つわものどもが夢の跡
上州の有力豪族で、古くは源頼朝にも仕えた倉賀野氏。その居城跡を訪ねました。
■倉賀野城■くらがのじょう
<城跡>
はい。ご覧の通り公園です。遺構はありません。ここは本丸跡で、城そのものはもっと広かったわけですが、都市化によりそのなごりは失われています(駅から歩いてくる間に実感)。
<石碑>
立派な石碑はあります。撮影は個人宅にご迷惑かと思いましたが、どうにも避けられず申し訳ございません。ただ個人的には羨ましいです。倉賀野城の本丸跡にお住まいなのですから。眺めも良いです。正面は川。遮るものがないので遠くまで見渡せます。
<烏川>からすがわ
公園から撮影した烏川。群馬県を流れる利根川水系の川です。倉賀野城はこの川に面する丘の上に築かれました。方角でいうと烏川の北側になります。
<高低差>
急な斜面。そして充分な高低差。下からの攻め手には、崖にそびえ立つ要塞に映ったかもしれません。
守りを固めるには最適な場所ですね。遺構はありませんが、この地形を実際に見られただけで来た甲斐がありました。ここだけ強調するとまるで山城のようですが、倉賀野城そのものは平城と言えます。川に面した部分だけは崖状になっている。そんな感じですかね。
■有力豪族■
武蔵七党の1つ児玉党の流れをくむ倉賀野氏。冒頭でもふれさせてもらいましたが、鎌倉時代には既にその名が歴史に刻まれており、戦国期に至るまで存続した有力武士団です。関東管領・上杉憲政(のりまさ)の家臣としても活躍。重鎮であったと伝わります。憲政といえば、山内上杉(やまのうちうえすぎ)の十五代目。そして小田原北条氏に敗北し、長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督と関東管領職を譲った人物ですね。
■倉賀野尚行■なおゆき
この流れといっては経緯を省略しすぎかもしれませんが、1561年の上杉謙信による小田原城攻撃時には、倉賀野城主・倉賀野尚行が上杉勢として参加しています。
当時は上杉・武田・北条の勢力争いの真っただ中ですよね。まして上州、いまでいう群馬県は激戦区。上杉方の倉賀野城はのちに武田勢によって攻められ、何度か撃退したものの、1563年ついに攻め落とされました。
あの「武田信玄が攻め落とした城」ということですね。ただ撃退もしている訳ですから、倉賀野氏は攻め手の武田勢にとってそうとう厄介なつわものだったわけです。敗北の背景には身内の寝返りや、上州において強い味方だった箕輪(みのわ)城主・長野業正(なりまさ)の死がありました。長野業正は上州の諸勢力を束ねることができる実力者。この武将がいなくなった影響は大きいですね。倉賀野落城後、武田勢は箕輪城へも総攻撃を仕掛けて陥落させています。城を失った倉賀野尚行、一旦上杉謙信のもとへ逃れました。
■倉賀野秀景■ひでかげ
倉賀野尚行の重臣に金井秀景(通称・小源太)という人物がいました。倉賀野十六騎の一人として長らく活躍。倉賀野城を守り、武田勢を相手に奮闘することもありました。ところが、のちに武田家へ鞍替え。その武田勢により城が落とされ、城主・尚行が倉賀野の地を去ると、この金井秀景が倉賀野氏を名乗り、城主となったそうです(倉賀野秀景)。
調略に応じた?それとも尚行との不仲?ちょっと良くわかりませんが、とにかく戦国の世は厳しいですね。この地は巨大な勢力の激突に巻き込まれた上に、身内においても骨肉の争いが行われていた。そういう城跡ということですね。
注)倉賀野城十六騎に関しては諸説あります。
<説明板>
倉賀野城十六騎が城を守ったことが書かれています。秀景(=金井小源太)についてですが、武田に寝返ったというような記載はありませんね・・・立ち回り方を間違えると生き残れない戦国時代の上州です。深い事情があったのかもしれませんね。
さて、この倉賀野秀景ですが、武田滅亡後は織田信長家臣の滝川一益に従っていました。そして信長の死(本能寺の変)。なんと5万を超す北条軍が上州へ押しかけます。これを迎え撃つ滝川一益と地元国人衆。神流川の戦いの始まりです。この戦いで、秀景本人は奮闘し活躍したようですが、息子を失った上に滝川軍そのものが大敗。滝川一益は敗走を余儀なくされました。秀景はあの真田昌幸らとともに、関東から撤退する滝川一益を木曾まで警護して送ったとされています。
その後、倉賀野氏は関東の覇者となった小田原北条氏の配下となりました。
■つわものどもが夢の跡■
<石碑裏側から撮影>
この公園の名は雁児童公園。雁はガンではなくて「かりがね」と読みます。倉賀野氏の家紋は雁二羽を象ったものですが、この呼び名が「むかいかりがね」。この公園も、そして倉賀野城の別名「雁城(かりがねじょう)」も、これに由来しています。
武田勢に攻め落とされ、かつての身内に城主の座を奪われた倉賀野尚行。上杉に逃れたのちも諦めず、倉賀野奪回を目論んでしたようです。しかし、結局はそれも叶いませんでした。最終的には越後へ移り、名を統基と改め、上杉家重臣の直江兼続に仕えたそうです。
一方、倉賀野城最後の城主となる倉賀野秀景ですが、小田原城に駆けつけ、北条側として秀吉率いる天下軍と戦いました(早川口を守備したと伝わります)。籠城戦の末に小田原城が落城すると、その後まもなく没したようです。ただ、どのような最期であったかは不明です。
ここ倉賀野城ですが、天下軍の別動隊(秀吉本隊とは別の北国勢:前田利家ほか)が押し寄せ、城主不在の状態で降伏。その後廃城となりました。
-------■倉賀野城■-------
別 名: 雁城
築城者:秩父高俊(武蔵児玉氏末裔)
築城年:詳細不明(鎌倉時代)
改修年:詳細不明(南北朝時代)
改修者:倉賀野光行
城 主:倉賀野氏
廃 城:1590年
現 状:雁児童公園(本丸跡)
[群馬県高崎市倉賀野町]
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2018年03月09日
2018年02月15日
足利氏発祥の地 足利氏館跡(鑁阿寺)
室町幕府を開いた足利尊氏はとても有名ですね。今回訪問の先はそのご先祖さまたちが本拠とした場所。そして足利氏の氏寺でもあります。
つわものでもが夢の跡
名門足利氏発祥の地をご紹介します。
■鑁阿寺■ばんなじ
<山門と太鼓橋>
こちらが正面入り口です。唐破風(からはふ)の屋根が付いた反り橋を通って水堀を渡ります。
山号は金剛山。地元でこの場所を「足利氏館」と呼ぶ人は少なく、そのまま「鑁阿寺」、あるいはご本尊から「大日様」と呼ばれています。大日如来は源氏、足利氏の守り本尊です。
神社仏閣でへんな説明にならないよう、以下は足利市のホームページからの転記です。
『鑁阿寺(ばんなじ)は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。』
[出典:足利市ホームページ]
境内はとにかく立派で、重みがあります。
<仁王門>
足利義兼による創建が1196年。のち戦火で焼失したため、1564年に再建されました。とても厳格な雰囲気です。
<本堂>
鑁阿寺の本堂。こちらは国宝です。鎌倉時代に足利義兼が持仏堂として建立したのが始まり。火災で焼失し、足利貞氏が再建しました(1229年)。貞氏とは尊氏のお父さま。つまり尊氏の時代においても、この地は足利氏の重要拠点であり続けていたわけですね。
<多宝堂>
<大銀杏>
こちらは天然記念物に指定されている銀杏。樹齢650年を超える巨木です。
<不動尊>
<御霊屋>
こちらは入れませんでした。本殿に源氏の祖を祀り、拝殿には足利15代将軍の像を祀ってあるようです。
また、今回は撮影しませんでしたが、鐘楼と経堂は重要文化財となっています。
■中世武士の館跡■
館と言っても約4万uというから結構広いですね。敷地は平坦でほぼ正方形。まぁ分類するなら平城ということになります。周囲には土塁と堀。お寺でありながら、日本100名城の一つに選定されています。
<水堀と土塁>
整備されて手入れも行き届いていますが、武家の館の面影を今に伝えるのに充分な雰囲気があります。
<石碑>
これは冒頭の太鼓橋付近です。
■周辺■
足利氏館跡(鑁阿寺)は、足利市の市街地の中心に位置しています。すぐそば、というよりほぼお隣は足利学校。こちらとセットでの訪問をお勧めします。
<足利学校>
日本最古の学校として有名(実際に最古かどうかは不明)。創設の経緯について諸説ありますが、今回取り上げている足利義兼が学校を築いたのが始まりという説もあります。
<足利氏尊氏像>
鑁阿寺と足利学校の中間くらいで撮影しました。
■足利氏の祖■
足利氏は名門武家として知られていますね。特に足利尊氏以降は、室町幕府の将軍を世襲していますから、これはもう教科書に出ているレベル。本姓は源氏。清和源氏の流れをくむ一族です。
■源義家■八幡太郎
足利尊氏もそうですが、鎌倉幕府をひらいた源頼朝も、この「源義家」を祖とします。八幡太郎という通称の方が有名でしょうか?細かい説明は省略するとして、まぁとにかく武家の棟梁として名を馳せ、その後の源氏勢力拡大の基盤をつくった武将です。その義家を起点に足利氏を説明すると
源義家⇒源義国⇒源義康(足利氏初代)
となります。簡単に言えば、八幡太郎・義家の孫が足利氏初代ということですね。
義家の子である義国が足利へ移り、その子である義康が地名である足利氏を名のった。これが足利氏の始まりです。この足利氏の支流でのちに有名になるのが吉良氏や今川氏といったところでしょうか(もっともっと沢山ありますがとりあえず)。
ちなみに、義康の兄は新田氏の祖となる義重。足利尊氏と争った新田義貞のご先祖ということですね。義貞は新田氏本宗家の8代目。遡れば足利尊氏とご先祖さまは同じです。
里見氏や山名氏はこの「新田氏」の流れをくむ一族です。徳川家康も「新田氏の末裔」を名乗っていますが、一般的には疑われています。源氏の末裔でないと困る事情があったのでしょうね。
もう一回経緯を振り返ると「源義家⇒源義国⇒足利義康」で、足利へ土着したのは源義国ということですよね。だったら義国が足利氏初代?これがですね、ちょっと違ってまして、義国は足利荘を開墾したものの、次男である義康にこれを譲り、自らは長男とともに上野国の新田へ移っています(新田で開墾を行いました)。
■つわものどもが夢の跡■
一時代を築いた足利氏。名門の支流は中央周辺に留まらず、九州や奥州にも広がりました。この館跡は、その始まりの地です。
-------■足利氏館跡■-------
築城年:平安末期〜鎌倉初期
築城者:足利義兼
城 主:源氏・足利氏
現 状:鑁阿寺
[栃木県足利市家富町]
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つわものでもが夢の跡
名門足利氏発祥の地をご紹介します。
■鑁阿寺■ばんなじ
<山門と太鼓橋>
こちらが正面入り口です。唐破風(からはふ)の屋根が付いた反り橋を通って水堀を渡ります。
山号は金剛山。地元でこの場所を「足利氏館」と呼ぶ人は少なく、そのまま「鑁阿寺」、あるいはご本尊から「大日様」と呼ばれています。大日如来は源氏、足利氏の守り本尊です。
神社仏閣でへんな説明にならないよう、以下は足利市のホームページからの転記です。
『鑁阿寺(ばんなじ)は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。』
[出典:足利市ホームページ]
境内はとにかく立派で、重みがあります。
<仁王門>
足利義兼による創建が1196年。のち戦火で焼失したため、1564年に再建されました。とても厳格な雰囲気です。
<本堂>
鑁阿寺の本堂。こちらは国宝です。鎌倉時代に足利義兼が持仏堂として建立したのが始まり。火災で焼失し、足利貞氏が再建しました(1229年)。貞氏とは尊氏のお父さま。つまり尊氏の時代においても、この地は足利氏の重要拠点であり続けていたわけですね。
<多宝堂>
<大銀杏>
こちらは天然記念物に指定されている銀杏。樹齢650年を超える巨木です。
<不動尊>
<御霊屋>
こちらは入れませんでした。本殿に源氏の祖を祀り、拝殿には足利15代将軍の像を祀ってあるようです。
また、今回は撮影しませんでしたが、鐘楼と経堂は重要文化財となっています。
■中世武士の館跡■
館と言っても約4万uというから結構広いですね。敷地は平坦でほぼ正方形。まぁ分類するなら平城ということになります。周囲には土塁と堀。お寺でありながら、日本100名城の一つに選定されています。
<水堀と土塁>
整備されて手入れも行き届いていますが、武家の館の面影を今に伝えるのに充分な雰囲気があります。
<石碑>
これは冒頭の太鼓橋付近です。
■周辺■
足利氏館跡(鑁阿寺)は、足利市の市街地の中心に位置しています。すぐそば、というよりほぼお隣は足利学校。こちらとセットでの訪問をお勧めします。
<足利学校>
日本最古の学校として有名(実際に最古かどうかは不明)。創設の経緯について諸説ありますが、今回取り上げている足利義兼が学校を築いたのが始まりという説もあります。
<足利氏尊氏像>
鑁阿寺と足利学校の中間くらいで撮影しました。
■足利氏の祖■
足利氏は名門武家として知られていますね。特に足利尊氏以降は、室町幕府の将軍を世襲していますから、これはもう教科書に出ているレベル。本姓は源氏。清和源氏の流れをくむ一族です。
■源義家■八幡太郎
足利尊氏もそうですが、鎌倉幕府をひらいた源頼朝も、この「源義家」を祖とします。八幡太郎という通称の方が有名でしょうか?細かい説明は省略するとして、まぁとにかく武家の棟梁として名を馳せ、その後の源氏勢力拡大の基盤をつくった武将です。その義家を起点に足利氏を説明すると
源義家⇒源義国⇒源義康(足利氏初代)
となります。簡単に言えば、八幡太郎・義家の孫が足利氏初代ということですね。
義家の子である義国が足利へ移り、その子である義康が地名である足利氏を名のった。これが足利氏の始まりです。この足利氏の支流でのちに有名になるのが吉良氏や今川氏といったところでしょうか(もっともっと沢山ありますがとりあえず)。
ちなみに、義康の兄は新田氏の祖となる義重。足利尊氏と争った新田義貞のご先祖ということですね。義貞は新田氏本宗家の8代目。遡れば足利尊氏とご先祖さまは同じです。
里見氏や山名氏はこの「新田氏」の流れをくむ一族です。徳川家康も「新田氏の末裔」を名乗っていますが、一般的には疑われています。源氏の末裔でないと困る事情があったのでしょうね。
もう一回経緯を振り返ると「源義家⇒源義国⇒足利義康」で、足利へ土着したのは源義国ということですよね。だったら義国が足利氏初代?これがですね、ちょっと違ってまして、義国は足利荘を開墾したものの、次男である義康にこれを譲り、自らは長男とともに上野国の新田へ移っています(新田で開墾を行いました)。
■つわものどもが夢の跡■
一時代を築いた足利氏。名門の支流は中央周辺に留まらず、九州や奥州にも広がりました。この館跡は、その始まりの地です。
-------■足利氏館跡■-------
築城年:平安末期〜鎌倉初期
築城者:足利義兼
城 主:源氏・足利氏
現 状:鑁阿寺
[栃木県足利市家富町]
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タグ:日本100名城
2018年02月11日
足利市の岩山を登る 両崖山城
つわものどもが夢の跡
今回の訪問は栃木県足利市。岩山に築かれた山城跡を訪ねました。
<岩山>
登れば登るほど岩が増える険しい道程でした。足利城の名で知られていますが、山の名から両崖山城とも呼ばれています。
■両崖山■りょうがいざん
市街地の北西にある両崖山。この頂上がかつての城の本丸と考えられています。両崖山の標高は250m程度ですが、車で行けるのは途中まで。本格的な登山という程ではありませんが、ピクニック気分だとちょっと痛い目に合うかもしれません。
<登山口付近>
現地の「織姫公園」までは車で行けます。ここからは徒歩。山道といっても、1.6Kmならなんとかなるだろう・・・と、この時点ではやや軽い気持ちでした。
<山道>
天気も良いし楽勝!と、この時は・・・
<平らな区画>
曲輪の跡?本丸(頂上)まで距離がありますが、出城的な区画だった可能性もありますね。
<説明板>
ここまで「城跡」を案内するようなものはありませんが、ここで初めてそれらしい雰囲気に。とても長い説明です。その冒頭だけご紹介すると『平安時代、1054年に藤原秀郷の子孫、藤原成行が足利に入部して両崖山に城を築いたと伝わる。以来130年間治めた(一部省略)』とのこと。
なるほど。戦国時代の城跡を意識していましたが、築城そのものは平安時代。そこを目指して歩いている訳ですね。さて、もう少し頑張りますかね。
<説明板を通過>
それにしてもあと1.3Km?まだ300mしか進んでないのですね。
<岩>
ご丁寧な石段は終わり、岩まじりの道を進みます
更に進んで振り返るとこんな感じです。ほぼ岩の道です。
<下り>
尾根づたいに登ってきましたが、ここでちょっと下り。足の疲れからして嬉しくもありますが、登った分が帳消しになる空しさも多少・・・
<また登る>
立ち塞がる岩が「もうやめときな」と善意で言ってくれている気もしましたが、今回は友人と訪問しているので、そう簡単に弱音が吐けません。
<急傾斜>
無言・・・
ただただ行く先を見ているだけなのですが、視界に空が入るようになりました。
<斜面>
山の斜面に細長い「堀」のようなものが見えましたが、寄り道する余裕がなく、そのまま登りました。
<岩山と空>
<壁>
岩と岩の間を通り抜けて進みました。が、これはちょっと力の無駄遣い。想像より時間がかかり、迂回が面倒だっただけです。
息が切れる。「ハイキングコース」らしいのですが、その言葉から連想される道とは大違い。この付近で元気な老人とすれ違い、己の無力さを痛感。
<休憩>
両崖山城からのながめです(まだ頂上ではありませんが休憩)。関東平野が見渡せます。中央の河川は足利市内を流れる渡良瀬川。見晴らしの良さから佐野の「唐沢山城」を思い出しましたが、思考が半分停止していて、じっくり味わう余裕がありませんでした。
<堀切跡>
まもなく頂上というところで尾根を削ったと思われる窪みが現れました。
<物見?>
堀切を通過して振り返るとこんな感じです。向う側は曲輪と呼ぶには狭すぎるので、例えば門を施して(柵でもなんでも良いですが)安易に侵入させないような構造だったのかも知れませんね。
<更に>
何らかの目的で人の手が加えられています。小規模な曲輪でしょうか・・・画像中央の奥は斜面に向かって堀切となっています。まぁ竪堀と言った方が良いのでしょうか?とにかく山の斜面を削った堀の跡です。
<段々状の斜面>
帯曲輪のなごりでしょうかね。
<抉られた斜面>
藪で見えにくいですが明らかに人の手による窪み。角度からして竪堀でしょうか。下の方まで窪みが続いています。
<まもなくゴール>
頂上です。ほぼ
<両崖山神社>
ここが本日のゴールです。両崖山城の本丸跡。やっとたどり着きました。やっと・・・
<説明板>
説明と縄張り図。なるほど、シンプルで分りやすい。頂上が本丸として『三方の尾根に作られた段郭と堀切等からなっている』とのこと。これを探索する立場で解釈すると、三方に遺構が散りばめられているということですね。三方・・・ちょっと無理。もう疲れました。
■藤姓足利氏の城■
途中の「説明板」のところでも触れさせてもらいましたが、この城は藤姓足利氏初代の足利成行が築城者。あの足利尊氏の足利氏?ではありません。清和源氏の流れをくむ足利ではなく、藤原秀郷(ひでさと)の後裔の足利氏。ちょっと紛らわしいので、藤姓足利氏と表記します。同じ下野国の小山氏は同族ということになりますが、勢力争いで対立しています。北関東の有力な豪族として一時期は勢いがありましたが、最終的には源頼朝に滅ぼされました。
■足利長尾氏による改修■
後に長尾景人(山内上杉家の家臣・足利長尾氏の祖となる人物)が室町幕府の命で代官としてここ足利に入部。そして足利長尾氏の三代目の景長(景人の次男)が、ここ両崖山の城跡を改修して本拠としました。足利長尾氏は上杉謙信に従って小田原北条氏と戦いますが、最後はその配下に下り、小田原北条氏滅亡とともに断絶したようです。城もその時に廃城になったと思われます。
ということで、今回はほぼ山登りのご紹介でした。帰路は山道を外れて痕跡探しをするつもりでしたが、とてもそんな体力はなく、無言で下山しました。ネット検索すると、この険しい山で活発に遺構探しをしている方々がいるようですね。羨ましいです。でも、これがこの日の私の限界でした。両崖山の城跡、以上です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
-------■両崖山城■-------
別 名:足利城・飯塚山城
築城年:1054年(天喜2)頃
築城者:足利(藤原)成行
改修者:長尾景長
城 主:藤姓足利氏・足利長尾氏
廃 城:不明(1590年以降)
[栃木県足利市本城]
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今回の訪問は栃木県足利市。岩山に築かれた山城跡を訪ねました。
<岩山>
登れば登るほど岩が増える険しい道程でした。足利城の名で知られていますが、山の名から両崖山城とも呼ばれています。
■両崖山■りょうがいざん
市街地の北西にある両崖山。この頂上がかつての城の本丸と考えられています。両崖山の標高は250m程度ですが、車で行けるのは途中まで。本格的な登山という程ではありませんが、ピクニック気分だとちょっと痛い目に合うかもしれません。
<登山口付近>
現地の「織姫公園」までは車で行けます。ここからは徒歩。山道といっても、1.6Kmならなんとかなるだろう・・・と、この時点ではやや軽い気持ちでした。
<山道>
天気も良いし楽勝!と、この時は・・・
<平らな区画>
曲輪の跡?本丸(頂上)まで距離がありますが、出城的な区画だった可能性もありますね。
<説明板>
ここまで「城跡」を案内するようなものはありませんが、ここで初めてそれらしい雰囲気に。とても長い説明です。その冒頭だけご紹介すると『平安時代、1054年に藤原秀郷の子孫、藤原成行が足利に入部して両崖山に城を築いたと伝わる。以来130年間治めた(一部省略)』とのこと。
なるほど。戦国時代の城跡を意識していましたが、築城そのものは平安時代。そこを目指して歩いている訳ですね。さて、もう少し頑張りますかね。
<説明板を通過>
それにしてもあと1.3Km?まだ300mしか進んでないのですね。
<岩>
ご丁寧な石段は終わり、岩まじりの道を進みます
更に進んで振り返るとこんな感じです。ほぼ岩の道です。
<下り>
尾根づたいに登ってきましたが、ここでちょっと下り。足の疲れからして嬉しくもありますが、登った分が帳消しになる空しさも多少・・・
<また登る>
立ち塞がる岩が「もうやめときな」と善意で言ってくれている気もしましたが、今回は友人と訪問しているので、そう簡単に弱音が吐けません。
<急傾斜>
無言・・・
ただただ行く先を見ているだけなのですが、視界に空が入るようになりました。
<斜面>
山の斜面に細長い「堀」のようなものが見えましたが、寄り道する余裕がなく、そのまま登りました。
<岩山と空>
<壁>
岩と岩の間を通り抜けて進みました。が、これはちょっと力の無駄遣い。想像より時間がかかり、迂回が面倒だっただけです。
息が切れる。「ハイキングコース」らしいのですが、その言葉から連想される道とは大違い。この付近で元気な老人とすれ違い、己の無力さを痛感。
<休憩>
両崖山城からのながめです(まだ頂上ではありませんが休憩)。関東平野が見渡せます。中央の河川は足利市内を流れる渡良瀬川。見晴らしの良さから佐野の「唐沢山城」を思い出しましたが、思考が半分停止していて、じっくり味わう余裕がありませんでした。
<堀切跡>
まもなく頂上というところで尾根を削ったと思われる窪みが現れました。
<物見?>
堀切を通過して振り返るとこんな感じです。向う側は曲輪と呼ぶには狭すぎるので、例えば門を施して(柵でもなんでも良いですが)安易に侵入させないような構造だったのかも知れませんね。
<更に>
何らかの目的で人の手が加えられています。小規模な曲輪でしょうか・・・画像中央の奥は斜面に向かって堀切となっています。まぁ竪堀と言った方が良いのでしょうか?とにかく山の斜面を削った堀の跡です。
<段々状の斜面>
帯曲輪のなごりでしょうかね。
<抉られた斜面>
藪で見えにくいですが明らかに人の手による窪み。角度からして竪堀でしょうか。下の方まで窪みが続いています。
<まもなくゴール>
頂上です。ほぼ
<両崖山神社>
ここが本日のゴールです。両崖山城の本丸跡。やっとたどり着きました。やっと・・・
<説明板>
説明と縄張り図。なるほど、シンプルで分りやすい。頂上が本丸として『三方の尾根に作られた段郭と堀切等からなっている』とのこと。これを探索する立場で解釈すると、三方に遺構が散りばめられているということですね。三方・・・ちょっと無理。もう疲れました。
■藤姓足利氏の城■
途中の「説明板」のところでも触れさせてもらいましたが、この城は藤姓足利氏初代の足利成行が築城者。あの足利尊氏の足利氏?ではありません。清和源氏の流れをくむ足利ではなく、藤原秀郷(ひでさと)の後裔の足利氏。ちょっと紛らわしいので、藤姓足利氏と表記します。同じ下野国の小山氏は同族ということになりますが、勢力争いで対立しています。北関東の有力な豪族として一時期は勢いがありましたが、最終的には源頼朝に滅ぼされました。
■足利長尾氏による改修■
後に長尾景人(山内上杉家の家臣・足利長尾氏の祖となる人物)が室町幕府の命で代官としてここ足利に入部。そして足利長尾氏の三代目の景長(景人の次男)が、ここ両崖山の城跡を改修して本拠としました。足利長尾氏は上杉謙信に従って小田原北条氏と戦いますが、最後はその配下に下り、小田原北条氏滅亡とともに断絶したようです。城もその時に廃城になったと思われます。
ということで、今回はほぼ山登りのご紹介でした。帰路は山道を外れて痕跡探しをするつもりでしたが、とてもそんな体力はなく、無言で下山しました。ネット検索すると、この険しい山で活発に遺構探しをしている方々がいるようですね。羨ましいです。でも、これがこの日の私の限界でした。両崖山の城跡、以上です。最後までお読み頂き、ありがとうございます。
-------■両崖山城■-------
別 名:足利城・飯塚山城
築城年:1054年(天喜2)頃
築城者:足利(藤原)成行
改修者:長尾景長
城 主:藤姓足利氏・足利長尾氏
廃 城:不明(1590年以降)
[栃木県足利市本城]
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2017年12月15日
栃木城のなごり
つわものどもが夢の跡
戦国の北関東で強かに生き残った皆川氏の城跡を訪ねました。
<栃木城跡>
栃木市の栃木城跡です。現在は土塁と堀の一部、曲輪跡が僅かに残るのみ。かつてこの地を治めた皆川広照(みながわひろてる)の居城跡です。
■当主の次男■
皆川広照は皆川城主・皆川俊宗の次男として生まれました。家督は一旦兄(広勝)が継いだものの、29歳という若さで亡くなってしまい、家を継ぐことに。皆川氏は名門ながらも小大名。周辺の小大名と同様、上杉・北条といった大きな勢力の煽りを受け続けます。そんな家の当主となった広照。「世渡り上手」で戦国の世で生き残りました。
【主君】
宇都宮氏⇒北条氏⇒滝川氏(実質織田氏)⇒また宇都宮氏⇒また北条氏⇒徳川(家康から家光まで)
普通はどこかで途切れそうですが、上手く切り抜けました。ただ逃げるだけなら、どこかで潰されていたでしょう。攻めたり退いたり、堪えて守ったりを繰り返せるだけの武力も備えていました。
それにしても、具体的には「また北条氏」のところですが、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉を敵に回していたことになります。よく領地を没収されずに済みましたね。広照は北条氏照の配下として、小田原城の守備についていました。つまり秀吉率いる天下軍との決戦に備えていたわけですね。ところがギリギリのところで城を出て徳川家康に接近し、難を逃れたようです。しかも江戸時代は譜代大名という扱い。皆川広照、なかなか他に例を見ない処世術です。
<児童公園>
ここも城跡。栃木城址公園です。画像だと、これそのものが独立した曲輪のようにも映りますが、児童公園として整備した結果ですね。
<土塁>
冒頭の土塁を児童公園側から撮影。防衛用の土塁としては長さが短すぎるので、物見のために土を盛ったのかも知れません。あるいは、堀とセットで築いた立派な土塁は、ほとんど削られてしまった(なんて想像しながら見て回る)。
<土塁>別角度より撮影
同じ土塁を今度は堀側から。こうして見ると、多少は防衛用の土塁に見えなくもないですね。ちなみに、石垣は後世のものです(念のため)。
<堀跡>
<水面>
水がやたら澄んでいました。ただ水源は湧水ではありません。
■山城から平城へ■
1590年の小田原征伐の時、皆川城は上杉軍に攻められ落城しています。幾多の激戦を経験している皆川氏ですが、この時は自ら開城したと推定されています(ある程度戦ったという説もあります)。小田原北条氏に組みしていた関東の諸大名には憂き目が待っていましたが、当主広照が事前に徳川家康に下っていたことで、皆川氏の本領は安堵されました。その後、広照は山城を放棄して巴波川沿いに築いた平城へと拠点を移しました。
今回訪問の栃木城へ皆川氏が移ったのはこのタイミングです。ただ、皆川氏は山城から平城への移転をかねてから計画していたようで、主要な寺社の引っ越しや町整備は事前に始まっていたとされています。皆川城が拠点であり続けたのは、戦乱に巻き込まれていたことや、新たな城や町の整備を一気に進めるほどの財力が無かったことが背景にあった。諸説あるようですが、その説が一番納得しました。いずれにしても、この移転は突然のことではなく、予てから望んでいたプラン。広照は町造りとともに、近江商人を誘致するなど、経済にも力を注ぎました。
戦歴や経済政策、ここで全てをご紹介できませんが、私なりにいろいろ調べて感じるのは、この方は非常に「優秀なリーダー」だったということです。更に文化人とのこと。皆川氏は全国的に見れば小大名という存在ですが、家の大小や知名度とは関係なく、優れた人というのはいるもんだとつくづく思いました(あくまで個人評価です)。
<案内板>
本丸ほかの曲輪を備えた広大な平城だったようです。
<家臣の末裔>
城のすぐそば。皆川氏の家臣だった『坂本興兵衛』のご子孫のお家があり、報奨として授かった「連歌の巻物」の写しが展示されています。
<連歌>
ふむふむ、なるほど・・・
ちょっと読めません。こういうのは根性を出しても無理なので、すぐに諦めました。教養のある方は、きっと意味すら分かるのでしょうね。
<坂本家>
坂本家は城跡の目の前の白壁の家。門構えなど本当に立派ですが、生活されている個人宅ですので撮影は壁だけにしました。皆川氏に仕えたあと、百姓をしながら寺子屋を開いたとのこと。主なきあとも、地域に貢献したわけですね。また『百姓となり・・・』としか書いてありませんが、普通に連想される百姓ではなく、地域のリーダー的な存在だったような気がします。
■栃木城の廃城■
徳川家に認められた広照。地元の領地はそのままで加増され、ピーク時には7万5千を領しました。家康の六男の守役まで任されましたが、これが裏目となりました。家康の怒りを買うことになり(松平忠輝事件)、1609年に改易。京都にて謹慎の身となりました。そこに幕府の「城取り壊し政策」が重なり、ここ栃木城は廃城。かつて広照が夢見た城下町の構想はここでついえました。領地は幕府の直轄、または旗本や大名に細分化されて引き継がれました。
■つわものどもが夢の跡■
<巴波川と蔵>うずまがわ
今回は立ち寄りませんでしたので、同市内の『皆川城』を訪問した時の画像を。
繁栄のなごりを残す蔵の町です。とてもいい雰囲気。関東の倉敷とも呼ばれる街並です。城は亡くなりましたが、もともと荒れ地に過ぎなかった栃木の町は、北関東屈指の商都となりました。町の繁栄、それは広照が一番望んでいたことかもしれませんね。
皆川広照が赦免されるのは1623年。改易されてからそうとう後ですね。常陸国で1万石を与えられました。
-------■栃木城■-------
築城年:1591年(天正19)
築城者:皆川広照
城 主:皆川広照
廃 城:1609年(慶長14)
[栃木県栃木市城内町]
(よろしければ)
当ブログの関連記事です!
『皆川城のなごり@蒼天の山城』
『皆川城のなごりA地の利を創る』
お城巡りランキング
戦国の北関東で強かに生き残った皆川氏の城跡を訪ねました。
<栃木城跡>
栃木市の栃木城跡です。現在は土塁と堀の一部、曲輪跡が僅かに残るのみ。かつてこの地を治めた皆川広照(みながわひろてる)の居城跡です。
■当主の次男■
皆川広照は皆川城主・皆川俊宗の次男として生まれました。家督は一旦兄(広勝)が継いだものの、29歳という若さで亡くなってしまい、家を継ぐことに。皆川氏は名門ながらも小大名。周辺の小大名と同様、上杉・北条といった大きな勢力の煽りを受け続けます。そんな家の当主となった広照。「世渡り上手」で戦国の世で生き残りました。
【主君】
宇都宮氏⇒北条氏⇒滝川氏(実質織田氏)⇒また宇都宮氏⇒また北条氏⇒徳川(家康から家光まで)
普通はどこかで途切れそうですが、上手く切り抜けました。ただ逃げるだけなら、どこかで潰されていたでしょう。攻めたり退いたり、堪えて守ったりを繰り返せるだけの武力も備えていました。
それにしても、具体的には「また北条氏」のところですが、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉を敵に回していたことになります。よく領地を没収されずに済みましたね。広照は北条氏照の配下として、小田原城の守備についていました。つまり秀吉率いる天下軍との決戦に備えていたわけですね。ところがギリギリのところで城を出て徳川家康に接近し、難を逃れたようです。しかも江戸時代は譜代大名という扱い。皆川広照、なかなか他に例を見ない処世術です。
<児童公園>
ここも城跡。栃木城址公園です。画像だと、これそのものが独立した曲輪のようにも映りますが、児童公園として整備した結果ですね。
<土塁>
冒頭の土塁を児童公園側から撮影。防衛用の土塁としては長さが短すぎるので、物見のために土を盛ったのかも知れません。あるいは、堀とセットで築いた立派な土塁は、ほとんど削られてしまった(なんて想像しながら見て回る)。
<土塁>別角度より撮影
同じ土塁を今度は堀側から。こうして見ると、多少は防衛用の土塁に見えなくもないですね。ちなみに、石垣は後世のものです(念のため)。
<堀跡>
<水面>
水がやたら澄んでいました。ただ水源は湧水ではありません。
■山城から平城へ■
1590年の小田原征伐の時、皆川城は上杉軍に攻められ落城しています。幾多の激戦を経験している皆川氏ですが、この時は自ら開城したと推定されています(ある程度戦ったという説もあります)。小田原北条氏に組みしていた関東の諸大名には憂き目が待っていましたが、当主広照が事前に徳川家康に下っていたことで、皆川氏の本領は安堵されました。その後、広照は山城を放棄して巴波川沿いに築いた平城へと拠点を移しました。
今回訪問の栃木城へ皆川氏が移ったのはこのタイミングです。ただ、皆川氏は山城から平城への移転をかねてから計画していたようで、主要な寺社の引っ越しや町整備は事前に始まっていたとされています。皆川城が拠点であり続けたのは、戦乱に巻き込まれていたことや、新たな城や町の整備を一気に進めるほどの財力が無かったことが背景にあった。諸説あるようですが、その説が一番納得しました。いずれにしても、この移転は突然のことではなく、予てから望んでいたプラン。広照は町造りとともに、近江商人を誘致するなど、経済にも力を注ぎました。
戦歴や経済政策、ここで全てをご紹介できませんが、私なりにいろいろ調べて感じるのは、この方は非常に「優秀なリーダー」だったということです。更に文化人とのこと。皆川氏は全国的に見れば小大名という存在ですが、家の大小や知名度とは関係なく、優れた人というのはいるもんだとつくづく思いました(あくまで個人評価です)。
<案内板>
本丸ほかの曲輪を備えた広大な平城だったようです。
<家臣の末裔>
城のすぐそば。皆川氏の家臣だった『坂本興兵衛』のご子孫のお家があり、報奨として授かった「連歌の巻物」の写しが展示されています。
<連歌>
ふむふむ、なるほど・・・
ちょっと読めません。こういうのは根性を出しても無理なので、すぐに諦めました。教養のある方は、きっと意味すら分かるのでしょうね。
<坂本家>
坂本家は城跡の目の前の白壁の家。門構えなど本当に立派ですが、生活されている個人宅ですので撮影は壁だけにしました。皆川氏に仕えたあと、百姓をしながら寺子屋を開いたとのこと。主なきあとも、地域に貢献したわけですね。また『百姓となり・・・』としか書いてありませんが、普通に連想される百姓ではなく、地域のリーダー的な存在だったような気がします。
■栃木城の廃城■
徳川家に認められた広照。地元の領地はそのままで加増され、ピーク時には7万5千を領しました。家康の六男の守役まで任されましたが、これが裏目となりました。家康の怒りを買うことになり(松平忠輝事件)、1609年に改易。京都にて謹慎の身となりました。そこに幕府の「城取り壊し政策」が重なり、ここ栃木城は廃城。かつて広照が夢見た城下町の構想はここでついえました。領地は幕府の直轄、または旗本や大名に細分化されて引き継がれました。
■つわものどもが夢の跡■
<巴波川と蔵>うずまがわ
今回は立ち寄りませんでしたので、同市内の『皆川城』を訪問した時の画像を。
繁栄のなごりを残す蔵の町です。とてもいい雰囲気。関東の倉敷とも呼ばれる街並です。城は亡くなりましたが、もともと荒れ地に過ぎなかった栃木の町は、北関東屈指の商都となりました。町の繁栄、それは広照が一番望んでいたことかもしれませんね。
皆川広照が赦免されるのは1623年。改易されてからそうとう後ですね。常陸国で1万石を与えられました。
-------■栃木城■-------
築城年:1591年(天正19)
築城者:皆川広照
城 主:皆川広照
廃 城:1609年(慶長14)
[栃木県栃木市城内町]
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2017年12月03日
鷲城のなごり (小山氏城跡)
つわものどもが夢の跡
栃木県小山市の中久喜城に続き、鷲城を訪問しました。
■鷲城■わしじょう
小山市に残る中世の城跡です。小山氏の居城として知られる祇園城、その支城の中久喜城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。憩いの場として市民で賑わう「小山総合公園」のすぐそば。隣接する山林が城跡だと思っている人はあまりいないようです。
■探索開始■
<虎口>
ただの林ではありません。中世の土の城跡です。
<目印>
『土塁』の表示。説明はありませんが要所要所で遺構に目印が・・・
<横矢>よこや
山中を登っていくと、曲輪の入り口付近に今度は『横矢』。側面から矢を射ることを指す城用語ですね(横矢掛り)。横というより、遺構は何も知らずに登ってくる侵入者を頭上から狙うような位置にあります。まぁもしかしたら、昔は虎口の付近に柵や土塀などが設けられていて、死角があったり、人の導線が制限されていたのかも知れません。そういった念入りな下準備をしたうえで敵を横から狙う。そんな感じかもしれません(個人的推定、というか妄想です)。
<山の中>
これでも一定の管理はなされているのでしょう。しかし結構ラフな山林です。生い茂る大木で薄暗い山の中、倒木により開けた空から、陽が差し込んでいるのが印象的でした。横たわる大木には苔が生え始め、放っておけばやがて覆いつくされるのでしょう。なにかが途切れても何かがまた生まれる。この当たり前の営みが、かつて人が造りし城跡に押し寄せます。その程度によっては、「廃城」がとんでもなく美しい景観に感じられることもあります。ただまぁ、ここはちょっと自然の力に押されぎみですかね。
<土の城>
とは言え遺構は残っています。ボロボロになっても城跡。人の思惑が込められています。
<鷲神社>本丸跡
城の名の由来となった鷲神社です。11代当主の義政が勧進したと伝わります。
<鷲神社の参道>
見事な並木です。この日は人影もありませんが、通り道のため比較的綺麗に整備されています。
<参道横の平地>
ここもかつての城跡。本丸(主郭)の一部です。
<参道入口>
ここに案内板と石碑が設置されています。小山総合公園側からとりあえず山林に突入し、探索しやすい順路で歩いてきましたが、神社の裏から入って正面に出て、最後に鳥居をくぐるかっこうになっています。失礼しました(城跡探索をしていると良くあることです)。
<縄張り図>
縄張り図の横に説明文があります。そのまま引用すると『鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、内城と外城との2つの廓からなり、当時としては広大な城郭』とのこと。
外城と中城(うちじろ)という表現になっていますね。経験不足の私には馴染みのない言い方ですが、位置関係からして外城は本丸に対する外曲輪(そとぐるわ)。中城は本丸と解釈して良いかと。天然の堀とも言うべき川に面する方が本丸。地続きの方角に二の丸、というか外曲輪を配置した連郭式縄張りということですね。この構図は良く理解できます。
外城は現在の地名にもなっています。
<城跡沿いの道>
位置からして、堀を埋めた跡ではないかと思われる・・・(推定)
<河川敷より>
思川の河川敷から見た城跡。河岸段丘に築かれています。川と周辺の谷地・低湿地に守られた山城。自然の地形を生かした典型的な中世の城です。
<山の麓>
これは堀跡ではなく、山城と総合公園の間に造られた小川。ただ、この付近が周辺より低地になっていることは分ります。
■小山氏の本拠だった実績■
訪問時点での私の感覚では、鷲城は祇園城の支城。しかしこの城が本拠だったこともあるようです。小山氏が鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した『小山義政の乱(1380年から1383年)』。これは関東屈指の名門家が、滅亡の危機にさらされる戦いです。この時、ここ鷲城は中心的な役割を担いました。
先ほどの案内板の説明を抜粋すると『小山氏が関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。小山義政の乱と言います』『原因は勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが小山に攻め寄せました』
とのこと。
勢力を拡大する小山義政は、鎌倉公方に疎まれた。そして関東各地の武士たちが鎌倉公方に味方して小山に攻め寄せた・・・。ということですね。
鎌倉公方と小山氏、実際にはどちらに正当性があるのか分かりません。小山義政は同じ下野国のライバル宇都宮氏を抑えて、小山氏の全盛期を築いた人物。しかし結果としては関東で孤立し、四面楚歌のような状態で戦うことになりました。
この乱(というか戦い)は義政の息子・若犬丸(わかいぬまる)にまで引き継がれる長い闘いとなり、最終的には小山氏の滅亡へ繋がります。小山氏そのものは同族の結城氏※から養子を迎えて存続しますが、小山政光から約250年も続いていた嫡流は、小山若犬丸で途絶えることになります(1397年)。
※小山氏の始祖・小山政光の三男が結城氏の始祖・結城朝光です。ここまで遡れば、小山氏の血が途切れた訳ではないですね。この長い長い小山氏の歴史については、祇園城訪問記において(やや無理やり短く)まとめさせて頂きましたので、宜しければ覗いてみて下さい
→『祇園城訪問記へすすむ』
話を城に戻すと、ここ鷲城は第11代当主・小山義政が意地を掛けて鎌倉公方と戦った時の拠点。現地説明文にも『義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て篭もって戦います』とあります。ライバルの宇都宮氏、そして鎌倉の軍勢にも攻められた城。現在の城跡はその時の一部に過ぎませんが、遺構は豊富です。
どんなつもりだったのか・・・
深い堀切の底で土の壁を見上げると、築城そのものの創意工夫だけではなく、込められた思いまで伝わってくるような気がします。霊感には無縁の男ですが、人並みに感情はあるので、きっと当たり前のことでしょう。
■つわものどもが夢の跡■
<堀切の底より撮影>
全国的には知られていない中世の土の城。しかし遺構が現存している上に、歴史の裏付けが確かな城跡です。文献で確認できるのは、小山氏がかつて関東屈指の名門武家だったことと無縁ではありません。その武士団の思惑が、遺構とともになごりを残す城跡でした。
--------■鷲城■--------
築城年:不明(小山義政?)
築城者:不明(小山氏)
城 主:小山氏
廃城年:不明
[栃木県小山市外城]
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栃木県小山市の中久喜城に続き、鷲城を訪問しました。
■鷲城■わしじょう
小山市に残る中世の城跡です。小山氏の居城として知られる祇園城、その支城の中久喜城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。憩いの場として市民で賑わう「小山総合公園」のすぐそば。隣接する山林が城跡だと思っている人はあまりいないようです。
■探索開始■
<虎口>
ただの林ではありません。中世の土の城跡です。
<目印>
『土塁』の表示。説明はありませんが要所要所で遺構に目印が・・・
<横矢>よこや
山中を登っていくと、曲輪の入り口付近に今度は『横矢』。側面から矢を射ることを指す城用語ですね(横矢掛り)。横というより、遺構は何も知らずに登ってくる侵入者を頭上から狙うような位置にあります。まぁもしかしたら、昔は虎口の付近に柵や土塀などが設けられていて、死角があったり、人の導線が制限されていたのかも知れません。そういった念入りな下準備をしたうえで敵を横から狙う。そんな感じかもしれません(個人的推定、というか妄想です)。
<山の中>
これでも一定の管理はなされているのでしょう。しかし結構ラフな山林です。生い茂る大木で薄暗い山の中、倒木により開けた空から、陽が差し込んでいるのが印象的でした。横たわる大木には苔が生え始め、放っておけばやがて覆いつくされるのでしょう。なにかが途切れても何かがまた生まれる。この当たり前の営みが、かつて人が造りし城跡に押し寄せます。その程度によっては、「廃城」がとんでもなく美しい景観に感じられることもあります。ただまぁ、ここはちょっと自然の力に押されぎみですかね。
<土の城>
とは言え遺構は残っています。ボロボロになっても城跡。人の思惑が込められています。
<鷲神社>本丸跡
城の名の由来となった鷲神社です。11代当主の義政が勧進したと伝わります。
<鷲神社の参道>
見事な並木です。この日は人影もありませんが、通り道のため比較的綺麗に整備されています。
<参道横の平地>
ここもかつての城跡。本丸(主郭)の一部です。
<参道入口>
ここに案内板と石碑が設置されています。小山総合公園側からとりあえず山林に突入し、探索しやすい順路で歩いてきましたが、神社の裏から入って正面に出て、最後に鳥居をくぐるかっこうになっています。失礼しました(城跡探索をしていると良くあることです)。
<縄張り図>
縄張り図の横に説明文があります。そのまま引用すると『鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、内城と外城との2つの廓からなり、当時としては広大な城郭』とのこと。
外城と中城(うちじろ)という表現になっていますね。経験不足の私には馴染みのない言い方ですが、位置関係からして外城は本丸に対する外曲輪(そとぐるわ)。中城は本丸と解釈して良いかと。天然の堀とも言うべき川に面する方が本丸。地続きの方角に二の丸、というか外曲輪を配置した連郭式縄張りということですね。この構図は良く理解できます。
外城は現在の地名にもなっています。
<城跡沿いの道>
位置からして、堀を埋めた跡ではないかと思われる・・・(推定)
<河川敷より>
思川の河川敷から見た城跡。河岸段丘に築かれています。川と周辺の谷地・低湿地に守られた山城。自然の地形を生かした典型的な中世の城です。
<山の麓>
これは堀跡ではなく、山城と総合公園の間に造られた小川。ただ、この付近が周辺より低地になっていることは分ります。
■小山氏の本拠だった実績■
訪問時点での私の感覚では、鷲城は祇園城の支城。しかしこの城が本拠だったこともあるようです。小山氏が鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した『小山義政の乱(1380年から1383年)』。これは関東屈指の名門家が、滅亡の危機にさらされる戦いです。この時、ここ鷲城は中心的な役割を担いました。
先ほどの案内板の説明を抜粋すると『小山氏が関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。小山義政の乱と言います』『原因は勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが小山に攻め寄せました』
とのこと。
勢力を拡大する小山義政は、鎌倉公方に疎まれた。そして関東各地の武士たちが鎌倉公方に味方して小山に攻め寄せた・・・。ということですね。
鎌倉公方と小山氏、実際にはどちらに正当性があるのか分かりません。小山義政は同じ下野国のライバル宇都宮氏を抑えて、小山氏の全盛期を築いた人物。しかし結果としては関東で孤立し、四面楚歌のような状態で戦うことになりました。
この乱(というか戦い)は義政の息子・若犬丸(わかいぬまる)にまで引き継がれる長い闘いとなり、最終的には小山氏の滅亡へ繋がります。小山氏そのものは同族の結城氏※から養子を迎えて存続しますが、小山政光から約250年も続いていた嫡流は、小山若犬丸で途絶えることになります(1397年)。
※小山氏の始祖・小山政光の三男が結城氏の始祖・結城朝光です。ここまで遡れば、小山氏の血が途切れた訳ではないですね。この長い長い小山氏の歴史については、祇園城訪問記において(やや無理やり短く)まとめさせて頂きましたので、宜しければ覗いてみて下さい
→『祇園城訪問記へすすむ』
話を城に戻すと、ここ鷲城は第11代当主・小山義政が意地を掛けて鎌倉公方と戦った時の拠点。現地説明文にも『義政は、二度目の蜂起となる康歴3年には鷲城に立て篭もって戦います』とあります。ライバルの宇都宮氏、そして鎌倉の軍勢にも攻められた城。現在の城跡はその時の一部に過ぎませんが、遺構は豊富です。
どんなつもりだったのか・・・
深い堀切の底で土の壁を見上げると、築城そのものの創意工夫だけではなく、込められた思いまで伝わってくるような気がします。霊感には無縁の男ですが、人並みに感情はあるので、きっと当たり前のことでしょう。
■つわものどもが夢の跡■
<堀切の底より撮影>
全国的には知られていない中世の土の城。しかし遺構が現存している上に、歴史の裏付けが確かな城跡です。文献で確認できるのは、小山氏がかつて関東屈指の名門武家だったことと無縁ではありません。その武士団の思惑が、遺構とともになごりを残す城跡でした。
--------■鷲城■--------
築城年:不明(小山義政?)
築城者:不明(小山氏)
城 主:小山氏
廃城年:不明
[栃木県小山市外城]
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タグ:城のなごり
2017年12月02日
名門結城家最後の将・晴朝 (終焉の地)
<中久喜城の堀切跡> なかくき
草木の生い茂る城跡の内部で堀切を撮影。かつての本丸跡です。
栃木県小山市と茨城県結城市の境に位置する中久喜城跡。ここは受け継いだ名門家を守り抜くことに生涯を捧げた戦国武将の最期の場所となりました。
■結城晴朝■ゆうき はるとも
この方は戦国末期から江戸初期の武将、そして結城家17代当主です。父は小山高朝(おやまたかとも)。つまり小山氏の出です。三男として生まれた晴朝は、26歳の時に小山氏と同族の結城氏の養子となり、家督を継承しました。これは後継者を亡くしてしまった結城側から強く請われてのことだったようです。
養父の結城政勝は、父である小山高朝の兄。つまり叔父にあたります。祖を同じくして領地も隣り合わせの両家は、こうして密接な関係を維持し、北方の脅威であった宇都宮氏に対抗していました。
晴朝が当主となった翌年。結城氏はさっそく宇都宮氏・常陸の佐竹氏ほかの大軍に攻め込まれています。しかし晴朝は結城城を拠点にこれに耐え、何とか和議へ持ち込みました。圧倒的に不利な状況。晴朝は交渉の才覚に長けた武将だったようです。
■生き残り策■
越後上杉と小田原北条の勢力争い。関東の多くの国人領主がそうであるように、結城氏も、そして同族の小山氏も、この大きな勢力に翻弄されます。北条側に味方する立場だった晴朝は、上杉側についた実家の小山氏と敵対関係になることも。その最中に父・高朝が亡くなりましたが、対立中のため実家へ駆けつけることも叶いませんでした。所領は隣同士。すぐ近くなんですがね。距離以上の隔たりを持たざるを得ませんでした。小山氏は兄の秀綱が引き継いでいます。
<中久喜城跡と水戸線>
本丸跡を分断している線路。
1575年、北条氏照により小山氏は攻め滅ぼされ、兄秀綱は追放。これにより小山氏は四百年の歴史に幕を閉じます。当主の舵取りによっては、名門家でも滅びてしまう。当時の関東はそういう厳しい時代に突入していました。やがて上杉謙信が関東管領に就任すると、晴朝は上杉側へ鞍替えをします。状況を良く見極めて立ち位置を変え、当主晴朝は結城の家を守り続けました。
■養子戦略1■
晴朝は正室との間に子がいましたが、男子はいませんでした。そのこともあるのでしょう。上杉が関東から撤退したのち、かつては争った宇都宮氏から養子を迎えて家の安定を図ります(宇都宮氏と同盟関係の佐竹氏とも良好な関係が保てます。更に妹を佐竹氏配下の江戸氏へ嫁がせ、婚姻関係で家の存続を図ります)。そして豊臣秀吉が大軍を率いて小田原北条征伐にやってくると、晴朝も反北条として戦います。北条を滅亡させた秀吉の裁定により、かつての小山氏領は結城氏の領地となり、晴朝は結果として実家の旧領を引き継ぐことになりました。また、北条に下っていた小山秀綱の助命が許され、晴朝は離れ離れだった兄も引き取ることになりました。あくまで独立大名だった晴朝ですが、豊臣秀吉を主君として家を存続させました。
■養子戦略2■
宇都宮氏から養子を迎えていたはずですが、今度は徳川家康の実子で、この時点では秀吉の養子となっていた羽柴秀康を養子として迎えることになりました。最初の養子には、ご実家に帰ってもらったようです。
家康の子にして秀吉の養子。こんな凄い人物を当主として迎える。晴朝がいかに結城の家の存続を願っていたか伝わってくるような気がします。
■結城秀康■18代当主
私がこの方の存在を意識したのは「花の慶次」。個人的に思い入れがある武将です。ただ今回の主役は結城晴朝。その立ち位置から見ると、秀康は名門結城家の存続を掛けて迎え入れた「最強の養子」ではないでしょうか。血筋は途切れますが、晴朝には何か別の考えがあったような気がします。
ところが、関ヶ原の戦いののち、結城秀康は結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封となります。68万石の結城家。凄いですね。しかし見方を変えれば、歴史の長い結城家が、先祖代々の土地から切り離される瞬間でした。結城の地を失う。これは晴朝にとっては思いもよらなかったことでしょう。更に1604年、結城秀康は名字を松平に改めてしまいます。結城の家督は秀康の五男・直基が継ぎますが、当時まだ4歳。既に当主たる立場ではありませんが、晴朝はどんな思いだったのでしょうか。
■統終焉の地■中久喜城
<城跡の石碑>
それから十年後。かつての所領に隠居していた晴朝は、中久喜城で生涯を閉じました。81歳というから、当時としては長生きでしたね。晴朝は、結城の血筋による結城の地での再興を最後まで諦めていなかったと伝わります。晴朝が亡くなったあとの話ですが、秀康の息子・直基も名字を松平に改めてしまうので、大名家としての結城の名は19代で途切れてしまいす。そういう意味では、17代当主・晴朝は、結城家の大将であることを全うした最後の男でした。
<堀の跡>
<土塁の跡>
------■中久喜城■------
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
(小山・結城両家の先祖)
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
(敷地に隠居した晴朝は1614年没)
[栃木県小山市中久喜]
-----■余談■-----
【結城晴朝の財宝伝説】
結城氏は名門家ではありますが、所領にそぐわない豊かさがあったとされています(ホントにそうなんでしょうかネ?)。この話に付随して、結城晴朝には埋蔵金伝説なるものがあります。
『結城氏の開祖・朝光は、源頼朝に従軍。その功績から莫大な褒美(金など)を得て、それが代々の当主に引き継がれている。これこそが、石高を上回る財力の裏付け。ここに目を付けた徳川家康が、実子の秀康を結城家に送り込みましたが、財宝は見つからず。その理由は、いつか結城氏本来の血統で家を再興させたいと願う結城晴朝が、所領のどこか(現在の結城市を中心としたエリア)にお宝を埋蔵したから。』
とまぁこんな伝説です。
ちょっと信じがたいですね。ただ、以前『結城氏館跡』を訪ねたあといろいろ調べたのですが、文献に乏しく、あまりはっきりとした確証が得られなかったことがありました。歴史の長い名門家なのにヘンだなぁと感じましたが、もしかしたら、埋蔵金のこともあって意識して文献を破棄した?のでしょうか。それならそれで興味深いですが、全く根拠が無いので、この話はここまでにします。
[参考画像:結城氏館跡]
結城氏の祖である結城朝光によって築かれた館跡。土塁と堀が残されています(結城市)。
お城巡りランキング
草木の生い茂る城跡の内部で堀切を撮影。かつての本丸跡です。
栃木県小山市と茨城県結城市の境に位置する中久喜城跡。ここは受け継いだ名門家を守り抜くことに生涯を捧げた戦国武将の最期の場所となりました。
■結城晴朝■ゆうき はるとも
この方は戦国末期から江戸初期の武将、そして結城家17代当主です。父は小山高朝(おやまたかとも)。つまり小山氏の出です。三男として生まれた晴朝は、26歳の時に小山氏と同族の結城氏の養子となり、家督を継承しました。これは後継者を亡くしてしまった結城側から強く請われてのことだったようです。
養父の結城政勝は、父である小山高朝の兄。つまり叔父にあたります。祖を同じくして領地も隣り合わせの両家は、こうして密接な関係を維持し、北方の脅威であった宇都宮氏に対抗していました。
晴朝が当主となった翌年。結城氏はさっそく宇都宮氏・常陸の佐竹氏ほかの大軍に攻め込まれています。しかし晴朝は結城城を拠点にこれに耐え、何とか和議へ持ち込みました。圧倒的に不利な状況。晴朝は交渉の才覚に長けた武将だったようです。
■生き残り策■
越後上杉と小田原北条の勢力争い。関東の多くの国人領主がそうであるように、結城氏も、そして同族の小山氏も、この大きな勢力に翻弄されます。北条側に味方する立場だった晴朝は、上杉側についた実家の小山氏と敵対関係になることも。その最中に父・高朝が亡くなりましたが、対立中のため実家へ駆けつけることも叶いませんでした。所領は隣同士。すぐ近くなんですがね。距離以上の隔たりを持たざるを得ませんでした。小山氏は兄の秀綱が引き継いでいます。
<中久喜城跡と水戸線>
本丸跡を分断している線路。
1575年、北条氏照により小山氏は攻め滅ぼされ、兄秀綱は追放。これにより小山氏は四百年の歴史に幕を閉じます。当主の舵取りによっては、名門家でも滅びてしまう。当時の関東はそういう厳しい時代に突入していました。やがて上杉謙信が関東管領に就任すると、晴朝は上杉側へ鞍替えをします。状況を良く見極めて立ち位置を変え、当主晴朝は結城の家を守り続けました。
■養子戦略1■
晴朝は正室との間に子がいましたが、男子はいませんでした。そのこともあるのでしょう。上杉が関東から撤退したのち、かつては争った宇都宮氏から養子を迎えて家の安定を図ります(宇都宮氏と同盟関係の佐竹氏とも良好な関係が保てます。更に妹を佐竹氏配下の江戸氏へ嫁がせ、婚姻関係で家の存続を図ります)。そして豊臣秀吉が大軍を率いて小田原北条征伐にやってくると、晴朝も反北条として戦います。北条を滅亡させた秀吉の裁定により、かつての小山氏領は結城氏の領地となり、晴朝は結果として実家の旧領を引き継ぐことになりました。また、北条に下っていた小山秀綱の助命が許され、晴朝は離れ離れだった兄も引き取ることになりました。あくまで独立大名だった晴朝ですが、豊臣秀吉を主君として家を存続させました。
■養子戦略2■
宇都宮氏から養子を迎えていたはずですが、今度は徳川家康の実子で、この時点では秀吉の養子となっていた羽柴秀康を養子として迎えることになりました。最初の養子には、ご実家に帰ってもらったようです。
家康の子にして秀吉の養子。こんな凄い人物を当主として迎える。晴朝がいかに結城の家の存続を願っていたか伝わってくるような気がします。
■結城秀康■18代当主
私がこの方の存在を意識したのは「花の慶次」。個人的に思い入れがある武将です。ただ今回の主役は結城晴朝。その立ち位置から見ると、秀康は名門結城家の存続を掛けて迎え入れた「最強の養子」ではないでしょうか。血筋は途切れますが、晴朝には何か別の考えがあったような気がします。
ところが、関ヶ原の戦いののち、結城秀康は結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封となります。68万石の結城家。凄いですね。しかし見方を変えれば、歴史の長い結城家が、先祖代々の土地から切り離される瞬間でした。結城の地を失う。これは晴朝にとっては思いもよらなかったことでしょう。更に1604年、結城秀康は名字を松平に改めてしまいます。結城の家督は秀康の五男・直基が継ぎますが、当時まだ4歳。既に当主たる立場ではありませんが、晴朝はどんな思いだったのでしょうか。
■統終焉の地■中久喜城
<城跡の石碑>
それから十年後。かつての所領に隠居していた晴朝は、中久喜城で生涯を閉じました。81歳というから、当時としては長生きでしたね。晴朝は、結城の血筋による結城の地での再興を最後まで諦めていなかったと伝わります。晴朝が亡くなったあとの話ですが、秀康の息子・直基も名字を松平に改めてしまうので、大名家としての結城の名は19代で途切れてしまいす。そういう意味では、17代当主・晴朝は、結城家の大将であることを全うした最後の男でした。
<堀の跡>
<土塁の跡>
------■中久喜城■------
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
(小山・結城両家の先祖)
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
(敷地に隠居した晴朝は1614年没)
[栃木県小山市中久喜]
-----■余談■-----
【結城晴朝の財宝伝説】
結城氏は名門家ではありますが、所領にそぐわない豊かさがあったとされています(ホントにそうなんでしょうかネ?)。この話に付随して、結城晴朝には埋蔵金伝説なるものがあります。
『結城氏の開祖・朝光は、源頼朝に従軍。その功績から莫大な褒美(金など)を得て、それが代々の当主に引き継がれている。これこそが、石高を上回る財力の裏付け。ここに目を付けた徳川家康が、実子の秀康を結城家に送り込みましたが、財宝は見つからず。その理由は、いつか結城氏本来の血統で家を再興させたいと願う結城晴朝が、所領のどこか(現在の結城市を中心としたエリア)にお宝を埋蔵したから。』
とまぁこんな伝説です。
ちょっと信じがたいですね。ただ、以前『結城氏館跡』を訪ねたあといろいろ調べたのですが、文献に乏しく、あまりはっきりとした確証が得られなかったことがありました。歴史の長い名門家なのにヘンだなぁと感じましたが、もしかしたら、埋蔵金のこともあって意識して文献を破棄した?のでしょうか。それならそれで興味深いですが、全く根拠が無いので、この話はここまでにします。
[参考画像:結城氏館跡]
結城氏の祖である結城朝光によって築かれた館跡。土塁と堀が残されています(結城市)。
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2017年11月29日
中久喜城のなごり(小山氏城跡)
つわものどもが夢の跡
廃城巡りを始めた頃の基本に戻って「中世の土の城」を訪問しました。
<土塁>
11月下旬の晴れの日。場所は栃木県小山市です。普段は一人なのに、この日は友二人に無理矢理付き合ってもらい、草木の生い茂る山へ突入しました。迷惑?いきなりへんぴな場所に到着しましたが、笑って許してくれました。
■中久喜城■なかくきじょう
<石碑と説明板>
<縄張り図>
関東屈指の豪族・小山氏により築かれた城跡です。小山氏の本城である祇園城(ぎおんじょう)の東に位置する支城。方角が示す通り、東からの敵の侵入を抑えるために築かれました。ちょっとマイナーな城ですが、同市内の祇園城跡、そして鷲城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。
[参考]祇園城跡
[小山市城山町]
これは小山氏が本拠としていた祇園城跡(城山公園)です。今回訪問の中久喜城跡はここから東へ約4キロ。お隣の茨城県結城市との間に位置しています。
■地の利■
城は二つの川に挟まれた舌状台地の南端に位置しています。更に、川は城の南側で合流。現在は水田となっているその付近は低地ですので、昔は川の水が交わり、頻繁に溢れ出す湿地帯だったような気がします。程度までは分かりませんが、地形的に間違いありません。劇的な「地の利」とまでは言いませんが、戦闘の質(戦の人員や当時の武器等)を考慮すれば、要害の地を選んだと言えるしょう。城跡を含む付近がちょっとした台地だからでしょうか。古くは「北山」と呼ばれていたようです。
■城跡探索■
<土塁>
石碑付近に土塁を見つけました。わくわくする瞬間です。
<曲輪跡>
石碑の付近に堀跡らしき窪みがあったのに対し、この付近はまとまった広さが明らかに平らに造成されています。土塁との位置関係からして、本丸への虎口(入口)の前に設けられた区画のようです。
<土塁の上>
土塁を登って撮影。ここはかつての城の本丸を取り囲む土塁。有難いですね。来た甲斐がありました。ただ進んで行くと、土塁は途中で不自然に途切れています。理由はすぐに分りました(次の画像)。
<水戸線>
城跡は線路により分断されていました。良く見ると、線路の向うもこちら側と似たような微高地のヤブ。城跡に間違いありませんね。それにしても、城の隅っこならともかく、分断されているのは本丸跡です。やや残念な結果ですね。
さて、ここで「線路の向こう側に土塁の続きがあるかも」という友人の前向きな発言。こんなマニア向きの城跡で申し訳ないという気持ちでいた私にとって、嬉しいひとことでした。この城跡は「ちょっとのぞくだけ」の予定でしたが、もう少し時間を割くことになりました。
<城山踏切>
ということで、線路は横切れませんので、ちょっと離れた踏切まで移動して仕切り直しです。別な角度から再び中久喜城の本丸跡を目指します。画像左手に見えている低地に川が流れていて、向こう側はもう茨城県結城市。県境の城跡探索です。
<土塁の壁>
本丸のメインは石碑があった方ではなくこちら。線路を挟んだ南側です。土塁が本来の役割を果たして我々侵入者を拒んでいます。土塁沿いの道(かつては堀だったが埋められたと推定される道)を進んで虎口を探しました。
<再突入>
侵入口を見つけて再突入です。正確な位置はともかく、この付近(本丸の南側)が大手側だったのでしょう。入るとすぐに、また土塁が立ちはだかりました。この土塁を登り切りましたが、奥に別な土塁を発見したものの、草木に邪魔されそれ以上は進めず。
<堀切>
登った土塁の上から振り返って侵入してきた道を撮影。両側は高い土の壁。現地で友人に「堀切」と説明しましたが、後から考えると、部分的にはかなり土を盛った結果なのではないかとも思えます(やや不確か)。
それにしても相当荒れ果てた城跡。こういうのは久しぶりです。城跡巡りの初期はこんなのばかりでした。当時は城に関する予備知識も無く、ただ「廃城」を訪ねて情緒的に味わうだけ。逆に知識がない分、見たままを受け入れていたような気もします。今回そんな頃を思い出しながら城跡を訪ねたせいでしょうか?妙な達成感がありました。そして、ボロボロになりながらも残っていてくれた遺構に感謝したくなりました。同じく、靴を汚しながら付き合ってくれた友人二人にも。
■つわものどもが夢の跡■
<分断された城跡>
この水戸線は、栃木県とお隣の茨城県を結ぶ路線。東西を隔てるための城跡が、逆に結ぶための線路に分断されているのも感慨深いですね。当時の城兵が見たら「なんてことするんだ」と怒りそう。もう争いが無いのだと説明すれば分かってくれるでしょう。むしろ、我々が想像する以上に喜んでくれるかもしれません。北山から中久喜と改められた地名。これは極めて近い同族同士でありながら、一時期争ってしまった小山氏と結城氏の和睦に由来します。「和睦の喜びをいつまでも忘れない」という意味が込められています。双方から養子を受け入れる親密な関係の両家。争った小山秀綱と結城晴朝は実の兄弟でした(結城晴朝が弟で小山氏からの養子)。
<和談坂>
小山氏と結城氏の領地の中間に位置する中久喜。城跡近くのこの坂は「和談坂」と呼ばれています。この地で両家が話し合い、和解したことにちなんでいます。
------■中久喜城■------
別 名:亀城 岩壺城
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
[栃木県小山市中久喜]
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廃城巡りを始めた頃の基本に戻って「中世の土の城」を訪問しました。
<土塁>
11月下旬の晴れの日。場所は栃木県小山市です。普段は一人なのに、この日は友二人に無理矢理付き合ってもらい、草木の生い茂る山へ突入しました。迷惑?いきなりへんぴな場所に到着しましたが、笑って許してくれました。
■中久喜城■なかくきじょう
<石碑と説明板>
<縄張り図>
関東屈指の豪族・小山氏により築かれた城跡です。小山氏の本城である祇園城(ぎおんじょう)の東に位置する支城。方角が示す通り、東からの敵の侵入を抑えるために築かれました。ちょっとマイナーな城ですが、同市内の祇園城跡、そして鷲城跡とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されています。
[参考]祇園城跡
[小山市城山町]
これは小山氏が本拠としていた祇園城跡(城山公園)です。今回訪問の中久喜城跡はここから東へ約4キロ。お隣の茨城県結城市との間に位置しています。
■地の利■
城は二つの川に挟まれた舌状台地の南端に位置しています。更に、川は城の南側で合流。現在は水田となっているその付近は低地ですので、昔は川の水が交わり、頻繁に溢れ出す湿地帯だったような気がします。程度までは分かりませんが、地形的に間違いありません。劇的な「地の利」とまでは言いませんが、戦闘の質(戦の人員や当時の武器等)を考慮すれば、要害の地を選んだと言えるしょう。城跡を含む付近がちょっとした台地だからでしょうか。古くは「北山」と呼ばれていたようです。
■城跡探索■
<土塁>
石碑付近に土塁を見つけました。わくわくする瞬間です。
<曲輪跡>
石碑の付近に堀跡らしき窪みがあったのに対し、この付近はまとまった広さが明らかに平らに造成されています。土塁との位置関係からして、本丸への虎口(入口)の前に設けられた区画のようです。
<土塁の上>
土塁を登って撮影。ここはかつての城の本丸を取り囲む土塁。有難いですね。来た甲斐がありました。ただ進んで行くと、土塁は途中で不自然に途切れています。理由はすぐに分りました(次の画像)。
<水戸線>
城跡は線路により分断されていました。良く見ると、線路の向うもこちら側と似たような微高地のヤブ。城跡に間違いありませんね。それにしても、城の隅っこならともかく、分断されているのは本丸跡です。やや残念な結果ですね。
さて、ここで「線路の向こう側に土塁の続きがあるかも」という友人の前向きな発言。こんなマニア向きの城跡で申し訳ないという気持ちでいた私にとって、嬉しいひとことでした。この城跡は「ちょっとのぞくだけ」の予定でしたが、もう少し時間を割くことになりました。
<城山踏切>
ということで、線路は横切れませんので、ちょっと離れた踏切まで移動して仕切り直しです。別な角度から再び中久喜城の本丸跡を目指します。画像左手に見えている低地に川が流れていて、向こう側はもう茨城県結城市。県境の城跡探索です。
<土塁の壁>
本丸のメインは石碑があった方ではなくこちら。線路を挟んだ南側です。土塁が本来の役割を果たして我々侵入者を拒んでいます。土塁沿いの道(かつては堀だったが埋められたと推定される道)を進んで虎口を探しました。
<再突入>
侵入口を見つけて再突入です。正確な位置はともかく、この付近(本丸の南側)が大手側だったのでしょう。入るとすぐに、また土塁が立ちはだかりました。この土塁を登り切りましたが、奥に別な土塁を発見したものの、草木に邪魔されそれ以上は進めず。
<堀切>
登った土塁の上から振り返って侵入してきた道を撮影。両側は高い土の壁。現地で友人に「堀切」と説明しましたが、後から考えると、部分的にはかなり土を盛った結果なのではないかとも思えます(やや不確か)。
それにしても相当荒れ果てた城跡。こういうのは久しぶりです。城跡巡りの初期はこんなのばかりでした。当時は城に関する予備知識も無く、ただ「廃城」を訪ねて情緒的に味わうだけ。逆に知識がない分、見たままを受け入れていたような気もします。今回そんな頃を思い出しながら城跡を訪ねたせいでしょうか?妙な達成感がありました。そして、ボロボロになりながらも残っていてくれた遺構に感謝したくなりました。同じく、靴を汚しながら付き合ってくれた友人二人にも。
■つわものどもが夢の跡■
<分断された城跡>
この水戸線は、栃木県とお隣の茨城県を結ぶ路線。東西を隔てるための城跡が、逆に結ぶための線路に分断されているのも感慨深いですね。当時の城兵が見たら「なんてことするんだ」と怒りそう。もう争いが無いのだと説明すれば分かってくれるでしょう。むしろ、我々が想像する以上に喜んでくれるかもしれません。北山から中久喜と改められた地名。これは極めて近い同族同士でありながら、一時期争ってしまった小山氏と結城氏の和睦に由来します。「和睦の喜びをいつまでも忘れない」という意味が込められています。双方から養子を受け入れる親密な関係の両家。争った小山秀綱と結城晴朝は実の兄弟でした(結城晴朝が弟で小山氏からの養子)。
<和談坂>
小山氏と結城氏の領地の中間に位置する中久喜。城跡近くのこの坂は「和談坂」と呼ばれています。この地で両家が話し合い、和解したことにちなんでいます。
------■中久喜城■------
別 名:亀城 岩壺城
築城年:1155年(久寿2)
築城者:小山政光
城 主:小山氏、結城晴朝
廃城年:1601年(慶長6)
[栃木県小山市中久喜]
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タグ:城のなごり
2017年10月01日
赤見城(佐野市)唐沢山城の支城跡
佐野氏の居城・唐沢山城の支城を訪ねました。
<赤見城の土跡>
堀と土塁が良好な状態で残されています。左手が本丸跡です。
<水堀>
土塁の上から撮影した堀。本丸の敷地面積に対して相当深く感じます。このまま現役の堀として機能するレベルではないでしょうか。攻め手の武器にもよりますが、、、。
この遺構は中世のものですね。そもそもこの地に城ができたのは、いつごろだったのでしょうか?
■赤見城の築城■鎌倉以前
平安時代後期、藤姓足利氏の足利俊綱がこの地に城を築いたのが始まりだそうです。足利氏?あの足利尊氏の足利氏?ではなく、こちらは藤原秀郷の後裔の足利氏。いわゆる清和源氏の流れと混同を避ける為『藤姓足利氏』とも呼ばれます。このブログでも藤姓足利氏と表記します。
その「藤姓足利氏」4代当主・俊綱、つまり今回訪問の赤見城築城者は、源義広(みなもと のよしひろ:志田義広)が源頼朝に反旗を翻した際、これにつづくべく挙兵しましたが、家臣※に裏切られ命を落とし、この時に城も落とされたと伝わります。これが1181年話。まだ平安時代ですね。
( ※ちょっと余談になりますが )
裏切った家臣は桐生六郎といいます。主君である足利俊綱を斬ってその首を持参し、褒美として御家人となることを源頼朝に求めました。しかし頼朝は、家臣に桐生六郎を斬らせました。主人を殺す所存は不当。信じられないということですね。
■唐沢山城の支城■
1190年に戸賀崎義宗が城を再興させて城主となり、その後は長らく戸賀崎氏の居城として機能していました。だいぶたって戦国期、佐野氏に攻められた戸賀崎氏子孫の赤見氏が常陸へ去ると、この城は唐沢山城の支城という位置付けになります。佐野氏支配下で、足利方面をけん制する役割を担いました。その佐野氏が改易された時に廃城。古い城ですが、ここで幕引きとなりました。
かなり長い歴史を強引にまとめるとこんな感じです。前半はブログを書くにあたって調べました。私が訪問時に意識していたのは後半だけ。極めてシンプルに「唐沢山城の支城」として城のなごりを味わいました。「多少遺構があるらしい」という程度の情報で訪問したため、現地でやや興奮。マイナーな城ですが、中世の城跡が好きな人にはたまらない遺構と出会える場所です。
■城跡のいま■
<堅い守りの保育園>
素晴らしい遺構の赤見城跡ですが、本丸跡は現在保育園。「赤見城保育園」です。土塁に守られた贅沢な環境。ちょっとガードが過剰ですかね。
<土塁に穴>抜け穴
これはいいですね。折角の遺構ですが、この保育園、南側の入口以外は三方を土塁に囲まれてます。こうして穴でも開けないと、万が一の時に逃げ場がありません。あとまぁ風通しもあるのでしょうか。幼児ならちょっとかがめば通れます。まぁ大人も通れなくはないですが、土塁を登る方が速そうですね。とにかく、土塁ごと壊す手もあったはず。穴だけで済ましてくれてるのが嬉しいです。
<二重土塁>
ちょっと「虎口」のような感じで映ってしまいましたが、二重土塁です。こういう遺構は嬉しいですね。良好な状態で残っています。正直、もっと有名でも良い城跡です。
<石碑と土塁>
佐野市指定文化財です。石碑に縄張り図がありました。それによれば赤見城そのものはもっと広く、現在残っているのはかつての本丸周辺のみ。連郭式の平城だったようなので、もっと広範囲に土塁や堀が設けられていたのでしょう。それらの痕跡を探すことなく城を後にしましたが、ここ本丸跡だけでも見応えはありました。
天気にも恵まれ、気持ちの良い城跡めぐりとなりました。
--------■赤見城■--------
別 名:町屋城
築城者:足利俊綱(藤姓足利氏)
築城年:1178年(治承2)
城 主:足利俊綱・戸賀崎氏・佐野氏
廃 城:1614年(慶長19)
[栃木県佐野市赤見]
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<赤見城の土跡>
堀と土塁が良好な状態で残されています。左手が本丸跡です。
<水堀>
土塁の上から撮影した堀。本丸の敷地面積に対して相当深く感じます。このまま現役の堀として機能するレベルではないでしょうか。攻め手の武器にもよりますが、、、。
この遺構は中世のものですね。そもそもこの地に城ができたのは、いつごろだったのでしょうか?
■赤見城の築城■鎌倉以前
平安時代後期、藤姓足利氏の足利俊綱がこの地に城を築いたのが始まりだそうです。足利氏?あの足利尊氏の足利氏?ではなく、こちらは藤原秀郷の後裔の足利氏。いわゆる清和源氏の流れと混同を避ける為『藤姓足利氏』とも呼ばれます。このブログでも藤姓足利氏と表記します。
その「藤姓足利氏」4代当主・俊綱、つまり今回訪問の赤見城築城者は、源義広(みなもと のよしひろ:志田義広)が源頼朝に反旗を翻した際、これにつづくべく挙兵しましたが、家臣※に裏切られ命を落とし、この時に城も落とされたと伝わります。これが1181年話。まだ平安時代ですね。
( ※ちょっと余談になりますが )
裏切った家臣は桐生六郎といいます。主君である足利俊綱を斬ってその首を持参し、褒美として御家人となることを源頼朝に求めました。しかし頼朝は、家臣に桐生六郎を斬らせました。主人を殺す所存は不当。信じられないということですね。
■唐沢山城の支城■
1190年に戸賀崎義宗が城を再興させて城主となり、その後は長らく戸賀崎氏の居城として機能していました。だいぶたって戦国期、佐野氏に攻められた戸賀崎氏子孫の赤見氏が常陸へ去ると、この城は唐沢山城の支城という位置付けになります。佐野氏支配下で、足利方面をけん制する役割を担いました。その佐野氏が改易された時に廃城。古い城ですが、ここで幕引きとなりました。
かなり長い歴史を強引にまとめるとこんな感じです。前半はブログを書くにあたって調べました。私が訪問時に意識していたのは後半だけ。極めてシンプルに「唐沢山城の支城」として城のなごりを味わいました。「多少遺構があるらしい」という程度の情報で訪問したため、現地でやや興奮。マイナーな城ですが、中世の城跡が好きな人にはたまらない遺構と出会える場所です。
■城跡のいま■
<堅い守りの保育園>
素晴らしい遺構の赤見城跡ですが、本丸跡は現在保育園。「赤見城保育園」です。土塁に守られた贅沢な環境。ちょっとガードが過剰ですかね。
<土塁に穴>抜け穴
これはいいですね。折角の遺構ですが、この保育園、南側の入口以外は三方を土塁に囲まれてます。こうして穴でも開けないと、万が一の時に逃げ場がありません。あとまぁ風通しもあるのでしょうか。幼児ならちょっとかがめば通れます。まぁ大人も通れなくはないですが、土塁を登る方が速そうですね。とにかく、土塁ごと壊す手もあったはず。穴だけで済ましてくれてるのが嬉しいです。
<二重土塁>
ちょっと「虎口」のような感じで映ってしまいましたが、二重土塁です。こういう遺構は嬉しいですね。良好な状態で残っています。正直、もっと有名でも良い城跡です。
<石碑と土塁>
佐野市指定文化財です。石碑に縄張り図がありました。それによれば赤見城そのものはもっと広く、現在残っているのはかつての本丸周辺のみ。連郭式の平城だったようなので、もっと広範囲に土塁や堀が設けられていたのでしょう。それらの痕跡を探すことなく城を後にしましたが、ここ本丸跡だけでも見応えはありました。
天気にも恵まれ、気持ちの良い城跡めぐりとなりました。
--------■赤見城■--------
別 名:町屋城
築城者:足利俊綱(藤姓足利氏)
築城年:1178年(治承2)
城 主:足利俊綱・戸賀崎氏・佐野氏
廃 城:1614年(慶長19)
[栃木県佐野市赤見]
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