2021年11月13日

黒川丸山城のなごり(川崎市)古代東海道沿いの丘

今回訪問の黒川丸山城は、歴史不詳の城です。いつ築かれたのか、誰の城かも分からない。更に、遺構も確認できず。かつてそこに城があったという伝承のみを頼りに足を運んでみました。

<現地到着>
Kurokawa-Low-mountain.JPG
ここは川崎市北部の多摩丘陵。城が築かれたと思われる山は比高だと20m程度と思われます。低層の丘に築かれた山城ということですかね。丘の上には鉄塔が見えます。あそこが頂上でしょうか?

<もみじ広場>
Kurokawa-Guide-plate.JPG
麓は公園として整備されている様子。本当にここで良いのか不安もありましたが、説明板を見つけてちょっとだけ安堵しました。

<現地説明板>
Kurokawa-MaruyamaJo-Explanatory-text.JPG
説明文は長文で、上段には『古代東海道』に関する記述がありました。この付近を古代の東海道が通っていたという興味深い話ですが、下段の『丸山城』に関するところ(画像部分)を紹介させて頂きます。タイトルは『丸山城と烽火台』となっています。ほうかだい?どういうことでしょう。以下に抜粋させて頂きます。
『この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。
また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」「飛平」などの地名も残っています。』

とのこと。最後の地名のフリガナは「とびお」「とびひら」です。

城というより、物見や狼煙台があったと推定されているわけですね。それは相模と武蔵をつなぐ『古代の東海道』とも繋がる話。なるほどです。まぁ何であれ、現地ので来たのですから、とりあえず山へ入ることにしました。

<普通の道>
Road-Maruyama-Jo.JPG
この道を行けば、しかるべき所へ着きそうな気もしましたが、山は低いし、迂回する必要などないだろうと思い…

<突入>
Maruyama-Jo-Mountain-road.JPG
中途半端なところから山へ入りました。誰かが通った痕跡があるのですから、何とかなるであろうと

<鉄塔>
Under-the-tower.JPG
行き止まり。見上げれば鉄塔。まぁ山城探索では時々遭遇する構造物です。それは良いとして、何とかここを通り抜けたいのですが…

<柵>
Do-Not-Enter.JPG
鉄塔の敷地を通過することは叶わないようです。一旦戻ることにしました。

<登山道>
Maruyama-Jo-Standard-Road.JPG
普通の登山道に戻りました。最初からこの道を行くのが賢い人です。

<坂の上>
Maruyama-Jo-the-top.JPG
平な場所が見えてきました

<頂上>
Suwadake.JPG
低層の山の頂上です。何かあります。

<諏訪ヶ岳>
Highest-Peak-Kawasaki.JPG
国土地理院、そして144.3mと記された杭。比高はそれほどでもありませんが、ここが川崎市最高峰とのことです。

<道しるべ>
Yokoyamano-michi.JPG
丸山城に関する表示はありませんが、ここが鎌倉街道から2q以内だということは分かりました。そして、よこやまの道というのが、いわゆる古代東海道ということですね。海沿いの東海道ではなく、相模の国府と武蔵の国府を多摩川や多摩丘陵を越えて繋がる内陸の道。よこやまの道という呼び名は、万葉集で「多摩の横山」と詠まれたことに由来するとのこと。

<よこやまの道>
Kurokawa-Maruyama-1.JPG
この山には古代東海道のための烽火台があった?あるいは、鎌倉街道のすぐ東側なので、この山には街道を見渡すための物見台を兼ねた城があった?いろんな想像が膨らみますが、探しているのは城の痕跡なので、また動き始めました。

<古道>
Maruyama-Castle-Ruins.JPG
またてくてくと歩き始める。そして

<黒川配水場>
Kurokawa-Maruyama-Castle-Ruins.JPG
どうやらここまでか。これ以上は進めない…

丸山城の中核があったと思われる場所は、現在は黒川配水場となっています。門が閉ざされ、当然関係者以外は立ち入り禁止です。仮に入れてもらえても、この様子だと遺構は無いでしょう。そもそも低層の山ですし、この付近のみを整備した単郭式の城だったと思われます。城というより、砦といった方がイメージが近いのかもしれません。

ということで
謎多き川崎市麻生区黒川の城跡のご紹介でした。

--------■ 黒川丸山城 ■--------
別 名:丸山城
(築城者・城主他:詳細不明)
現 況:黒川配水場
[川崎市麻生区黒川]

■参考及び抜粋
・現地説明板
・Wikipedia:2021/11/13



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------ 追 記 -------
城は謎でしたが、すぐ近くでのどかな景色と出会えたので、とても満足な訪問となりました。城とは無関係ですが、画像だけ貼っておきます。

<川崎市黒川地区の農地>
Kawasaki-Kurokawa.JPG
ここが川崎市とは思えません

<黒川池谷戸緑地>
Kurokawa-Ryokuchi.JPG
[川崎市麻生区はるひ野] 3丁目
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2021年11月08日

小沢小太郎の居城 小沢城のなごり 

つわものどもが夢の跡
多摩丘陵に築かれた山城を訪問しました
<小沢城>おざわじょう
Ozawajo-Tatebori.JPG
訪問したのは川崎市多摩区です

■多摩丘陵の山城■
小沢城は多摩丘陵の先端に築かれた山城です。多摩川の支流・三沢川が北側の麓を流れ、比高で50m程度はある天然の要害です。主に三つの峰にまたがる細長い城で、尾根の適所に曲輪を配置した比較的シンプルな縄張りです。現在確認できる遺構がいつの時代ものか全て分かっているわけではないものの、大枠は鎌倉初期に築城された時のものとする説が有力です。築城者については、鎌倉幕府の御家人となる稲毛三郎重成とする説、その息子である小沢小太郎とする説があります。


■小沢小太郎の居城■
稲毛重成は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で、幕府の中枢にいた御家人です。同じく川崎市多摩区の枡形山城も、稲毛重成の築城と推定されていますので、小沢城築城者の有力候補ですね。ただ、異説として、重成の子である小沢小太郎を築城者とする説もあります。

まぁ親子ですし、大筋で稲毛氏がこの地域の支配にあたっていたことは伝わってきます。川崎市教育委員会さんのホームページには『鎌倉時代初頭の小沢城は、小沢小太郎の居城であったようです。』とありますので、ここでは築城者に拘らず、小沢城の初期の城主は小沢小太郎とだけ覚えておくことにします。

<小太郎の城跡>
Ozawa-Kotaro's-Castle.JPG
父が武蔵国稲毛荘を領して稲毛氏を名乗ったように、この地を領して小沢氏を名乗たわけですね。

ところで
稲毛重成について調べると、嫡子は小沢重政とされ、通称は次郎又は小次郎となっています。

小太郎じゃないの?

私はこれを「同一人物であろう」と漠然と思っていましたが、今回ブログにまとめるにあたりもう一度考え直すと、別人である可能性も疑えなくなり、更に調べても明確な証拠にもたどりつかず戸惑っています。

長男と次男か?

血気盛んな稲毛重成は、長男に所領支配を任せ、次男には自分と行動を共にさせて更なる勢力拡大を目論んでいた?そう言い切れませんが、それもあり得ると感じています(素人のブログですのでこの程度の曖昧さでお許し下さい)。『小沢重政』の史実ははっきりしています。「重」の字は秩父氏一門の通字。この秩父一族の血を引く御家人たちは、源頼朝亡き後、北条時政によって次々に滅ぼされ、小沢重政も父親と同時期に鎌倉で殺害されています。これが小太郎の最後なのか、あるいは弟の最後なのかわかりません。ただ仮に小太郎が無事でも、この状況だと小沢城の城主であり続けることは難しかったのではないでしょうか。

ただ、稲毛重成・小沢重政の死後、所領は縁者に安堵されたという記録があるそうです。稲毛重成の妻、そして重政の母は、北条時政の娘であり政子の妹です。哀れんだ政子の働きかけだったようです。所領は小沢左近将監なる人物が支配したと吾妻鏡に記載があるようですが、小沢小太郎との関係ははっきりしません。そして、小沢城がどのような役割を果たしていたのかも不明です。

<山城>
Twitter-Isuke.jpeg
竹林の斜面を下った先も城の一部です


■その後の小沢城■
かなり時を経た1350年(南北朝時代)、足利尊氏と弟の直義の対立に起因する室町幕府内の抗争のなかで、小沢城が焼失した記録があるようです。それから更に後の戦国時代、あの北条氏康が小沢城に陣を敷き、侵攻してきた上杉朝興の軍を迎え討ったとされています。結果は北条軍の勝利(小沢原の戦い)。当時16歳の氏康の初陣でした。 その後の詳細は不明ですが、小沢城は誰かの拠点となることもなく、廃城となったと思われます。

<富士講のなごり>
Fujiko-Stone-Monument.JPG
富士登山三十三度大願成就記念碑。城としての役割を終えた山は、江戸時代に富士講の舞台となったようです。人の出入りは続いていたわけですね。


■小沢城のなごり■
<案内板>
Ozawajo-map.JPG
主な侵入口は2ケ所で、画像下の『▲仙谷入口』から入山する方が多いようですが、私は周辺の低地を散策してきた都合で画像左の『天神坂入口』から山を登りました。

<天神山>
Ozawa-Tenjiyamajo.JPG
表示にある穴澤天神社は城の北側、山の中腹に鎮座する古い神社です。小沢城が築かれた山は通称で天神山と呼ばれています。小沢城の別名は天神山城です。

<山道>
Onemichi-Ozawajo.JPG
Yamamichi-Ozawajo.JPG
道は本当にあってるのか若干不安に思う山道

そして
やっとそれらしい場所に

<城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg

<遺構の説明板>
Ozawajo-Karabori-Monomidai.JPG
物見台と空堀に関する説明板

<物見台>
Ozawajo-Monomidai.JPG

<空堀>
Ozawajo-Karabori.JPG

<曲輪>
Kawasaki-Ozawajo-nagori.JPG

<竪堀>
Ozawa-castle.JPG
ちょっと画像では分かりにくいですが、下から見上げた斜面です。冒頭の画像は上から見下ろした斜面です。

<堀切>
ozawajo-horikiri.JPG

<尾根道>
Ozawa-jo.JPG

<道しるべ>
Ozawajo-Signpost.JPG
曲輪や堀の配置はシンプルですが、谷に面した細長い城内に複数の峰があるので、地形は複雑に感じました。


戦国時代にも城としての役割を担った実績はありますが、凝った技法で修復されたような跡はなく、築城当時の縄張りがほぼそのまま残っていると考えられています。そういう意味では、山に刻まれたこの形は、そのまま小沢郷を領した小沢小太郎のなごりなのかもしれませんね。

<つわものどもが夢の跡>
ozawa-jo-main.JPG

--------■ 小沢城 ■--------
別 名:小沢天神山城
築城主:稲毛重成
    (又は小沢小太郎)
築城年:平安末期〜鎌倉初期
城 主:小沢小太郎・北条氏康
廃城年:不明
[川崎市多摩区菅仙谷]

■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/11/8
・川崎市教育委員会ホームページ
文化財さんぽ→多摩区→小沢城跡

https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000108.html


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2021年11月05日

北条氏康初陣の軌跡(川崎市)小沢原の戦い

関東から山内・扇谷両上杉氏を追い払い、やがては武田信玄・上杉謙信といった戦国屈指の武将と対等にわたりあった北条氏康。その初陣となった古戦場跡を訪ねてみました。場所は神奈川県川崎市の北部になります。

<小沢城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg
まだ若武者だった氏康が拠点とした山城です

■小沢原の戦い■おざわはら
この戦は小田原北条氏と扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月)。北条早雲の意思を継いで関東進出を果たした第2代当主北条氏綱により、扇谷上杉氏は既に江戸城や岩槻城を奪われている状態でした。当主の上杉朝興は状況打破のために兵を率いて南下。これを迎え撃つべく、氏綱より出陣を命じられた若き氏康が小沢城に布陣しました。

<小沢城>
Ozawa-jo.JPG
Ozawa-castle.JPG
小沢城は鎌倉時代初頭には既に存在していた古い城です。天然の要害を利用した山城ですが、縄張りは比較的シンプルです。


■小沢城に籠った北条軍■
両軍の最初の激突は小沢城の麓とされています。麓?といっても、正確な場所は分かっていません。北条軍は初戦で敗退し、一旦小沢城に立て籠もりました。

北条氏康といえば、大軍を奇襲で破った河越夜戦などの戦歴から、勇猛果敢な武将というイメージですよね。成長した氏康は実際にそうだったかもしれませんが、もともとはかなり慎重なタイプだったようで、幼少期に至っては臆病で気弱な性格だったそうです。

氏康の初陣となった小沢原の戦いには、小田原北条氏家臣の清水吉政が同行しています。吉政(通称・小太郎)は、当主の嫡男である氏康を少時代から補佐し、教育係のようなこともしてきた人物。気弱だった氏康に、数々の褒め言葉で自信を持たせたことで知られています。今ふうに言えば、コーチングによって自己肯定できる力を身につけさせたわけですね。敵に押し込まれたこの状況で、16歳の氏康にどんな言葉をかけたのでしょうか?

この戦にはいろんな説があり、北条軍は負けたのではなく、城に逃げ戻ったように見せかけたのだというお話もあります。城に相手の注意を引き付け、別動隊で襲撃する策だったとする説です。ちょっと出来すぎのような気もしますが、この戦の結末を見る限り、これはこれで説得力があります。

事実がどうだったのかはか分かりません


■夜営する上杉軍■
北条軍が小沢城に籠ったところで、上杉軍は南西(現在の新百合ヶ丘駅方面)へ兵を移し、陣営を設けて夜を過ごすことになりました。正確な場所は分かっていませんが、川崎市麻生区の金程1丁目付近と推定されています。

<麻生川>あさおがわ
Jingawa.JPG
麻生区金程で撮影いた麻生川です。戦にちなんで陣川と呼ばれています。

なぜこの地が野営場として利用されたかは分かりません。現地を歩いた感じでは、交戦中の敵の城とある程度の距離は保ちたいとしても、ちょっと遠すぎるような気もしました。

陣内はどんな雰囲気だったのでしょうか。戦勝に興奮した状態?あるいは、戦に加えて野営の準備にも手間はかかりますので、疲れ果てて静まり返っていたのでしょうか?

いずれにせよ
上杉軍の危機はすぐそこに迫っていました。

■谷戸に隠れて夜襲■
<上麻生隠れ谷公園>かくれやと
Kakure-Yato-Kawasaki.JPG
氏康が兵を隠した谷とされている場所です。

<上麻生隠れ谷公園石碑>
Kakure-Yato-Stone-Monument.JPG
石碑の奥は浸食によって形成された谷戸になっています。

北条軍は小沢城に籠城するのではなく、野営に対して奇襲を仕掛けました。負けで始まった戦いですが、その後の判断は前向きで、行動は機敏です。決して臆病者では真似できない戦いぶりです。氏康配下には、地形を良く知る地元武士も含まれています。夜の移動を苦としない条件が整っていたわけですね。あるいは、もともとそのつもりだったのでしょうか。

上杉軍は総崩れとなって敗走しました。

■つわものどもが夢の跡■
<勝坂>かちざか
Kachizaka-Kawasaki.JPG
こちらは氏康が「勝った!勝った!」と叫びながら駆け上ったと伝わる坂道です。当主であり父である北条氏綱の命で出陣した戦で大勝利。格別の思いが込み上げた瞬間だったのでしょう。この戦いが1530年、父の隠居により3代目当主となるのが1538年です。氏康の戦いはまだまだ続くわけですね。



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2021年10月25日

北条氏康ゆかりの谷(川崎市)上麻生隠れ谷公園

初陣を勝利で飾った北条氏康ゆかりの谷を訪問しました。谷といっても大自然に囲まれた山奥ではなく、地形のみが当時を偲ばせる川崎市の住宅地です。

<上麻生隠れ谷公園>かみあさおかくれやと
Kakure-Yato-Kawasaki.JPG

■新百合ヶ丘駅近く■
今回の目的地である『上麻生隠れ谷公園』は、新百合ヶ丘駅から徒歩圏です。かなり近いです。直線距離では・・・

<小学校裏門>
Elementary-school-hill.JPG
あら

現地への直進を小学校に阻まれました。しかも、学校そのものが丘になっています。

<現地撮影地図>
Kakure-Yato-Map.JPG
抜け道は無く、迂回して行くしかないようですね。まぁ『谷』を目指しているのですから、山もあるでしょう。この地図に従い、小学校の周りを半周する感じで坂を登りました。

<現地到着>
Kakureyato-Kawasakishi.JPG
ここですね。右手は小学校の正門、左側が上麻生隠れ谷公園です。

■奇襲で勝利■
北条氏康といえば、自軍の10倍近い8万の連合軍に奇襲で勝利した河越夜戦が有名ですね。これは1546年、氏康が32歳の時でした。今回の訪問地で氏康が戦ったのは1530年、16歳の時の初陣です。父であり当主である北条氏綱より出陣を命じられ、関東での勢力回復を目論む上杉朝興と戦いました。

北条氏康は初戦こそ敗退するものの、拠点としていた小沢城に立て籠ったのち、軍勢を密かに動かして夜営している上杉軍に襲い掛かりました。結果は大勝利。この時に兵を隠した谷が、現在の『上麻生隠れ谷公園』と言われています。

<石碑>
Kakure-Yato-Stone-Monument.JPG
立派な石碑です。気になる地形ですが、なるほど、既に丘陵地帯に足を踏み入れていますが、ここだけ窪地になっています。北条軍には地形を良く知る地元武士も含まれていますので、最適な場所を選んで身を隠し、その時を待ったわけですね。考え過ぎかもしれませんが、平地の川沿いに陣を敷いた上杉軍が万が一気付いたとしても、ここまで来るには丘陵地の斜面を登らなくてはなりません。高所に位置しているのはあくまで北条軍。一戦交えるにしても、交戦しながら退却するにしても有利といえます。

<公園>
Kakure-Yato-Koen.JPG
住宅地のオアシスのような公園です。地元の方の迷惑にならないよう撮影はしませんが、遊具も沢山ありました。

<谷戸>
Kakureyato-rark.JPG
谷は公園の先の方まで続いています。公園の名も「タニ」ではなく「ヤト」となっていますので、水の流れが長年かけて丘陵地に刻んだ谷間なのでしょう。水の行き先は低地を流れる麻生川です。


<つわものどもが夢の跡>
Kakure-Yato-Park.JPG
北条氏康配下の兵たちは、どんな思いでこの地に身を隠していたのでしょうね。

■訪問:上麻生隠れ谷公園
[川崎市麻生区上麻生]3丁目

------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg
[川崎市多摩区菅仙谷]


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2021年10月24日

陣川と呼ばれた古戦場の川(川崎市)

<麻生川>あさおがわ
Asogawa.JPG
こちらは川崎市麻生区を流れる麻生川です。

<金程橋>かなほどばし
Jingawa-Asogawa- (3).JPG
麻生川に架かるこの橋の名が、そのままこの場所の地名です。

戦国時代、この地で戦がありました。小田原城を本拠とする北条氏と、川越城を本拠とする扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月:小沢原の戦い)。北条氏康が籠る小沢城を攻めるべく、上杉朝興がこの付近に陣を敷きました。既に江戸城や岩付城を奪われてしまっている扇谷上杉氏からすれば、敵の当主(氏綱)の嫡男を討つ絶好のチャンスです。

小沢城は多摩丘陵地帯に築かれた山城です。その麓で繰り広げられた初戦では上杉朝興が勝利し、北条軍は城に撤退します。ただ、この勝ちで上杉軍は油断したのでしょうか?夜営したところを北条軍に襲われ、上杉の陣は総崩れとなりました。


<自然の川>
Jingawa-Ozawaharanotatakai.JPG
今でこそ水路のようですが、周辺の水を集めながら鶴見川に合流する自然の川です。流路はともかく、昔からこの付近の低地を流れていました。夜営する上杉軍は、この川が堀の代わりとなるように陣を敷いたのかもしれませんね。これが陣川と呼ばれるゆえんなのでしょう(調べましたが確かな証拠はみつけられませんでした)。

金程付近に陣を敷いたと伝わるだけで、具体にはどこなのか?あまりはっきりしていません。1丁目付近とする説が有力なようなので、私はその周辺(先ほどの金程橋付近)を古戦場跡と受けとめることにしました。

<下平尾児童公園>
Ozawaharanotatakai-Kawasaki.JPG
金程1丁目付近で目についたのが、こちらの公園でした。県境のため東京都(稲城市平尾二丁目)になります。前提がはっきりしていないところに仮説を立てて恐縮ですが、夜営のために陣を敷くとしたら、やはり周辺より高くなっている場所を選ぶのではないでしょうか。絶対にこことは思いませんが、上杉軍は川沿いのこんな場所に陣取ったのだろうと勝手な想像を膨らませながら探索を続けました。

北条軍の夜襲により上杉軍は敗走となりますが、武蔵国をめぐる戦いはその後も続きます。上杉朝興はここでの戦いで敗れた僅か3ケ月後に、岩付城を奪回しています。戦、戦の繰り返しだったわけですね。

ということで
そんな時代があったことをしのばせる川のご紹介でした。

<陣川>じんかわ
Jingawa.JPG
当たり前の景色ですが、戦国時代の合戦と関係のあった川です。

■訪問:麻生川
[川崎市麻生区金程]

------- 関連画像 -------
<小沢城址碑>
Stone-Monument-Ozawa-Castle.jpg
[川崎市多摩区菅仙谷]


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2021年09月18日

暗渠となった堀のなごり(法音寺城跡) 暗渠と城跡28 

本来そこにあったものの余韻が漂う。人がそれを感じ取るアンテナはたくさんあるかと思いますが、今回は舗装された道路の表面に感じる城のなごりの話です。訪ねたのは栃木県野木町の法音寺城跡です。

まずは一目瞭然の城のなごりから
<土塁>
Earthworks.JPG
土塁跡です。手前側が城内で、土塁の向こう側、つまり外側には堀が設けられていました。
<土塁の向こう側>
Earthworks-Moat.JPG
ちょっと分かりにくいですが堀跡です。

つづきまして

<法音寺境内の堀跡>
Bamboo-forest.JPG
こちらは法音寺の境内(裏手)の竹林に残る堀跡です。

<堀跡>
Bamboo-Forest.JPG
盛り土したような僅かな起伏と共に堀跡が確認できます。

前回の法音寺城跡に関する投稿で、冒頭の土塁と堀について「いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます」とコメントさせて頂きました。現地で位置関係を確認しただけで充分そう思えましたが、『間違いない』という心境に至った目印をご紹介します。

<道路の舗装>
Ankyo&Castle.JPG
こちらです。ここだけ舗装が違いますね。道路全体とは異なる工事が施された証です。もう少し具体的に言うと、道を横切って水が通り抜けられるよう地下に水の路を設けた証ということになります。いわゆる『暗渠』ですね。

暗渠?

この見慣れない「あんきょ」と読みます。地下に埋設された水路とか川という意味に受け取って下さい。

城の堀がそのまま水路に転用される例はよくある話です。まぁ水路とまでいかないまでも、雨水が溜まらないように、低い所へ水が流れるよう人の手によって微妙な高低差がつけられていることはよくあります。ここも普段は水がありませんが、そんな役割を果たしているのでしょう。

道を通すからといって遮ってしまっては、水は溜まる一方。場合によっては溢れ出してしまいますね。これを避けるために、地表では途切れたかに見える堀と堀の間を、人知れず地下で繋いでいるわけですね。

何気ない道路の舗装工事にも、そんな事情が隠されている。何でそうしたかに気づくと、その場所ならではの固有の事情を知る手掛かりになります。素人の城跡巡りは、難しいことは考えず、感じたまま景色を受け入れるのが一番と思っています。ただ、暗渠というアンテナをちょっと加えるだけで、一味違った気付きになったりします。

ということで
暗渠に気付き、堀跡と堀跡がいまでも繋がっていることを実感したというお話でした。マニアックなお話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

<現地>
Ankyo&Castle-Nogi.JPG
さすがに土塁は繋げておけませんね

■訪問:法音寺城跡
[栃木県野木町友沼]
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2021年09月15日

法音寺城のなごり(野木町)

つわものどもが夢の跡
栃木県野木町の城跡を訪問しました。

<土塁>
Houonjijo-Earthworks.JPG
正体不明の土塁が残されています

■法音寺城■ ほうおんじじょう
今回訪問の『法音寺城』は、築城年や築城者といった情報がほとんどありません。地理的な条件からして、同県小山市を拠点としていた豪族・小山氏配下の城ではないかとも言われています。それを前提に推定すると、小山氏の滅亡あるいは居城の廃城と同時期に城としての役割を終えたのかもしれません。

<法音寺>
Houonji-Temple.JPG
当日はこちらのお寺を目印に訪問しました。山門の左右には仁王像。立派です。

<中門>
Houonji-Temple-gate.JPG
こちらは本堂の手前の門。

<本堂>
Houonji-Main.JPG
真言宗豊山派の寺院です


さて
かつてあったとされる城は『法音寺城』と呼ばれているものの、お寺の境内そのものは城跡ではないと言われています。

<裏手>
Houonji-Back-Side.JPG
城跡はお寺の北側です。あの竹林より先に遺構が確認できます。

<竹林の堀跡>
Houonji-Castle-moat.JPG
ちょっと画像では確認しにくいですが、竹林に堀跡があります。あの堀より先が城跡と考えて良いようです。

<城跡>
Houonji-Castle-Main.JPG
竹林を通り越して北側から撮影。これが城の中心部分です。途切れ途切れながら、ここを取り囲むように盛り土したような跡が確認できます。比較域小規模な単郭式の縄張りだったようです。


<土塁>
Earthworks.JPG
こちらは法音寺城境内のお隣の敷地です。土塁ですね。高さは2m強。向こう側は堀となっており、いまは道で遮断されていますが、境内の堀と繋がっていたと思われます。

<堀と土塁>
Earthworks-Moat.JPG
昔は土塁はもっと高く、堀は深かったのでしょう。

ちなみに
今回探索したエリアの更に北側は川。利根川水系の思川(おもいがわ)です。小山氏の居城も思川沿いに築かれていました。川は堀の役割も果たしますが、ここでは舟で本城と支城を結ぶ役割も担っていたのかもしれません。あくまで想像です。


ということで
法音寺城跡のご紹介でした。築城者もはっきりとは分っていませんが、遺構は確認できます。誰かが込めた思いが、余韻となって漂う場所です。

<つわものどもが夢の跡>
Bamboo-forest.JPG
城のなごりです

--------■ 法音寺城 ■--------
築城主:不明(小山氏か?)
築城年:不明
城 主:不明
廃城年:不明
[栃木県野木町友沼] 962



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2021年09月11日

将軍の休憩所(小山御殿)日光街道小山宿

今回は日光街道沿いに設けられた将軍専用の休憩所跡の話です。ただの休憩所ではありません。敷地には堀や土塁を廻らされ、ちょっとした城のような造りだったようです。

<小山御殿跡>おやまごてん
Oyamagoten-Guide-Plate.JPG
現在は広場として整備され、小山御殿に関する説明板が設置されています。


■日光街道小山宿■おやましゅく
日光街道の小山宿は、日本橋から数えて12番目の宿場です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が74軒あったとのこと(出典元ːwikipedia)

日光街道と周辺の主要な街道が交わる小山は、古くから交通の要所であり、宿場も比較的規模の大きな規模した。宿場の本陣とは、大名や幕府の役人など身分が高い人が利用する幕府公認の旅のことですね。これとは別に、宿内には将軍専用の休憩所が設けられていました。これが今回訪問の小山御殿です。


■縁起の良い場所■
小山御殿は二代将軍の徳川秀忠が、1622年に日光社参を行った際に設けられたとされています。小山と言えば、上杉征伐のために会津へ向かう家康が、石田三成挙兵の報告を受け、諸将を集めて軍議(いわゆる小山評定ですね)を開いた場所です。その後の関ヶ原の戦いの結果は言うまでもありません。その起点となった小山評定を吉例として、この地に休憩所が設けられました。

<現地説明板>
Oyamagoten-Guide.JPG
左側は地元の豪族・小山氏とその居城の説明。右側が小山御殿の説明になります。『小山評定の吉例にならったもの』と記されています。小山は徳川家にとって縁起の良い場所ということですね。周囲に堀を設け、土塁も二重土塁にするなど、そうとう厳重な警備体制だったようです。

<復元図>
Picture-Oyamagoten.JPG
左の土塁の向こう側の小屋は見張り用でしょうか。説明板によれば『16ケ所に御番所が設けられて』いたようですので、その一つですかね。

<土塁>
Oyamagoten-Oyama.JPG
遺構?と言ってよいか分かりませんが、かつて土塁に囲まれていたことを意識して整備した広場です

<説明板>
Explanatory-text-Garden.JPG
別の説明板です。こちらには発掘調査の結果なども記されています。

<航空写真>
Sketch-Oyamagoten.JPG
調査で解った建物の配置をもとに、屋敷跡がコンクリート舗装されているわけですね。なるほど。ではそういう目で見てみますかね。

屋敷の一番奥へ移動

<将軍用の部屋の跡>
Corner-of-Oyamagoten.JPG
ここに将軍用の部屋があったようです。

<プレート>
Oyamagoten-Explanatory-Text.JPG
畳90畳敷きの建物で、風呂とトイレも併設され、屋根は杮葺きであったようです。

なるほど
建物はありませんが、広さは実感できましたので、あとは勝手に想像させて頂きました。


ここ小山には、古くから城があり、江戸時代初期には家康の重臣である本多正純の居城となっていました。しかし本多正純が宇都宮城へ移ることになり、1619年に廃城。小山御殿が築かれたのはその約3年後です。城が健在であれば、将軍は城に立ち寄ったのかもしれませんね。

<将軍の休憩所>
Shogun's-rest-Area.JPG
将軍家の日光社参は、幕府の財政難により1663年以降しばらく途切れることになります。1682年、出番のない小山御殿は管轄している古河藩により解体されました。

■訪問:小山御殿跡
1622年〜1682年
(現況:小山御殿広場)
[栃木県小山市中央町]1-3

■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/9/11
・現地説明板



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タグ:日光街道
posted by Isuke at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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