つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城址に佇む2棟の城門の話です。
<裏門と黒門>
城のなごりをいまに留める岩槻城址公園には、かつて実際に使われていた2棟の門がひっそりと佇んでいます。手前が裏門。そして奥の方に見えるのが黒門とよばれるかつての城門です。
まずは岩槻城の裏門だったと伝わる門から
<裏門>
大手門に対するいわゆる搦手門だったのでしょうか。門の形式は薬医門です。さいたま市のホームページによれば『江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられた』そうです。市の有形文化財に指定されています。
<裏門の裏>
ちょっと裏から失礼します。かなり傷んでいるようですね。人により受け止め方は異なると思いますが、やや疲れているとはいえ哀れさのようなものは感じません。移築された門ですので、ここが本来の場所ではありません。
役割を終えて、静かに佇んでいる
そんなふうに受けとめました。
つづいて
<黒門>
こちらは黒門の名で親しまれ城門です。見ての通りで、黒く塗られていることからそう呼ばれているそうです。
現地説明板によれば、城郭のどの場所に設けられていたかは不明とのこと。ただ、さいたま市のホームページによれば『城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われる。』とのこと。市指定有形文化財(建造物)です。
<現地説明板>
埼玉県庁に移されて正門として利用された時期もあったようですね。
<長屋門>
こちらも裏から失礼します。左右に部屋がある長屋門のような構造です。あくまで個人的な感想ですが、城門としての威圧感のようなものは感じられません。
岩槻城は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近世城郭です。江戸から近いこともあり、譜代大名が城主を歴任する幕府にとっての重要拠点でもありました。
明治の廃城後、岩槻城は跡形もなく取り壊されてしまったので、建造物が残っているのは極めて稀なケースです。歴史を刻んだ貴重な遺構が、かつての出丸付近を整備した城址公園の一角で、今も静かに佇んでいます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:
岩槻城裏門
岩槻城城門(黒門)
[さいたま市岩槻区太田]3丁目
■参考:さいたま市ホームページ
『文化財紹介 岩槻城裏門』
『文化財紹介 岩槻城城門(黒門)』
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2020年08月21日
2020年08月20日
岩槻城本丸跡 地形だけで楽しむ城跡探索
つわものどもが夢の跡
深い歴史が刻まれた名城・岩槻城の本丸跡を訪ねました
<本丸跡>
民家の塀に設置された本丸跡の証です。
<場所>
お隣はマミーマート。この付近一帯がかつての本丸でした。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。岩槻城は室町時代末に築かれ、拡張や改修を繰り返しながら江戸時代も存続した城です。しかし明治の廃城以降は街の開発が進み、現在は曲輪の一部が城址公園として残るのみとなっています。
<マミーマート>
本丸跡には他の建物もありますが、ここが一番目立ちますね。裏には駐車場も確保され、まとまった敷地ですので、ここを本丸跡と思うことにします。
さて
縄張り図だと、本丸は水堀の役割を果たした沼に浮かぶ島のようなところだったようですね。遺構はありませんが、こういう時は地形を感じるようにしています。
<北側>
マミーマートの広い駐車場を抜けて北側へ移動しました。この付近から谷になるようです。
<高低差>
沼が埋め立てられ宅地化される前は、もうちょっと高低差があったのかもしれません。
<坂道>
別方向にも高い所から降る坂があります。複雑な地形を実感します。住所表記だと低い所も含めて『本丸』ということになります。現在の住所でいう『本丸』は実際の本丸跡より広範囲で、一部の高台を除けば、かつては概ね沼地だったのでしょう。
この付近はこの程度にして
次に南側へ移動することにしました。方向でいうと現在の岩槻城址公園へ向かうことになります。
<下り坂>
もしかしたら気付かないうちに二の丸を通過していたのかもしれませんが、とにかく低い方へ向かって進みました。
<暗渠>
この付近の水が集まるところというサインですね。つまり一番低い場所
<暗渠の行先>
岩槻城址公園へ到着です。
<かつての沼>
ここは曲輪跡ではなくかつての沼の底。本丸や二の丸といった主郭部分と、出丸である新曲輪の間の沼です。私は沼と表現していますが、これを『濠』とみなすと、国内の城では最大級の水堀だったことになります。
<沼の底>
公園内のこの水路は先ほど見た暗渠と繋がっています。
ということで
今回は本丸跡を訪ね、遺構はないのでその北側と南側の低地、つまりかつての沼を実感するために歩いたという内容でした。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
■訪問:岩槻城本丸跡
[さいたま市岩槻区本丸]3丁目
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--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了しました。オープンは2003年12月9日だったとのこと。ちょうど20年で幕引きとなったわけですね。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、ここが岩槻城本丸跡であることは変わりません。また様子を見に訪問しようと思います。
深い歴史が刻まれた名城・岩槻城の本丸跡を訪ねました
<本丸跡>
民家の塀に設置された本丸跡の証です。
<場所>
お隣はマミーマート。この付近一帯がかつての本丸でした。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。岩槻城は室町時代末に築かれ、拡張や改修を繰り返しながら江戸時代も存続した城です。しかし明治の廃城以降は街の開発が進み、現在は曲輪の一部が城址公園として残るのみとなっています。
<マミーマート>
本丸跡には他の建物もありますが、ここが一番目立ちますね。裏には駐車場も確保され、まとまった敷地ですので、ここを本丸跡と思うことにします。
さて
縄張り図だと、本丸は水堀の役割を果たした沼に浮かぶ島のようなところだったようですね。遺構はありませんが、こういう時は地形を感じるようにしています。
<北側>
マミーマートの広い駐車場を抜けて北側へ移動しました。この付近から谷になるようです。
<高低差>
沼が埋め立てられ宅地化される前は、もうちょっと高低差があったのかもしれません。
<坂道>
別方向にも高い所から降る坂があります。複雑な地形を実感します。住所表記だと低い所も含めて『本丸』ということになります。現在の住所でいう『本丸』は実際の本丸跡より広範囲で、一部の高台を除けば、かつては概ね沼地だったのでしょう。
この付近はこの程度にして
次に南側へ移動することにしました。方向でいうと現在の岩槻城址公園へ向かうことになります。
<下り坂>
もしかしたら気付かないうちに二の丸を通過していたのかもしれませんが、とにかく低い方へ向かって進みました。
<暗渠>
この付近の水が集まるところというサインですね。つまり一番低い場所
<暗渠の行先>
岩槻城址公園へ到着です。
<かつての沼>
ここは曲輪跡ではなくかつての沼の底。本丸や二の丸といった主郭部分と、出丸である新曲輪の間の沼です。私は沼と表現していますが、これを『濠』とみなすと、国内の城では最大級の水堀だったことになります。
<沼の底>
公園内のこの水路は先ほど見た暗渠と繋がっています。
ということで
今回は本丸跡を訪ね、遺構はないのでその北側と南側の低地、つまりかつての沼を実感するために歩いたという内容でした。
<本丸跡>
つわものどもが夢の跡
■訪問:岩槻城本丸跡
[さいたま市岩槻区本丸]3丁目
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--------追 記--------
再訪したところ、本丸跡はリニューアル工事中でした。
<2024年2月撮影>
本丸跡の象徴だったマミーマートは、2023年12月8日をもって営業を終了しました。オープンは2003年12月9日だったとのこと。ちょうど20年で幕引きとなったわけですね。敷地が今後どのように活用されるのかは分かりませんが、ここが岩槻城本丸跡であることは変わりません。また様子を見に訪問しようと思います。
2020年08月19日
堀のなごり(岩槻)県道横の窪地
今回は岩槻散策中に見かけた堀のなごりのご紹介です。
この日は時の鐘に立ち寄ったあと、岩槻城の本丸跡を目指し、埼玉県道2号(さいたま春日部線)をてくてくと歩き続けました。その途中、道路より一段と低くなっている地形に足が止まりました。
<高低差>
これは明らかに・・・
まぁ遺構とまでは言いませんが、ここが城跡だと意識していれば、こんな景色からもちょっとした感動を得ることができる。そんなことが共有できれば嬉しいです。あとで地図で確認すると、ここは三の丸の西側に設けられた堀のなごりでした。まわりを取り囲む巨大な沼が、入江のように曲輪の脇に入りこんでいるところだったようです。
<公民館>
先程の堀跡からもう少し北東へ歩くと公民館が見えてきます。
<岩槻本丸公民館>
この付近の住所は『本丸』ですが、実際はまだ三の丸です。
<足利銀行>
更に北東へ進み、こちらの銀行を通り過ぎれば本丸はもうすぐそこです。かつてはこの付近にも堀があったと思われますが、現地でそれらしい景色とは出会えませんでした。
<本丸跡>
到着しました。
暑い日でしたが、目的があるとあまり苦にならないものですね。勿論しっかり水分補給をして、時々木陰で休みながら歩き続けました。本丸跡については、次の投稿とさせて頂きます。
つぶやきのようなお話に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
この日は時の鐘に立ち寄ったあと、岩槻城の本丸跡を目指し、埼玉県道2号(さいたま春日部線)をてくてくと歩き続けました。その途中、道路より一段と低くなっている地形に足が止まりました。
<高低差>
これは明らかに・・・
まぁ遺構とまでは言いませんが、ここが城跡だと意識していれば、こんな景色からもちょっとした感動を得ることができる。そんなことが共有できれば嬉しいです。あとで地図で確認すると、ここは三の丸の西側に設けられた堀のなごりでした。まわりを取り囲む巨大な沼が、入江のように曲輪の脇に入りこんでいるところだったようです。
<公民館>
先程の堀跡からもう少し北東へ歩くと公民館が見えてきます。
<岩槻本丸公民館>
この付近の住所は『本丸』ですが、実際はまだ三の丸です。
<足利銀行>
更に北東へ進み、こちらの銀行を通り過ぎれば本丸はもうすぐそこです。かつてはこの付近にも堀があったと思われますが、現地でそれらしい景色とは出会えませんでした。
<本丸跡>
到着しました。
暑い日でしたが、目的があるとあまり苦にならないものですね。勿論しっかり水分補給をして、時々木陰で休みながら歩き続けました。本丸跡については、次の投稿とさせて頂きます。
つぶやきのようなお話に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
2020年08月17日
城下町岩槻の武家屋敷通り 裏小路公園にて
今回は真夏の炎天下のなか城下町岩槻を歩いた時の話です。
<裏小路>うらこうじ
裏小路?裏道?そのわりには昔の武家屋敷と記されていますね
城下町岩槻を歩いていると〇〇小路と名付けられた通りをよく見かけます。諏訪小路、江戸小路、渋江小路などなど。この日は岩槻藩の藩校『遷喬館』を訪ね、裏小路を歩くことになりました。
<遷喬館>せんきょうかん
入口の石柱に『裏小路』と刻まれています。
<現在の裏小路>
この道がすなわち裏小路。そして昔は武家屋敷が並んでいた通りということですね。
開発が進み、道沿いはすっかり住宅街となっていますが、城までの距離などを想像しながらまっすぐの道をてくてくと歩き続けると、ひまわりが出迎えてくれました。
<真夏の向日葵>
公園?昔の武家屋敷跡?
<裏小路公園>うらこうじこうえん
屋敷のような和風の雰囲気が漂います
<広い敷地>
宅地化が進むなかにあって、まとまった敷地が確保されています。ここは旧岩槻町町長の秋葉邸の跡地とのこと。造りを見る限り、比較的新しい公園のようです。いいですね。
<説明板>
親切な説明板もあります。
説明文には、岩槻城が室町時代に築城されて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まったとあります。以下はそのまま抜粋させて頂きますと『江戸時代を迎えると、岩槻は江戸近郊の城下町として栄えるようになります。岩槻城大手門の一帯を中心に武家屋敷、街道沿いには町家が配置されました。』とのこと。そして今回訪問の裏小路公園周辺には、遷喬館や時の鐘などの由緒ある史跡が多いと記されています。
ふらっと歩いて来ましたが、私が想像するよりずっと歴史の深みが漂う通りだったわけですね。
<現在位置>右側が北
[出典:現地説明板]
現在位置から更に北へ向かうと時の鐘があり、その先が岩槻城。まっすぐの裏小路は、城の入り口である大手門(三の丸)へ向かう道ということになります。この付近は町人ではなく武士たちが暮らしていたのですから、当然ですかね。東側(この地図だと下側)に並行して別の通りがあります。こちらは天神小路と呼ばれ、同じく武家の屋敷が立ち並んでいた通りです。
ということで
短い区画ですが城下町岩槻の裏小路と、そこで出会った公園のご紹介でした。
<現在の裏小路>
まっすぐ
<夏の裏小路公園>
とにかく暑かったです
■訪問:裏小路
岩槻藩遷喬館
[さいたま市岩槻区本町]4-8-9
裏小路公園
[さいたま市岩槻区本町]4-4-19
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<裏小路>うらこうじ
裏小路?裏道?そのわりには昔の武家屋敷と記されていますね
城下町岩槻を歩いていると〇〇小路と名付けられた通りをよく見かけます。諏訪小路、江戸小路、渋江小路などなど。この日は岩槻藩の藩校『遷喬館』を訪ね、裏小路を歩くことになりました。
<遷喬館>せんきょうかん
入口の石柱に『裏小路』と刻まれています。
<現在の裏小路>
この道がすなわち裏小路。そして昔は武家屋敷が並んでいた通りということですね。
開発が進み、道沿いはすっかり住宅街となっていますが、城までの距離などを想像しながらまっすぐの道をてくてくと歩き続けると、ひまわりが出迎えてくれました。
<真夏の向日葵>
公園?昔の武家屋敷跡?
<裏小路公園>うらこうじこうえん
屋敷のような和風の雰囲気が漂います
<広い敷地>
宅地化が進むなかにあって、まとまった敷地が確保されています。ここは旧岩槻町町長の秋葉邸の跡地とのこと。造りを見る限り、比較的新しい公園のようです。いいですね。
<説明板>
親切な説明板もあります。
説明文には、岩槻城が室町時代に築城されて以来、城下町としての岩槻の歴史が始まったとあります。以下はそのまま抜粋させて頂きますと『江戸時代を迎えると、岩槻は江戸近郊の城下町として栄えるようになります。岩槻城大手門の一帯を中心に武家屋敷、街道沿いには町家が配置されました。』とのこと。そして今回訪問の裏小路公園周辺には、遷喬館や時の鐘などの由緒ある史跡が多いと記されています。
ふらっと歩いて来ましたが、私が想像するよりずっと歴史の深みが漂う通りだったわけですね。
<現在位置>右側が北
[出典:現地説明板]
現在位置から更に北へ向かうと時の鐘があり、その先が岩槻城。まっすぐの裏小路は、城の入り口である大手門(三の丸)へ向かう道ということになります。この付近は町人ではなく武士たちが暮らしていたのですから、当然ですかね。東側(この地図だと下側)に並行して別の通りがあります。こちらは天神小路と呼ばれ、同じく武家の屋敷が立ち並んでいた通りです。
ということで
短い区画ですが城下町岩槻の裏小路と、そこで出会った公園のご紹介でした。
<現在の裏小路>
まっすぐ
<夏の裏小路公園>
とにかく暑かったです
■訪問:裏小路
岩槻藩遷喬館
[さいたま市岩槻区本町]4-8-9
裏小路公園
[さいたま市岩槻区本町]4-4-19
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2020年08月16日
軍神を祀った丘と城跡へ繋がる小径(岩槻)太田諏訪神社
今回は岩槻城探索で出会った諏訪神社と岩槻の起伏を感じる小径のご紹介です。
<参道>
■太田諏訪神社■おおたすわじんじゃ
<鳥居>
<拝殿>
こちらは岩槻区太田の諏訪神社です。屋根が大きいですね
<説明>
こちらの説明によれば『17世紀前半の建築的特徴』を残す貴重な神社建築とのこと。市の有形文化財に指定されているようです。
<説明>
軍神として崇拝されていた諏訪神を、江戸時代初期に岩槻城主となった阿部正次が勧請したことに始まるとのこと。戦国時代ではなく、江戸時代になってからのお話のようですね。戦の世が終わりを告げたといっても、当時はまだ、一定の緊張を保っていた。その証でしょうか。ここは岩槻城のすぐ南側の台地です。万が一に備えて、軍神を祀ったのだと受け止めることにします。
また『北方に鎮座する久伊豆神社と同様、鬼門除けとして創建されたものと思われる』とあります。他の場所にも言えることですが、陰陽道が城や町造りに及ぼす影響は大きいですね。
この付近はかつての武家屋敷が集まっていた場所です。家臣たちの身近な祈願所でもあったのでしょう。
■諏訪神社から新曲輪へ■
拝殿の向かって左手、細い道があるの分かりますでしょうか?私のようなよそ者には何となく立ち入り禁止に映りますが、向こう側へ通り抜けすることができて、そのまま岩槻城址公園へ繋がります。
小径に入って振り返るとこんな感じです。緩やかな下り坂ですので、諏訪神社が高台にあることを実感できます。
<高低差>
台地から低地へ
<グラウンド>
下りきったところで撮影したグラウンドです。ここは低湿地だったところですね。
<地図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
この図だと諏訪神社は左下の方ですね。新曲輪方面に進んでいるので、低い場所へ降り、かつては堀があったところを通過していくような感じになりますかね。
<新曲輪>
通ってきた小径は、低い場所では台地をかすめるように続いています。その台地上に登ってみると、こんな感じです。岩槻城の新曲輪の一部ですね。
<高低差>
高台から岩槻城址公園の入口が見えています。この高低差は堀切の跡でしょうか?
右手がいま通ってきた高台。左手が城址公園です。見た瞬間、この道は堀切の跡であろうと思いました。ところが、あとから調べたら、単純に道路を通すために台地を削っただけとのこと。雰囲気だけで思い込んでしまいましたが、勘違いでした。まぁよく考えたら、公園側はかつての沼です。ここでわざわざ堀切を設ける必要はありませんね。
ということで
諏訪神社とその脇の小径のご紹介でした。小径を通る人の楽しむきっかけになれば嬉しいです。
<岩槻城址公園>
■訪問:太田諏訪神社
[さいたま市岩槻区太田]
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<参道>
■太田諏訪神社■おおたすわじんじゃ
<鳥居>
<拝殿>
こちらは岩槻区太田の諏訪神社です。屋根が大きいですね
<説明>
こちらの説明によれば『17世紀前半の建築的特徴』を残す貴重な神社建築とのこと。市の有形文化財に指定されているようです。
<説明>
軍神として崇拝されていた諏訪神を、江戸時代初期に岩槻城主となった阿部正次が勧請したことに始まるとのこと。戦国時代ではなく、江戸時代になってからのお話のようですね。戦の世が終わりを告げたといっても、当時はまだ、一定の緊張を保っていた。その証でしょうか。ここは岩槻城のすぐ南側の台地です。万が一に備えて、軍神を祀ったのだと受け止めることにします。
また『北方に鎮座する久伊豆神社と同様、鬼門除けとして創建されたものと思われる』とあります。他の場所にも言えることですが、陰陽道が城や町造りに及ぼす影響は大きいですね。
この付近はかつての武家屋敷が集まっていた場所です。家臣たちの身近な祈願所でもあったのでしょう。
■諏訪神社から新曲輪へ■
拝殿の向かって左手、細い道があるの分かりますでしょうか?私のようなよそ者には何となく立ち入り禁止に映りますが、向こう側へ通り抜けすることができて、そのまま岩槻城址公園へ繋がります。
小径に入って振り返るとこんな感じです。緩やかな下り坂ですので、諏訪神社が高台にあることを実感できます。
<高低差>
台地から低地へ
<グラウンド>
下りきったところで撮影したグラウンドです。ここは低湿地だったところですね。
<地図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
この図だと諏訪神社は左下の方ですね。新曲輪方面に進んでいるので、低い場所へ降り、かつては堀があったところを通過していくような感じになりますかね。
<新曲輪>
通ってきた小径は、低い場所では台地をかすめるように続いています。その台地上に登ってみると、こんな感じです。岩槻城の新曲輪の一部ですね。
<高低差>
高台から岩槻城址公園の入口が見えています。この高低差は堀切の跡でしょうか?
右手がいま通ってきた高台。左手が城址公園です。見た瞬間、この道は堀切の跡であろうと思いました。ところが、あとから調べたら、単純に道路を通すために台地を削っただけとのこと。雰囲気だけで思い込んでしまいましたが、勘違いでした。まぁよく考えたら、公園側はかつての沼です。ここでわざわざ堀切を設ける必要はありませんね。
ということで
諏訪神社とその脇の小径のご紹介でした。小径を通る人の楽しむきっかけになれば嬉しいです。
<岩槻城址公園>
■訪問:太田諏訪神社
[さいたま市岩槻区太田]
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2020年08月13日
白鶴城と呼ばれた沼地の城(岩槻城別名の由来)
太田道灌により築城されたとされる岩槻城には白鶴城という別名があります。この由来は、沼地に築かれた浮き城に相応しい言い伝えがあります。
<白鶴城址碑>
こちらは岩槻城鍛冶曲輪跡に建つ城址碑です。白鶴城址碑と刻まれています。
以下はWikiさんからの抜粋です
『築城を命じられた太田道灌は、沼のほとりで2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたことから、たくさんの竹をたばねて沼に埋め、盛土をして城づくりをし、岩付城ができたという』
[出典:Wikipedia:2020/8/13]
情景が目に浮かぶような言い伝えです。これが『白鶴城』という名の由来です。岩槻城が『竹束の城』とも呼ばれる所以でもあるわけですね。
<岩槻城址公園>
ここはかつて深い沼地でした
<蓮池と八ツ橋>
本丸を取り囲んでいた沼は姿を消しましたが、整備された城址公園に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
沼地や湿地などに生息するツル。今でこそ生息地が限られますが、かつてはここ岩槻でも、その姿を見ることができたのでしょうね。
ということで
鶴が舞い降りる様子をヒントに、沼を埋め立てて城を築いた。これが白鶴城の名の由来というお話でした。ちなみに、太田道灌の幼名は鶴千代です。
■訪問:岩槻城鍛冶曲輪
[さいたま市岩槻区太田]
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<白鶴城址碑>
こちらは岩槻城鍛冶曲輪跡に建つ城址碑です。白鶴城址碑と刻まれています。
以下はWikiさんからの抜粋です
『築城を命じられた太田道灌は、沼のほとりで2羽の白鶴が木の枝を水面に落とし、その上に舞い降りたことから、たくさんの竹をたばねて沼に埋め、盛土をして城づくりをし、岩付城ができたという』
[出典:Wikipedia:2020/8/13]
情景が目に浮かぶような言い伝えです。これが『白鶴城』という名の由来です。岩槻城が『竹束の城』とも呼ばれる所以でもあるわけですね。
<岩槻城址公園>
ここはかつて深い沼地でした
<蓮池と八ツ橋>
本丸を取り囲んでいた沼は姿を消しましたが、整備された城址公園に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。
沼地や湿地などに生息するツル。今でこそ生息地が限られますが、かつてはここ岩槻でも、その姿を見ることができたのでしょうね。
ということで
鶴が舞い降りる様子をヒントに、沼を埋め立てて城を築いた。これが白鶴城の名の由来というお話でした。ちなみに、太田道灌の幼名は鶴千代です。
■訪問:岩槻城鍛冶曲輪
[さいたま市岩槻区太田]
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タグ:太田道灌
2020年08月10日
元荒川沿いの鍛冶曲輪(岩槻城)鍛冶の由来とは
今回は岩槻城鍛冶曲輪の『鍛冶』の由来についてです。
<鍛冶曲輪>かじくるわ
岩槻城の鍛冶曲輪です。岩槻城の天然堀である元荒川沿いの曲輪です。
<この付近の縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
岩槻城が拡張された時に整備されたとされる新曲輪と鍛冶曲輪。新曲輪は最後に整備されたから新曲輪。分かり易いですね。では鍛冶曲輪とはどういう由来なのでしょう。
江戸時代の城下町だと、いわゆる鍛冶職人が多く住んだ地区が鍛冶町などと名付けられたりしますね。鍛冶曲輪もそのまま鍛冶屋さんを想像して良い?と思われます。
<元荒川>
元荒川が運ぶ土には砂鉄が多く含まれていると言われています。これにより、川の流域には古くから鍛冶集落があったことが確認されています。砂鉄からまず鉄の塊を造り、それを加工する職人たちの集団ですね。岩槻でも、元荒川の砂鉄を使って鋳物を製造する職人たちが存在したことは分かっています。そういう意味で、鍛冶曲輪と呼ばれる区画が、元荒川に面したところにあるというのは興味深いですね。
ところで
もともと鍛冶職人が住んでいた区画を、後から出丸として整備したから鍛冶曲輪と呼ばれたのか?あるいは、戦に備えて甲冑師とか刀鍛冶といった職人を曲輪内に配置したから鍛冶曲輪と名付けられたのか?調べましたがはっきりとは分かりませんでした。
最後がはっきりせず申し訳ございません。ただ、読んで頂いた方が、元荒川沿いには古くから鍛冶集団が点在していたことをヒントに、いろいろと想像してもらえたら嬉しいです。
<城址碑>
鍛冶曲輪の城址碑
■訪問:岩槻城鍛冶曲輪
[さいたま市岩槻区太田]
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<鍛冶曲輪>かじくるわ
岩槻城の鍛冶曲輪です。岩槻城の天然堀である元荒川沿いの曲輪です。
<この付近の縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
岩槻城が拡張された時に整備されたとされる新曲輪と鍛冶曲輪。新曲輪は最後に整備されたから新曲輪。分かり易いですね。では鍛冶曲輪とはどういう由来なのでしょう。
江戸時代の城下町だと、いわゆる鍛冶職人が多く住んだ地区が鍛冶町などと名付けられたりしますね。鍛冶曲輪もそのまま鍛冶屋さんを想像して良い?と思われます。
<元荒川>
元荒川が運ぶ土には砂鉄が多く含まれていると言われています。これにより、川の流域には古くから鍛冶集落があったことが確認されています。砂鉄からまず鉄の塊を造り、それを加工する職人たちの集団ですね。岩槻でも、元荒川の砂鉄を使って鋳物を製造する職人たちが存在したことは分かっています。そういう意味で、鍛冶曲輪と呼ばれる区画が、元荒川に面したところにあるというのは興味深いですね。
ところで
もともと鍛冶職人が住んでいた区画を、後から出丸として整備したから鍛冶曲輪と呼ばれたのか?あるいは、戦に備えて甲冑師とか刀鍛冶といった職人を曲輪内に配置したから鍛冶曲輪と名付けられたのか?調べましたがはっきりとは分かりませんでした。
最後がはっきりせず申し訳ございません。ただ、読んで頂いた方が、元荒川沿いには古くから鍛冶集団が点在していたことをヒントに、いろいろと想像してもらえたら嬉しいです。
<城址碑>
鍛冶曲輪の城址碑
■訪問:岩槻城鍛冶曲輪
[さいたま市岩槻区太田]
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2020年08月08日
城と城下の境界線(岩槻)ふるさと散策路
元荒川沿いの道路を歩いて南側から岩槻城址公園へ向かうと、こんな標識が目に飛び込んできます。
<ふるさと散策路>
城址公園入口は間近です。公園として整備した道でしょうか?
<散策路>
ああ、そういうことか
ここは城の外と内とを隔てるかつての堀。つまり城と城下の境界線ということになりますね。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
場所でいうと鍛治曲輪と表示されている区画の南側の堀です。堀は折れ曲がって城の内部まで続いていますので、堀跡を利用した散策路を進んで行けば、そのまま城址公園へ入れるわけですね。
岩槻城址公園は、かつての鍛治曲輪と新曲輪を中心とするエリアを公園として整備したものです。この二つの曲輪は、岩槻城が北条氏配下の時に拡張整備されたと言われていますが諸説あり、それ以前とする説や、はたまた太田道灌が築いた岩槻城はもともとこの辺りを指すとてう説まであります。事実はどれなんでしょう。
いづれにせよ
関東の平城で、城のなごりが形として残っているのは貴重なことです。
<堀跡>
本来は来る者を拒むためのものですが、いまでは侵入口となっているわけですね。市街地化が進む中で城が形を保っていくためには、地元の皆さんに親しまれたり、利用してもらえる工夫も大切だと思います。そういう目で眺めると、愛おしい散策路です。
お城巡りランキング
<ふるさと散策路>
城址公園入口は間近です。公園として整備した道でしょうか?
<散策路>
ああ、そういうことか
ここは城の外と内とを隔てるかつての堀。つまり城と城下の境界線ということになりますね。
<縄張り図>
[出典:岩槻城址公園説明板]
場所でいうと鍛治曲輪と表示されている区画の南側の堀です。堀は折れ曲がって城の内部まで続いていますので、堀跡を利用した散策路を進んで行けば、そのまま城址公園へ入れるわけですね。
岩槻城址公園は、かつての鍛治曲輪と新曲輪を中心とするエリアを公園として整備したものです。この二つの曲輪は、岩槻城が北条氏配下の時に拡張整備されたと言われていますが諸説あり、それ以前とする説や、はたまた太田道灌が築いた岩槻城はもともとこの辺りを指すとてう説まであります。事実はどれなんでしょう。
いづれにせよ
関東の平城で、城のなごりが形として残っているのは貴重なことです。
<堀跡>
本来は来る者を拒むためのものですが、いまでは侵入口となっているわけですね。市街地化が進む中で城が形を保っていくためには、地元の皆さんに親しまれたり、利用してもらえる工夫も大切だと思います。そういう目で眺めると、愛おしい散策路です。
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