2019年08月17日

荒川沿いの崖城 宮崎城のなごり(秩父)

つわものどもが夢の跡
秩父の荒川沿いに位置する崖城を訪ねました。最初に言っておきます。訪ねたけれど、遺構にたどりつきませんでした。そんな失敗訪問記録で良ければお付き合い下さい。
<秩父の荒川>
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目指した城跡はこの画像の右手の崖にあります。

■秩父の宮崎城とは■
宮崎城は現在の寄居町にある鉢形城の支城と考えられています。鉢形城と言えば、北条氏邦を思い出す方も多いのではないでしょうか?小田原北条氏当主・氏政の弟で、武勇に優れた戦国武将ですね。宮崎城はその家臣・黒澤民部の居城とされています。城は川と川の合流地点の台地に築かれたとのこと。地図を見ながら、その合流地点を目指しました。

■現地訪問記■(失敗訪問記)
最寄駅は秩父鉄道の大野原駅。下車して荒川方向へ向かいます。
<飛渕山 龍石寺 >
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途中で立ち寄った龍石寺さん。曹洞宗のお寺です。
<地図>
shirononagori363A (13).JPG
秩父三十四ヶ所札所の第19番の龍石寺さんが現在位置。で、その北側に民部城跡と記載されています。これは宮崎城の別名。ここを目指します。

更に進むと

<滑沢>
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この沢の先、そして荒川の手前が城跡になります。やや気持ちが高揚してきた瞬間でした。

shirononagori363A (3).JPG
沢は荒川との合流地点で大きくカーブし、長い年月をかけて深い谷を刻んできました。城はその断崖を利用して築かれました。ということは、この沢沿いを歩けばたどりつけるということですね。ただちょっと現実的に厳しく、道沿いに荒川方向へ進みました。

しかし

<ほぼ現地>
shirononagori363A (8).JPG
夏草や

つわものどもが夢の跡。滑沢と荒川の間ですから、ほぼこの辺りなのですが、これは参りました。何も見えません。ご先達の方々のブログを見る限り、どこかに土塁と空堀が確認できるはず。しかも良好な遺構と聞き及んでいます。しかしどこにも見当たりません。あるいは、接近する方法を間違えているのかもしれません。

ここまで来たのだから
ということで、私有地と思われる畑を避けながら荒川方向へ突撃です。

<崖>
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向こう側は荒川。崖になっています。

<斜面>
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崖城という言葉がピッタリの場所です。斜面に窪みらしき影を見つけ、竪堀かと期待したものの身動きとれず。崖をつたって行けば辿りつける?とも思いましたが、真夏の炎天下で既に汗だく。予期せぬ侵入者に虫や鳥が大騒ぎ。そしてなにより、運動不足のオッサンが足を滑らせないで崖を横移動する自信がありません。

ここまでか・・・
場所としては既に城跡にいるようです。ただ、その証として、なんとか土塁だけでも自分の目で確認したかったすね。残念です。

<土が盛ってある>
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望遠で撮影。土塁?にも見えましたが、ここまで草に覆われると実感が湧かず。手前は私有地と思われましたので、これ以上は近づけませんでした。

<その他城跡>
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shirononagori363A (4).JPG
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主郭と逆側も見て回りましたが、発見は特になく

ということで、チャレンジはここまで。冬に来るべきでしたかね。他の方の写真を拝借するわけにもいかないので言葉で説明すると、まず天然堀である谷と逆方向に土塁と堀が設けられ、その土塁には虎口が、そして堀には土橋が確認できるようです。三方を崖で守られた小規模な砦という感じですが、遺構は貴重と言えるレベルなのではないでしょうか。

私は残念でしたが、ご興味のある方はチャレンジしてください。

<帰路>
shirononagori363c.JPG
荒川に架かる旧秩父橋

<橋の上から撮影>
shirononagori363A (1).JPG
中洲の右側手前付近が宮崎城跡です。見えませんが、ほぼ間違いないと思います。

■訪問:宮崎城跡
[埼玉県秩父市大野原宮崎]


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2019年07月21日

暗渠と城跡20 深谷城の濠らしき跡と濠跡

今回は暗渠の話です。といっても、少し城と関係しています。そんな話で良ければお付き合い下さい。

<暗渠>
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今回のテーマです。

■暗渠■
まずこの見慣れない字は「あんきょ」と読みます。毎回同じ説明になりますが「地下に埋設された川や水路」という意味に受け取って下さい。蓋をされて人目につかなくなった川や水路。まぁそんな感じです。

■城跡■
<深谷城跡>
shirononagori352 (9).JPG
今回訪問した深谷城跡です。

<石垣と城壁>
shirononagori352 (2).JPG
立派ですね。でもいわゆる遺構ではありません。

深い歴史の深谷城、公園として整備されているのは良いのですが、遺構はほとんどありません。そんな城跡で、唯一と言ってよい遺構が城の東側の外濠跡でした。

<富士浅間神社>
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城跡の東側に鎮座する富士浅間神社です。この神社のある区画の東側が唯一の遺構である濠跡です。

<深谷城外濠跡>
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現役の時はもっと深かったはずの濠跡です。埋められた上に保全のための加工もなされていますが、このラインが濠の最も東側だったことは間違いなさそうです。

<拝殿と参道>
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拝殿を正面から撮影。画像の右手、方角だと東側に先ほどの濠跡が見えています。

ここでちょっと城全体の縄張り図をご紹介します。少しラフですが、大まかな把握にはちょうどいいと思われます。

<深谷城の縄張り>
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本丸が島のようになっていますね。これでは渡れませんので、どこかに橋を設けたのでしょう。

で、注目すべきは城の東側、この図だと右側です。『東曲輪』又は『櫓』と表示されているあたりが富士浅間神社が鎮座する区画と思われます。ともに細長い半島のように突き出ていますね。ということは、外濠とされる側と逆側も、やはり濠ということになります。

<逆側>
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外濠跡とは富士浅間神社を挟んで逆側です。幅広のコンクリ蓋が敷き詰めてありますね。この下はずばり水路でしょう。しかも濠跡を転用した水路。これに蓋がされている状態なのだと思われます。ということは、姿は見えなくても、この暗渠も濠跡と呼べるのではないでしょうか!!?

<暗渠と城跡>
shirononagori353 (3)b.jpg

力説しておりますが
私は学芸員とか研究者ではなく、城好きで暗渠にも興味があるというだけの会社員です。ですから、あくまでその程度の意見として受け止めて下さい。ただ、何となくそう思うという人と共有できれば幸いです。

そもそもが「だから何?」と言われてしまえばそれまでの話ですよね。ただ「そこに本来あったもの」を想像してみる。それも城跡の楽しみ方だと思っています。そのヒントとなるものが、位置的に説得力のある暗渠だった。今回はそんなお話でした。

拙ブログ、最期までお読み頂きありがとうございました。


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タグ:暗渠と城跡
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2019年07月20日

深谷上杉氏の居城 深谷城のなごり

つわものどもが夢の跡
深谷上杉氏の城跡を訪ねました

<深谷城跡>
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深谷駅から約1q。最初にこの光景が目に飛び込んできました。不慣れな街なので、ちょっと安心した瞬間です。

■深谷城のなごり■
まず深谷市の地形をおおざっぱに説明すると、南側が台地、そして北側が低地となっており、その先には利根川が流れています。深谷城は深谷市の中心部に位置し、台地の北端に築かれています。城より北側は利根川や支流の小山川によって形成された低地が広がり、城そのものは台地上。すぐ東側には北へ向かって流れる唐沢川。だいたいこんな感じですかね。

<説明板>
shirononagori352 (3).JPG
現状は城址公園。その案内です。

<公園内>
shirononagori352 (5).JPG
ほぼ公園です。

のちに経済発展を遂げる深谷市の中心地ですからね。遺構はほとんど失われており、城址公園があることで、この地が城だったことが分る。そんな感じでしょうか。

<冒頭の石垣>
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実はこの立派な石垣も塀も、公園として整備した時のものです。実際の深谷城に、石垣は使われていませんでした。あと、かつての城の縄張りと、位置が一致していません。ですから遺構ではなく、演出なのです。

ではダメなのか?

いや、といもいい感じです。かつてここに深い歴史の城があった。そのことを、地元の皆さんで共有できている。更には、市民の憩いの場となっている。とてもいいですね。ただ、城そのものが好きで訪問する方は、どうぞ誤解のないように。


■深谷上杉氏■ふかやうえすぎ
深谷城は1416年に深谷上杉氏4代当主の上杉房憲が築城したと伝わります。深谷上杉氏は、上杉氏の諸家のひとつで、山内上杉家の流れをくむ一族。武蔵国において勢力を誇っていましたが、小田原北条氏の勢いが武蔵国にまで及ぶと、その傘下に組み込まれました。当時の北条氏は、河越城の戦いで勝利して勢力拡大の真っ最中です。関東の諸氏が次々と北条氏に下るなか、深谷上杉氏は深谷城を拠点に抵抗を続けましたが、最後は降伏せざるを得ませんでした。

1590年の秀吉による小田原征伐(1590年)の際には、8代当主・氏憲が北条側として小田原城に詰めていました。城主不在の深谷城は重臣の秋元長朝らが守り、天下軍を相手に奮戦しましたが、全滅を避けるべく開城しています。北条氏が滅びると、深谷上杉氏も所領を失うことに。深谷城には徳川家康の家臣・松平康直が入りました。


■長沢松平家■
深谷城に入った松平康直は、長沢松平家第9代当主で、父であり8代当主の松平康忠はいわゆる『徳川十六神将』の一人として数えられる家柄です。康直は、秀吉の小田原征伐の際には岩槻城攻めに参加しており、その戦功により武蔵国深谷1万石と深谷城を与えられました。しかし若くして病没。嗣子が無かったことから徳川家康の七男・松千代が長沢松平家を継ぐものの5歳で早世。家督は松千代の兄・辰千代が継ぐことになりました。

辰千代、のちの松平忠輝は徳川家康の六男です。家康の子に間違いないのですが、忠輝は長らく家康から冷遇され続けました。生後間もない弟の方が先に深谷藩1万石の藩主となっているあたりが、それを物語っています。その忠輝が武蔵国深谷1万石から下総国佐倉5万石に加増移封された時、深谷藩は一旦廃藩となりました(1602年)。


■酒井家による深谷藩■
1622年(元和8年)、酒井忠勝により再び深谷藩が立藩されます。忠勝は老中、やがては大老にまでなった人物です。藩政にも力を注ぎますが、1627年に父である酒井忠利が亡くなり、これに伴い跡を継いで川越藩主となりました。深谷藩は廃藩(1627年)。その後しばらくたった1634年、深谷城も城としての役割を終えたようです。

<城址公園内>
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遺構ではありませんが、重厚でいい感じです。

<石垣と説明板>
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説明も丁寧です。右手の説明板には縄張り図もありました。この縄張り図はややラフですが、この城跡唯一の遺構を確認する時に役に立ちました。


■唯一の遺構■
城址公園の東側の富士浅間神社付近に、唯一といっていい遺構が確認できます。
<深谷城外濠跡>
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深谷市指定文化財とあります。

<外濠跡>
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とはいえやや迫力に欠ける堀跡

勿論もっと深い濠だったのでしょう。この位置が外濠のライン。それが確認できただけでも有り難いですね。

<説明板の拡大>
shirononagori352AD.JPG
公園内の説明板にあった縄張り図です。この図を参考にすると、東曲輪、あるいはそのお隣の櫓と記載されている区画の外側が、この濠跡と一致するのかもしれません。

<富士浅間神社>
shirononagori352 (11).JPG
せっかくですので濠跡が残る富士浅間神社もご紹介します。こちらは鳥居

<拝殿>
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拝殿です。創建は不明ながら、深谷城内の鎮守の一つで、1440年勧請とも伝わります。

現地はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
深谷城は松平氏・酒井氏により江戸初期まで使用された城跡。しかし歴史の大半は深谷上杉氏の居城です。関東管領・山内上杉氏の同族が城を築き、武蔵国で一定の勢力を保ちながら深谷の地を治めた。この史実とともに、城周辺の地形もおおまかには実感できたので、満足な訪問となりました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori352 (9).JPG

------■深谷城■------
別 名:木瓜城
築城主:上杉房顕(深谷上杉氏)
築城年:1456年
城 主:深谷上杉氏
廃城年:1634年
現 況:深谷城址公園
[埼玉県深谷市本住町]


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2019年07月14日

東方城のなごり 深谷市

つわものどもが夢の跡
深谷城の支城的な役割を担ったとされる東方城跡を訪ねました。

<東方城跡>ひがしがたじょう
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■東方城■ 
築城時期については定かではありませんが、深谷上杉氏家臣の城だったと伝わりますので、室町時代には既に存在していたと思われます。

深谷上杉氏は上杉氏諸家のひとつで、深谷城を本拠に武蔵国で一定の勢力を誇っていました。しかし戦国期に突入して、小田原の北条氏の勢力が関東に及ぶとこれに服従。その北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされると、所領没収となりました。

関東にたくさんあった中世の城は、このタイミングで廃城となるケースが多いですね。しかし今回訪問の東方城は、もうちょっとだけ城としての役割を担うことになります。関東へやってきた家康の家臣・松平康長が1万石の所領で東方城へ入ることに。康長は家康の古からの家臣で、先述の小田原征伐でも上野白井城を落とす武功を挙げています。そういった戦歴を経て、1万石とともに城を与えられたわけですね。
康長は関ヶ原の戦でも活躍し、これが認められて上野国白井藩(群馬県渋川市)に加封されることになります(1601年)。東方城はこの頃に廃城となったと思われます。

<現地到着>
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この道もかつての城のなごりでしよう。右手は明らかに土塁です。左側も土塁だとすると二重土塁でしょうか。あるいは堀切?

<土塁の上>
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土塁の上に登って撮影。城は原型を留めていませんが、しっかりとした遺構が確認できます。

<土塁の上から見た曲輪>
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ただし藪の中なので、探索は一苦労。全体の一部なのか、あるいはこの空間だけの単郭だったのか、ここだけでは判断できず。

<曲輪の中>
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土塁から降りて曲輪の中へ
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いい感じの土塁が曲輪を囲んでいます。ただ身動きがとれないことと、窮屈な空間に若干の不安を感じ、一旦外へ出てることにしました。

道を下って正面と思われる側に回ってみました。

<虎口>
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曲輪の北側です。ここがむかしからの入り口なのでしょうか。城跡を縁取るように、水路が施されています。

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だいたいこんな感じですが、草木が多くて全体が良く分かりませんね

<上から撮影>
shirononagori351 (1).JPG
さきほどの曲輪らしき場所を高い位置(県道261号)から撮影しました。東方城は台地の端に築かれていることが分ります。そして城の正面入り口は低地。台地の斜面も含めて城だったという理解で良いですかね。

上の画像の手前の道からもっと接近してみたかったのですが、私有地と思われ、更に暮らしに直結した領域と判断し、立ち入りはしませんでした。実は事前の情報で、台地上の個人宅の奥に土塁があると聞き及んでいたのですが、訪れてみると固く門が閉ざされており、断念しました。門は明らかに後から造り足した頑丈なものです。あくまで想像ですが、心無い訪問者に困ってのことなのではないでしょうか。

東方城跡は市指定史跡となっていますが、見学に配慮は必要です。城跡巡りはあくまで趣味の世界。実際にそこで暮らしている人達の迷惑になってはいけませんよね。

<つわものどもが夢の跡>
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現地で城の全体像を実感することは困難です。しかし、かつてここに城があったことは実感できます。城があったということは、誰かの思惑が込められていたということ。その欠片に触れることができました。

------■東方城■------
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
城 主:深谷上杉氏・北条氏
    松平康長
廃城年:1601年頃
[埼玉県深谷市東方]


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宮ヶ谷戸城跡とされる場所 (深谷市)

埼玉県深谷市の城跡巡りのつづきです。事前に決めていた行先の途中、城跡と言われている場所があるらしいことが分かり、ちょっと立ち寄ってみました。

<住吉神社>
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深谷市宮ヶ谷戸の住吉神社です。この付近が宮ヶ谷戸城跡という情報を得て訪問しました。

<拝殿>
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一応手を合わせました。祈りごとではなく、お邪魔しますをお伝えするために。

<境内>
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境内はシンブルながら良い雰囲気で、松尾芭蕉の句碑などもありました。ただ、城に関わるものは何もない。少なくとも私の見た限りにおいては。

<周辺>
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まとまった広さの敷地を見つけ、うろうろと歩き回りましたが手がかりなしです。他は個人宅なので撮影しませんでした。


そもそも宮ヶ谷戸城とは誰の居城だったのか、あまりはっきりしていません。広々とした方形の城の周囲には、堀と土塁が施されていたらしいのですが、周辺を見た限り、そのなごりが漂う場所はありませんでした。

まぁこういうこともあるだろう

ということで
今回は城跡とされるエリアに足を運んだが、何も見つけられなかったというお話でした。手短に言えば『徒労に終わった』ということになりますが、城跡巡りをしていれば時々あること。まぁこれもまたいい思い出です。

shirononagori350 (2).JPG
よそ者がお騒がせ致しました

■訪問:住吉神社
[埼玉県深谷市宮ヶ谷戸] 181番


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深谷城の北の出城 皿沼城のなごり

つわものどもが夢の跡
せっかく深谷市に来たので、川沿い散歩も兼ねて『城跡とされる場所』を訪ねました。

<現地>
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目標としたのは唐沢川に架かる橋です。その東側に石碑と説明板がある。たったそれだけの情報で川沿いを歩きました。

■訪問記■
<唐沢川>
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こちらは利根川水系の唐沢川です。深谷市の北側は利根川となっており、この川も南から北に向かって流れています。その流れに沿っててくてくと。大まかに言えば低い方へ向かって歩いていています。

<川が交差する地点>
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城跡とは関係ありませんが、ちょっとここで足が止まりました。唐沢川に向かって直進してくる川を発見。福川といいます。分かりにくいので筆をいれさせてもらいました。赤↓が橋、青い線が福川です。合流するのではなく、唐沢川を潜って通過するんですね。だから何?といわれればそれまでですが、水路好きなので。こういうのを「伏せ越し」といいます。治水に力を入れている証と受け止めることもできますね。

<現地到着>
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さてさて、けっこう歩いてやっと到着。遺構は無いと知りつつも、立派な石碑に一安心した瞬間です。ただ、このあと想定外の事実を知ることに。

<石碑>
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唐沢放水路記念碑?あら、城跡とは関係ないのですね

事前のネット検索で、この光景は頭に入っていましたが、城と関係あるのは隣の説明板だけのようです。石碑と説明板がセットと思い込んでいました。まぁ何もないよりいいですかね。この地点には、説明板を立ててくれた方々の思いが込められているのですから。

<説明板>
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深谷上杉氏家臣の城があったようです。戦国末期、深谷城を本拠とする深谷上杉氏は小田原北条氏の配下となっていましたが、その北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、この地にあった城は廃城になったようです。

情報が少ないため、以下に現地説明板を抜粋させて頂きます。
『深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信からその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。』
[出典:深谷上杉顕彰会説明文]

築城者は深谷上杉氏の家臣・岡谷香丹(おかのやこうたん)。城は周囲より高台となっていたが、レンガの原料として削られ姿を消した。ということですね。現地は他には何もないようなので(空堀跡があると聞きながら確認できず)、説明文にあった諏訪神社を訪ねることにしました。

<諏訪神社>
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城の鎮守とされた諏訪神社です。城跡の説明板から南へ向かって少し歩いたところになります。

<社殿>
shirononagori349 (11).JPG

<盛り土>
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境内の隅に土を盛った跡があります。土塁?確証はありません。

ところで
地名の皿沼。気になる名前です。地名がその土地の地形などを表しているケースは多いですからね。
サラ」はいろいろ解釈ができますが、新しいとか浅いとか、そんな意味ですかね。新しい沼?人が新しく開拓した沼地?あるいは浅い沼?浅く広がる沼のような湿地?だからサラ沼。いずれにせよ、城は地名から連想されるような低湿地に築かれたのでしょう。そう受けとめることにしました。

■つわものどもが夢の跡■
深谷上杉氏の本拠・深谷城の北を守備するための出城です。深谷城が深谷上杉氏の手を離れる時に、城としての役割は終りました。

------■皿沼城■------
別 名:上敷免城
築城主:岡谷香丹
築城年:1492年(延徳3)
城 主:深谷上杉氏
(岡谷香丹・清英)
廃城年:1590年頃(天正18)
[埼玉県深谷市上敷免字皿沼]



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2019年05月26日

新河岸川沿いの寺尾城比定地(川越市)

つわものどもが夢の跡
小田原北条氏家臣の城跡と言われる場所を訪ねました。

<寺尾城比定地>
shirononagori338 (7).JPG
訪問は新河岸川沿いの日枝神社(川越市)です。

■あくまで比定地■
かつてこの付近に北条氏の家臣・諏訪右馬亮(うまのすけ)の守る寺尾城があったという説があります。ご紹介の前に言っておきますが、それ自体が定かではなく、それらしい遺構もありません。そんな内容で良ければお付き合いください。

<目的地>
shirononagori338 (2).JPG
こちらが今回の目的地と定めた日枝神社です。左手に見えているのは新河岸川。ここは旭橋の近くの高台です。

<日枝神社>
shirononagori338 (3).JPG
shirononagori338 (4).JPG
創建は明らかではありませんが風格が漂います。

<斜面>
shirononagori338 (6).JPG
こういった高低差は人の手によるものでしょうか?それなら城の遺構と言えますが、定かではありません。

<高低差>
shirononagori338 (5).JPG
日枝神社を低い位置から撮影。まぁこんな感じです。周辺を見て歩きましたが、この付近だとやはりこの日枝神社周辺を主郭、あるいは物見とするのが妥当と思われます。

<新河岸川>
shirononagori337 (4).JPG
寺尾城跡と思われる高台はこの画像の右手の森です。見晴らしの良い低地沿いの高台に築かれた城ということになりますね。

■謎多き川越の寺尾城■
寺尾城の主とされる諏訪右馬亮は、河越夜戦の際に、北条家臣として上杉方との折衝に当ったと「北条記」に記されているそうです。今回訪問の地がその拠点だとすれば、川越城の南側の出城のような役割を担っていたのかもしれません。そうだとしたら、北条氏の戦略上とても重要な城だったことになりますね。

ただ、この地が寺尾城だと言い切るには根拠は乏しく、更には寺尾城の存在そのものもはっきりとはしていないそうです。だとしたら、これはもう「そうだったら面白いのになぁ〜」という想像で楽しむしかありません。

ということで
今回はあくまで比定地を訪ねてみたという内容でした。拙ブログ、最後までお付き合い頂きありがとうございます。

-------■ 寺 尾 城 ■-------
別 名:諏訪右馬亮居城
築城年:不明
築城者:諏訪右馬亮?
城 主:諏訪右馬亮?
[埼玉県川越市寺尾]
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2019年05月19日

起死回生の奇襲劇 河越夜戦跡(東明寺)

つわものどもが夢の跡
日本三大奇襲のひとつに数えられる河越夜戦の激戦地を訪ねました。

<東明寺>とうみょうじ
kawagoeyoikusa (4).JPG
境内の石碑です。この付近が河越夜戦の激戦地と伝わる場所です。

■河越夜戦■かわごえよいくさ
河越夜戦とは、小田原北条氏の三代目当主・北条氏綱が、川越を舞台に約10倍という数的不利を覆して勝利した戦いを指します(1546年)。

【経緯】
川越城(河越城)はもともと扇谷上杉氏の居城でした。しかし念願の関東進出を果たした北条氏綱により城は落とされ、小田原北条氏配下の城となります。氏綱が没すると、川越城奪還を目指す扇谷上杉氏は、それまで対立関係にあった古河公方及び山内上杉氏と手を組み、総勢8万の連合軍で川越へ押しかけます。

8万もの兵が本当に集まるのか?これはもう、号令をかけてるのが古河公方の足利晴氏、関東管領の山内上杉氏(上杉憲政)、そして扇谷上杉氏(上杉朝定)ですからね。三役揃い踏みのような状況です。関東の大名のほとんどがこれに従い、約8万となったようです。

氏綱のあとを継いだのは嫡男の氏康。この時、駿河の北条領へは今川氏が侵攻を開始しており、当主になっていきなり窮地に立たされます。氏康が駿河に出陣している間、川越城を守ったのは義弟の北条綱成。綱成は氏綱に気に入られ北条一族に迎え入れられた(妻が氏綱の娘・氏康の妹)で、地黄八幡(じきはちまん)と称される闘将でした(黄地に八幡大菩薩を記した旗指物を掲げていたことから)。8万人に包囲された城を、約3千の兵で半年余りも籠城戦で凌ぎました。これについては、上杉側が綱成の武勇を知っていて、無理をせず兵糧攻めを選んだという説もあります。まぁいずれにせよ大ピンチ。氏康は不本意ながら今川氏と和睦を成立させると、急ぎ綱成が守る川越城救出へ向かいます。

【奇襲】
北条氏康が率いる兵は8千。一方、川越城を包囲している大軍は8万です。城内の3千人を加えたとしても、圧倒的に不利な状況。当然ながら、北条側はまともに戦っては勝てませんね。

北条氏康は交渉術にも優れた戦国武将です。和議を持ちかけるなどして相手方の出方を探り、油断を見極めた上で、ここぞというタイミングで一気に勝負に出ました。連合軍側の油断には、大軍ゆえの驕りもあったかと思われますが、川越城が半年も落ちなかったことで、既に軍律が乱れていたと考えられています。

1546年5月19日の夜。氏康は自ら兵を率いて敵陣へ攻撃を仕掛けました。不意を突かれた連合軍は大混乱となります。更に城内で待機していた綱成の兵が加わり、北条側の大勝利となります。僅か1万1千の兵が、8万の軍を蹴散らした瞬間です。連合軍の死傷者は1万人以上(13,000人〜16,000人)だったと伝わります。

【戦後】
この戦いにより、第4代古河公方・足利晴氏は、川越から本拠地の古河へと敗走。権威も失墜し、その後勢力を回復することはありませんでした。
一方、関東管領にして山内上杉氏の15代当主であった上杉憲政は、この敗北の後に家督と関東管領職を長尾景虎に譲っています。そして、かつて川越城を居城としていた扇谷上杉氏ですが、当主・朝定が命を落として断絶となりました。

<東明寺山門>
kawagoeyoikusa (2).JPG
時宗の寺院で山号は稲荷山。

<説明板>
kawagoeyoikusa (5).JPG
河越夜戦は東明寺寺領と境内で行われたものという説明になっています。このことから東明寺口合戦ともいうそうです。


■三大奇襲とは■
日本三大奇襲とは以下の3つの戦いを指します。
●河越城の戦い (1546年)
北条氏康
vs上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏
●厳島の戦い (1555年)
毛利元就vs陶晴賢
●桶狭間の戦い (1560年)
織田信長vs今川義元

どれも圧倒的な数的不利を、起死回生の奇襲で逆転勝利した戦いですね。北条氏康は上杉謙信や武田信玄と関東の覇権争いをした名将。そして自軍を奇跡的な勝利に導いた実績では、毛利元就や織田信長と肩をならべています。もっと有名でも良い戦国武将ですよね。


■つわものどもが夢の跡■
北条氏の祖である早雲は、ネズミが2本の大杉を食い倒し、のち虎になった夢を見て、関東への進出を決意したそうです。ネズミは子年生まれの自分、大きな2本の杉は即ち山内と扇谷の両上杉氏のことです。二代目の氏綱が関東進出を果たし、三代目の氏康は両上杉氏を実質滅亡させています。奇襲として有名な河越夜戦ですが、それは北条三代で繋いできた夢が叶った瞬間でもあるわけですね。

<つわものどもが夢の跡>
kawagoeyoikusa (1).JPG

■訪問:東明寺
[埼玉県川越市志多町]



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タグ:北条
posted by Isuke at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]
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