2020年02月24日

多功城のなごり 宇都宮一族の城跡

つわものどもが夢の跡
宇都宮城の出城として機能していた城跡を訪ねました
<多功城跡>たこうじょう
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■宇都宮一族の城■
今回訪問の多功城は、宇都宮頼綱(5代当主)の七男・宗朝により1284年に築かれました。城は宇都宮城の南側に位置し、宗朝はこの城を構えて以降は多功氏を名乗りました。更に南方には、同じ下野国のライバル・小山氏の拠点があります。宇都宮氏にとって、多功城は軍事上極めて重要な出城だったと考えられています。

■上杉謙信を追い返す■
戦国時代に突入すると、多功城の出城としての役割はますます大きくなります。同じく宇都宮氏配下の児山城・上三川城とともに、南側から北上してくる敵を最前線で食い止める役割を担いました。

1558年、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が下野に侵攻し、佐野氏との連合軍となって多功城へ攻め寄せました。これに対し、多功長朝(ながとも)を筆頭に、援軍を含む宇都宮勢2千は奮闘。同族で児山城の城主・児山兼朝など、名だたる武将が多数命を落としましたが、宇都宮勢は負けませんでした。上杉・佐野の連合軍は撤退を余儀なくされました。
更に、多功長朝は敗走する上杉軍への追撃を試みます。最後は太田資正(すけまさ)の仲介により、上杉側と和睦となったようです。


■小田原北条氏にも屈せず■
1585年、関東で勢力を増していた小田原北条氏が宇都宮氏の領内へ侵攻し、この時多功城にも兵が押し寄せました。しかし猛将として知られる多功綱継は、他の宇都宮一族とともにこれを退けています。1589年にも同じく北条氏に攻め込まれますが、綱継は再びこれを退けます。関東制覇間近の北条氏でも、多功城を攻略することはできませんでした

■現地訪問■
<石碑>
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石橋ゴルフガーデン駐車場内にあります

<ゴルフ練習場>
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ここが主郭の跡とされています

<盛り土>
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これも土塁のなごりと思って良いですかね。ゴルフ練習場の北側の遺構が見事と聞き及んでいますので、そちらに向かうことにしました。

<土塁>
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おお、来てよかった

<二重の堀跡>
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<微高地>
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土塁の上から城の外側を撮影。土塁の高さを差し引いても、周辺よりは高い場所のようです。ある程度は・・

<本丸跡を遠くから撮影>
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劇的な高低差はない

<多功城跡全体>
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ほぼ平城です

名だたる勢力の侵攻を何度も撃退している城です。戦歴だけで判断すると難攻不落の城!と言いたいところですが、現地は平坦な土地で、劇的な地の利があるわけではありません。

土塁と出会えたことに感謝しますが、構造としては極めてシンプルな縄張りです。それでも負けなかった。これはもう、よほど宇都宮勢の兵が強かったとしか思えません。城に籠って戦うというより、主に城下の多功ヶ原で激突したようなので、野戦と考えた方が良いのかもしれません

<バス停>
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ところで、その多功ヶ原って具体的にはどこなんですかね?

<関東平野>
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ここまで平なんだから、まぁ見えている範囲内のどこかなんでしょう

いずれにせよ、命掛けで戦う猛者が揃っていたら、攻め手が『ドン退き』となるのは当然のこと。宇都宮勢は死をも恐れぬ勢いで侵入者たちに挑んでいったのかもしれませんね。

■つわものどもが夢の跡■
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宇都宮氏の重要拠点として、戦国時代に幾度となく強敵を退けた多功城ですが、天下人秀吉によって突然宇都宮氏が改易(1597年)され、出城としての役割を終えることになりました。

------■多功城■------
築城者:多功宗朝
築城年:1248年(宝治2)
城 主:多功氏
  (長朝・房朝・綱継)
廃城年:1597年(慶長2)
現 況:石橋ゴルフガーデン他
[栃木県河内郡上三川町大字多功]

-----追 記-----
<帰路>
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来た道を戻るのもなんなんで、低地の畦道を歩きました。

<土塁?>
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雑木林に土を盛ったような気配を感じたものの、気のせいだろうと思い、特に草に分け入ることもなく通り過ぎました。

ところが、この時の様子をTwitterに投稿したところ、城跡巡りの先駆者に、雑木林のなかにも遺構があるとを教えてもらいました。

あらら
そうでしたか

ちょっと残念ですね。でもまぁまた行く機会もあるでしょう。総じて満足な訪問となりました。


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天神館のなごり(上三川町)多功天満宮にて

今回は宇都宮一族の多功城を訪ねた帰りに、何となく立ち寄ってみた高台の話です。場所は栃木県の上三川町。まもなくJR石橋駅というところで、独特の地形に足が止まりました。

<高台と低地>
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これって砦の跡かね?

周辺より高くなっている場所に神社らしき建物が見えた。たったそれだけなのですが、漂う雰囲気に魅かれました。駅はすくそば。もう着いたようなものなので、ちょっとだけ逆戻りとなりますが立ち寄ってみました。

<天満宮>
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天満宮か

祭神はいうまでもなく菅原道真。いい雰囲気ながら、遺構のようなものは見当たりません。

何も無いけど

気のせいかね

結局現地では何もわかれませんでした。しかし帰宅してから念のため調べたところ、詳細不明ながら『天神館』と呼ばれる館が天満宮周辺にあったとする情報を得るに至りました。ただ、それが誰の館なのかはっきりしません。場所は多功城から見て北に位置します。

多功城の出丸?

それもはっきりしません。ただ、地形に足を止めて登ってみた階段の先に、そんな伝承があることに、ちょっとだけ口元が緩みました。

天満宮の付近での遺跡調査の結果、奈良時代のものと思われる瓦や土器が出土しているようです。古くから人が集まった場所ということですね。また、境内には礎石が残され、何らかの建物の土台と考えられています(郡の役所と推定されています)。

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また、この地の天満宮は北条氏の多功城攻めの際に一旦消失しながら、江戸時代になって再興されたことも分りました。戦に巻き込まれて一方的な焼き討ちにあったのか、多功側の兵が防衛の拠点としたため焼かれたのか、ちょっとわかりません。いずれにせよ、訪ねた城の歴史と、関りがあったことは間違いありません。

無駄ではなかった

足を止めた甲斐がありました。

■訪問:天満宮(多功廃寺址)
[栃木県河内郡上三川町天神町]
(旧地名:河内郡上三川町大字多功)


-----追記------
今回はかなり限られた情報しか得られず、更にその多くは推定です。素人会社員が、歴史の痕跡を訪ね歩いて楽しんでいるだけのブログですので、その程度に受けてめて頂きますようお願い申し上げます。

<多功城跡>
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多功城跡訪問記へ続きます


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2020年01月13日

榎下城のなごり(横浜市)舊城寺

つわものどもが夢の跡
横浜市の城跡を訪ねました

<榎下城跡>えのしたじょう
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■榎下城の縄張り■
いわゆる舌状台地の先端を利用して築かれた山城です。最も高い位置に本丸を設け、その南と北に曲輪を配置し、周囲を空堀が廻らす構造になっています。城跡は現在寺院となっています。

<現地到着>
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あまり予習しないで訪問したので、立派な山門にやや躊躇しました。高野山真言宗の寺院です。

<舊城寺>きゅうじょうじ
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恥ずかしながら舊が読めず。ようするに『旧』の旧字体ですね。つまり旧城寺。とりあえず、古くは城だった寺と受け止め、山門をくぐりました。奥の本堂も立派ですが、城跡として訪問しているので、右手に見えている土塁のせいで足早になりました。

<説明板>
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入ってすぐの土塁の前に説明板があります。冒頭でご紹介した城の立地とともに、この土塁がいわゆる食い違い虎口のなごりであることが記載されています。歴史についても触れられいますが、それは後述するとして、縄張り図が分りやすく、しばし凝視しました。

<縄張り>
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いま私がいるのは右手の入り口付近。本丸より一段低い曲輪にいるわけですね。つまり舊城寺の山門と本堂は、かつての二の丸ということになります。そして外側の谷になっているところには空堀が設けられていた。なるほどです。これはシンプルで分かり易い。

大筋分かれば、あとそれを感じながら歩き回るだけ

<外側>
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まず城の外側ですが、あの道もかつての堀跡ですね

<高低差>
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一旦境内を出て、外を探索することにしました

<堀跡>
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堀のなごり。住宅地の舗装された道ではありますが、そこは想像で補う

再び境内へ

<土塁跡>
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土塁のなごり

<高低差>
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曲輪と曲輪の高低差

<弓道道>
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こちらは本丸へ進むとすぐに現れる現役の弓道場。本丸の西側部分です。

<竹林>
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本丸の奥の方(北側)まで進むと竹林になっています。この付近が城で最も高い位置。更に進むとまた谷状になっており、下った先は縄張り図にもあった北側の曲輪(的場)です。ただし、既に宅地となっているようなので、探索はここまでです。

<本丸跡>
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■榎下城と宅間上杉氏■
榎下城は宅間上杉氏憲清によって築かれたと考えられています。宅間上杉氏は山内上杉氏や扇谷上杉氏などと同様に上杉氏の諸家のひとつで、相模国を基盤に勢力を拡大しました。

鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に始まる永享の乱(1438年~1439年)に際しては、上杉憲清の子・憲直鎌倉公方に味方して榎下城を守りますが、関東管領側に攻められ、城から退いたあとも追い討ちをかけられ自害に追い込まれています。上杉憲直以降の城主については、あまりよく分かっていないようです。

その後の宅間上杉氏は勢いを失い、やがては小田原北条氏の傘下に組み込まれることになります。榎下城は小田原北条氏配下の小机城の支城として利用されることになりました。つまり、少なくとも戦国末期までは城として機能していたわけですね。

■つわものどもが夢の跡■
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1590年の秀吉による小田原征伐ののち、小机城は廃城となっています。ここ榎下城もその頃に城としての役割を終えたと考えられます。戦乱の世が終息へ向った江戸時代初期、城跡は舊城寺となりました。

------■榎下城■------
別 名:久保城
築城主:上杉憲清(宅間上杉氏)
築城年:詳細不明(室町時代)
城 主:宅間上杉氏
廃城年:詳細不明(1600年前後)
現 況:舊城寺
[神奈川県横浜市緑区三保町]


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2019年10月01日

水戸城のなごり

つわものどもが夢の跡
水戸徳川家の居城跡を訪問しました。
<大堀切>
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二の丸と本丸を隔てる大堀切跡です。なんという高低差!ここまでとは思っていなかったので、しばし見惚れました。

■常陸江戸氏の居城■
水戸城と言えば徳川御三家の一つである水戸徳川家の居城として有名ですね。ただ城そのものの歴史は相当長く、築城は平安時代末期又は鎌倉時代初期頃まで遡ります。常陸国の武将で源頼朝に従った御家人・馬場資幹(すけもと)がこの地に城を築いたのが始まりと言う説が一般的です。馬場氏の居城であったことから、当初は馬場城と呼ばれていました。

室町時代に入ると、関東では鎌倉公方と関東管領による対立が起こり、関東管領に味方した馬場氏は、公方に味方する江戸氏(常陸江戸氏)に敗れることになり、城も失ってしまいました。

新たに城に入った江戸氏の支配は、その後170年も続きます。超安定政権ですね。ただ、江戸氏はそれまで結びつきの強かった常陸の名族・佐竹氏と対立するようになっていきます。やがて戦国末期、関東の諸大名の明暗をわけた豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)おいて、江戸氏は北条氏側に、佐竹氏(義重・義宣)は豊臣側に味方する構図となり、結果として秀吉より常陸一国54万石を与えられた佐竹氏が、江戸氏を滅ぼすことになります(1594年)。佐竹氏は居城を太田城から馬場城へ移し、大改修を施すとともに名を水戸城と改めました。

私の勝手な思い込みで、水戸城といえば徳川氏の前は佐竹氏という印象でしたが、思いのほかその歴史は短く、関ヶ原の戦い後すぐ、佐竹氏は家康の命で水戸から出羽国秋田に移されています。関ヶ原の戦いでの曖昧な態度(西軍に与した疑い)が原因と言われています。


■水戸徳川の城■
1602年(慶長7年)に、家康は佐竹氏に代わって自らの五男(信吉)を水戸に入城させましたが、もともと体が弱く、21歳の若さで亡くなってしまいます(1603年)。子は無かったため、次に十男の徳川頼宣が20万石で水戸城に入城。その頼宣が駿府(50万石)へ移ると、今度は十一男の頼房が下妻城より25万石で入城。頼房は常陸水戸藩の初代藩主となり、これ以降明治時代の廃城まで、水戸城は水戸徳川家の居城であり続けました。

<徳川頼房像>
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水戸徳川家の祖となった頼房の銅像です。

<徳川光圀>
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こちらは駅前で撮影。ご存じの黄門様です。光圀は常陸水戸藩の第2代藩主です。頼房の三男、つまり家康の孫にあたります。


■縄張り■
水戸城はとにかく広いので、まず全体を頭にいれて探索した方が楽しいですね。
<二の丸展示館>
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水戸城の歴史を紹介した展示館です。城の模型が展示されていると聞き、ちょっと立ち寄らせて頂きました。

<水戸城模型>
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手前(方角だと東側)の本丸から二の丸、三の丸と連なる連郭式縄張りです。本丸の更に東側に「東二の丸」も配置されています。こうして曲輪の配置だけを見ると平城のようですね。でも南に千波湖(せんばこ)、北側に那珂川が流れる丘陵に築かれていますので、分類は山城(平山城)で良いと思います。石垣は使用せず、城の基礎は土塁と空堀で構成される土の城。ここに建造物を設けて城の体を成していました。豪華な天守といったものもなく、広いとはいえ徳川御三家の居城のわりには質素なつくりと言えます。


■城のなごり■
水戸は言うまでも無く地域の中核都市として開発が進んでしまっていますが、市街地化された城跡を散策すると『城のなごり』を残そうとする工夫が随所にみられます。堀や歴史的建造物の保存もさることながら、公立学校の門や塀も昔を思わせる手の凝ったものが多く、かつてこの地が水戸城であったことを感じずにはいられません。私はただの訪問者ですが、ここで実際に暮らす人たちにとって、誇りといって良いのではないでしょうか。とても羨ましい環境でした。

<三の丸の外堀跡>
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三の丸西側の堀跡です。まぁ水戸城の外堀になりますね。城のなごりを意識して演出している場所が多い中、こちらはどこの城跡でも目にするほのぼのとした光景です。地味ではありますが、水戸城を代表する遺構ではないでしょうか。

<弘道館>
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三の丸の弘道館。9代藩主斉昭が水戸城内に開いた藩校です。長州藩の明倫館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称されました。最後の将軍となる徳川慶喜も、幼少期にここで学んだそうです。ちなみに、偕楽園の造園も斉昭が藩主の時です。

つづいて二の丸方面へ

<大手橋>
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大手門へ繋がる橋。ここに最初に橋を設けたのは佐竹義宣。徳川の時代に橋が修復され、大手橋と呼ばれるようになったそうです。

<堀跡>
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二の丸と三の丸の間の堀です。堀跡は県道として利用されています。

<大手門>工事中
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私の訪問は2019年の夏。復元整備の真っ最中で、門を潜ることはできませんでした。迂回して門の内側から撮影。ちょっと残念でしたが、秋には立派な姿を見られるそうです。楽しみですね。


<二の丸跡の街並み>
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大手門近くの公立中学。城を意識した立派な造りです。先ほどの『二の丸展示館』のお隣です。二の丸は学校が立ち並ぶ文教エリアとなっており、要所要所に説明板が設置されています。

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茨城師範学校跡

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水戸城三階櫓跡。かつてあったと伝わる櫓はここに建てられていたわけですね。水戸城に天守はなく、ここ二の丸の御三階櫓が天守の役割を果たしていました。昭和まで現存していましたが、1945年の水戸空襲で焼失したそうです。

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二の丸御殿跡

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巨木「水戸城跡の大シイ」から杉山門方面を撮影。この先を更に東へ向かえば本丸跡です。

<本城橋>
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二の丸跡と本丸跡の間の堀切に架かる橋です。

<深い堀切>
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この高低差には驚きました。比高で20m以上はありそうです。

<堀の底>
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JR水郡線です。貴重な堀跡に線路が敷かれていることについては賛否あるようですが、遺構を壊さず街を栄えさせるためなので、私は良い光景だと感じました。

<旧水戸城薬医門>
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橋を渡った先、つまり本丸の県立水戸第一高校。その敷地内で、立派な城のなごりと出会えます。復元ではなく、こちらは現存する貴重な遺構です。職場にここの卒業生がいるのですが、とても謙虚な人で、母校の自慢話を聞いたことがありません。今度会ったら『もっと自慢しろ!』と言ってやりたいです。素敵なことです。

<念のため>
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私は不法侵入ではありません。校門は通過しましたが、薬医門の手前までは入って良いことになっています。それより先は関係者以外入ってはいけません。

<校門>
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お邪魔しました。そもそも校門の脇が土塁になってますね。これも水戸城のなごり。私の目には、校門が虎口に映ります。素敵なことです。


■つわものどもが夢の跡■
日本100名城にも選ばれている水戸城。スケールも都市化も雰囲気を残そうとする整備も凄かったので、最後に敢えて地味な土塁跡だけ選んで貼っておきます。

<街の中の土塁>
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長きに渡って江戸氏の拠点だった城を佐竹氏が改修。その後はずっとずっと徳川氏の居城でした。散在する遺構、そして城だったことを強く意識して整備された街並み。そのすべてが水戸城のなごりです。

-------■ 水戸城 ■-------
別 名:馬場城 水府城桂城
築城年:鎌倉初期(又は平安末期)
築城者:馬場資幹
改修者:佐竹義宣・徳川頼房
城 主:馬場氏・江戸氏・佐竹氏
   水戸徳川氏(藩主として11代)
廃 城:1871年(明治4)
[茨城県水戸市三の丸]


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タグ:日本100名城
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2019年09月14日

笠間城のなごり

つわものどもが夢の跡
茨城県の低層の山に築かれた笠間城跡を訪ねました。

<佐白山の城跡>さしろさん
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標高約2百mほどの佐白山。この山を利用した笠間城跡には、何となく中世の雰囲気も漂っていましたが、実際には江戸時代も使用され続けた城跡です。笠間藩の藩庁が置かれていました。画像は山頂近くの八幡台櫓跡。

■宇都宮氏から始まる城■
この地に最初に城を築いたのは、下野国の名門・宇都宮氏の一族でした。鎌倉時代、この付近で寺同士の勢力争いがあり、その片方から援軍を依頼された下野守護・宇都宮頼綱(5代当主)が甥にあたる塩谷時朝笠間時朝)を派遣したことから全てが始まります。時朝は佐白山の麓に拠点を設け、敵対する寺の僧兵と戦いました。しかしこの時に築かれた『麓城』のスケールの大きさ、そして長々と居座りそうな雰囲気が味方のはずの寺の反感をかい、結局は両方の寺と戦うことになります。時朝はこの戦いに勝利すると、今度は山の頂上に城を築きます(1219年)。諸説ありますが、これが笠間城の始まりとされています。

<記念碑>
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二の丸に設置された記念碑。「笠間時朝公を追慕して」と記されています。叔父の宇都宮頼綱は歌人としても知られていますが、時朝も武人であり和歌にも長けた文化人だったようです。この地に進出し、笠間氏の祖となりました。

時朝から始まる笠間氏は、佐白山に築かれた強固な城を拠点に18代にもわたって笠間の地を治め続けました。18代で350年以上も!凄いことですね。


■宇都宮氏に滅ぼされる■
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐は、関東の諸勢力の動向に大きな影響を与えることになります。笠間城を居城としてきた笠間氏は、18代当主の綱家が宗家・宇都宮氏に従わずに小田原北条氏に与したため、のちに宇都宮氏によって滅ぼされてしまいました。この経緯については諸説あります。ただ、宇都宮一門でありながら、宗家によって滅ぼされたことは事実のようです。笠間城には宇都宮国綱の家臣・玉生高宗が入りますが、豊臣秀吉の命により宇都宮氏は突然改易され、その後は秀吉配下の蒲生郷成が3万石で入城します。この蒲生郷成の手によって、典型的な中世の山城が、石積みや天守を特徴とする城郭に生まれ変わったのではないかと考えられています。


■江戸時代も続く城■
1600年の関ヶ原の戦い後、笠間城には徳川家康の家臣・松平康重(初代笠間藩主)が入城。江戸を通して存続する笠間城の城主は、その後次々と変わります。譜代大名が多いのですが、1622年にはのちに播磨赤穂藩へと移封となる浅野氏も入城しています。いわゆる忠臣蔵で有名になるあの浅野氏ですね。1747年以降は幕末まで牧野氏代々の居城。廃城は明治になってからです。

■城内■
<千人溜り跡>
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千人溜りとは要するに大勢の武士が集結できるよう造成された区画のことです。まぁ曲輪ですね。現在は駐車場になっています。

<堀跡と登山道のカーブ>
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千人溜り跡と呼ばれる的場曲輪から大手門跡へ向かう途中で撮影。空堀と直進させない曲がった登山道です。この付近までは気になるといちいち立ち止って撮影していましたが、これ以降はややラフな探索。とにかく暑く、歩くので精一杯でした。

<大手門跡>
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既に城内にいるようなものですが、やはり大手門を通過したと思うと気合が入ります。

<大手門付近の石垣>
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<典型的な山城>
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安全な登山道が整備されていますが、随所に遺構が確認でき、城のなごりが漂います。

<宍ヶ崎櫓跡>
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<本丸>
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本丸とされる曲輪です。かつては御殿がありました。

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右手の斜面は櫓台

<八幡台>
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登ってみました
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本丸側を見下ろす
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八幡台櫓跡の石碑。私は立ち寄れなかったので画像がありませんが、櫓そのものは城下の真浄寺に移設され現存しています。

<本丸付近>
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<虎口>
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<天守曲輪>
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やや崩れていますが石垣が残ります

<案内図>
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城の全体はこんな感じになります。山の上部に本丸を含む曲輪や物見台が設けられ、最も高い位置に天守台があります。そして主要な曲輪の下には守りを補うための帯曲輪。戦闘を意識した時代の思惑が、随所にみられる縄張りです。


■つわものどもが夢の跡■
<笠間城跡の石碑>
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佐白山を利用した典型的な中世の山城でありながら、江戸時代も存続していました。山城は戦いでは有効ながら、統治の拠点としては不便。江戸時代の藩主の居館は麓に設けられていたようです。

-------■ 笠間城 ■-------
別 名:桂城
築城年:1219年(承久元)
築城者:笠間時朝
城 主:笠間氏・蒲生氏
浅野氏・牧野氏他
廃 城:1868年(明治4)
[茨城県笠間市笠間]


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------- 追 記 -------
以下は笠間城付近又は市内で撮影したものです。
<笠間百坊旧跡>
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千人溜り跡の道を挟んだ向かい側です。佐白山は古くから信仰の山として栄えていました。

<大黒石>
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佐白山を登る途中にある巨大な石。笠間氏がこの地に進出するきっかけとなった僧兵同士の争いと深い関係がある(とされている)石です。

<大石邸跡>
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笠間城主でもあった浅野家の家臣・大石氏の屋敷跡が佐白山の麓にあります。忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖父の屋敷跡です。

<かさま歴史交流館井筒屋>
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笠間城は続100名城に選ばれています。そのスタンプ設置場所はこちらの井筒屋さんになります。こちらの2階は歴史展示コーナーとなっており、笠間城のジオラマなども展示されています。

<笠間稲荷神社>
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笠間稲荷です。創建は飛鳥時代。古くから厚く信仰され、年間の参拝客は 300万人。初詣の80万人超は茨城県内1位。別称は胡桃下稲荷。江戸時代には歴代の笠間藩主が崇敬した神社です。笠間城探索のあと、休憩も兼ねて立ち寄りました。お世話になりました。
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路傍の巨大石 笠間の大黒石

今回は笠間城訪問時に出会った巨大な石のお話です。

<路傍の巨大石>
shirononagori367 (5).JPG
なんだこりゃ?

汗だくになりながら呆然と歩いていましたが、あまりのデカさに正気に戻りました。

■大黒石■ だいこくせき
訪問したのは笠間城が築かれた佐白山。低層の山とはいえ7月中旬の晴れた日にオッサンが登るには厳しい道のりでした。

shirononagori367 (1).JPG
ここを曲がればあと少しか

もう少しで城跡の入口付近というあたりで、突如道路脇に現れたのが今回ご紹介の巨大石です。

<大黒石>
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ちょっと事前に知らないと、びっくりするサイズです。幅約5m、高さ約3mとのこと。もっと大きく感じました。それにしてもなんでこんな所に?

<説明板>
shirononagori367 (4).JPG

説明板があるので、何かいわくつきのモノであろうことはすぐに想像できました。その説明によれば、この石は大黒石と呼ばれ、鎌倉時代にこの地で起こった僧兵同士の争いの逸話が残るとのこと。佐白山にはかつて正福寺というお寺があり、徳蔵寺という別のお寺と勢力争いの末に戦闘に至ったようです。押し寄せる徳蔵寺の僧兵たちにより、正福寺の僧兵は山頂近くに追い詰められましたが、頂にあったこの巨大石を転がして攻め手を追い散らし、難を逃れたようです。

なるぼど。正福寺の僧兵が転がした石は、敵を蹴散らしたあとここで止まったというわけですね。逸話らしい逸話です。それにしても、とても一人では転がせそうにありません。帰宅してから調べ直すと、山頂の石は僧兵が転がしたのではなく、自然に動きだし、転がり落ちて敵を蹴散らしたというものもありました。こうなると、神がかり的な逸話になりますね。

まぁいずれにせよ、ここ佐白山を舞台に、大掛かりな僧兵同士の戦いがあったのは間違いなさそうです。そしてこの争いがきっかけで、宇都宮氏の一族の塩谷氏(のちの笠間氏)が山麓に城を築城するに至り、やがて18代にもわたってこの地を治めることなるのですが、それは次の笠間城の訪問記でご紹介させて頂くことにします。

<大黒石と説明板>
shirononagori367 (3).JPG
名は大黒天に由来します。形が大黒天の担ぐ袋に似ているからだそうです。石に小さな穴があるの、画像で確認できますでしょうか。ここに3回続けて小石を投げ入れることができれば、幸運が訪れるそうです。私はチャレンジしませんでしたが、ちょっと試してみるのも悪くないですね。

ということで
笠間城跡へ向かう途中で出会った大黒石のご紹介でした。この石まで来れば城跡入口はあとちょっと。笠間城の大手門跡へ続く千人溜り跡(いまは駐車場)が待っています。

<千人溜り跡>
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7月中旬にも関わらず紫陽花が出迎えてくれました。

■訪問:大黒石
[茨城県笠間市笠間]


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posted by Isuke at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2019年09月08日

家老大石家のなごり(笠間市)大石邸跡

赤穂転封の前は笠間藩主だった浅野家。その家老として知られる大石家の屋敷跡を訪ねました。
<大石邸跡>
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ここは茨城県笠間市。家老だった大石良欽(よしたか)の屋敷跡です。
銅像は孫にあたる良雄。つまり忠臣蔵大石内蔵助です。まぁ内蔵助本人は赤穂の生れなのですが、四十七士の中には、笠間藩の出身者が3人も含まれています。これだけでも、ここ笠間の地が赤穂浪士と関係が深いことが伝わってきますね。

浅野家は笠間藩以外に真岡藩(栃木県)・真壁藩(茨城県)も治めています。赤穂浪士のうち、赤穂出身は半分程度で、実は次に多いのは北関東出身の武士たちなのです。

<入口付近>
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綺麗に整備されています。声をかけて頂いた地元の方によると、ちょっと前までは石碑のみだったとのこと。まだ新しいのですね。
<敷地内>
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屋敷の遺構らしきものは確認できず。雰囲気だけ味わいました。

<石碑と説明板>
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大石内蔵助良雄の曾祖父・良勝と祖父・良欽が住んでいた屋敷跡という説明がなされています。

<詳細な説明板>
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こちらには浅野家・大石家と笠間市の関係が詳しく説明されています。大石家は真岡藩時代に浅野家に仕えて、やがて家老職を務める家となりました。ここ笠間市と赤穂市は姉妹都市を提携という説明もありました。両市は浅野家で繋がっているわけですね。ちなみに、赤穂浪士が吉良邸討入って主君・浅野内匠頭の本懐を遂げるのは、浅野家が笠間の地を去ってから57年後の事です。

ということで
笠間藩時代の大石家のなごりのご紹介でした。当ブログがきっかけで、赤穂浪士と関東武士が繋がっていることを知ってもらえたら嬉しいです。

<大石邸跡>
shirononagori366 (2).JPG
現地へ行かれる方は、笠間日動美術館入口のすぐ近くと思って頂ければ迷うこともありません。

■訪問:大石邸跡
[茨城県笠間市笠間]995


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posted by Isuke at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2019年07月07日

生田緑地の山城 枡形城のなごり

つわものどもが夢の跡
川崎市に残る古い山城を訪ねました。
<枡形城本丸跡入口>
shirononagori346 (10).JPG

■枡形山■ますがたやま
多摩丘陵の一角に位置する生田緑地。今回訪問の城跡は、この緑豊かな広大な敷地のなかにあります。最寄駅は小田急線の向ヶ丘遊園駅。目指すは緑地内の枡形山です。

<地図>右側が北
shirononagori346 (1).JPG
駅から生田緑地へ向かう途中に地図があったので撮影。地形がよく分かります。中央の赤字が現在位置です。多摩丘陵と多摩川の間に今いるわけですね。大昔なら低湿地、あるいは川の氾濫域だったのかもしれません。

<二ヶ領本川>
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こちらは川崎市が誇る歴史ある用水路の一部なんですが、長くなるので今回は省略します。ここ渡って生田緑地を目指します。

<生田緑地入口>
shirononagori346 (3).JPG
目的地にほぼ到着。川崎市内最大の緑地への進入口です。枡形山への登場口はここからすぐそばです。

<枡形山入口>
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ありました。ここから登ります。山の東側から頂上を目指すコースです。

<案内板>
shirononagori346 (6).JPG
こちらのコースはやや勾配がきついですが、しっかりとした登山道が整備されていますし、途中にベンチもあります。ゆっくり登れば大丈夫。この山には長く長くのびた緩やかな尾根といったものは無く、頂上付近は四方が断崖のようになっています。枡形という名は、こうした地形に由来すると考えられています。

<登山道>
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梅雨の真っ只中。この日も雨でしたが、目に優しい緑に癒され、特に苦も無く登ってゆきました。

<山中>
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苦も無くと言ってもそんなに楽ではない。でも普段運動不足のオッサン(私です)にはいい試練です。

<まだ続く>
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ここはあくまで川崎市です。貴重な緑ですね。

<平らな区画>
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本丸と言われる頂上の手前で、平らな区画を見つけました。昔の曲輪のなごり?かとも思いましたが確証はありません。

<板塀>
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まもなくゴール。右手の城を模した壁の向こうが桝形山の頂上です。


■鎌倉幕府御家人の城■
今回訪問の枡形城は、稲毛三郎重成により築かれたとされています。重成は源頼朝に仕えた御家人。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、現在の川崎市高津区・中原区付近を領して、稲毛氏を名のりました。父は小山田氏の祖となる小山田有重、いとこは坂東武士の鑑とまで称された畠山重忠、妻は北条政子の妹です。これだけでも凄い人物だと伝わってきますね。更に主要な合戦で活躍した実績もありますので、幕府の中枢にいた御家人と思って良いですね。桝形城はその居城であったというのですから、当時としては重要な城。そしてそうとう古い城ということになりますね。

いまの桝形山の状態からどこまで想像して良いのか分かりませんが、時代背景も考慮すると、桝形城はあまり複雑な構造の城ではなかったような気がします。要害の地を選び、頂上を平坦に造成し、あとは適所に小規模な曲輪を配置した。そんなシンプルな山城だったのではないでしょうか。

<冠木門>
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枡形門を名乗っていますが、いわゆる城用語でいう枡形門の構造にはなっていません。

<入口付近>
shirononagori346 (13).JPG
あるいは、昔は枡形だったとか? ここでいう桝形とは、入口を壁などで囲った四角形の区画のこと。この城は、独特の地形を指して桝形と呼んでいたようなので、あまりそこに拘らないほうが良いですかね。

<盛り土>
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門の横の盛り土は?土塁跡でしょうか(違うと思います)

<山頂の碑>
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海抜八十四米と刻まれています。山頂は平坦。東西130m、南北80mとのこと。結構広いですね。桝のように四角い平地となっています。

<展望台>
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エレベーター付きの展望台。ちょっと城を意識したデザインなのでしょうか。

<枡形城址の石碑>
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地形に納得したものの、それらしい遺構は確認できなかったので、こういう石碑があるとホッとします。

城内はだいたいこんな感じです

■つわものどもが夢の跡■
鎌倉幕府の中枢といっていい稲毛重成の居城。戦国初期には、山内上杉氏討伐を目論む北条早雲がこの城に入ったという話があります。また、武田信玄の小田原攻めに際しても利用されたとのこと。これらの話の詳細はわかりませんが、四方が険しく低地に川を望むこの枡形山なら、いつどの時代に陣城として使われても不思議ではないと思えました。

<つわものどもが夢の跡>
sn346ad1.JPG

雨天ながら、気持ちの良い訪問となりました。

------■枡形城■------
別 名:枡形山城
築城主:稲毛重成
築城年:(鎌倉時代初期)
城 主:稲毛重成
廃城年:詳細不明
[神奈川県川崎市多摩区枡形]



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posted by Isuke at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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