忍城(おしじょう)の「成田氏」は、親泰・長泰・氏長の三代にわたって百年続きました。戦乱の世、しかも激戦区(現在の埼玉県北部)で百年続くのは大変なことです。前の記事で経済力の裏付けに触れましたが、それだけでは、もっと強い勢力(武田・上杉・北条など)に潰されてしまいます。
<城内>
■北条と上杉の狭間■
小田原北条氏の勢力が強まり、関東の北部へと進出し始めると、成田氏は北条の配下へ組み込まれます(忍城が攻め落とされた訳ではありませんが、この時城主の成田長泰は降伏する道を選びました) 。
北から上杉謙信 (長尾景虎)が関東に進出すると、北条配下の成田氏は当然抵抗しますが、結果として上杉謙信に従うことに。時を経て、上杉軍の小田原城攻めでは先鋒として北条氏の小田原城を攻めることになります。関東における上杉謙信の勢いには凄まじいものがありましたが、北条氏の小田原城は難攻不落の堅城。城攻めは失敗に終わり、謙信は軍を引くことに。その後のある事件がきっかで、成田氏は再び上杉氏の元を去ります。
■事件とは・・・■
謙信は小田原城を攻めたあと、鶴岡八幡宮を参詣し、そこで上杉憲政から関東管領職を譲渡されます。この時その事件は起きました。任式で成田長泰が下馬をしなかったことに腹を立てた謙信が、扇で長泰の烏帽子を打ち落しました。恥辱を受け、成田氏は兵を率いて居城へ戻ったそうです(史実かどうか諸説あり)
私は上杉家と謙信のファン。この話は謙信の武勇伝として漠然と記憶していました。ただ「のぼうの城」以降いろいろと成田氏のことも調べてみると、この事件の受け止め方も変わりました。
成田氏は高い誇りと反骨心を兼ね備えた家柄なのではないか・・・
この話も、謙信だけでなく、成田長泰の気質を伝えているものではないだろうか・・・
まぁ資料の信憑性とか、下馬しないことは本来失礼ではないとか、調べるときりがありません。
「誇り高き成田氏」と捉えた方が、後に秀吉の天下軍が「唯一落とせなかった忍城」という史実と繋がりやすく、更には「のぼうの城」に登場する「のぼうさん(成田長親)」の常識を覆す「戦いまする」とも一致します。
学者ではないので、私はそう思うことにします。
<のぼうの城>
最後に「のぼうの城」ののぼうさんの台詞をご紹介して終わりにしたいと思います。
小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。
ならば無能で、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったまま死ねというのか。
それが世の習いと申すなら、
このわしは許さん
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