今回は元戦国武将の名に由来する橋の話です
<将監橋>しょうげんはし
港区芝の将監橋です。橋の名は、この近くに屋敷を構えた岡田将監に由来します。
■岡田善同■おかだよしあつ
尾張国に生まれ、織田信長から始まり、佐々成政や小西行長の配下を渡り歩き、最終的には徳川家康に仕えた戦国武将です。天下分け目の関ヶ原での活躍が認められ5千石の旗本となりました。官職は伊勢守、岡田将監を名乗りました。
■美濃国の治水事業に貢献■
戦で認められた岡田将監ですが、徳川配下では農政や治水事業で活躍。家康からの信任も厚く、名古屋城の築城や伊勢神宮造営といった重要な仕事に関わるとともに、1613年から1629年には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤のさいの美濃国側の工事を指揮しています。[出典:Wikipedia]
ちなみに、尾張側の工事は、関東の治水で名を馳せた伊奈忠次が指揮したようです。また、1629年までとなっているのはこの年に没したためで、事業は子である岡田善政が引き継ぎました。善政も『将監』を名乗ったそうです。
美濃国の治水事業に貢献した岡田将監親子
家康からの厚い信任といい担った役割といい、関東郡代を世襲した伊奈一族とちょっと似てませんかね?
<高速道路の下>
川の上は首都高が走っているので、橋も高架下になります
<橋の名>
「しょうかんばし」ではなく「しょうげんはし」
<古川(上流側)>
都内にはありがちですが、いまでは陽の当らない川です。上流は渋谷川、下流である港区内では古川と呼ばれます。
<古川(下流側)>
東京湾へ注ぐ古川。かつては川沿いに多くの漁民が暮らしていたそうです
橋は岡田将監が掛けたとする説もあります。土木事業に精通した人物だけに、なんら不思議ではありませんね。ただ詳細は不明。それから、岡田善同を意識して冒頭で元戦国武将といわせて頂きましたが、あとを継いだ息子も将監を名乗ったのですから、父子どちらの話なのかもわかりませんね。
いずれにせよ、岡田将監に由来することに間違いはありません。
ということで
古川に架かる将監橋と岡田将監のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありかどうございます。
■訪問:将監橋
[東京都港区芝大門]2丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/2/5
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2022年02月05日
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宿場の本陣職を任されるとなると、由緒正しく、経済力も兼ね備えた立派な家であったと推測致します。素晴らしいご先祖ですね。
岡田将監についてですが、将監橋という名の意味を調べ、初めてその存在を知りました。江戸時代の治水事業に多少興味があったこともあり、ぜひブログで紹介したいと思い、知りえたことの範囲でまとめさせて頂きました。
拙ブログに来て頂き、ありがとうございます。
痕跡を残しておられます。私の先祖は中山道伏見宿で本陣(岡田与次右衛門)を代々しておりましたが、何度か宿で大火があり系図も無くなってしまったようです。しかし言い伝えでは清和源氏だそうです。また、親類縁者には、箱根の岡田美術館のオーナーでも有ります岡田和生氏がいます。家紋が七曜で岡田将監家の家紋とは違っているようです。現在、繋がりが有るか調べております。繋がりが有れば
岡田将監の偉業を詳しく調べたいと思っております。