2021年01月16日

城山神社(所沢)滝の城のなごり

今回は中世の山城跡に鎮座する神社の話です。その名も城山神社!ほぼそのままですね。

<拝殿>
Shiroyama shrine (1).JPG
山頂に鎮座する長い歴史の神社です。愛宕社や熊野社などが合祀されいまに至ります。

■訪問■
この日は城の天然堀でもあった柳瀬川沿いから現地へ向かいました。
<城前橋>
Shiro mae bridge.JPG
この橋を渡ればまもなくです。その名も城前橋!こちらもほぼそのままです。

<山>
Small mountain.JPG
この山が今回の目的地。頂上付近に神社の幟が見えています。ちょっとした崖になっているあの地点を目指します。山の麓は市民のための運動公園。といっても、私の訪問時には誰もいない状態でした。真冬ということもありますが、やはり新型コロナウィルスの影響ですね。

<注意>
Beware of snakes !.JPG
私もいわゆる『密』を避けてこのような場所へ来ましたが、別なものに注意が必要です。

<社号標と鳥居>
Gateway of a shrine.JPG
さて、ここから登ります。城跡として訪問した時は別ルートでしたが、今回は神社を目がけてミニ登山です。

<城山神社>
Shiroyama shrine (2).JPG
到着です。ここはかつての城の本丸跡。いまでは神社の境内です。創建に関する詳細は不明ながら、かなり古くからこの地に祀られていたらしく、城が築かれたのはその後のお話のようです。

<城内の鎮守>
Haiden-shrine.JPG
やがて城の鎮守となり、城亡き後もその歴史は続きます。重厚な拝殿です。

<滝の城>たきのじょう
Stone monument.JPG
こちらは境内、つまり本丸跡の石碑です。城は『滝の城』と呼ばれています。

<説明板>
Explanatory text.JPG
あまり大きくはありませんが、深い歴史の刻まれた城跡です。そしてなんといっても遺構が見事。埼玉県指定史跡に指定されています。

<空堀>からぼり
Moat-Castle.JPG

<堀切>
Horikiri.JPG

<二重堀>
Double-Moats.JPG


<曲輪>くるわ
Ninomaru.JPG
Ninomaru Space.JPG

見事です

<本丸虎口>
Entrance-Honmaru.JPG
土橋です。ここが本丸への入り口だったようです。向こう側は冒頭の神社の裏手になります。ちょっと直接渡ることはできないので、本丸側へ戻ります。

<神社の裏手>
Behind-the-shrine.JPG
神社の裏側に来ました。

<本殿>
Main-shrine.JPG
城山神社の本殿です。

<説明板>
Explanatory-text-regarding-this-piace.JPG
本丸虎口に関係する説明板が設置されています。ここには門があり、馬出しや三の丸への通路として橋が架かけられていたと記されています。

<三の丸>
Sannomaru.JPG

歴史の長いこの城も、戦国末期に小田原北条氏の配下だったことから、豊臣秀吉による小田原征伐の際に落城し、それ以降は城として利用されることはありませんでした。

戦の拠点が失われても民は残ります。まして、この地は城が築かれる前から人の営みのあった場所。落城とともに城内の神社は一旦失われたようですが、地元民が再び神を祀り今に至っています。

<山頂の鳥居>
Good-view.JPG

ということで
名前と境内の周辺に『城のなごり』が漂う神社のご紹介でした。主役は神社でありながら城の画像の方が多いですね。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。

■訪問:城山神社
(滝の城跡)
[埼玉県所沢市城]


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-------追 記-------
城跡として訪問した『滝の城』については別途投稿しています。『ブログ』というものを手探りで始めた頃の記事ですが、良かったら覗いてみて下さい。

『所沢の城跡 滝の城』
shirononagori TAKI (13).jpg
[投稿:2017年4月18日]
→『記事へすすむ
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2020年10月17日

陣屋の土塁跡(野火止陣屋)

つわものどもが夢の跡
今回はかつて陣屋が設けられていたとされるエリアに残る土塁跡の話です。場所は埼玉県新座市です。
<土塁跡>
shirononagori486 (3).jpg

■野火止陣屋■のびどめ
まずは現地のバス停から
<バス停>
shirononagori486jinya.jpg
陣屋というバス停。城跡好きがわくわくするような名前です。地図上は存在していませんが、陣屋は地名(古い地名・小字)です。このバス停から歩いて数分のところに、お目当ての土塁があります。

<現地到着>
shirononagori486 (4).jpg
ありました。土塁です。そして説明板も設置されています。

<説明板>
shirononagori486 (5).jpg
詳細が記されています。ここでは「野火止用水陣屋堀」となっていますね。ちょっと長いので抜粋させて頂きます。新座市教育委員会さん、部分的な引用で申し訳ございません。

『松平伊豆守信綱は江戸の上水道である玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を得ました。承応四年(1655)、私領である野火止の地を開発する人々の生活水を確保するため、野火止が開削されます』とのこと。そして『寛文三年(1663)、岩槻にあった平林寺が野火止に移転されると、ここにも用水が引水されました』とあります。つまり支流も造られたということですね。それらが平林寺堀、陣屋堀と呼ばれたようです。

さて、ここまでは野火止用水の説明なので、もうちょっと引用させて頂きます。いよいよ陣屋の話です。『松平信綱の孫である輝貞が、高崎藩主であった際に、先祖が開拓し、墓を造営した土地を飛地として管理することが許されたため、高崎藩の陣屋が置かれました』とのこと。
[出典:現地説明板]

なるほど。いわば藩の出張所のような役割を担うために陣屋が設けられたということですね。説明の最後に、信綱の時代に、新田開発の拠点として既に既にあったという説もあることが付け加えられています。ただ、他の文献でも、陣屋は平林寺を守るために設けられたという見解が多いので、私はそちらの説を信じることにします。

ちょっと補足すると、川越城主の座は信綱を含め松平家で三代続きますが、のちに他家が入り、野火止も他家の支配するところとなります。信綱の孫で高崎城主の松平輝貞が幕府の許しを得たことで、野火止は再び松平家の知行地となり、平林寺前に出先機関として陣屋が置かれたということですね。

<平林寺>
sn485Heirinji (2).jpg
松平伊豆守の墓所がある平林寺。埼玉県が誇る名刹です。陣屋はこの寺を守るために設けられました。そして、そこに住む武士の生活水として陣屋堀も開削されました。

<盛土>
shirononagori486 (9).jpg

shirononagori486 (10).jpg

■つわものどもが夢の跡■
土塁は堀(用水)の堤を兼ねていたというお話があります。また、現地の説明板も陣屋の土塁という表現ではなく、陣屋堀となっていました。つまり陣屋の用水跡と受け止めた方が良いような説明となっています。

ただまぁ、用水路が陣屋の外堀的な役割を果たしていたとも思えるので、私はあくまで陣屋の遺構と受け止めたいと思います。そのへんは城跡好き会社員のブログですので、寛容にお受けとめ下さい。
<土塁>
shirononagori486 (1).jpg
陣屋に出入りした武士たちも眺めたであろう土塁のなごりです。

■訪問:野火止陣屋
(野火止用水陣屋堀)
[埼玉県新座市野火止]1丁目


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2020年08月31日

岩槻探索のおまけ(久伊豆神社)遺構に思えた盛り土

今月は岩槻探索ばかり投稿してきましたが、最後に『土塁かと思って後から調べたけど根拠がみつからなかった』盛り土をご紹介します。

<盛り土>
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こちらです。右手は低地になっており、盛り土は低層の台地上にありました。

<久伊豆神社>
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場所は南下新井の久伊豆神社付近。盛り土はこちらの境内の西側の道にありました。

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神社そのものが周囲より高い位置にあります。

ここからは邪推に過ぎませんが、この付近が何らかの砦または屋敷跡だったのではないか?と現地で勝手に想像し、帰宅していろいろと調べました。しかし神社そのものの説明ばかりで、砦や屋敷に結び付く資料はみつけられませんでした。

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室町時代末には勧請されていたとされる歴史ある神社です。

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現地説明板なども確認しましたが、地元豪族の屋敷とか、そんな記載はいっさいありません。


まぁしっかりとした裏付けのある史跡を自分の目で見て回るという探索も楽しいですが、よくわからないものに足を止めて、勘違いも含めて楽しむのも、それはそれで楽しいです。

ということで
ちょっと中身のないお話となりました。ただ、似たような思いで地元探索などをしている方が共感してくれれば嬉しいです。

shirononagori477 (1).jpg
個人的にはいまでも砦かなにかの『土塁』と思っています


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2020年08月29日

城主に代わって天下軍2万と戦った宿老(岩槻太田氏家臣)伊達房実

つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城に2千の兵で立て籠り、豊臣軍2万を迎え撃った武将の話です。

<岩槻城跡>
shirononagori463c.jpg
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豊臣秀吉による小田原征伐の際、ここ岩槻城には2万の兵が押し寄せました。城主は小田原城に詰めていて不在。代わりに指揮をとったのが今回ご紹介する伊達房実(ふさざね)です。


■岩槻太田氏家臣■
以下はwikiさんの『岩槻城』からの抜粋です。
『1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]

壮絶な戦いです。文中の『氏房』は本来の岩槻城主・北条氏房。まぁ既に太田氏を継いでいたわけですから太田氏房ですかね。あと、ここでは『浅野長吉』となっていますが、浅野長政と言ったほうがピンとくる方が多いような気がします。石田三成らとともに、豊臣政権下で五奉行の一角だった武将ですね。秀吉から信頼の厚い大物が率いる天下軍2万が、岩槻城に襲い掛かりました。

指揮をとった伊達房実は、岩槻太田氏に仕える古参にして、岩槻城の西を守る伊達城の城主です。改修により総構えとなっていた岩槻を守るべく、2千の兵を指揮して善戦しますが、最終的には落城となりました。伊達房実はここで討ち死にしたのではないかという説もありますが、降伏して助命されたとするのが一般的です。

<伊達城推定地の台地>
shirononagori236 (1).JPG
こちらはさいたま市見沼区大和田町の伊達城跡の推定地です。伊達城の正確な位置まではわかりません。ただ、この付近だったようです。


■江戸幕府旗本■
豊臣軍に屈した伊達房実は、のちに徳川家康に召し抱えられています。250石の旗本となり、江戸三番町角屋敷を与えられ、かつて自らの居城だった伊達城付近を知行し、陣屋を構えました。

<大和田陣屋>
shirononagori235 (10).JPG
こちらは先ほどの伊達城近くの陣屋跡です。土塁が確認できます。画像は2018年のもので、それまであった民家が取り壊された状態でした。ちょっと地味ではありますが、これも立派な痕跡。大和田伊達氏のなごりです。


■徳川家康との縁■
戦国末期の岩槻太田氏の家臣は、すなわち小田原北条氏に与した者たちということになります。伊達房実も、主君であり城主である北条氏房(太田氏房)に代わって岩槻城を守り、豊臣軍と戦いました。豊臣方の徳川家康としては、直接の戦いはないものの、敵方の武将だったわけですね。

敵であっても、戦が終われば家臣に迎え入れる。これは日本の場合はよくある話です。ただ、ある程度のポジションになると、やはり家柄や力量が認められるとか、あるいは信用できる者の血縁とか、なんらかの裏付けが必要になる気がします。

旗本になるのはそう簡単なことではありません。『伊達』を名乗っていますが、伊達政宗と結び付けるには、そうとうご先祖様まで遡る必要があります。当人同士はほぼ無関係で、あまり効力があるとは思えません。では、なにが背景となっているのでしょう。


■駿河伊達氏の出か■
伊達房実の出自については、ある程度有力な説もありながら諸説があり、更に資料も乏しい状態です。ということで、またwikiさんにお世話になります。以下はwikiさんの『伊達 房実』からの抜粋です。

『駿河伊達氏とされるが、『寛政重修諸家譜』に拠れば、伊達政充が北条氏康に仕え、その子の宗春(宗綱)は今川氏、次いで徳川家臣であった。小笠原信興配下の高天神衆として姉川の合戦に従軍し、姉川七本槍に数えられた。のち徳川家康の次女の督姫が天正11年(1583年)8月に北条氏直に嫁いだ際、同行して北条氏傘下に入ったと伝わる。』
[出典:Wikipedia 2020/8/29]
『伊達政充』は祖父、『宗春』は父です。そして小笠原信は高天神城の城主を務めた武将。個人的に、ここが一番興味深いところです。

<高天神城>
shirononagori441ad.JPG
この城は武田に対抗するための徳川の城でした。つまり、城を守る者たちは全て徳川の家臣です。しかし、武田勝頼率いる大軍に攻められた時、浜松城にいる家康に助けを求めたものの援軍は来ませんでした。援軍が出せる状態ではなかったという表現の方が家康にとっては良い言い回しでしょうか。しかし籠城して奮闘する者たちからみれば、見捨てられたことに代わりありません。城主の小笠原信興は武田に降伏するとともに、徳川家康を見限って武田に降る道を選びました。

この時、城を守る中に伊達房実がいたとしたら、これが家康との縁、しかも古い縁ということになりますね。徳川家康は過去の失敗を教訓としていつまでも忘れないタイプの武将です。再会するに至り、見捨てた城の生き残りにそれ相応の対応をした。これにより、江戸幕府の旗本にまでなれた。そんな想像はちょっと乱暴過ぎますかね?

ということで
伊達房実が駿河伊達氏の出ということにも確証ないままのお話でした。今回は一般的に言われている内容でもないことから、最後に出典元を明記させて頂きます。その他の部分は、ただの城好き・戦国武将好き会社員の想像が盛り込まれていますので、その程度に受け止めて下さい。ただ、そんな視点で歴史を楽しんでいる方と共有できれば幸いです。

<岩槻城裏門>
shirononagori475.jpg
つわものどもが夢の跡

■参考及び抜粋■
Wikipedia−伊達 房実
Wikipedia−岩槻城

[検索日2020/8/29]

------- 補 足 -------
今回登場した伊達城跡・大和田陣屋跡、そして高天神城については別途投稿していますので、良かったら覗いてみて下さい。
伊達城跡
→『記事へすすむ
大和田陣屋跡
→『記事へすすむ
高天神城跡
→『記事へすすむ


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2020年08月23日

岩槻城のなごり

つわものどもが夢の跡
関東の覇権争いで常に緊張にさらされ続けた重要拠点を訪ねました。

<岩槻城跡>いわつきじょう
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鍛冶曲輪の道灌橋

■築城者・太田道灌■
岩槻城は川越城・江戸城の築城者でもある太田道灌により築かれたとされています。当時の関東は、既に勢力争いの混迷期に突入していました。関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方に抵抗すべく家臣である道灌に築城を命じたことが岩槻城のはじまりです。古河に対する前線基地のような存在だったわけですね。

<白鶴城址碑>
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岩槻城の別名は白鶴城。太田道灌の築城秘話に由来する呼び名です。

実は築城者については諸説あります。道灌と父である太田道真による築城とする説。これなら築城主が扇谷上杉氏という点では同じですが、古河公方に与する成田氏の築城とする説もあります。成田氏は『のぼうの城』の舞台となった忍城の築城でも知られる武蔵国の士族ですね。これも興味深い話ですが、当ブログでは太田道灌ということで通します。


■岩槻太田氏対小田原北条氏■
小田原北条氏第2 代当主の氏綱は、扇谷上杉氏の居城・江戸城を攻め落とすと(1524年)、その勢いで北上し、岩槻にも進攻しました。岩槻城は北条の配下となりますが、太田資頼(すけより)が岩槻城を攻略(1530年)。城は資頼の長男・資顕(すけあき)、次男の資正(すけまさ)に受け継がれます。

三楽斎の名でも知られる太田資正は、勢力を増す北条氏へ靡こうとした兄とは逆に、あくまで扇谷上杉氏に仕え続けます。その扇谷上杉氏が滅びると越後の上杉謙信と結び、小田原の北条氏に対抗し続けました。

しかし、里見氏とともに北条氏と戦って破れたのち(1564年)、子である氏資に裏切られ、岩槻城を追い出されることとなりました(同じく反北条の佐竹氏を頼って落ち延びました)。岩槻城は氏資は受け継がれたものの戦で討ち死にし、城には北条一族の氏房が入城することとなりました。氏房は第5代当主である氏直の弟です。ちょっと長くなりましたが、結果としては北条配下の城となりました。

<堀跡と沼>
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<岩槻城址ノ記>
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■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原征伐に乗り出します。関東覇者となっていた北条氏は、これに備えて主要な城の強化を図ります。岩槻城もこの時に拡張・改修されました。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。城の防衛において、元荒川の果たした役割は大きいですね。岩槻城には七つの曲輪があったとされ、本丸から沼を挟んだ南側の部分は秀吉による小田原征伐の際に出丸として拡張されたと考えられています。また、この時に岩槻の城下町にも堀や土塁が設けられ、いわゆる総構えとなったとされています。もともとの地形、つまり台地と低地と川をうまく利用した城という感じですね。

<元荒川>
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新曲輪橋から眺めた元荒川です。岩槻城にとっての天然の堀です。

<岩槻愛宕神社>いわつきあたごじんじゃ
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[さいたま市岩槻区本町]
かつて城下町の外周を囲んでいた土塁はほとんど姿を消しましたが、ここは神社が祀られていることで壊されずにすみました。貴重な総構えのなごりです。

<総構えの堀跡>
Ankyo&Shiro Iwatsuki (10).jpg
[さいたま市岩槻区府内]
こちらは城下の堀の跡です

実際に天下軍が押し寄せた時、城主の北条氏房(太田氏房)は、小田原城の籠城戦に参陣していました。代わりに城を守ったのは家臣の伊達房実。2千の兵で籠城し、浅野長政が指揮する天下軍2万の攻撃に耐えますが、数日後に落城。千人以上の犠牲者が出たそうです。

<ふるさと散策路>
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岩槻城址公園へ繋がる散歩道、堀の跡です。


■譜代大名の城■
北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、江戸から比較的近い岩槻城は北の重要拠点と位置付けられ、高力清長を筆頭に、以降も譜代大名が城主を務めました、めまぐるしく城主は変わりましたが、江戸時代中期に9代将軍徳川家重から信頼の厚かった大岡忠光(大岡忠相の遠縁です)が藩主として入城すると、以降は明治まで、岩槻城は大岡氏の居城でした。


■岩槻城のなごり■
<本丸跡>
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岩槻城の本丸や二の丸といった主郭部分は、開発により姿を消しました。向こう側に見えているのはマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。

<岩槻城址公園>
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新曲輪・鍛冶曲輪付近が公園として整備され、城のなごりを今に留めています。岩槻城址公園はかつての城の主郭部分ではなく、出丸的な役割を担ったエリアです。

<かつての沼>
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埋め立てにより現在は広場となっていますが、ここはかつては水の中。主郭部分を取り囲む沼でした。

<菖蒲池と八ツ橋>
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巨大な沼は姿を消しましたが、残された水辺に、そのなごりを感じることができます。橋はかつての岩槻城とは無関係ながら、朱塗りの橋が見事で、訪れる人の目を楽しませてくれます。

<鍛冶曲輪周辺の堀跡>
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見事な遺構です。今でも充分な高低差ですが、昔はもっと深かったのでしょう。
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右折する堀。横矢が掛けられています。

<鍛冶曲輪>かじくるわ
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<堀障子が確認された場所>
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発掘調査の結果、鍛冶曲輪と新曲輪の間の堀で、堀障子が確認されたそうです。調査が終わると保存のために埋めてしまうので、いまはご覧の通りです(現地には説明板あり)。

<新曲輪付近>
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shirononagori467 e.jpg
この付近には櫓があったとされています

<城門>
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黒門と呼ばれるかつての城門。形としては長屋門です。

<裏門>
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こちらは岩槻城の裏門とされています。門の形式は薬医門。先ほどの黒門もそうですが、かつての城郭のどこに設けられていたかははっきりしていません。

■つわものどもが夢の跡■
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室町末期に築かれた岩槻城は、戦国時代を通して緊張にさらされ続け、江戸時代には統治の城として存続しました。かつての城の大半は失われましたが、一部が城址公園として整備され、その一角で役割を終えた2棟の門が静かに佇んでいます。

------■ 岩槻城 ■------
別 名:白鶴城 岩付城
築城主:太田道灌(諸説あり)
築城年:1457年(長禄元年)
改修者:北条氏房
城 主:太田氏・北条氏
    高力氏・大岡氏他
廃城年:1871年(明治4年)
[さいたま市岩槻区太田]


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2020年08月21日

静かに佇む城のなごり(岩槻城)裏門と黒門

つわものどもが夢の跡
今回は岩槻城址に佇む2棟の城門の話です。

<裏門と黒門>
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城のなごりをいまに留める岩槻城址公園には、かつて実際に使われていた2棟の門がひっそりと佇んでいます。手前が裏門。そして奥の方に見えるのが黒門とよばれるかつての城門です。

まずは岩槻城の裏門だったと伝わる門から

<裏門>
shirononagori473 (8).jpg
大手門に対するいわゆる搦手門だったのでしょうか。門の形式は薬医門です。さいたま市のホームページによれば『江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられた』そうです。市の有形文化財に指定されています。

<裏門の裏>
shirononagori473 (1).jpg
ちょっと裏から失礼します。かなり傷んでいるようですね。人により受け止め方は異なると思いますが、やや疲れているとはいえ侘しさのようなものは感じません。移築された門ですので、ここが本来の場所ではありません。役割を終えて、静かに佇んでいる。そんなふうに受けとめました。


つづいて

<黒門>
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こちらは黒門の名で親しまれ城門です。見ての通りで、黒く塗られていることからそう呼ばれているそうです。

shirononagori473 (6).jpg
現地説明板によれば、城郭のどの場所に設けられていたかは不明とのこと。ただ、さいたま市のホームページによれば『城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いと思われる。』とのこと。市指定有形文化財(建造物)です。

<現地説明板>
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埼玉県庁に移されて正門として利用された時期もあったようですね。

<長屋門>
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こちらも裏から失礼します。左右に部屋がある長屋門のような構造です。あくまで個人的な感想ですが、城門としての威圧感のようなものは感じられません。


岩槻城は室町時代の末期から始まりますが、江戸時代も存続した近代城郭です。江戸から近いこともあの、譜代大名が城主を歴任する幕府にとっての重要拠点でもありました。

明治の廃城後、岩槻城は跡形もなく取り壊されてしまったので、建造物が残っているのは極めて稀なケースです。歴史を刻んだ貴重な遺構が、かつての出丸付近を整備した城址公園の一角で、今も静かに佇んでいます。

shirononagori473 (9).jpg
つわものどもが夢の跡

■訪問:
岩槻城裏門
岩槻城城門(黒門)
[さいたま市岩槻区太田]3丁目

■参考:さいたま市ホームページ
『文化財紹介 岩槻城裏門』
『文化財紹介 岩槻城城門(黒門)』



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2020年08月20日

岩槻城本丸跡 地形だけで楽しむ城跡探索 

つわものどもが夢の跡
深い歴史が刻まれた名城・岩槻城の本丸跡を訪ねました

<本丸跡>
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民家に塀に設置された本丸跡の証です。

<場所>
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お隣はマミーマートです。この付近一帯がかつての本丸でした。

<縄張り図>
shirononagoriMAPiwa (5).jpg
[出典:岩槻城址公園説明板]
こちらが岩槻城の縄張り図です。岩槻城は室町時代末に築かれ、拡張や改修を繰り返しながら江戸時代も存続した近代城郭です。しかし明治の廃城以降は街の開発が進み、現在は曲輪の一部が城址公園として残るのみとなっています。

<マミーマート>
shirononagori472 (6).jpg
本丸跡には他の建物もありますが、ここが一番目立ちますかね。裏に駐車場も確保されたまとまった敷地ですので、ここを本丸跡と思うことにします。

さて
縄張り図だと、本丸は水堀の役割を果たした沼に浮かぶ島のようなところだったようですね。遺構はありませんが、こういう時は地形を感じるようにしています。

<北側>
shirononagori472 (5).jpg
マミーマートの広い駐車場を抜けて北側へ移動しました。この付近から谷になるようです。

<高低差>
shirononagori472 (7).jpg
沼が埋め立てられ宅地化される前は、もうちょっと高低差があったのかもしれません。

<坂道>
shirononagori472 (1).jpg
別方向にも高台から降る坂があります。複雑な地形を実感。住所表記だと低い場所も含めて『本丸』ということになります。現在の住所でいう『本丸』は実際の本丸より広範囲で、一部の高台を除けば、かつては概ね沼地だったのでしょう。

この付近はこの程度にして
次に南側へ移動することにしました。方向でいうと現在の岩槻城址公園へ向かうことになります。

<下り坂>
shirononagori472 b (2).jpg
もしかしたら気付かないうちに二の丸を通過していたのかもしれませんが、とにかく低い方へ向かって進みました。

<暗渠>
shirononagori472 b (3).jpg
この付近の水が集まるところというサインですね。つまり一番低い場所

<暗渠の行先>
shirononagori472 ba.jpg
岩槻城址公園へ到着です。

<かつての沼>
shirononagori472 b (1).jpg
ここは曲輪跡ではなくかつての沼の底。本丸や二の丸といった主郭部分と、出丸である新曲輪の間の沼です。私は沼と表現していますが、これを『濠』とみなすと、国内の城では最大級の水堀だったことになります。

<沼の底>
shirononagori472ad.jpg
公園内のこの水路は先ほど見た暗渠と繋がっています。

ということで
今回は本丸跡を訪ね、遺構はないのでその北側と南側の低地、つまりかつての沼を実感するために歩いたという内容でした。

<本丸跡>
shirononagori472 (3).jpg
つわものどもが夢の跡

■訪問:岩槻城本丸跡
[さいたま市岩槻区本丸]3丁目


お城巡りランキング
posted by Isuke at 05:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2020年08月19日

堀のなごり(岩槻)県道横の窪地

今回は岩槻散策中に見かけた堀のなごりのご紹介です。
この日は時の鐘に立ち寄ったあと、岩槻城の本丸跡を目指し、埼玉県道2号(さいたま春日部線)をてくてくと歩き続けました。その途中、道路より一段と低くなっている地形に足が止まりました。
<高低差>
shirononagori471 (2).jpg
これは明らかに・・・

まぁ遺構とまでは言いませんが、ここが城跡だと意識していれば、こんな景色からもちょっとした感動を得ることができる。そんなことが共有できれば嬉しいです。あとで地図で確認すると、ここは三の丸の西側に設けられた堀のなごりでした。まわりを取り囲む巨大な沼が、入江のように曲輪の脇に入りこんでいるところだったようです。

<公民館>
shirononagori471 (1).jpg
先程の堀跡からもう少し北東へ歩くと公民館が見えてきます。

<岩槻本丸公民館>
shirononagori472 bd.jpg
この付近の住所は『本丸』ですが、実際はまだ三の丸です。

<足利銀行>
shirononagori472 bc.jpg
更に北東へ進み、こちらの銀行を通り過ぎれば本丸はもうすぐそこです。かつてはこの付近にも堀があったと思われますが、現地でそれらしい景色とは出会えませんでした。

<本丸跡>
shirononagori472 (4).jpg
到着しました。

暑い日でしたが、目的があるとあまり苦にならないものですね。勿論しっかり水分補給をして、時々木陰で休みながら歩き続けました。本丸跡については、次の投稿とさせて頂きます。

つぶやきのようなお話に最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
posted by Isuke at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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