成田氏の忍城訪問の後に、今度は攻め手の石田三成が陣を構えた丸墓山古墳付近を探索しました。4月下旬の晴れの日。新緑が鮮やかでした。
<丸墓山古墳>
円墳としては日本最大規模です。直径は105m。
[背景]
秀吉は小田原征伐の一環として、本隊とは別の部隊によって関東に点在する北条方の城を次々と攻略していきました。三成が率いた二万の軍勢もその一つ。三成はそれ以前に大きな武功はありませんので、身分なども考えると大抜擢。まず館林城に向かいこれを降伏させると、南下してこの地へ向かいました。
<忍城>
小田原北条配下の成田氏の城です。城の周囲は沼地・低湿地。三成は大軍を率いて押し寄せますが、城攻めは難航します。
[水攻めを決意]
苦戦する石田三成は、近くの古墳(これが一番上の画像です)に登って周囲の地形を確認し、秀吉の備中高松城攻めに習って水攻めにすることを思いつきました。
<周辺にも古墳>埼玉古墳群
この付近には古墳が数多く残されています。三成が登った丸墓山古墳はこの古墳群のなかの一基。この付近で一番見晴らしの良い場所です。三成はこの円墳に陣を構えました。
[つわものどもが夢の跡]
石田三成の思惑は、痕跡とてしっかりと残っています。
<石田堤(いしだつつみ)>
石田三成が忍城を水攻めにした時に築いたとされています。総延長28km。今考えても壮大なスケールの工事です。
ただ、流石の天下軍。資金は豊富です。周辺から人夫をかき集め、水攻めの堤を造り始めました。
(三成はどちらかというと無駄な出費を嫌う倹約家。そもそもこの忍城水攻め、三成の本意ではなく、秀吉の命令という説もあります。不本意でも従ったという解釈も、それはそれでいかにも石田三成らしいと思います)
<横から見た石田堤>
この土塁はそのなごり。陣を構える古墳と直結するように造られています。
<石田堤の上>
訪問が4月下旬になってしまいましたが、石田堤のこの道は桜の名所でもあります。
新緑がまぶしい
[攻防戦]
「関八州古戦録」や「成田記」によれば、堤防の効果で忍城の周りには水がたまり始めますが、突然の大雨で堤が決壊。濁流が逆に三成率いる天下軍に襲いかかり、多数の死者がでたそうです。水攻めそのものは失敗しました。
三成側の苦戦が続き、浅野長政や真田昌幸らの援軍が到着しますが、それでも忍城は落ちません。やがて本城である小田原城が落城となり、戦は終わりました。
これにより忍城は
小田原征伐で唯一落ちなかった城
となりました。
伝わる話に対しては、異論や史料の信憑性の問題などいろいろ議論の余地がありそうです。ただ、私がこの地を訪問する気になったのは、上述のような歴史に魅力があってのこと。それと、それを背景に描かれた「のぼうの城」という物語。私としては、家でゴロゴロの自分を動かしてくれたお話を大切にしたいと思います。
気持ちの良い散策となりました。
[埼玉県行田市埼玉]
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2017年04月30日
誇り高き成田氏と忍城(のぼうの城)
■成田氏百年■
忍城(おしじょう)の「成田氏」は、親泰・長泰・氏長の三代にわたって百年続きました。戦乱の世、しかも激戦区(現在の埼玉県北部)で百年続くのは大変なことです。前の記事で経済力の裏付けに触れましたが、それだけでは、もっと強い勢力(武田・上杉・北条など)に潰されてしまいます。
<城内>
■北条と上杉の狭間■
小田原北条氏の勢力が強まり、関東の北部へと進出し始めると、成田氏は北条の配下へ組み込まれます(忍城が攻め落とされた訳ではありませんが、この時城主の成田長泰は降伏する道を選びました) 。
北から上杉謙信 (長尾景虎)が関東に進出すると、北条配下の成田氏は当然抵抗しますが、結果として上杉謙信に従うことに。時を経て、上杉軍の小田原城攻めでは先鋒として北条氏の小田原城を攻めることになります。関東における上杉謙信の勢いには凄まじいものがありましたが、北条氏の小田原城は難攻不落の堅城。城攻めは失敗に終わり、謙信は軍を引くことに。その後のある事件がきっかで、成田氏は再び上杉氏の元を去ります。
■事件とは・・・■
謙信は小田原城を攻めたあと、鶴岡八幡宮を参詣し、そこで上杉憲政から関東管領職を譲渡されます。この時その事件は起きました。任式で成田長泰が下馬をしなかったことに腹を立てた謙信が、扇で長泰の烏帽子を打ち落しました。恥辱を受け、成田氏は兵を率いて居城へ戻ったそうです(史実かどうか諸説あり)
私は上杉家と謙信のファン。この話は謙信の武勇伝として漠然と記憶していました。ただ「のぼうの城」以降いろいろと成田氏のことも調べてみると、この事件の受け止め方も変わりました。
成田氏は高い誇りと反骨心を兼ね備えた家柄なのではないか・・・
この話も、謙信だけでなく、成田長泰の気質を伝えているものではないだろうか・・・
まぁ資料の信憑性とか、下馬しないことは本来失礼ではないとか、調べるときりがありません。
「誇り高き成田氏」と捉えた方が、後に秀吉の天下軍が「唯一落とせなかった忍城」という史実と繋がりやすく、更には「のぼうの城」に登場する「のぼうさん(成田長親)」の常識を覆す「戦いまする」とも一致します。
学者ではないので、私はそう思うことにします。
<のぼうの城>
最後に「のぼうの城」ののぼうさんの台詞をご紹介して終わりにしたいと思います。
小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。
ならば無能で、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったまま死ねというのか。
それが世の習いと申すなら、
このわしは許さん
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忍城(おしじょう)の「成田氏」は、親泰・長泰・氏長の三代にわたって百年続きました。戦乱の世、しかも激戦区(現在の埼玉県北部)で百年続くのは大変なことです。前の記事で経済力の裏付けに触れましたが、それだけでは、もっと強い勢力(武田・上杉・北条など)に潰されてしまいます。
<城内>
■北条と上杉の狭間■
小田原北条氏の勢力が強まり、関東の北部へと進出し始めると、成田氏は北条の配下へ組み込まれます(忍城が攻め落とされた訳ではありませんが、この時城主の成田長泰は降伏する道を選びました) 。
北から上杉謙信 (長尾景虎)が関東に進出すると、北条配下の成田氏は当然抵抗しますが、結果として上杉謙信に従うことに。時を経て、上杉軍の小田原城攻めでは先鋒として北条氏の小田原城を攻めることになります。関東における上杉謙信の勢いには凄まじいものがありましたが、北条氏の小田原城は難攻不落の堅城。城攻めは失敗に終わり、謙信は軍を引くことに。その後のある事件がきっかで、成田氏は再び上杉氏の元を去ります。
■事件とは・・・■
謙信は小田原城を攻めたあと、鶴岡八幡宮を参詣し、そこで上杉憲政から関東管領職を譲渡されます。この時その事件は起きました。任式で成田長泰が下馬をしなかったことに腹を立てた謙信が、扇で長泰の烏帽子を打ち落しました。恥辱を受け、成田氏は兵を率いて居城へ戻ったそうです(史実かどうか諸説あり)
私は上杉家と謙信のファン。この話は謙信の武勇伝として漠然と記憶していました。ただ「のぼうの城」以降いろいろと成田氏のことも調べてみると、この事件の受け止め方も変わりました。
成田氏は高い誇りと反骨心を兼ね備えた家柄なのではないか・・・
この話も、謙信だけでなく、成田長泰の気質を伝えているものではないだろうか・・・
まぁ資料の信憑性とか、下馬しないことは本来失礼ではないとか、調べるときりがありません。
「誇り高き成田氏」と捉えた方が、後に秀吉の天下軍が「唯一落とせなかった忍城」という史実と繋がりやすく、更には「のぼうの城」に登場する「のぼうさん(成田長親)」の常識を覆す「戦いまする」とも一致します。
学者ではないので、私はそう思うことにします。
<のぼうの城>
最後に「のぼうの城」ののぼうさんの台詞をご紹介して終わりにしたいと思います。
小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。
ならば無能で、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったまま死ねというのか。
それが世の習いと申すなら、
このわしは許さん
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タグ:関東七名城
2017年04月29日
城跡と水路跡 浮城のなごり(忍城) 行田市
■忍城■おしじょう
埼玉県行田市。この城は和田竜さんによる小説「のぼうの城」で一躍有名になりました。その築城は15世紀後半(1490年前後?)と推定されています。
■忍城=成田氏という構図■
全ては山内上杉家の御家人だった成田親泰(なりたちかやす)が、扇谷上杉方の忍氏の館を襲撃したことに始まります。諸説ありますが、この成田氏により忍城の原型が造られたことは間違いないようです。扇谷上杉方は反発してこの忍城を攻め落とそうとしますが、同家重臣の太田道灌が仲介役を務めて和解となり、以後この地は成田氏が領有することになりました。小説「のぼうの城」は豊臣秀吉の小田原征伐の時ですから、これより百年以上後の話。「のぼうの城」に登場する城主はやはり成田氏ですので、そうとう長く一族による統治が続いたわけですね。
<復元された城>資料館
忍城は北に利根川、南に荒川が流れる湿地帯に位置します。天険の地に築かれたこの城は、関東七名城の一つとされています。
関東七名城とは川越城[河越城](埼玉県川越市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城[厩橋城](群馬県前橋市)・金山城(群馬県太田市)・唐沢山城(栃木県佐野市)・宇都宮城(栃木県宇都宮市)・多気城(茨城県つくば市)⇒又は太田城(茨城県常陸太田市)。どれも賞されるに相応しい城ばかりですね。
<湿地帯のなごり>
忍城は戦国時代の典型的な水城で、浮城とも呼ばれました。
守りにはいいですが、ある意味不便な場所ですよね?
そんな土地で成田氏が長らく繁栄し続けた理由は何でしょうか。
ただ戦って強くたって繁栄はありません。
やはり裏付けとなるのは経済力ですよね。
<土塁のなごり>
成田氏は城を整備する一方で、湿地に水路を整備し、新田の開発も行いました。無秩序に泥濘だった大地は、やがて整備された水田に姿を変えることになります。現在この地が行田(ぎょうだ)と呼ばれる由来です。
成田氏は、城と同時に水路も築いた。そういう意味では、この地に残る城跡も水路跡も成田氏繁栄の痕跡。つわものどもが夢の跡ということになりますね。
(行田の忍城、次へ続きます)
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埼玉県行田市。この城は和田竜さんによる小説「のぼうの城」で一躍有名になりました。その築城は15世紀後半(1490年前後?)と推定されています。
■忍城=成田氏という構図■
全ては山内上杉家の御家人だった成田親泰(なりたちかやす)が、扇谷上杉方の忍氏の館を襲撃したことに始まります。諸説ありますが、この成田氏により忍城の原型が造られたことは間違いないようです。扇谷上杉方は反発してこの忍城を攻め落とそうとしますが、同家重臣の太田道灌が仲介役を務めて和解となり、以後この地は成田氏が領有することになりました。小説「のぼうの城」は豊臣秀吉の小田原征伐の時ですから、これより百年以上後の話。「のぼうの城」に登場する城主はやはり成田氏ですので、そうとう長く一族による統治が続いたわけですね。
<復元された城>資料館
忍城は北に利根川、南に荒川が流れる湿地帯に位置します。天険の地に築かれたこの城は、関東七名城の一つとされています。
関東七名城とは川越城[河越城](埼玉県川越市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城[厩橋城](群馬県前橋市)・金山城(群馬県太田市)・唐沢山城(栃木県佐野市)・宇都宮城(栃木県宇都宮市)・多気城(茨城県つくば市)⇒又は太田城(茨城県常陸太田市)。どれも賞されるに相応しい城ばかりですね。
<湿地帯のなごり>
忍城は戦国時代の典型的な水城で、浮城とも呼ばれました。
守りにはいいですが、ある意味不便な場所ですよね?
そんな土地で成田氏が長らく繁栄し続けた理由は何でしょうか。
ただ戦って強くたって繁栄はありません。
やはり裏付けとなるのは経済力ですよね。
<土塁のなごり>
成田氏は城を整備する一方で、湿地に水路を整備し、新田の開発も行いました。無秩序に泥濘だった大地は、やがて整備された水田に姿を変えることになります。現在この地が行田(ぎょうだ)と呼ばれる由来です。
成田氏は、城と同時に水路も築いた。そういう意味では、この地に残る城跡も水路跡も成田氏繁栄の痕跡。つわものどもが夢の跡ということになりますね。
(行田の忍城、次へ続きます)
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2017年04月19日
所沢の城跡 滝の城 2
(前の記事のつづきです)
滝の城
<石碑>
瀧之城本丸跡の石碑です。前の記事は私の下手な説明で終わってしまったので、今度はもっとちゃんとした方の説明を参考にして下さい。所沢市ホームページからの抜粋です。
滝の城跡
『柳瀬の城地区にある城跡で、台地の縁辺部を利用した多郭式平山城です。土塁・堀・櫓台が残り、本郭・二の郭・三の郭の内郭とそれらを囲む外郭で構成されています。内郭は大石氏が築造、北条氏と関係深い「障子堀(畝堀)」を確認したことから、外郭は後世に北条氏によって拡張されたと推測されます。
【所在地】所沢市城537番地ほか
(情報元:所沢市ホームページ)
障子掘も備えた城だったのですね。障子掘そのものは確認できませんが、立派な空堀が満載の城跡です。
<柳瀬川>
城にとっての天然堀だった柳瀬川です。この川に臨む比高20mほどの丘に滝の城があります
<城前橋>
こんな橋とも出会いました
<城内からの眺め>
ここは急な崖を利用した山城。先ほどの柳瀬川が長年かけて侵食した地形ですね
<二の丸方面へ登る階段>
いい感じです。まぁ実際は階段はなかったのでしょう
<空堀>
<空堀>
所沢市ホームページの表現を部分的にお借りすると「折りを多用した中堀」です。
あ!また鳥肌が立ちました!
<土橋>
土橋になっています。ここは向う側の曲輪(本丸)への入り口。つまり虎口の跡ですね。なんと分りやすい遺構なのでしょう。
<説明(四脚門跡)>
こちらは先ほどの土橋を渡った先です。ここに虎口の門があったわけですね。門そのものは落城の時に焼失しましたが、所沢市による発掘調査で、門を設置した場所が特定されたそうです。この説明板によれば、引橋が掛けられていたとのこと。引橋とはつまり「いざとなったら橋板を取りはずして渡れなくすることができる橋」ですね。なるほど。それがこの場所に。豊臣軍の北国勢が押し寄せた時には、やはりとり外したのでしょうかね?勝手な想像が膨らみます。滝の城保存会さん、親切な説明ありがとうございます。
<三の丸跡>
こちらの説明板によれば、北条氏照が存城の時に家臣と茶を飲んだことから、別名「茶呑みくるわ」ともいうそうです。なんか名前がのんきですが、それだけコミュニケーションを大切にしたのでしょう。主要な城に庭園まで設けた北条氏らしい場所ですね。三の丸としては狭い気もしますが、茶会なら充分かもしれません(かなり個人的な感覚)。どんな会話をしたのでしょうね
滝の城そのものはもっと広範囲に及びますが、本丸周辺はざっとこんな感じになります。
最後に
<戦国滝の城まつりの幟>
毎年春に「戦国滝の城まつり」が開催されます。甲冑に身を包んだ武者行列も見ることもできるそうです。今回はフラっと来てしまいましたが、開催日に合わせてまた訪れてみますかね。一人で探索するのとは、また別の何かを感じることができるかもしれません。
つわものともが夢の跡
過ぎ去った人たちに思いを馳せれば、同じものが違った景色に映ります。
所沢市の城跡、とても充実した訪問となりました。
[埼玉県所沢市城]
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滝の城
<石碑>
瀧之城本丸跡の石碑です。前の記事は私の下手な説明で終わってしまったので、今度はもっとちゃんとした方の説明を参考にして下さい。所沢市ホームページからの抜粋です。
滝の城跡
『柳瀬の城地区にある城跡で、台地の縁辺部を利用した多郭式平山城です。土塁・堀・櫓台が残り、本郭・二の郭・三の郭の内郭とそれらを囲む外郭で構成されています。内郭は大石氏が築造、北条氏と関係深い「障子堀(畝堀)」を確認したことから、外郭は後世に北条氏によって拡張されたと推測されます。
【所在地】所沢市城537番地ほか
(情報元:所沢市ホームページ)
障子掘も備えた城だったのですね。障子掘そのものは確認できませんが、立派な空堀が満載の城跡です。
<柳瀬川>
城にとっての天然堀だった柳瀬川です。この川に臨む比高20mほどの丘に滝の城があります
<城前橋>
こんな橋とも出会いました
<城内からの眺め>
ここは急な崖を利用した山城。先ほどの柳瀬川が長年かけて侵食した地形ですね
<二の丸方面へ登る階段>
いい感じです。まぁ実際は階段はなかったのでしょう
<空堀>
<空堀>
所沢市ホームページの表現を部分的にお借りすると「折りを多用した中堀」です。
あ!また鳥肌が立ちました!
<土橋>
土橋になっています。ここは向う側の曲輪(本丸)への入り口。つまり虎口の跡ですね。なんと分りやすい遺構なのでしょう。
<説明(四脚門跡)>
こちらは先ほどの土橋を渡った先です。ここに虎口の門があったわけですね。門そのものは落城の時に焼失しましたが、所沢市による発掘調査で、門を設置した場所が特定されたそうです。この説明板によれば、引橋が掛けられていたとのこと。引橋とはつまり「いざとなったら橋板を取りはずして渡れなくすることができる橋」ですね。なるほど。それがこの場所に。豊臣軍の北国勢が押し寄せた時には、やはりとり外したのでしょうかね?勝手な想像が膨らみます。滝の城保存会さん、親切な説明ありがとうございます。
<三の丸跡>
こちらの説明板によれば、北条氏照が存城の時に家臣と茶を飲んだことから、別名「茶呑みくるわ」ともいうそうです。なんか名前がのんきですが、それだけコミュニケーションを大切にしたのでしょう。主要な城に庭園まで設けた北条氏らしい場所ですね。三の丸としては狭い気もしますが、茶会なら充分かもしれません(かなり個人的な感覚)。どんな会話をしたのでしょうね
滝の城そのものはもっと広範囲に及びますが、本丸周辺はざっとこんな感じになります。
最後に
<戦国滝の城まつりの幟>
毎年春に「戦国滝の城まつり」が開催されます。甲冑に身を包んだ武者行列も見ることもできるそうです。今回はフラっと来てしまいましたが、開催日に合わせてまた訪れてみますかね。一人で探索するのとは、また別の何かを感じることができるかもしれません。
つわものともが夢の跡
過ぎ去った人たちに思いを馳せれば、同じものが違った景色に映ります。
所沢市の城跡、とても充実した訪問となりました。
[埼玉県所沢市城]
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タグ:北条
2017年04月18日
所沢の城跡 滝の城
つわものどもが夢の跡
所沢市の断崖上に残る城の痕跡を見に行きました。
<滝の城>たきのじょう
滝の城と呼ばれています。別名は本郷城。埼玉県所沢市といっても、お隣の清瀬市(東京都)との県境に位置しています。県境を流れる柳瀬川北岸の断崖上に築かれた山城です。現在では滝の城址公園として整備され、本丸跡には城山神社が祀られています。
■小田原北条氏配下の城■
築城の時期は明らかではありませんが、山内上杉氏配下の大石氏によって築城されたと推定されています。河越夜戦※で上杉氏が敗退すると小田原北条氏の配下となりました。北条氏康の三男・氏照が城主を務める武蔵滝山城(現在の八王子)の支城というポジションのようです。
※河越夜戦とは
細かい説明は省略しますが、小田原北条氏3代目当主の氏康が、圧倒的な兵力の差を奇襲で覆した戦いです。北条氏を潰そうとする関東の連合軍に勝利したことで、逆に北条氏の実力が世間に知れ渡ることになりました。今回訪問の滝の城は、そんな勢いに乗っている北条氏の配下に組み込まれていったわけです。
■小田原征伐で廃城■
やがて1590年の秀吉による小田原征伐により北条氏は滅亡。総勢20万人ともいわれる天下軍が相手ですからね。関東の覇者となっていた北条氏もかないませんでした。滝の城もこの時の戦いに巻き込まれ、豊臣軍の一翼を担う北国勢が攻め寄せたと伝わります。北国勢(北国軍)といえば、前田家や上杉家、そして真田家も含まれる軍勢です。いい伝えが事実なら、この地に前田利家や上杉景勝といったそうそうたるメンバーが攻め寄せたことになります。滝の城の名は全国的にはあまり知られていませんが、歴史ロマンを感じさせる城跡です。
■訪問■
埼玉県内の城跡です。そして私は埼玉県民。しかし頻繁にタテ移動(北へ行ったり南へ通勤したり)するわりに、所沢方面を含むヨコ移動する機会がなく、なんとなく遠く感じていました。実際に行ってみると近い近い。慣れてなかったというだけですね。更に、城跡は東所沢駅から徒歩で約20分強でした。
「こんな駅から近いところに中世の城跡なんてあるのかね?まぁきっと市民の憩いの場所として整備された公園に、ちょっとした遺構があるのだろう」
そんな程度の期待だったため、突然目の前に別世界が広がり鳥肌が立ちました。
「こんなに凄いのか〜」
<説明板付近>
『滝の城跡入口(←ここ入る) 埼玉県指定文化財』更に左側の『滝の城跡散策道』という名の縄張り図。
画像ではややラフに見えますが、これが極めて分かり安い。細か過ぎないのが逆にいいですね。物見櫓跡と空堀・空堀・空堀・・・そして本丸跡。小規模なわりに曲輪が多いことに戸惑いました。また「7世紀頃の横穴墓群が発見されたところ」という説明もありました。城が築かれる以前から、人の暮らしと関りのある場所ということですね。
入口で大筋は理解できました。あとはただただ歩き回るのみです。久しぶりに『中世の土の城』と出会えた気がしてワクワクした瞬間です。
<つわものどもが夢の跡>
凄い!入口より先はこういった堀、また堀の連続です。構造がとても分かりやすい。
表現が適切かどうかわかりませんが、「中世の土の城のショールーム」にでも来たかのような分かり安さ。コンパクトな空間に、城のノウハウが凝縮されています。
<本丸跡>
ここはある程度の広さが確保された曲輪です。現在は城山神社となっています。
予習不足ということもありますが、とにかく遺構が良好な状態で保たれていることに感動しました。埼玉県民でも知らない人が多いのではないでしょうか?ここは「中世の土の城」が感じられるお勧めの場所です。他県にお住まいの城ファンの方にも、ぜひ訪れて欲しいですね。
ちょっと文字が多すぎたので、画像中心の次の記事へつづきます
『所沢の城跡 滝の城2』 ↓
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/58/0
[埼玉県所沢市城]
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所沢市の断崖上に残る城の痕跡を見に行きました。
<滝の城>たきのじょう
滝の城と呼ばれています。別名は本郷城。埼玉県所沢市といっても、お隣の清瀬市(東京都)との県境に位置しています。県境を流れる柳瀬川北岸の断崖上に築かれた山城です。現在では滝の城址公園として整備され、本丸跡には城山神社が祀られています。
■小田原北条氏配下の城■
築城の時期は明らかではありませんが、山内上杉氏配下の大石氏によって築城されたと推定されています。河越夜戦※で上杉氏が敗退すると小田原北条氏の配下となりました。北条氏康の三男・氏照が城主を務める武蔵滝山城(現在の八王子)の支城というポジションのようです。
※河越夜戦とは
細かい説明は省略しますが、小田原北条氏3代目当主の氏康が、圧倒的な兵力の差を奇襲で覆した戦いです。北条氏を潰そうとする関東の連合軍に勝利したことで、逆に北条氏の実力が世間に知れ渡ることになりました。今回訪問の滝の城は、そんな勢いに乗っている北条氏の配下に組み込まれていったわけです。
■小田原征伐で廃城■
やがて1590年の秀吉による小田原征伐により北条氏は滅亡。総勢20万人ともいわれる天下軍が相手ですからね。関東の覇者となっていた北条氏もかないませんでした。滝の城もこの時の戦いに巻き込まれ、豊臣軍の一翼を担う北国勢が攻め寄せたと伝わります。北国勢(北国軍)といえば、前田家や上杉家、そして真田家も含まれる軍勢です。いい伝えが事実なら、この地に前田利家や上杉景勝といったそうそうたるメンバーが攻め寄せたことになります。滝の城の名は全国的にはあまり知られていませんが、歴史ロマンを感じさせる城跡です。
■訪問■
埼玉県内の城跡です。そして私は埼玉県民。しかし頻繁にタテ移動(北へ行ったり南へ通勤したり)するわりに、所沢方面を含むヨコ移動する機会がなく、なんとなく遠く感じていました。実際に行ってみると近い近い。慣れてなかったというだけですね。更に、城跡は東所沢駅から徒歩で約20分強でした。
「こんな駅から近いところに中世の城跡なんてあるのかね?まぁきっと市民の憩いの場所として整備された公園に、ちょっとした遺構があるのだろう」
そんな程度の期待だったため、突然目の前に別世界が広がり鳥肌が立ちました。
「こんなに凄いのか〜」
<説明板付近>
『滝の城跡入口(←ここ入る) 埼玉県指定文化財』更に左側の『滝の城跡散策道』という名の縄張り図。
画像ではややラフに見えますが、これが極めて分かり安い。細か過ぎないのが逆にいいですね。物見櫓跡と空堀・空堀・空堀・・・そして本丸跡。小規模なわりに曲輪が多いことに戸惑いました。また「7世紀頃の横穴墓群が発見されたところ」という説明もありました。城が築かれる以前から、人の暮らしと関りのある場所ということですね。
入口で大筋は理解できました。あとはただただ歩き回るのみです。久しぶりに『中世の土の城』と出会えた気がしてワクワクした瞬間です。
<つわものどもが夢の跡>
凄い!入口より先はこういった堀、また堀の連続です。構造がとても分かりやすい。
表現が適切かどうかわかりませんが、「中世の土の城のショールーム」にでも来たかのような分かり安さ。コンパクトな空間に、城のノウハウが凝縮されています。
<本丸跡>
ここはある程度の広さが確保された曲輪です。現在は城山神社となっています。
予習不足ということもありますが、とにかく遺構が良好な状態で保たれていることに感動しました。埼玉県民でも知らない人が多いのではないでしょうか?ここは「中世の土の城」が感じられるお勧めの場所です。他県にお住まいの城ファンの方にも、ぜひ訪れて欲しいですね。
ちょっと文字が多すぎたので、画像中心の次の記事へつづきます
『所沢の城跡 滝の城2』 ↓
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/58/0
[埼玉県所沢市城]
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タグ:北条
2017年04月11日
端崎の城跡 花崎城のなごり
<花崎城跡>
周辺より僅かに高い所に築かれた埼玉県加須市の平城。
ここは縄文時代の土器なども発掘されていることから、遺跡として注目されている場所です。
花崎城は久喜市の粟原城(現在の鷲宮神社付近)の支城と推定されています。
このブログで粟原城を紹介させてもらった時
「小田原北条氏に味方する立場から、越後の上杉謙信に与する羽生城の木戸氏によって焼き落とされた」
と書かせてもらいました。花崎城はその支城、粟原城と運命をともにして落城となったようです。
(粟原城記事はこちら↓)
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/51/0
■訪問記録■
花崎駅を出て目印の自動車教習所を通り越し、まずここへ到着しました。
<花崎城跡公園>
名前がそのまま。嬉しいですね。さてと、確か堀があるはずなので探しますかね…
軽い気持ちで探索し始めましたが、遺構らしきものがありません。
「あれ?こんなはずないのだが」
現地でもう一度調べ直し、すぐに解決しました。
「あぁ、そういうことだったか」
ここも花崎城跡には間違いないのですが、他の方の城ブログで見た遺構は、また違う場所にあるようです。
<東武線>
ところが、そこへまっすぐ移動することはできません。かつての花崎城は、線路で分断されています。近くに歩道橋もないので、もう一度駅方面に戻ることになりました。
ちなみに、この画像だと右手(北側)がいまの「花崎城跡公園」、左手(南側)が遺構が残されている「花崎城山公園」になります。
<花崎城山公園>
周辺は住宅地ですが、何となく緑豊かな湿地を思わせるいい雰囲気です。
<公園内>
微高地と湿地帯。今でこそ水は僅かですが、高低差からして、沼或いは湿地帯を利用した城だったのでしょう。
<堀のなごり>
発掘調査では「障子掘」も確認されたようですが、現在は見ることができません。残念です。
<調査の時の写真>
城全体が湿地帯に浮かぶ島のような場所だったのかもしれません。
■花崎という地名■
ハナサキは、湿地帯に台地が突き出ている地形に由来しており、もともとの漢字は「端崎」とのこと。そうだとすると、名前からして城を構えるのには好都合な場所ですね。
また、ネットで昔の低湿地が分かる地図が公表されていますが、それで調べてみると、端崎(花崎)は西以外の三方が川、そして湿地だと分かります。南側には「船越」「小浜」「常泉(つねずみ)」といった水と関連した地名があります。なんだか地名だけで地形の高低差が分るような気がしますね。
ここまで調べてしまうと、端崎の方がこの地の特徴を表す立派な名に思えてなりません。ただまぁ、それは地形を気にする城跡マニアだから思うことなのでしょう。
<花崎>
この名で通っているのだから、よそ者がぐたぐたいう事ではないですね。
花崎、綺麗な響きです。
そして元々の意味が分ると、城のあった場所の地形が愛おしく思えます。
[埼玉県加須市花崎]
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周辺より僅かに高い所に築かれた埼玉県加須市の平城。
ここは縄文時代の土器なども発掘されていることから、遺跡として注目されている場所です。
花崎城は久喜市の粟原城(現在の鷲宮神社付近)の支城と推定されています。
このブログで粟原城を紹介させてもらった時
「小田原北条氏に味方する立場から、越後の上杉謙信に与する羽生城の木戸氏によって焼き落とされた」
と書かせてもらいました。花崎城はその支城、粟原城と運命をともにして落城となったようです。
(粟原城記事はこちら↓)
https://fanblogs.jp/shirononagori/archive/51/0
■訪問記録■
花崎駅を出て目印の自動車教習所を通り越し、まずここへ到着しました。
<花崎城跡公園>
名前がそのまま。嬉しいですね。さてと、確か堀があるはずなので探しますかね…
軽い気持ちで探索し始めましたが、遺構らしきものがありません。
「あれ?こんなはずないのだが」
現地でもう一度調べ直し、すぐに解決しました。
「あぁ、そういうことだったか」
ここも花崎城跡には間違いないのですが、他の方の城ブログで見た遺構は、また違う場所にあるようです。
<東武線>
ところが、そこへまっすぐ移動することはできません。かつての花崎城は、線路で分断されています。近くに歩道橋もないので、もう一度駅方面に戻ることになりました。
ちなみに、この画像だと右手(北側)がいまの「花崎城跡公園」、左手(南側)が遺構が残されている「花崎城山公園」になります。
<花崎城山公園>
周辺は住宅地ですが、何となく緑豊かな湿地を思わせるいい雰囲気です。
<公園内>
微高地と湿地帯。今でこそ水は僅かですが、高低差からして、沼或いは湿地帯を利用した城だったのでしょう。
<堀のなごり>
発掘調査では「障子掘」も確認されたようですが、現在は見ることができません。残念です。
<調査の時の写真>
城全体が湿地帯に浮かぶ島のような場所だったのかもしれません。
■花崎という地名■
ハナサキは、湿地帯に台地が突き出ている地形に由来しており、もともとの漢字は「端崎」とのこと。そうだとすると、名前からして城を構えるのには好都合な場所ですね。
また、ネットで昔の低湿地が分かる地図が公表されていますが、それで調べてみると、端崎(花崎)は西以外の三方が川、そして湿地だと分かります。南側には「船越」「小浜」「常泉(つねずみ)」といった水と関連した地名があります。なんだか地名だけで地形の高低差が分るような気がしますね。
ここまで調べてしまうと、端崎の方がこの地の特徴を表す立派な名に思えてなりません。ただまぁ、それは地形を気にする城跡マニアだから思うことなのでしょう。
<花崎>
この名で通っているのだから、よそ者がぐたぐたいう事ではないですね。
花崎、綺麗な響きです。
そして元々の意味が分ると、城のあった場所の地形が愛おしく思えます。
[埼玉県加須市花崎]
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2017年04月09日
粟原城のなごり 城跡にしてアニメファンの聖地 鷲宮神社
今回の訪問は埼玉県久喜市の鷲宮神社です。かつてあったとされる粟原城のなごりを求めて訪問しましたが、遺構などはなく、現地の雰囲気だけ味わってきました。
<鷲宮神社>わしのみやじんじゃ
雨の中、城跡と推定されているこの神社の西側を古地図を頼りに探索してきました。が、収穫はありません。城跡マニアの方々のブログで、遺構が無いことは分かってましたので、まぁOKです。雨の神社も悪くない。しかも、ここは立派な神社ですから。
(補足)
城郭跡と思われるエリアは、微高地ということは確認できます。他にも痕跡があるかもしれませんので、自信のある方はチャレンジしてみて下さい。少なくとも私のような初級レベルでは、何もなしと言わざるを得ません。
■粟原城■
粟原城はここ鷲宮神社の神主家である大内氏の城(館?)で、小田原北条氏に味方する立場から、越後の上杉謙信に与する羽生城の木戸氏によって焼き落とされたと伝えられています。小田原の勢力と越後の勢力の余波が関東のあちらこちらでぶつかり合う構図。当時としては良く理解できますね。あの羽生市とここ久喜市、、、なるほどです(すみません。私を含む埼玉県民だけが位置的に実感するのかも知れません。羽生の方が北にあり、久喜からそんなに遠くはないので、勢力がぶつかり合う激戦区を想像してしまいます)。勢力としては、北条氏の傘下となっていた岩槻太田氏に組み込まれていたようです。やがて秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、粟原城は城としての役割を終えたようです。
■鷲宮神社■
鷲宮神社の主祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)の3柱。社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とのこと。栃木県にも鷲宮神社があることから、「武蔵国鷲宮神社」とも呼ぶようです。
いろいろ調べましたが、裏手に城郭が存在したことは確かなようですね。
また、どうやらここはアニメファンの聖地?とのことですが・・・そうなんでしょうか。ネットで調べる限り、少なくともそういう時期があったようですね。ヒットした「らき☆すた」というアニメの登場人物が住む神社ということです。あまりにも無知なので、このヘンでやめておきますね。ただアニメの世界には疎いですが、こんな城跡ブログをやっているくらいですから、何かに極端に特化してしまうタイプの人は基本的に好きです。
■境内の様子■
<遺跡>
古から人の営みと関わり深い場所。そして名のある神社。砦が隣接して築かれても何ら不思議ではないですね。
<光天乃池>
龍神さまがお住まいだそうです
案内板
『古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。しかし、永い年月の間に風雨等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。境内整備事業の一環として、平成11年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。その時に「天まで光輝くような池」というご神託を受け、池の名を光天之池(みひかりのいけ)と名付けました。』
鷲宮神社はパワースポットと呼ばれていますが、この光天乃池の話もそれと無縁ではないのかもしれませんね。城跡巡りがほぼ神社巡りとなってしまいましたが、何やら気持ちが引き締まり、有意義な訪問でした。
■訪問:鷲宮神社
[埼玉県久喜市鷲宮]
東武伊勢崎線の鷲宮駅から徒歩10分弱
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<鷲宮神社>わしのみやじんじゃ
雨の中、城跡と推定されているこの神社の西側を古地図を頼りに探索してきました。が、収穫はありません。城跡マニアの方々のブログで、遺構が無いことは分かってましたので、まぁOKです。雨の神社も悪くない。しかも、ここは立派な神社ですから。
(補足)
城郭跡と思われるエリアは、微高地ということは確認できます。他にも痕跡があるかもしれませんので、自信のある方はチャレンジしてみて下さい。少なくとも私のような初級レベルでは、何もなしと言わざるを得ません。
■粟原城■
粟原城はここ鷲宮神社の神主家である大内氏の城(館?)で、小田原北条氏に味方する立場から、越後の上杉謙信に与する羽生城の木戸氏によって焼き落とされたと伝えられています。小田原の勢力と越後の勢力の余波が関東のあちらこちらでぶつかり合う構図。当時としては良く理解できますね。あの羽生市とここ久喜市、、、なるほどです(すみません。私を含む埼玉県民だけが位置的に実感するのかも知れません。羽生の方が北にあり、久喜からそんなに遠くはないので、勢力がぶつかり合う激戦区を想像してしまいます)。勢力としては、北条氏の傘下となっていた岩槻太田氏に組み込まれていたようです。やがて秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、粟原城は城としての役割を終えたようです。
■鷲宮神社■
鷲宮神社の主祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)の3柱。社伝によれば、出雲族の草創に係わる関東最古の大社とのこと。栃木県にも鷲宮神社があることから、「武蔵国鷲宮神社」とも呼ぶようです。
いろいろ調べましたが、裏手に城郭が存在したことは確かなようですね。
また、どうやらここはアニメファンの聖地?とのことですが・・・そうなんでしょうか。ネットで調べる限り、少なくともそういう時期があったようですね。ヒットした「らき☆すた」というアニメの登場人物が住む神社ということです。あまりにも無知なので、このヘンでやめておきますね。ただアニメの世界には疎いですが、こんな城跡ブログをやっているくらいですから、何かに極端に特化してしまうタイプの人は基本的に好きです。
■境内の様子■
<遺跡>
古から人の営みと関わり深い場所。そして名のある神社。砦が隣接して築かれても何ら不思議ではないですね。
<光天乃池>
龍神さまがお住まいだそうです
案内板
『古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。しかし、永い年月の間に風雨等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。境内整備事業の一環として、平成11年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。その時に「天まで光輝くような池」というご神託を受け、池の名を光天之池(みひかりのいけ)と名付けました。』
鷲宮神社はパワースポットと呼ばれていますが、この光天乃池の話もそれと無縁ではないのかもしれませんね。城跡巡りがほぼ神社巡りとなってしまいましたが、何やら気持ちが引き締まり、有意義な訪問でした。
■訪問:鷲宮神社
[埼玉県久喜市鷲宮]
東武伊勢崎線の鷲宮駅から徒歩10分弱
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タグ:パワースポット
2017年04月03日
桜咲く道灌ゆかりの名城 岩槻城
つわものどもが夢の跡
桜の時期にあわせて埼玉県の岩槻城を訪問しました。
<桜咲く岩槻城跡>
扇谷上杉氏の命を受けて太田道灌が父とともに築城した城。現在は公園として整備されています。桜が見頃となり、本日は家族連れで賑わっていました。
<太田道灌銅像>
駅からここまで来る途中、旧岩槻区役所の敷地で撮影しました。さすが道灌ゆかりの地。城に到着する前から気分が盛り上がります。
■緊張にさらされ続けた城■
太田道灌がこの世を去ったのちも、岩槻城はその流れを汲む岩槻太田氏の城でした。古河公方と扇谷上杉氏の対立から生まれた城は、やがて小田原の北条氏と越後の上杉が争う関東の重要拠点となり、戦国時代を通していつも緊張にさらされた城でした。
徳川家康が関東に入ってからは、高力清長が二万石で入封。その後も岩槻の地は江戸を守る要衝と位置づけられ、その城主は幕府の重要ポスト(三河譜代の重臣の居城)でした。廃城は明治になってからです。
<公園入口付近>
<土塁>
土塁というより、こちら側が堀の底ということになります。現在の公園の広場は、昔の本丸の南に位置する沼でした。
<桜と土塁>
遺構はあまりないという評判も耳にしますが、そんなことはありません。確かに本丸付近は宅地化されてしまいましたが、南側に位置する曲輪(くるわ)に城のなごりが漂います。
<八ツ橋と沼>
かつての大きな沼(水堀)は、廃城後に埋められて姿を消しました。残されたこの沼が、かつてのなごりを今に留めています。
<花見客が沢山>
岩槻城址公園の桜は約600本。埼玉県内有数の花見の名所です。夜はライトアップされるようですが、私は夕方で退散してしまいました。
■湿地の平城■
岩槻城は元荒川に近く、半島のように突き出した台地の上に本丸・二の丸・三の丸といった曲輪を配置しています。本丸等の主郭部分を取り囲む沼を挟んだ北と南にも曲輪を配置。念入りな縄張りとなっています。水城と称されることもあることから、低地に広がる沼(水堀?)に浮かぶ要塞のような感じだったのでしょう。
<堀の中を歩く>
結構深い堀です
もともとはもっと深かったのでしょう
堀底の道。いい感じです。
■北条氏の足跡■
<堀障子>
堀の底に堀障子(現地説明あり)。いわゆる障子堀ですが、調査後埋め戻したとのこと。障子堀=北条という訳ではないですが、きっと岩槻城が北条氏配下の時に設けられたものでしょう。
戦国末期の秀吉による小田原征伐の時(1590年)、この城の城主は北条氏房(うじふさ)でした。北条氏政の子で五代目当主の氏直の弟です。既に太田氏の家督を継いでいたのですから、まぁ太田氏房ですね。この氏房の時に、岩槻城は大幅に拡張・改修されました。秀吉率いる天下軍に備えるためですね。実際に戦が始まると、氏房は城を家臣に任せ、自らは小田原の籠城戦に参加しました。敗戦後は当主である兄と共に高野山へ送られています(二年後に病没)。
氏房に代わってここ岩槻城の指揮をとったのは伊達房実。いわゆる伊達政宗と祖を同じくし、枝分れして武蔵国に根をはった伊達氏です(諸説あり)。岩槻太田氏に仕える房実は、約2千の兵で天下軍2万を迎え撃ちましたが、千人もの犠牲者を出す壮絶な戦いの末に落城となりました。
最後に
<鍛冶曲輪>
本丸・二の丸・三の丸とは別に、出丸のような役割を担った曲輪です。諸説ありますが、秀吉軍の攻撃に備えて整備された曲輪とも言われています。こちらにも見事な桜と花見客の姿が。そして、立派な石碑を見つけました。
<白鶴城址碑>
岩槻城は白鶴城とも呼ばれているのですね。初めて聞きました。沼地に守られた城ですから、湿地に佇む白い鶴に例えられたのでしょうか?現地ではそんな気がしました。後で調べたら、鶴が水面に落とした木の枝に舞い降りる様子を見て、道灌は竹をたばねて沼を埋める方法を思いついたという話に由来するそうです。
久しぶりの訪問。天気と桜に恵まれた城跡巡りとなりました。
-----------■岩槻城■-----------
別 名:岩付城 白鶴城
築城者:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
城 主:太田氏、北条氏、高力氏ほか
廃 城:1871年(明治4年)
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]
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桜の時期にあわせて埼玉県の岩槻城を訪問しました。
<桜咲く岩槻城跡>
扇谷上杉氏の命を受けて太田道灌が父とともに築城した城。現在は公園として整備されています。桜が見頃となり、本日は家族連れで賑わっていました。
<太田道灌銅像>
駅からここまで来る途中、旧岩槻区役所の敷地で撮影しました。さすが道灌ゆかりの地。城に到着する前から気分が盛り上がります。
■緊張にさらされ続けた城■
太田道灌がこの世を去ったのちも、岩槻城はその流れを汲む岩槻太田氏の城でした。古河公方と扇谷上杉氏の対立から生まれた城は、やがて小田原の北条氏と越後の上杉が争う関東の重要拠点となり、戦国時代を通していつも緊張にさらされた城でした。
徳川家康が関東に入ってからは、高力清長が二万石で入封。その後も岩槻の地は江戸を守る要衝と位置づけられ、その城主は幕府の重要ポスト(三河譜代の重臣の居城)でした。廃城は明治になってからです。
<公園入口付近>
<土塁>
土塁というより、こちら側が堀の底ということになります。現在の公園の広場は、昔の本丸の南に位置する沼でした。
<桜と土塁>
遺構はあまりないという評判も耳にしますが、そんなことはありません。確かに本丸付近は宅地化されてしまいましたが、南側に位置する曲輪(くるわ)に城のなごりが漂います。
<八ツ橋と沼>
かつての大きな沼(水堀)は、廃城後に埋められて姿を消しました。残されたこの沼が、かつてのなごりを今に留めています。
<花見客が沢山>
岩槻城址公園の桜は約600本。埼玉県内有数の花見の名所です。夜はライトアップされるようですが、私は夕方で退散してしまいました。
■湿地の平城■
岩槻城は元荒川に近く、半島のように突き出した台地の上に本丸・二の丸・三の丸といった曲輪を配置しています。本丸等の主郭部分を取り囲む沼を挟んだ北と南にも曲輪を配置。念入りな縄張りとなっています。水城と称されることもあることから、低地に広がる沼(水堀?)に浮かぶ要塞のような感じだったのでしょう。
<堀の中を歩く>
結構深い堀です
もともとはもっと深かったのでしょう
堀底の道。いい感じです。
■北条氏の足跡■
<堀障子>
堀の底に堀障子(現地説明あり)。いわゆる障子堀ですが、調査後埋め戻したとのこと。障子堀=北条という訳ではないですが、きっと岩槻城が北条氏配下の時に設けられたものでしょう。
戦国末期の秀吉による小田原征伐の時(1590年)、この城の城主は北条氏房(うじふさ)でした。北条氏政の子で五代目当主の氏直の弟です。既に太田氏の家督を継いでいたのですから、まぁ太田氏房ですね。この氏房の時に、岩槻城は大幅に拡張・改修されました。秀吉率いる天下軍に備えるためですね。実際に戦が始まると、氏房は城を家臣に任せ、自らは小田原の籠城戦に参加しました。敗戦後は当主である兄と共に高野山へ送られています(二年後に病没)。
氏房に代わってここ岩槻城の指揮をとったのは伊達房実。いわゆる伊達政宗と祖を同じくし、枝分れして武蔵国に根をはった伊達氏です(諸説あり)。岩槻太田氏に仕える房実は、約2千の兵で天下軍2万を迎え撃ちましたが、千人もの犠牲者を出す壮絶な戦いの末に落城となりました。
最後に
<鍛冶曲輪>
本丸・二の丸・三の丸とは別に、出丸のような役割を担った曲輪です。諸説ありますが、秀吉軍の攻撃に備えて整備された曲輪とも言われています。こちらにも見事な桜と花見客の姿が。そして、立派な石碑を見つけました。
<白鶴城址碑>
岩槻城は白鶴城とも呼ばれているのですね。初めて聞きました。沼地に守られた城ですから、湿地に佇む白い鶴に例えられたのでしょうか?現地ではそんな気がしました。後で調べたら、鶴が水面に落とした木の枝に舞い降りる様子を見て、道灌は竹をたばねて沼を埋める方法を思いついたという話に由来するそうです。
久しぶりの訪問。天気と桜に恵まれた城跡巡りとなりました。
-----------■岩槻城■-----------
別 名:岩付城 白鶴城
築城者:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
城 主:太田氏、北条氏、高力氏ほか
廃 城:1871年(明治4年)
[埼玉県さいたま市岩槻区太田]
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