2020年05月16日

明智家ゆかりの地 沼田城

<沼田城址>
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沼田城といえば、まず真田家を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?沼田藩は真田昌幸の長男・信之から始まり、5代続きました。で、そのあとですが、天領を経て本多家が3代、黒田家が2代、そして12代続いた土岐家で明治維新となります。

土岐家は12代!
凄いですね。約130年だそうです。

この土岐家ですが、祖は土岐明智家の出です。武功を重ねて認められ、のちに土岐家の家名再興のため名を改めました。つまり、沼田には明智の流れが受け継がれていたことになりますね。

もう少し具体的に言います。まず、明智光秀で有名な明智氏は、清和源氏土岐氏の支流です。沼田藩土岐家の祖となる土岐定政は、父親が明智定明、母親は菅沼家の菅沼定広の娘でした。詳細はわかりませんが、定政は明智光秀のいとこにあたるという説もあります。父が戦で亡くなると、定政は母方の菅沼家に身を寄せ菅沼姓を名乗ります。やがて徳川家康の家臣となって活躍し、1万石の大名となり、土岐を名乗りました。

土岐家から枝分かれした明智家の出が、また土岐家を名乗った。そういうことですね。

ということで
真田ゆかりの沼田は、ちょっとだけ明智ゆかりの地でもあるというお話でした。名門『土岐氏のゆかり』と言ってしまえば済むものの、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせてあえて土岐明智ゆかりの地とご紹介させて頂きました。拙ブログ、最後までお読み頂きありがとうございます。沼田城訪問の記録は別途投稿していますので、よかったらのぞいてみて下さい。

記事:河岸段丘の地の利 沼田城
→『記事へすすむ

訪問:沼田城址
[群馬県沼田市西倉内町]

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本丸・二の丸が公園として整備されています


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2020年04月28日

上州のおんな城主・妙印尼輝子(新田金山城)

つわものどもが夢の跡
今回は名城を舞台に活躍したおんな城主の話です
<新田金山城>にったかなやまじょう
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こちらは群馬県太田市の金山城。関東七名城のひとつに数えられる山城です。

■妙印尼輝子■みょういんにてるこ
この方は金山城を拠点とする由良家当主・成繁の正室です。由良家に嫁ぎ、のちに当主となる由良国繁、足利長尾氏の家督を継ぐことになる顕長らを生み、夫の死後に出家して妙印尼を名乗りました。諸説ありますが、妙印尼は館林城主の赤井氏の出と推定されています。そうすると、元の名は赤井輝子ということになりますかね。

<物見台>ものみだい
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外敵を見張るために設ける土台

妙印尼の嫁ぎ先である由良家は、もともとは金山城を築いた岩松家の家臣という立場でした。詳細は省略しますが、下克上により金山城城主となります。戦国の世に突入すると、関東の多くの武将がそうであるように、上杉・武田・北条の巨大勢力に翻弄され続けます。しかし、由良家は堅城・金山城を拠点に巧みに生き残り、着実に地元での勢力を拡大。やがては現在の群馬県東部の覇者にまで昇りつめます。

■関東覇者との対立■
戦国時代も末期をむかえると、それまで有力武将がしのぎを削ってきた関東は、ほぼ小田原の北条家が支配するところとなっていました。第5代当主となった北条氏直は、常陸の佐竹を攻めることを口実に、金山城の借用という無理難題を由良家に突き付けます。この時、当主の由良国繁と弟の長尾顕長、つまり妙印尼の息子二人は、氏直の要請で小田原城に赴いたまま実質幽閉されてしまいます。これでは、もはや打つ手がありませんね。

由良家の家臣団は、北条家に対し当主らの変換を求めます。これに対し、北条側は北条氏邦・氏照が兵を率いて城主不在の金山城を攻撃することとなりました。

北条家屈指のつわものが率いる軍勢です。状況からして、由良家はもう万事休すという感じですね。

<堀切>ほりきり
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山の斜面を削って設ける堀

しかし
当主の母である妙印尼は、残った家臣たちを指揮して籠城戦にもちこみます。リーダー不在で強敵を前にした者たちを束ねるには、それ相応の統率力が必要です。妙印尼はこれをやってのけ、更には北条家と対立する常陸の佐竹義重(18代当主)と連携し、関東の覇者に立ち向かいました実質的な城主ですね。

妙印尼輝子
この時すでに71歳です

凄いとしか言いようがありません。戦国時代屈指のおんな城主ではありませんか。

交渉の結果、同年和議が成立。由良家は当主の解放と引き換えに堅城・金山城を北条側に明け渡し、桐生城に移ることとなりました。まぁ最後は開城したわけですが、滅ぼされず和議まで持ち込んだだけでも大仕事と言えるのではないでしょうか。

<大手虎口>おおて・こぐち
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大手は城の正面・虎口は入り口の意味

■秀吉の北条征伐■
1590年、豊臣秀吉が大軍を率いて北条征伐に乗り出します。この時、妙印尼の息子二人(由良国繁・長尾顕長)は北条方として小田原城に籠城しました。妙印尼は息子に代わって桐生城を守っていましたが、前田利家を通じて降伏そして孫である由良貞繁(当主の息子)を大将として、北条配下の 松井田城を攻めるいわゆる北国軍(前田利家や上杉景勝らの連合軍)に参陣します。つまり豊臣軍の一員として戦ったわけですね。これが秀吉に認められ、小田原征伐の戦後処理において、常陸牛久に5400石を与えられています。

当主が北条に味方していながら
由良家の存続に成功

当主の母として、元当主の妻として、大役を果たしたわけですね。ちなみに、この時既に76歳でした。妙印尼は移住先の牛久にて81歳で没します。当時の81歳ですから大往生ですね。

■つわものどもが夢の跡■
<城内の大ケヤキ>
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推定樹齢が800 年の大木

北条軍を相手に金山城で籠城戦を指揮した妙印尼輝子。同じ時代に、石田三成が率いる軍勢による水攻めに耐えた忍城のなかに、妙印尼輝子の孫娘がいました。『のぼうの城』でも大きく取り上げられた甲斐姫です。母が妙印尼の娘、父は忍城城主の成田氏長です。のちに秀吉の側室となる甲斐姫は、美貌だけでなく、武芸にも秀でていたそうです。

上州の女は強いですね

そう言い切ってしまうと怒られそうですが、私の妻も群馬の女ですのでお許し下さい。

<金山の遠景>
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関東平野を見下ろせる群馬の山

■画像:金山城
[群馬県太田市金山町]

金山城のご紹介は↓こちらになります
→『記事へ進む


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2020年04月19日

山城山頂に残る神秘の溜池 金山城 日ノ池

関東七名城のひとつに数えられる群馬県太田市の金山城。下剋上を成し得た由良氏の居城、上杉謙信でも落とせなかったといわれる戦歴、そして調査を基に復元された現在の姿。どれをとっても訪問する価値のある城と思っています。そんな金山城において、ちょっと異彩を放っているのが今回ご紹介の『日ノ池』です。

<日ノ池>
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こちらです。大きさは直径16mくらい。結構大きいです。深さは約2mから2.5m程度。金山城の溜池と受け止めて間違いないとは思いますが、見た瞬間に違和感というか、不思議に思いました。

土に浸み込んだ雨水が、山の中腹や麓で湧水となるのはよく分かります。そして、それらを利用して溜池が設けられる。城を訪問するよく見かける光景です。しかしこの『日ノ池』は山の頂上付近です。標高にして約240m、麓からでも150m以上はあります。構造として不思議な上に、枯れることがないとまで言われています。冒頭でご紹介の通り、軍神と呼ばれた男でも落とせなかった城。地形や縄張りに加えて、水の確保が完璧であったことも城兵を有利に導いていたのでしょうね。

実際に水は湧き出ているのかもしれませんが、素人がザッと見た感じでも、頂上付近の地形及び張り巡らされた排水路に、水が枯れない理由があるような印象でした。

<復元された城内の排水路>
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<日ノ池の位置>
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頂上付近とはいえ日ノ池は周辺よりは低い場所になっています。もともと岩の多い山ですが、その表面に更に石を敷くことで水は地面に浸み込まないまま低い場所へ集まる。そういう構造なのかもしれません。


それにしても
石で象られた円形の池はまるで西洋の神殿のようです。
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独特の美しい形が、なんとも神秘的です。実はこの池は、何らかの信仰の場だったのではないかとも考えられています。

発掘調査の結果、城が築かれるより前の時代の土馬(どば)が出土しているそうです。土馬とは馬の形をした土製の人形ですね。こういったことから、池そのものは築城とは関係なく既にここに設けられていて、何らかの信仰の場だったのではないかという説があります。土馬は川跡などからよく出土され、雨乞いなどの祭事で本物の馬の代わりに使われたれするので、日ノ池もそういった祭事の場だったのではないかと推定されています。

また、金山城が築かれ、城に内包される構図になってからも、神聖な場所であることに変わりはなく、例えば武将たちが戦を前に神社で戦勝祈願をするように、ここで武運を祈願するようなことが行われていたのではないかとも考えられているようです。

特別な場所

まずは籠城の時に機能する溜池としてご紹介しましたが、もっともっと人らしい意味で特別な場所だったのかもしれませんね。


そして城内にはもう一つ
月ノ池』と呼ばれる池があります.
<月ノ池>
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こちらは直径約7mの溜池。日ノ池よりサイズは小さくなりますが、こちらもしっかりと石に囲まれた円形で、独特の雰囲気を醸し出しています。なんとも神秘的な溜池です。画像の奥は大手虎口。城の縄張りでは、大切な水場は目立たないところに設けられ例が多いですが、ここ金山城では堂々と入口付近で異彩を放っています。

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向こう側に谷状の地形が見えますね。もともとの地形ではなく、二つの曲輪を遮断するために設けられた堀切です。そこから池の方向に向かって、いかにも水が集まってきそうな感じがします。日ノ池同様、水は湧き出るだけではなく、周辺の雨水が集まりやすいような構造になっています。


ということで
城内の溜池のご紹介でした。金山城は堅城と称される山城であるとともに、神秘的な雰囲気を醸し出す不思議な城でもありますね。

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■訪問:金山城
[群馬県太田市金山町]

金山城の本編はこちらです。良かったら覗いてみて下さい。
→『金山城のなごり


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2020年04月18日

兵は詭道なり 城の構造に込められた思惑 (金山城 馬場下通路)  

城跡巡りをしていると、そこに施された仕掛けにハッとする瞬間があります。そんな中から、今回は群馬県太田市の金山城訪問で目にした通路をご紹介します。

<馬場下通路>
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この光景、自分が攻め手だと思って眺めて下さい。攻めにくいように道幅は狭くなっており、石垣の陰には城兵が潜んでいそうな予感がしますよね。でも何とか突破すれば、城の奥へと進める予感もします。

すべては攻め手の予感。実際には障害物に邪魔され、更に通路が曲がっているので、この位置からでは奥が見通せません。では奥に進んでみますかね。

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死角になって見えなかった奥です。通路の左手には堀に架けられた木橋、右手は道なりに進めるように導線が二手に分かれます。どちらを選べば城の奥まで攻め込めるのでしょう?

実は、木橋を渡っても、あちらこちらから攻められやすい造りになっているだけで、それらをかい潜っても行き止まりとなっています。では右側へ進めば良いのか?こちらは竪堀に繋がっていて、上部からただただ城兵の洗礼をあびながら下方向へ進めるだけです。つまり、本丸へ繋がるルートにはなっていないのです。

要するに
攻め手からみればいかにも何かありそうで、実は突破してもなんの成果も得られない道なのです。

兵は詭道なり
(へいはきどうなり)

兵法によれば、戦は所詮は騙し合い。謀り事が多い方が有利という非情の世界です。この通路ひとつとっても、そんな思惑を感じずにはいられません。

<説明板>
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厳密にいえば、細い登り口があることはあるのですが、とても城兵に邪魔されながら上がっていける状態ではありません。ここ金山城の場合、こういったことが詳しく説明板に記されています。とても分かりやすいですね。ここに限らず、城跡には如何に守りを有利にするかという思いが込められています。土塁でも堀でも、ちゃんと狙いがあって設けられているわけですね。

金山城は復元により、そういった思惑が見た目にも分かりやすくなっています。ただ、長年風雪にさらされて遺構が分かりにくい城跡でも、構造さえ分かればやはり人の思いは伝わってきます。

どんな思いだったのか

これを感じるのも城跡巡りの面白さのひとつです。今回は、そんなことが共有できれば幸いです。

ということで
金山城の追記として投稿させて頂きました。本編はこちらです。良かったら覗いてみて下さい。
→『金山城のなごり

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■訪問:金山城
[群馬県太田市金山町]


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難航不落 金山城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は関東七名城のひとつに数えられる山城です。

<金山城>かなやまじょう
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復元された大手虎口

■山 城■
群馬県太田市の金山城は、標高239mの山全体を利用した山城。独立峰に築かれているので厳密には平山城となりますが、当ブログでは山城で通します。自然の地形を巧みに利用し山頂を城の中心部として四方に延びる尾根上に曲輪を配置する連郭式山城です。斜面の要所要所には堀切や土塁が設けられ、戦国時代の城としては関東屈指の名城といえます。関東七名城のひとつ、そして日本100名城にも選定されています。
<物見台>
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■石 垣■
戦国期の関東の山城で、石垣や石敷が多用されているのは大変珍しいケースです。
<石垣・石敷>
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現在の金山城の復元については賛否ありますが、発掘調査の裏付けがあってのことなので、私個人は好意的に見ています。というより、この城で山城の魅力に取りつかれたといっても過言ではないので、むしろ感謝しています。資料館『金山城跡ガイダンス施設』の係の人に、金山城の仕組みを模型を使って説明してもらったことで、山城の構造に興味を持つようになりました。ですから、金山城は私にとっていわば教科書のような存在なのです。

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頂いたパンフレットです。資料館ではパネルなどを使って歴史についても丁寧な紹介がなされています。

■広い敷地■
金山城は絶妙の地形に加えて、広さにおいても山城としては大きな部類と言えます。

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独立丘陵に築かれています。山頂付近に設けられた実城(みじょう)を中心に、北城西城、そして南側に八王子山ノ砦などが配置されています。冒頭で縄張りを連郭式とご紹介しましたが、複数の砦がエリアごとに設けられていたという印象です。これらの他に、金山の麓には屋敷なども設けられていたと考えられており、中世の城としてはかなり凝った縄張りだったようです。つまり攻めるに難儀な城といえます。

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■新田の流れを汲む城■
城の始まりについては、あの新田義貞が砦を築いた時とする説もあります。ただ、調査による裏付けがなされていないことから、築城者は新田氏の子孫にあたる岩松家純とするのが一般的です。岩松氏の家系は足利氏の支流にあたりますが、諸事情から母方の家系である新田一族であることを自称しました。身内の同士の対立や分裂ののち、家純が長らく遠ざけられていた本領・新田荘への復帰を果たし、岩松氏はようやく統一されます。この時に築かれたのが金山城です(1469年)


■横瀬氏の下剋上■のちの由良氏
岩松氏を取りまとめた家純ですが、当時の関東管領と古河公方の対立を背景に、方針を巡って長男の明純を勘当するに至り、舵取りを家臣の横瀬国繁に任せます。執事に就任した国繁の働きかけにより、明純の子である尚純は金山城へ戻りますが、明純が許しを得ることはありませんでした。
1494年に長きに渡って家を束ねてきた家純が86歳で没してしまうと、内部の揉め事が再燃。重臣である横瀬氏と、既に金山城を去っていた明純の対立です。明純は実子である尚純を味方につけ、重臣からの権力奪還のために金山城を攻めますが、堅城はそう簡単に落とせません。この対立は、尚純の子である昌純(夜叉王丸)を当主とすることで決着し、尚純も父とともに失脚することとなります。横瀬氏は幼い当主を抱えながらも、これで実質は全権を握ることになります。やがて成長した昌純は横瀬氏により殺害され(1528年)、跡を継いだ弟は自害に追い込まれます。

実権を握った横瀬氏は、由良氏に改称。その名は、かつて新田氏宗家が代々相伝していた上野国新田郡由良郷に由来します。由良氏は自らを新田家の子孫と称しました。

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結構省略していますが、ちょっと説明が長すぎましたかね?

要するに
岩松氏により築かれた金山城は、下剋上で実権を握った由良氏の城となった。

まぁそういうことです。


■激戦区の山城■
現在の群馬県は戦国時代の激戦区です。関東の武士は、上杉・武田・北条の巨大勢力に翻弄され続けます。金山城を手中に収めた由良氏も同じでした。関東に出陣する上杉謙信に城を攻められ、これに属すると今度は武田信玄や北条氏康に攻められる

現在の群馬県太田市
位置的に厳しいですね

やがて小田原北条氏の勢力が拡大すると、由良氏は上杉に反して北条側に寝返ります。これにより北からは上杉謙信、そして東からは謙信と結ぶ常陸国の佐竹氏に攻められることになります。ただ関東制圧を目指す北条氏康が由良氏を孤立させることはなく、武勇の誉れ高い北条氏照を援軍に向かわせます。関東の覇権争いにおいて、金山城がいかに重要な城だったか伝わってきますね。


■越相同盟の仲介役■えつそうどうめい
1569年、北条氏康と上杉謙信の和睦が設立。双方は共通の敵である武田信玄に備えることとなります。このいわゆる越相同盟の成立に、元上杉家臣である由良成繁和睦仲介役として貢献しています。

この頃の由良氏は、北条配下で一定の地位と独立を保つ一方で地元では勢力拡大も実現し、現在の群馬県東部の覇者として君臨しています。由良氏の歴史をざっと調べた程度で言うのもなんですが、勢力という意味ではこの辺りがピークだったかもしれません。


■軍神でも落とせず■
越相同盟から2年後、上杉謙信や武田信玄と渡り合ってきた小田原北条氏の第3代当主・氏康が没します。第4代当主となった氏政は、上杉との軍事同盟を解消。武田信玄と手を結ぶ選択をします(1571年:第二次甲相同盟)。
この影響を受け、金山城は上杉謙信によって5度に渡り攻められることになります。軍神と呼ばれた男に5回も!しかし由良氏が守る山城が落とされることはなく、謙信は攻略できないまま越後に兵を引き揚げています。

難航不落

よく耳にする言葉ですが、それに相応しい城なのではないでしょうか。


■北条氏への明け渡し■
巨大勢力の狭間でなんとか生き残ってきた由良氏ですが、武田信玄も上杉謙信もこの世を去り、関東での北条氏の力が圧倒的となると、もはやこれに逆らうことは許されなくなります

1582年、小田原北条氏第5代当主・氏直は、佐竹氏を攻めることを理由に金山城の借用を当主・由良国繁に要請。反発した家臣たちによる城立て籠りがあったものの、ほどなく北条氏へ明け渡されることになりました。

落とされたのではなく
政治的な理由での明け渡し

いろんな評価があろうかと思いますが、難航不落の山城を拠点としてきた由良氏は、逆に城を捨てることで生き延びたような気がします。そう感じる背景には、由良氏が徳川の時代には高家として扱われ、明治維新を迎えている事実があります。

■訪問記■
城跡巡りは原則独りですが、この日の散策は久しく会っていなかった旧友たちと。私は何度か訪問経験があるので、ちょっとだけ案内人のような気分で秋の金山を登っていきました。駐車場がある付近が金山城の中でも西城とよばれるエリア。そこから実城と呼ばれる頂上付近、つまり本丸を目指しました。

<西矢倉台西堀切>
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攻め手の侵入を鈍らせるための堀切(ほりきり)です。大きな意味では堀のことです。まぁ山城特有の堀という理解で良いと思います。このルートでけでも、山頂までに複数の堀切を確認できました。城兵の通路としても利用されていたようです。

<馬場下通路>
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この位置からはよく分かりませんが、この通路は進んで行っても行き先が二手に分かれ、どちらを選んでも本丸へ辿り着くことはなく、逆に城兵の餌食になるようになっています。戦いは騙し合い。それが形となっている場所です。

<大手口馬場址>
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<大手虎口>
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金山城の歴史は長いですが、戦国時代の末期を再現したものだそうです。

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戦国期の関東の山城に石垣は無いとされる常識が覆った城跡です。当時は『土の城』が主役でしたからね。

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雨水を効率よく排出するための石組み排水路

<日ノ池>
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枯れることがないと言われる城内の溜池です。直径約16m(17m?)。山頂付近にも関わらず、水が湧き出るとされていますが、城内に整備された排水路の役割が大きいと思われます。造りといい神秘的な感じがしますね。何らかの信仰の場とも考えられています。

<月ノ池>
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こちらも石垣で囲まれた城内の溜池です。大手虎口付近に位置し、直径は約7m。

<本丸跡>
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標高239mに築かれた山城の頂上は、現在新田神社となっています。関東平野を一望に収めることができます。

<新田神社拝殿>
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新田義貞を祭神として祀る神社です


■つわものどもが夢の跡■
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あの太田道灌が難攻不落の要害と賞賛した城。そして軍神とまで言われた上杉謙信が5度も攻めながら落とせなかった山城です。そんな関東屈指の名城も、1590年に豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、城としての役割を終えました。

-------■金山城 ■-------
別 名:新田金山城
築城年:1469年(文明元)
築城者:岩松家純(新田一族)
改修者:小田原北条氏
城 主:岩松氏 由良(横瀬)氏
    北条氏
廃 城:1590年(天正18)
[群馬県太田市金山町]


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2020年02月24日

多功城のなごり 宇都宮一族の城跡

つわものどもが夢の跡
宇都宮城の出城として機能していた城跡を訪ねました
<多功城跡>たこうじょう
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■宇都宮一族の城■
今回訪問の多功城は、宇都宮頼綱(5代当主)の七男・宗朝により1284年に築かれました。城は宇都宮城の南側に位置し、宗朝はこの城を構えて以降は多功氏を名乗りました。更に南方には、同じ下野国のライバル・小山氏の拠点があります。宇都宮氏にとって、多功城は軍事上極めて重要な出城だったと考えられています。

■上杉謙信を追い返す■
戦国時代に突入すると、多功城の出城としての役割はますます大きくなります。同じく宇都宮氏配下の児山城・上三川城とともに、南側から北上してくる敵を最前線で食い止める役割を担いました。

1558年、あの上杉謙信(当時は長尾景虎)が下野に侵攻し、佐野氏との連合軍となって多功城へ攻め寄せました。これに対し、多功長朝(ながとも)を筆頭に、援軍を含む宇都宮勢2千は奮闘。同族で児山城の城主・児山兼朝など、名だたる武将が多数命を落としましたが、宇都宮勢は負けませんでした。上杉・佐野の連合軍は撤退を余儀なくされました。
更に、多功長朝は敗走する上杉軍への追撃を試みます。最後は太田資正(すけまさ)の仲介により、上杉側と和睦となったようです。


■小田原北条氏にも屈せず■
1585年、関東で勢力を増していた小田原北条氏が宇都宮氏の領内へ侵攻し、この時多功城にも兵が押し寄せました。しかし猛将として知られる多功綱継は、他の宇都宮一族とともにこれを退けています。1589年にも同じく北条氏に攻め込まれますが、綱継は再びこれを退けます。関東制覇間近の北条氏でも、多功城を攻略することはできませんでした

■現地訪問■
<石碑>
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石橋ゴルフガーデン駐車場内にあります

<ゴルフ練習場>
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ここが主郭の跡とされています

<盛り土>
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これも土塁のなごりと思って良いですかね。ゴルフ練習場の北側の遺構が見事と聞き及んでいますので、そちらに向かうことにしました。

<土塁>
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おお、来てよかった

<二重の堀跡>
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<微高地>
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土塁の上から城の外側を撮影。土塁の高さを差し引いても、周辺よりは高い場所のようです。ある程度は・・

<本丸跡を遠くから撮影>
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劇的な高低差はない

<多功城跡全体>
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ほぼ平城です

名だたる勢力の侵攻を何度も撃退している城です。戦歴だけで判断すると難攻不落の城!と言いたいところですが、現地は平坦な土地で、劇的な地の利があるわけではありません。

土塁と出会えたことに感謝しますが、構造としては極めてシンプルな縄張りです。それでも負けなかった。これはもう、よほど宇都宮勢の兵が強かったとしか思えません。城に籠って戦うというより、主に城下の多功ヶ原で激突したようなので、野戦と考えた方が良いのかもしれません

<バス停>
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ところで、その多功ヶ原って具体的にはどこなんですかね?

<関東平野>
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ここまで平なんだから、まぁ見えている範囲内のどこかなんでしょう

いずれにせよ、命掛けで戦う猛者が揃っていたら、攻め手が『ドン退き』となるのは当然のこと。宇都宮勢は死をも恐れぬ勢いで侵入者たちに挑んでいったのかもしれませんね。

■つわものどもが夢の跡■
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宇都宮氏の重要拠点として、戦国時代に幾度となく強敵を退けた多功城ですが、天下人秀吉によって突然宇都宮氏が改易(1597年)され、出城としての役割を終えることになりました。

------■多功城■------
築城者:多功宗朝
築城年:1248年(宝治2)
城 主:多功氏
  (長朝・房朝・綱継)
廃城年:1597年(慶長2)
現 況:石橋ゴルフガーデン他
[栃木県河内郡上三川町大字多功]

-----追 記-----
<帰路>
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来た道を戻るのもなんなんで、低地の畦道を歩きました。

<土塁?>
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雑木林に土を盛ったような気配を感じたものの、気のせいだろうと思い、特に草に分け入ることもなく通り過ぎました。

ところが、この時の様子をTwitterに投稿したところ、城跡巡りの先駆者に、雑木林のなかにも遺構があるとを教えてもらいました。

あらら
そうでしたか

ちょっと残念ですね。でもまぁまた行く機会もあるでしょう。総じて満足な訪問となりました。


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posted by Isuke at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

天神館のなごり(上三川町)多功天満宮にて

今回は宇都宮一族の多功城を訪ねた帰りに、何となく立ち寄ってみた高台の話です。場所は栃木県の上三川町。まもなくJR石橋駅というところで、独特の地形に足が止まりました。

<高台と低地>
shirononagori411 (2).JPG

これって砦の跡かね?

周辺より高くなっている場所に神社らしき建物が見えた。たったそれだけなのですが、漂う雰囲気に魅かれました。駅はすくそば。もう着いたようなものなので、ちょっとだけ逆戻りとなりますが立ち寄ってみました。

<天満宮>
shirononagori411 (4).JPG
天満宮か

祭神はいうまでもなく菅原道真。いい雰囲気ながら、遺構のようなものは見当たりません。

何も無いけど

気のせいかね

結局現地では何もわかれませんでした。しかし帰宅してから念のため調べたところ、詳細不明ながら『天神館』と呼ばれる館が天満宮周辺にあったとする情報を得るに至りました。ただ、それが誰の館なのかはっきりしません。場所は多功城から見て北に位置します。

多功城の出丸?

それもはっきりしません。ただ、地形に足を止めて登ってみた階段の先に、そんな伝承があることに、ちょっとだけ口元が緩みました。

天満宮の付近での遺跡調査の結果、奈良時代のものと思われる瓦や土器が出土しているようです。古くから人が集まった場所ということですね。また、境内には礎石が残され、何らかの建物の土台と考えられています(郡の役所と推定されています)。

shirononagori411 (3).JPG

また、この地の天満宮は北条氏の多功城攻めの際に一旦消失しながら、江戸時代になって再興されたことも分りました。戦に巻き込まれて一方的な焼き討ちにあったのか、多功側の兵が防衛の拠点としたため焼かれたのか、ちょっとわかりません。いずれにせよ、訪ねた城の歴史と、関りがあったことは間違いありません。

無駄ではなかった

足を止めた甲斐がありました。

■訪問:天満宮(多功廃寺址)
[栃木県河内郡上三川町天神町]
(旧地名:河内郡上三川町大字多功)


-----追記------
今回はかなり限られた情報しか得られず、更にその多くは推定です。素人会社員が、歴史の痕跡を訪ね歩いて楽しんでいるだけのブログですので、その程度に受けてめて頂きますようお願い申し上げます。

<多功城跡>
shirononagori412 (17).JPG
多功城跡訪問記へ続きます


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posted by Isuke at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]

2020年01月13日

榎下城のなごり(横浜市)舊城寺

つわものどもが夢の跡
横浜市の城跡を訪ねました

<榎下城跡>えのしたじょう
shirononagori 407 (4).JPG

■榎下城の縄張り■
いわゆる舌状台地の先端を利用して築かれた山城です。最も高い位置に本丸を設け、その南と北に曲輪を配置し、周囲を空堀が廻らす構造になっています。城跡は現在寺院となっています。

<現地到着>
shirononagori 407 (1).JPG
あまり予習しないで訪問したので、立派な山門にやや躊躇しました。高野山真言宗の寺院です。

<舊城寺>きゅうじょうじ
shirononagori 407 (2).JPG
恥ずかしながら舊が読めず。ようするに『旧』の旧字体ですね。つまり旧城寺。とりあえず、古くは城だった寺と受け止め、山門をくぐりました。奥の本堂も立派ですが、城跡として訪問しているので、右手に見えている土塁のせいで足早になりました。

<説明板>
shirononagori 407 (14).JPG
入ってすぐの土塁の前に説明板があります。冒頭でご紹介した城の立地とともに、この土塁がいわゆる食い違い虎口のなごりであることが記載されています。歴史についても触れられいますが、それは後述するとして、縄張り図が分りやすく、しばし凝視しました。

<縄張り>
shirononagori 407 (9).JPG
いま私がいるのは右手の入り口付近。本丸より一段低い曲輪にいるわけですね。つまり舊城寺の山門と本堂は、かつての二の丸ということになります。そして外側の谷になっているところには空堀が設けられていた。なるほどです。これはシンプルで分かり易い。

大筋分かれば、あとそれを感じながら歩き回るだけ

<外側>
shirononagori 407 (7).JPG
まず城の外側ですが、あの道もかつての堀跡ですね

<高低差>
shirononagori 407 (11).JPG
一旦境内を出て、外を探索することにしました

<堀跡>
shirononagori 407 (10).JPG
堀のなごり。住宅地の舗装された道ではありますが、そこは想像で補う

再び境内へ

<土塁跡>
shirononagori 407 (3).JPG
土塁のなごり

<高低差>
shirononagori 407 (6).JPG
曲輪と曲輪の高低差

<弓道道>
sn407ad (2).JPG
こちらは本丸へ進むとすぐに現れる現役の弓道場。本丸の西側部分です。

<竹林>
shirononagori 407 (5).JPG
本丸の奥の方(北側)まで進むと竹林になっています。この付近が城で最も高い位置。更に進むとまた谷状になっており、下った先は縄張り図にもあった北側の曲輪(的場)です。ただし、既に宅地となっているようなので、探索はここまでです。

<本丸跡>
shirononagori 407 (6)b.JPG

sn407ad (1).JPG


■榎下城と宅間上杉氏■
榎下城は宅間上杉氏憲清によって築かれたと考えられています。宅間上杉氏は山内上杉氏や扇谷上杉氏などと同様に上杉氏の諸家のひとつで、相模国を基盤に勢力を拡大しました。

鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に始まる永享の乱(1438年~1439年)に際しては、上杉憲清の子・憲直鎌倉公方に味方して榎下城を守りますが、関東管領側に攻められ、城から退いたあとも追い討ちをかけられ自害に追い込まれています。上杉憲直以降の城主については、あまりよく分かっていないようです。

その後の宅間上杉氏は勢いを失い、やがては小田原北条氏の傘下に組み込まれることになります。榎下城は小田原北条氏配下の小机城の支城として利用されることになりました。つまり、少なくとも戦国末期までは城として機能していたわけですね。

■つわものどもが夢の跡■
shirononagori 407 (8).JPG
1590年の秀吉による小田原征伐ののち、小机城は廃城となっています。ここ榎下城もその頃に城としての役割を終えたと考えられます。戦乱の世が終息へ向った江戸時代初期、城跡は舊城寺となりました。

------■榎下城■------
別 名:久保城
築城主:上杉憲清(宅間上杉氏)
築城年:詳細不明(室町時代)
城 主:宅間上杉氏
廃城年:詳細不明(1600年前後)
現 況:舊城寺
[神奈川県横浜市緑区三保町]


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posted by Isuke at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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