2022年01月10日

赤山陣屋のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は久々の訪問となった川口市の赤山陣屋の話です。

<赤山陣屋堀跡>
Akayamajinya-WestSide.JPG
極寒の師走、一人でてくてくと歩いてきました

■伊奈忠治の陣屋■いな ただはる
ここ赤山陣屋は、江戸時代の関東において、治水事業・新田開発で功績を残した伊奈氏の本拠地です。伊奈氏三代目の忠治により築かれました。

<赤山陣屋入口>
Akayamajinya-Entrance-Stone-Monument.JPG

<赤山日枝神社> あかやまひえじんじゃ
Akayama-HieJinjya-Torii.JPG
Akayama-HieJinjya.JPG
盛り土の上に鎮座する日枝神社。空堀を造成する時の土を積んだとされています。

拝殿近くの説明板に「山王三社」に関する記載がありました。赤山陣屋にはもともと天神社・八幡社・御陣山稲荷社が各々鳥居を構え別棟で祀られていました。しかし陣屋なきあと荒廃し、明治になって合祀され、赤山村の鎮守とされたようです。

<本殿>
Main-shrine-HieJinjya.JPG
日枝神社という社号は明治以降です


<伊奈陣屋説明板>
Akayamajinya-Information-Plate.JPG
伊奈氏と赤山陣屋、そして伊奈氏の成した事業について説明がなされています。

ここに限らず、陣屋跡のあちらこちらにこういったプレートが設置されています。大変広いので、縄張り図とともに現在位置が表示されているのがありがたいです。その縄張りですが、本丸と二の丸を基本として、周囲に家臣の屋敷のための曲輪を、北側には出丸を配置した構造となっています。平面図の上では複雑な縄張りには見えませんが、沼地を含むもともとの地形を活かした巧みな設計になっています。土木事業で名を馳せた伊奈氏ですので、当然なのかもしれませんね。

<東堀>
Akayamajinya-Horiato.JPG
先ほどの日枝神社(山王社)近くの堀跡。陣屋の東側です

<赤山城址碑>
Akayamajinya-Castle-Stone-Monument.JPG
本丸の最南端付近の城址碑。両脇には説明板が設置されています。かつての本丸虎口はこの辺りと考えられます。

<説明板>
Akayama-Castle-Map-Information.JPG
地図とともに詳細な説明が記されています。一部抜粋させて頂くと『伊奈半十郎忠治が、元和4(1618)年頃に在地支配と開発事業の拠点とするために築いたと言われています。以来、10代忠尊が改易された寛政4(1792)年までこの地に存続しました』とのこと。

本丸と二の丸だけでも約110,000u、周囲の家臣持ち分の区画なども含めると約770,000uにも及ぶ広大なものだったことも記されています。伊奈氏が管轄する土地は30万石を越えますが、藩主ではなく、あくまで幕府の土地を管理する代官です。それゆえ陣屋と呼ぶのが正しいのかもしれませんが、規模や構造でいうと城といった方がしっくりくるかもしれません。

<本丸跡>
Akayamajinya-Homaruato.JPG
いまは何もありませんが、宅地化されてしまうことなく、陣屋跡として維持されています。

<南堀跡>
Akayamajinya-Minami-Hori.JPG
植木に保護されるようにして、かつての南堀が残されています

<西堀>
Akayamajinya-West-Moat.JPG
Akayamajinya-West-Moat-Bend.JPG
この付近も整備された堀跡ではありますが、何となく昔の雰囲気が漂います

<二の丸>
Akayamajinya-Second-Section.JPG
陣屋跡は一部で私有地と区別がつかないところもあります。見学する方は、少なくとも畑に足を踏み入れるのはやめましょう

<二の丸の最西端>
Akayamajinya-Ninomaru.JPG
二の丸の西の端です。あまり凝ってない平らな区画が良いですね。曲輪の向うは斜面になっており、縄張り図と一致します。曲輪の奥の方(画像だと右手)に土が盛ってあり、一段高くなっています。物見のための区画と受け止めましたが、詳細は不明です。

<赤山陣屋の北側>
Akayamajinya-Castle-North-Side.JPG
竹林に囲まれた雰囲気の良いエリアです

<北堀>
Akayamajinya-North-Moat.JPG
低くなっているところが、そのまま北側の堀と推定されます。前回訪問した時は、ここが陣屋の最北端と思っていました。しかし今回の訪問で、更に北に出丸があったことを知りました。

<外環道路>
Elevated-Road-Akayama.JPG
出丸とされる区画はあの外環道路の向こう側になります

<出丸案内板と出丸跡>
Akayamajinya-Castle-Outside-information.JPG
現在は霊園墓地となっています。遺構はありませんが、出丸の周囲は沼地だったことが何となく伝わってくる場所でした。地形を味わうという意味では、訪問してみて良かったです。

■関東郡代伊奈氏■
赤山陣屋を築いた伊奈忠治は、家康に古くから仕えていた伊奈忠次の次男です。関東諸代官を統括する役割を担っていた父の後継者となり、父と同じく治水事業・新田開発で実績を残しました。また、幕府の直轄領の管理(年貢の管理といった農政全般から裁判・警察といった役割を含む)も任されています。関東郡代とはこの役職のことで、伊奈忠治が初代とされています。伊奈氏はこの役職を世襲し、長きに渡って天領支配に関わりました。伊奈氏の正式な肩書は複数人いる関東代官頭であって、関東郡代は自称とする説もあるようですが、代官として担った役割は同じです。


■陣屋の破却■
三代目忠治以降も、伊奈氏は土木事業を中心に業績を残し、更に飢饉の際の貧民の救済や百姓一揆鎮圧など、領民と直接関りのあるお役目を担い続けました。幕府の財政を下支えし、領民からも信頼を得ていた伊奈氏ですが、12代目忠尊の時に諸々の不祥事で罷免され、所領は没収となりました。163年間も続いた赤山陣屋は、この時に取り壊されました。

<つわものどもが夢の跡>
Akayamajinya-Higashi-Hori.JPG
伊奈一族が拠点とした陣屋跡です

--------■赤山陣屋■--------
別 名:赤山城
築城年:1629年(寛永6)
築城者:伊奈忠治
屋敷主:伊奈氏3代〜12代
廃城年:1792年(寛政4)
[埼玉県川口市赤山]

■参考及び出典
・現地説明板(川口市教育委員会)
・企画展冊子(川口市教育委員会)
 「“みち”との出会い〜赤山街道〜」
・Wikipedia:2022/1/10




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タグ:伊奈一族
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2021年12月30日

赤山陣屋の北の出丸跡

つわものどもが夢の跡
今回は事情を知らないと気づかない赤山陣屋の出丸跡の話です。

■北の出丸■
事前に調べないで「とりあえず行ってみる」という城跡巡りをしていると、あとから見落としに気づくことが多々あります。今回訪問の赤山陣屋も、過去に数回お邪魔していますが、縄張り図にある出丸をある程度は特定できると分かり、足を運んでみることにしました。

<赤山陣屋の北側>
Akayamajinya-Castle-North-Side.JPG
ここは何度かお邪魔した場所。ここからが陣屋跡と勝手に思い込んでいました。

<案内板>
Information-Demaru.JPG
こんなプレート前からあったかな?

よく見れば現在位置より更に北側に「出丸」と表示されています。

といっても

<外環>
Elevated-Road-Akayama.JPG
北側には陣屋跡をかすめるように外環道が迫っています。

<外環道下の通路>
Other-Side- of-Elevated-Road.JPG
あの向こう側が出丸?

ということは

<堀のなごり>
Akayamajinya-Castle-North-Moat.JPG
外環道脇のこういう窪地も堀跡なのか?

せっかく通り抜けできるので、とりあえず行ってみることにしました

<出丸跡>
Akayamajinya-Castle-Outside- Fort.JPG
ここが・・・出丸?

現在は霊園墓地となっています(一般の方のお墓が写っているので少し加工させて頂きました)。遺構はありません。赤山陣屋は低湿地に囲まれた台地上に位置しています。先ほどの縄張り図によれば、霊園墓地の更に向こう側も外堀の役割を果たした沼地だったようです。

<出丸案内板>
Akayamajinya-Castle-Outside-information.JPG
出丸跡である旨を記した案内が設置されていました。自分の勘違いも含め、かなり疑っていたので助かりました。

出丸とは城本体から張り出すように設けられた曲輪のこと。状況によっては戦の最前線となる重要な防衛施設です。赤山陣屋の場合、激しい攻防戦があったとは聞き及んでいませんので、城の中核の補強と受け止めました。ただ、出丸の三方が沼地ということで、有事になれば充分機能した出丸ではないでしょうか。
治水を中心とした土木工事で名を馳せた伊奈氏の陣屋です。その辺りは抜かりがあるはずないですかね

ということで
知っていなければ素通りしてしまいそうな出丸跡のご紹介でした。

--------■赤山陣屋■--------
別 名:赤山城
築城年:1629年(寛永6)
築城者:伊奈忠治
屋敷主:伊奈氏3代〜12代
廃城年:1792年(寛政4)
[埼玉県川口市赤山]


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2021年10月11日

敗軍の将 終焉の地(川越市)大道寺政繁供養塔

つわものどもが夢の跡
小田原北条氏の重臣だった大道寺政繁の終焉の地の話です。

<大道寺政繁供養塔>だいどうじ まさしげ
Didouji-Memorial-Tower.JPG
北条氏康・氏政・氏直の三代に仕えた大道寺政繁の供養塔です。多方面で活躍した政繁の終焉の地はここ川越でした。

■ 御由緒六家 ■ごゆいしょろっけ
大道寺家小田原北条氏配下屈指の名門家です。いかに重要視されていたかは、WIKIさんの御由緒六家に関する説明を読んで頂ければ伝わると思います。
『若き日の伊勢新九郎入道宗瑞(北条早雲)は、伊勢国の大道寺・多目・荒木・山中・荒川・在竹の6人と親しく交友していた。あるとき7人で関東へ修行に下ることになり、神水を酌み交わして「この中の誰か1人が大名になったら、他の者は家臣となってその人を盛り立て、国をたくさん治めよう」と誓い合い、それぞれ関東へ下った。早雲は今川氏親から駿河国富士郡下方庄を賜った後、6人の兵を招いて伊豆国へ討ち入り、6人は早雲の家老となって伊豆国を治めた。』
[出典元:Wikipedia]
つまり大道寺家と北条家は昨日今日の付き合いという訳ではないということです。政繁はその三代目で、代々の通称である孫九郎を名乗り、北条の主要な合戦での武功のみならず、任された職や町の統治、更には治水や農地開発などでも実績を残しました。

名実ともに実力者

だったわけですね


■北国軍を迎え撃つ■
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。20万を超える大軍は複数に分かれ、関東に迫りました。このうち、東山道から侵攻する北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸他)を食い止めるべく、大道寺政繁は碓氷峠に出陣します。

しかし兵力の差は明らか。敗走を余儀なくされ、松井田城に籠もります。松井田城はもともとあった城に政繁が大改修を施した堅城。しかし、圧倒的な大軍を防ぎきることはできませんでした。水も兵糧も底をつき、開城降伏となりました。


■ 敵の案内役 ■
大道寺政繁がどんな条件で降伏したのかはわかりません。ただ、その後に敵である豊臣勢の案内役をかってでたことは事実のようです。北条方の忍城、松山城、鉢形城への道案内に続き、八王子城では自身の率いる兵を突入させ、豊臣側の勝利に貢献しました。

裏切り?

そういう評価もあります。ただ、私はきっと深い考えがあってのことだと思っています。理由?根拠はありません。ただ、そう思いたいという理由はあります。

それは
『花の慶次』に描かれた大道寺政繁が
慶次も認める猛将だったから


たったそれだけです。
 

■ 開戦責任 ■
小田原城が陥落した後、大道寺政繁は秀吉から切腹を命じられます北条氏政・氏照の兄弟、そして重臣の松田憲秀らと同じく、開戦の責任を咎められてのことです。

豊臣軍に協力したのに?

この結末には、秀吉が寝返り行為を嫌ったから、あるいは秀吉家臣と意見が対立したからなど諸説ありますが、はっきりとはしていません。

政繁は自らの本城である河越城下常楽寺にて切腹して果てました(1590年8月18日:享年58歳)。

<常楽寺表門>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
政繁の供養塔がある埼玉県川越市の常楽寺です。墓所は群馬県安中市の補陀寺にあります。

<本堂>
Didouji-Masashige-Joushinji.JPG
本尊は阿弥陀如来。常楽寺は地元豪族・河越氏の持仏堂が始まりとされています。

そして

<大道寺政繁供養塔>
Didouji-Masashige-Memorial-Tower.JPG
大道寺政繁の供養塔は一般の方のお墓と同じ区画にあります。当ブログ、お墓はなるべく掲載しないことにしていますので、画像に手を加えさせて頂きました。

<法名>
Dharma-Name.JPG
法名は松雲院殿江月常清大居士


■ 敗軍の将 ■
敵に寝返ったような形で終わってしまったことは残念です。どんな複雑な事情があったのか、もはや知るすべがありません。3万5千の豊臣勢に対し、松井田城に立て籠った大道寺政繁の兵は3千。約1ヶ月間持ち堪えましたが、援軍が来るあてもなく、政繁は城兵の助命を条件に降伏する道を選びました。

よく『城主の切腹と引き換えに城兵は救済される』といった話を耳にしますが、これは戦国時代を通しての価値観ではありません。大道寺政繁が戦った北国軍の実質的なリーダーである前田利家は、鉢形城を攻めて開城させた時も、城主の北条氏邦を助命しています。敗軍の将がすなわち切腹というわけではないのです。また、寝返った者が先鋒に回されるという例も、戦国の世では珍しいことではありませんでした。試されて当然ということです。つまり、大道寺政繁が降伏後に腹を切らず、自軍の城に攻め込んだ行動は、当時としてはそんなに不自然なことではなかったように思われます。

<つわものどもが夢の跡>
Masashige-Memorial-Tower.JPG
この地が大道寺政繁終焉の地となりました。どんな思いでこの世を去ったのでしょうか。豊臣軍に勝てないことを悟った政繁は、自分や家来のことのみならず、敗戦後の北条家及び家臣団の存続のことまで考えていたような気がします。そのようには語り継がれていませんが、敗れた大道寺政繁は何かを語る立場にはありませんでした。

ということで
大道寺政繁と終焉の地に建つ供養塔のご紹介でした。極めて個人的な意見も混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。

■訪問:大道寺政繁供養塔
(常楽寺)

[埼玉県川越市上戸]194

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/10/12
花の慶次〜雲のかなたに〜
(原作:隆慶一郎/作画:原哲夫)



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2021年09月19日

河越氏館のなごり

つわものどもが夢の跡
かつて武蔵国有数の勢力を誇った河越氏の館跡を訪ねました。

<河越氏館>
Kawagoe-yakata-ato- (6).JPG

■ 河越氏 ■かわごえし
河越氏は桓武平氏の流れを汲む秩父氏嫡流の一族。平安時代の終わり頃、この地に館を構えて地名である河越氏を名乗りました。冒頭の現地説明板には『河越館跡は、平安時代の終わりころから南北朝時代の中ごろまでの約二百年の間、武蔵国で大きな勢力を誇った在地領主の河越氏の居館跡』と記されています。武蔵国の最大勢力だったわけですね。そして、伊豆で源頼朝が挙兵すると、当初は敵対したものの、のちに御家人となり、平氏討伐軍に参戦しました。説明文からまた抜粋させて頂くと『この頃の河越氏の勢力は、重頼の娘が源頼朝の弟義経の妻に選ばれたことから推し量ることができます。おそらく輿入れの日、重頼の娘は、お供の者たちと河越館から都の義経のもとへ向かったことでしょう』とのこと。河越重頼の娘の名は不明ながら、郷御前(さとごぜん)と呼ばれています。その後何事なければ良い縁談だったことになりますが、頼朝・義経兄弟の対立により、義経縁者である河越重頼は嫡男重房ともども滅ぼされ、娘の郷御前は義経とともにこの世を去ることとなりました。武蔵国覇者であり、中小武士団や国人を取りまとめていた河越氏は、ここで一旦衰退し、鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』からも姿を消します。代々継承してきた地方官僚としての地位は、畠山重忠に奪われることになりました。
[『』内は現地説明板からの抜粋]

■引き続き御家人■
低迷期を経た1205年、鎌倉幕府の執権・北条時政が有力御家人である畠山重忠を排斥する際、河越重頼の次男重時と三男重員(しげかず)が重忠討伐軍に加わっています。これに限らず、二人の活躍は記録に残されており、最盛期には及ばないものの、河越氏は鎌倉幕府の御家人であり続けました。重時は河越氏の家督を継ぎ、重員はかつて河越氏が代々継承した留守所総検校職に任じられています。

■最後の当主■
室町時代、河越氏当主の河越直重は関東を統治する鎌倉府と対立。1368年には平一揆が河越館に立てこもり、鎌倉府に反逆しますが、結果としては敗北(武蔵平一揆の乱:むさしへいいっき)。これ以降、河越氏は歴史の表舞台から完全に消えてしまいました。


<河越館跡史跡公園入口>
Kawagoe-yakata-ato-Sign.JPG
現地に到着して初めて国指定史跡であることを知りました。

<土塁跡>
Road&Earthworks.JPG
公園西側の道路沿いにある土塁跡

<河越館跡史跡公園>
Kawagoe-yakata-ato.JPG
この草原のような敷地が館跡です。広いです。現在は史跡公園として整備され、堀の区画などが記されていますが、リアルな遺構は先ほど目にしたものを含め、区画の周辺を取り囲む土塁だけと思われます。

<北へ続く土塁>
Kawagoe-yakata-Earthworks.JPG

Kawagoe-yakata-ato-Earthworks.JPG

■陣所跡・砦跡■
今回は河越氏の館跡を意識して訪問しましたが、戦国時代初頭には関東管領の上杉顕定が7年に渡ってこの地に陣を構えて、河越城攻撃の拠点としたとされています。また、戦国時代末期には、小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の砦があったと考えられています。その北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされた時に、戦の拠点としてのこの地の役割は終わったようです。

<常楽寺>じょうらくじ
Kawagoes-yakata-ato-temple.JPG
こちらは館跡の一角にある常楽寺です。河越氏の持仏堂が基になったとされています。境内には河越重頼・郷御前の供養塔があります。また、戦国時代にこの地を領し、この地で自害した大道寺政繁の供養塔もあります。


■つわものどもが夢の跡■
Earthworks.JPG
遺構は少ないながら、歴史ははっきりしています。城というより、武士の実態を解明する上での重要な遺跡として国指定となっています。

-------■河越氏館■-------
別 名:河越館・上戸陣所
築城年:平安時代末期
築城主:河越氏
城 主:河越氏、上杉顕定、大道寺政繁
廃 城:1590年
現 況:河越館跡史跡公園
[埼玉県川越市上戸]

■参考及び出典
・Wikipedia:2021/9/19
・現地説明板
(川越市教育委員会)



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2021年07月25日

村を開いた豪族の館を探す(柏崎氏館)

今回はさいたま市岩槻区柏崎にて、柏崎氏館跡と思われる場所を探索したという内容です。最初に触れておきますが、場所は特定されておらず、遺構もありません。そんな内容で良ければお付き合い下さい。

<柏崎久伊豆神社>
kashiwazakiyakata.JPG
ここは舌状台地上の神社の境内です。武蔵七党の野与党の一族・柏崎氏が村を開き、この付近に館を構えたと伝わります。『この付近』という情報しかありません。ただ、境内の地形があまりに興味深かったので、ご紹介させて頂きます。

<境内>
shirononagori550- Kashiwazaki.JPG
愛宕社です(と思われます)。もともと何かの塚があったのでしょうか?城好きが物見台を想像してしまうような盛り土ですね。

これとは別に

<富士塚>
Fujotsuka.JPG
こちらは台地が南側に突き出たところにある富士塚です。

<浅間大神>
shirononagori550- Fuji.JPG
明治34年と記されていますので比較的新しい石碑です。最初から富士塚だったのでしょうか?

<高低差>
shirononagori550- Kashiwazaki-Iwatski.JPG
塚の上から見下ろす低地

<高低差>
shirononagori550-terrain.JPG
逆に下から見上げる台地の斜面

繰り返しになりますが、ここは低地に突き出た舌状台地。地形的にはどこが館跡でも不思議ではありません。


<円福寺の斜面>
terrain-kashiwazaki.JPG
こちらは久伊豆神社の台地よりやや西側の台地と低地。円福寺付近です。地形的には興味をそそられる場所です。

<斜面>
shirononagori550-terrain-Kashiwazaki.JPG
麓から見上げる円福寺の斜面


こんな感じで周辺を歩き回りましたが、低層の台地と低地を実感できるだけで、結論はありません。このまま終わるのも中途半端なので、柏崎氏の存在を示すものをご紹介して終わりにしたいと思います。


<久伊豆神社拝殿>
shirononagori550-.JPG
拝殿左手に由緒が掲示されています

<久伊豆神社御由緒>
shirononagori550- (6).JPG
御縁起の一部を以下に転記させて頂きます。
『柏崎は、武蔵七党野与党の一族である箕勾次郎経光の曾孫柏崎次郎為経という者がこの他に来て開いた村であると伝えられる。当社は、社伝によれば、柏崎氏がこの村の開発に際し村の西方の宮台という所に祠を建て、野与党の守護神である久伊豆大明神を勧請したことに始まるという。』
箕勾次郎経光は『みのわじろうよしみつ』、あと『この他』はこの地ですね。野与党(のよとう)は現在の加須市付近に勢力を誇った武士団ですが、同族は広範囲に進出しています。転記を続けます。

『この話に伝えられる「宮台」は、現在「元産土」と呼ばれている辺りのことで、柏崎の中でも一番の高台に当たり、その側には柏崎氏の館跡もあるが、氏子集落(本田)からは離れていて参詣に不便を来していたため、天明六年(一七八六)に柏崎のほぼ中央に当たる洞照院のあった現在の社地に遷座した。ちなみに、この遷座の際には、村人全員で宮台から本殿を担いで来たと口碑に伝えられる。』
もう少し続きますがここまでにします。

この地を開いた柏崎氏が館を構えたことは確認できますね。現在の元産土と呼ばれるあたり?どこでしょうか。柏崎次郎為経の詳細も分かりませんでしたが、武蔵七党が武蔵国で勢力を拡大した時期から推定して、館は鎌倉時代前後で築かれたと思われます(漠然としたイメージとご理解下さい)。


ということで
遺構もなく場所も分からない探索のお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。


■訪問:柏崎氏館(比定地)
築城年:鎌倉時代頃?
築城者:柏崎為経
[埼玉県さいたま市岩槻区柏崎]
円福寺・久伊豆神社・柏崎小学校付近

■参考及び出典
・久伊豆神社御由緒



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--------追 記--------
この日は主に「湧き水」を目当てに探索するお仲間二人と、円福寺・柏崎久伊豆神社・柏崎小学校付近を見て回りました。湧水探索そのものは更に広範囲で、お隣の真福寺や浮谷・笹久保といったエリアにまで足を延ばしました。

Twitter-Isuke0724.jpeg
7月の炎天下ながら、充実した散策となりました。ご案内頂いた『いこ〜』さんと、当ブログに時々コメント頂く『Gori』さんに感謝申し上げます。

下記は「大宮台地の湧水巡り」をテーマにした『いこ〜』さんのブログです。ほんの一例に過ぎませんが、こういう探索を続けている方と同行させて頂きました。湧水にご興味ある方にお勧めです。

さいたま市岩槻区 箕輪の湧水
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/06/090344


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2021年06月16日

他に類を見ない幅広の障子堀(加須市)騎西城跡

今回はあまり例のない幅広の障子堀の話です。

<現地>
Kisaijo-shoji-moat.JPG
といっても実物を見ることは叶いません。ここは埼玉県加須市の騎西城跡。かつて障子堀があった場所は道路となっており、説明板が設置されています。

<説明板>
Kisaijo-shojibori.JPG
城の歴史とともに、発掘調査のことが記されています。とても貴重な情報ですので、そのまま抜粋させて頂きます。

『障子堀とは堀の中に畝を堀り残し、敵の侵入を阻害するもので畝堀とも呼ばれる。
 ここで発見された障子堀は戦国時代のもので、堀の幅は約五十メートルである。
 堀の中には、深さ約一・五メートルの擂鉢状の穴が整然と並んでいる。障子堀は後北条氏が支配した城に多くみられるが、このような構造は全国的にも珍しい。
 堀からは南北朝期の特徴を残す兜が出土し、全国的にも発掘例の少ないものとして注目されている。これらは戦乱に明け暮れた騎西の姿を、髣髴させるものである。
 加須市教育委員会』


加須市教育委員会さん、ありがとうございます。とても分かり易いですが、当ブログに城の予備知識がほぼない方が訪問してくれることも期待して、僭越ながら補足させて頂きます。

まずこの『堀の中に畝を堀り残し』という言い回しが、そのまま障子堀の造り方の説明になっています。穴と穴の間の壁のことをここでは畝(うね)と呼んでいますが、一般的にこの部分を障子といい、「隔てるもの」という意味になります。この障子(つまり畝)は土を盛るのではなく、穴を掘る時に残す(掘らない)という工程で形になるということですね。『畝堀とも呼ばれる』とありますが、比較的規則正しい間隔で穴が施されている障子堀を畝堀と呼ぶのが一般的だと思います。文字だけだと伝わりにくいので、他の城になりますが、実例をご紹介します。

<障子堀の実例>
Yamanaka-Castle-Shojibori.JPG
こちらは障子堀で有名な中山城で撮影した画像です。貴重な遺構を保護するために表面に芝が植えてありますが、実際は土でした。堀の底に隔てるもの、つまり障子(畝)があることから障子堀と呼ばれています。何となくイメージして頂けたと思います。

さてさて
ここからは補足ではなく驚きです。説明文には『堀の幅は約五十メートル』とあります。50メートルは普通の堀でもかなりの幅ですが、障子堀としては聞いたことがありません(少なくとも私は)。そのあとの『深さ約一・五メートルの擂鉢状の穴が整然と並んでいる』は納得できます。また、障子堀は小田原北条氏が支配した城で多くみられることも納得です。ただ、50メートルの障子堀がとにかく驚きです。文中にもありますが、全国的にも珍しいのではないでしょうか。

ここでもう一度山中城の障子堀を見てみましょう

<中山城>
Yamanakajo-shojibori.JPG
山中城は山城です。ご覧の通り障子堀の先には更に斜面が立ち塞がります。攻め手は障子堀で動きを制限された上に、高低差を利用した城兵の攻撃にさらされます。これでは堪りませんね。

一方
騎西城は平地に築かれた平城です。

<説明板と縄張り図>
Kisaijo-Description.JPG
Kisaijo-Map.JPG
[撮影:現地説明板]
ご覧の通り、城は沼に囲まれています。これはこれで天然の要害といえますね。ただ、山城のような高低差による有利さはありません。

関東を支配した北条氏配下の城には、確かに平城もたくさんありますが、重要拠点とした城はそのほとんどが山城です。支配下となった騎西城の平坦な地形を見て、念入りな施しが必要だと考えたのかもしれませんね。

<発掘調査時の航空写真>
aerial-photograph.JPG
[撮影:現地説明板]
その結果が50メートルもの幅の障子堀だったのかもしれません

以上です。
今回の内容には、いつも以上に私個人の推定が含まれています。城好きというだけで普通の会社員ですので、その程度に受け止めて下さい。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:騎西城跡
[埼玉県加須市根古屋]

■参考及び出典
・現地説明板
(加須市教育委員会)


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2021年06月12日

騎西城のなごり

つわものどもが夢の跡
埼玉県加須市の騎西城跡を訪問しました。

<土塁跡>
Kisaijo-Earthworks.JPG
こちらは土塁跡。騎西城のなごりです。

■現地訪問■
<模擬天守>きさいじょう
Kisaijo-Simulated-Castle-tower.JPG
こちらは模擬天守です。騎西城は江戸時代初期まで存在していた城ですが、実際には天守閣はありませんでした。この地にはかつて城があったことのシンボル的な存在ですかね。

<資料館>
Kisai-Museum.JPG
内部は資料館になっています。よく見れば近代的な鉄筋コンクリートの建物ですが、遠目には城の雰囲気が漂います。

<天神曲輪跡>てんじんくるわあと
Kisaijo-Tenjinkuruwa.JPG
標識によりここがかつて騎西城の曲輪だったことが分かります。遺構はほぼなく、冒頭の土塁のみと言って過言ではありません。

<障子堀跡>
Kisaijo-shoji-moat.JPG
いまは道路となっていますが、ここにはかつて障子堀があったようです。ちょっとした砦ではなく、本格的な城だったことがうかがえます。

<説明板>
Kisaijo-Description.JPG
騎西城の歴史とともに、縄張り図が記されています。沼に囲まれた平城だったようです。

<城山公園>
Kisai-Shiroyama-Park.JPG
なんとなく城跡らしい雰囲気が漂う公園ですが、遺構はありません。

Kisaijo-Shiroyama-Park.JPG
現地で「これは土塁跡でもおかしくはない?」と感じましたが、そんな説明はどこにもなく、更に帰宅してから調べると、位置的にあり得ないようです。残念・・・


■ 城の歴史 ■
現地説明板にも『いつ誰の手による築城かし不明』とあります。続いて『康正元年(1455年)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方・足利成氏が攻撃したのが初見である』と記されていますので、遅くても15世紀半ばには存在していたようです。
足利成氏は鎌倉公方の5代目で、本拠を古河に移して初代の古河公方となった人物ですね。あと、ここでいう『上杉』は深谷上杉氏のことと受け止めさせて頂きます。

■巨大勢力の狭間の城■
戦国時代の関東の城にはありがちなことですが、騎西城も越後の上杉氏と小田原の北条氏という巨大勢力の狭間で翻弄された城です。忍城を本拠とする成田氏と縁戚関係の城となってからは、成田氏が上杉謙信(長尾景虎)に従えば上杉氏、北条氏に従うなら北条氏が支配する城となりました。

1563年(永禄6年)、北条配下であった騎西城は、上杉謙信率いる軍に攻め落とされています。これは武州松山城の救援に間に合わなかった上杉軍が、北条に与する成田氏配下の騎西城に急遽矛先を向けたためでした。この時の城主は成田氏からの養子である小田朝興(説明板だと『小田助三郎』)でした。

さらに約10年後、古河公方の関宿城が北条氏に攻められた際、これを救出すべく出兵した上杉謙信は騎西城(及び菖蒲城)の城下を焼討ちにしています。

仮に上杉に味方していても、北条に攻められたことでしょう。戦国時代の騎西は大変な場所だったわけですね。

■北条氏滅亡後■
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は滅亡。関東に徳川家康が入ると、騎西城には松平康重が2万石で入りました。関ヶ原の戦いの後、松平康重は常陸笠間3万石に加増となり、代わりに大久保忠常が騎西城主となりました。松平康重は、家康の実の子ではないかと噂された人物。大久保忠常は、小田原城主で老中にもなった大久保忠隣の長男。江戸から近いこともあり、武州騎西にはそれなりの人物が抜擢されたわけですね。


<つわものどもが夢の跡>
Kisai-Castle-tower.JPG
忍城成田氏の影響を受けた騎西城は、上杉と北条の攻防戦の舞台となり、やがて徳川配下の城となりました。騎西が川越藩領となる時に城としての役割を終えました(1632年)。

--------■ 騎西城 ■--------
別 名:根古屋城 山根城
    私市城(きさいじょう)
築城主:(諸説あり)
築城年:不明(15世紀半ば?)
改修者:松平康重
城 主:佐々木氏 小田氏
    松平氏 大久保氏
廃城年:1632年
[埼玉県加須市根古屋]

■出典及び参考
・現地説明板
・Wikipedia:2021/6/11


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posted by Isuke at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[埼玉]

2021年06月11日

軍神が攻め落とした騎西の城

つわものどもが夢の跡
あの上杉謙信が攻め落とした城の跡地を訪ねました

<騎西城>きさいじょう
Kisaijo-Simulated-Castle-tower.JPG
こちらは模擬天守です。実際には天守閣のない城でした。かつてこの地に城があったことのシンボル的な存在で、内部は資料館になっています。

■成田氏配下の城■
騎西城の築城年は不明ながら、15世紀半ばには既に存在していたと考えられています。戦国時代に城主だった小田顕家が、忍城を本拠とする成田氏から養子迎えて家督を譲ったことで、騎西城は成田氏と縁戚関係の城となります。この時、小田顕家本人は隠居。これが本人の希望だったのか、あるいは成田氏からの圧力だったのか、背景はちょっと分かりません。


■軍神が襲い掛かった城■
成田氏からの養子である小田朝興(ともおき)が城主だった時に、上杉謙信率いる軍勢が騎西城に襲い掛かります(1563年)。これには深い事情がありました。

この歳、謙信は小田原北条氏と武田氏の連合軍に包囲された松山城を救うべく、越後から関東へ兵を進めていました。松山城は現在の埼玉県東松山市です。新潟からはちょっと遠いですね・・・。上杉謙信に与する関東武士・太田資正が激しく抵抗しますが、岩槻城主に過ぎない武将が、単独で巨大勢力に立ち向かうには限度があります。越後からの援軍が到着する前に、城主上杉憲勝が降伏して松山城は陥落。この結末が、謙信の騎西城攻撃に繋がったと考えられています。


■太田資正の進言■おおたすけまさ
兵を率いて山を越えながら間に合わなかった謙信は、松山城を任せてあった太田資正に相談(実際は複雑なやり取りがあったと思われますが、ざっくり言うとそうなります。補足すると、松山城は資正が北条氏から奪還した城でしたが、それをまた奪われた形となっていました)。資正は兵力を持て余す謙信に対し、騎西に城があり、これを守る小田朝興は忍城主成田長泰の弟で、実質的に忍城の支城であることをほのめかします。忍城の成田氏は、もともと上杉謙信に従っていながら、小田原北条氏に鞍替えした経緯があります。つまり敵です。謙信は8千騎とも伝わる大軍で騎西城を攻め落としました。

<天神曲輪跡>てんじんくるわあと
Kisaijo-Tenjinkuruwa.JPG
決戦の場が松山城であったなら、素通りされたわけですね。

<説明板と縄張り図>
Kisaijo-Description.JPG
Kisaijo-Map.JPG
[出典:現地説明板]
埼玉県の城にありがちですが、ここも沼に囲まれた平城でした。謙信もこの城の要害性を認めています。


■つわものどもが夢の跡■
小田原北条氏の勢力が拡大しつつある武蔵国にあって、岩槻の太田資正は上杉側の最前線としてこれに抗いました。謙信から信用されているこの武将の助言が、そのまま上杉軍の騎西城攻めに繋がったわけですね。
<土塁跡>
Kisai-Castle-Earthworks.JPG

■訪問
騎西城跡(私市城跡)
[埼玉県加須市根古屋]

■出典及び参考
・現地説明板
・Wikipedia:2021/6/11


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