<加瀬城跡>かせじょう
川崎市の太田道灌ゆかりの城跡を訪ねました。
■ 現地訪問 ■
<川崎市>
現地は川崎市幸区南加瀬。比較的平坦な場所に、ひときわ目立つ丘があります。
<加瀬山>
これは加瀬山(夢見ヶ崎)の案内板ではなく、急傾斜地崩壊に対する注意喚起のためのものですが、山の形が分かり安いですね。この山がそのまま城跡ということになります。多摩川と鶴見川に挟まれた平地に位置する細長い独立峰。山城の要件を満たしています。ちなみに、長さは約750mで幅は約150mとのこと。
<加瀬山入口>
山は夢見ヶ崎動物公園として利用され、市民の憩いの場所となっています。古くからの寺社も複数あり、いかにも歴史を刻んできた山という印象です。
<階段>
ここで元気な小学生に追い越される。若者ならともかく少年に
<慰霊塔>
階段を登り切ると巨大な塔が現れます。第二次世界大戦の戦没者の魂を慰めるための塔です。
そして
<太田道灌ゆかりの地>
太田道灌の姿。背景の盛り土は物見台の跡?ではなく古墳です。
<古墳>
ここに限らず、加瀬山一帯が古墳群になっています。
この山に城が築かれたのは鎌倉時代半ばとされています。築城者は加瀬左近資親。加瀬氏は山城国から移り住み、大倉村という名前だった地域を加瀬と名付けたという説があるそうです。その後の加瀬氏については情報が少なく、加瀬城も含めて詳細は不明です。
そして時を経た室町時代の後期、太田道灌が江戸城と、主君・扇谷上杉定正の館との中継拠点とすべく築城を検討しました。しかし実際に宿営してみると、不吉な夢を見るに至り、築城を断念したという伝説があります。これが夢見ヶ崎という地名の由来です。
道灌が見た夢とは、白い鷲が現れて、道灌の兜を持ち去ってしまうというものでした。不吉を予感した道灌は、築城を諦めるだけでなく、自らの兜を丘の南西に埋めたとされています。
念には念を入れたわけですね。
築城の名手とされる太田道灌が、夢とか、そんな感覚的なことで判断するのか?というと、これは極めて大切なことでした。むかしの築城で大切なのは、まず場所選びと縄張りですが、縁起もとても重要視されたのです。ですから、あまり不自然さはありません。
<見晴らし>
むかしは東京湾まで一望できたそうです。もともと城があったのですから、道灌は古い城を改修して利用しようとしたわけですね。
ところで
関東では人気の太田道灌ではありますが、悪い夢が地名の由来というのは、ちょっと違和感が残りますね。それを補うわけではないのですが、もうひとつの言い伝えもあります。
一旦は加瀬山を諦めた道灌だが、もう一度現地を訪れた。そしてその夜、今度は縁起の良い鶴を東北の空に見た。これが江戸城築城の決め手となった。
なるほど。この場合は、道灌が江戸城を築城する前の話となってしまいますが、道灌はこの地で、吉となる夢もみたと伝わることだけ共有させて頂きます。
ということで
道灌の伝説が残る加瀬城跡のご紹介でした。
太田道灌の夢の跡
■訪問:加瀬城
(夢見ヶ崎/ 加瀬山)
[神奈川県川崎市幸区北加瀬]
■参考
・Wikipedia:2023/1/21
・川崎市幸区HP
(日吉地区の郷土>加瀬山)
https://www.city.kawasaki.jp/saiwai/page/0000024586.html
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2023年01月29日
丸子城のなごり (川崎市)
つわものどもが夢の跡
石神井城を居城としていた武蔵国の名族・豊島氏が、太田道灌に敗れ、小机城へ逃れる途上で陣を敷いたと伝わる場所を訪ねました。
<丸子城跡>まるこ
場所は川崎市中原区の多摩川沿いの神社
<日枝神社>ひえ
この付近一帯が丸子城跡と推定されています
<境内>
私の訪問は1月上旬。三が日は過ぎていましたが、まだまだ訪れる人も多く、遠くから撮影しました。
1476年に勃発した長尾景春の乱において、景春に味方する豊島氏は、扇谷上杉家臣の太田道灌と激突することになります。背景として、南武蔵を拠点とする豊島氏にとって、江戸城などの拠点を次々に築いた太田道灌の存在が脅威になりつつあったことがあげられます。
結果は太田道灌の勝利。石神井城を居城としていた当主豊島泰経(やすつね)は、領地を追われ、同じく景春側についていた小机城の矢野氏を頼ることになりました。その途上で陣を敷いたとされるのが、今回の訪問地です。
<平坦な土地>
境内を含め、この付近は平坦な地形です。少なくとも今現在は、要害性を感じる場所ではありません。ただし、すぐ近くを川が流れています。画像左手奥の階段を登れば、そこはもう多摩川です。
<多摩川>
昔の流路とは関係なく、この付近一帯が多摩川に面した低地だったのでしょう。豊島氏は現在の東京都から神奈川県へ逃れたわけですが、川を渡り切ったこの付近で、追撃を迎え撃つ拠点を設けたとしても何ら不思議ではありません。
豊島泰経が、小机城(現在の横浜市)へ逃れたという話にも諸説あります。ただまぁせっかく来たので、南武蔵のつわもの豊島氏が、道灌の進軍を食い止めようとした思いがここにあると信じ、現地をあとにしました。
つわものどもが夢の跡
■訪問:丸子城
別称:丸子陣屋 丸子陣場
現況:丸子山王日枝神社
[神奈川県川崎市中原区上丸子山王町]
---------■ 参考画像 ■---------
<小机城跡>こづくえじょう
[神奈川県横浜市港北区小机町]
豊島氏は小机城まで逃れましたが、ここでも道灌に敗北。矢野氏は逃亡し、豊島泰経は行方がわからなくなったと伝わります。
■参考
・Wikipedia:2023/1/29
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石神井城を居城としていた武蔵国の名族・豊島氏が、太田道灌に敗れ、小机城へ逃れる途上で陣を敷いたと伝わる場所を訪ねました。
<丸子城跡>まるこ
場所は川崎市中原区の多摩川沿いの神社
<日枝神社>ひえ
この付近一帯が丸子城跡と推定されています
<境内>
私の訪問は1月上旬。三が日は過ぎていましたが、まだまだ訪れる人も多く、遠くから撮影しました。
1476年に勃発した長尾景春の乱において、景春に味方する豊島氏は、扇谷上杉家臣の太田道灌と激突することになります。背景として、南武蔵を拠点とする豊島氏にとって、江戸城などの拠点を次々に築いた太田道灌の存在が脅威になりつつあったことがあげられます。
結果は太田道灌の勝利。石神井城を居城としていた当主豊島泰経(やすつね)は、領地を追われ、同じく景春側についていた小机城の矢野氏を頼ることになりました。その途上で陣を敷いたとされるのが、今回の訪問地です。
<平坦な土地>
境内を含め、この付近は平坦な地形です。少なくとも今現在は、要害性を感じる場所ではありません。ただし、すぐ近くを川が流れています。画像左手奥の階段を登れば、そこはもう多摩川です。
<多摩川>
昔の流路とは関係なく、この付近一帯が多摩川に面した低地だったのでしょう。豊島氏は現在の東京都から神奈川県へ逃れたわけですが、川を渡り切ったこの付近で、追撃を迎え撃つ拠点を設けたとしても何ら不思議ではありません。
豊島泰経が、小机城(現在の横浜市)へ逃れたという話にも諸説あります。ただまぁせっかく来たので、南武蔵のつわもの豊島氏が、道灌の進軍を食い止めようとした思いがここにあると信じ、現地をあとにしました。
つわものどもが夢の跡
■訪問:丸子城
別称:丸子陣屋 丸子陣場
現況:丸子山王日枝神社
[神奈川県川崎市中原区上丸子山王町]
---------■ 参考画像 ■---------
<小机城跡>こづくえじょう
[神奈川県横浜市港北区小机町]
豊島氏は小机城まで逃れましたが、ここでも道灌に敗北。矢野氏は逃亡し、豊島泰経は行方がわからなくなったと伝わります。
■参考
・Wikipedia:2023/1/29
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タグ:豊島一族
2023年01月21日
近世小田原城のなごり
つわものどもが夢の跡
江戸時代を通して譜代大名の居城だった小田原城跡を訪ねました。
<小田原城天守>
小田原城と言えば、まず戦国大名・北条氏を思い浮かべますよね。しかし北条五代よりも長い江戸時代の歴史がこの城には刻まれています。
■近世城郭小田原城■
北条早雲の関東進出以降、小田原城は北条氏の関東支配のための拠点として機能し、戦国時代末期には日本で最大級の中世城郭にまで発展しました。しかし豊臣秀吉の北条征伐により小田原城は開城。以降は関東に入った徳川氏の支配下となりました。
最初に城を任されたのは、古くからの家臣で、徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世でした。小田原がいかに重要か伝わってきますね。その嫡男で、2代藩主となった忠隣の時代を含め、小田原城は新たな城郭として改修されました。それ以前の小田原城はいわゆる土の城です。本格的に石垣が用いられたのはこの時からです。
<小田原城址碑>
中世小田原城は、八幡山を含む広大な城でしたが、大久保氏時代に大幅に縮小されました。規模は三の丸の範囲内だったと伝わります。山の上より麓付近を中心に再整備したようです。ただ、諸事情で大久保忠隣は改易となり、築かれた石垣や城門は一旦破却されてしました。
その後、小田原城は幕府直轄で城主不在の時期、阿部氏の時代を経て、1632年には、将軍家光の乳母である春日局の実子・稲葉正勝が8万5千石で城主となります。その跡を継いだ正則により大規模な改修工事が施され、小田原城は近世城郭へと生まれ変わりました。
■大久保氏の城■
その後稲葉氏は越後高田に転封となり、大久保氏が再び城主となります。小田原城は関東防御の要衝であり、譜代大名である大久保氏が代々城主を務め、幕末まで重要な役割を担いました。多くの城がそうであるように、小田原城も明治になって廃城となります。最後の城主は第10代藩主の大久保忠良でした。
小田原城は一度解体されているため、以下にご紹介する城門などの施設は復元です。ただし、昔の手法で再建したり、かつての外観を極力真似て造り上げるなど工夫を凝らしたものばかりです。
<二の丸東堀>
二の丸東堀と隅櫓です。隅櫓の位置はむかしのままですが、実物はもっと大きかったようです
<馬出門と土橋>うまだしもん
堀を渡って二の丸へ進む前に、まずこの枡形門型式の馬出門と馬屋曲輪を通過する必要があります
<枡形の内部>
ここを通過すると馬屋曲輪
<馬屋曲輪>うまやくるわ
手前が馬屋曲輪です。奥の建物の向こう側が二の丸になります
<住吉橋と二の丸虎口>すみよしばし
また橋を渡る必要があります。途中までは土橋、門の手前はいわゆる橋。両方セットで住吉橋です。
<枡形門>ますがたもん
先ほどの橋を渡って門を通過すると、壁に囲まれた区画に出ます。ここもいわゆる枡形門の構造になっていて、奥には2つ目の門が待っています。威風堂々の渡櫓門は銅門(あかがねもん)と呼ばれています。
銅門を通過すれば二の丸です。少し省略して、本丸までのルートをご紹介します。
<本丸東堀>
本丸下の堀跡です。もともとは水堀でしたが今は空堀となっています
<常盤木門>ときわぎもん
斜面を登るとまた城門。ここが本丸虎口となります。本来は手前の石垣のところにも門があり、奥の渡櫓門とセットで枡形門になっていました。
そして
<復興天守>
市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守で、内部は歴史資料の展示施設となっています。小田原城には何度か天守が造られていますが、江戸時代中期に建てられ、明治まで存在していた最後の天守の外観を真似て復元されました。現在の城址公園のシンボルとなっています。
時代の流れのなかで、名城・小田原城の姿は一旦失われてしまいました。しかし、深くて長い歴史の刻まれた小田原城を後世に伝えるべく、調査や復元が繰り返されています。
日本100名城のひとつです
---------■ 小田原城 ■---------
築城者:大森頼春
築城年:1417年頃
改修者:北条早雲 大久保忠世
稲葉正勝 他
城 主:大森氏・北条氏
阿部氏 稲葉氏 大久保氏
現 況:小田原城址公園
[神奈川県小田原市城内]
■参考
・Wikipedia:2023/1/21
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
お城巡りランキング
---------■ 追 記 ■---------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
江戸時代を通して譜代大名の居城だった小田原城跡を訪ねました。
<小田原城天守>
小田原城と言えば、まず戦国大名・北条氏を思い浮かべますよね。しかし北条五代よりも長い江戸時代の歴史がこの城には刻まれています。
■近世城郭小田原城■
北条早雲の関東進出以降、小田原城は北条氏の関東支配のための拠点として機能し、戦国時代末期には日本で最大級の中世城郭にまで発展しました。しかし豊臣秀吉の北条征伐により小田原城は開城。以降は関東に入った徳川氏の支配下となりました。
最初に城を任されたのは、古くからの家臣で、徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世でした。小田原がいかに重要か伝わってきますね。その嫡男で、2代藩主となった忠隣の時代を含め、小田原城は新たな城郭として改修されました。それ以前の小田原城はいわゆる土の城です。本格的に石垣が用いられたのはこの時からです。
<小田原城址碑>
中世小田原城は、八幡山を含む広大な城でしたが、大久保氏時代に大幅に縮小されました。規模は三の丸の範囲内だったと伝わります。山の上より麓付近を中心に再整備したようです。ただ、諸事情で大久保忠隣は改易となり、築かれた石垣や城門は一旦破却されてしました。
その後、小田原城は幕府直轄で城主不在の時期、阿部氏の時代を経て、1632年には、将軍家光の乳母である春日局の実子・稲葉正勝が8万5千石で城主となります。その跡を継いだ正則により大規模な改修工事が施され、小田原城は近世城郭へと生まれ変わりました。
■大久保氏の城■
その後稲葉氏は越後高田に転封となり、大久保氏が再び城主となります。小田原城は関東防御の要衝であり、譜代大名である大久保氏が代々城主を務め、幕末まで重要な役割を担いました。多くの城がそうであるように、小田原城も明治になって廃城となります。最後の城主は第10代藩主の大久保忠良でした。
小田原城は一度解体されているため、以下にご紹介する城門などの施設は復元です。ただし、昔の手法で再建したり、かつての外観を極力真似て造り上げるなど工夫を凝らしたものばかりです。
<二の丸東堀>
二の丸東堀と隅櫓です。隅櫓の位置はむかしのままですが、実物はもっと大きかったようです
<馬出門と土橋>うまだしもん
堀を渡って二の丸へ進む前に、まずこの枡形門型式の馬出門と馬屋曲輪を通過する必要があります
<枡形の内部>
ここを通過すると馬屋曲輪
<馬屋曲輪>うまやくるわ
手前が馬屋曲輪です。奥の建物の向こう側が二の丸になります
<住吉橋と二の丸虎口>すみよしばし
また橋を渡る必要があります。途中までは土橋、門の手前はいわゆる橋。両方セットで住吉橋です。
<枡形門>ますがたもん
先ほどの橋を渡って門を通過すると、壁に囲まれた区画に出ます。ここもいわゆる枡形門の構造になっていて、奥には2つ目の門が待っています。威風堂々の渡櫓門は銅門(あかがねもん)と呼ばれています。
銅門を通過すれば二の丸です。少し省略して、本丸までのルートをご紹介します。
<本丸東堀>
本丸下の堀跡です。もともとは水堀でしたが今は空堀となっています
<常盤木門>ときわぎもん
斜面を登るとまた城門。ここが本丸虎口となります。本来は手前の石垣のところにも門があり、奥の渡櫓門とセットで枡形門になっていました。
そして
<復興天守>
市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守で、内部は歴史資料の展示施設となっています。小田原城には何度か天守が造られていますが、江戸時代中期に建てられ、明治まで存在していた最後の天守の外観を真似て復元されました。現在の城址公園のシンボルとなっています。
時代の流れのなかで、名城・小田原城の姿は一旦失われてしまいました。しかし、深くて長い歴史の刻まれた小田原城を後世に伝えるべく、調査や復元が繰り返されています。
日本100名城のひとつです
---------■ 小田原城 ■---------
築城者:大森頼春
築城年:1417年頃
改修者:北条早雲 大久保忠世
稲葉正勝 他
城 主:大森氏・北条氏
阿部氏 稲葉氏 大久保氏
現 況:小田原城址公園
[神奈川県小田原市城内]
■参考
・Wikipedia:2023/1/21
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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---------■ 追 記 ■---------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
関東で唯一明治を迎えた天守のなごり(小田原城の復興天守)
<復興天守>
この天守は市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守です。忠実な復元ではありませんが、かつてあった天守の外観を真似て建設し、内部は歴史資料の展示施設となっています。
関東においては、江戸城を除いて天守があった城は沼田城と小田原城だけです。沼田城はのちにお家の不祥事で城が破却されてしまい、江戸城の天守は明暦の大火で焼失したあと再建されることはありませんでした。関東で明治を迎えた天守は、小田原城だけなのです。
<天守と付櫓>つけやぐら
3重4階の天守と付櫓からなる地上38.7mの立派な外観。
オリジナルの天守は姿を消しましたが、似た外観の天守がそびえ立っている。小田原市のシンボルであり、関東屈指の近世城郭がこの地にあったことのなごりです。
■訪問:小田原城天守
(小田原城址公園内)
[神奈川県小田原市城内]6-1
■参考
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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この天守は市制20周年記念事業として建設された鉄筋コンクリート造りの天守です。忠実な復元ではありませんが、かつてあった天守の外観を真似て建設し、内部は歴史資料の展示施設となっています。
関東においては、江戸城を除いて天守があった城は沼田城と小田原城だけです。沼田城はのちにお家の不祥事で城が破却されてしまい、江戸城の天守は明暦の大火で焼失したあと再建されることはありませんでした。関東で明治を迎えた天守は、小田原城だけなのです。
<天守と付櫓>つけやぐら
3重4階の天守と付櫓からなる地上38.7mの立派な外観。
オリジナルの天守は姿を消しましたが、似た外観の天守がそびえ立っている。小田原市のシンボルであり、関東屈指の近世城郭がこの地にあったことのなごりです。
■訪問:小田原城天守
(小田原城址公園内)
[神奈川県小田原市城内]6-1
■参考
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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小田原城の北の要衝(蓮池・弁財天曲輪)謙信や信玄が攻め寄せた場所
小田原城址公園には、かつての城を偲ばせる建物や遺構がたくさんありますが、もともとはもっと広大な城だったので、その外側にも城のなごりが漂っています。
<石碑>
城址公園の北側に建つ石柱です。既にかつての小田原城に足を踏み入れていることを実感します。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪がありました。
<弁財天曲輪説明板>
こちらは弁財天曲輪跡の説明板です。内容を以下に紹介させて頂きます(『』内は原文のまま転記)。
『江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。
戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。』
文中の蓮池はかつてあった天然の池です。
<蓮池跡>
こちらは蓮池の説明板です。『小田原城の北を守る蓮池』と題して説明がなされています。池といっても大きな池で、そこに浮かぶ小島に弁財天が祀られていたことが、弁財天曲輪の名の由来ということですね。
<説明板拡大>
説明板の図面を拡大させて頂きました。ちょっと読みにくい字ですが、現在位置の上に「弁財天」と記されています。文久図ということで、これは江戸時代末期の様子ということになります。
弁財天曲輪、そして蓮池という天然堀も、小田原城の北側で重要な役割を担っていました。弁財天曲輪跡の説明板にもある通り、戦国時代に上杉謙信や武田信玄が攻め寄せた時には、この付近が激戦地となったようです。北条氏が居城としていた頃の小田原城は、ここから少し離れた八幡山を中核とする城でしたが、範囲はこの付近の平野部にまで広がっていたのでしょう。近世城郭として再生された小田原城に八幡山は含まれませんが、かつて激戦地となったこの場所は城に取り込まれ、江戸時代を通して明治の廃城まで役割を果たしました。素通りしてしまいそうな区画ですが、設置されている説明板のおかげで足を止めることができました。
■訪問:小田原城弁財天曲輪跡
[神奈川県小田原市城内]2
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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<石碑>
城址公園の北側に建つ石柱です。既にかつての小田原城に足を踏み入れていることを実感します。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪がありました。
<弁財天曲輪説明板>
こちらは弁財天曲輪跡の説明板です。内容を以下に紹介させて頂きます(『』内は原文のまま転記)。
『江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。
戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。』
文中の蓮池はかつてあった天然の池です。
<蓮池跡>
こちらは蓮池の説明板です。『小田原城の北を守る蓮池』と題して説明がなされています。池といっても大きな池で、そこに浮かぶ小島に弁財天が祀られていたことが、弁財天曲輪の名の由来ということですね。
<説明板拡大>
説明板の図面を拡大させて頂きました。ちょっと読みにくい字ですが、現在位置の上に「弁財天」と記されています。文久図ということで、これは江戸時代末期の様子ということになります。
弁財天曲輪、そして蓮池という天然堀も、小田原城の北側で重要な役割を担っていました。弁財天曲輪跡の説明板にもある通り、戦国時代に上杉謙信や武田信玄が攻め寄せた時には、この付近が激戦地となったようです。北条氏が居城としていた頃の小田原城は、ここから少し離れた八幡山を中核とする城でしたが、範囲はこの付近の平野部にまで広がっていたのでしょう。近世城郭として再生された小田原城に八幡山は含まれませんが、かつて激戦地となったこの場所は城に取り込まれ、江戸時代を通して明治の廃城まで役割を果たしました。素通りしてしまいそうな区画ですが、設置されている説明板のおかげで足を止めることができました。
■訪問:小田原城弁財天曲輪跡
[神奈川県小田原市城内]2
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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二の丸東堀のなごり(小田原城)
小田原城の中心部を守る水堀の話です。
<二の丸隅櫓>
二の丸東堀と隅櫓です。ここは桜の名所ですが、訪問が真冬のためこんな画像となり恐縮です。
<二の丸東堀説明板>
通り沿いに小田原城総合管理事務所さんの説明板が設置してあります。二の丸東堀と関係するところを転記させて頂くと『小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています』とのこと。江戸時代初期には既にこの堀は完成したわけですね。幅は最大で約40mの規模だったようで『二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きなも』だったそうです。埋められていなければ、この説明板の位置も堀の中だったようです。また、堀の石垣は関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したもので、江戸時代の石垣はもっと高かったとのこと。今の石垣も良いですが、もっと迫力があったのかもしれません。
<説明板拡大>
こちらは江戸時代末期の小田原城の姿です。右側が北です。画像中央上の本丸(常盤木門)からみて東側へ向かって本丸東堀、二の丸、二の丸東堀、そして三の丸と続いています。その三の丸の更に外側にも堀がありますので、三重の堀だったわけですね。
城の本来の役割は敵の侵入を防ぐため。念入りな縄張りだったことが伝わってきます。
<二の丸北堀と学橋>まなびはし
こちらは二の丸北堀に架かる学橋です。この橋は城が現役の時はありませんでしたが、今では城址公園入口のシンボル的な存在となっています。かつては公園内に小学校があったとのこと。通学に利用されたことから学橋と名付けられたそうです。
城への立ち入りを拒む堀、逆に促す橋。小田原城跡は、城のなごりを留めながらも、役割は変わっていることを実感させられる景色です。
■訪問:小田原城二の丸東堀
[神奈川県小田原市本町]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
---------■ 追 記 ■---------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
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<二の丸隅櫓>
二の丸東堀と隅櫓です。ここは桜の名所ですが、訪問が真冬のためこんな画像となり恐縮です。
<二の丸東堀説明板>
通り沿いに小田原城総合管理事務所さんの説明板が設置してあります。二の丸東堀と関係するところを転記させて頂くと『小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています』とのこと。江戸時代初期には既にこの堀は完成したわけですね。幅は最大で約40mの規模だったようで『二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中で最も大きなも』だったそうです。埋められていなければ、この説明板の位置も堀の中だったようです。また、堀の石垣は関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したもので、江戸時代の石垣はもっと高かったとのこと。今の石垣も良いですが、もっと迫力があったのかもしれません。
<説明板拡大>
こちらは江戸時代末期の小田原城の姿です。右側が北です。画像中央上の本丸(常盤木門)からみて東側へ向かって本丸東堀、二の丸、二の丸東堀、そして三の丸と続いています。その三の丸の更に外側にも堀がありますので、三重の堀だったわけですね。
城の本来の役割は敵の侵入を防ぐため。念入りな縄張りだったことが伝わってきます。
<二の丸北堀と学橋>まなびはし
こちらは二の丸北堀に架かる学橋です。この橋は城が現役の時はありませんでしたが、今では城址公園入口のシンボル的な存在となっています。かつては公園内に小学校があったとのこと。通学に利用されたことから学橋と名付けられたそうです。
城への立ち入りを拒む堀、逆に促す橋。小田原城跡は、城のなごりを留めながらも、役割は変わっていることを実感させられる景色です。
■訪問:小田原城二の丸東堀
[神奈川県小田原市本町]
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
---------■ 追 記 ■---------
春に再訪した時の画像を貼っておきます
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2023年01月14日
馬屋曲輪と馬出門(小田原城)
今回は小田原城二の丸の更に外側の馬屋曲輪、そして枡形の馬出門の話です。
<馬屋曲輪>うまやくるわ
奥の建物の向こう側は二の丸。手前が馬屋曲輪です
<馬屋曲輪説明板>
冒頭『馬屋曲輪はL字型を呈する独立した曲輪である。』と記されています。
<説明板拡大>
確かにL字型の曲輪ですね。周囲には石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、上へ登る階段や櫓が設けられていました。説明文をそのまま引用させて頂くと『この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。』とのこと。馬屋のための曲輪ではなく、馬屋もある防衛上重要な曲輪と受け止めました。
とはいえ
かつての城の痕跡は、馬と関係があるものが多いですかね。
<馬屋跡>
馬屋は言うまでもなく馬小屋のことですが、徳川将軍家用であったとのこと。
<切石敷井戸跡>きりいししきいど
馬屋近くには井戸の跡。外側が円形で内側は六角形の井戸で、大陸から伝わったと説明板には記されていました。この井戸も徳川将軍家用とのこと。将軍家は常駐していませんが、普段から他とは区別しているのですね
<大腰掛跡>おおこしかけ
腰掛とは詰所のことです
説明板ばかりなので少し形のあるものを
<雁木>がんぎ
土塁と階段です。小田原城に限らず、雁木と呼ぶ場合があります。階段が、さながら雁が並んで飛んでいる様子と似ているためです。ここの雁木が他とちょっと異なるのは、階段がまっすくではなく、やや斜めに設置してあることです。なんでですかね?
<櫓台跡>
二重隅櫓の櫓台です。櫓そのものは当時の形がはっきりしないことから、あえて復元していないそうです。形の整った現在の櫓台は復元ですが、石材の一部はかつてのものがそのまま使われています。
つぎに
この馬屋曲輪の一部といってよい枡形門へ。区画を取り囲む城壁と二つの門がしっかり復元されています。
<馬出門>うまだしもん
枡形の内側を撮影しました。左手の高麗門が馬出門ですが、枡形となっている区画そのものの呼び名も馬出門です(分かりにくい?)。違う言い方をすると、左手の門(馬出門)と右手の門(内冠木門:うちかぶきもん)の二つの門、そして石垣と土塀で四角に囲んだ区画の総称も馬出門です(今度は分かった!?)
<馬出門説明板>
説明板の写真の方が枡形の構造がわかりやすいですね。復元はこういった発掘調査の裏付けにもとづいて行われています。
ということで
小田原城の馬屋曲輪、そして隣接する馬出門のご紹介でした。
<馬出門と土橋>
小田原城址公園には、城の正面から4つの城門をくぐって天守を目指す「正規登城ルート」というお勧めコースがあります。馬出門はその入口です。
■訪問:小田原城馬出曲輪
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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<馬屋曲輪>うまやくるわ
奥の建物の向こう側は二の丸。手前が馬屋曲輪です
<馬屋曲輪説明板>
冒頭『馬屋曲輪はL字型を呈する独立した曲輪である。』と記されています。
<説明板拡大>
確かにL字型の曲輪ですね。周囲には石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、上へ登る階段や櫓が設けられていました。説明文をそのまま引用させて頂くと『この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。』とのこと。馬屋のための曲輪ではなく、馬屋もある防衛上重要な曲輪と受け止めました。
とはいえ
かつての城の痕跡は、馬と関係があるものが多いですかね。
<馬屋跡>
馬屋は言うまでもなく馬小屋のことですが、徳川将軍家用であったとのこと。
<切石敷井戸跡>きりいししきいど
馬屋近くには井戸の跡。外側が円形で内側は六角形の井戸で、大陸から伝わったと説明板には記されていました。この井戸も徳川将軍家用とのこと。将軍家は常駐していませんが、普段から他とは区別しているのですね
<大腰掛跡>おおこしかけ
腰掛とは詰所のことです
説明板ばかりなので少し形のあるものを
<雁木>がんぎ
土塁と階段です。小田原城に限らず、雁木と呼ぶ場合があります。階段が、さながら雁が並んで飛んでいる様子と似ているためです。ここの雁木が他とちょっと異なるのは、階段がまっすくではなく、やや斜めに設置してあることです。なんでですかね?
<櫓台跡>
二重隅櫓の櫓台です。櫓そのものは当時の形がはっきりしないことから、あえて復元していないそうです。形の整った現在の櫓台は復元ですが、石材の一部はかつてのものがそのまま使われています。
つぎに
この馬屋曲輪の一部といってよい枡形門へ。区画を取り囲む城壁と二つの門がしっかり復元されています。
<馬出門>うまだしもん
枡形の内側を撮影しました。左手の高麗門が馬出門ですが、枡形となっている区画そのものの呼び名も馬出門です(分かりにくい?)。違う言い方をすると、左手の門(馬出門)と右手の門(内冠木門:うちかぶきもん)の二つの門、そして石垣と土塀で四角に囲んだ区画の総称も馬出門です(今度は分かった!?)
<馬出門説明板>
説明板の写真の方が枡形の構造がわかりやすいですね。復元はこういった発掘調査の裏付けにもとづいて行われています。
ということで
小田原城の馬屋曲輪、そして隣接する馬出門のご紹介でした。
<馬出門と土橋>
小田原城址公園には、城の正面から4つの城門をくぐって天守を目指す「正規登城ルート」というお勧めコースがあります。馬出門はその入口です。
■訪問:小田原城馬出曲輪
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
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切石敷井戸跡(小田原城馬屋曲輪)大陸より伝えられた六角井戸
小田原城の馬屋曲輪跡にて、円形に石が敷いてあるのを見かけたので覗いてみました。
<切石敷井戸跡>きりいししきいど
井戸の跡か?
説明文によれば
『表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸と言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。』
とのこと。
<説明板写真>
確かに内側は円形ではないようです
日本で井戸と言えば円形、あるいは四角形が多いですよね。外側の円形は良いとして、六角には特別な意味があったのでしょうか。『六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸』とありますが、それと徳川将軍家との関連性がいまいちわかりませんでした。
六角井戸でネット検索すると、長崎県平戸市浦の町の井戸が有名のようです。そして、当時の中国(明)との関係が伝わってきます。
では六角井戸と将軍家のつながりは?
はい。分かりませんでした。
ただ、これはよく言われることですが、秀吉の時代に悪化した大陸との関係を、徳川家康はなんとか改善しようとつとめていました。鎖国の一方で、文化の交流を図る。そんな流れのなかで、大陸の井戸を真似て一般的な井戸と差別化を図ることは、徳川将軍家のステータスに相応しい施しだったのかもしれませんね。
ということで
素人会社員の妄想ですので、その程度に受け止めて頂きますようお願いします。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<馬屋曲輪>うまやくるわ
■訪問:小田原城馬出曲輪
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/14
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<切石敷井戸跡>きりいししきいど
井戸の跡か?
説明文によれば
『表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸と言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。』
とのこと。
<説明板写真>
確かに内側は円形ではないようです
日本で井戸と言えば円形、あるいは四角形が多いですよね。外側の円形は良いとして、六角には特別な意味があったのでしょうか。『六角井戸は大陸より伝えられた特別な井戸』とありますが、それと徳川将軍家との関連性がいまいちわかりませんでした。
六角井戸でネット検索すると、長崎県平戸市浦の町の井戸が有名のようです。そして、当時の中国(明)との関係が伝わってきます。
では六角井戸と将軍家のつながりは?
はい。分かりませんでした。
ただ、これはよく言われることですが、秀吉の時代に悪化した大陸との関係を、徳川家康はなんとか改善しようとつとめていました。鎖国の一方で、文化の交流を図る。そんな流れのなかで、大陸の井戸を真似て一般的な井戸と差別化を図ることは、徳川将軍家のステータスに相応しい施しだったのかもしれませんね。
ということで
素人会社員の妄想ですので、その程度に受け止めて頂きますようお願いします。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
<馬屋曲輪>うまやくるわ
■訪問:小田原城馬出曲輪
[神奈川県小田原市城内]3
■参考及び出典
・現地説明板
(小田原城総合管理事務所)
・Wikipedia:2023/1/14
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