つわものどもが夢の跡
川越城争奪戦の際に、陣所になったと伝わる場所を訪ねました。
<陣所跡>
砂久保陣場跡(=陣所跡)とされる砂久保稲荷神社です。
<説明板>
周辺も含めて、何ら地の利の無い平坦な場所です。本当にここで良いのか?という不安は、立派な説明板で払拭されました。
<説明書き>
そうとう詳しいです。多少は予習をしてきましたが、ここでじっくり読めば充分です。
<分布図>
これは有難いです。城の配置を見るだけで、大まかな勢力分布が分かります。専門の方は別として、ごく普通の歴史ファンは、まず実感が湧くことが大切ですよね。
説明書きはちょっと長いので、抜粋させて頂きながら私なりに説明させて頂きます。『』内はオリジナルの抜粋です。
まずこの陣所についてですが『戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所』ということになります。続いて当時の関東の勢力分布についてですが、北条早雲まで遡って説明されていますので、ちょっと省略してここ川越での戦いに絞って抜粋させて頂きますと、『北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開』し、その救援に駆け付けた北条氏康が『砂窪(砂久保)に着陣』したということです。やがて『上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかり』ますが『氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面から北条方は勝利』ということに。この結果として『上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅び』ることになりました。
[原文:川越市教育委員会]
世にも有名な「河越夜戦」の話ですね。北条氏康が、自軍の10倍近い8万の連合軍に勝利した戦いです。この説明書きで興味深いのは、氏康は大軍に対して奇襲で勝利したというのが一般的な説であるのに対し、『実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです』としている点ですかね。
<社殿>
<社務所>
河越夜戦の頃、この地はまだ原野のような状態だったそうです。のちに村が形成され、鎮守として祀られたのがこの神社の始まりとされています。
■二つの説■どちらの陣所?
実は私が事前に得ていた情報では、ここを陣所としたのは川越城を攻めている最中の上杉憲政の方で、そこへ北条氏康が襲い掛かったというものでした。つまり逆というわけですね。まぁ川越城争奪戦には不明な点も多いとされていますので、あまりそこに拘りません。二つ説があったとしても、その両方が興味深いというのが正直なところです。
場所は川越城の南方約4キロ
城を大軍で方位する連合軍のうち、南側から睨みをきかす上杉憲政がこの地に待機していた。そこへ小田原から駆け付けた北条氏康が襲い掛かった。これはこれで納得できます。
小田原から駆け付けた北条氏康が、取り囲まれている川越城から距離をとってこの地で一旦待機した。そこへ川越城の南側に陣取っていた上杉憲政が襲い掛かった。これも納得できます。
どちらにしても、この付近が見渡す限り平坦で、もし湿地などがあったとしても地の利に乏しく、仰々しく陣城を築くような場所ではないということが興味深いですね。つまり腰を据えて構えるような場所とは思えないということです。よって状況は極めて流動的で、その結果として戦闘が始まった。そんな風に受けとめました(あくまで素人の想像です)。
■つわものどもが夢の跡■
いろんな想像ができてしまいますが、説明書きにあった通り、北条氏康の勝利が奇襲によるものではなく迎撃した結果であるなら、事前の交渉も含め、全てが敵を誘い込む罠だったのではないかと感じました。弱気をちらつかせて敵を油断させ、このように見晴らしの良い場所に布陣し、安易に近寄らせて一気に片を付ける。
やってきた敵を攻撃するのですから形としては迎撃となりますが、意表を突くという意味ではやはり奇襲なのかもしれない。などなど。いろいろと考えさせられながら最寄り駅へと向かいました。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:砂久保陣場跡
(砂久保稲荷神社)
[埼玉県川越市砂久保]
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2019年06月03日
2019年03月21日
大宮城のなごり (栃木市)
つわものどもが夢の跡
北関東の名族・小山氏が築城と伝わる大宮城跡を訪ねました。
<大宮城の遺構>
土塁と堀の跡です
■現地訪問■
大宮城のなごりは、大宮神社を訪ねることで感じることができます。県道に面した鳥居に気付けば、あとは北へ向かってまっすぐ進むだけ。参道を歩いて行くと、まず右手に不思議な土の塊が現れます。
周辺は平らなのにここだけ。櫓台の跡でしょうか?
更に進むと神社らしい光景。そして右手は明らかに人の侵入を拒む土塁。てくてく歩いてきましたが、やや速足になりました。
土塁の手前の道、そして水路。昔は堀だったのでしょう。土塁と堀。ここから先が城内ということでしょうか?
こちらが大宮神社です
説明板によれば『大宮神社の創立は不明であるが、代々小山氏から社領五石を寄進されていた』とのこと。小山氏との関係が伺えますね。更に社殿の向きの説明として『小山氏が社の南に支城を築いたので』とも記載されています。城があったことは間違いないですね。南側?つまり歩いてきた参道が、既にかつての城跡ということですね。ということは、途中で土塁を見かける以前から、既に城跡に足を踏み入れていたのかもしれません。そういえば・・・
ちょっと順番が逆になりますが、来る途中に見かけた水路です。その奥には南北にのびる水路。あれも堀跡だったのかもしれません。位置的には納得できます。
再び境内です。神社の脇に堀の跡。むかしはもっと深かったのでしょう。来て良かったと思った瞬間です。
境内の別の場所。やや地面が窪んでます。堀のなごりでしょうか?こちらは想像であって、確証はありません。
■小山氏による築城■ 下野の名族
当地に城を築いたとされる小山氏は、現在の栃木県小山市を拠点とした北関東の名族です。同市に遺構を残す「祇園城」を本城としていましたので、説明板にもある通り、大宮城はその支城として築かれたようです。ここは現在の栃木市。栃木市と聞いて思い浮かぶのは、小山氏の同族にして、強い同盟関係で結ばれていた皆川氏の存在です。現在の栃木市を基盤としていました。築城者は小山氏として、身内である皆川氏もこの地の城と何らかの関連があったのかもしれませんね(推定です)。
■下野大宮藩■ 2万石
時を経た1684年、当地には下野大宮藩2万石の藩主となった堀田正虎により陣屋が設けられました。私は小山氏の城跡として訪問しましたが、遺構の一部はその頃のものかもしれませんね(推定です)。
この堀田正虎、大老の次男という名門の出です。父である正俊は暗殺されてしまいますが、この時には兄が家督を継ぎ、正虎には2万石が分け与えられました。
福島藩10万石の藩主となっていた兄が没すると、正虎が養子となってその家督を相続することになり、大宮藩は廃藩となります。これが1694年の出来事。当地の陣屋も、その時に役割を終えたと考えられます。
神社の雰囲気も良く、城の遺構とも出会えました。
栃木市の大宮城跡
満足な訪問となりました。
-------■ 大宮城 ■-------
別 名:大宮陣屋
築城年:詳細不明
築城者:小山氏
改修者:堀田氏
城 主:小山氏・堀田氏
廃 城:1694年頃
現 況:大宮神社
[栃木県栃木市大宮町]
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北関東の名族・小山氏が築城と伝わる大宮城跡を訪ねました。
<大宮城の遺構>
土塁と堀の跡です
■現地訪問■
大宮城のなごりは、大宮神社を訪ねることで感じることができます。県道に面した鳥居に気付けば、あとは北へ向かってまっすぐ進むだけ。参道を歩いて行くと、まず右手に不思議な土の塊が現れます。
周辺は平らなのにここだけ。櫓台の跡でしょうか?
更に進むと神社らしい光景。そして右手は明らかに人の侵入を拒む土塁。てくてく歩いてきましたが、やや速足になりました。
土塁の手前の道、そして水路。昔は堀だったのでしょう。土塁と堀。ここから先が城内ということでしょうか?
こちらが大宮神社です
説明板によれば『大宮神社の創立は不明であるが、代々小山氏から社領五石を寄進されていた』とのこと。小山氏との関係が伺えますね。更に社殿の向きの説明として『小山氏が社の南に支城を築いたので』とも記載されています。城があったことは間違いないですね。南側?つまり歩いてきた参道が、既にかつての城跡ということですね。ということは、途中で土塁を見かける以前から、既に城跡に足を踏み入れていたのかもしれません。そういえば・・・
ちょっと順番が逆になりますが、来る途中に見かけた水路です。その奥には南北にのびる水路。あれも堀跡だったのかもしれません。位置的には納得できます。
再び境内です。神社の脇に堀の跡。むかしはもっと深かったのでしょう。来て良かったと思った瞬間です。
境内の別の場所。やや地面が窪んでます。堀のなごりでしょうか?こちらは想像であって、確証はありません。
■小山氏による築城■ 下野の名族
当地に城を築いたとされる小山氏は、現在の栃木県小山市を拠点とした北関東の名族です。同市に遺構を残す「祇園城」を本城としていましたので、説明板にもある通り、大宮城はその支城として築かれたようです。ここは現在の栃木市。栃木市と聞いて思い浮かぶのは、小山氏の同族にして、強い同盟関係で結ばれていた皆川氏の存在です。現在の栃木市を基盤としていました。築城者は小山氏として、身内である皆川氏もこの地の城と何らかの関連があったのかもしれませんね(推定です)。
■下野大宮藩■ 2万石
時を経た1684年、当地には下野大宮藩2万石の藩主となった堀田正虎により陣屋が設けられました。私は小山氏の城跡として訪問しましたが、遺構の一部はその頃のものかもしれませんね(推定です)。
この堀田正虎、大老の次男という名門の出です。父である正俊は暗殺されてしまいますが、この時には兄が家督を継ぎ、正虎には2万石が分け与えられました。
福島藩10万石の藩主となっていた兄が没すると、正虎が養子となってその家督を相続することになり、大宮藩は廃藩となります。これが1694年の出来事。当地の陣屋も、その時に役割を終えたと考えられます。
神社の雰囲気も良く、城の遺構とも出会えました。
栃木市の大宮城跡
満足な訪問となりました。
-------■ 大宮城 ■-------
別 名:大宮陣屋
築城年:詳細不明
築城者:小山氏
改修者:堀田氏
城 主:小山氏・堀田氏
廃 城:1694年頃
現 況:大宮神社
[栃木県栃木市大宮町]
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2019年02月26日
深井城のなごり (流山市)
つわものどもが夢の跡
今回は流山市にお邪魔しました。
<不動坊・地蔵堂>
深井城跡される不動坊です。お墓の画像は極力避けたいので、ちょっと画像に手を加えさせて頂きました。この境内に遺構らしきものはありません。周辺も草木が鬱蒼としており、細部の確認は困難です。ただ、周辺との高低差は実感します。
<入口>
不動坊の入口。ここをゴールに訪問しました。
<六地蔵>
六地蔵が出迎えてくれます。素通りも失礼なので、一応は手を合わせました。奥に深井城に関する説明板があります。
<説明板>
『戦国時代、小金城主高城氏の支城のひとつであった。』とのこと。小金城は現在の松戸市に位置する城。高城(たかぎ)氏は名族・千葉氏の流れを組む一族です。長らく相反する立場にあった関宿城(野田市)の支配領域が近いことから、前線基地のような役割を担ったものと考えられます。
この付近の台地一帯が城だったようです。つまり広範囲に及んでいたということですね。ということで、周辺を見て歩くことにしました。
<不動坊の周り>
ちょっと分りにくい
<不動坊の入口付近>
まぁこの辺りも城跡だったのでしょう
<土塁?>
土が盛ってありますが、遺構なのかは不明
<谷>
高台である証として
<高低差>
北側に向かって突き出た台地をやや側面から撮影
<西深井休憩園地>
この付近も城跡だったのでしょう
<西深井散策の森>
この道のわきの林に、空堀らしき窪みをみつけました。
<空堀跡>
ちょっと画像だと伝わりにくいですが
木々の奥の地面が一定方向に向かって窪んでいます。やや迫力に欠けますが、むかしの空堀のなごりではないかと思われます。
<利根運河>
城跡の北側です。堀の役割を担った天然の川なら凄いですね。でもこちらは明治時代に開削された運河です。
<運河の堤防>
すごい高低差。今回訪問の深井城、この大規模な運河の工事により、主だった遺構は失われたと伝わります。それはそれで残念ですが、あまりの立派さにしばし見惚れました(水路好きです)。
周辺はだいたいこんな感じでした。
説明板にあった高城氏は、ここ深井城に重臣である安蒜(あびる)氏を送り込み守らせたと伝わります。秀吉の小田原征伐の際、高城氏(胤則)は北条方に加勢すべく小田原城にて籠城。
安蒜氏は高城氏不在の小金城の守備にあたりますが、浅野長政の軍勢に攻められ開城。この時に、ここ深井城も廃城となったと考えられています。
遺構はわずかながら「城のなごり」を感じる場所でした。
-------■ 深井城 ■-------
築城年:詳細不明
築城者:高城氏
城 主:安蒜氏(高城氏家臣)
廃 城:1590年頃
[流山市西深井]
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今回は流山市にお邪魔しました。
<不動坊・地蔵堂>
深井城跡される不動坊です。お墓の画像は極力避けたいので、ちょっと画像に手を加えさせて頂きました。この境内に遺構らしきものはありません。周辺も草木が鬱蒼としており、細部の確認は困難です。ただ、周辺との高低差は実感します。
<入口>
不動坊の入口。ここをゴールに訪問しました。
<六地蔵>
六地蔵が出迎えてくれます。素通りも失礼なので、一応は手を合わせました。奥に深井城に関する説明板があります。
<説明板>
『戦国時代、小金城主高城氏の支城のひとつであった。』とのこと。小金城は現在の松戸市に位置する城。高城(たかぎ)氏は名族・千葉氏の流れを組む一族です。長らく相反する立場にあった関宿城(野田市)の支配領域が近いことから、前線基地のような役割を担ったものと考えられます。
この付近の台地一帯が城だったようです。つまり広範囲に及んでいたということですね。ということで、周辺を見て歩くことにしました。
<不動坊の周り>
ちょっと分りにくい
<不動坊の入口付近>
まぁこの辺りも城跡だったのでしょう
<土塁?>
土が盛ってありますが、遺構なのかは不明
<谷>
高台である証として
<高低差>
北側に向かって突き出た台地をやや側面から撮影
<西深井休憩園地>
この付近も城跡だったのでしょう
<西深井散策の森>
この道のわきの林に、空堀らしき窪みをみつけました。
<空堀跡>
ちょっと画像だと伝わりにくいですが
木々の奥の地面が一定方向に向かって窪んでいます。やや迫力に欠けますが、むかしの空堀のなごりではないかと思われます。
<利根運河>
城跡の北側です。堀の役割を担った天然の川なら凄いですね。でもこちらは明治時代に開削された運河です。
<運河の堤防>
すごい高低差。今回訪問の深井城、この大規模な運河の工事により、主だった遺構は失われたと伝わります。それはそれで残念ですが、あまりの立派さにしばし見惚れました(水路好きです)。
周辺はだいたいこんな感じでした。
説明板にあった高城氏は、ここ深井城に重臣である安蒜(あびる)氏を送り込み守らせたと伝わります。秀吉の小田原征伐の際、高城氏(胤則)は北条方に加勢すべく小田原城にて籠城。
安蒜氏は高城氏不在の小金城の守備にあたりますが、浅野長政の軍勢に攻められ開城。この時に、ここ深井城も廃城となったと考えられています。
遺構はわずかながら「城のなごり」を感じる場所でした。
-------■ 深井城 ■-------
築城年:詳細不明
築城者:高城氏
城 主:安蒜氏(高城氏家臣)
廃 城:1590年頃
[流山市西深井]
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2019年02月25日
山崎城のなごり (野田市)
つわものどもが夢の跡
城跡とされる野田市の寺院を訪ねました。
<海福寺>
見事な山門です。
<境内>
全部はご紹介できませんが、立派なお寺です。この寺一帯が、かつての城跡と考えられています。
<周辺との高低差>
劇的な高低差というわけではありませんが、城跡は周辺より数mは高い台地上に位置しています。低湿地を望む微高地に築かれた。そんな感じでしょうか。それらしい雰囲気は漂いますが、決定的な遺構があるわけではありません。
こちらは同じ台地上から撮影した海福寺。境内だけでも結構な広さですが、あるいはこの平らな区画も城の一部だったのかもしれません。
<石碑>
こちらの石碑には『岸和田城主岡部長盛公開基』と刻まれています。
岡部長盛とは、「岡部の黒鬼」と称された徳川家の古くから家臣。小田原北条氏滅亡後、関東に入った家康により長盛には1万2千石が与えられ、ここ山崎の地に下総山崎藩を立藩するに至っています。山崎に入部した長盛は、こことは別の場所に城を移していますので、山崎城はそれまでの拠点ということになりますかね。その長盛がやがて丹波亀山藩に加増移封(3万2千石)されると、下総山崎藩は廃藩。家臣に番をさせていたと思われる山崎城は、この時に役割を終えたと考えられています。
ところで、石碑の『岸和田城主』ですが、長盛の長男・岡部宣勝が、のちに和泉岸和田藩の初代藩主となっています。藩主はあくまで息子の方ですが、父である長盛がその前に岸和田城主だった?ということでしょうか。刻まれた文字、私にはちょっと分りにくかったですね。ちょっと話がそれますが、和泉岸和田藩主となった宣勝は、それ以前の悪政に苦しんでいた領民を救う良き統治者であったようです。
<無量山海福寺>
海福寺は岡部氏の菩提寺です。長盛が山崎城跡に開基して、生母を葬った所と伝わります。山崎城そのものの情報は少ないながら、岡部氏とのつながりは充分理解できました。
<山崎宿>
山崎城跡(海福寺)は東武野田線の梅郷駅から徒歩10分程度。途中で『宿場町のなごり』と出会いました。山崎は江戸の宿場として栄えたところ。どうせなら、そんな雰囲気も味わいながら城跡を訪問してみては如何でしょうか。
-------■山崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明
城 主:岡部長盛
廃 城:不明(1609年頃?)
現 状:海福寺
[野田市山崎]
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城跡とされる野田市の寺院を訪ねました。
<海福寺>
見事な山門です。
<境内>
全部はご紹介できませんが、立派なお寺です。この寺一帯が、かつての城跡と考えられています。
<周辺との高低差>
劇的な高低差というわけではありませんが、城跡は周辺より数mは高い台地上に位置しています。低湿地を望む微高地に築かれた。そんな感じでしょうか。それらしい雰囲気は漂いますが、決定的な遺構があるわけではありません。
こちらは同じ台地上から撮影した海福寺。境内だけでも結構な広さですが、あるいはこの平らな区画も城の一部だったのかもしれません。
<石碑>
こちらの石碑には『岸和田城主岡部長盛公開基』と刻まれています。
岡部長盛とは、「岡部の黒鬼」と称された徳川家の古くから家臣。小田原北条氏滅亡後、関東に入った家康により長盛には1万2千石が与えられ、ここ山崎の地に下総山崎藩を立藩するに至っています。山崎に入部した長盛は、こことは別の場所に城を移していますので、山崎城はそれまでの拠点ということになりますかね。その長盛がやがて丹波亀山藩に加増移封(3万2千石)されると、下総山崎藩は廃藩。家臣に番をさせていたと思われる山崎城は、この時に役割を終えたと考えられています。
ところで、石碑の『岸和田城主』ですが、長盛の長男・岡部宣勝が、のちに和泉岸和田藩の初代藩主となっています。藩主はあくまで息子の方ですが、父である長盛がその前に岸和田城主だった?ということでしょうか。刻まれた文字、私にはちょっと分りにくかったですね。ちょっと話がそれますが、和泉岸和田藩主となった宣勝は、それ以前の悪政に苦しんでいた領民を救う良き統治者であったようです。
<無量山海福寺>
海福寺は岡部氏の菩提寺です。長盛が山崎城跡に開基して、生母を葬った所と伝わります。山崎城そのものの情報は少ないながら、岡部氏とのつながりは充分理解できました。
<山崎宿>
山崎城跡(海福寺)は東武野田線の梅郷駅から徒歩10分程度。途中で『宿場町のなごり』と出会いました。山崎は江戸の宿場として栄えたところ。どうせなら、そんな雰囲気も味わいながら城跡を訪問してみては如何でしょうか。
-------■山崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明
城 主:岡部長盛
廃 城:不明(1609年頃?)
現 状:海福寺
[野田市山崎]
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2019年02月11日
茅ヶ崎城のなごり
つわものどもが夢の跡
横浜市の市街地に残る中世の城跡を訪ねました。緑豊かな城址公園でありながら、良好な遺構と出会える貴重な場所です。
<茅ケ崎城の空堀>
いわゆる湘南の茅ヶ崎市ではありません。ここは横浜市都筑区の茅ケ崎
<城址公園>
横浜市指定史跡。茅ヶ崎城址公園として整備されています
■茅ヶ崎城■
この地に最初に城が築かれた時期については、あまりはっきりとは分かっていません。築城者は摂津源氏の流れを汲む多田行綱という伝承もありますが、諸説有り定かではないそうです。大筋では、城の始まりは14世紀末頃で、その後は関東管領の上杉氏が関わり、やがて小田原北条氏の支配下となったとされています。
■小机衆■
小田原北条氏が関東での勢力を拡大した頃、この地は小机衆の一員の座間氏の所領でした。このことから、茅ヶ崎城は小机城の支城的な役割を果たしていたと考えられています。小机衆とは大小29の武士団で構成されていた北条氏傘下のネットワーク。各々が拠点を持ち、それらを束ねる中心地が、北条氏支配下の小机城でした。
<参考:小机城跡>
[横浜市港北区小机町]
茅ヶ崎城はこの城の支城として機能したわけですね
1590年、秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡。小机衆のネットワークの中心だった小机城同様、今回訪問の茅ヶ崎城もこの頃に廃城となったと考えられています。つまり、中世で幕引きとなった城跡ということですね。
■現地訪問■
最寄り駅は市営地下鉄のセンター南駅です。城跡はその東側、徒歩圏内にあります。
<駅の案内図>下方向が北
ちょっと紛らわしいですが、この地図は下方向が北です
この地はもともと都筑群茅ケ崎村。地名の由来はわかりませんが、茅が生い茂る低湿地に、台地が岬のように突き出た地形を想像してしまいます。城はまさにそんな場所に築かれています。北側を流れる早淵川も、外堀のような役割を果たしていたのかもしれません。
<城址公園入口>
あっという間に現地到着です
<山城>
標高32m、比高で20mの山城です。私はこの階段から城内へ入りました
<高台>
住宅が山の麓まで迫っていますが、かなり遠くまで見渡せます。ほぼ独立した丘(厳密には丘陵の先端部分)ですので、四方に死角はありません。相模国と武蔵国を結ぶ道(のちの中原街道)が近いことから、道筋を牽制する役割を担ったのではないかと考えられています。
<縄張り図>
縄張りとしては、中央部に本丸(中郭)を設けて、あとは東西と北の三方に曲輪配置する構造。城址公園の入り口から入った私は、北側の曲輪から城内に侵入したことになります。城の南側に根古屋の文字。これは「ねごや」と読み、山城の麓に城主の館やら屋敷を設けるエリアのことです。あと、当ブログでは「くるわ」は「曲輪」で統一していますが、今回は城内の案内板に合わせて「郭」も使わせて頂きます。同じ読み、同じ意味です。
<北郭>きたくるわ
北側の曲輪です
<公園内の道標>
次は中郭へ
<中郭>なかくるわ
一番大きな曲輪です
<中郭の土塁>
曲輪を取り囲む見事な土塁
<土塁の説明板>
親切な城址公園です
繰り返しますが見事です。ここまでとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。
<遺構の説明>
発掘調査で中郭の建物の様子が明らかになった。そんな内容です。
<建物のなごり>
建物の礎石。この位置にあった建物は倉庫だったようです
<中郭の土橋>どばし
中郭を出て回りこむと、隣の東郭との間に土橋跡が。これはいいですね。柵があって、これ以上は近づけませんでした。他の人のブログを見ると、草が刈ってあってもっとはっきり見えるのですが、まぁ仕方がないですね。
<東郭の説明>ひがしくるわ
この山城で最も高い位置にある曲輪です
<東郭>
コンパクトな曲輪です。縄張り図を見ると、先ほどの中郭が主郭(つまり本丸)と思われますが、こちらが主郭であった可能性もあります。
<東郭虎口>こぐち
主郭が中央ではなく奥にある場合、だいだいその向こうは崖とか川とか。要するに天然の地形に守られていたりします。ここも崖同然です。虎口は曲輪への入口という意味。つまりここが東郭への入口ということです。
<西郭沿いの堀>
右上が西郭
<空堀>
堀がそのまま道になっています。むかしはもうちょっと堀は深く、曲輪の位置も高かったようです。
<公園内の道標>
方向音痴なので助かりました
<急勾配>
この城が築かれた台地は急勾配が多いですね。あるいは崖です。降りた先が平らな区画になっていますので、腰曲輪と思われます。主要な曲輪の下に配置して、より守りを固めるための工夫です。
<中世の雰囲気>
復元も含まれると思われますが、決して過度ではなく、むかしに思いを馳せるには丁度良いのではないでしょうか。
本当に廃城が1590年頃とすると、この城のなごりはそれ以前のもの。大きな城ではないですが、築城には相当な労力が必要だったのではないでしょうか。関東の城では、北条氏の支配下で劇的な改修なされる事例が結構ありますが、ここ茅ヶ崎城もそれに該当するのかもしれません。
公園化されたといっても見事な遺構。かつてこの地に本物の城があった。そのなごりが充分に漂う場所です。
期待以上の訪問となりました。
-------■茅ヶ崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明(北条氏)
城 主:詳細不明(北条氏)
[横浜市都筑区茅ヶ崎町]
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横浜市の市街地に残る中世の城跡を訪ねました。緑豊かな城址公園でありながら、良好な遺構と出会える貴重な場所です。
<茅ケ崎城の空堀>
いわゆる湘南の茅ヶ崎市ではありません。ここは横浜市都筑区の茅ケ崎
<城址公園>
横浜市指定史跡。茅ヶ崎城址公園として整備されています
■茅ヶ崎城■
この地に最初に城が築かれた時期については、あまりはっきりとは分かっていません。築城者は摂津源氏の流れを汲む多田行綱という伝承もありますが、諸説有り定かではないそうです。大筋では、城の始まりは14世紀末頃で、その後は関東管領の上杉氏が関わり、やがて小田原北条氏の支配下となったとされています。
■小机衆■
小田原北条氏が関東での勢力を拡大した頃、この地は小机衆の一員の座間氏の所領でした。このことから、茅ヶ崎城は小机城の支城的な役割を果たしていたと考えられています。小机衆とは大小29の武士団で構成されていた北条氏傘下のネットワーク。各々が拠点を持ち、それらを束ねる中心地が、北条氏支配下の小机城でした。
<参考:小机城跡>
[横浜市港北区小机町]
茅ヶ崎城はこの城の支城として機能したわけですね
1590年、秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡。小机衆のネットワークの中心だった小机城同様、今回訪問の茅ヶ崎城もこの頃に廃城となったと考えられています。つまり、中世で幕引きとなった城跡ということですね。
■現地訪問■
最寄り駅は市営地下鉄のセンター南駅です。城跡はその東側、徒歩圏内にあります。
<駅の案内図>下方向が北
ちょっと紛らわしいですが、この地図は下方向が北です
この地はもともと都筑群茅ケ崎村。地名の由来はわかりませんが、茅が生い茂る低湿地に、台地が岬のように突き出た地形を想像してしまいます。城はまさにそんな場所に築かれています。北側を流れる早淵川も、外堀のような役割を果たしていたのかもしれません。
<城址公園入口>
あっという間に現地到着です
<山城>
標高32m、比高で20mの山城です。私はこの階段から城内へ入りました
<高台>
住宅が山の麓まで迫っていますが、かなり遠くまで見渡せます。ほぼ独立した丘(厳密には丘陵の先端部分)ですので、四方に死角はありません。相模国と武蔵国を結ぶ道(のちの中原街道)が近いことから、道筋を牽制する役割を担ったのではないかと考えられています。
<縄張り図>
縄張りとしては、中央部に本丸(中郭)を設けて、あとは東西と北の三方に曲輪配置する構造。城址公園の入り口から入った私は、北側の曲輪から城内に侵入したことになります。城の南側に根古屋の文字。これは「ねごや」と読み、山城の麓に城主の館やら屋敷を設けるエリアのことです。あと、当ブログでは「くるわ」は「曲輪」で統一していますが、今回は城内の案内板に合わせて「郭」も使わせて頂きます。同じ読み、同じ意味です。
<北郭>きたくるわ
北側の曲輪です
<公園内の道標>
次は中郭へ
<中郭>なかくるわ
一番大きな曲輪です
<中郭の土塁>
曲輪を取り囲む見事な土塁
<土塁の説明板>
親切な城址公園です
繰り返しますが見事です。ここまでとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。
<遺構の説明>
発掘調査で中郭の建物の様子が明らかになった。そんな内容です。
<建物のなごり>
建物の礎石。この位置にあった建物は倉庫だったようです
<中郭の土橋>どばし
中郭を出て回りこむと、隣の東郭との間に土橋跡が。これはいいですね。柵があって、これ以上は近づけませんでした。他の人のブログを見ると、草が刈ってあってもっとはっきり見えるのですが、まぁ仕方がないですね。
<東郭の説明>ひがしくるわ
この山城で最も高い位置にある曲輪です
<東郭>
コンパクトな曲輪です。縄張り図を見ると、先ほどの中郭が主郭(つまり本丸)と思われますが、こちらが主郭であった可能性もあります。
<東郭虎口>こぐち
主郭が中央ではなく奥にある場合、だいだいその向こうは崖とか川とか。要するに天然の地形に守られていたりします。ここも崖同然です。虎口は曲輪への入口という意味。つまりここが東郭への入口ということです。
<西郭沿いの堀>
右上が西郭
<空堀>
堀がそのまま道になっています。むかしはもうちょっと堀は深く、曲輪の位置も高かったようです。
<公園内の道標>
方向音痴なので助かりました
<急勾配>
この城が築かれた台地は急勾配が多いですね。あるいは崖です。降りた先が平らな区画になっていますので、腰曲輪と思われます。主要な曲輪の下に配置して、より守りを固めるための工夫です。
<中世の雰囲気>
復元も含まれると思われますが、決して過度ではなく、むかしに思いを馳せるには丁度良いのではないでしょうか。
本当に廃城が1590年頃とすると、この城のなごりはそれ以前のもの。大きな城ではないですが、築城には相当な労力が必要だったのではないでしょうか。関東の城では、北条氏の支配下で劇的な改修なされる事例が結構ありますが、ここ茅ヶ崎城もそれに該当するのかもしれません。
公園化されたといっても見事な遺構。かつてこの地に本物の城があった。そのなごりが充分に漂う場所です。
期待以上の訪問となりました。
-------■茅ヶ崎城■-------
築城年:詳細不明
築城者:詳細不明(北条氏)
城 主:詳細不明(北条氏)
[横浜市都筑区茅ヶ崎町]
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タグ:北条
2019年02月09日
川口市に残る宇都宮城のなごり(錫杖寺)
つわものどもが夢の跡
宇都宮城の移設門を訪ねました。
■錫杖寺■ しゃくじょうじ
訪問したのは717年に建立された歴史のあるお寺です。
<参道>
真言宗智山派の寺院。そして徳川将軍家と縁の深いお寺です。
<各種説明>
将軍家との縁。具大的には、この寺が将軍の日光参詣の時の休息所という役割を担っていたこと。ここ川口は、日光御成道(にっこうおなりみち)の宿場でした。『日光御成道』は一般の街道とは異なり、将軍の日光社参専用道路です。中山道の本郷追分から分かれて北へ向かい、岩淵宿(現在の東京都北区)を経て荒川を渡ると、ここ川口へ到着する道筋となっています。川口宿を出て、更に北へ北へ進むと、やがて日光街道と合流します。
<本堂>
この本堂は1975年に新築されたもの。立派です。
<弘法大師像>
境内に見どころは沢山ありますが、せっかく錫杖寺にお邪魔しているので弘法大師の修行像を。錫杖は僧が携帯する杖のことですね。基本的に右手(浄手)で持つことになっています。
弘法大師像の背後は鐘楼。墓所の撮影は遠慮しましたが、大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。
さて
このお寺の貴重な品々や深い歴史のすべては紹介できませんので、そろそろ訪問した目的の門について
■錫杖寺の山門■
<御成門>
宇都宮城から移築された門です。夕方の訪問。到着した時は開いていました。
移築は明治になってからのお話。宇都宮城は戊辰戦争に巻き込まれ、その大半が焼失しました。その戦火を潜り抜けた門という訳ですね。
<弾痕?>
これは弾痕でしょうか?
<小さな穴>
こちらにも穴がありますが、綺麗に切り抜いた痕のようにも見えますね。
<柱の傷>
強いて言えば、柱の線は刀傷ともとれます。
この寺の門には「宇都宮城の戦いの傷痕が残る」と聞き及んでいましたが、想像していたよりも綺麗な状態。見る人が見れば分かるのかもしれませんが、丁寧な修復がなされおり、痛々しさのような雰囲気は漂いません。
まぁ傷の具合がとうであれ、この門が宇都宮城の一部だったことは事実です。徳川家ゆかりの寺に、旧幕府軍と新政府軍の戦いに巻き込まれた宇都宮城の門がいまでも立派に佇んでいる。これを目の当たりにできただけで、来た甲斐がありました。感慨深い山門です。
錫杖寺は川口駅から徒歩10分程度。当ブログがきっかけで、訪れる人がいたら嬉しいです。
帰りは閉門されていました
■訪問
錫杖寺
[川口市本町]
お城巡りランキング
----- 追記-----
<宇都宮城の櫓>
当ブログでは、宇都宮城訪問記を別途投稿しています。もしよろしかったら覗いてみて下さい。市街地化により原形は留めていませんが、かつて関東七名城の一つとされた城跡です。
→『記事へすすむ』
宇都宮城の移設門を訪ねました。
■錫杖寺■ しゃくじょうじ
訪問したのは717年に建立された歴史のあるお寺です。
<参道>
真言宗智山派の寺院。そして徳川将軍家と縁の深いお寺です。
<各種説明>
将軍家との縁。具大的には、この寺が将軍の日光参詣の時の休息所という役割を担っていたこと。ここ川口は、日光御成道(にっこうおなりみち)の宿場でした。『日光御成道』は一般の街道とは異なり、将軍の日光社参専用道路です。中山道の本郷追分から分かれて北へ向かい、岩淵宿(現在の東京都北区)を経て荒川を渡ると、ここ川口へ到着する道筋となっています。川口宿を出て、更に北へ北へ進むと、やがて日光街道と合流します。
<本堂>
この本堂は1975年に新築されたもの。立派です。
<弘法大師像>
境内に見どころは沢山ありますが、せっかく錫杖寺にお邪魔しているので弘法大師の修行像を。錫杖は僧が携帯する杖のことですね。基本的に右手(浄手)で持つことになっています。
弘法大師像の背後は鐘楼。墓所の撮影は遠慮しましたが、大奥最後の御年寄り「滝山」のお墓があります。
さて
このお寺の貴重な品々や深い歴史のすべては紹介できませんので、そろそろ訪問した目的の門について
■錫杖寺の山門■
<御成門>
宇都宮城から移築された門です。夕方の訪問。到着した時は開いていました。
移築は明治になってからのお話。宇都宮城は戊辰戦争に巻き込まれ、その大半が焼失しました。その戦火を潜り抜けた門という訳ですね。
<弾痕?>
これは弾痕でしょうか?
<小さな穴>
こちらにも穴がありますが、綺麗に切り抜いた痕のようにも見えますね。
<柱の傷>
強いて言えば、柱の線は刀傷ともとれます。
この寺の門には「宇都宮城の戦いの傷痕が残る」と聞き及んでいましたが、想像していたよりも綺麗な状態。見る人が見れば分かるのかもしれませんが、丁寧な修復がなされおり、痛々しさのような雰囲気は漂いません。
まぁ傷の具合がとうであれ、この門が宇都宮城の一部だったことは事実です。徳川家ゆかりの寺に、旧幕府軍と新政府軍の戦いに巻き込まれた宇都宮城の門がいまでも立派に佇んでいる。これを目の当たりにできただけで、来た甲斐がありました。感慨深い山門です。
錫杖寺は川口駅から徒歩10分程度。当ブログがきっかけで、訪れる人がいたら嬉しいです。
帰りは閉門されていました
■訪問
錫杖寺
[川口市本町]
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----- 追記-----
<宇都宮城の櫓>
当ブログでは、宇都宮城訪問記を別途投稿しています。もしよろしかったら覗いてみて下さい。市街地化により原形は留めていませんが、かつて関東七名城の一つとされた城跡です。
→『記事へすすむ』
2019年01月14日
皆川氏対宇都宮氏 河原田合戦の升塚
今回の訪問は1523年(大永3年)に皆川氏と宇都宮氏が激突した古戦場です。といっても、具体的な場所がはっきりせず、石碑等もありません。合戦の後、死者を葬ったとされる塚が存在するため、そちらを目指しました。
<升塚>ますずか
■現地訪問■
<合戦場駅>
東武日光線の合戦場駅。凄い名前ですね。ここは栃木県栃木市(旧都賀町)。合戦場は地名。「かっせんじょう」じゃなくて「かっせんば」と読みます。都賀町合戦場(つがまちかっせんば)です。
おお・・・でも地名が合戦場なのですから自然なネーミングですね
凄い・・・繰り返しますが合戦場は地名です
かつてここで戦いがあった。そのなごりということですね。
■河原田合戦■ 1523年
この地は皆川城を拠点とする皆川氏の領内。そこへ宇都宮忠綱が軍勢を率いて侵攻を開始します。宇都宮勢は1800から2500と伝わります。これを迎え撃つ皆川勢は700でした。両軍は川を挟んで対決しますが、結果は宇都宮勢の圧勝。皆川氏は当主の皆川宗成が討死するなど壊滅的な被害を受けました。しかし小山氏・結城氏が1800の兵を率いて援軍として駆けつけ、最終的に宇都宮勢は敗走となります。
川を挟んで対峙したとされる場所の呼び名から、この戦いは河原田合戦と呼ばれています。
先ほどの「合戦場駅」の西には、いまも「河原田」の地名が残ります。両軍が対峙したとされる場所と一致するのでしょうかね?河原田には川が南北に流れており、皆川氏の居城は更に西の方に位置していますので、普通に考えれば川の西岸に皆川氏、反対側に宇都宮氏という構図だったと思われます。
河原田の東側に合戦場の地名が残るということは、優勢だった宇都宮勢が最終的には押し込まれ、混戦の末に敗走となったなごりなのでしょうか。あるいは、皆川氏の援軍とした現れた小山氏・結城氏の居城はこの地点より東に位置しますので、東側から宇都宮勢に攻め掛かったとか?などなど・・・
地名の位置関係だけで、勝手な想像が膨らみます。繰り返しますが、ホントに素人の勝手な想像です。ただ、せっかく「合戦場」に来たのですから、いろんなことに思いを巡らせてみる。そうでなかったら、てくてくと何キロも歩けません。
■戦死者たちの塚■
地元の人たちにより、合戦場に残された亡骸は一箇所に集められ葬られました。
<升塚>
戦死者を葬った「升塚」です。また地名の話に戻すと、合戦場の北は升塚となっています。現在の呼び方だと、都賀町升塚。今回の訪問に際して、私が目印とした住所です。
<説明板>
この説明では皆川勢の大敗というより、『両軍譲らず大混戦』となっていますね。塚の規模についても説明が。『●基壇の底面 21.6米の方形 ●中壇の底面 16.2米の方形 ●上壇の底面 10.8米の方形 ●墳頂までの高さ 3.6米』とのことです。
<塚の上>
石碑と桜の木
<普門地蔵堂>
<升塚と十九夜塔>
升塚と周辺の雰囲気はだいたいこんな感じです。
河原田合戦の激戦地は正確には分りません。しかし升塚が良好に保たれていることで、その一部に触れることが出来ました。貴重な歴史の痕跡。大切に保護し続けて欲しいですね。
最後までお読み頂きありがとうございました。
■訪問:河原田合戦の升塚
[栃木市都賀町升塚]
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<升塚>ますずか
■現地訪問■
<合戦場駅>
東武日光線の合戦場駅。凄い名前ですね。ここは栃木県栃木市(旧都賀町)。合戦場は地名。「かっせんじょう」じゃなくて「かっせんば」と読みます。都賀町合戦場(つがまちかっせんば)です。
おお・・・でも地名が合戦場なのですから自然なネーミングですね
凄い・・・繰り返しますが合戦場は地名です
かつてここで戦いがあった。そのなごりということですね。
■河原田合戦■ 1523年
この地は皆川城を拠点とする皆川氏の領内。そこへ宇都宮忠綱が軍勢を率いて侵攻を開始します。宇都宮勢は1800から2500と伝わります。これを迎え撃つ皆川勢は700でした。両軍は川を挟んで対決しますが、結果は宇都宮勢の圧勝。皆川氏は当主の皆川宗成が討死するなど壊滅的な被害を受けました。しかし小山氏・結城氏が1800の兵を率いて援軍として駆けつけ、最終的に宇都宮勢は敗走となります。
川を挟んで対峙したとされる場所の呼び名から、この戦いは河原田合戦と呼ばれています。
先ほどの「合戦場駅」の西には、いまも「河原田」の地名が残ります。両軍が対峙したとされる場所と一致するのでしょうかね?河原田には川が南北に流れており、皆川氏の居城は更に西の方に位置していますので、普通に考えれば川の西岸に皆川氏、反対側に宇都宮氏という構図だったと思われます。
河原田の東側に合戦場の地名が残るということは、優勢だった宇都宮勢が最終的には押し込まれ、混戦の末に敗走となったなごりなのでしょうか。あるいは、皆川氏の援軍とした現れた小山氏・結城氏の居城はこの地点より東に位置しますので、東側から宇都宮勢に攻め掛かったとか?などなど・・・
地名の位置関係だけで、勝手な想像が膨らみます。繰り返しますが、ホントに素人の勝手な想像です。ただ、せっかく「合戦場」に来たのですから、いろんなことに思いを巡らせてみる。そうでなかったら、てくてくと何キロも歩けません。
■戦死者たちの塚■
地元の人たちにより、合戦場に残された亡骸は一箇所に集められ葬られました。
<升塚>
戦死者を葬った「升塚」です。また地名の話に戻すと、合戦場の北は升塚となっています。現在の呼び方だと、都賀町升塚。今回の訪問に際して、私が目印とした住所です。
<説明板>
この説明では皆川勢の大敗というより、『両軍譲らず大混戦』となっていますね。塚の規模についても説明が。『●基壇の底面 21.6米の方形 ●中壇の底面 16.2米の方形 ●上壇の底面 10.8米の方形 ●墳頂までの高さ 3.6米』とのことです。
<塚の上>
石碑と桜の木
<普門地蔵堂>
<升塚と十九夜塔>
升塚と周辺の雰囲気はだいたいこんな感じです。
河原田合戦の激戦地は正確には分りません。しかし升塚が良好に保たれていることで、その一部に触れることが出来ました。貴重な歴史の痕跡。大切に保護し続けて欲しいですね。
最後までお読み頂きありがとうございました。
■訪問:河原田合戦の升塚
[栃木市都賀町升塚]
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2018年12月29日
中世の土の城 小机城のなごり
つわものどもが夢の跡
横浜市に残る貴重な城跡を訪ねました。場所は港北区小机町です。
<小机城跡>こづくえじょう
ここまで良好な遺構とは思っていなかったので、ちょっと鳥肌が立ちました。
■城のはじまり■
正確な築城時期はわかっていませんが、15世紀前半に、関東管領の上杉氏がこの地に城を築いたのが始まりと伝えられています。当時の関東において、権威のあった者が築いたと城ということですね。
1476年、その関東管領上杉氏(山内上杉氏)の有力家臣だった長尾景春が反乱を起こします。関東の多くの国人や地侍が呼応することになりますが、太田道灌(扇谷上杉氏家宰職)がこれを鎮圧。小机城主の矢野兵庫は長尾景春側だったため、道灌により攻め落とされることになりました。道灌は小机城の北東に陣城を築き、鶴見川を挟んで対峙。2ケ月を費やして城を落としました。
この攻防戦については、南武蔵(現在の東京周辺)で勢力を誇っていた豊島氏が、太田道灌との戦いに敗れたのちにこの地へ逃れ、城に立て籠もったという話もあります。当ブログでは、豊島氏は平塚城(東京都北区)での挙兵が最後の戦いという説を採用しているので、そういう説もあるというところでとどめます。
まぁいずれにしても、太田道灌に落とされたのち、小机城は一旦廃城となりました。
■城の再利用■
関東で勢力を拡大する小田原北条氏。小机城は、2代当主の北条氏綱により改修されたと伝わります。小田原城配下の城として再利用されたということですね。北条早雲にも仕えた家臣・笠原信為が送りこまれ、小机城を拠点に『小机衆』と呼ばれる武士団のネットワークが形成されました。小机衆は各々が居城・館を構える大小29の武士団からなり、その本部的な機能を小机城が担っていたわけですね。
その後は北条一族が城主を務めるものの、1590年の秀吉による小田原征伐の時には戦わずして落城。その後廃城となりました。ですから、現在確認できる遺構は、この時の城のなごりということですね。
■現地訪問■
<小机駅>
小机城跡の最寄駅です。日産スタジアムの最寄駅でもあるようですね。
<ホーム>
城跡は小机駅から徒歩で10分くらい。駅の北西の木に覆われた丘です。実はホームから見えているのですが、意識しない人には、ただの雑木林にしか映りません。
<構内>
そうそう、続日本100名城に選ばれているのです!
<日産スタジアム>
よそからくる人のお目当ては、普通はあちらですね。城跡とは逆方向の日産スタジアム。ご存じマリノスの本拠地です。私は埼玉県人でレッズのファンなので、ちょっとだけ敵地へ乗り込んだ気分です。ちょっとだけ
さて
駅から見えているくらいですから、道に迷う心配はありません。ただただまっすぐ歩けば、城跡へ近づけます。問題は、あの山にどこから入るのか?ですね。
<マリノスケ>
偶然こんなのと出会いました。この先に進んでみますか
<入口>
画像中央下の根古谷(ねこや)が現在位置です。案内板もトイレもあるので、ここから入るのが無難ですね。根古谷はよく言われる根古屋と同じ意味で良いかと。戦闘目的の砦が築かれた山の麓に形成される居住目的のエリアのことですね。
<竹林>
まだまだ入口付近ですが、斜面の不規則性に既に気持ちが高まってきました。明らかに人の手による段差。城のなごりが漂っています。
<入城>
ああ、ここで終わっても来た甲斐があります。勿論まだまだ進みますが
<曲輪>
ここは比較的小規模な曲輪。城の中心となる西曲輪と東曲輪の中間地点。それぞれが深い空堀で仕切られています。
<空堀>
見事な遺構
<空堀の説明板>
要所要所に説明板があります。堀がいかに重要かということと、水をはらない堀を空堀と呼ぶことなど。とても親切なので、「中世の土の城」が初めての人でも楽しめます。
<模擬冠木門>
こちらは本丸の虎口。実は先述の西曲輪と東曲輪、どちらが本丸だったかのか議論になっています。当ブログでは西曲輪を本丸とみなす意見に従っています。現地の案内でも、ここを「本丸広場」としています。ちなみに、私の訪問時は無人でしたが、球技用のネットを見かけましたので、実際に市民の広場としても使われているようです。
<虎口>
土塁の切れ目が虎口、つまり曲輪への入り口ですね。
<土塁>
曲輪を囲む土塁もしっかり残されています。
<説明板>
鶴見川の位置を確認。太田道灌はあの対岸に陣を敷いたわけですね。そしていま残る城の縄張りは、のちの時代に北条氏が構築したもの。いろいろと想像が膨らみます。
ここ小机城は標高42m・比高22m。南から延びる台地が鶴見川に張り出す突端部分に位置します。
<城を分断する道路>
本丸のすぐ下は第三京浜。高低差も実感したかったので降りてみましたが、うるさいだけでした。実は道の向こう側も城跡なんです。道路がかつての城内を通っているとも言えますね。
<遺構の数々>
立派です
深い堀の底を歩く。飛び道具で上から狙われてたら、ひとたまりもありませんね。まぁここまで来れたらの話ですが
<井楼跡>
井楼(せいろう)は、材木を井桁に組んで造る見張りのための櫓という意味ですね。
<東曲輪虎口>
<東曲輪>
<櫓台跡>
だいたいこんな感じですかね
■中世の土の城■
<土塁の説明板>
土塁についても丁寧に説明がなされています。空堀と並んで、土の城の基本ですね。
小机城は背景となる歴史も魅力ですが、やはり横浜市内とは思えない良好な遺構が素晴らしいです。中世で廃城となり、その後しばらく放っておかれたことが幸いしています。再整備については、その方法等にいろんな議論もあるかと思いますが、私は「土の城」の雰囲気が漂う素敵な場所だと思います。高度に仕上がった近世城郭とは一味違う、独特の魅力があります。凝った復元は模型やCGに任せ、実物はこのままで、たくさんの人達に見てもらいたいですね。
<大物ゆかりの城>
太田道灌が攻めた城。北条氏綱が改修した城です。
<遊歩道も充実>
気持ちの良い訪問となりました。
-------■ 小机城 ■-------
別 名:飯田城・根古屋城
築城年:不明(15世紀前半)
築城者:不明(上杉氏)
改修者:北条氏綱
城 主:上杉氏・長尾氏
北条氏 (氏堯・氏光ほか)
廃 城:1590年
現 状:小机城址市民の森
[横浜市港北区小机町]
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横浜市に残る貴重な城跡を訪ねました。場所は港北区小机町です。
<小机城跡>こづくえじょう
ここまで良好な遺構とは思っていなかったので、ちょっと鳥肌が立ちました。
■城のはじまり■
正確な築城時期はわかっていませんが、15世紀前半に、関東管領の上杉氏がこの地に城を築いたのが始まりと伝えられています。当時の関東において、権威のあった者が築いたと城ということですね。
1476年、その関東管領上杉氏(山内上杉氏)の有力家臣だった長尾景春が反乱を起こします。関東の多くの国人や地侍が呼応することになりますが、太田道灌(扇谷上杉氏家宰職)がこれを鎮圧。小机城主の矢野兵庫は長尾景春側だったため、道灌により攻め落とされることになりました。道灌は小机城の北東に陣城を築き、鶴見川を挟んで対峙。2ケ月を費やして城を落としました。
この攻防戦については、南武蔵(現在の東京周辺)で勢力を誇っていた豊島氏が、太田道灌との戦いに敗れたのちにこの地へ逃れ、城に立て籠もったという話もあります。当ブログでは、豊島氏は平塚城(東京都北区)での挙兵が最後の戦いという説を採用しているので、そういう説もあるというところでとどめます。
まぁいずれにしても、太田道灌に落とされたのち、小机城は一旦廃城となりました。
■城の再利用■
関東で勢力を拡大する小田原北条氏。小机城は、2代当主の北条氏綱により改修されたと伝わります。小田原城配下の城として再利用されたということですね。北条早雲にも仕えた家臣・笠原信為が送りこまれ、小机城を拠点に『小机衆』と呼ばれる武士団のネットワークが形成されました。小机衆は各々が居城・館を構える大小29の武士団からなり、その本部的な機能を小机城が担っていたわけですね。
その後は北条一族が城主を務めるものの、1590年の秀吉による小田原征伐の時には戦わずして落城。その後廃城となりました。ですから、現在確認できる遺構は、この時の城のなごりということですね。
■現地訪問■
<小机駅>
小机城跡の最寄駅です。日産スタジアムの最寄駅でもあるようですね。
<ホーム>
城跡は小机駅から徒歩で10分くらい。駅の北西の木に覆われた丘です。実はホームから見えているのですが、意識しない人には、ただの雑木林にしか映りません。
<構内>
そうそう、続日本100名城に選ばれているのです!
<日産スタジアム>
よそからくる人のお目当ては、普通はあちらですね。城跡とは逆方向の日産スタジアム。ご存じマリノスの本拠地です。私は埼玉県人でレッズのファンなので、ちょっとだけ敵地へ乗り込んだ気分です。ちょっとだけ
さて
駅から見えているくらいですから、道に迷う心配はありません。ただただまっすぐ歩けば、城跡へ近づけます。問題は、あの山にどこから入るのか?ですね。
<マリノスケ>
偶然こんなのと出会いました。この先に進んでみますか
<入口>
画像中央下の根古谷(ねこや)が現在位置です。案内板もトイレもあるので、ここから入るのが無難ですね。根古谷はよく言われる根古屋と同じ意味で良いかと。戦闘目的の砦が築かれた山の麓に形成される居住目的のエリアのことですね。
<竹林>
まだまだ入口付近ですが、斜面の不規則性に既に気持ちが高まってきました。明らかに人の手による段差。城のなごりが漂っています。
<入城>
ああ、ここで終わっても来た甲斐があります。勿論まだまだ進みますが
<曲輪>
ここは比較的小規模な曲輪。城の中心となる西曲輪と東曲輪の中間地点。それぞれが深い空堀で仕切られています。
<空堀>
見事な遺構
<空堀の説明板>
要所要所に説明板があります。堀がいかに重要かということと、水をはらない堀を空堀と呼ぶことなど。とても親切なので、「中世の土の城」が初めての人でも楽しめます。
<模擬冠木門>
こちらは本丸の虎口。実は先述の西曲輪と東曲輪、どちらが本丸だったかのか議論になっています。当ブログでは西曲輪を本丸とみなす意見に従っています。現地の案内でも、ここを「本丸広場」としています。ちなみに、私の訪問時は無人でしたが、球技用のネットを見かけましたので、実際に市民の広場としても使われているようです。
<虎口>
土塁の切れ目が虎口、つまり曲輪への入り口ですね。
<土塁>
曲輪を囲む土塁もしっかり残されています。
<説明板>
鶴見川の位置を確認。太田道灌はあの対岸に陣を敷いたわけですね。そしていま残る城の縄張りは、のちの時代に北条氏が構築したもの。いろいろと想像が膨らみます。
ここ小机城は標高42m・比高22m。南から延びる台地が鶴見川に張り出す突端部分に位置します。
<城を分断する道路>
本丸のすぐ下は第三京浜。高低差も実感したかったので降りてみましたが、うるさいだけでした。実は道の向こう側も城跡なんです。道路がかつての城内を通っているとも言えますね。
<遺構の数々>
立派です
深い堀の底を歩く。飛び道具で上から狙われてたら、ひとたまりもありませんね。まぁここまで来れたらの話ですが
<井楼跡>
井楼(せいろう)は、材木を井桁に組んで造る見張りのための櫓という意味ですね。
<東曲輪虎口>
<東曲輪>
<櫓台跡>
だいたいこんな感じですかね
■中世の土の城■
<土塁の説明板>
土塁についても丁寧に説明がなされています。空堀と並んで、土の城の基本ですね。
小机城は背景となる歴史も魅力ですが、やはり横浜市内とは思えない良好な遺構が素晴らしいです。中世で廃城となり、その後しばらく放っておかれたことが幸いしています。再整備については、その方法等にいろんな議論もあるかと思いますが、私は「土の城」の雰囲気が漂う素敵な場所だと思います。高度に仕上がった近世城郭とは一味違う、独特の魅力があります。凝った復元は模型やCGに任せ、実物はこのままで、たくさんの人達に見てもらいたいですね。
<大物ゆかりの城>
太田道灌が攻めた城。北条氏綱が改修した城です。
<遊歩道も充実>
気持ちの良い訪問となりました。
-------■ 小机城 ■-------
別 名:飯田城・根古屋城
築城年:不明(15世紀前半)
築城者:不明(上杉氏)
改修者:北条氏綱
城 主:上杉氏・長尾氏
北条氏 (氏堯・氏光ほか)
廃 城:1590年
現 状:小机城址市民の森
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