべきだ」とよく言っておりました。しかし、鷹山ほど端的にそれを言い表した人はいません。「なせばなる」と・・・。』



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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

2018年01月02日

なせば成る 鷹山ゆかりの地(まとめ)

<米沢城址の石碑>
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なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり

■鷹山ゆかりの地(まとめ)■

上杉鷹山ゆかりの地を、10回に分けて投稿させて頂きました。宜しければ覗いてみて下さい。@だけが東京。他は山形県米沢市になります。

@米沢藩上杉家跡記事へすすむ 
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A晩秋の米沢城記事へすすむ
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B籍田の碑記事へすすむ
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C白子神社記事へすすむ
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D原方衆屋敷跡記事へすすむ
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E山中の塩田跡記事へすすむ
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F普門院記事へすすむ
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G餐霞館跡記事へすすむ
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H上杉顕孝の廟記事へすすむ
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I松岬神社記事へすすむ
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以上です。なるべく正しい(と一般的に言われている)情報を背景にブログを作成していますが、個人的な思い込みをふんだんに入れてありますので、どうぞご容赦下さい。歴史の専門家ではなく、下記の小説「上杉鷹山」を読んで涙する普通の会社員のブログです。それでも、共感してもらえたり、参考にしてもらえれば嬉しいです。


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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

2018年01月01日

松岬神社 鷹山ゆかりの地I

鷹山ゆかりの地
最後に鷹山が祀られている米沢市の神社をご紹介します。

■松岬神社■まつがさきじんじゃ
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[住所]米沢市丸の内
[祭神]上杉景勝・直江兼続
上杉鷹山・細井平洲・竹俣当綱・莅戸善政

派手さはありません。逆に、そこに上杉家らしさを感じずにはいられません。米沢藩の礎を造った景勝と兼続とともに、中興の祖・上杉鷹山も祀られています。
そして鷹山が師と仰いだ細井平洲。更に鷹山に抜擢された二人の家臣・竹俣当綱(たけのまたまさつな)と莅戸善政(のぞきよしまさ)も祀られています。

祀られているのは全て実在した人たち。共通していることは「逆境と向き合った」ということでしょうか。神がかり的な快進撃で、逆境を一気に跳ねのけたわけではありません。地道な努力と忍耐、そして挫折も繰り返しながら、長い年月を費やしてようやく事を成しました。

そういう姿にこそ、人は心惹かれるのかもしれませんね。

2017年12月31日

上杉顕孝の廟 鷹山ゆかりの地H

<上杉家御廟所>
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[米沢市御廟]1丁目

この御廟所については、以前当ブログでもご紹介したさせて頂きました。
記事→『荘厳の廟所

今回は九代藩主鷹山、そして藩主になるはずだった鷹山の実子についてご紹介させて頂きます。

<歴代藩主の廟>
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廟が整然とならんでいます。初代藩主・景勝に始まり、以後12代までがこの地に埋葬されています。


<九代藩主・治憲(鷹山)>
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一番左が鷹山の廟です。右隣とは屋根の造りが違いますね。倹約のため簡素化し、材質も落としているそうです。

<小さな廟>
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その鷹山の廟の左側の奥。歴代藩主より一段下ったところに、やや小さな廟が設けられています。

これは鷹山の長男の廟。鷹山は、側室お豊の方との間に子を授かりました。名は顕孝(あきたか)。鷹山同様に細井平洲を師と仰ぎ、将来の藩主となることが期待されました。しかし病気のため若くして他界してしまいました。鷹山の名言「なせば成る・・・」は、顕孝に心構えを示した言葉とも言われています。

倹約質素を貫き、生涯を藩の改革に捧げた上杉鷹山。特別な待遇があるとしたら、この墓所だけかも知れません。鷹山は歴代藩主、そして息子・顕孝とともにこの地に眠っています。


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2017年12月30日

餐霞館跡 鷹山ゆかりの地G

つわものどもが夢の跡
上杉鷹山が隠居後に暮らした邸宅跡を訪問しました。

<餐霞館遺跡>さんかかん
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[米沢市城南]

■鷹山の隠居■闘いはつづく
17歳の若さで藩主となった鷹山。35歳で隠居し、家督は前の藩主にして養父の重定の次男・治広に譲りました。改革はまだ道半ば。この隠居には諸説あります。

⇒天明の大飢饉
これは凶作が続いたことにより、特に東北地方が大打撃を受けた飢饉です。江戸にも影響、近代で最大の飢饉でした(日本全国の餓死者は百万と推定される大飢饉です)。当然米沢藩にも影響。倹約に取り組んでいた鷹山ですが、ここで新潟や酒田から米を買い集め、領民に分け与えます。この英断により、米沢藩の領内では餓死者が出ませんでした。ただ、あまりにも大きな代償。凶作で収入が半減している一方での臨時の支出です。再び借金が膨らみました。この責任という形で、藩主の座を降りたとする考え方があります。
良いことをして、なんでそこまでする必要が?と思いますが、鷹山はまだ家臣団全員から支持されていたわけではありません。抵抗勢力に対し、筋を通したのかも知れませんね。

⇒養父の実子
鷹山が重定の養子となったのが1760年。次の藩主・治広は1764年生まれです。鷹山は、養父が存命中にその実子へ家督を譲ることで安心させたかった・・・という見方もあります。

⇒実務に専念
これは現代の会社や役所でもあることかも知れません。ポストにはやたらと形式的な手間が付いて回るので、実務に集中できない。まぁ何事ないときはそれでも良いですが、改革を急ぎたい鷹山にとって、藩主の身分はかえって不便。敢えて影に回ったとする説があります。

いずれにせよ、隠居後も重定、そして治広の要望により、鷹山は藩政に関与し続けます。

■霞を食べる■
餐霞館の意味は「霞を食べる住処」、つまり世俗を離れ清貧の生活を営む館ということです。その意味を知った上で餐霞館遺跡の小ささを目の当たりにすると、鷹山は狭くて質素な空間で仙人のように暮らしたのか?などと思ってしまいますが、実際は違うようです。

今の雰囲気とは異なり、当時の餐霞館は土地の広さ約3千坪の大きな平屋。相変わらず暮らしそのものは質素だったようですが、本丸を出でここ(当時の三の丸)へ移ったのちも、のんびり暮らせたわけではなく、生涯を藩の改革に捧げました。この地はいわば執務室を兼ねた住処。「第2ステージ」始まりの場所だったわけですね。

■側室の存在■
鷹山の正室は幸姫 (ゆきひめ)。重定の次女です。日向高鍋藩の次男として生まれた鷹山は、この幸姫と生涯をともにすることを前提にして上杉家の養子となりました。ただ幸姫は健康に難があり、例えて言えば、心身ともにずっと幼女のままだったようです。三十歳で亡くなるまで、鷹山がこの幸姫を大切にしたことはとても有名です。 また、江戸藩邸で暮らす娘の事情を、米沢で隠居していた重定は遺品で知ることとなり、改めて鷹山に感謝したと伝わります。

さて、このような事情もあり、家臣は側室を持つことを鷹山に勧めます。拒んでいたようですが、結果としては米沢で一人の側室を迎え入れました。この『お豊の方』、活躍のわりには幸姫ほどは知られていません。幸姫の話があまりに有名だからでしょうか。
お豊の方は鷹山より10歳年上、遠縁にあたります。鷹山が自ら鍬を手にしたように、ここ餐霞館で絹を織ったり・・・活動的でありながら、陰に回って鷹山を支え続けました。そして何より、孤立しそうな改革者の良き理解者であり続けました。お豊の方は一般的な呼び方で、名は浄鏡院(じょうきょういん)。鷹山との間に子供をもうけています。

総じて苦難の多い上杉鷹山。ここ餐霞館では、妻と子と過ごす時間もあったわけですね。


■晩年の鷹山■
上杉治憲(はるのり)。これがもとの名です。米沢城東北に位置する白鷹山(しらたかやま)にちなみ、鷹山と号したと伝わります。この時52歳。もうそろそろ本当に隠居しても許されそうですが、鷹山は最後まで藩政に関わりました。

1822年、上杉家の中興の祖・鷹山は72歳で没します。側室であるお豊の方の死から4ヶ月後のことでした。

もともと幕府への領地返上が検討されるほど財政危機だった米沢藩。かなりの時間は要しましたが、改革者鷹山の死後まもなく、藩の借金は返済し終わったそうです。

<餐霞館跡の石碑>
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なせば成る
なさねば成らぬ 何事も
成らぬは人の
なさぬなりけり

この有名な言葉は、ここ餐霞館の一室に掲げた壁書の一部でした。米沢城三の丸。鷹山が人生の半分以上拠点とした場所です。


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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

2017年12月29日

普門院 鷹山ゆかりの地F

米沢市関根の普門院
鷹山が恩師である細井平州(ほそいへいしゅう)を出迎えた場所として知られています。

<普門院・本堂>ふもんいん
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<普門院・赤門>
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私の訪問時には改修工事中でした。普門院の歴史は古く、創建は9世紀。伊達氏が領主だった時代にこの地へ移り、現在に至っています。本堂は1796年に再建されたもの。鷹山の時代です。


<敬師の像>
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鷹山が恩師をもてなした場所として知られています。その時に使った部屋や茶器などがいまも残されています。

米沢藩の藩政改革に取り組んだ鷹山。師である細井平洲を3度米沢へ招いています。平洲の3度目の訪問に際し、鷹山は自らこの地へ出向いて師をもてなしました。

■敬師の里■
ただ先生を出迎えただけ?まぁそうですが、当時の常識というか感覚として、藩主にまでなった男が自ら出迎えることは異例のことでした。師が米沢領内の大沢村(城から10q程度)に到着した知らせが届くと、鷹山は待ちきれずに城を出たそうです。師を敬う鷹山の行いは、敬師の美談として語り継がれています。

まぁ分かる気がしますね。自ら鍬を手にしたり、自ら雨乞いをしたりと、鷹山の行動は格式高い上杉家の「お殿様」には不似合いなものばかり。心から敬う人を迎えるのに、身分などという形式は後回しなのでしょう。
鷹山の藩政改革の手法には見習うべきところが沢山ありますが、領民を思ったり、こうして師を敬ったりする人柄も魅力的です。

<普門院境内>
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訪問は11月下旬。ちょうどいい季節です。真言宗智山派の寺院。山号は岩上山。私は今回レンタカーで移動しましたが、JR関根駅から徒歩10分程度の場所です。

<本堂の屋根>
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ちょっと建物の傷みが気になります。まぁだから改修工事中なんですかね。貴重な歴史の舞台。大切に守って欲しいですね。

<説明板>
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ここ普門院は「上杉治憲公敬師郊迎跡」として国指定史跡になっています。治憲、のちの鷹山のことですね。

■平州と鷹山■
細井平州は尾張国の出身の儒学者。鷹山の師として有名ですね。37歳のときに当時14歳の鷹山の師となり、教育にあたりました。やがて上杉家の頂点という立場になっても、鷹山は平洲を生涯の師と仰ぎました。

<羽黒神社・鳥居>
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普門院近くの羽黒神社。鷹山はここまで迎えに出て、恩師と久しぶりの再会を果たします。既に高齢となった恩師。鷹山は普門院へと案内し、長旅の労を慰めました。

<山門と説明板>
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ここも普門院と同様に国指定史跡になっています。

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とても重厚な建物。ただ、山門も含め、ちょっと痛みが激しいようで心配になりました。矛盾しますが、こういう飾り気の無い雰囲気はとても好きです。雰囲気を残しつつ、改修されるといいですね。

<石碑>
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羽黒神社わきの石碑。右方向へ進んでいくと冒頭の普門院へたどり着きます。すぐ近くです。

■細井平州の教え■
鷹山の「学問の師」として知られている細井平州が、最も重視したのは「実践」でした。単に知るだけでなく、よく考えて、実行に移す。そういうことですね。藩の改革に挑もうとする鷹山に、平洲はこんな言葉を贈りました。

勇なるかな勇なるかな
勇にあらずして
何をもって行なわんや

行動に移すには、勇気が必要だという解釈で良いでしょうか。逆に行動したければ、勇気を持つこと

師から弟子へ、最高のエールですね。

<師(左)と弟子(右)>
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平洲69歳、鷹山46歳の再会でした。


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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

2017年12月28日

山中の塩田跡 鷹山ゆかりの地E

鷹山の足跡をたどる旅
今回は米沢市の小野川町です。

財政難の藩を救うため、率先垂範で倹約を促す一方、農業を奨励し、更に数々の殖産興業政策を打ち出した上杉鷹山。人里離れた山奥にもそのなごりがあると聞き、訪問してみました。

<上杉鷹山公塩田碑>
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塩田跡地の石碑です。

塩田というと、みなさんはどういうイメージを持つでしょうか?私の場合、例えば赤穂とか、漠然と海の近くというイメージなのですが・・・なんでこんな山奥に?

この地の温泉の湯は塩味が強い。そこで塩田が試みられたようです。これも鷹山が掲げた沢山の経済政策の一つ。財政難脱却を目指す米沢藩の製塩事業です。

<案内板>
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下の方の絵。こんな感じだったようですね。

■小野川温泉■
山奥ではありますが、市街地からそんなに遠い訳ではありません(10q未満)。古くから地元民に親しまれ、もともと米沢の領主だった伊達氏にも慕われた温泉地です。

現在では、小野小町に由来する「美人湯」が売りとなっており、遠方から訪れる人も多い行楽地となっています。

<鬼面川>
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きめんがわではなく「おものがわ」と読みます。最上川の源流のひとつです。

病により衰弱した小野小町が顔を映したといわれる川。なんでも、川面に写った姿が(本人にしてみれば醜く)鬼のようだったとか。しかしこの地で温泉につかると、病が癒えた上に美女に生まれ変わった。小野川温泉はそんな伝説のある場所です。

それにしても自然豊かで風情のある場所。いいですね。夏にはホタル舞うそうです。平凡な会社員が、里山の温泉宿に泊まって晩秋の米沢を満喫した・・・わけではありません。そういうの、いつかはしてみたいですが、宿泊は市街地のビジネスホテル。小野川は小説『上杉鷹山』にも登場するので足を延ばしました。

<足湯>
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無料です。おカネなくても気分は味わえます。

注)温泉にご興味を持たれた方は、どうぞちゃんとした旅のサイトを参考にして下さい。この記事は、交通費で精一杯の貧乏旅行。温泉の魅力は伝えられません(小野川温泉のためにひとことでした)。

<山側からの眺め>
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甲子大黒天などがある山から撮影。冒頭の塩田を含む小野川温泉全体を見下ろせます。いかにも温泉地という景色ですね。

(話を鷹山に戻します)

■政策は枠組み作り■
多くの政策を試みた鷹山。これに応える家臣たちと領民。全体の調和なくして、改革は成しえなかったことでしょう。
米沢の人、というより日本人全般がそうだと思うのですが、基本的には真面目な人が多いような気がします。ただ、どちらかと言えば決まったことをきっちりやる気質。だからこそ伝統が守られたり、良いものを更に良くする細かい工夫を思いついたり、魅力的な側面が沢山ありますね。成功する改革者は、枠組みそのものを構築、あるいは修正できる人ではないでしょうか。枠組みを提供すると、もともと真面目な人たちが良い仕事をしてくれる。そして富を生む。働く人も全体も豊かになる。
鷹山の時代のたくさんの枠組みは、のちに米沢の主力産業となったり、あるいは名物となるものに繋がっています。
人が意欲的に働き続けられる枠組みの構築。つまりは環境作り。現在の企業でも求められているテーマですね。

■つわものどもが夢の跡■
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これも枠組みの一つでした。塩田は大事業とまではならなかったようですが、財政を何とかしたかった鷹山の夢の跡です。


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■参考本
上杉鷹山
[著者:童門冬二]

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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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