つわものどもが夢の跡
かつて埼玉にあった巨大な沼。その岸に築かれた城跡を訪ねました。
<寿能城跡>
城があったことの目印です。本丸の物見台跡と推定されています。
■岩槻城の支城■
寿能城は戦国時代の後期に「岩槻城の支城」として築城されました。築城者は潮田資忠(うしおだすけただ)。岩槻城主・太田資正(すけまさ)の子と伝わります。岩槻の太田氏、つまりあの太田道灌の流れをくむ太田氏ですね。潮田資忠は実家の太田氏同様、小田原北条氏の圧力に抵抗しつつも、最後は北条側の武将として戦にのぞんでいます。秀吉の北条征伐の際には小田原城で籠城。そのまま帰らぬ人となりました(この時に息子の資勝も討死)。城主不在の寿能城は、天下軍の別動隊を率いる浅野長政により攻め落とされます。浅野長政は秀吉からの信頼厚い五奉行の筆頭。寿能城の本城・岩槻城も、長政が率いる2万の軍勢に落とされています。
■訪問■
最寄駅は東武野田線の大宮公園。現在の大宮区の北東部に位置します。
<大宮公園駅>
私は大宮駅から現地へ向かいました。
<駅前>
コンパクトで清潔感のある駅です。
<交番と石碑>
目的地へ行く手前の交番。既に城跡に足に踏み入れたということですかね。それにしても写真が撮りにくい。失礼します。特に悪い事もしてません。城跡はこの交番の角を曲がり、まっすぐ。
<公園入口>
これが無ければ通り過ぎてしまうところでした。
<公園となった城跡>
ああ・・・ここか。ネットで事前に調べてあった光景です。公園は小さいですが、城そのものは東西で約9百m弱、南北約4百m強の広さだったそうです。
<資忠の墓碑>
物見台跡は潮田資忠の墓碑となっています。
<石碑>
読めない・・・
<説明板>
これなら読める。
寿能城や潮田資忠のことに加えて、巨大沼のことについても説明がなされています。 分りやすい。かつての城の「地の利」を知るうえで重要なポイント。それを伝えようという思いが嬉しいですね。
■地形の話■
地形ですが、城郭はかつて埼玉にあった巨大沼に面する台地上に位置しています。このブログにたびたび登場する鴻沼(こうぬま)・・・ではなく、もっともっと広範囲に及ぶ湖のような沼・見沼(みぬま)です。
この付近、古代においては東京湾とつながる入江でした(ちょっと遡り過ぎ?)。やがて海の水が退くと、低地のあちらこちらに沼や湿地が残されました。それらのなかでもっとも巨大なものが見沼です。
鴻沼も見沼も開発により姿を消しますが、それは江戸時代のお話。戦国時代、寿能城の目の前には、まだ手付かずの大きな沼が広がっていました。綺麗な円形の沼?ではなく、相当複雑な地形だったようです。
<説明板の図解>
赤の⇒は私が筆を入れました。長い年月を掛けて、人の手により沼の水は姿を消しました。
ではそれを肌で感じてみますかね。
<多少の高低差>
公園は周辺と比べれば多少の高低差があります。ただかつての城郭の地の利はこんなものではありません。
<見沼代用水西縁>みぬまだいようすいにしべり
城跡からもう少し坂を下ると、水路があります。見沼代用水西縁。江戸の公共事業のなごりです。そして、かつてここが沼だったことのなごりでもあります。
<水路付近の説明板>
城跡と水路の位置関係がわかります。そしてかつての城主の名を冠する「潮田橋」の文字。
<低地より>
更に下るとこんな感じです。もうかつての見沼に足くらいは漬かっている感じでしようか?または立ち泳ぎしている状態か。いずれにしても、沼から台地を見上げるとこんな感じです。
上の画像の左手には野球場があります。大和田公園です。その付近には寿能城の出丸があったとされていますが、何分にも広い・・・。本丸はやや高台となっていますが、出丸も含めて考えると、見沼の浮城のような感じだったのかもしれませんね。寿能城のもともとの意味は「洲の城」とも言われています。
<水路沿いの散歩道>
出丸跡推定地とは逆方向に向かって探索。城跡好きですが、水路好きでもあるので・・・。本人は、かつての沼のヘリを歩いているつもり。つまり、見沼を肌で感じているつもりです。
<住人>
こういう場所って、猫と会うことが多いような気がします。すぐ立ち去りますから、そんな睨まないでくださいな。
■つわものどもが夢の跡■
城主不在の状態で天下軍に落とされた寿能城。家来たち、そしてその家族も、沼に身を投げたと伝わります。壮絶な最後。しかし城はおろか、沼の姿もありません。
ただ、比較的根拠のある資料、地形、そしてこの地の歴史を今に伝えようとする人の思い。それらがじんわりと伝わってくる城跡でした。明確な遺構はありません。でも満足な城巡りとなりました。
-------■寿能城■-------
築 城:1560年頃
築城者:潮田資忠
城 主:潮田資忠
廃 城:1590年
現 状:寿能公園
[さいたま市大宮区寿能町]2丁目
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2018年01月17日
2018年01月10日
落合陣屋 旧与野市下落合散歩
つわものどもが夢の跡
今回は埼京線与野本町駅の東側に位置する陣屋跡です。南与野の「遺構がなさそうな」3館と同様に、とりあえず行くことをモットーに足を運びました。その3館(今宮館・真土館・矢垂館)の住所は鈴谷。かつてあった巨大沼「鴻沼」の西側です。そして旧浦和市の丘城・真鳥城も西側でしたが、ここは東側の台地になります。
■地形を楽しむ■
<東光寺>
[さいたま市中央区下落合]
旧与野市下落合のお寺です。ここを含めた一帯が陣屋跡と推定されています。境内はお墓で一杯、ちょっと撮影しにくいのでここまで。外を探索しますかね・・・
<六地蔵>
どうもおじゃましました。周辺の道をあちこち徘徊させて頂きます。
冒頭にも触れましたが、ここはかつての沼地の東側の台地。そして、城跡推定地も独特の地形をしています。
<東光寺の裏手>
お寺の裏(北)側から撮影。堀切の跡?ちょっと無理か・・・。ただ舗装されていますが、手付かずのままなら結構な傾斜、そして高低差ではないでしょうか。城の北側に堀があったそうですが、ちょっと確認できず。明らかな遺構とは出会えませんでしたが、「地の利」には多少説得力はありました。
<西側の道>上の画像と同じ場所
この程度とはいえ肌で感じる。何となく来た甲斐があります。
■陣屋の跡■
鎌倉幕府の御家人・安達盛長(あだちもりなが)の陣屋跡という説があります。源頼朝の側近であり、有力御家人の安達氏の祖。だとすれば、歴史的に凄いですね。盛長は頼朝を助けて、関東武士を取りまとめる役割を担いました。あっちこっちと飛び回っていたでしょうから、屋敷がこの辺にあっても不思議ではありません(ね?)。
ただ、詳細は不明。蕨城(埼玉県蕨市)を拠点とする渋川氏と関連するとも伝わります。いずれにせよ、ここにかつて武士の拠点があったという情報、そして現地で確認した地形。それだけでまぁまぁ良い訪問となりました。
遺構がなさそうな陣屋跡。本当にありませんでしたが、何となく満足です。
また今回もこんな結論ですみません。もっと行きたい城跡もあるのですが、時間も予算も余裕なく、地元埼玉で頑張っています。最後までお読み頂きありがとうございます。
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今回は埼京線与野本町駅の東側に位置する陣屋跡です。南与野の「遺構がなさそうな」3館と同様に、とりあえず行くことをモットーに足を運びました。その3館(今宮館・真土館・矢垂館)の住所は鈴谷。かつてあった巨大沼「鴻沼」の西側です。そして旧浦和市の丘城・真鳥城も西側でしたが、ここは東側の台地になります。
■地形を楽しむ■
<東光寺>
[さいたま市中央区下落合]
旧与野市下落合のお寺です。ここを含めた一帯が陣屋跡と推定されています。境内はお墓で一杯、ちょっと撮影しにくいのでここまで。外を探索しますかね・・・
<六地蔵>
どうもおじゃましました。周辺の道をあちこち徘徊させて頂きます。
冒頭にも触れましたが、ここはかつての沼地の東側の台地。そして、城跡推定地も独特の地形をしています。
<東光寺の裏手>
お寺の裏(北)側から撮影。堀切の跡?ちょっと無理か・・・。ただ舗装されていますが、手付かずのままなら結構な傾斜、そして高低差ではないでしょうか。城の北側に堀があったそうですが、ちょっと確認できず。明らかな遺構とは出会えませんでしたが、「地の利」には多少説得力はありました。
<西側の道>上の画像と同じ場所
この程度とはいえ肌で感じる。何となく来た甲斐があります。
■陣屋の跡■
鎌倉幕府の御家人・安達盛長(あだちもりなが)の陣屋跡という説があります。源頼朝の側近であり、有力御家人の安達氏の祖。だとすれば、歴史的に凄いですね。盛長は頼朝を助けて、関東武士を取りまとめる役割を担いました。あっちこっちと飛び回っていたでしょうから、屋敷がこの辺にあっても不思議ではありません(ね?)。
ただ、詳細は不明。蕨城(埼玉県蕨市)を拠点とする渋川氏と関連するとも伝わります。いずれにせよ、ここにかつて武士の拠点があったという情報、そして現地で確認した地形。それだけでまぁまぁ良い訪問となりました。
遺構がなさそうな陣屋跡。本当にありませんでしたが、何となく満足です。
また今回もこんな結論ですみません。もっと行きたい城跡もあるのですが、時間も予算も余裕なく、地元埼玉で頑張っています。最後までお読み頂きありがとうございます。
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2018年01月09日
矢垂館跡 旧与野市鈴谷散歩
つわものどもが夢の跡
埼京線南与野駅をスタートした「遺構がなさそうな」館跡めぐり。今宮館跡の次は矢垂館跡推定地を訪問しました。以前別な場所の訪問記で指摘を受けてしまったので事前に申し上げますと、探しただけで確証を得た訳ではありません。とりあえず行ってみる。似たようなことをしている人が共感してくれれば幸いです。
■地名・矢垂■
鈴谷(すずや)は耳にしたことがありますが、矢垂とは?恥ずかしながら、まず読めません・・・
<鈴谷天神社>
[中央区鈴谷2-12-1]
与野西中学校脇に鎮座する鈴谷天神社です。この神社の境内(入って右手)に矢垂稲荷という神社がありました。
<矢垂稲荷神社の鳥居>
<鈴谷天神社と矢垂稲荷神社>
手前が矢垂稲荷神社です
鈴谷に名を残す矢垂・・・これは「やたれ」あるいは「やだれ」と読むそうです。現在「鈴谷」と呼ばれるエリア、かつては小字名として矢垂の名があったようです。与野市大字鈴谷字矢垂ということですね。
■矢垂の館■
その「矢垂」にあった館。どこですかね?
<さいたま市保健所>
この保健所の周辺で堀が検出されました。この付近、東側の低地(鴻沼川付近)より高台になっています。保健所のある区画は更に高い場所。どこかに館が築かれていても不思議ではない所ですね。
<裏側の道>
右手の区画には保健所や公民館などの施設があります。左は大きなマンション。遺構と無関係ですが、立派な庭で羨ましいマンション。それは良いとして、とにかく道も真っ平らなので、特に館跡といった雰囲気はありません。
<小さな神社>
丘を北側へ進むと、小さいですがいい雰囲気のいい神社が。ただ特に館と関連づける情報もないので・・・
丘になっている周辺を更に探索(徘徊に近い)しましたが、劇的な何かに出会うこともありませんでした。矢垂館とは別に、この丘には真土(まつち)館跡があったとされています。こちらからは「断面が薬研形をした堀」が確認されたとのこと。どこでしょうね。城ブログご先達の皆さんが紹介している路地に到達したものの、あまりに普通の道であることから断念。発掘調査の時のパネルかなにか展示して頂けると、結構実感が湧くと思うんですがね。
ここ鈴谷には、かつて今宮館、真土館、そして矢垂館の3つの館が在った。それは事実のようです。このうち前回投稿の今宮館については、岩槻城主・太田氏房の家臣の館ではないかという説があります。もしかしたら、ここ矢垂館もその関係なのかも知れませんね。
冒頭にも申し上げましたが、確証を得た訳ではありません。そう推定されている場所へ、城跡好きの会社員が休みを利用してとりあえず行ってみた。そんな感じで受け止めて下さい。
<南与野駅西口>
今回は鈴谷の3館を目指し、西口を出て北へ向かいました。実は南へ数百m行けば、以前訪問した真鳥城跡があります。
<真鳥城址石碑>
あの時は真夏の訪問でした。宜しければ訪問記を覗いてみて下さい。→『記事へ進む』
ということで、今回も最後までお読み頂きありがとうございます。
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埼京線南与野駅をスタートした「遺構がなさそうな」館跡めぐり。今宮館跡の次は矢垂館跡推定地を訪問しました。以前別な場所の訪問記で指摘を受けてしまったので事前に申し上げますと、探しただけで確証を得た訳ではありません。とりあえず行ってみる。似たようなことをしている人が共感してくれれば幸いです。
■地名・矢垂■
鈴谷(すずや)は耳にしたことがありますが、矢垂とは?恥ずかしながら、まず読めません・・・
<鈴谷天神社>
[中央区鈴谷2-12-1]
与野西中学校脇に鎮座する鈴谷天神社です。この神社の境内(入って右手)に矢垂稲荷という神社がありました。
<矢垂稲荷神社の鳥居>
<鈴谷天神社と矢垂稲荷神社>
手前が矢垂稲荷神社です
鈴谷に名を残す矢垂・・・これは「やたれ」あるいは「やだれ」と読むそうです。現在「鈴谷」と呼ばれるエリア、かつては小字名として矢垂の名があったようです。与野市大字鈴谷字矢垂ということですね。
■矢垂の館■
その「矢垂」にあった館。どこですかね?
<さいたま市保健所>
この保健所の周辺で堀が検出されました。この付近、東側の低地(鴻沼川付近)より高台になっています。保健所のある区画は更に高い場所。どこかに館が築かれていても不思議ではない所ですね。
<裏側の道>
右手の区画には保健所や公民館などの施設があります。左は大きなマンション。遺構と無関係ですが、立派な庭で羨ましいマンション。それは良いとして、とにかく道も真っ平らなので、特に館跡といった雰囲気はありません。
<小さな神社>
丘を北側へ進むと、小さいですがいい雰囲気のいい神社が。ただ特に館と関連づける情報もないので・・・
丘になっている周辺を更に探索(徘徊に近い)しましたが、劇的な何かに出会うこともありませんでした。矢垂館とは別に、この丘には真土(まつち)館跡があったとされています。こちらからは「断面が薬研形をした堀」が確認されたとのこと。どこでしょうね。城ブログご先達の皆さんが紹介している路地に到達したものの、あまりに普通の道であることから断念。発掘調査の時のパネルかなにか展示して頂けると、結構実感が湧くと思うんですがね。
ここ鈴谷には、かつて今宮館、真土館、そして矢垂館の3つの館が在った。それは事実のようです。このうち前回投稿の今宮館については、岩槻城主・太田氏房の家臣の館ではないかという説があります。もしかしたら、ここ矢垂館もその関係なのかも知れませんね。
冒頭にも申し上げましたが、確証を得た訳ではありません。そう推定されている場所へ、城跡好きの会社員が休みを利用してとりあえず行ってみた。そんな感じで受け止めて下さい。
<南与野駅西口>
今回は鈴谷の3館を目指し、西口を出て北へ向かいました。実は南へ数百m行けば、以前訪問した真鳥城跡があります。
<真鳥城址石碑>
あの時は真夏の訪問でした。宜しければ訪問記を覗いてみて下さい。→『記事へ進む』
ということで、今回も最後までお読み頂きありがとうございます。
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2018年01月08日
今宮館跡 南与野の鈴谷交差点
つわものどもが夢の跡
立派な城跡ではなくても、土塁跡や堀跡の痕跡が少しでもあれば充分。いつもそう思っています。
しかし、本当に何もない。石碑すらない。そういう場合もあります。今回の訪問は事前にそのことを分かっていました。しかし、もしかしたら何かあるかも知れない。地形だけでも納得できるかも知れない。そんな期待を込めての訪問です。成人式を含む三連休。寒いながら晴れの日。埼京線南与野駅で下車しました。
■鈴谷の交差点■
<今宮館跡>
[さいたま市中央区鈴谷]
Nothing・・・
<別角度>
Nothing・・・
はい。以上です。ここは城郭の中心部分と推定されているだけなので、一応周辺を歩きました。しかし劇的な高低差とか川跡も付近にはありません。予想通りでした。
ここは旧与野市。私は埼玉県民なので、中央区とか言われるより「与野」のほうがピンときます。その与野市史によれば、昭和の教育委員会による発掘調査で、本町通り南に二重堀を検出という実績があります。ただちょっとどこだか分からず・・・。付近には、たぶん昔から住んでいらっしゃると思われる敷地の広いお宅(私から見れば大邸宅)もちらほら・・・。私有地にあったりして?などと思いながら、諦めて北へ向かいました(ここから歩ける距離にさいたま市保健所があり、その周辺に2つの館跡があるため)。
→結論
分類すると平城。これだけ。詳細不明ながら、岩槻城を拠点とする勢力の傘下だったと思われます。
これで終り?
はい。ただ、どんなところに位置する館跡なのか・・・つまり地の利に関わることなんですが、ご興味を持って頂ける方は次もお付き合い願いますでしょうか。
■沼地に面した高台■
館跡推定地付近は平らな地形。しかし東へ向かって歩くと、行った先は低地となります。つまり、鈴谷の交差点は台地にあるということですね。実は南与野駅で下車した時点で、そのことを意識しながらここへ来ました。
(この日のスタート地点)
<南与野駅西口>
新幹線と高架を共有している埼京線ならではの光景。
<公園と高架の間>
西口駅前は公園等も含めて綺麗に整備されていますが、敢えてこんな場所を撮影。右側が東側、左が館跡のあった西側です。既に高低差が始まっているのが伝わりますでしょうか?西に向かって高くなっています。
<鴻沼のなごり>こうぬま
高架の下を通って東側へ進むとこの状態。「鴻沼川」です。今でこそ川ですが、ここはかつては沼。南北に細長い(4qにも及ぶ)巨大沼でした。
<鴻沼川>南方面
江戸時代の治水事業により沼は姿を消しました。しかし今宮館があった頃は沼地。沼に隣接した館という訳ではないようですが、沼に面した台地の端にあった。そんな感じでしょう。
ということで詳細不明の館、大きな意味での「地の利」でした。
最後までお読み頂きありがとうございます。
<南与野駅ホーム>おまけ
新幹線も通ります。止まりませんが。
お城巡りランキング
立派な城跡ではなくても、土塁跡や堀跡の痕跡が少しでもあれば充分。いつもそう思っています。
しかし、本当に何もない。石碑すらない。そういう場合もあります。今回の訪問は事前にそのことを分かっていました。しかし、もしかしたら何かあるかも知れない。地形だけでも納得できるかも知れない。そんな期待を込めての訪問です。成人式を含む三連休。寒いながら晴れの日。埼京線南与野駅で下車しました。
■鈴谷の交差点■
<今宮館跡>
[さいたま市中央区鈴谷]
Nothing・・・
<別角度>
Nothing・・・
はい。以上です。ここは城郭の中心部分と推定されているだけなので、一応周辺を歩きました。しかし劇的な高低差とか川跡も付近にはありません。予想通りでした。
ここは旧与野市。私は埼玉県民なので、中央区とか言われるより「与野」のほうがピンときます。その与野市史によれば、昭和の教育委員会による発掘調査で、本町通り南に二重堀を検出という実績があります。ただちょっとどこだか分からず・・・。付近には、たぶん昔から住んでいらっしゃると思われる敷地の広いお宅(私から見れば大邸宅)もちらほら・・・。私有地にあったりして?などと思いながら、諦めて北へ向かいました(ここから歩ける距離にさいたま市保健所があり、その周辺に2つの館跡があるため)。
→結論
分類すると平城。これだけ。詳細不明ながら、岩槻城を拠点とする勢力の傘下だったと思われます。
これで終り?
はい。ただ、どんなところに位置する館跡なのか・・・つまり地の利に関わることなんですが、ご興味を持って頂ける方は次もお付き合い願いますでしょうか。
■沼地に面した高台■
館跡推定地付近は平らな地形。しかし東へ向かって歩くと、行った先は低地となります。つまり、鈴谷の交差点は台地にあるということですね。実は南与野駅で下車した時点で、そのことを意識しながらここへ来ました。
(この日のスタート地点)
<南与野駅西口>
新幹線と高架を共有している埼京線ならではの光景。
<公園と高架の間>
西口駅前は公園等も含めて綺麗に整備されていますが、敢えてこんな場所を撮影。右側が東側、左が館跡のあった西側です。既に高低差が始まっているのが伝わりますでしょうか?西に向かって高くなっています。
<鴻沼のなごり>こうぬま
高架の下を通って東側へ進むとこの状態。「鴻沼川」です。今でこそ川ですが、ここはかつては沼。南北に細長い(4qにも及ぶ)巨大沼でした。
<鴻沼川>南方面
江戸時代の治水事業により沼は姿を消しました。しかし今宮館があった頃は沼地。沼に隣接した館という訳ではないようですが、沼に面した台地の端にあった。そんな感じでしょう。
ということで詳細不明の館、大きな意味での「地の利」でした。
最後までお読み頂きありがとうございます。
<南与野駅ホーム>おまけ
新幹線も通ります。止まりませんが。
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2017年07月24日
伊奈一族の城跡 赤山城 (川口市)
<赤山城址石碑>
関東郡代として関八州の幕領を管轄し、治水や新田開発で幕府を支えた伊奈氏。三代目の伊奈忠治が築いた城跡(屋敷跡)を訪問しました。場所は現在の埼玉県川口市。かつての本丸・二の丸付近が公園として整備され、本丸虎口付近には石碑が建てられているほか、土塁や堀跡が確認できます。
■城?陣屋?屋敷?■
城址と呼ばれたり陣屋跡・屋敷跡とも呼ばれています。個人的な感覚としては、時代まで考慮すると「屋敷」でいいような気もしますが、城郭に相応しい構造で、更に家臣団の屋敷スペースも含めるとかなりの広さだったようなので、とりあえずここは「城」で通します。
■訪問■
高台の雑木林がそのまま城跡となっています。駅から大きな道をひたすら歩いてきましたが、目印を見つけて狭い道へ。本当にこの先に城跡があるのかな?などと思っていたら、突然ひっそりと目の前に現れました。とても静かな場所です。
<日枝神社>
江戸城鎮護の日枝神社から分社された赤山城の守護(「日枝」というのは明治以降の号)。この盛り土は空堀を掘ったときの廃土によって築かれました。
<堀跡 >
普通に堀と思えば良いのでしょうが、ここが治水事業の功労者である伊奈氏の城跡だと思うと、妙に意味深く感じてしまいます。現状の堀はやや浅いですが、当時はもっと深かったのでしょう。まぁ周辺の低湿地を実質外堀として活かしていることを考えると、内堀はこの程度でも良いのかもしれませんが…。それにしても良く整備してもらっています。遺構の管理に感謝です。
■縄張り■
縄張りは本丸と二の丸を基本として、周囲に曲輪を配置したシンプルな構造となっています。平城(ひらじろ)に分類できますが、周辺の低地との高低差を利用した城で、当時の推定図の多くには、二の丸や北側の曲輪に堀の役割を果たす湿地帯が描かれています。現地で確認する限り、西にも南にも明らかな谷(かつての低湿地)があり、地形の険しさにしっかりと守られた場所という印象。やはり構造だと、屋敷より城の方がしっくりきますね。
<二の丸>
城跡が良く整備されていることには感謝しますが、実はこの「凝ってない」景色が一番気に入りました。曲輪の向うは斜面になっています。
<北側の谷(堀)>
現地では高低差が実感できます。この竹林は伊奈氏のお姫様と龍の伝説が伝わる場所(立入禁止)。
■伊奈氏拠点として約160年■
三代目忠治以降も、伊奈氏は新田開発や治水事業で業績を残し、更に飢饉の際の貧民の救済や百姓一揆鎮圧など、長年にわたって世のため人のためとなる役割を担いました。ただ12代目の時に諸々の不祥事で関東郡代を罷免され、所領は没収となります(私は伊奈氏側にすべての原因があるとは思っていませんが、世間的には不祥事)。
@忠次⇒A忠政※⇒B忠治⇒C忠克⇒・・・⇒J忠敬K忠尊(改易)
※二代目は忠次の長男・忠治の兄
163年間伊奈氏の拠点だったここ赤山城も廃城。城の役割も終わりました。
つわものどもが夢の跡
帰り道、城跡の南側の低地でこんな光景を目にしました。かつては外敵の侵入を拒んだ低湿地が、いまでは広々としたグラウンド、そして緊急時には水を受け入れる場所として整備されています。金網状の通り道は水路です。伊奈忠治も感心するような現代の治水です。
■赤山城■
別 名:赤山陣屋
築城年:1629年(寛永6)
築城者:伊奈忠治(3代目)
屋敷主:伊奈氏3代〜12代
廃城年:1792年(寛政4)
最寄駅:新井宿駅(埼玉高速鉄道)
(徒歩20分程度)
[埼玉県川口市赤山]
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関東郡代として関八州の幕領を管轄し、治水や新田開発で幕府を支えた伊奈氏。三代目の伊奈忠治が築いた城跡(屋敷跡)を訪問しました。場所は現在の埼玉県川口市。かつての本丸・二の丸付近が公園として整備され、本丸虎口付近には石碑が建てられているほか、土塁や堀跡が確認できます。
■城?陣屋?屋敷?■
城址と呼ばれたり陣屋跡・屋敷跡とも呼ばれています。個人的な感覚としては、時代まで考慮すると「屋敷」でいいような気もしますが、城郭に相応しい構造で、更に家臣団の屋敷スペースも含めるとかなりの広さだったようなので、とりあえずここは「城」で通します。
■訪問■
高台の雑木林がそのまま城跡となっています。駅から大きな道をひたすら歩いてきましたが、目印を見つけて狭い道へ。本当にこの先に城跡があるのかな?などと思っていたら、突然ひっそりと目の前に現れました。とても静かな場所です。
<日枝神社>
江戸城鎮護の日枝神社から分社された赤山城の守護(「日枝」というのは明治以降の号)。この盛り土は空堀を掘ったときの廃土によって築かれました。
<堀跡 >
普通に堀と思えば良いのでしょうが、ここが治水事業の功労者である伊奈氏の城跡だと思うと、妙に意味深く感じてしまいます。現状の堀はやや浅いですが、当時はもっと深かったのでしょう。まぁ周辺の低湿地を実質外堀として活かしていることを考えると、内堀はこの程度でも良いのかもしれませんが…。それにしても良く整備してもらっています。遺構の管理に感謝です。
■縄張り■
縄張りは本丸と二の丸を基本として、周囲に曲輪を配置したシンプルな構造となっています。平城(ひらじろ)に分類できますが、周辺の低地との高低差を利用した城で、当時の推定図の多くには、二の丸や北側の曲輪に堀の役割を果たす湿地帯が描かれています。現地で確認する限り、西にも南にも明らかな谷(かつての低湿地)があり、地形の険しさにしっかりと守られた場所という印象。やはり構造だと、屋敷より城の方がしっくりきますね。
<二の丸>
城跡が良く整備されていることには感謝しますが、実はこの「凝ってない」景色が一番気に入りました。曲輪の向うは斜面になっています。
<北側の谷(堀)>
現地では高低差が実感できます。この竹林は伊奈氏のお姫様と龍の伝説が伝わる場所(立入禁止)。
■伊奈氏拠点として約160年■
三代目忠治以降も、伊奈氏は新田開発や治水事業で業績を残し、更に飢饉の際の貧民の救済や百姓一揆鎮圧など、長年にわたって世のため人のためとなる役割を担いました。ただ12代目の時に諸々の不祥事で関東郡代を罷免され、所領は没収となります(私は伊奈氏側にすべての原因があるとは思っていませんが、世間的には不祥事)。
@忠次⇒A忠政※⇒B忠治⇒C忠克⇒・・・⇒J忠敬K忠尊(改易)
※二代目は忠次の長男・忠治の兄
163年間伊奈氏の拠点だったここ赤山城も廃城。城の役割も終わりました。
つわものどもが夢の跡
帰り道、城跡の南側の低地でこんな光景を目にしました。かつては外敵の侵入を拒んだ低湿地が、いまでは広々としたグラウンド、そして緊急時には水を受け入れる場所として整備されています。金網状の通り道は水路です。伊奈忠治も感心するような現代の治水です。
■赤山城■
別 名:赤山陣屋
築城年:1629年(寛永6)
築城者:伊奈忠治(3代目)
屋敷主:伊奈氏3代〜12代
廃城年:1792年(寛政4)
最寄駅:新井宿駅(埼玉高速鉄道)
(徒歩20分程度)
[埼玉県川口市赤山]
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タグ:伊奈一族
2017年07月22日
伊奈一族の拠点(伊奈町)伊奈氏屋敷跡
<伊奈氏屋敷跡>
関東の治水で名を馳せた伊奈氏。その屋敷跡を訪ねました。場所は地名にその名が残る埼玉県伊奈町です。
■現地■
場所は原市沼川の北岸微高地。規模は東西約350m南北約750m。土塁や堀の跡を見ることができます。一般に伊奈氏屋敷跡と呼ばれていますが、屋敷というより、ちょっとした城郭です。個人的には、まぁ館跡というくらいの表現がしっくりきます(よって以下は館跡ということで)。
<空堀>
こういった遺構もいわば伊奈氏の思惑のなごり。ここは虎口(出入口)付近の堀跡です。
<案内板>
説明によれば、調査の結果「障子堀」※も確認されたようです。こういう調査の時に見物できたら、相当楽しいでしょうね。
※説明はこちら→「城用語 障子堀」
<曲がり道>
一見ただの道ですね。これは意識して見通しを悪くした道。昔の屋敷絵図と一致します。遺構とは言えませんが、これも館だったなごりです。
この道は判断が難しいですが、やはり昔の屋敷の図から推定して、空堀とか堀切りのような場所だったような気がします。確証はないのですが、私はそう思って楽しみました。
■伊奈氏の関東進出■
伊奈氏はもともと信州伊那の出。地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。字が若干違いますが発音重視で読み流してください。伊奈忠基(ただもと)の代に松平広忠に仕え、三河国の小島城(おじまじょう)の城主となりました。松平広忠はすなわち徳川家康の父です。その家康が関東へ入国したとき、忠基の孫にあたる忠次(ただつぐ)が旧領に加えて武蔵国小室(現在の埼玉県伊奈町小室)・鴻巣領を与えられました。今回訪問の館跡は、伊奈忠次が築いたものです。
■幕府の基盤を造った一族■
伊奈一族は、関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献しました。利根川と荒川の改修は、たくさんの成果の中でも最大級の事業と言えます。戦や政治の舞台ではないのでやや地味な存在ですが、幕府の下支えをした功労者ということですね。訪問した館跡は伊奈氏の足跡のほんの一部に過ぎません。関東には、伊奈氏が整備した水路や、名を関する神社などが数多く残されています。そして何より、かつては北から南下して江戸湾に注いでいた利根川が、東へ流れて太平洋へ注いでいます。
■波乱万丈伝■忠次 (1550―1610)
伊奈備前守忠次。「ちゅうじ」ではなく「ただつぐ」です。通称は熊蔵(これも信州の地名由来のようです)。この方、関東へ移るまでは山あり谷ありの道のりでした。
三河国においては、父とともに一向一揆に加担して国を追われています。もっと分かり安く言うと、反家康に加担し、立場がなくなって出奔しています。のちに「長篠の戦い」へ自主的に参加して活躍。これが認められ、父とともに徳川家康の長男である信康の家臣となりました。ところが、諸々の言い掛かりで信康が切腹させられると、再び徳川家から出奔。ここはかなり複雑な事情がありそうなのですが、いろんな説があり、こんな拙ブログではなんとも説明ができず…。そもそも、徳川信康や母である築山殿に関することは諸説が多すぎで、私個人も整理できていません。まぁ今回は伊奈氏の話ですので、とにかく出て行かざるを得ない状況となり、また流浪の生活となりました。
普通ならもうチャンスは無さそうですが、本能寺の変の直後、家康が自国へ向かって決死の脱出をはかったいわゆる「伊賀越え」で、また貢献(家康のそばにいたということでしょうか?疑問多すぎす…)。この功により、また帰参が許されました。
服部半蔵もそうですが、この家康最大の危機で貢献できたことは大きいですよね。そののち、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、大軍をサポートする兵粮運搬や街道整備などを担い、更に信用を得ました。
■開花する伊奈氏■忠治 (1592―1653)
忠次の息子、伊奈忠治。「ちゅうじ」ではなく「ただはる」です。通称は半十郎。伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。次男でしたが、忠次の後を引き継いだ兄が34歳で亡くなってしまい、事業は忠治が引き継ぎました※。この時すでに本家から独立していたので、忠治の活動拠点は今回訪問の館ではなく、足立郡赤山(現在の埼玉県川口市)になります(赤山城址★として整備されています)。伊奈一族の大仕事として有名な利根川の事業は、忠治の力によるところが大きいと考えられています。
※忠治の兄・忠政は病弱とかではなく、例えば大坂冬の陣では外堀を埋め立てる時の普請奉行を務めたり、更に夏の陣では戦そのものにも参加し、伊奈家二代目として充分に活躍していました。忠政亡きあと、関東代官の役割は弟の忠治が引き継ぎ、伊奈家本家の家督(今回訪問の屋敷含む)は、まだ幼い兄の子が継ぐことになりました。
★訪問記はこちら→「伊奈一族の城跡」
<微高地の森>伊奈氏屋敷跡
緑で覆われた部分が館跡。周辺よりは微高地になっています。7月の炎天下、駅から日陰もなく、やや厳しい訪問となりました。
■つわものどもが夢の跡■
当ブログでは城跡や館跡を指して「つわものどもが夢の跡」と呼んでいますが、伊奈一族の場合、拠点とした場所より、関与した水路などを指す方が相応しいかもしれませんね。それらの多くは、今でも現役で頑張っています。
[例] 備前堀川
埼玉県久喜市付近の堀川。名前は備前守(びぜんのかみ=伊奈氏)が開削したことに由来します。この画像は稲穂が頭を垂れ始める頃に撮影したもの。実りの秋に、水路まで黄金に輝いているように映ります。
-----■伊奈氏屋敷■-----
別 名:伊奈陣屋・伊奈城
築城年:1590年(天正18)
築城者:伊奈忠次(初代)
屋敷主:伊奈忠次・忠政
廃城年:(不明)
最寄駅:丸山駅(ニューシャトル)
[埼玉県伊奈町大字小室]字丸山
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関東の治水で名を馳せた伊奈氏。その屋敷跡を訪ねました。場所は地名にその名が残る埼玉県伊奈町です。
■現地■
場所は原市沼川の北岸微高地。規模は東西約350m南北約750m。土塁や堀の跡を見ることができます。一般に伊奈氏屋敷跡と呼ばれていますが、屋敷というより、ちょっとした城郭です。個人的には、まぁ館跡というくらいの表現がしっくりきます(よって以下は館跡ということで)。
<空堀>
こういった遺構もいわば伊奈氏の思惑のなごり。ここは虎口(出入口)付近の堀跡です。
<案内板>
説明によれば、調査の結果「障子堀」※も確認されたようです。こういう調査の時に見物できたら、相当楽しいでしょうね。
※説明はこちら→「城用語 障子堀」
<曲がり道>
一見ただの道ですね。これは意識して見通しを悪くした道。昔の屋敷絵図と一致します。遺構とは言えませんが、これも館だったなごりです。
この道は判断が難しいですが、やはり昔の屋敷の図から推定して、空堀とか堀切りのような場所だったような気がします。確証はないのですが、私はそう思って楽しみました。
■伊奈氏の関東進出■
伊奈氏はもともと信州伊那の出。地名から「伊奈」を名乗ったといわれています。字が若干違いますが発音重視で読み流してください。伊奈忠基(ただもと)の代に松平広忠に仕え、三河国の小島城(おじまじょう)の城主となりました。松平広忠はすなわち徳川家康の父です。その家康が関東へ入国したとき、忠基の孫にあたる忠次(ただつぐ)が旧領に加えて武蔵国小室(現在の埼玉県伊奈町小室)・鴻巣領を与えられました。今回訪問の館跡は、伊奈忠次が築いたものです。
■幕府の基盤を造った一族■
伊奈一族は、関八州の天領の治水や新田開発、検地で功績を上げ、徳川家の関東支配の基盤整備に大きく貢献しました。利根川と荒川の改修は、たくさんの成果の中でも最大級の事業と言えます。戦や政治の舞台ではないのでやや地味な存在ですが、幕府の下支えをした功労者ということですね。訪問した館跡は伊奈氏の足跡のほんの一部に過ぎません。関東には、伊奈氏が整備した水路や、名を関する神社などが数多く残されています。そして何より、かつては北から南下して江戸湾に注いでいた利根川が、東へ流れて太平洋へ注いでいます。
■波乱万丈伝■忠次 (1550―1610)
伊奈備前守忠次。「ちゅうじ」ではなく「ただつぐ」です。通称は熊蔵(これも信州の地名由来のようです)。この方、関東へ移るまでは山あり谷ありの道のりでした。
三河国においては、父とともに一向一揆に加担して国を追われています。もっと分かり安く言うと、反家康に加担し、立場がなくなって出奔しています。のちに「長篠の戦い」へ自主的に参加して活躍。これが認められ、父とともに徳川家康の長男である信康の家臣となりました。ところが、諸々の言い掛かりで信康が切腹させられると、再び徳川家から出奔。ここはかなり複雑な事情がありそうなのですが、いろんな説があり、こんな拙ブログではなんとも説明ができず…。そもそも、徳川信康や母である築山殿に関することは諸説が多すぎで、私個人も整理できていません。まぁ今回は伊奈氏の話ですので、とにかく出て行かざるを得ない状況となり、また流浪の生活となりました。
普通ならもうチャンスは無さそうですが、本能寺の変の直後、家康が自国へ向かって決死の脱出をはかったいわゆる「伊賀越え」で、また貢献(家康のそばにいたということでしょうか?疑問多すぎす…)。この功により、また帰参が許されました。
服部半蔵もそうですが、この家康最大の危機で貢献できたことは大きいですよね。そののち、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、大軍をサポートする兵粮運搬や街道整備などを担い、更に信用を得ました。
■開花する伊奈氏■忠治 (1592―1653)
忠次の息子、伊奈忠治。「ちゅうじ」ではなく「ただはる」です。通称は半十郎。伊奈氏の地位を不動にしたのは忠治とまで言われています。次男でしたが、忠次の後を引き継いだ兄が34歳で亡くなってしまい、事業は忠治が引き継ぎました※。この時すでに本家から独立していたので、忠治の活動拠点は今回訪問の館ではなく、足立郡赤山(現在の埼玉県川口市)になります(赤山城址★として整備されています)。伊奈一族の大仕事として有名な利根川の事業は、忠治の力によるところが大きいと考えられています。
※忠治の兄・忠政は病弱とかではなく、例えば大坂冬の陣では外堀を埋め立てる時の普請奉行を務めたり、更に夏の陣では戦そのものにも参加し、伊奈家二代目として充分に活躍していました。忠政亡きあと、関東代官の役割は弟の忠治が引き継ぎ、伊奈家本家の家督(今回訪問の屋敷含む)は、まだ幼い兄の子が継ぐことになりました。
★訪問記はこちら→「伊奈一族の城跡」
<微高地の森>伊奈氏屋敷跡
緑で覆われた部分が館跡。周辺よりは微高地になっています。7月の炎天下、駅から日陰もなく、やや厳しい訪問となりました。
■つわものどもが夢の跡■
当ブログでは城跡や館跡を指して「つわものどもが夢の跡」と呼んでいますが、伊奈一族の場合、拠点とした場所より、関与した水路などを指す方が相応しいかもしれませんね。それらの多くは、今でも現役で頑張っています。
[例] 備前堀川
埼玉県久喜市付近の堀川。名前は備前守(びぜんのかみ=伊奈氏)が開削したことに由来します。この画像は稲穂が頭を垂れ始める頃に撮影したもの。実りの秋に、水路まで黄金に輝いているように映ります。
-----■伊奈氏屋敷■-----
別 名:伊奈陣屋・伊奈城
築城年:1590年(天正18)
築城者:伊奈忠次(初代)
屋敷主:伊奈忠次・忠政
廃城年:(不明)
最寄駅:丸山駅(ニューシャトル)
[埼玉県伊奈町大字小室]字丸山
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タグ:伊奈一族
2017年07月17日
ひなたの丘城 真鳥城 (浦和)
坂東武士の鑑と称された鎌倉時代の武将・畠山重忠(はたけやましげただ)。埼京線沿線に、その家臣の城跡と伝わる場所があると聞き、炎天下のなか訪問しました。
■真鳥城■ (まとりじょう)
畠山重忠がこの付近を領した頃、家臣の真鳥日向守(まとりひゅうがのかみ)が統治のための拠点としたようです。城跡は南北に長い丘の上にあります。
<石碑>
[日向不動尊]
立派な石碑です。真鳥日向守城址。そのあとに「西堀氷川神社宮司 真取正二書」と刻まれています。つまりこの真鳥さんは、日向守の末裔の方ということですね。
この石碑付近に、城の遺構らしきものは見当たりません。ただ現地に行けば、そこが微高台地になっていることは実感できます。
<水路>
石碑のあった台地を東側へ下ってみました。これは真鳥城の堀跡?ではなく、純粋な水路です。ただ、昨日今日の水路ではありませんよ。
真鳥城は丘の上の城。その丘の東側は、かつて巨大な沼でした。鴻沼(または高沼)といいます。新田開発のため、この沼の水を抜くための排水路が造られました。これが現在の鴻沼川。同時に造られたのが、目の前の水路。沼の西側のヘリに沿って造られました。
<鴻沼川>
<現地説明文>
開拓事業を行った井沢弥惣兵衛(やそべえ)に関する説明。子供用なので私にも良く理解できました。
さてさて、これは江戸時代のお話です。真鳥日向守がこの地を治めたのは、平安時代末期から鎌倉時代初期と思われますで、その当時は沼。つまり、真鳥城は、西を巨大な沼(東西の幅で100〜500 m・長さは南北4 km)に守られた天然の要害だったわけですね。
<とある坂>
先ほどの水路は台地の東側。今度は台地の西側を見てみましょう。かなり急な坂道です。真夏にこんな心配をするのもヘンですが、雪でも降ったらそうとう難儀ですね。坂を下るとしばらく平地が続き、そのまたずっと先には荒川が流れています。つまりこの台地は東が先程の巨大沼、西は荒川低地。そういう場所です。
<村の鎮守>
[西堀氷川神社] 桜区西堀8丁目
石碑に記載のあった神社です。村の鎮守として、古くから地元の人たちに親しまれている神社です。
<説明文>
ここにも、真鳥城に関する説明があります。この説明だと、そうとう大きな城。大昔の「城」ですからね。もしかしたら、丘そのものが真鳥氏の砦のような感じだったのかもしれません。
<ひかわ幼稚園>
神社に隣接する幼稚園。西堀氷川神社もこの幼稚園も、真鳥さんと関わりがありそうです。近くで「真鳥さん」宅を見かけましたが、こちらは明らかに個人宅でしたので撮影は致しませんでした。
■日向■
冒頭の石碑ですが、下の方に以下のような説明がありました。
「この地は真鳥日向守の城址と伝えられているが、時昭和63年8月の新住居表示制度施行に伴い、日向の地が消滅。この石碑はこれを惜しむ有志によって建立」
とのこと(抜粋してます)。
地図を確認。石碑のあった場所も神社も、そして丘の西側の平地も「西堀」となっています。その東側は「鈴谷」、そして「中島」。「日向」という地名は確かにありません。昔の地図だと「日向」という地名があったということですね。ただ、地名ではありませんが、丘の上の交差点付近に「日向」の文字を見つけました。
<日向坂>
日向坂。そしてこの坂を登った交差点にも「日向」の文字がありました。
地名が消えてなお残る日向の文字。住居表示上は消えてしまいましたが、地元の人たちにはこの名で通じるのでしょう。つまり、消えてなんていません。
ところでこの「日向」の文字。普通は「ひゅうが」と読みますよね。まして真鳥日向守との関係を知ってしまった以上なおさらです。でもすべて「ひなた」と読んで良いようです。ひなた坂。ひなたの交差点。経緯はわかりませんが、日向守に由来する「日向」が、いつしか「ひなた」と呼ばれるようになったのでしょう。
<ひなたのバス停>
城の遺構とは出会えませんでしたが、日向守のなごりを感じました。ひなた。いい響きですね。
■真鳥城■
別名:真鳥日向守城・真鳥山城
城主:真鳥日向守(畠山重忠家臣)
築城:鎌倉時代
[埼玉県さいたま市桜区西堀]
最寄駅は南与野駅。Googleマップで検索する場合は「日向不動尊」を目印にすると良いと思います。西堀氷川神社や日向の交差点は中浦和駅からの方が近いです。
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■真鳥城■ (まとりじょう)
畠山重忠がこの付近を領した頃、家臣の真鳥日向守(まとりひゅうがのかみ)が統治のための拠点としたようです。城跡は南北に長い丘の上にあります。
<石碑>
[日向不動尊]
立派な石碑です。真鳥日向守城址。そのあとに「西堀氷川神社宮司 真取正二書」と刻まれています。つまりこの真鳥さんは、日向守の末裔の方ということですね。
この石碑付近に、城の遺構らしきものは見当たりません。ただ現地に行けば、そこが微高台地になっていることは実感できます。
<水路>
石碑のあった台地を東側へ下ってみました。これは真鳥城の堀跡?ではなく、純粋な水路です。ただ、昨日今日の水路ではありませんよ。
真鳥城は丘の上の城。その丘の東側は、かつて巨大な沼でした。鴻沼(または高沼)といいます。新田開発のため、この沼の水を抜くための排水路が造られました。これが現在の鴻沼川。同時に造られたのが、目の前の水路。沼の西側のヘリに沿って造られました。
<鴻沼川>
<現地説明文>
開拓事業を行った井沢弥惣兵衛(やそべえ)に関する説明。子供用なので私にも良く理解できました。
さてさて、これは江戸時代のお話です。真鳥日向守がこの地を治めたのは、平安時代末期から鎌倉時代初期と思われますで、その当時は沼。つまり、真鳥城は、西を巨大な沼(東西の幅で100〜500 m・長さは南北4 km)に守られた天然の要害だったわけですね。
<とある坂>
先ほどの水路は台地の東側。今度は台地の西側を見てみましょう。かなり急な坂道です。真夏にこんな心配をするのもヘンですが、雪でも降ったらそうとう難儀ですね。坂を下るとしばらく平地が続き、そのまたずっと先には荒川が流れています。つまりこの台地は東が先程の巨大沼、西は荒川低地。そういう場所です。
<村の鎮守>
[西堀氷川神社] 桜区西堀8丁目
石碑に記載のあった神社です。村の鎮守として、古くから地元の人たちに親しまれている神社です。
<説明文>
ここにも、真鳥城に関する説明があります。この説明だと、そうとう大きな城。大昔の「城」ですからね。もしかしたら、丘そのものが真鳥氏の砦のような感じだったのかもしれません。
<ひかわ幼稚園>
神社に隣接する幼稚園。西堀氷川神社もこの幼稚園も、真鳥さんと関わりがありそうです。近くで「真鳥さん」宅を見かけましたが、こちらは明らかに個人宅でしたので撮影は致しませんでした。
■日向■
冒頭の石碑ですが、下の方に以下のような説明がありました。
「この地は真鳥日向守の城址と伝えられているが、時昭和63年8月の新住居表示制度施行に伴い、日向の地が消滅。この石碑はこれを惜しむ有志によって建立」
とのこと(抜粋してます)。
地図を確認。石碑のあった場所も神社も、そして丘の西側の平地も「西堀」となっています。その東側は「鈴谷」、そして「中島」。「日向」という地名は確かにありません。昔の地図だと「日向」という地名があったということですね。ただ、地名ではありませんが、丘の上の交差点付近に「日向」の文字を見つけました。
<日向坂>
日向坂。そしてこの坂を登った交差点にも「日向」の文字がありました。
地名が消えてなお残る日向の文字。住居表示上は消えてしまいましたが、地元の人たちにはこの名で通じるのでしょう。つまり、消えてなんていません。
ところでこの「日向」の文字。普通は「ひゅうが」と読みますよね。まして真鳥日向守との関係を知ってしまった以上なおさらです。でもすべて「ひなた」と読んで良いようです。ひなた坂。ひなたの交差点。経緯はわかりませんが、日向守に由来する「日向」が、いつしか「ひなた」と呼ばれるようになったのでしょう。
<ひなたのバス停>
城の遺構とは出会えませんでしたが、日向守のなごりを感じました。ひなた。いい響きですね。
■真鳥城■
別名:真鳥日向守城・真鳥山城
城主:真鳥日向守(畠山重忠家臣)
築城:鎌倉時代
[埼玉県さいたま市桜区西堀]
最寄駅は南与野駅。Googleマップで検索する場合は「日向不動尊」を目印にすると良いと思います。西堀氷川神社や日向の交差点は中浦和駅からの方が近いです。
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浦和白幡沼と山城 (白幡本宿遺跡)
<白幡沼>
[さいたま市南区白幡]1丁目
旧浦和市の白幡沼です。この沼の東側の丘から、戦国時代の堀や建物跡が発掘されました。詳細不明ながら、城跡であったと推定されています。場所はJR埼京線の武蔵浦和駅から徒歩圏内。その周辺を散策してみました。
■探索開始■
<丘の上>
城跡と推定されている丘の頂上は、現在公立中学校(白幡中学校)となっています。当時の主郭と思って良いのでしょうか。発掘調査はこの学校の敷地内とのこと。関係者ではないので、これ以上は進めませんが、特に石碑とかがあるわけでもなさそうです。
地形は舌状台地、つまり台地が部分的に突き出た状態。そして麓には沼。中世の山城で良くみかける環境ですね。
<麓探索>
水路になった堀の跡?普通に水路と思ったほうが良さそうですね。残念。
山城は西側には冒頭でご紹介した白幡沼、東側は谷となっています。現在は宅地化されて分りにくいですが、周辺の低地は湿地帯だったと推定できます。何も発見できませんが、地形から天然の要害の要件を満たしていることは実感できました。
■地名の由来■
平将門討伐途中の藤原秀郷がこの地に宿陣し、八幡を歓請し戦勝を祈ったという言い伝えがあります。このとき陣中に白旗を立てたことから、この付近は「白幡村」と呼ばれるようになりました(現在:さいたま市南区白幡)。藤原秀郷との関係を疑問視する声もありますが、異説でも地名が「白い旗を立てた」ことに由来する点は否定していません。
<麓探索2>
医王寺(いおうじ)の大きな鐘楼門。門の二階部分に鐘を吊るす堂があるのですね。あまり見ないような気がします。
境内には庚申塔や石仏が多数。歴史を感じます。ただ「城」と関わるものはなさそうですね。
<沼付近>
宅地化されなければ、周辺はこんな雰囲気だったのかも知れません。かつて湿地の多かった浦和らしい光景です。
■結論はありませんが・・■
白幡の名が藤原秀郷に由来するのなら、城跡も関係あるのではないかと思ってしまいますが、どうも結びつける根拠がないようです。この地から北へ少し行ったところには畠山重忠の家臣だった真鳥氏の城跡があり、東へ数百メートルのところには、岩槻太田氏家臣の宇田川氏の館跡があります。それらの勢力と、この地にあった城の関係はどうなんでしょうかね。素人の勝手な想像だけが膨らみます。
白幡本宿(しらはたもとじゅく)遺跡。専門家の皆さんの新たな発見が楽しみです。
[さいたま市南区白幡]
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[さいたま市南区白幡]1丁目
旧浦和市の白幡沼です。この沼の東側の丘から、戦国時代の堀や建物跡が発掘されました。詳細不明ながら、城跡であったと推定されています。場所はJR埼京線の武蔵浦和駅から徒歩圏内。その周辺を散策してみました。
■探索開始■
<丘の上>
城跡と推定されている丘の頂上は、現在公立中学校(白幡中学校)となっています。当時の主郭と思って良いのでしょうか。発掘調査はこの学校の敷地内とのこと。関係者ではないので、これ以上は進めませんが、特に石碑とかがあるわけでもなさそうです。
地形は舌状台地、つまり台地が部分的に突き出た状態。そして麓には沼。中世の山城で良くみかける環境ですね。
<麓探索>
水路になった堀の跡?普通に水路と思ったほうが良さそうですね。残念。
山城は西側には冒頭でご紹介した白幡沼、東側は谷となっています。現在は宅地化されて分りにくいですが、周辺の低地は湿地帯だったと推定できます。何も発見できませんが、地形から天然の要害の要件を満たしていることは実感できました。
■地名の由来■
平将門討伐途中の藤原秀郷がこの地に宿陣し、八幡を歓請し戦勝を祈ったという言い伝えがあります。このとき陣中に白旗を立てたことから、この付近は「白幡村」と呼ばれるようになりました(現在:さいたま市南区白幡)。藤原秀郷との関係を疑問視する声もありますが、異説でも地名が「白い旗を立てた」ことに由来する点は否定していません。
<麓探索2>
医王寺(いおうじ)の大きな鐘楼門。門の二階部分に鐘を吊るす堂があるのですね。あまり見ないような気がします。
境内には庚申塔や石仏が多数。歴史を感じます。ただ「城」と関わるものはなさそうですね。
<沼付近>
宅地化されなければ、周辺はこんな雰囲気だったのかも知れません。かつて湿地の多かった浦和らしい光景です。
■結論はありませんが・・■
白幡の名が藤原秀郷に由来するのなら、城跡も関係あるのではないかと思ってしまいますが、どうも結びつける根拠がないようです。この地から北へ少し行ったところには畠山重忠の家臣だった真鳥氏の城跡があり、東へ数百メートルのところには、岩槻太田氏家臣の宇田川氏の館跡があります。それらの勢力と、この地にあった城の関係はどうなんでしょうかね。素人の勝手な想像だけが膨らみます。
白幡本宿(しらはたもとじゅく)遺跡。専門家の皆さんの新たな発見が楽しみです。
[さいたま市南区白幡]
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